巡礼者との旅 後編

公開日 2007年06月23日

pakistan(前編のお話)世界じゅうの旅人がイランを目指していた。高騰する闇両替相場は、最高級ホテルの宿泊費を1泊500円にまで価値を下げた。旅人たちは「テヘランのヒルトンホテルで再会しよう」を別れの言葉とし、地の果てにパラダイスがあると信じ、ひもじい旅に耐えた。そしてぼくは豪雪のトルコ国境からイランに足を踏み入れたのだったのだったのだ。
文責=坂東良晃(タウトク編集人)
 イランのあちこちの村で、ぼくは「アヒョー」と奇声を発しながら暴れ回っていた。といっても、どこかの悪漢と戦っているわけではない。子どもたちのリクエストに応じているのである。
 砂嵐のなかから突如現れた黒髪の東洋人に大コーフンした子どもちは、必ず「ブルース・リーやってやって」と激しくせがむのだ。ならばと下段回し蹴りからハイキックの二段蹴り、そして旋風開脚ローリングソバットという大技を繰り出せば、おおいに盛り上がる。さらに野次馬客からひとり生けにえを選び、四の字固めや猪木ばりの卍固めをかける。金縛りにあったかのような東洋の神秘的魔術(プロレス技だけど)に見まわれると、「この男、ただ者ではない」と畏敬の視線が集まる。
 このカラテショウはたいした盛況ぶりで、常に何十人もの村人に取り囲まれやんやの声援をおくられる。演武をしているうち観客の目に「もっと見たい、もっとすごい技はないのか」と期待の炎が点る。 ぼくは悩む。高校の格闘研究会でやってたタイガーマスクの真似事では、収拾がつかなくなってきたのだ。
 カラテショウに新たなエッセンスを加えられないかと、思いをめぐらせ街をほっつき歩いていると、商店の軒先にぶら下がったヌンチャクが目に飛び込む。値段は100円ほど。「ちょっと試しに」と店の前でブンブン振り回していると、わんさか人が集まってきた。得意の「アチョ〜」の雄叫びを入れてみると、割れんばかりの歓声と拍手。これだこれだ、求めていたのわー!
 それから村に着くたびに、ヌンチャク芸を披露することと。乾いた空気を切り裂き、宙に踊るこん棒。トドメの一発をお見舞いして、キメのポーズをとる。見物しているお客さんがどんどんお金をくれる。「お金いらない、ただ見せてるだけ! これはぼくの趣味でありサービスです!」と大声で断わっても、「おもしろかったよ、とっておけよ若者よ」と返却拒否なのである。
 イランで放擲しまくるはずが、豊かさとは縁遠い村人たちからお金を集めてしまってどーすんだ!と自分自身を責める。
 日々お金は集まるのに、使い道はない。旅の連れであるパキスタン人の巡礼者一行は、ぼくに一銭のお金も使わせようともしない。食事を分け与え、乗り物代を出してくれる。遠慮しても断っても、まったく受け入れようとしない。そしてイランの人びとも、若い旅人であるぼくに食物と寝る場所を寄進してくれる。彼らは、自分より貧しい(と思われる)相手には決して金を払わせない。分け与え、奉仕する、そういう精神が全身に染みついているのである。

 この旅のハイライトが近づいている。
 公定レートの20倍もの闇両替で手にしたイラン・リアルの札束で、首都テヘランで思いぞんぶん贅の限りを尽くすのだ。快楽、放蕩、堕落、デカダンス。そんな魅惑の言葉がアタマを駆けめぐる。五つ星ホテルの高層階、給仕が注ぐ豊潤なグラスワインとフルコース、そしてフカフカのベッドで大の字に寝っ転びながら、夜景を絨毯に絶世の美女と・・・生唾を飲み込む。
 巡礼者を乗せた乗り合いバスは、騒音けたたましいテヘランのバスターミナルに滑り込む。タイミングだ、タイミングが重用なのだ。この街に何か重要な用件があるように匂わせて、親切なパキスタン人たちから一気に離脱するのだ。
 バスがプラットホームに着くやいなや、ぼくはイの一番にザックを棚から下ろし、「じゃあこの辺で」と別れを告げる・・・告げるはずだったその寸前、巡礼者のリーダーはこう言い放つ。
 「兄弟、テヘランは巨大な都会だけどアセる心配はないぜ。俺たちの知り合いの所で寝泊まりできる。オマエはついてくればいいだけだ」。そしてガッチリと腕を取られる。ああ、逃げ出せなかった。こんな貧しい旅をしている彼らにさんざお金を払わせて、今さら「ぜいたくな生活を満喫したいからテヘランまでやって来た。ここからは別行動でお願いします」なんて切り出せない。
 長い距離を歩いて到着したのは、巡礼者が泊まる簡易宿泊所であった。建物の地下にある穴蔵のような場所に荷物をおろす。壁も床もむき出しの土。荒いワラで編んだムシロが敷かれている。ボーゼンと立ちつくすぼくに巡礼者たちは「お金の心配はご無用だ。ここは無料さ」と励ましの声をかける。高級リゾートホテルで豪遊計画は、何の因果か真っ暗闇の巡礼者宿。こそこそと抜け出そうとすると「兄弟、どこいくんだ? 食事ならいっしょに行くぜ」。そして、またもや施しを受ける。晩ごはんはフレンチ・フルコースではなく、むろん庶民食堂のシシカバブーである。
 イランには桃源郷がある、そう信じて旅を続けてきた。しかし、今ぼくは首都テヘランのどこの場所にあるとも知れぬ安宿の、さらに地下にある土ムシロの上で、一滴のぶどう酒を口にすることもなく、爆発寸前の欲望を抱えてらんらんとしたマナコで天井を見上げているのだ。

 三千キロもの長い距離を、こうやって巡礼者たちと旅した。
 砂礫と、岩山と、道。どこまでいっても変わらない風景。太陽がぐるっと天空を半周するあいだ、空が砂が接する境界の方に向かって、彼らは1日5度の祈りを捧げる。
 宿場町もない砂漠の真ん中で、ときおりバスが停まると、乗客たちが四方へと散っていく。そのさまは熱砂の風に吹かれるうぶ毛の生えた種子だ。民族衣装の上着のすそをそのままに、彼らは砂漠のアチコチにしゃがみこむ。最初は祈っているのかと思った。しかしその敬虔さは感じない。もっと人間的な、安堵の匂い。ふだんは対立している厳しい自然と人間がなんとなく調和しあった関係。つまり彼らは、しゃがんで用を足しているのだ。イスラムの男たちは夕陽に染まる紅色の世界を、タンポポの種のようにゆらゆらと歩き、乾いた砂にわずかな湿り気を与えるのだ。

 イランの旅を終え、パキスタンに入り、ぼくは相変わらず街角で大道芸カラテショウをやって見せ、いくばくかの収入を得ながら、衣食住のすべてを巡礼者の財布に頼って旅をつづけた。パキスタンとインドの国境近くの大きな工業都市ラホールが、彼らとの別れの街だった、
 巡礼者のリーダーであるチェ・ケバラ似の男前氏は、「オマエに見せたいものがある」と、迎えにきた欧州車に乗りこむ。ピカピカに磨かれたツヤのあるボディの高級輸入車・・・ん?
 野球場ほどの前庭を構える工場群を、車は猛スピードで進む。やがてひときわ立派な工場の門をくぐる。「私のファクトリーを見てくれたまえ」と述べる彼の顔はキリリと引き締まり、長く旅をともにしてきた土くれにまみれの巡礼者のものではない。油断のない笑顔をたたえたビジネスマンの顔である。工場に足を踏み入れると、巨大な印刷輪転機がうなりをあげ、制服をまとった従業員たちがキビキビと働いている。
 (こりゃ、もしかして?)とアセる。
 1カ月間、ともに砂漠で砂まみれになり、虫食いの毛布にくるまり、ムシロのうえで雑魚寝した巡礼男は、巨大な印刷設備をもつ印刷会社の御曹司だったのだ。彼は語りを止めない。「君はゆくゆくは本を出版する会社をしたいと言っていたね。君がいつか日本で大きな会社をつくったら、私の印刷所に発注してくれたまえ。もちろん安くしておくよ。日本に帰ったら安くインクを仕入れられる会社を調べてくれないか、日本のインクは品質がよくてね・・・」
 そうなのだ。彼は大金持ちだったのだ。一生に一度のメッカへの巡礼を極めて質素に、そして貧しき者に施すことを務めとし、いっときの貧者を装っていたのだ。
 「あひゃー!ほんなら気にせんとテヘランで豪遊したいってゆーたらよかった!!」というぼくの心の叫びは、印刷機の轟音にかき消されてゆくのだった。