ガキ戦争

公開日 2006年11月10日

文責=坂東良晃(タウトク編集人)

インドではガキがチャイを売り
カンボジアではガキが赤土を耕し
シエラレオネではガキが戦場に立つ
どんな環境でもガキはしぶとく生きるのだ

いろいろなところで、いろいろな人たちが崩壊している。
ある小学校の校長先生と話をする機会があった。彼は渋面である。
「テレビなんかでは学級崩壊とよく言われますが、今は子どもさんより保護者の方がねぇ。授業参観にいらしても、授業をじっと見ることができず、廊下で大声でしゃべったり携帯電話で話したりメールしたり。私は保護者の方に、(授業をちゃんと見てあげてください)と頼んで回る役目なんですよ」
小1シンドロームなんてのも耳にするようになった。小学校に入学直後の子どもが、授業のある1時間ちゃんと座っていることができない。立ってウロウロしたり、机の上を跳ねまわったり・・・という例の現象である。
幼稚園の自由保育がつるしあげられたり、親とのコミュニケーション不足や過保護が原因とされる。お決まりの論調だ。

社会を揺るがす大問題のように語られる学校教育の今だが、ぼくたちそんなに秩序正しい学校社会を生きてきたっけ?
ぼくが小学校に通っていたのは30年くらい前だ。
授業中、きちんと座って先生の話を聞いてるヤツなんてそんなにたくさんいなかった。
騒ぐヤツ、ヨダレたらして寝てるヤツ、鼻くそほじくってるヤツ、ちんこ出してるヤツ。そんなんばかりだ。
ガキってのは基本バカなんである。
バカに対して、礼儀正しい立ち居振る舞いを期待する方がおかしい。
猛獣使いのような先生が、恐怖政治でもって一時的に生徒を着座させることができても、その反動が必ず別の場所で出てしまう。
休み時間や放課後に、イタズラやいじめとなって噴き出す。
ヘビを捕まえたら歩道橋の上から車の荷台に投げつけ、猫がいたらケツの穴にロケット花火を刺す。カマキリのカマをちぎり、トンボの頭をむしる。それが伝統的なニッポンのフリーダムなクソガキのあり方だ。
動物本来がもっている残虐性は、人間にだってある。それを自由に吐き出せるのは、幼年期しかいない。
しかし今じゃ、学校の周りをウロウロする頓馬なヘビやカマキリはいない。
暴力性を吐き出す方向が、きわめて限定的になってしまっている。

子どもという生き物のタチの悪さを、ぼくは身をもって体験した。
小学校のころ、それはそれは大いなる悪意に何年間もさらされたのだ。
ぼくは小さな商店街のある小さな町で生まれたのだが、小1のときさらに田舎の小学校に転校した。なだらかな山と、メダカが泳ぐ用水路と、稲穂揺れる田園にかこまれたのんびりとした町。都会生活に疲れた人が見たら、第二の人生の終の棲家に考えたくなるような場所。
ところが、転校先のガキたちはとんでもない閉鎖性を秘めていた。
何事にもきっかけというものがある。出だしからぼくは失敗をやらかしたのだ。
ぼくと彼らとの間には、保育園のカリキュラムに差があった。
ぼくには小1の教科書が簡単に思えた。自分が先に進んでいることをすぐに自覚した。
先生の質問に一人手をあげ、答えた。おそらく自信満々に、そしてスノッブに。
ぼくは気分をよくしたが、彼らにはスタンドプレーに映った。
次の日から、変化が起こった。
机に鼻クソがすりつけられている。
新しい消しゴムが真っ二つ。
筆バコの中でミミズがうごめく。
だんだんエスカレートしてくる。
机からは腐ったチーズが登場。
イスにびっしょり小便がかけられている。
ランドセルの中から腐った匂いの雑巾が出てくる。
大便用のトイレの上からバケツの水が降りかかる。
背後から野球ボールが顔面に投げつけられる。
当時は「いじめ」という言葉がなかった。自分の身の上になにが起こったのかわからなかった。
それまでの短い人生で、周囲からこのような圧力を受けたことはなかった。
ぼくはこの場所では異物なのだと認識せざるをえなかった。
田舎の人づきあいは狭い。学級全員が幼児の頃からの幼なじみなのである。
そんな小さなコミューンに、自分ははじめて侵入してきた異物だったわけだ。
異物は排除する、それは人間が得意とする所作である。
幼い頃は運動能力が低く、まわれ右や足踏み行進すらできなかったぼくに、反撃の機会はなかった。
だが、支配する側とされる側の仕組みを勉強するチャンスが与えられた。

暴力はおさまることなく何年間かつづいたが、いろんなことに気がついた。
このようなヒドい目にあっているのは、どうやら自分だけではない。
知的に問題のある子ども、運動ができない子ども、家が裕福でなく学生服を洗ってない子ども、それらの「弱者」は、やはり同じような目にあわされている。
ガキの集団は、単純な論理に支配されている。体力があるか、頭がいいか、金持ちか。その3つのうちのいずれかの要素を持てば、悪意には支配されないのである。
いじめる側の中心人物は常にクラスのヒーローであり、先生のウケもいい。女子にもモテモテだ。
彼らは智謀を駆使し、その正体を大人には見せない。とても賢いのである。
いじめにはブームがあることにも気がついた。
ある時期、誰かを集中的にいじめると、ターゲットは変更される。ぼくはそれを「嵐」と名づけた。耐え切れば、「嵐」はいつか弱風になる。いじめる方も飽きてくるのだ。カタルシスを感じないと、いじめている理由がない。
ぼくはてっとり早く体を鍛えることにした。
「月刊ゴング」という雑誌に、プロレスの神様カール・ゴッチの身体のトレーニング方法のレポートがあった。
カール・ゴッチは、ウエイトトレーニングは行わない。自身の体重を利用して鍛錬するのだ、という記事。本当に強くなるためにマシンはいらない、自分の体を自由にあやつれるようになるべきだと神様は語る。
それ以来、毎日ヒンズースクワットを300回した。木があれば枝に飛びつき、懸垂をした。
上級生になると、腹筋が割れはじめ、上腕二等筋が盛り上がった。
「2」だった通信簿の体育が「5」になった。リレーの選手になった。それだけのことで、いじめの対象から外れた。
簡単な論理に気づき、それに対処した。それだけのことで地獄から脱出できる。貴重な学習であった。

中学校になるといじめとは違うバイオレンスが待ちかまえていた。
ぼくは野球部員だったが、野球部の部室は暴力の巣窟であった。
相手は顔中に硬いヒゲを生やした男性ホルモン全開のヤンキーの先輩たちだ。
暴力に理屈もへったくれもなかった。
練習後は必ず呼び出しをくらい、先輩5人くらいに囲まれ、壁に押さえつけられる。
陸上競技用のスパイクで顔面を殴られる。顔面に穴があく。
空気銃で太ももや尻を撃たれる。撃たれたところは腫れ上がり、ドス黒く内出血する。
野球のバットにまたがらされ、両方から持ち上げられる。股間を激しく打たれると、うめき声も出せない。
拷問さながらの暴力であったが、小学生の悪意に比べると、大したことないと思えた。
痛がると相手は悦ぶのである。だからぼくは、苦痛を表現しない。それは小学生の頃に学んだ防衛方法だ。
どんな攻撃にも、涼しい顔をしていると相手はつまらなくなる。そして暴力は収まる。
これは喧嘩をするときの鉄則でもある。
苦しむほど、相手は悦ぶ。苦しまないと、相手はひるむ。この論理も単純だ。

中学校でも、凶暴な先輩ほど人気があった。
強い者は人望を集め、舎弟をひきつれる。強い者は、(外見が)いい女とつきあえる。単純だ。
要するにヤクザ屋さんと同じ力の論理が、子どもの集団も支配しているのだ。
極端に荒れた中学校ではなかったが、当時の世間標準並みには問題を抱えていた。
マワしの噂は絶えず、タチの悪い大人の仲介で大阪の風俗店に働きにいく女子もいた。夏休み明けには、お決まりの売春、妊娠、中絶。平成の今のように、ガキは生きるのがうまくなかった。
同級生の男子のうち何人かが、風俗通いをはじめた。
最初は地元のチンピラの兄さんがつれていってくれる。そしてなじみの店をつくり、自分たちででかけていく。
ちんげも生えそろっていないのに、小人料金を払って汽車に乗り、1時間かけて徳島市の風俗街に遠征にいくのだ。
凱旋した彼らは、プロのおねえさんがいかに優しく素晴らしいサービスをしてくれたかという話を、滔々と吟じる。
その講談を、田舎の童貞どもがコーフンキミに聞き入る。風俗軍団は最強ヒーローだ。
中学生の分際でパンパン通りとやらに風俗通いするのも、それをもてはやすのもバカの極みである。
だが仕方がない。ぼくたちガキは元からバカなんである。

世の中ずいぶんスマートになった。
このごろは暴走族もちゃんと左側走行し、交通ルールを7割くらいは守っている。
路上で血まみれの殴り合いなどめったに見なくなった。
女子高生の大半がミニスカートで街を歩き、強姦や殺人が頻発しない国はあまりないだろう。
昔に比べたら、ホントみんなおとなしくなった。健全な社会になったのだ。
「キレる子ども」なんてのが問題視されてるが、子どもってのは元からブチキレてるもんだ。
ガキは、ガキたちの小さな世界で悪どいことも非人道的なこともやっている。
そして傷ついたり傷つけたり、差別したりされたりしながら、社会に出る準備をする。
学校のいじめっ子より遥かに頭が良くてタチの悪い連中が、社会にはウヨウヨしている。
ガキのときに鍛えられてないと、社会に出て自力で渉りあっていけない。

ぼくの脳みそは、今でもガキの頃と同じ宇宙にいる。
お金もうけを考えたり、偽善を吐いたり、仮想敵を作ったり、人を裏切ったり、嘘で説得したりする。
どうにか隙間をぬって生きる方法を探しながら、ゴキブリのように這いまわる。
権力と多数意見を前にした人間の愚かさ、暴力的なプレッシャーへの対処、マイナスの局面をプラスに変える方法。
ぜんぶガキの頃に学んだことが生きている。
だれもが正義では生きていない。
人間という利己的な個を組み合わせ、ポジティブな集団に変えるマジックがある。
その難問の答えを出すのは、どんなロールプレイングゲームより楽しい。ガキの頃から解き続けてる最上級のクイズだ。
ガキの時代、「嵐」にさらされなかったら、脳みそはぷるんぷるんのプリン化してるだろう。

だから、いじめられ中の諸君、ヤツらに授業料を払ってやれ。仕返しはボチボチやるってことで!