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2010年12月

  • バカロードその20 北米大陸横断レースへの道 その1 バカの海馬が大騒ぎ
    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

     ある思いつきに捕らわれると夜も眠れなくなるほど興奮し、自制が効かなくなる。日々まっとうな生活を送り、畳の上か病院の大部屋で穏やかに息絶える人生でいいではないかと思い、大方の場面ではそのように振る舞ってはいるものの、ときどき全部を御破算にしたくなる。見返りのない破滅志向はバカの極み。昔の人は「バカは死ななきゃ治らない」と言ったが、バカの気配は死をもって対抗しなくてはならないほど強大なのか。
     バカといえば、枝ぶりの良い高い木が目に止まると、登りたいという衝動を抑えられなくなり、こっそり木登りをしている。四十も過ぎて木登りしている男となれば相当な不審人物であり、いつ近隣住民に通報されパトカーに取り囲まれるか知れたものではない。テレビの番組改編期によくやっている衝撃映像集で、煙突や電柱にハダカで登って降りられなくなっているバカな男が写し出され雛壇タレントが突っ込みを入れているが、ぼくは自分自身を見るようで胸が痛む。「バカと煙は高い所に登りたがる」、ここにもバカの慣用句が登場だ。昔の人はみな落語家のような粋な例えをするものである。
     バカの語源は英語の「vagabond」であり、放浪者やら自由人を指す言葉だから実はバカって格好いいんだと自画自賛したり、いやいやサンスクリット語の「婆伽梵」こそが語源でお釈迦様を指す崇高なる存在なのだなどと自分を持ち上げたりする。それもまたバカの証明。
     高校生の頃、ザ・ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」の映像を繰り返し観ていた。何もない岩の上で太陽を見つめるポール・マッカートニー。毎日丘のうえで笑っている男はバカと思われ誰からも相手にされてないけど、地平線に沈む太陽を見る彼は、世界がぐるぐる回転してることをわかってる・・・ってアンチ天動説な物語。
     これから社会に出て労働者として活躍しなくてはならない高校生の分際で、憧れの対象はサイケデリックでヒッピーカルチャーでデカダンス。こりゃムリだ、資本主義の世界で活躍するのは。・・・と秘かに悩むトロツキスト高校生。
     「大陸を横断する」という夢想に囚われだしたのは30年近い昔。全大陸を自分の脚で横断する・・・その最初のリングがアフリカ大陸横断。1997年に横断を果たし、帰国後日本で少し静養し、すぐ南米大陸の横断に挑むはずだった。しかし二十歳のぼくはアフリカの人びとの生き方に強い影響を受け、日本で実直に生きる道を選んだ。それから20年を経て、齢四十歳を迎えるとバカの虫がふたたび騒ぎだした。平均寿命までの折り返し点ともいえる年齢に達すると、「アレやらないままに死んでもいいのかい?」と焦燥感に苛まれるようになった。尾崎世代のぼくたちは自問自答が大好きなのだ。要するに滑稽。ジャックナイフ時代の千原兄弟「尾崎豊部」のネタに「俺は俺で、お前は俺かい?」というセリフがあるが、尾崎フリークは生涯そんな滑稽を生きている。自問自答するが到達点は見えない。
     中年になって蘇ったバカの衝動、自分でコントロールできるはずもない。
     アメリカ合衆国の西海岸から東海岸まで約5000キロを走る大陸横断レースというものが存在することは薄ボンヤリと知っていた。全大陸横断行の再スタートの場として北米大陸横断レースの出場を考えた。だが、毎年行われていると思いこんでいたこの大会は、7年前・・・2004年を最後に開かれなくなっていた。調べると、北米大陸横断レース自体がこの100年間で8回しか開かれていない希有な存在であるとわかった。
     ならば自分1人で実行するしかない。そう決意し、この数カ月はカメリカ合衆国の道路地図を買いあさり、食糧や水の補給が可能なルート、街を調べていた。
     ところが、だ。偶然なのか運命なのか。スパルタスロンの選手送迎バスでたまたま隣に座った方が「来年、北米横断レースがある」と言いだすから夢を見ている気がした。まさか、このタイミングでレースが復活だなんて! この情報を教えてくれたランナー・越田信さん自身、9年前の伝説的なレース「ラン・アクロス・アメリカ」で北米横断を果たした人物であった。
      
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     北米大陸横断レースは、古いものでは1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
     この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、今でも異彩を放っている。要因は、主催者であるチャールズ・C・パイルという人物にある。当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者でとして隆盛を極めていた彼。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
     そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507キロを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかなイベントとなった。
     毎日ランナーは決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。推定するに現在であれば3億円ほどの賞金を優勝者に授与したのである。
     ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊をし、テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて興行収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
     さて肝心の大陸横断レースには199人のランナーが参加し、スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
     イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施すると、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
     パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマ
    ンがディレクションし、舞台で演じられた。

     公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在まで82年間でたったの8回しか行われていない。
     「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランス・アメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700キロを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
     第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
     第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走、記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガー、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり、後方から資金面を支えた。
     第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、宮古島遠足やさくら道遠足などのウルトラレースを運営、多くのウルトラランナーを支援している。この大会は、NHKの手で「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な取材であり、大会の存在が広く一般に知られるきっかけとなった。
     「トランス・アメリカ」最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
     21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8キロを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人は堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
     90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランス・ヨーロッパ」「スパルタスロン」では、参加数だけでなく優勝者を輩出するなど超長距離への対応と強さも発揮している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。しかし、この大会を最後に以後7年間、北米横断レースを企画する者は現れなかった。

     そして今回のビッグニュースである。7年の時を経て、北米大陸横断レースが開催されるのだ。
     2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月25日にニューヨークにゴールする「LA-NY footrace」。大陸東西約5000キロを68日かけて横断する。1日平均70キロ以上の行程である。
     企画したのはフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏。彼は伝説中の伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4600キロを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3750キロ、2001年南米大陸5200キロ、2003年アフリカ大陸8300キロ、そして2005年にはユーラシア大陸1万9000キロを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
     さてさて、どうしよう。こんなチャンス、2度と巡ってはこないだろう。82年間で8度目ってことは10年に1度あるかないか。自分が70歳まで生きていたとしても、あと2度か3度出くわせればよい確率だ。そんなもん、ないに等しい。
     単独行なら時間の制約はない。だがレースゆえに毎日・・・つまり68回にわたる時間制限=関門がある。ぼく程度のランナーが完走できるレベルの大会ではないことはわかっている。しかし判断に理性のブレーキがかかるはずもない。なんたってぼくはバカなんである。「ゴチャゴチャ言わんとさっさとエントリーしろ!」と海馬がスネアドラムを叩き続ける。ぼくの大脳辺縁系は、佐山サトルと前田日明が暴れていた頃の新日本プロレス道場だ。狂気と正常の境目は限りなく曖昧で、殺伐と愛情と悪戯が混在する。
     さあ行こう、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが明日なき疾走をした道を駆け上がり、モヒカン頭のデ・ニーロが黄色いタクシー流してたあの街へ。

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    【北米大陸横断レースの歴史】
    1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
    1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
    1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
    1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
    1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
    1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
    2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
    2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
    2011年 LA-NY footrace

    現在までにレースを完走したランナーの人数はのべ122名、日本人はわずか15名である。
    上記記録は参加3名以上の公募レースに限る。
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