バカロードその58 川の道に戻る

公開日 2013年08月22日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 「川の道フットレース」は特別な場所だ。520キロをワンステージで走りきる長大な道のりが生みだす物語は、ある種の哀愁を伴って胸に淡い痛みをもたらす。選手たちも、選手をサポートするスタッフも、ただならぬ思いを秘めてこのレースに参加している。人生を懸けてとか、勝負レースだとか、そういう大げさなものではなくて、静かな波打ち際から水平線に浮かぶ貿易船を眺めるような、茫洋とした感慨が胸に溢れている。
毎年、4月最終日から5月5日まで6日間かけて行われる「川の道フットレース」。東京湾岸の葛西臨海公園を出発点に、埼玉県を秩父山中へと横断し、長野県の八ヶ岳連峰の山麓を駆け抜け、残雪も残る豪雪地帯の中越地方を経て、新潟市の「ホンマ健康ランド」をゴールとする制限時間132時間の国内最長のワンステージレースである。
 「川の道」の名は、主催者である舘山誠さんがかつて荒川河口から源流域まで走り旅をした際に、荒川がついえる峠の頂から遙か日本海へと連なる千曲川の美しい流れを目にした事に由来する。荒川〜千曲川〜信濃川という大河を結んで太平洋岸から日本海までを自分の足で走り抜く、そのロマンを実現したのが「川の道フットレース」なのだ。
 2005年、4名のランナーによって物語の扉は開けられた。ジャーニーランのパイオニアであり伝説的なランナーであった故・原健次さん、走る落語家あるいは喋るランナー三遊亭楽松さん、幾度もこの大会を制したミスター川の道・篠山慎二さん、そして主催者である舘山誠さんの4人が道を切り開いた。それから9年目を経て、今年は「フル」と呼ばれる520キロに70人、「前半ハーフ」265キロに29人、「後半ハーフ」255キロに42人がエントリーした。総計141人参加という大所帯のレースへと成長した。
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 ぼくは3年前に520キロに挑戦し、制限時間の1分前にゴールを果たすという奇跡を起こした。2日目からずっと全ランナーの最後尾、ダントツのビリを走りつづけた。足の遅さをカバーするために仮眠所での睡眠を削り、1日平均睡眠1時間という無謀の果てに手にしたゴールだった。
 風船のようにパンパンに浮腫んだ足の裏は、一歩ごとにぐにゅぐにゅした物を踏んづけて走るような嫌な感覚。四十を過ぎた大のオッサンが「もう嫌だ、痛い、つらい」と人目をはばからず涙を幾度も流した。現実と夢の区別がつかなくなり、4日目の夜、自分の氏名を思い出せなくなった時には戦慄に震えた。
 それでも絶対にゴールまで行くのだ、という一念は最後まで折れることなく、仮眠所ごとに設定された関門時間に遅れそうになる度に炎の猛スパートを何度も繰り返した。132時間走り続けたあとは、「極限まで力を出し切った」という満足感が強烈に残った。
 いつか大きな病に倒れたり、突然の厄難に見舞われたりして、あと5分で自分の命がこと切れるとわかったら、ぼくはきっと「川の道」のことを思い出す。それほど深いクサビを心に打ち込まれた。
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 今年、ぼくは「前半ハーフ」265キロにエントリーした。本来は「フル」を走るべきなんだが・・・3年前の怖さがまだ拭い去れない。臆病風に吹かれたのだ。
 言いわけめいた理由はある。昨年あたりから原因不明の体調不良に見まわれ、内臓の痛みや極度の疲労からまともに走れる状態でなくなっていた。3月にその原因の一端と思われる大腸の病変が発見され、4月にサクッと切除した。初期の大腸がんってヤツである。腫瘍を切り取った後の大腸の内壁をクリップと言われるホッチキスみたいな針でパッチンパッチン留められてはいるが、手術後はずいぶん体調が良くなった。気のせいなんだろうけど。
 今年の「川の道」は復帰戦なのである。ふたたび超長距離フットレースの世界に舞い戻るために。練習量、体調ともにベストにはほど遠いけれど、長距離フットレースは「今持っているものを総動員して走る」のが基本なんだ。年齢も、障害も、病気も、運動能力も、人それぞれが持つバックグラウンドをマイナスと捉えずに、ただひたすらゆっくりと走り続けるという行為に昇華できるか。完走の成否と、レースの価値はその一点にかかっている。
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 大会前日は、東京都内で宿泊した。神田界隈に宿を探すと御茶ノ水駅近くによい宿があった。オフィス街と神田川に挟まれた閑静な場所かと思いきや、4月に開業したばかりの「御茶ノ水ソラシティ」と「神田淡路町ワテラス」の至近にあって、両スペースが賑やかな音楽イベントなぞを催しており、お祭り騒ぎな空気に包まれていた。
 東京に泊まるときは神田周辺が定番だ。神田界隈は、単純無類なぼくの趣味趣向を満足させるお店がずらりと並んでいる。三省堂を街のヘソに抱く神田神保町の大型書店は新刊のディスプレイひとつとっても書店員のプロフェッショナルを感じさせる。直射日光のあたらない靖国通りの南面には専門性の高い古本・古書店が軒を連ねる。ネットでも入手困難な地図専門店があれば、地方出版物専門書店もある。
 一方、裏道に入れば吉本興業の「神保町花月」があり、若手芸人を中心とした実験的な芝居の公演が毎日組まれている。
 駿河台交差点を隔てて神田小川町にはアウトドアブランドの旗艦店はじめ国内の主要登山・アウトドア専門店が最新アイテムを並べる。少し離れるがプロレス・格闘技の聖地である「後楽園ホール」や、ランナーの聖地である皇居内堀通りは歩いていける距離にある。オタクカルチャーの聖地・秋葉原も目の前だ。つまり神田って場所は、いろんな聖地に囲まれまくり、なんである。
 だが、何をさておき神田に宿をとる最大の理由は、「たいやき神田達磨」という鯛焼き屋さんの存在である。看板メニュー「羽根付き鯛焼き」は鯛焼きの四方に長方形状にバリを残して焼き上げられる。そのバリがクッキーそのものの甘カリッさで鯛焼きの概念を打ち壊している。さらに行列のお客の情況に応じて仕上げ量を調整しているため、作り置きがない。鯛焼き一枚だけの注文だとしても、必ず焼き上がり直後を入手できる。
 しかし鯛焼きひとつ食べたいがために、わざわざ近隣に宿泊する必要などあるだろうか。節度ある大人の判断としてはNGだろう。だがせっかく東京まで出かけたからには2度、3度と焼きたての「羽根付き鯛焼き」を食したいのだ。近場に宿を取れば、外出・小用のたびに調達できるというメリットがある。
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 さて、大会前日は日本橋富沢町で行われた説明会に参加し、夕方4時すぎに終了。地下鉄一本で5時には宿に戻れる。翌朝9時のスタート時刻に間に合うギリギリ寸前まで眠れるだけ眠るという方針だ。レース前夜、最低でも12時間以上眠るのである。レースが始まれば、3日間ほぼ睡眠なしで走り続けなくてはならない。寝だめは必須なのだ。
 帰り道、「たいやき神田達磨」にて本日3度目の鯛焼きを購入し、ホテルに戻って熱々のお風呂につかり身体をあたため、たらふくのご飯(おむすび4個とカップ麺とお総菜2パック、そして鯛焼き2尾)を食い、アサヒスーパードライを1缶飲み、念のため睡眠導入剤まで服用してベッドにもぐり込む。
ところがどうしたものか、目も脳もギラギラと冴え渡り、眠りに入る予兆もない。寝返りを右に左に百回、掛け布団を掛けたり外したり、目を閉じても開いても胸の鼓動は高鳴るばかり。「川の道」への異常なる愛情から、不安と恍惚が交互に押し寄せ、アドレナリンがドクドク溢れる。
 暗闇にマナコを開けているのも退屈で、枕元に置いていた百田尚樹のスポ根青春小説「ボックス!」を読めば興奮に助長。そして一睡もできないままに、窓のカーテンには白々と夜明けのしるしが刻まれた。やばい、やばいよ、こりゃ!