バカロードその169 アフリカ幻影編7「まほろしマボロシ」

公開日 2024年01月04日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。赤道直下の約五千三百キロを踏破し、残り二百キロを切った。ゴールとなる大西洋岸の都市ドアラを目前にし、ぼくは旅の意味を見失っていた)

 ドアラまで百二十キロ。
 熱く焼けただれたアスファルトが、シューズのゴム底を溶かす。右足の靴底に穴があいてしまう。五千四百キロ、この一足でよく耐えたものだ。
 汗があごの先から滴る。落ちる汗の数を千滴かぞえると、水を補給する。サバンナの涸れ沢の底にたまった泥水だ。いくら飲んでも、もう腹は痛まないし、下痢にもならない。
 ずっと、この汗に意味があると信じてきた。球児が無心に白球を追いかける。そこにこそ意味があると説く大人たちのようにだ。しかし、それは精神的な未成熟さを、求道的行為でチャラ(合理化)にする、子供じみた行動のように思える。
 村がないので、今夜は野営する。
 ツェルト(簡易テント)の周りじゅうアリだらけ。侵入してきたのをプチプチ潰す。
 風が強い。ツェルトの緑色の壁が大きく波打つ。  通気口から雪崩れ込んだ空気の塊がローソクの火を乱す。  目を閉じても、光の揺らぎが見える。
 朝まで何時間あるのだろうか。眠れないまま、朝を迎えそうだ。
              □
 日本を発ったのが遠い遠い昔みたいな気がする。
 東京では、一日をなんとか乗り越えるので精いっぱいだった。目の前の山盛りの仕事を片づける、それだけで一生を終えてしまいそうだった。
 「時間に追いつかない。助けてほしい」と繰り返し、精神の迷路に入った友がいた。時間は、どんどん足早に逃げ去ろうとする。パソコンのキーボードを高速で叩くように、地下鉄の階段を駆け下りるように、時間は刻々と背中を撫でて通り過ぎていく。テクノロジーや組織論が変革されるたびにスピードは増す。社会というシステムに生きるには、ゲームのルールを知り、自分をプレイヤーとしなくてはならない。
 日本を脱出したあの日、ぼくはその「システム」を否定したつもりだった。システムから最も遠ざかる手段がアフリカだったはずなのに、頭に浮かぶのは下らない妄想ばかり。この旅を終えたらどうしよう。アマゾン川でも下ってみようか。南極を歩こうか。たとえば歩いて地球を一周したら、強い満足感を得られるのだろうか…馬鹿馬鹿しい。サバイバルに強くなりたくて、こんなことやってるんじゃない。もう一度大学受験をして、知らないことを学ぼうか。受験勉強なんて苦痛でしかなかったけど、今なら参考書だって楽しく読めそうだ…いや、ぼくは実践でしか物事を吸収できない不器用な人間だ。座学では何も学べない。
 歩いているぼくに、村人たちは必ず問いかけた。
 「どうして君は歩いているんだ?」
 最初の頃、ぼくは言葉が出てこず口ごもった。わけのわからない衝動と冒険心、それだけでアフリカにやってきてしまったからだ。でも、今は答えられる。
 「こうやって歩いているから、キミと話せるんじゃないか」
 村人はニヤリと笑い、納得したよという表情を見せる。
 オートバイや自転車のツーリングではない、ヒッチハイクでもない。機械に拘束されずに、時速3㎞ののろのろスピードで進む徒歩を旅の手段として選んだのは、まちがいなく、人と出会って優しくされたり、ナメられたり、裏切られたりしながら、人間というものを知るためだった。
 不安のままに街をさまよい歩いたインド洋岸のモンバサ。熱病に倒れたケニア、環境に溶け込んでいったタンザニア、人間不信に陥ったルワンダ、生涯同じ場所で生きることの偉大さを教えてくれたザイール、悪友ヒグマと再会し「真理」を掴んだ気がした中央アフリカ共和国。
 そしてカメルーン。大西洋まで五十キロを切り、あさってには最後の街ドアラに到着する。アフリカに行くと決めてから七年目、ぼくの長い旅は終わる。
 ゴールが近づくほどに、言いようのない不安に圧し潰されそうになる。
 自分の足で確かにここまで歩いてきた。しかし、終止符の打ち方がわからない。極めれば、神秘的なエネルギーが降り注ぐものだと思い込んでいた。きっと最後に「完全燃焼」とやらの舞台が用意されているのだ、と。しかし、現実はウェルズの冒険小説ほどロマンチックではなく、ゴールは平凡な毎日の延長線上にある一日に過ぎないとうっすらわかる。
 むくんだ脚と傷まみれの腕、漂白された心。それだけを残して、ぼくはまたゼロに戻るのだ。
 出会った人々、できごと、密林の濃緑、荒野の紅土…。鮮烈に脳の襞にまで溶け込んだはずの記憶が、すっかりあいまいになっている。日記を読み返してみても、ぼくじゃない別の誰かが書いたような、実体のない感覚にとらわれる。千枚の写真も、千ページの日記も、千年後には砂となって、カケラも残っていないだろう。だから記録ではない「そこにぼくがいた」という記憶が必要なのに。アフリカが冷めていく。大麻草の幻覚が醒めるような感じ。アフリカで見つけたすべての言葉が色あせていく。
 この旅はマボロシだったのだろうか。
 ぼくの意識がマボロシか。
 存在自体がマボロシなのか。
(つづく)