バカロードその12一歩足を前に出せば一歩ゴールに近づく〜日本横断「川の道」フットレース・520キロ参加記〜

公開日 2010年05月29日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18~21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

(5月、東京湾岸、太平洋を望む荒川河口から出で、長野県の千曲川、新潟県は信濃川という大河を巡って日本海へと至る520キロ、国内最長クラスの超長距離フットレースにタウトク編集人が挑戦した6日間の記録である)
 朝だ。ホテルの窓枠の向こうで夜が白々と明けていく。一睡もできなかった。緊張感よりもコーフンが強すぎて、眠ろうとすればいよいよ目も頭も冴えわたる。6日間もつづく不休のレース前だ、せめて数時間は眠っておきたかった。が、後悔してどうなるもんでもない。こうなりゃ走りながらでも眠るしかない。ハラをくくれ、ハラを!
 JR京葉線、東京駅から5駅目の「葛西臨海公園駅」を下車し改札を抜けると、眼下の駅前広場に「川の道フットレース」の横断幕が掲げられている。スタート1時間前にして30人ほどのランナーの姿が見える。おそるおそる近づくと、みな笑顔で挨拶をしてくれる。優しそうな人たちでよかった、と安心する。
 ランナーたちは出発前の荷造りに忙しい。走るうえで最低限必要な荷物を小さなリュックにまとめ、残りの荷物・・・トランクやザックには名札をつけて大会側が用意したワゴン車に乗せる。この預けた荷物はそれぞれ3つの関門(宿泊施設)とゴールにランナーのペースにあわせて送り届けられる。実にうまく考えられたシステムである。これが関門とゴールそれぞれ4つに荷物を分けるとなると大変な作業だ。
 スタート会場横にはコンビニがあり最後の腹ごしらえができる。また大きめの公衆トイレもある。駅下車30秒のところによくぞこんな理想的なスタート会場が設けられたものだと感心する。
 開始10分ほど前に全員で集合写真を撮影する。撮影をしていると「坂東さん」と声をかけられ、誰だろうとその方角を見やると、何とそこには前年度覇者で女傑の異名を誇る藤原定子さんがいた! (な、なんで藤原さんがぼくの名前なんかご存じなのだろう)と戸惑っていると、藤原さんは「コースの途中から東京スカイツリーが見えるよ!」と教えてくれた。なぜぼくにスカイツリーをご紹介いただけるのだろう。そうか、きっと参加者名簿を見て、はるばる四国からやってきた選手だと知って東京の新名所を教えてくれてるんだ!と気づく。超一流ランナーなのに末端ランナーへの細やかな心遣い、感動である。ぼくはたちまち藤原定子選手のトリコになった。
 520キロレースのスタートは、今まで参加したどの大会よりもランナーたちの優しい笑顔にあふれていた。そこに「レース」という概念はないように感じられた。長い旅路をともにする見知らぬ旅人たちと、何を競うことがあるだろう。新緑のトンネルをゆったりと進む60名余は、大海へと向かう回遊魚の集団のように思えた。誰もが静かに、注意深く、脚を繰り出している。その先にある世界に憧れと畏敬の念を抱きながら。心はおだやかであった。緊張感はなかった。520キロという未知の距離を、この仲間たちと越えていくのだ。
 ・・・そして、これらの穏やかでやさしい感覚がすべて勘違いであったことを、数時間後、ぼくは知ることになるのだ。

第一関門へ
東京都荒川河口~埼玉県秩父市 170キロ

 スタートから約1キロはゆっくりと集団走を行い、荒川河口である東京湾岸に達した所でふたたび全員で記念撮影を行う。河口を離れるとすこしピッチが上がるがまだ全力というわけではない。520キロという途方もない距離の一歩目だ、まずはゆっくりと足慣らしをしておこう。すると、再び前年度覇者の藤原定子さんが近づいてこられ、左前方を指さしながら声をかけてくれる。「坂東さん、ほらあれが東京スカイツリー!」。う、う、う。田舎者のぼくは藤原さんのテンションについていけない。というか先月、東京スカイツリーのふもとにあるホテルに宿泊したこともあり実はスカイツリーはあまり珍しくなく、新鮮な驚きっぷりを表現できないのだ。(ごめんなさい藤原さん、ぼくのような者にスカイツリーを紹介してくださったのに・・・)。
 そんなこんなの心理的葛藤を抱えつつ、橋を渡って複雑な道を経由する5キロあたりまでは藤原さんが抑え気味のペースで全体を導いてくれる。5キロをすぎると藤原さんの「あとはフリーで!」の言葉とともに集団がばらけ、6名の先頭集団が形成される。ぼくは先頭集団の後ろにつける。
 宮古島での2レース以来、ウルトラ系レースの序盤で先頭集団に追いすがることが、秘かな楽しみとなっている。そこには超長距離界で名高いランナーたちのナマの走りがある。実業団アスリートや大学駅伝の有名選手とはまた違う、タフな人生を生きるランナーたちがいる。日常の仕事を持ちながら1日に20~30キロもの練習を欠かさない人たち。休暇を工夫し、旅費を工面し、大きな荷物をたずさえて会場にやってくる。テレビカメラも取材記者もいない場所で、驚くべき長距離を淡々と刻む。勝って名誉や賞賛なく、金銭的メリットもない。ただ速く、長く、走るためだけに走る人たち。ぼくはそんなランナーの背中を神々しく見る。
 先頭集団の面々はリラックスしている。もはや馴染みのメンバーなのだろう。会話を交わしながら一定のペースを刻む。時おり1人が抜け出したりもするが、集団は一気には追いかけない。若干ペースをあげ、数分の後には先行ランナーを吸収していく。
 かつてこの大会2連覇を果たした吉岡敦さんや、第1回大会から出場している篠山慎二さん、日本縦断走やピースランなど超長距離ラン界の草分けである落語家・三遊亭楽松さんの走りを間近で見られる。こんな贅沢はないだろう。
 すっかり満足しきると15キロあたりで先頭につけなくなる。集団はキロ5分台後半で進んでいる。ぼくにとっては100キロ走のペースである。これ以上追いかけると潰れてしまうと判断しピッチを落とす。延々とつづく荒川河川敷の道に、暑い日差しが照りつける。季節をひとつ飛ばしでやってきた真夏日和。黄金期間中すべて晴天というウソのような天気予報も出ている。標高2000メートル近い山越えがある川の道フットレース、風雪にさらされることを恐れていたがよい兆候である。
 当レースはじめてのチェックポイント1(CP1・埼玉県戸田市)に出場48人中30番目に入る。35.7キロに4時間14分、非常に遅い。520キロをどのようなペースで走るべきか見当もつかないため、極限までスピードを落としている。が、楽かといえばそうでもない。遅ければ遅いほど行動時間が長いといえる。使い慣れない脚の筋肉に負荷がかかっているのか、身体がずっしり重い。エイドを兼ねたCP1ではソーメン、おにぎり、パン、グレープフルーツなどをいただく。早めにエネルギーに転換してくれればいいが。
 エイドを出ると荒川の堤防上にあがる。今まで続いた河川敷とは大きく違う点がある。水道がないのだ。河川敷には運動公園の施設としてトイレや水飲み場がひんぱんにあった。だが土手の上に水場はもちろんない。迷いに迷ってウォーターリザーバーをリュックに装着してきたが吉と出た。常時1リットル程度の水は所持しておかなければ脱水に陥る可能性もある。
 42キロ付近で私設エイドに迎えられた。「川の道」の特徴のひとつだが、公式エイドと見まごうほどの巨大な私設エイドが出されている。工夫が凝らされた軽食やドリンクのみならず、キンキンに冷えたビールが用意されているからさあ大変。飲みたい!しかし、レース中の乾ききった身体にアルコールなんか入れてフラフラになってしまわないのだろうか。
 そのような疑問は次のひと言で融解した。「ビール、よく冷えてますよ」
 飲むしかない。飲まずにはいられない。一本いただきグビグビあおる。ノドを突き刺すシャープな切れ味、最高だ! 食道と胃壁をつたってなだれこむ。テンションがあがる。暑い日にはビール! この際、理屈は単純なほどよい。
 49.6キロ地点(CP2・埼玉県さいたま市)のエイドではまたまたビールを1本飲む。アルコールが入ると精神的にゆるーい感じになる。緊張感がうすれ、まぁなるようになればよいケセラセラという心境に支配される。飲む前よりもノドの渇きをよけいに感じるので、飲酒と同時にスポーツドリンクを摂取し水分のバランスを取った方がよいですよ、と他のランナーが教えてくれる。周囲のランナーのほとんどがビールをあおりながら走っている。こんな豪快なレース、見たことない!
 ここから約15キロはサイクリングロードをゆく。背の高い菜の花が黄色い回廊をつくる。夕日が射すころには、公共スピーカーから夕暮れの音楽が流れる。川の道フットレースを「日本の原風景をたどる旅」と評した人がいたが、東京湾岸を発ったのが今朝の出来事だとは思えぬ木訥とした田園風景が広がり、夕陽に紅く染められている。
 日没寸前に65.6キロ地点(CP3・埼玉県吉見町)に到達。ここまで9時間24分。相変わらずペースがつかめない。エイドで出されたお汁粉はたとえようのない美味さ。サイの目状に切ったかぼちゃとさつまいもが小倉あんと渾然一体となり甘さが五臓六腑に染み渡る。図々しいのを承知で3杯いただく。名物の豚汁ソーメンもむろん1杯。
 夜のとばりが下りると若干の小雨が落ちはじめる。寒い。リュックから防寒用品を取り出す。今回、防寒具はおおむねホームセンターや100円均一ショップ、そしてイオンの安物衣料品売り場で買いそろえた。婦人用のももひき(最近はレギンスと呼ぶらしいが)を脚に装着し、アームウォーマー代わりに女性のふくらはぎを細く見せる脚絆みたいな物体(こっちは呼び名すら不明)をつけた。それぞれスポーツブランドものであれば3000円も5000円もするものだ。メーカーロゴ入りにこだわらなければ300円程度ですむ。不要になれば躊躇なく捨てられる金額だ。
 74.5キロ地点(CP4・埼玉県鴻巣市)が大会サイドが用意した最終のエイドとなる。温かいカップラーメンで最後の無銭飲食をし、熊谷の繁華街へと突入する。熊谷市街では幅広な大通りの左右にアンダーグラウンドな雰囲気のレコードショップやライブハウスが点在している。ブラブラお店を覗いてまわりたい誘惑にとらわれるが、さすがにレース中でもあり慎まざるをえない。何人かの賢いランナーは、この熊谷市街に仮眠所としてビジネスホテルを予約しているらしい。
 86.7キロ地点(CP5・埼玉県熊谷市)から103.8キロ地点(CP6・埼玉県玉淀駅)までの記憶があまりない。深夜3時35分に東武東上線・玉淀駅に着いたのだが相当な距離を居眠りしながら走っていたと思う。大会前日に眠れなかったのが響いている。徹夜2晩目なのだ。
 玉淀駅で仮眠をとる選手が多いと聞いていたが、駅舎内にベンチは1つしかなく、しかも1人の方が毛布をかぶったまま熟睡されていたので、当然眠るスペースも少なく、アテにしていた仮眠所としては向かないことが判明。がっかりしつつ玉淀駅をあとにする。駅には続々と後続のランナーがやってくるが、寒さをしのぐ居場所もなく、そそくさと次のチェックポイントへと向かう。
 夜明け寸前の朝方がもっとも冷え込みが厳しい。寒さと疲労と寝不足のためまったくスピードが出ない。歩いている方が速いくらいのノロノロ走りをしていると、タオルを頭に巻いた三遊亭楽松さんが猛スピードで追い越していった。三遊亭楽松さんは、超ウルトラマラソンの世界では誰もが知る「走る落語家」である。第1回川の道フットレースがたった4人の勇敢なるランナーたちによって始められたときからのメンバーであり、幾度もの日本縦断、本州縦断ランを実行している。なおかつ三遊亭一門の落語家として高座に上がりつづける話芸のプロである。このようなカリスマの方と同じ道を走られる歓びを与えてくれるのもまた「川の道」である。で、中距離走者のようなスピードで楽松さんはあっという間にぼくの視界から消えていった。
 この頃から体調が悪化し、いよいよ走ることが困難になってきて、スタートから120キロ地点ではじめて歩いてしまう。一度歩いてしまうと気力の維持が困難になる。楽な方に逃げたくなるのだ。少し走ってはつらくなると歩き、また走っては心拍数が上がると歩く。10人ほどの後続ランナーに抜かれ、もう後から追いかけてくる人もいなくなった。眠い。眠すぎて真っすぐ歩けない。地図の縮尺を確認すると1時間に3キロも進んでいない。その事実にガクゼンとする。このままのペースでは、第一関門である170キロ地点の「こまどり荘」に36時間以内にたどり着くのは無理だ。鬱屈した気分。情けなさへのいらだち。「こんなランニングとも言えない歩きのレースをするくらいならリタイヤした方がマシだ!」と自らに毒づく。そして、なかばヤケクソに「リタイアするくらいならいっそ一回寝て、体力が回復するかどうか確かめよう」と決める。いったん眠りこんだら何時間を要するかわからないが、どのみち時速3キロじゃどうしようもないのである。道路ぶちに農作業用のほったて小屋があった。裏側にまわりこむと昇ったばかりの朝日がコンクリートの床に照りつけている。手で触れてみると温かい。身体を横たえれば岩盤浴のように心地良い。ウトウトする間もなく深い眠りの谷に沈んだ。
 汗ばむ暑さに目が覚めると、気力の充実を一瞬で把握できた。「走りたい」という欲求が頭をもたげる。腕時計を見るとたった15分しか眠っていない。しかし実感としては一晩ちゃんと寝たくらいのすっきりした感じである。仮眠とはこれほどまでに精神に効くものか。
 秩父市街まで約10キロ。全力で走ってみようと思う。走りだせば夢遊病者のように歩いていたさっきまでとは別人のように身体が動く。キロ8分ほどのペースでランニングできる。こんなことなら早めに仮眠をとっておくべきだった。
 後方から快調なペースで近づいてくる女性ランナーがいる。鈴木富子さんだ。鈴木さんは「お富さん」の愛称でウルトラマラソン界では知られたお方。昨日行われた大会説明会の会場で、鈴木さんからお声がけいただいた。東京在住ながら徳島市出身である鈴木さんに、同郷からの出場を喜んでいただいたのだ。われながらハイペースで走っているにも関わらず、「膝を痛めている」とやや身体を半身にして走る鈴木さんにまったくついて行けない。さすがである。鈴木さんには伴走者がいる。ロードバイク(自転車)で全行程をサポートする渡辺さんだ。トライアスリートでもある渡辺さんは、まめに行程表と予定到達時刻を見比べ鈴木さんを導いている。しかし520キロの長丁場、ほとんど立ち漕ぎで伴走する渡辺さんの労力はランナーを上回るものだ。
 129.8キロ地点(CP7・埼玉県秩父市)、秩父市街に着くとマクドナルドの看板が見えてくる。無性にクォーターパウンダーを欲する。昨年来から実施してきた「1人箱根駅伝」でも「徳島~松山間200キロ走」でも終盤のキツいときにダブルクォーターパウンダーで息を吹き返したのだ。マクドに飛び込み、財布から千円札を鷲づかみにしながら「クォーターパウンダー、セットで!」と叫ぶ。きっと鬼気迫る表情だったはずだ。するとレジのお姉さんがとても申し訳なさそうな顔で「すみません、クォーターパウンダーは朝9時からになっております」。ううっ、30分早すぎた!仕方なくメガマフィンで代用する。1個で688キロカロリー。これからはじまる山道へのカロリー補給としては充分か。テイクアウトし店舗横の地べたに腰を下ろしてむさぼり食らう。シューズを脱ぐと、足の裏が自分のものとは思えぬほど赤く腫れ上がり、土踏まずが消失している。そして燃えるような熱を発している。わずか130キロの走行でヤワな脚である。残り390キロ、この脚にかかっている。頼むぞ脚!
 秩父市街を抜けると荒川源流へと連なる深い渓谷上を道路が縫っていく。山腹には大小の滝が飛沫をあげ、山桜の幾万の花びらが風に舞う。巨大な岩石をくり貫いた洞門や、ヤマタノオロチが下界へと舞い降りたがごとき大スケールのループ橋を登り詰めていく。この間、秩父市街で追い越された鈴木富子さんと再び同じ道中を進む。鈴木さんの膝の具合は非常に悪化しているようだ。サポーターで硬く固定しているが、身体の傾きは一段と激しくなり、その痛みの強さがうかがい知れる。だがどんなに苦しくても元気で明るさを失わない。後ろ向きな発言もなく、ひたすらに第一関門を目指している。強いランナーとはこういう人のことを言うのだな。
 159.0キロ地点(CP8・埼玉県中津川分岐)を越えると二度目の日没が訪れる。街路灯も乏しい山道。ヘッドランプを装着する。聴こえるのは渓流が岩を打つ水音。ときおり遠くに集落の灯りがまたたく。光が視界に入るたびに「あれがこまどり荘か」と期待するが外れつづける。過去の参加者が何人も道を間違えたというキャンプ場を左手にやり過ごし、そろそろかという所で、大会関係者の方が出迎えにきてくれた。「入口がわかりづらいから迎えに来ましたよ」とのこと。何ともありがたい配慮である。ならば100メートルくらいで着くのかと思えば、そこから1~2キロは歩いた。こんな遠くまで迎えに来てくれたのかと申し訳なくなる。
 午後7時30分。170.2キロ地点(CP9・埼玉県中津川「こまどり荘」)についに到着した。関門閉鎖まで1時間30分残し、ギリギリセーフレベルである。そしてぼくたちが最終ランナーのようだ。
 こまどり荘は想像していたより遙かに大きな宿泊施設であった。施設の中核を成すのは巨大な円形広場を有する宿泊ホール、その周辺に木造のコテージが並んでいる。「川の道」としては、4つのコテージを借り切っており、1棟は食事と荷物渡し、1棟を女性ランナー用宿泊、2棟を男性ランナー用宿泊と決めてある。
 ホールの2階にある風呂場に向かうが、すでに脚の筋肉が限界なのか階段を昇る余力がない。エレベーターがあったのでよかったが、こんなことでは今夜の標高1828メートル三国峠越えが思いやられる。お風呂は脱衣所も浴室も小ぶりで5人も入れば満員御礼である。幸い到着がビリゆえ入浴客も少なくゆったり浸かれたが、上位ランナーは芋洗い状態だったのではないか。天然温泉のお風呂は悶絶するほどの気持ちよさ。人間、生きているうちいろんな快楽に出会うだろうが、これほどの快感って滅多にないぞ。特にシャンプーを足の裏につけて、タイルの角でコリコリこすると、あ~快感で卒倒しそう!
 湯上がりに食事棟に戻り、川の道女性スタッフさんが運営するカウンターバー風レストランへ。最初、どうしていいものがわからずぼーっと座っていたら、隣のランナーの方が「注文しないと出てこないよ」と教えてくれる。なるほど壁には「カレーライス」「シチュー」「フルーツポンチ」などのメニューが掲示されている。カレーをお願いすると小鍋に入ったカレーを温めなおしてくれ熱々で出してくれた。そして冷えたビールを一杯。ウマイ!そしてカレーおかわり!さらに三度目のおかわり!
 胃袋を大量のカレーライスで満たし、仮眠所のコテージへ移動する。2つの二段ベッドを含め7~8人分の布団が敷かれてある。かろうじてベッド1人分が空いていたので横になる。枕元にコンセント口があった。ぬかりなく携帯電話に充電しておこう。就寝は10時。夜中の2時には再出発するから、眠れるのは2~3時間だろう。

第二関門へ
埼玉県秩父市~長野県小諸市 95キロ
 あちこちで携帯の目覚まし音が鳴っている。深夜の山越えへと出発するランナーたちの荷造りの音がする。目覚めると夜中の12時ちょうどである。眠りについて2時間。不思議と思考は明瞭である。眠れなくても身体を休めておこうと横になったままいると、数分のうちにコテージ内に1人とり残される。出発深夜2時は遅すぎるのだろうか?
 深夜の峠越えは危険であるため、大会サイドからは複数のランナーで示し合わせ集団で登るよう推奨されている。ぼくを含め深夜2時出発組は、落語家の三遊亭楽松さん、徳島出身の鈴木お富さん、お富さんのサポーターであるトライアスリートの渡辺さん、そしてぼくである。
 2時前に食堂にいったん集まり、再びカレーライスで腹ごしらえし、真夜中の峠越えダート道へ歩み出した。気温は0度近いか。吐く息が白くたなびく。部屋着用に持参していたダウンジャケットをはおり、ありったけの防寒具を身につけるがまだ凍える。
 ラッキーだったのはこの道程、5度の経験がある楽松さんが先導してくれたこと。未知の山道、ぼく1人なら相当ビビリながらの山行となったはずだ。漆黒の闇をヘッドランプの灯りをたよりに進む。楽松さんはおそらくペースを落として歩いてくれているが、それでも速い。夜明けまでは何とか離れないようについていったが、太陽の光が射すと緊張が切れた。いつまでも楽松さんにペースメーカーをさせるわけにもいかない。楽松さん、渡辺さんには先に進んでもらい、鈴木さんと2人で三国峠を目指す。ときおり若干の休憩を入れるのだが、鈴木さんは道路に横たわったかと思うと、数秒でイビキをかき睡眠に入る。豪快である。ふだん東京に住んでいる都会の人が、こんな山奥の森の中で、路上で爆睡である。かっこいい! しかし長時間寝ていると次の関門越えが厳しくなるので3~5分で起こさせてもらう。
 路肩に積雪が見られはじめる。寒いはずだ。川の道は、東京都心部の真夏から中津川渓谷の春桜、そして冬景色の三国峠と、四季をダイナミックな連続絵巻で見せてくれる。
 蛇行する林道をゆく。山腹をいくつも巻くと、右ななめ前方の山稜に人工の建造物が見える。鈴木さんによると峠直下にある公衆トイレらしい。あそこまで行けば登りが終わる! だが1度小さく見えた目標物のトイレは、しばらくの間姿を隠し、われわれを苛立たせる。はやく頂点に着きたいという思いが足の運びを速くさせる。
 午前7時20分、188.5キロ地点(CP10・埼玉・長野県境三国峠)、ついに頂点に到達。と同時に長い埼玉県横断の旅を終え、長野県側へと足を踏み入れる。それにしても埼玉という土地の奥深さには驚かされる。都心に近い位置にはじまり最終的には雪冠を抱く八ヶ岳連峰を見渡すこんなに場所まで「埼玉」なのである。お見それしました。
 峠を越えると一気の下りだ。さっきまでのダート道とうって変わって長野県側の道はアスファルト舗装がされており走りやすい。飛ばしすぎて膝を傷めないよう慎重に進む。ここで時間を稼いでおきたい。出発が遅かったため今夜12時に締め切られる関門まで時間的余裕がない状態なのだ。
 峠のヘアピン道を1時間も下れば千曲川の源流に取りつく。山林はやがて農村の風景へと移ろい、畑作業をする農家の方々から「頑張れ」と声援をもらう。小さな集落に入ったところで、ヤマザキショップ脇の駐車場に私設エイドを出していてくれた。たっぷりのソーメンとかつおぶしをのせた冷や奴をいただく。こんな見ず知らずの人間のために、たくさんの食材やら飲み物を用意してもらって、タダで提供してもらって、頭が下がる思いである。
 本格的な朝の到来とともに、わが寝不足の脳みそにもわずかながら正常な判断力が戻ってくる。もう一度、今宵の関門について思いを巡らせる。第二関門である「小諸グランドキャッスルホテル」まで距離は約65キロ。関門閉鎖は深夜12時、そして現在は朝10時。残された時間は14時間である。ということは、毎時休みなく5キロずつ前進して、ようやっと1時間前に関門突破できるってことだ。
 時速5キロ、このふだんならどうということもないペースが、すでに200キロを走った身体に重くのしかかる。まず両方の足の裏は、化け物級の膨張を見せており、靴紐を最大に緩めても中で張り裂けそうなほど。2センチも大きめのサイズを選択したにも関わらずだ。1歩踏み出すごとにズキズキと脳天まで痛みが貫く。15分に一度はシューズとくつしたを脱ぎ捨て、冷たいコンクリートや雪溶け水流れる用水路にヒートアップした足裏はつけないと持たない。熱冷ましの休憩を1時間に4回×3分入れると、あとの時間は時速6~7キロで走り続けないと、関門突破は難しい。このレース、絶対に途中リタイアはしたくない。そのためには徹底した自己管理が必要だ。1時間に5キロという大まかな設定ではなく、12分間に1キロ進むと決めて、意地でもそのペースを守り通す。登り坂では歩きしかできないからペースが落ちるが、仮に1キロ12分以上かかったら次の1キロで取り戻す! そう覚悟を決め果てしない持久戦に入った。
 218.2キロ地点(CP11・長野県南牧村)を越えると、5キロにも及ぶ下り坂がはじまる。ここで時間を貯金すべく、今まで封印していた痛み止めの錠剤を服用する。痛み止めはクセになるし、飲めば飲むほど効かなくなってくるので使用を控えていた。だがここにきて針山の上を行くに等しい激痛と、それでもスピードが要される事態に、ついに使用に踏み切る。カラカラに乾いた身体に鎮痛剤が一気にしゅみこむ。痛みが秒単位で消え失せていく。ケミカルとはまことに恐ろしい。そして人間の感覚とはこうも簡単に薬品でコントロールできるものなのか。痛みがなくなった脚を思い存分つかって下り坂を猛ダッシュする。ストライド全開だ。気持ちいい、だがこの気持ちよさの反動はあとから必ずやってくる。「毎度こんにちは、激痛ですよ」と無遠慮に顔を見せる。鎮痛剤が切れた後は、効く前の何割かは痛みが増している。痛みは脳から送られる危険信号である。信号を無視して身体を酷使するわけだから、その代償は大きい。
 残り時間との戦い、痛みとの戦いがつづく。緩いアップダウンの続く単調な道を速いピッチで走っては、脚が限界に達すると裸足になって冷ます。もはや景色は頭に入らない。ときおり千曲川の両岸に観光地らしきホテル街や土産店が現れるが、それがどこの街でどんな観光名所があるのかなどと考える余裕はない。走っても走っても距離が縮まらない。
 佐久市の巨大なバイパス道に入った頃に自分のいる位置を見失う。どこかの交差点で小諸市方面に左折しなければならないのだが、今自分がどこにいるのかわからない。ガソリンスタンドがあったので事務所で道をたずねると若いお兄ちゃんが親切に、何度も曲がり角の場所を説明してくれた。
 前方にランナーが見える。若い男性だ。長い木の枝を2本つえにして歩いているが、ほとんど進んでいない。声をかけると「半月板をやってしまいました。時速2キロくらいでしか進めてません」と痛々しい。残り10キロ、関門閉鎖まで2時間。とても間に合いそうにないが、ぼくにはどうすることもできない。「頑張って」という以外にかけられる言葉が見当たらない。
 さらにもう1人、女性ランナーが歩道に立ちすくんでいる。体調がとても悪いようだ。「ホテルまで残り500メートルくらいですか?」と尋ねられる。「いえ、まだ7~8キロありますよ」と答える。彼女もまた自分の居場所を見失っているのかも知れない。背中に力が入らないようであり、直立してのランニングができない。両手につえをつき、なんとか自分の身体を支えながら、それでも走ろうとするが、真っ直ぐ走れず車道に蛇行していってしまう。夜間だが車の通りの多い道である。万一の事故が起こっては、フットレースもクソもない。彼女と相談をし、背中の荷物を預からせてもらう。まず身体的負担を減らし、ぼくが先に関門であるホテルまで走って、大会関係者に状況を説明することにする。
 257.0地点(CP12・長野県佐久市)から関門までの記憶はない。夢中で走った。脚の痛みは完全に忘れた。一刻もはやく大会関係者に報告しないと、事故が起こってからでは遅い。心拍数の限界いっぱいまでスピードをあげ、小諸市街を縫い、駅ターミナルを右手に通り過ぎ小諸グランドキャッスルホテルに着く。深夜23時38分。
 大会スタッフに女性ランナーからあずかった荷物を託し、様子を見に行ってもらうようお願いする。彼女自身がリタイヤをしたわけではない。もしうまくいけば時間内にホテルに着くかもしれない。体調が悪化しているならスタッフが助けてくれるだろう。それだけ考えると、精神の緊張が切れた。もうヘトヘトなのである。
 「お風呂が12時で終わってしまうので、今のうちに入ってしまってください」とスタッフにうながされ風呂場に向かう。大きな浴室には誰もいない。水風呂があるので足を冷やしたかったが、終了時刻まで時間がないので一瞬浸けただけ。関門は12時だからギリギリにゴールするランナーもいるのに、12時にお風呂を閉めるなんて殺生だな・・・と思う。この頃からあまり複雑な思考ができなくなり、身勝手な考え方がはじまっている。
 明日・・・いや数時間後の出発のために準備をする手がなかなか動かない。あずけてあった大型ザックの中から明日必要なものを取り出そうとするのだが、頭が整理できないから荷物もまとまらない。同じ物を入れたり出したりする。風呂場の脱衣所の地べたに座り準備を整え終わるまで30分もかかった。ホテルの清掃スタッフが早く出て行ってもらいたい風に横目でチラチラ見る。
 よろよろとした足取りで雑魚寝部屋に向かう。男性の寝室は3部屋。1部屋に10人前後が寝ている。1つ目の部屋に入ると爆音ともいえるイビキが響きわたっていたので回避し、2つ目の部屋で横になる。ここもまたイビキと歯ぎしりの饗宴だが、意外に不快に感じないことが不思議だった。さぞかし大変だったんだろうな、と優しい気持ちに満たされる。やがてイビキを子守歌代わりに深い深い眠りに落ちていく。それは睡眠というよりは気絶に近かった。(つづく)