バカロードその101 四国横断ど真ん中編 その3

公開日 2016年12月08日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

(前号まで=吉野川河口から愛媛県の宇和島市まで330km。四国の山岳地帯を東西に貫く走り旅にでかけた。出発から270km、深夜の四国カルストからの峠の下りで、道路から崖下へと落下する。奇跡的というかマグレで道路の1m下の突起に着地したのは良かったが、膝頭がソフトボールの球みたいに巨大に腫れてきた) 
 人間の痛覚っておもしろいですよ。200km以上走るレースではよく体験することだけど、からだじゅうアチコチ傷めてるのに、痛みを感じるのって1カ所だけ。いちばん痛い部位だけなんですよね。たとえば転倒して、ぱっくり開いた傷口から血がダラダラ流れているのに、そこより痛い場所が別にあれば、傷口はまったくの無痛なんですよ。
 人間の脳みそって、高性能コンピュータ以上の演算ができるかと思えば、痛覚の情報が届くのは最上位の1カ所のみという鈍さも合わせ持ってるのです。いやこれは逆に、脳みそのテクニックかも知れないですね。全身の痛点からの情報をまともに感受してると、精神が耐えきれないかもしれません。
 さっき道路から転落した時に強打したと思われる左膝は、10分も経たないうちにソフトボール大に腫れ上がり、手で触るとぶにょぶにょと水風船みたいです。見た目は重症なのに、痛みは感じません。手の平や肘も擦りむいて血が滲んでいますが、やっぱし痛くも何ともありません。270km走ってきたダメージによる両足裏の痛みが、もっかのところ脳みそが選ぶ「痛みランキング1位」だからでしょうか。見た目、外傷だらけですが、痛くないんだから平気です。
 そして、どのような激痛をも凌駕する生理的欲求こそ睡眠であることは、あまたの徹夜ランナーに知られています。深夜3時、最大規模の睡魔が襲ってきました。単調な下り坂は足を前に出しておれば、勝手にからだは前に進みます。この努力不要な状態がマズいのです。路面に揺れるヘッドランプの輪が、催眠術効果を倍増させます。
 国道440号に並行して流れる梼原川の対岸に「田野々」という集落が現れました。古い家屋がならぶ街道ぶちには「茶堂」と呼ばれる木造で平屋建ての小さなお堂が立っています。間口は畳を横に並べた2帖分ほどで、板張りの上がりかまち的な空間があります。戸や扉はありません。奥には上下2層の棚があり、石造りの地蔵が20体ほど鎮座しています。地域住民や巡礼客の信仰の場であることは醸し出されるムードでわかりますが、そんなありがたい場所であることはさておき、横になれる空間を見つけてしまったからには、先には進めません。無礼を承知で板張りの間に倒れ込みました。眠い・・・ともかく10分でも眠りに落ちれば、睡魔は消え去るに違いありません。
 休憩なく10時間ほど動きつづけた身体はカッカと熱を放ち、転落した際に打撲したと思われる膝や肘がドクドクと脈を打っています。身体反応が強すぎて、眠りに入れません。その熱さは一転、ものの5分もすると冷え切った生木の床や、吹きっさらしの茶堂を抜けていく夜風に体温を奪われ、寒くて寒くて眠るどころではありません。眠るのはあきらめて、ふたたび夜道にさまよい出ます。
 眠気に加えて、猛烈な空腹感が襲ってきました。最後に食事をとったのはいつだろうと記憶をまさぐれば、昨日の朝9時ごろに道の駅でおむすびを食べたのが最後で、20時間くらい飲み物しかとっていません。
 あと5kmも走れば、この地域では最も大きな街である梼原町の中心部に着きます。夜明け前とはいえ、町役場もあるとこだから、なにかしら食べる物にありつけるはずです。極限の空腹時に無性に恋しくなるのは牛丼でも焼肉でもなく、なぜか日清カップヌードルのプレーン味です。日常生活ではいっさい食べようという気持ちが起こらないのに、ジャーニーランの最中にだけ禁断症状が出るほど欲しくなるのです。
 峠を下り終えると、梼原町の郊外らしきエリアに入りました。コンビニ、コンビニと、夜の町を煌々と照らすお馴染みの看板を待望しましたが見あたりません。そのうち綺麗にブロック舗装された歩道がつづく中心商店街らしき場所に着きました。
 夜明けまぢかの薄紫色した空の下に、街の様子がぼんやり浮かびあがります。歩道には、丸太をログ状に組んだベンチがそこかしこに置かれ、自然石を並べて造った人工の小川がせせらいでいます。道の両側に建ち並ぶ商店や民家のブラウンカラーの板張りの外壁や柱が、和を強調しています。雨樋いや窓サッシの色まで茶色に揃えた徹底ぶりです。住宅の2階や軒下の壁は、漆喰塗りに見せかける効果を狙ってか、オフホワイトに統一されています。高知銀行のATMや、高知の地元スーパーのサニーマートの外壁まで無垢の板張りにしています。「雲の上の町」という魅力的な肩書きで、全国から注目されているだけあります。山林や林業と市民生活とのリンクを官民をあげて表現しているのでしょう。
 その一点の曇りもない街づくりのおかげか、景観を損なう24時間営業のコンビニやコインスナックはついに1軒も現れず、ぼくの空腹は極限にまで達しました。期待した食料にありつけないままオシャレタウンを素通りし、ふたたび何もない山道に突入します。
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 高知県と愛媛県境の高研山トンネルを越えると、森林の風景が徐々に平野化してきます。同時に、真夏の日射しが照りつけてきました。ほんの2時間前まで寒さに凍えていたのに、今度は肌をチリチリと焼く太陽フレアの爆撃です。
 ここいらの用水路はとても特徴的です。山水を田んぼに引き込むために、凹状の水路を張り巡らせているのですが、ふつうは地面よりも低い位置に流すところを、ここでは歩行者からみて腰の位置くらいの高さに水路を築いているんです。走りながらでも手の届くところに、透明な水がさらさらと流れています。山から溢れた直後の水は冷やっこく、手ぬぐいを浸しては絞って首に巻いたり、シャツを脱いで洗います。
 ところが、その透んだ水が、上流から運ばれてきた茶濁した水に侵略されていきます。なんだなんだ、土砂崩れでも起こったか? すると、横幅1メートルほどの水路の真ん中を、バシャバシャと荒々しくかき混ぜながら、何やら生き物が泳いでくるではないか。ぐえっ、食用ガエルが暴れてるのかよっ! さっき顔を洗ったばかりなので気味悪いです。
 そうとうデカいカエルです。さぞかしグロいんだろうな。怖いもの見たさで、つい目線を向けてしまいます。ぼくと併走(併泳)している食用ガエルは・・・こいつはカエルじゃねぇ。全身毛むくじゃら、尖ったピンクの鼻、グローブつけてるみたいにでっかい手もピンク色。こりゃモ、モグラじゃ~。どんないきさつからモグラ君は用水路を泳いで下っているのでしょう。水路に落っこちたマヌケなのか、ある日水泳に目覚めたアスリートなのか。モグラ君は、バタつかせた手足で川底の泥を存分にかき混ぜながら、早い水流に乗って用水路の先へと消えていきました。せっかくの清流はドロドロに濁り、洗顔には不向きとなってしまいました。
 田園地帯を貫く一本道には日陰が乏しく、体温は上昇の一途をたどっています。朝10時にして、道路の気温計には32度と表示されています。暑さと空腹と睡眠不足でもうろうとしていると、視界の奥にゆらゆらとカップヌードルの幻影が見えてきました。いや、こんな真っ昼間から幻覚なんてないでしょ。目の錯覚ではありません。本物の日清カップヌードルの自販機が、田舎道の、周囲にほとんど何にもない道ばたに、ズドンと置かれているのであります。ボタンを押すと熱湯が出て、すぐに食べられるあの自販機です。
 一晩中、凍えながらずっと思い焦がれていたカップヌードル・プレーン味が、前ぶれもなく現れたのです。
 「なんちゅうタイミングなん・・・」
 腹は減ったままなのですが、なんせ気温32度かつ日光直撃のさなかで、あつあつのインスタントラーメンなんて食べる気が起こりません。
 自販機の前で呆然と立ちつくしながら、「あんなに食べたかったんだから、どりあえず買ってみるべきではないか」「でも、いま熱湯スープなんて一口たりとも飲めると思えない」と自問自答を繰り返し、お金を入れずにカップヌードルとどん兵衛のボタンを交互に押したりしながら、結論としては食べるのをあきらめて、その場をさみしく立ち去りました。
 出発から315km。国道320号線経由で宇和島市へ向かう最後の街にあたるのが鬼北町(きほくちょう)です。賑やかな道の駅やスーパーがあります。スーパーではアイス売り場に直行し、ガリガリ君2本、クーリッシュ2個、パピコを買いました。パピコは手ぬぐいにくるみ首に巻きつけます。クーリッシュをリュックの両サイドのボトルホルダーに放り込むと、ちょうど腰の位置に当たって気持ちいい。そして両手に1本ずつガリガリ君を持って、かじりながら走ります。5個のアイスクリーム同時投入で一瞬天国が訪れますが、直射日光の猛威はすざまじく、30分後にリュックから取り出したクーリッシュは熱湯化していました。
 鬼北町市街を抜けると、まもなく森の中の一本道に変わります。ゴールまでラスト10km。最後の10kmくらいちゃんと走り切ってやろうと、猛然とラストスパートをかけました。感覚的にはキロ3分50秒くらいのトップスピードですが、GPSの表示はキロ9分55秒。全速力なのにどうゆうことだ。お店のガラス窓に映った自分のフォームを見て納得します。表情はフルマラソンの最後のトラック勝負みたいに全身全霊っぽいですが、歩幅は30センチもないくらいのヨチヨチ走りになっています。すれ違うツーリングのライダーたちが、不思議なものを見るように視線を向けてくれます。競歩の選手と思われてるのかもなー。
 海辺の宇和島市へと標高を下げていくはずなのに、延々と登り坂が続いています。ほんとに海へと向かっているのか不安になってきます。
 宇和島まで残り6kmになって、やっと峠の頂上にたどり着き、下り坂になりましたが、あたりは山、山、山です。巨大なダム湖のほとりをゆきます。見通しのいい場所から下界を俯瞰すると、標高200m以上の高台にいる様子です。宇和島市・・・どこにあるのでしょう?
 道は、出口の見えない長そうなトンネルに吸い込まれます。半目でうつらうつら居眠りしながらトンネルを走り抜けるやいなや、また別のトンネルの入口がパカッ。このトンネルが終われば、いよいよ宇和島市街が眼下にばぁーっと開けるのかなと期待させますが、外に出たとたん3本目のトンネルに突入。トンネル3本連チャン3kmくらいあるでよ!
 そもそもこの道って一般道? 行き交う自動車は、高速道路並のスピードでビュンビュン飛ばしています。市街地を迂回する自動車道路にでも迷い込んでしまったんじゃないか。とっくに市中心部に到着してるほどの距離を稼いでるのに、いまだぼくは闇の中・・・。
 不安がピークになってきた頃、トンネル出口の開口部がふわぁっと光に包まれ、溢れんばかりの光の奥に、折り重なるように高層ビルの壁面が見えてきました。トンネルの向こうは宇和島市街・・・というよりも、街のど真ん中のJR宇和島駅まであと150mというイリュージョンな場所にトンネルの出口があったのです。全国にさまざま都市あれど、こんな唐突でドラマチックに現れる街があるでしょうか。
 今回の走り旅のゴール地点は、四国の西側の海です。JR宇和島駅から海辺の「宇和島新内港」まで1km。広々とした6車線のメインストリートには南国情緒をかもしだす背丈の高いヤシの木が並んでいます。商店街のアーケードの軒下には、ぼくを行く手の海へと導くように何百という赤や黄色の提灯が吊り下げられています。ぼくの到着を、街をあげて歓迎してくれているかのごとく。翌週に行われる真夏の一大イベント「牛鬼」の装飾とはわかっていますが、勝手に盛り上がっておくとします。
  徳島の吉野川河口から330km。徹夜2泊、宿1泊。ついに四国の反対側の宇和海にたどり着きました。といっても、到着した港は、リアス式海岸をなす宇和島湾の奥の奥。護岸が組まれた港の最奥にあって、猫の額ほどの狭い海面は、海というよりも広めのプールといった感じ。ついに海に着いたぜ!と感慨にふけるような風景ではないのですが、ここで終わりとしておきます。
 あと10kmも西へと向かえば、九州へと続く海原を遠望できる岬の先端まで行けるのでしょうけど、その根性は尽きています。
 やれやれ、やっと終わりました。
 公衆トイレの洗い場で、コソコソ服を脱ぎ、臭っさい体を拭いていると、今まで感じていなかった痛み・・・膝やら肘やら肩やら尻やらがズキンズキンと反乱を始めました。青あざ、すり傷、腫れ物だらけです。主には道路から滑落した時のケガです。タオルが触るだけで傷口にしみてヒィヒィ声をあげずにはいられません。
 トイレを出ると、10センチの段差を越えるのにも苦労するダメージです。走ってるときはこの痛みを封印してたんだな。人間の脳みそって良くできてんなあー。