雑誌をつくろう そのハチ「無精論」

公開日 2007年10月16日

文=坂東良晃(タウトク編集人)

あらゆることが面倒くさい。できることなら何もしたくないが、何もしないのも面倒くさい。平均的な市民として生きていくためには、アレコレしなくてはならない手続きがある。それならば最小限の労力で、最大限の成果を生み出せばいい。

 食べる手間を最小限にする方法。
 できるだけ食べないというのが理想である。食べなければ、消費もせず、洗い物も出さず、ウンコもでないから便所で水洗を使わなくてもよい。事実ぼくは1日1食か、3日で2食くらいしか食べていない。
 だが悲しいかな、生きている限りまったく食べないというわけにもいけない。そこで、極限まで手間のかからない食事方法をたしなんでいる。食事は座って食べるから時間がかかるのである。立って食べればまず1分以内に終わるのだ。立ち飲み、立ち食いは日本の文化でもある。首都東京ではサラリーマンが1分1秒を惜しんで立ち食いそばでカロリー補給をしている。あるいはアフター5の「ワンカップ立ち飲み屋さん」にはOLが群れ、先端のグルメカルチャーなどともてはやされたりもする。
 だからぼくは、自宅での食事は台所の流しの前で立ったまま食べる。お皿をたくさん使うと洗い物や片付けが面倒だから、1枚の皿にすべてのおかずを盛る。決してガサツではない。インドネシアでは、ごはんに惣菜をたくさん盛りつけたものが「ナシチャンプルー」と呼ばれ、国民的料理として庶民に愛されている。
 だが1枚の皿とはいえ洗い物をするのは面倒である。そんなときは、炊飯ジャーのごはんに直接おかずをのせて食べればよいのだ。保温が効いたままのジャーごはんは温かく、食事中も冷めないという利点がある。あるいは炒め物なら、1枚のフライパンですべてを完結させる。まず1品目から調理をはじめ7割ほど仕上がったら隅に寄せていく。空いたスペースで新たな食材を炒める。こうやって時間差で数種のおかずを完成させ、最後に白飯をぶっかけ、フライパンから直接食べるのだ。
 こうやって他品目のメニューを無駄なくつつがなく食べているわけだが、本来食事とは白飯プラス一汁一菜でよいと考える。この豊食の時代にひもじいと思われるかも知れないが、江戸時代以前の日本人は大根汁に麦粥やひえ飯がご馳走だったのであり、労働による消耗が明らかに江戸の農民より少ない現代人であるぼくの体が、それ以上に豪華な食事を必要とする理由がない。
 落語の下りにもよく登場する「隣長屋から流れてくる匂いをおかずにメシを食えばいい」も悪くないと思い、蒲焼きの匂いをかぎながらごはんオンリーで食事をする実験をしたことがあるが、どうも満たされない気分に陥り失敗した。
 総合的に判断して、炊飯ジャーの白飯にカツオブシや漬け物を乗せたものが理想的な晩菜である。調理時間10秒、食事30秒、洗い物ゼロである。

 つぎに入浴について語りたい。ぼくは他人に風呂に入るようなまっとうな生活を送っていないと思われがちだが、実は風呂好きである。1日に3回は水浴びをする。朝のトレーニングの後、夜のトレーニングの後、そして寝る前である。こう書くと1日中遊んでいるようだが、これ以外の時間はずっと仕事をしているので問題はなかろう。
 風呂場では、頭→身体→腕→脚などといちいち順番に洗うのは面倒くさいので、全身を同時に洗う。シャンプーをドバドバ髪の毛にふりかけ、3度ほど手でかき回したらシャワーで流す。その際に身体を伝って流れるシャンプーの成分で全身を洗う。タオルは使わず手のひらでこするだけだ。タオルをしぼったり乾かしたりするのが面倒だからだ。さらには、風呂場を流れるシャンプー廃水を使って床をゴシゴシ掃除する。毎日こすることによって床のぬめり気を取り、カビの発生を防ぐ。服を脱いでから所用1分でこれら作業を終える。
 手を抜きすぎて不潔だなんて思わないでいただきたい。世界の幾多の民族のうち、毎日風呂に入ったりシャワーを浴びたりする人たちが何割いるというのか。おそらく30%もいないだろう。そもそも「湯船」という装置が家庭の浴場に存在し、そこに湯をためて浸かる・・・なんて特種な習慣のある民族は、日本人と欧米のブルジョア階級以外にどれほどいるというのか? いたら教えてほしい。アジア中央部の乾燥地帯に住む人びとは、一生に2度しか身体を洗わないという。産まれたときに身体を洗ううぶ湯と、死んだときに身を清める水だけだ。ぼくが長く旅したアフリカ中央部にももちろん風呂などはなく、バスタイムといえば堰き止めた川に飛び込むだけだ。それが世界の標準と考えれば1日3回、1分ずつと言えど身体を洗う行為は潔癖性にも近い。これは無精とは言えないかもしれないな。

 さてぼくが最も嫌いな作業、着替えについて説明しよう。そもそもぼくは「服」という装置というか記号がニガ手である。どんな服も自分に似合っていると実感できず、気候とか流行とかTPOに合わせて服を選ぶのも無益な気がして身が入らない。「人は見た目が9割」とは言われるが、ハナから自分の印象など9割方悪いものだと決めているから気楽だ。
 できることなら1年中服のない生活・・・ハダカで暮らしたいと思っており、ぶじ年金をいただける年頃まで生きておれば、1カ月5000円もあれば贅沢に暮らせて朝から晩までハダカでいられる南の島に移り住みたいと考えている。しかしわが国の企業人にとってハダカに市民権はない。仕方なく服を着ることにしているが、その労力は極限までカットしたいものである。
 話は横道に逸れるが、頼りない自民党政権で唯一すてきな政策を打ち立てたのがクールビズである。
 日本のような湿気ムンムンな国で、長袖シャツにネクタイを締め、ジャケットを羽織るのが企業人の正装だなんてムチャである。スーツにしろネクタイにしろ起源をたどれば欧州の軍服に行き着く。あるいは現在のフォーマルスタイルの原型を生み出したのは、北海道並みの緯度にあって湿度も気温も低い英仏である。
 日本人は、わが邦の気候風土に合った羽織ハカマが長らく正装だったはずだ。維新の後に「散髪脱刀令」が布告され、身分制度の象徴たるチョンマゲを切り落としザンギリ頭を叩いて文明開化を実感したのは悪いことではない。しかし同時にネクタイや革靴といった西欧文化を導入したのはいただけない。湿った国で革靴などはくから、白癬菌つまり水虫菌が国家的風土病へと立身出世するハメに陥ったのだ。自民党が半袖シャツやノーネクタイを推奨したおかけで、憎むべき着替えの手間が半分になったのはありがたい。一方で民主党の西岡武夫が参院でネクタイ着用を義務づけようとしたが、賛同する者も現れず提案を撤回した。何でも反対すればいいってもんじゃない、よい気味である。
 横道に逸れすぎたようだ。ぼくの着替え方法を説明しよう。これは「洗濯をする→物干し竿に干す→洗濯物を取り込む→アイロンを掛ける→服をたたむ→タンスに収納する→タンスから取り出す→服を着る」という一連の流れを革命的にショートカットする方法である。ぼくは次の段取りしか踏まない。「洗濯をする→物干し竿に干す→服を着る」。つまり、着替えはすべて物干し台(ベランダ)で行うのである。女性には難しい行為だろうが、男だから恥ずかしくもなんともない。フリチンを恥ずかしがるようでは日本男児とは言えぬ。もちろん着衣作業をすばやく混乱なく進行させるために、洗濯物を干す段階で、パンツ、つくした、シャツ、ズボンなどと、種別に分類して干しておくのである。シャツは、できるだけシワにならないようにパンパンと伸ばしておく。形質安定シャツをハンガーに吊しておけば、アイロンが必要なほどのシワは入らない。
 これなら着替えにかける時間は1分程度ですむ。いったんタンスに取り込まないから、直射日光にさらされた服はパリッと乾燥している。そして、洗濯物を取り込みアイロンを掛け服をたたんでタンスに丁寧に入れるという、紳士淑女が30分以上かかる作業をいっさい行わなくてよい。こりゃ最高だ。

 こんな風に生活のあらゆるシーンにおいて、無精道を突き進んでいる。
 便所では、歯を磨きながらウンコをし、ゲーテ格言集を読みながら、思いついたアイデアを白スペースにメモする。ゲーテ以上に便所に合う思想家を知らない。
 ハナクソは少しずつとらず、鼻の穴に濡れタオルをつっこんでグリグリまわし、まとめて1週間分とっておく。
 おにぎりは、握ったものをお皿に並べず、握った瞬間に食べる。
 寝返りを打ったときに枕を移動させるのが面倒くさいから、どの位置に寝返りを打ってもいいように、枕を10個ほど布団のまわりに並べておく。
 酒をちびちび飲んで酔っぱらうのを待つのは時間のムダだから、10キロ走ったあとに凍らせたウォッカを瓶のままラッパ飲みする。3分で酔っぱらう。無粋ではない。シベリア鉄道を旅したときロシア人たちはそうやって晩酌を楽しんでいた。

 1時間の作業を1分に濃縮して時間を余らせても、趣味を謳歌する素養もなく、花宴を愉しむ粋も知らぬ。もめごとを鎮める才もなく、世界から地雷を撤去することもできぬ。人さま並みにこなせることは何もなく、本をつくる以外にやることはなく、やれることもない。人生をしごく単純に構成するために、よぶんなゼイ肉をガリガリ削るように毎日を無精に生きる。