落ちているモノを食べる

公開日 2007年04月22日

文責=坂東良晃(タウトク編集人)

ぼくは落ちているモノをよく食べる。
どこかの庭先に夏みかんや柿の木があって、果実が道路に落ちていたら失敬していただく。公道に落ちているものだから、食べてしまってもたぶん窃盗ではないと想像している。窃盗ならごめんなさい、もうしません。
自分が食べているモノを床や道路に落としても、拾って食べる。あまり汚いと思わないし、捨ててしまうのはもったいない。
戦中戦後のひもじい時期を知っている方なら、特に何も思わない行為だと思うけど、日常生活でこれをやってしまうと、周囲の人はボー然とした表情でぼくを見つめる。意表をつく行動なのだろう。それは何となくわかる。落ちているモノを拾って食っている人を見かけたことは、もう何年間もない。

食べた物を落としたら「拾って食べなさい!」と叱るのが、日本のオトン・オカンの正しい姿だと思っている。しかし最近の指導は、「そんなものは食べてはいけません。どんな病原菌やウィルスが付着し、あなたが伝染病になるかわからないのよ」がオーソドックスだ。堆肥(うんこ)で育成した野菜と、と殺した動物の肉をたらふく食べつつも、「落とす」ことには異常に敏感なのが日本型潔癖性である。食物は無菌室で育てるものではない。口に入るまでに人間があちこちの過程で関与しているのだから、多少の付着物など気にしてもしょうがないんだけどね。

食品のパックに書いてある賞味期限なんてほとんど気にしない。切れていたって腐ってなきゃ食えるし、期限内でも腐ってたら食わない。賞味期限、消費期限などハナから信用していない。たいていの食品には「いつ製造したのか」という情報すら書かれてないからである。
例えば牛乳ならば、「製造日」とは乳牛から搾乳した瞬間なのか、農家から地元JAに出荷された日なのか。はたまた乳業メーカーの加工工場で加熱処理された時間か、パック詰めされ出荷された日付か、そんなことすら食う側には教えられない。牛乳などまだわかりやすい方で、加工食品なんていったいどの段階が製造日なのか、さっぱりわからん。得体の知れない製造日を起点に、企業論理で決められた賞味期限、消費期限なんてアテにすべきじゃない。消費者は、判断を食品メーカーに依存しすぎなんである。じゃあ何を信用するのかって、自分の五感しかない。匂い、味、舌触り、見た目、それに食品素材の知識、ウィルスや菌への理解、そしてカンである。

いわゆる「5秒ルール」をまじめに研究したアメリカの理系高校生がいたらしい。5秒ルールってのは、「食べ物を床に落としても5秒以内なら食べても大丈夫!」ってラテン的発想の口頭伝承である。
その風変わりな高校生クラーク君は、学校内のいろんな床を調べまくり、「乾いた床の大半はバクテリアがいない」ことをつきとめたんだという。しかし、彼はさらに研究を深め、マジで汚れた床なら5秒ルールは適用可能かどうかを検証した。大胆にも大腸菌をあちこちの床にバラまき、グミやお菓子を置いてみたんだと。さすれば、たちまち菌が付着してしまった。つまりこういうことだ。「大腸菌まみれの床に落ちたモノは、5秒以内でも菌に汚染されている」。あたりまえ・・・だよねぇ。ぼくだって便器に落ちた大福もちは食べない。いくら好物でも。

ぼくは食べ物に執着がない。この10年以上、1日に1食である。無理をしているわけじゃない。メシを抜いてるうちにお腹が空かなくなった。朝と昼は食べない。夜に1回だけ食べる食事は、ごはんにゴマ塩をかけたり、カツオブシをまぶしたりしただけだ。これは「粗食」なのだろうか。ぼく自身は「とてもおいしい」と思って食べているので、ひもじい意識はない。
基本的には、人間ハラが減ったときにメシを食えばいいと考えている。ハラが減ってもいないのに、ごはんを食べなくてはならない理由が、実のところよくわからない。
テレビのコメンテーターは「最近の親は、朝食すら作らない人が多い」と嘆く。しかし、ぼくは朝ごはんをほとんど食べたことがない。そもそも早朝からごはんを食べている民族というのも限られてるのではないか。日本じゃ1日3食が標準的な食事回数とされている。ぼくは今まで50カ国ほどフーテン旅行したことがあるが、多くの国では1日2食だった。そして昼も夜も同じモノばかり食べている。キャッサバイモばかり、トウモロコシ粉ばかり、カレーばかり・・・といった具合だ。しかも物心ついた頃から一生を終える日まで、そればっかり食べている。だからといって健康を害した人びとがウヨウヨいるわけでもない。
日本じゃ、健康生活の定義として「1日に30品目食べましょう」なんてまことしやかに語られる。旧厚生省が言い出したスローガンらしいが、ぜいたくな話だなあと思う。そんな何十品目も食べられる裕福な国って、世界の何パーセントあるってえの? 
日本でも、江戸時代半ばまでは1日2食が通常であった。明治の西欧化の過程で1日3食が普及した。おかげさまで栄養状態もよくなり、若い世代の疾病も減り、平均寿命も延びた・・・ということなのだろうが、
逆に見れば、肥満が増え、かつては存在しなかった成人病が増え、人口は爆発し、環境全体にとってはロクでもない影響を与えているんではないか。
ダイエットの情報番組では、食事回数を減らすと太りやすい体質になります・・・と繰り返し語られる。すばらしいことだなあと思う。少しの食料で太れるなんて効率がいい。「飢餓感を覚えないように、こまめに間食をし、1日に5食くらい食べると太りません」とも解説がつく。そんなに何回も食べてまでも痩せたいのかな。よくわからない理屈だ。

人間ほど矛盾にみちみちた生き物はない。あい反することを主張し、やりたがるのである。
環境問題を憂う人は多い。しかし一方で少子化対策・・・子供を産みやすく育てやすい環境づくりに躍起なのである。そもそも、人間が存在すること自体が「反地球環境的」であるから、環境派は人口の減少を喜ばなくちゃならないはずだ。人口減少に歯止めをかけるのは、年金制度を維持するため、あるいは国力や労働力の低下を防ぐってのが理由。どこまでも自己チュ〜。そして、環境破壊の親分と目されるレジ袋を憎み、エコバックをヒーローに仕立てあげ、はやし立てる。レジ袋の製造に使われる原油は1枚20ミリリットル。お買い物に往復2キロほど車に乗れば100ミリリットル以上のガソリンを消費する。わざわざ郊外までガソリン数100cc焚いて買い物に行き、エコバックを使って原油20ccを節約したい人なんてワケわかんねー。ダイエットし、エコバックを使い、1日3回正しくメシを食らう。つまりは、痩せてキレイになり、環境にもやさしくなって、食欲も満たしたい人たちがバクテリア並みに大増殖中なのだ。食わなきゃ、ペットボトルも紙パックもプラスチックトレイも過剰包装も残飯も発生しないし、家畜も死ななくてよいし、痩せるのにね。

「環境問題に関心があります。それを読者に伝えたい」という入社希望の学生がやたらと多い。ぼくはこう答える。
「弊社は、1年間にA4用紙換算で1億8000万枚、重さにして約780トンの紙を商品として売買しています。この原料は、主に東南アジア・中国・南米などから買いつけた木材です。これらの原料を製品化するために大量の電力を必要とし、購入・消費しています。生産を終え、売れ残った雑誌は廃棄しています。廃棄とは、主に中国などへの売却を指しています。その紙は再資源化されるけど、その際にも大量の化学溶剤と電力を使用します。つまり弊社は環境破壊会社です。環境破壊会社が、環境問題を読者に問うなんてムリムリムリ!」
「東洋町の高レベル放射性廃棄物最終処分場の建設反対に協力を」というお願いも多い。ぼくはこう答える。
「ぼくは消費社会のド真ん中にいます。商品製造の過程で大量の電力を消費しています。電力とは、原子力発電・火力発電・石炭火力発電によって生み出されたものです。このような経済活動のうえに、ぼく自身の生活も成り立っています。朝から晩まで大量の地球資源を使用し、恩恵を預かって生活しているぼくが、原発の製造処理工程に反対する理由も意思もないのでムリムリムリ!」

人間って、よくわからない生き物なのである。
燃費の悪い大排気量の車に乗りこんで「海をきれいに」と遠くまで石油をガンガン燃やして訴えに出かけていったり、スローライフな生活をするために山に移住し、軽トラでガンガン山を登り下りしながら、下界の消費社会を憂いだり、公共事業によって海を埋め立てた土地に立派なお家を建て、便利な暮らしを満喫しながら「子孫にきれいな水を!公共事業反対〜!」を叫ぶ。
そしてぼくは今日も、紙と木材と原油を大量消費しながら、落ちているはっさくを食らって生きる。