バカロードその88 熱中症患者のうわごと

公開日 2015年09月18日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 5年間挑戦してはリタイアつづきのスパルタスロン(毎年9月にギリシャで開催。247km、制限36時間)も、今年で出られるのが最後になりそうな雲行きだ。まず参加資格が恐ろしくレベルアップしてしまった。以下は、2016年以降大会のルールである。

 参加者は過去2年以内に、以下の条件のうち1つを充たさなければならない。
 □100kmレース=男性10時間、女性10時間30分以内。
 □24時間走=男性180km、女性170km以上。
 □48時間走=男性280km、女性260km以上。
 □200~220kmのノンストップレース=男性28時間、女性29時間以内。
 □220km超のノンストップレース=男性41時間、女性43時間以内。
 □100マイル(161km)レース=男性22時間30分、女性24時間以内。
 □スパルタスロン=36時間以内に完走。
 □スパルタスロン=172km地点(ネスタニ)に24時間30分以内に到達。
 スパルタスロンを毎年完走できるレベルの人ならば、これらの記録は簡単に出せるレベルである。
 しかし、ぼくにとっては100km10時間以内(1回だけマグレで出した)も、24時間走180km以上(1度も達成したことない)も、他の項目も、すべて自分の能力を超えている。完走の難易度に比して参加資格がゆるすぎる、と言われてきたスパルタスロンも、いよいよレースにふさわしい実力を求められるようになったということだろう。
 さらに、長ったらしい新ルールブックの最終行には、強烈な一文が添えられているのである。
 
 「過去5回出場して1度もゴールできなかったランナーは出場できない」
 
 つまり5回リタイアした未完走者は、100kmや200kmでどんなに良いタイムを出そうと、参加資格を失うのだ。今後、ぼくがスパルタスロンに出場するには、「今年完走する」という唯一無二の条件をクリアするしかない。リタイアすれば永久にお別れ。しかし完走さえすれば、あの場所に還れるのだ。
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 昨今ギリシャといえば、EU全体を、はては世界経済を大混乱に陥れている元凶とされている。人口わずか1千万人、GDPの規模は日本の都道府県なら広島県相当の小さな国が、これだけ世間を騒がせているのは、なんとなく痛快である。
 主な批判の口上としては、「働きもせず、公務員だらけで、年金をたくさんとって、贅沢な暮らしをしている人たちが、借りた金を返さないために、その穴埋めにドイツ人やフランス人が払った税金が使われている」というものだ。
 対する反論としては「元々腐敗した政権に、担保を明らかにしないまま金を貸しこみ、リターンの見込みなく資本を投下しつづけたEUの金持ち国こそが悪い」とか、「ドイツらの競争力の強い商品が、統一通貨ユーロの導入によって比較安値となり、南欧の浪費型諸国で大量に売りさばいて大儲けしやがったツケに過ぎない」である。
 5年続きでギリシャに通いつめているぼくは、ドイツ人よりはギリシャ人目線で物事を見てしまう。
 そりゃあ彼らは、決められた時間に何かをはじめたりはしない。電車やバスへの無賃乗車は常習で、それをとがめる人はいない。平日からビーチでは脂肪たっぷりの老人がゴロゴロ寝転がっていて、カフェの席に陣取ると日が暮れるまでそのままいる。ことあるごとに分不相応な豪華パーティを催したがる。公共交通のストは日常茶飯で、そのたびに経済活動は大混乱している。
 でも、それが彼らの人生のありようなんである。
 日本人のように、約束の5分前に訪問して応接室の壁を見つめて待機したり、エスカレーターを片側空けて駆け足で登ったり、3分おきの完璧ダイヤで地下鉄を運行したりはしないのである。
 だけど、有史以来ギリシャ人が生みだした数々のアイデアのおかげで、そんなぼくらの便利で豊かな生活が成り立っていることは忘れてはならない。
 数学も天文学も建築学も、近代社会を文明たらしめている礎は、ギリシャ人が見つけた法則やハウツーを元にしている。われわれが強大な権力者の奴隷にならず、自由に発言しても殺されないことを保障してくれる「民主主義」という途方もない概念だって、ギリシャ人が生みだしたのだ。
 世界の共通言語としてのアルファベットの原型も、みんなが青春をかけて取り組んでるスポーツや競技会という考え方も、さらにはオリンピックだってフルマラソンだってギリシャ人が企画したことだ。
 要するに彼らは、規律を守ったり他人を模倣することには価値を置かず、物事をゼロから1にするのに長けた人たちなのだ
 何にもない無の状態から新しい発想を起こすには、常識的な考え方に縛られない環境が必要なのである。世界中から天才が集まっている(らしい)Google社屋の共有スペースに滑り台やらバスタブが配置されていて、開発者の仕事部屋にジャングルを再現したり、(微妙に勘違いした)茶室になってるのと同じ理屈である。ギリシャ人は奔放で無頓着だからこそ、人類と文明を変えるだけの発明をしつづけてきたのだ。そんな人たちに緊縮財政や借金返済を求めても仕方がない。
 ギリシャ人の精神性はきっと何千年も変わらない。責め手側のドイツ人だって、勤勉で改良意欲に溢れ、意思の一致を尊ぶ思考は、先の大戦前から変わらない。日本人のキャラクターは80%くらいドイツ人にかぶってるから、ギリシャ人を理解するのは難問だろう。
 EUを範として、関税障壁を取り除いた広域経済圏づくりが世界の各ブロックで起こっている。物の売買から国境線が外され、人の移動や情報のやりとりに時間差がなくなると、今まで「地の果て」にあった見知らぬ国の人びとが突然隣人と化す。同じ物を食って、同じ服を着ているからって、何千年も受け継がれてきた考え方はそうそう変わらない。「何のために生きるか」「誰のために生きるか」という根本が違う人が隣に住み始めるのだ。
 イスラム国の広報部にSNS上で誘われ、相手が誰とも知らずに嫁ぎに出かけてしまう欧州の女子高生が続発する時代である。世界は極端に狭くなり、異教徒やテロリストが隣人となり、違いを認められない人たちによる殺戮が起こる。
 それは国家間という大きな単位から、子どもたちのいじめまで、人間が関わる社会全体で加速しているように思える。その反作用として、「平和」を声高に叫ぶ人たちがニュース映像に都合よく登場するが、彼らが何の平和を求めているのかは、耳を澄まして聞いてみなくちゃいけない。「他の国では殺し合いをしているけど、自分たちには関係ないことだし、私は平和でいたいのです」という願いであったり、「誰が戦争に巻き込まれようと知りません。私の愛する家族や子どもたちだけは平和を享受する権利があります」という主張ならば危険思想だ。
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 命を大事に、地球を大切にというけれど、人間の命なんてそんなに大した意味なんてないんじゃないかと思っている。
 人間は、あたかも地球の覇者のように振る舞っているけれど、人間よりはるかに個体数の多い動物や虫は数え切れないほどいる。細菌やウイルスまで含めれば、どちらさんが地球最大の店子なのかは判断がつかない。
 土砂降りが続くと異常気象だ、猛暑日が続くと温暖化だ、火山が噴火すると大地震が近いと大騒ぎするが、そもそも今の地形は激しい造山活動や大気の変化によって生みだされたものだ。大陸の衝突の果てにせり上がった土地が山岳であり、飲料水はそこで濾し出される。多くの都市住民が快適に暮らしている平野は、河川の氾濫でできたものだ。日本人が愛してやまない温泉は、大陸と海洋プレートの境目に生じ、地震の巣であることとイコールである。マグマ燃えさかる地中から生成された金属元素を調合した薬品で病気を治し、家を建てる。人間がほんの刹那の時間、快適さを享受している場所は、大地震や大噴火以上の破壊的な地球の活動の末のものである。
 地球に生命が誕生したのが40億年前とされるが、その後少なくとも5回は、生命体がほぼ絶滅した気候変動に見舞われている。1回目は大氷河期、2回目も寒冷化、3回目は苛烈な火山活動と乾燥、4回目も火山活動と気温上昇、最後の5回目は寒冷化と巨大隕石の衝突のダブル攻撃。「温暖化」なんて生やさしい状態ではない。地球は、「スノーボールアース」という全球凍結になったり、マグマ煮えたぎる「火球」の状態を繰り返す、宇宙に浮かんでいる土くれのひとつなんである。
 天変地異のたびに生命体は絶滅しながらも、生きながらえた数%の残党の進化によって、今に至っている。人間が進化の最終段階であるはずは、もちろんない。人間が生きやすいかどうかで、地球が異常か正常かを判断するのは、人間中心な考えが過ぎる。
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 「人間」という動物に重きを置きすぎる空気が、人間自体を窒息状態にしている。ひとりひとりに生きる価値がある、個性があるというような事を、無理くり押しつけようとするから、呼吸不全が起こっているのだ。
 人間なんて動物の一個体にすぎない。自分が生きながらえるために、何千匹もの魚や家畜を食いちらかして、命を奪いながら生きている勝手な存在なのである。それを「グルメ」とか「食べ歩き」だとか称して盛り上がれる無神経な生き物なのだ。イルカやアザラシを溺愛する割に、マグロやタコには解体ショーや躍り食いという凄惨な仕打ちができる。人間が他の動植物を愛すべきか、殺すべきかの基準は、「知能指数が高い」「哺乳類であるか否か」「顔がかわいい・・つまり擬人化しやすい」などがあるが、これらは人間が人間らしさを異物に見いだせるかどうかの基準で定めたものにすぎない。要するに自己愛である。殺される側には無意味な尺度である。
 内澤旬子というルポライターが書いた「飼い喰い 三匹の豚とわたし」は秀逸である。自ら育てた3匹の豚を、最後には屠畜し食べるという経験を綴っている。誰もが目をそむけて、意識の外に放り出している「他者を殺して、自分は生きている」という事実に正面から向かい合っている。ベジタリアンとてこの性からは逃れられない。予防接種をしたり、虫下しを飲んだりして体内のウイルスや寄生虫を駆逐しているだろうし、害虫駆除が成された都市に住むなら、自分が直接手をかけないだけで、他人に殺傷を代行してもらっている。
 スーパーマーケットで、生命の欠片すら感じさせないように、トレイにラッピングされた肉しか食べたことのない子どもたちには、生き物を殺して食べるという経験を積ませてあげたい。他者を殺してしか、われわれは生きてはいけないのだと学ぶべきだ。それは、他者の命を奪ってまで自分には生きる価値があるのか、という内なる問いかけを発する機会にもなる。
 われわれは、人間が生存するのに邪魔な生物を「害虫」と呼び、また「病原体」とする。だが多くの動植物からすれば、地球という天体最大の「害虫」「病原体」は人間だろう。ただ単に捕食のために食い・食われするのではない。オシャレな服やアクセサリーの原材料として、動物の皮を剥いだり、殺して牙や爪を抜くのは、人間という種族だけだ。
 芸能人がテレビの健康番組に出て、ダイエットのためにお弁当のご飯を半分捨てます、と意気揚々と語る場面をよく見かける。コメンテーター気取りのタレント医師たちも、その行為を称賛する。豊かさは、食い物を捨てることに抵抗のない気質を生みだした。日本は、食料の32%を廃棄している国なのだ。日本人が1年間に捨てている家庭や事業用の食料は1800万トン。発展途上国の年間食料5000万人分にあたる。しかも日本人の食っている食料の半分以上は、外国から輸入したものである。よその国に金を払って食べ物を買い、その3分の1を腐ってもないうちから捨てている。
 一方で、格差と貧困が社会の大きな問題のひとつとされ、実際に独居老人が部屋で餓死している国でもある。
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 人間にも人生にも、価値あるものなど求めなくて良い。
 自分が生きている時間を使い切るために、淡々とおつとめを続けるだけでいい。
 便利さも、快楽も、良い暮らしも、求めなければ苦しまなくてよい。他人から、信頼や優しさを得ようとしてあがくから辛いのである。
 dysonがある時代に廊下にぞうきん掛けして、LINEで意思交換ができる時代に絵ハガキをポストに投函する。
 日々労働をし、生産するのも、これと同義だ。進歩を求めず、同じことを淡々と繰り返す。
 走るのなんて、無意味の最たるものである。
 247kmという距離を、36時間で走りきる。気温35度を超す灼熱を、熱中症のままに突き進む。100%無駄なことに、自分のすべてをかけて挑む。なぜそんなことをしたいのか、自分でもわからない。
 ただ、それは、しなくてはならないことだ。