バカロードその112 真夏の遠い道 広島長崎423km 後編

公開日 2017年11月23日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

(前号まで=「広島長崎リレーマラソン」に単独で出場した。広島に原爆が投下された8月6日午前8時15分と同時刻に原爆ドーム前で黙祷を捧げ、9時にスタートを切る。

そして長崎に原爆が落とされた8月9日午前11時までに爆心地に近い浦上天主堂遺壁付近へゴールし、惨禍のあった時刻11時02分に合わせ黙祷を行う。総距離は423km。制限時間は約74時間。単独走者はアーリースタートを選択でき、正式スタート時刻の9時間前、8月6日午前0時にスタートをしてもよい。この場合、制限時間は約83時間に延長される)

 午前0時のアーリースタートの場合、制限時間の83時間内に4晩を越えなくてはならない。奇跡的にゴールまで達しても(13年間で完走者はたった1名)、道半ばで断念しようとも、4度の夜がやって来るのは同じだ。昼間の気温は35度前後になるので、日中に連続走行するのは困難と思われる。多少なりとも気温の下がる夜間をうまく使えるかが肝となる。
 この大会に、公式エイドや荷物預けはない。必要なものはすべて自分で背負い、調達する。休憩所や仮眠所も設けられてはいない。過去の参加者の記録を読むと、コース沿道にあるスーパー銭湯やマンガ喫茶などで、数時間の仮眠を取りながら進んでいる。主催者が用意してくれたルートマップには、コース沿いの温泉施設やビジネスホテルの情報が詳しく記されている。自分でも調べてみたところ、全コース上に日帰り入浴できる施設は10カ所ほどある。しかし、24時間営業しているのは1カ所のみで、他はすべて深夜11時から翌2時までの間に閉館する。深夜2時以降に睡眠を取るなら、マン喫か、あるいはバス停や駅舎か、奮発してビジネスホテル泊りか、という選択となる。
 スタートからゴールまでに通過する県は、広島、山口、福岡、佐賀、長崎の5県。本州と九州を海底の地下道で結ぶ長さ780mの関門人道トンネルは徒歩で抜けられるが、ゲートが開くのは朝6時から夜10時までと限定されている。したがって夜10時以降に関門海峡に着いてしまうと、そこから先には進めない。朝の6時まで待ちぼうけを食う。
 これら諸条件に自分の能力を加味して、完走するための3条件を洗い出した。
①本州区間の終点である関門人道トンネル(190km地点)を、スタート翌朝の早朝6時~7時に抜けること。つまり190kmのリミットは約30時間。
②九州区間(距離233km)のペースは、仮眠によるロスタイムを含めても時速5kmを下回らないこと。
③スーパー銭湯などを利用しての仮眠は1日1回のみ。各所での滞在は2時間から3時間以内に抑えること。
 かつて錚々たるランナーが打ち砕かれてきたこの道を、ぼくが完走できる確率はゼロパーセントだろう。だけど自分の能力の許す限り、一歩でも前に進みたいと思う。
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 深夜0時スタートにも関わらず気温はムシムシと暑い。そして地図読みの能力が低いために、何度も道に迷っては正規ルートへの遠回りを繰り返す。夜が明けてからは、脳天をカチ割られそうな太陽の熱波に襲われ、たった60kmしか進んでないのに熱中症に陥る。「南無三!」とばかりに小虫に毛虫に蛾が浮かぶ水たまりに飛び込み、ピンチを救われる。
 水場のない峠道を下り終え、いったん国道2号線に出てしまえば、コンビニが4~5kmおきにあり、熱中症の心配はなくなる。コンビニが現れるたびに、大袋入りのクラッシュアイス(1kg)を買い込む。まずは、タオルに氷をくるんで首筋に巻き、頸動脈を冷やす。お次にひっくり返した帽子に10カケラほど入れ、脳天にこんもりと山盛りに。ハンドボトルには詰められるだけ詰めてドリンクを極冷えに。余った残り半分は、ビニル袋のままリュックに入れて背の部分に当てがう。
 どんなに気温が高くて意識もうろうとしていても、こうやって氷で全身を冷やせばたちまち元気を取り戻すから、体温コントロールはホントに大切である。
 山口県周南市のJR戸田駅あたりが100km地点。夕焼けの色も沈んだ午後7時、スタートから100kmに19時間も要したことになる。そのノロノロペースにア然とする。道中サボッていたわけではない。そこそこ懸命に走っていたにも関わらず、結果として時速5kmしか出ていない。どこでどう時間が消えてしまったのか。コースロスしていた1~2時間に加え、氷を補給するたびにコンビニの前でしばらく座り込んでみたり、洗濯タイムと称して公園のトイレで昼寝したりの累積か。
 このころ並走したベテランランナーの方から「この大会では、コースマップに指定された道を忠実に守らなくてもいいんですよ」というお話を聞く。「道がわからなくなったらとりあえず国道2号線に出てみる」「毎年、同じ道ばかり進むのは飽きるから、道をちょこちょこ変えて走っている」といったハウツーも。(なーんだ、道を間違えた地点に戻ろうとジタバタしていた自分はおバカさんだったのね)と無駄な努力に費やした時間を惜しむとともに、脱力した心境になる。
 すると心にムクムクと邪念が生じる。(あんまし足も動かないし、眠くなってきたし、ここはひとつ一晩きちんと睡眠を取り、心と身体をリセットしてはどうだろう)というもっともらしいサボり案を思いつき、114km地点である防府駅前のスーパーホテルを即座に予約する。3800円で温泉と朝食つきというお得な値段。
 22時30分頃、ホテルにチェックインする。服を着たまま冷水シャワーを浴びつつシャンプーで同時に洗濯する荒業により睡眠時間を1分でも長く確保。ベッドに横たわり、発泡酒をプシュッと空けると、テレビでは世界陸上の女子マラソンのライブ放送中。先頭集団に食らいつこうとしない日本代表選手に対して「何のために代表になったんだ! 潰れてもいいからトップを目指すべきだろう!」とハッパをかける。しかし、かくいうわたくしは歩くより遅いペースで一日を過ごし、徹夜ランを放棄してぬくぬくとベッドに横たわり、淡麗〈生〉でよい気分。女子選手の皆さん、すみません。
 目覚まし時計を午前3時にセットし「明日は絶対に関門海峡まで行くぞ、オー!」と誓って眠りに落ちる。ところが目が覚めると夜はとうに明け、時計は午前6時を示している。ちょうど朝食バイキングのはじまる時間で、どうせ寝坊したなら朝メシもいただこうと食事会場へ。バイキングのおかわりを3回転する。足はダメだが食欲は旺盛なのだ。
 朝7時30分に遅い出発をする。防府市から山口市までの20kmほどはキロ6分台で遅れを取り戻そうと奮闘するが、暑くなるとまたバテバテになり、よちよち走りのペースに戻る。
 もはやコース上で大会参加者の誰とも会わない。ホテルで寝ている間に、単独走ランナーだけでなく、9時間遅れで出発した全リレーチームに置き去りにされたのだろう。ダントツのビリに違いない。(どうせこんなに遅いのなら、ジャーニーランを楽しめばいいさ)という悪魔のささやきが聞こえてくると、その意識をぬぐい去ろうとしても速いペースに戻せない。
 主催者が配布してくれたマップには、赤線と緑線で指定された何本かの道がある。赤線は基本となる推奨コースだが、複数描かれた緑線の道には、過去からのいわれのある旧街道や史跡が点在している。そんな旧街道沿いの街々には、いま生活している住民たちの匂いが溢れている。
 たとえば、JR厚狭駅前(山口県山陽小野田市・160km地点)の古い商店街では、正面から夕陽が差すなかを、嬌声をあげて道をゆく少年たちの服が白ランニングに短パン姿であったりして、昭和の中期頃にタイムスリップしたかのような不思議な感覚に包まれた。
 あるいは宇部市の郊外では、平凡な平屋の民家の駐車場に、レクサスやベンツ、BMWなどの高級車が停まっていることが多く、原油や鉄鋼に比べてセメント産業は安定的に儲かるのかなあ、などと思いを巡らせたりする。
 そうです。気分はとうにレースモードを失い、走り旅を楽しむ熟年ランナーと化してしまっているのです。
 昨晩、発泡酒を飲みながら発案した「明日中に関門海峡を越える」という目標は霧散し、(無理すれば関門トンネルには夜10時までに着くけど、深夜に大都会の北九州市街に入っても寝る場所に困るだろうし、ここはひとつ一晩きちんと睡眠を取り、あえて体力を温存してはどうだろう。どうせ明日から九州に入れば、本気を出す予定なんだから)ともっともな言い訳を編み出す。自分をより楽な道へと誘う理屈は、湯水のごとく湧きだすのである。
 JR長府駅(182km地点)を過ぎた所にあるホテルAZ山口下関店に着いたのは22時過ぎ。朝食つき4800円なり。チェックインをしながら「明日こそ3時起きで頑張るぞ」と決意を強くしていたら、カウンターのお姉さんが「実は、本日は大学生のお客様が多くて、明日の朝食に混雑が予想されるので、食事のスタートを6時に早めさせていただきます」と案内してくれる。
 その言葉に素直に従い、翌朝もまた早起きすることはなく、きっちり朝食バイキングをとり、日が高くなってから出発する。神戸製鋼の大工場地帯の脇を、出勤する作業着やスーツ姿の人びとの合間を縫って走る。工場群を抜けると海辺に出る。狭い水路の反対側の陸地は、ようやっと九州なのだ。正面に関門橋の威容が迫ってくる。走りだして3日目の朝8時30分、関門海峡の地下トンネルをくぐり抜け、九州に上陸する。
 山腹にへばりつくように築かれた門司の古い街並み。斜面を削り取って街を造っているためか、歩道もひどく斜めになっていて着地のたびに足首が痛い。高い煙突やサイロ、道路と工場を隔てる長いコンクリブロックの壁が連なる。小学生の頃、社会科で習った北九州工業地帯ってあたりに入ってきたのかな。
 高層ビルが林立する小倉駅前の大都会ぶりは圧巻だが、都市エリアを抜ければ再び古い街並みに変わる。薄暗い照明の酒屋さんにはカウンターがしつけられ、100円でコップ酒が飲めるようだ。まだ昼前というのに、堂々と営業中である。古い商店街から脇へと伸びる小路には、このような立ち飲み屋があちこちにある。新日鐵住金はじめ世界に名だたる製鉄工場が湾岸に居並ぶこの街ならではの原風景だ。工場の夜勤を終え、駆けつけで一杯やる「クイッー」は、さぞかし労働者の心を癒やすことだろう。
 本日も灼熱びよりが一層増し、陽射しが肌に照りつけて痛い。クラッシュアイスを首筋や帽子に投入しても、すぐに溶けてなくなってしまう。
 JR八幡駅前(214km地点)のロータリーで路上に座り込み、天を仰いでグロッキーになっていたら、散歩していたトラ猫が5メートルくらい離れた所で止まり、興味深げにじーっと見つめている。手招きすると近寄ってきたので、そのまましばらく猫とじゃれあっているうちに戦意が萎んでくる。
 八幡駅から3km先のJR黒崎駅前は、とても興味深い街である。地図を俯瞰すれば駅前から180度の角度に12本もの道路が放射状に配されていて、横道が蜘蛛の糸のように張られている。そのうち何本かの細道にはガールズパブにピンサロにソープにと風俗店が軒を連ねている。いかにも風俗街と思わせながらも、いかがわしいピンク色の看板の間に間には、一般のご家庭人が暮らすマンションが建ち、下校中の小学生たちが闊歩している。ううむ、このような混沌とした場所で幼少期を過ごせば、精神面のバランスが良い大人へと成長するのであろうな。ブレードランナー的世界観の街にはぜひ一泊して後学を深めたい所だが、広島長崎リレーマラソンの主旨に合わないのは明白。後ろ髪を引かれつつ離脱する。
 夜21時30分頃、福岡県直方市の街にさしかかった辺りで、夜道に燦然と輝くホテルAZ直方店のエントランスへと吸い寄せられてしまう。九州で有名なホテルチェーンの「ホテルAZ」は、どんな田舎町の郊外にも必ず1軒はある。店舗の壁にはカラフルな虹の模様が描かれていて「ご休憩しなさい」と旅人を甘く誘ってくるのだ。実に目の毒である。来年からは目をそらして前を通過しよう。ビジネスホテル3泊目である。
 翌朝、ホテルからJR直方駅(232km地点)まで走り、「広島長崎リレーマラソン」のランを終える。参加ランナーは、本日の午前11時までに長崎市の浦上天主堂遺壁に集合するのが、この大会「唯一最大」と言っていいルールなのだ。その時刻に間に合う電車に乗らなくてはならない。
 JR直方駅から長崎駅へと電車移動する。博多駅で乗り換えると、セレモニーのある長崎市への特急電車は満席で、通路や連結部分まで立錐の余地なく、トイレ横の壁にへばりついて2時間近くを過ごす。
 長崎駅前に降り立つと、原爆落下中心地へと向かう凄い数の人の波に圧倒される。数百台の自転車に乗った子供たち、練り歩くデモ団体のシュプレヒコール、拡声器からは政治団体の手前勝手な主張・・・。広島長崎リレーマラソンの諸先輩方の集団とは自然と合流できた。大半のランナー方もまた、午前11時に合わせて423kmをリレー形式で走り続けてきたのだ。
 結局、ぼく自身は全行程の半分程度の232kmしか走れず、広島市を発ってからビジネスホテルに3連泊という、現世にただれた走り旅をやらかしてしまった。必死の思いを携えてこの地にやって来たわけではないのだが、最後の2kmでは、大きな人の渦がつくるエネルギーの塊に運ばれるような、不思議な感覚を味った。自分の足でここまで来られたら、この感覚はずいぶん違ったものになっただろう。

【今回の反省点と来年の再チャレンジに向けてのメモ】
・道に迷ったら、元いた場所に戻ろうとジタバタするのはやめ、方角優先で突破する。
・赤信号の待ち時間の多い国道より、旧街道や裏道を選択した方がよい。
・背中が熱くなりすぎるリュックはやめ、荷物を削ってウエストバッグにする。
・コース一帯のコンビニで売っている竹下製菓(佐賀県)製のアイスは秀逸。特に「ミルクック100円」と「おゴリまっせ70円」は来年も大量投入したい。