雑誌をつくろう その11「求人広告のおまけコラム」

公開日 2008年10月02日

文=坂東良晃(タウトク編集人)

 やりたいことが、うんざりするほどある。「うんざり」ってのは良くないか。しかし「うんざり」なのである。物事の進ちょくの遅さにだ。
 作りたい雑誌が無限にある。しかしぜっんぜん手がつけられてない。いま手元にはじゅくじゅくに熟し切った企画書が5本、そのいずれもが「スタート!」の合図が鳴ればそくざにスプリントに移れる段階にある。いや、そんなスマートな比喩は適していない。相手に飛びかかる寸前の土佐犬が、親方に首根っこを押さえられている状態だ。ぼくは毎晩のように憤懣やるかたなく、ウーウー唸りながら布団に潜り込んで苛立ちと戦っているのだ。時計じかけのオレンジ寸前だ。
 なぜ飛び出せないか。理由は1つ、メンツである。メンツといっても「俺のメンツが立たねぇ」の方ではなくて、「メンツが足りない」のメンツである。1本の商業誌を創刊するには少なくとも10名前後のスタッフが必要だ。しかもよほど個性的で、風変わりで、性格の異なる人材を組み合わせる必要がある。暴れ馬も必要、ギャガーも必要、クソ真面目も、ドヤンキーも、熱血漢も、ヲタクも必要。だが、四方八方を尽くしても10人ものバカおもしろい人は集まらない。

 雑誌は人間が作る。作り手である人間の考え方や人格がモロに製品に表れてしまう。
 たとえば自動車や薬品などの製品には絶対的な規格が存在し、厳然と管理すべき製造工程がある。その規律を守り通す営み、そして創意工夫によってレベルアップを図るのは、コンピューターでもなく製造ラインでもない。紛れもなく人間である。しかし、製造過程に関わるスタッフが、おのおの独自の判断で商品を作り変えることは許されない。
 その点、雑誌はちがう。「規格」というものがなく、完成品に至るまでのマニュアルも法則もない。現場に立つ1人1人が現場で判断し、結果をつみあげていく。これは入場料を取って観客に見せるプロスポーツの試合や演劇など舞台のイメージに近い。サッカーや野球の試合は、どのようなゲームメイクをするか事前にプランがある。しかしいったん試合がはじまれば、その流れや結果を誰もコントロールできない。秒刻みで展開が変わり、そのたびに判断の選択肢が何万通りも発生するためだ。ゆえに想像だにしないストーリーが組み上がり、時に観客の心を揺さぶるドラマが生まれる。
 雑誌は印刷物という点では工業製品の一種だが、中身は人間の思いの集合体である。毎日、何人もの人に会い、積み重ねてきた生き方、物の見方を聞き取る。その記事が締切寸前に大量に仕上がってくる。そこには何百もの人の営みが記されている。鳥肌の立つような人生、予期せぬ物語、熱くて真っ直ぐな思い・・・その瞬間あらかじめ想定した雑誌のコンセプトなんて吹っ飛んでしまうのだ。特定の思想にのっとって誰かがコントロールすることは不可能な製品、それが雑誌なんである。
 そしてどんなに情熱を注いで生産しても、月刊誌なら1カ月後にはその商品は無に帰し、ふたたび新しいモノをゼロから作り直す。月刊誌は1年に12回、隔週刊誌なら24回、新製品を製造する。この短いサイクルもまた一般の商業製品とは異なる。作っても、作っても、いつも新製品を作り続けている。そんな仕事である。

 もとい。
 来年どうしてもやりたい仕事が数本ある。これはどうしてもやらなくてはならない。何年間も手がつけられないままに耐えてきたことだ。来年挑戦できないと暴発が起こる。1人で暴動を起こしてやる。
 だがぼくが「やりたい〜!」と手足をバタバタ振ってタダこねても、人材がいなければ何一つとして日の目は見ない。「こんなおもしろい雑誌があればいい」なんて夢想などいくらでも描けるが、それを現実に変換できる人材はめったに現れない。
 おもしろい人間でなければ、おもしろい雑誌は作れない。研修やトレーニングでは「おもしろい」という個性は肉づけできない。アイデアや仕掛けや言葉は天からは降ってこない。人間の内面から溢れだすものだ。だから、根っからおもしろい人の登場を日々待ち焦がれている。
 ってことで、徳島で雑誌を作りたい人、ぜひ当社の求人広告をお読み下さい。