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2011年02月07日

月刊タウン情報CU1月号 実売部数報告1101_CU部数報告.pdf

月刊タウン情報CU1月号の実売部数を報告します。CU1月号の売部数は、
4,926部でした。詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。

長らく雑誌の実売部数はシークレットとされてきました。雑誌は、その収益の多くを広告料収入に頼っているためです。実際の販売部数と大きくかけ離れ、数倍にも水増しされた「発行部数」を元に、広告料収入を得てきた経緯があります。
メディコムでは、その悪習を否定し、「月刊タウン情報CU」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を創刊号以来、発表しつづけています。

2011年02月03日

さらら2/3号は、気になる「?」をすっきり! スペシャル 2011203salala今回は、日々の暮らしで知りたいことや気になることを編集部が調べる「さららなんでも質問箱」拡大版! 今回調べたその内容は、●B級グルメを家庭で簡単に味わう方法 ●スーパーで流れているカツ天ソングの正体 ●雑誌で話題の「ケーク・サレ」などなど、全部で5つ。これを読めば日常の「?」が「そうだったのか!」に変わるかも!

表紙は恒例のさらランキング! テーマは「近頃つい買うてしまうもん」。
「たまたま買うたらハマッてしもた」、「お店に並んどるんを見たらつい買うてしまう」というあんなものやこんなもの。そんな、徳島県民が今愛して止まないものをランキング。見ると、お掃除グッズや保湿クリーム、バウムクーヘンなど、ジャンルはさまざま。手放せない理由や商品の魅力とともにお届けします。

2011年02月01日

バカロードその21 北米大陸横断レースへの道 その2 四国横断フットレース思案
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

 前々からやってみたいなーと思っている「四国横断フットレース」。徳島のいずれかの海辺をスタート地点にし、愛媛か高知の海岸をゴールにした距離350キロ前後のレースだ。近年、全国各地で200キロを超える超長距離レースが開催されているが、四国には1本もない。こりゃもったいない。四国にはキレイな風景、過酷な山道、そして自動車の通行量の少ない道が他の地域より多いはずだ。
 
 いつか超長距離走を愛する人に集まってもらい四国の山野を駆けめぐる大会が開けたらいいな。そのためには試走を繰り返し、道路の安全性や、挑戦しがいのある道程かどうかを確認する作業が必要だ。ってことで、昨年来より何度か四国内の試走を繰り返しているが、まだ理想とするルートにめぐり逢ってはいない。
 イメージしてる出発地点の候補は3カ所。鳴門海峡を眼下にする鳴門千畳敷展望台は渦巻く潮流がランナーの心に火を着けてくれるだろう。また吉野川河口の小松海岸で日の出を拝んでから出発ってのもいい。もしくは正真正銘、四国の最東端である阿南市の蒲生田岬、その断崖に立つ灯台でエイエイオーの気勢をあげて駆け出すのはどうか。
 メインルートは、景勝地をいくつか経由しつつ、ある程度の困難もほしい。室戸岬をぐるっとまわる国道55号ルートは紺碧の太平洋を満喫できる。195号線を木頭村、四つ足峠を越えていくなら那賀川源流の激流に驚嘆するだろうし、剣山・見の越から京柱峠を結ぶ「酷道」438〜439号線は、標高1000メートル超の刺激の強い難コースとなる。
 フィニッシュ地点候補は2つ。四国最南端の足摺岬か、四国最西端の佐田岬か。これは明快でよい。いずれも断崖絶壁の先端がゴールだから、ガッツポーズが似合う。その情景は、ランナーの記憶に深く刻まれるだろう。
 今回ぼくは、吉野川河口から出で、大歩危、高知市を経て、高知県・足摺岬への320キロ長距離走にトライした。旅程は4日間、毎日80キロを走る。これは6月に控える「北米大陸横断フットレース」の競技日程を念頭に置いた距離だ。北米横断レースは1日平均70キロを走るため、毎日余分に10キロの負荷をかけることにしたのだ。
 1日80キロ、これを1本限りのレースと考えるなら8時間から10時間で終えられる。だが脚と全身にダメージを残さないためには、どういったペースを選択するのが良策か。キロ6分で休息をはさみながら走るのか、キロ8分で止まらず走り続けるべきか。
 また1日80キロを移動した疲労を、到着後の休息と睡眠で除去する方法はあるのか。脚に故障を負った状態で、どれだけのペースを維持できるのか。深刻な痛みに襲われた場合、翌日までに痛みを抜く方法はあるのか。
 そんないろんな疑問に、この320キロランである程度の答えに近づきたい。

 12月27日、夜も明けぬ午前6時、吉野川河口を出発する。前日から寒波が到来し、空気は白く凍っている。上下ともウエアを3枚重ねに着込む。モコモコして走りにくいが仕方あるまい。ヘッドランプを腰に装着し、トレラン用のリュックに赤点滅ランプを着ける。ジャーニーランナーの先輩方が「ホタル」と呼んでいるアレだ。歩道がない道もあるから、自動車との接触事故の防止は徹底したい。
 蔵本駅前あたりで空は薄日が射し、鴨島では雪が降ってくる。川島までは国道192号線の歩道を走り、川島城をちょっと過ぎると吉野川の堤防上にあがる。段差のない土手道は走りやすく安全だ。「四国横断フットレース」の際は、少し遠回り蛇行しても、徳島市内から吉野川南岸の堤防上をたどるべきか。
 この旅はペース実験の意味もあり、ガーミンGPSでキロあたり速度の管理をしている。キロ7分で前進し、美馬市役場あたりでフルマラソンの距離にあたる42キロに達すると、6時間を切るペース。わずかだが脚が重い。42キロくらいで疲労感があるってのは、自分にとってキロ7分は少し速いのかもしれない。
 キロ8分にペースを落とし貞光へ。晴れたり、雪が降ったりと冬空は忙しい。やがて風雪が強くなり「貞光ゆうゆう館」に逃れる。産直市でみかん10個300円と、粒あん入り草もち3個350円を買い求め、一気に口中にねじり込み5分で完食。館内で休憩中の四国遍路の旅人たちがぼくの謎めいた食事風景に目を丸くしている。フードファイターと思われたかな?
 スタートから70キロ過ぎ、辻高校前で夕暮れを迎える。ゆっくりペースだが70キロなりのダメージがあり、登り坂で歩いてしまう。ペースが速くてへばっているのか、遅すぎて調子悪いのか、分析が進まない。
 とっぷり日が落ちた午後6時30分頃、池田町の宿「あわの抄」に到着する。鍵を渡された部屋のドアを開くと、30畳はあろうかという大広間。その広大なスペースのド真ん中に布団が1組ひかれている。阿波の殿様・蜂須賀公でもこんな部屋でお泊まりにはならぬ。落ち着かないので、部屋の隅に布団を移動する。
 夜食は、牛ステーキ、猪豚肉のお鍋、あめごの塩焼き、食べ放題のそば米雑炊、デザートなどたくさんの料理が並ぶ。そば米雑炊と白米のおかわり全部で8杯、ガツガツ食いあさる。
 食後には天然温泉が湧く浴場へ。ぬめり気のある泉質がよい。浴槽のへりでうたた寝していたら、湯の中に寝返りを打ち沈没! 慌てて飛び起きる。一部始終を見ていたおじいさん客が「ぼく、いけるんか?風呂で溺れたらあかんぞ」と心配する。1泊2食6500円、予は満足じゃ。

 2日目、午前5時に宿を出る。今日は国道32号線をひたすら高知市まで南下する。この道、ふだん自動車で通過しているときは感じないが、自分の脚でゆけば大歩危・小歩危の渓谷の断崖を削って通された難道だと知る。並行するJR土讃線の列車が急傾斜の崖地にへばりつきながら走る様にも驚かされる。ここに鉄道が通されたのは1930年代だ。大正期から昭和初期の公共事業のスケールの大きさに感銘を受ける。80年前にツルハシで岩を砕いたオッチャンたちの、どれほどの汗と犠牲のうえに、我々は便利な生活を手にしているんだ?
 県境を越え高知県に入ると集落はまばら。人の匂いは消え、自動販売機も見つからない。歩道はあるものの、車道の左右に交互に登場するため、そのたびに車道を横断しなくてはならない。路肩が50センチしかない道もある。これはフットレースのコースとしては不向きかもしれん。走行が夜間に差しかかれば危険だ。そもそもが歩行者のために設計された道じゃないんだろうしな。
 徳島市を出発して1日半、延々と登り基調の道がつづいている。吉野川沿いを上流へと向かってるんだから当たり前なんだけど、登り坂の連続に少々くじける。高知市まで30キロと近づいているのに一向に下る気配がない。いったいこの国道どうなってんの?と泣きそうになった頃、香美市と南国市の境界の根曳峠(ねびきとうげ)に達する。標高395メートル、そこから高知市街へとヘアピンが連続する急坂を駆け下りる。吉野川河口から140キロかけて稼いだ標高を、高知市街まで20キロ間で一気に精算するのだ。下り坂の途中で足の裏に違和感があり、くつ下を脱いでみると指先に大きな血豆。ピンセットで皮を刺すと、体液がピューっと一直線に顔面を直撃! ひゃあ、たった150キロ程度でこんなんじゃ先が思いやられるぞ。ひ弱すぎんか、自分?
 高知市の夜景がみぞれ混じりの冷たい雪ににじむ。吹きさらしの広いバイパス道をエスケープし、路面電車の走る「土電道」という旧道に出て、高知市の中心部に着いたのは夜の8時。
 泊まりは「高知サンライズホテル」。ビジネスホテルとシティホテルの中間みたいな宿。
 食事は、うどんに天麩羅、刺身、いなり寿司・・・と不思議な取り合わせ、お酒も1杯ついて2食付きで6800円。まぁまぁかな。最上階にある「展望浴場」に先客おらず、サウナ室でごろんと横になれる。展望風呂というわりに景色はあまり見えない。湯舟は小さいが、浴場があるだけまぁ嬉しい。洗濯機を使ったら400円も取られて驚いたけど。
 寝床に横になると足の裏がジンジン熱い。200キロ程度走るといつも起こる症状だが、足裏の肉がぶよぶよに腫れあがり、水枕のような感触になる。土踏まずが見当たらなくなり、足のサイズが2センチほど肥大する。このようなケガには至らない軽傷の身体異変を休息時間にどう回復させるかも勝負のポイントだ。
 北米大陸横断レースでは、1日の制限時間が当日の距離÷時速5.7kmで設定される。1日につき約70キロをおおむね12時間以内で走破しつづけていけばいいのだ。クリアできそうで、できなさそうな絶妙な距離と時間だ。目立ったスピードは必要ない代わりに、脚の故障を最小限に抑えながら走り続けられる脚力・体力・精神力を必要とする。過去のリポートや結果を見れば、リタイア者の多くは最初の1週間で出る。逆に捉えると70キロ×7日間をクリアできるランナーならば、70キロ×70日間=約5000キロに持ちこたえられる可能性が高いとも言える。6月のレース本番まで、あと何回、長距離練習ができるだろうか。70キロを1週間連続で走るといった環境をなるべく平時状態にしたい。
 今回のようなジャーニーラン形式は楽しく飽きないものの、まとまった休日と費用が必要だ。毎朝3時スタートで9時間かけて70キロ走り、昼以降働くというやり方なら、日常でも練習を積むことができる。昼出勤なんてのは出版業という職業の特殊性で許されることなんだけど・・・などと思いを巡らせているうちにウトウトしてきた。
 明日は旅の後半、80キロ先の四万十川を目指す。          (つづく)
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これらを活用して、大変な結婚準備をできる限り楽しんで。

注目の特集は、「徳島、結婚式の常識」!

2011年01月28日

これを読めばあなたも走りたくなるかも!?タウトク2月号 1102tautoku★揚げ物天国〜黄金色の誘惑〜 油の海をくぐり抜け、香ばしく揚がった愛されフライメニューをどどんと紹介。ジューシー唐揚げ&手羽先、とんかつ、串かつ、エビフライなど豪華30品!
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海部川風流マラソン・とくしまマラソン直前大特集!ランナーファッションチェック、最新ランニングシューズ情報も。
★徳島ミステリースポット案内。
心霊スポット潜入レポート、幸せになれる!?パワースポット…あなたも摩訶不思議な世界へ!

2011年01月20日

さらら1月20日号で、2011年の開運祈願! Tokushima-salala0120.jpg待っているだけでは、幸せはなかなかやってこない。
それなら、自分から行動を起こそう!
ということで、自ら何かをすることで運気がアップすると言われる、徳島のパワースポットを巡ってみました。

また、表紙で好評連載中のさらランキング!も必見。
今回は、ふとした瞬間に誕生したアイデア料理を紹介しています。
「ありあわせで料理したら意外といけた!」「ありえん組み合わせやけど、これを混ぜると美味しいんよな〜」などなど、知るとちょっぴり得した気持ちになれるレシピが満載です。

2011年01月14日

今年もよろしくお願いします!CU2月号発売中♪ tokushima-CU1102明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします!さて、新年初のCUは女子会特集&おやつグランプリの2大特集。これは見逃せない!

●グルメな女子会
今や常識となりつつある「女子会」。徳島での女子会事情をはじめ、女子会の開場にピッタリのお店や、魅力的でお得な女子会プランをご紹介!
●おやつグランプリ
今回は県内各地の和菓子がメイン。おまんじゅうやいちご大福、草餅など、親しみやすいラインナップが勢ぞろい。気負わずにいただけるうえにすごくおいしい和菓子たちばかりです。いろいろ食べて自分だけのグランプリを決めてください。

2011年01月12日

月刊タウン情報CU12月号 実売部数報告1012_CU部数報告.pdf

月刊タウン情報CU12月号の実売部数を報告します。CU12月号の売部数は、
4,857部でした。詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。

長らく雑誌の実売部数はシークレットとされてきました。雑誌は、その収益の多くを広告料収入に頼っているためです。実際の販売部数と大きくかけ離れ、数倍にも水増しされた「発行部数」を元に、広告料収入を得てきた経緯があります。
メディコムでは、その悪習を否定し、「月刊タウン情報CU」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を創刊号以来、発表しつづけています。

2011年01月11日

月刊タウン情報トクシマ12月号 実売部数報告1012_タウトク部数報告.pdf

月刊タウン情報トクシマ12月号 実売部数を報告します。タウトク12月号の売部数は、
6,757部でした。詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムは、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「結婚しちゃお!」の実売部数を創刊号から発表しつづけています。

雑誌の実売部数を発行号ごとに速報として発表している出版社は、当社以外では日本には一社もありません。実売部数は、シェア占有率を算出し、媒体影響力をはかるうえで最も重要な数値です。他の一般的な業界と同様に、出版をなりわいとする業界でも正確な情報開示がなされるような動きがあるべきだと考えています。わたしたちの取り組みは小さな一歩ですが、いつかスタンダードなものになると信じています。

2011年01月06日

さらら1月6日号を読んで、今年のブームを大予測! tokushima-salala0106明けましておめでとうございます。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
さて、2011年初のさらら、特集は「2011年、徳島でこれが流行る!」
スーパー、ドラッグストア、雑貨店、パン屋などさまざまなお店の方に、今年のブームやヒットアイテムを予想していただきました。お話を聞くと、携帯できる美顔器や米粉のパン、レースやチャームなどの手作り用の素材など、気になるものがたくさん。2011年はいったいどんな年になるのか、今から楽しみです♪

また表紙のさらランキングは「防寒アイデアランキング」。タイツ+柄ウールソックス、ネックウォーマーにもなる腹巻、くしゅくしゅ加減がキュートな指あきカットソーなど、おしゃれに見えてしっかり温かい冬の着こなしを徳島の20〜30代の男女にインタビューしてみました。

2010年12月25日

バカロードその20 北米大陸横断レースへの道 その1 バカの海馬が大騒ぎ
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

 ある思いつきに捕らわれると夜も眠れなくなるほど興奮し、自制が効かなくなる。日々まっとうな生活を送り、畳の上か病院の大部屋で穏やかに息絶える人生でいいではないかと思い、大方の場面ではそのように振る舞ってはいるものの、ときどき全部を御破算にしたくなる。見返りのない破滅志向はバカの極み。昔の人は「バカは死ななきゃ治らない」と言ったが、バカの気配は死をもって対抗しなくてはならないほど強大なのか。
 バカといえば、枝ぶりの良い高い木が目に止まると、登りたいという衝動を抑えられなくなり、こっそり木登りをしている。四十も過ぎて木登りしている男となれば相当な不審人物であり、いつ近隣住民に通報されパトカーに取り囲まれるか知れたものではない。テレビの番組改編期によくやっている衝撃映像集で、煙突や電柱にハダカで登って降りられなくなっているバカな男が写し出され雛壇タレントが突っ込みを入れているが、ぼくは自分自身を見るようで胸が痛む。「バカと煙は高い所に登りたがる」、ここにもバカの慣用句が登場だ。昔の人はみな落語家のような粋な例えをするものである。
 バカの語源は英語の「vagabond」であり、放浪者やら自由人を指す言葉だから実はバカって格好いいんだと自画自賛したり、いやいやサンスクリット語の「婆伽梵」こそが語源でお釈迦様を指す崇高なる存在なのだなどと自分を持ち上げたりする。それもまたバカの証明。
 高校生の頃、ザ・ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」の映像を繰り返し観ていた。何もない岩の上で太陽を見つめるポール・マッカートニー。毎日丘のうえで笑っている男はバカと思われ誰からも相手にされてないけど、地平線に沈む太陽を見る彼は、世界がぐるぐる回転してることをわかってる・・・ってアンチ天動説な物語。
 これから社会に出て労働者として活躍しなくてはならない高校生の分際で、憧れの対象はサイケデリックでヒッピーカルチャーでデカダンス。こりゃムリだ、資本主義の世界で活躍するのは。・・・と秘かに悩むトロツキスト高校生。
 「大陸を横断する」という夢想に囚われだしたのは30年近い昔。全大陸を自分の脚で横断する・・・その最初のリングがアフリカ大陸横断。1997年に横断を果たし、帰国後日本で少し静養し、すぐ南米大陸の横断に挑むはずだった。しかし二十歳のぼくはアフリカの人びとの生き方に強い影響を受け、日本で実直に生きる道を選んだ。それから20年を経て、齢四十歳を迎えるとバカの虫がふたたび騒ぎだした。平均寿命までの折り返し点ともいえる年齢に達すると、「アレやらないままに死んでもいいのかい?」と焦燥感に苛まれるようになった。尾崎世代のぼくたちは自問自答が大好きなのだ。要するに滑稽。ジャックナイフ時代の千原兄弟「尾崎豊部」のネタに「俺は俺で、お前は俺かい?」というセリフがあるが、尾崎フリークは生涯そんな滑稽を生きている。自問自答するが到達点は見えない。
 中年になって蘇ったバカの衝動、自分でコントロールできるはずもない。
 アメリカ合衆国の西海岸から東海岸まで約5000キロを走る大陸横断レースというものが存在することは薄ボンヤリと知っていた。全大陸横断行の再スタートの場として北米大陸横断レースの出場を考えた。だが、毎年行われていると思いこんでいたこの大会は、7年前・・・2004年を最後に開かれなくなっていた。調べると、北米大陸横断レース自体がこの100年間で8回しか開かれていない希有な存在であるとわかった。
 ならば自分1人で実行するしかない。そう決意し、この数カ月はカメリカ合衆国の道路地図を買いあさり、食糧や水の補給が可能なルート、街を調べていた。
 ところが、だ。偶然なのか運命なのか。スパルタスロンの選手送迎バスでたまたま隣に座った方が「来年、北米横断レースがある」と言いだすから夢を見ている気がした。まさか、このタイミングでレースが復活だなんて! この情報を教えてくれたランナー・越田信さん自身、9年前の伝説的なレース「ラン・アクロス・アメリカ」で北米横断を果たした人物であった。
  
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 北米大陸横断レースは、古いものでは1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
 この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、今でも異彩を放っている。要因は、主催者であるチャールズ・C・パイルという人物にある。当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者でとして隆盛を極めていた彼。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
 そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507キロを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかなイベントとなった。
 毎日ランナーは決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。推定するに現在であれば3億円ほどの賞金を優勝者に授与したのである。
 ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊をし、テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて興行収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
 さて肝心の大陸横断レースには199人のランナーが参加し、スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
 イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施すると、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
 パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマ
ンがディレクションし、舞台で演じられた。

 公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在まで82年間でたったの8回しか行われていない。
 「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランス・アメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700キロを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
 第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
 第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走、記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガー、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり、後方から資金面を支えた。
 第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、宮古島遠足やさくら道遠足などのウルトラレースを運営、多くのウルトラランナーを支援している。この大会は、NHKの手で「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な取材であり、大会の存在が広く一般に知られるきっかけとなった。
 「トランス・アメリカ」最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
 21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8キロを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人は堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
 90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランス・ヨーロッパ」「スパルタスロン」では、参加数だけでなく優勝者を輩出するなど超長距離への対応と強さも発揮している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。しかし、この大会を最後に以後7年間、北米横断レースを企画する者は現れなかった。

 そして今回のビッグニュースである。7年の時を経て、北米大陸横断レースが開催されるのだ。
 2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月25日にニューヨークにゴールする「LA-NY footrace」。大陸東西約5000キロを68日かけて横断する。1日平均70キロ以上の行程である。
 企画したのはフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏。彼は伝説中の伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4600キロを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3750キロ、2001年南米大陸5200キロ、2003年アフリカ大陸8300キロ、そして2005年にはユーラシア大陸1万9000キロを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
 さてさて、どうしよう。こんなチャンス、2度と巡ってはこないだろう。82年間で8度目ってことは10年に1度あるかないか。自分が70歳まで生きていたとしても、あと2度か3度出くわせればよい確率だ。そんなもん、ないに等しい。
 単独行なら時間の制約はない。だがレースゆえに毎日・・・つまり68回にわたる時間制限=関門がある。ぼく程度のランナーが完走できるレベルの大会ではないことはわかっている。しかし判断に理性のブレーキがかかるはずもない。なんたってぼくはバカなんである。「ゴチャゴチャ言わんとさっさとエントリーしろ!」と海馬がスネアドラムを叩き続ける。ぼくの大脳辺縁系は、佐山サトルと前田日明が暴れていた頃の新日本プロレス道場だ。狂気と正常の境目は限りなく曖昧で、殺伐と愛情と悪戯が混在する。
 さあ行こう、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが明日なき疾走をした道を駆け上がり、モヒカン頭のデ・ニーロが黄色いタクシー流してたあの街へ。

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【北米大陸横断レースの歴史】
1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
2011年 LA-NY footrace

現在までにレースを完走したランナーの人数はのべ122名、日本人はわずか15名である。
上記記録は参加3名以上の公募レースに限る。
徳島お風呂マニアに捧げる3大企画を見逃すな!タウトク1月号 tautoku-1101★温泉、スーパー銭湯、街の銭湯40軒! サウナ大研究
汗を流す目的以外に新たな社交の場としての性格を持つようになったサウナ、至福の水風呂、絶景が楽しめる露天風呂情報がギチギチです!

★徳島つけ麺大特集
革命的メニューが続々誕生。もはやブームを超えて新たな麺類のいちジャンルとなっているつけ麺。各店のオリジナルスープに食べ応えのあるシコシコ麺をくぐらせて豪快にいただいちゃいましょう!

2010年12月16日

さらら12月16日号を読んで、今日は鍋ろう! tokushima-salala1216今、スーパーに足を運ぶと、気になるのはやっぱり鍋コーナー。今年は昨年にも増して、いろんな種類が並ぶようになりました。
鍋の素から、具材に、〆まで、いろいろあって悩んでしまう…というあなたのために。今回は、スーパーの店員さんにおすすめを聞いてみることに!また、個性派鍋のある飲食店では、おうちで作れる美味しい鍋の作り方を聞いてきました。
これを読めば、鍋の楽しみ方がもっと広がること間違いなし。

また、表紙で好評連載中のさらランキング! 今回のテーマは、2010年私のヒットランキングです。B級グルメやミニお菓子家電、食べるラー油などなど、今年流行ったものでまだまだ続きそうなブームの数々を一挙に紹介します。

2010年12月13日

年末年始も情報満載!月刊タウン情報CU1月号発売中 tokushima-cu1101【特集】
■憧れのお店で贅沢ランチ
ふだん行くには少し敷居が高い…けれど、記念日やお祝い、自分へのご褒美には行きたい!という、あの憧れのお店の贅沢なランチをご紹介。味、品質、空間、どれをとっても素晴らしいお店がぎっしり。

■とっておきの隠れ宿
徳島県内や近県の素敵なお宿をご紹介。田舎のほっこり宿で和やかに過ごしたり、屋外ジャグジーのあるお部屋でのびのびリラックスなど、さまざまなリフレッシュ空間を掲載。自分に合ったお宿がきっと見つかるはず。

2010年12月06日

月刊タウン情報CU11月号 実売部数報告1011_CU部数報告.pdf

月刊タウン情報CU11月号の実売部数を報告します。CU11月号の売部数は、
4,566部でした。詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。

長らく雑誌の実売部数はシークレットとされてきました。雑誌は、その収益の多くを広告料収入に頼っているためです。実際の販売部数と大きくかけ離れ、数倍にも水増しされた「発行部数」を元に、広告料収入を得てきた経緯があります。
メディコムでは、その悪習を否定し、「月刊タウン情報CU」「月刊タウン情報トクシマ」「結婚しちゃお!」の実売部数を創刊号以来、発表しつづけています。
月刊タウン情報トクシマ11月号 実売部数報告1011_タウトク部数報告.pdf
1011_タウトク部数推移.pdf

月刊タウン情報トクシマ11月号 実売部数を報告します。タウトク11月号の売部数は、
7,876部でした。詳しくは、上部のファイルをクリックしてください。
メディコムは、「月刊タウン情報トクシマ」「月刊タウン情報CU」「結婚しちゃお!」の実売部数を創刊号から発表しつづけています。

雑誌の実売部数を発行号ごとに速報として発表している出版社は、当社以外では日本には一社もありません。実売部数は、シェア占有率を算出し、媒体影響力をはかるうえで最も重要な数値です。他の一般的な業界と同様に、出版をなりわいとする業界でも正確な情報開示がなされるような動きがあるべきだと考えています。わたしたちの取り組みは小さな一歩ですが、いつかスタンダードなものになると信じています。

2010年12月02日

今冬のあったかアイテムはさらら12月2日号でチェック! Tokushima-salala1202.jpgいよいよ冬本番。寒さが増すにつれて、あったか下着や保温グッズが手離せなくなりますよね。今回はスーパーやドラッグストア、下着店などで見つけたあったかアイテムをご紹介。トレンドのアニマル柄のカバーつき湯たんぽやおしゃれを邪魔しないお利口インナー、おうち時間を楽しくしてくれるキュートなパステルカラーのウェアなど、この冬ならではのぬくもりがいっぱいです。


好評連載中のさらランキングは、「わが家のヒット鍋ランキング!」
毎年さまざまなブームが巻き起こるお鍋。数年前から人気上昇中のトマト鍋やカレー鍋に加え、エジプト鍋やフォンデュ鍋といった個性派がぞくぞく登場。 かと思えば、シンプルな水炊きも変わらず人気だったりと、家庭によってさまざま。さぁ今夜はどんな鍋にしよう?

2010年11月30日

バカロードその18 スパルタスロンへの道 4 巨象とアリ
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

(前回まで=超長距離走の世界最高レースともいえるスパルタスロン。246キロを36時間以内、完走率30%前後の過酷なレースのスタートが切られた。大舞台の高揚感に飲み込まれ、序盤からぶっ飛ばしたツケは早々にやってきた。脚の故障、痙攣、嘔吐などに見舞われボロボロになっていく)


 スパルタスロンを幾度も完走しているベテランランナーたちは「復活」という言葉を好んでつかう。同宿のランナーとの会話に初めてこの言葉が登場したときは、正確な意味がつかめなかった。
 「復活」とは、100キロ以上走り、精も根も尽き果て、肉体も精神も限界寸前の状態から、再び蘇ることを指す。エイドや道ばたで一定の休息・睡眠をとって「復活」する場合や、歩きを交えながら活動量を抑え「復活」を遂げることもある。246キロ先のゴールに至るまでは、「復活」を4度、5度と繰り返しながら、満身創痍で前進しつづける。
 この言葉、前向きに捕らえれば、どんな苦境に追い込まれても我慢しているうちに必ず光明は見えるって金言。現実に即して考えるならば、「もうダメだ」という状況を何度も乗り越えられる人間的な強さがないと、ゴールには届かないって戒め。

 第一関門であるコリントス(81キロ地点)まで残り20キロ。一度完全に潰れた体力が戻ってきた。キロ8分台まで落ちていたのが6分まで上がっている。これは「復活」に該当するのか。否、なんだろうな。アップダウンの多いアテネからの道をハイペースで走ったことで潰れるべくして潰れ、活動量が低下したため血糖やら乳酸値やら心拍数やらが平静に戻った、それだけのことだ。「復活」という言葉が喚起するドラマチックな物語はない。もっと壮絶で、もっと身体に鞭打たれるべき道のりがコリントスの向こう側には用意されている。
 あるイメージが頭の中を占拠している。巨大な象だ。その象は背丈が高すぎて、ぼくからは太い幹のような脚しか見えない。その足元でうごめく貧相なアリ一匹。スパルタスロンは巨象、ぼくは貧相なアリ。巨象はぼくの存在に気づかない。ぼくは象の足によじ登ろうともがく。勝負にならない戦いだ。

 追い抜き、追い抜かれる際に、ランナーが声を掛けてくれる。
 地元のギリシャ人ランナーが、バテているぼくを見かねたか、ビスケットを取り出し「食べろ」とさしだす。「喉が渇いて食べられないよ」とカサカサの舌を見せると、「ダメだ!食べないと走れないよ」とムリヤリ口に入れられる。自分のために用意した補給食なのにすまないな。そして、かなりのおせっかいだなと呆れる。
 韓国人ランナーを追い越す際に、後ろから「日本人のハートを見せろ!」とエールを贈られる。振り返れば、何やらビビンバ風の丼メシを食べながら走っている。タフで器用な男だ。
 ベテランらしき日本人ランナーが、「練習のつもりで走ればいいから。練習で走ってるペースで行けば間に合うから」と指導してくれる。そうだ、能力以上の走りなんてできっこないんだ。超長距離走に奇跡は絶対に起こらない。日々、朝に夜に練習で走っている自分自身をここで再現する以外に道はないんだ。
 コリントス運河手前の長いだらだら坂にさしかかる。コリントス運河は、ギリシャ本土とペロポネソス半島を隔てる地峡に掘られた人工の運河だ。大げさに考えるならユーラシア大陸本土の文化と、エーゲ海に点在するコロニーのような島社会との境界線とも言える。
 多くのランナーは坂道を歩いている。万策尽きてランニングを中止したのではない。戦略上、登り坂は歩きと決めている選手は多いのだ。このような選手は、歩きといえどジョグペース並みに速く、キロ8分とか9分でぐいぐい前進する。だから、潰れた状態でよろよろ走っていると、歩きに抜かれたりもする。
 丘の頂上からは、人間の手で掘られたとは信じられない長さ6000メートルの運河の切り立った岩壁や、コリントス市街の展望が俯瞰できるが、感慨にひたっている余裕はない。関門閉鎖まで時間がないのだ。「第一関門までいかに力を温存できるかが、完走のポイントだ」と何人もの経験者が教えてくれた。だが、温存どころか出せるものを全部出し切らないと、81キロを越えることすら叶わない。
 コースが市街地の平坦な歩道に変わると、キロ5分台の速いペースに上げる。
 全力、全力、全力。
 ヘバッて動けなくなろうと失神しようと、とりあえずは関門を越えないと話にならない。そこから先に何がはじまるのかは、到達してみなくちゃわからない。
 ゴールゲートにも似た第一関門が見える。スタートから9時間25分。関門閉鎖まで残り5分。やっとこの地に届いたのだ。

 コリントスのエイドには、大きなテント村ができている。
 先着のランナーたちがマットに寝そべりマッサージ師に身体をほぐしてもらっている。彼らは前進をあきらめたのだろうか。立ち上がる気配はない。ここまで来たのに、もったいない・・・と他人事のように思う。
 では、ぼくは前進するのか?
 関門を超えたら胸に去来するものがあるかと想像していたが、ただ真っ白だ。足元定まらず千鳥足で歩いていると、ふいに名前を呼ばれる。顔見知りのランナーだ。スタート地点へと向かうバス車中で席が隣になった中谷さんだ。偶然だが彼も徳島出身なのである。ぼくよりだいぶレベルが上のランナーなのに、どうしてここにいるんだろう? 
 中谷さんは「脚が全部痙攣してしまって、ほとんど歩きでここまできたんです。もう先に進むのは厳しい・・・」と半ば諦めたような口ぶり。それを聞いた瞬間、ぼくの口から意外な言葉が出る。「いけます、いけますって。係の人に止められるまで行きましょう。ぼくはもっと先まで行きますよ!」。偉そうな御託を口走りながら、よくそんなこと言えるな、と自分に呆れる。ほんの数分前まで(もうダメ、はなからレベルが違う世界だ)(初挑戦だし、コリントスまで走って完全燃焼もありってことで)なんて逃げの口実を探していたヘタレ男がだ。中谷さんは「行けるとこまで、行ってみます」と椅子から立ち上がり、脚を引きずりながらコースに戻っていく。歩くのが精いっぱい、本当に具合が悪そうだ。
 中谷さんが去ったあとのベンチに横たわり、樹木と空を仰ぎ見る。夕焼け時には少し早い。薄いあかね色が青空を侵食しはじめている。
 ぼくは、立ち上がれないほど消耗しているのか?
 いや、していない。
 まだ走れる。走れるんだから、もっと先に行かないといけない。
 自分を止めるのは関門の制限時間というルールであって、自分が走るかどうかはルール外の意思の問題だ。
 自ら走るのを放棄するくらいなら、誰かに止められるまで走ろう。
 いや、でもそれって、判断を他人に任せてるってことだろう。自分で決意してやめる方が潔いんではないか。
 いったい潔いのはどっちなのだろうか。
 いや、潔いとか潔くないとか、そんなことどっちでもいいんじゃないか。

 えーい、ややこしい。ありのままの感情はどうなんだ?
 もっとこの先の風景が見たい! ならば走ろう!

 テント村で飲めるだけのドリンクを胃に流し込み、全身にかぶり水をして、ふたたび道路へと飛び出した。夕陽が射すぶどう畑のなかを、1人走り続けた。次のエイドを撤収時間ギリギリに超えた。「いけるぞ、もっと進め!」とエイドのスタッフが背中を押してくれた。
 その次のエイドでは撤収時間を30秒過ぎてしまっていた。係員らしき人に「前に進んでいいか?」と聞くと、黙って目を閉じ、ゴールの方角へと顔を向けた。「見てないから、行っていいよ」という許しだ。

 走りながら、悔しさのあまり泣けてきた。
 これは何に対する悔しさか? 本来のルール上の関門閉鎖まで残された時間と、消えかかったローソクのともしびみたいな体力をてんびんに掛ける。
 事実上、もう完走は無理なのだ。だから悔しいのだ。
 今頃になって自覚する。自分はほんとうに完走したかったのだ。
 完走できないから泣いているのだ。
 決められた時刻に、決められた場所まで達していなければならない。その決めごとに、ぼくの脚はついていけなくなった。
 夕闇が迫る第25エイド。大会係員のおじさんが道路の真ん中に仁王立ちしていた。両腕を拡げて、満面の笑みをたたえて。つまり、これ以上は何がどうあっても進めないよ、という確固たる意思表示である。終わったのか、と思う。たった90キロと少し走っただけで、たった11時間走っただけで、スパルタスロンが終わった。これが自分の力だ。2010年という時間に、ぼくが持ち合わせていたすべての力を使い果たしたのだ。

  □

 「ゴールを見た方がいいよ」と、同じエイドでリタイアしたランナーにアドバイスされた。「何時間見続けていても飽きないから。本当に感動するし、感動だけじゃなくて羨ましさとか、自分が完走できなかった悔しさがごっちゃに入り混じって、絶対この場所に自分も来なくちゃいけないって思うはずだから」。

 翌日、スパルタ市街のメインストリートで、ゴールへと続く500メートルの直線道に立って、帰還するランナーたちを迎えた。
 246キロの苦難を乗り越えたランナーたちは、やせ細って別人の顔をしていた。36時間の間に体重が10キロ以上減少したランナーもいた。ゴールをすると多くの選手はそのまま医療テントに運ばれ、栄養剤の点滴を受ける。さながら野戦病院の様相だ。

 ウイニングランを見守っていて既視感を憶える。これはいつかどこかで見た風景だ。どこだろう?

 選手1人1人を白バイや先導車が誘導する。
 観客の歓声と拍手がランナーをつつむ。
 自転車に乗った街の少年たち何人もが、ランナーを取り囲む。少年たちにとってすべてのランナーが英雄なのだ。
 ランナーは笑い、ランナーは叫ぶ。
 ランナーは全身で歓びを表現し、ランナーはただ泣きじゃくる。
 ふいに既視感の元となる映像が脳裏に蘇る。古いドキュメンタリーフィルムで見たベトナムの街だ。それはベトナム戦争終焉の象徴的な場面として、何度もニュースで流された映像だ。
 南ベトナム解放戦線の兵士たちが、トラックの荷台に何十人と乗って、銃を持った拳を空中に突き上げながらサイゴンに入城するシーン。長い抑圧に耐えたベトナム国民、サイゴン市民にとって、勝利が確約された瞬間、消耗の果ての歓喜の爆発、自由へのおたけび・・・。
 なぜ、競技スポーツのラストシーンと戦争の終焉を重ねてしまうのか。
 スパルタスロンもまた戦争なのだ。
 ランナーは誰かと戦ったわけではない。血を流したのでも、国や家族を守ったのでもない。極限の環境下で自分と戦い、信念を守りきったのだ。1人1人が自ら打ち立てた高くて遠い到達点に立ち向かい、最後まで希望を捨てず、自分の内にある弱さと戦いつづけ、勝利した。それがスパルタロンの完走者なのだ。
 もう理屈抜きでこの場所に還ってこなくちゃ、となっちゃうよねこりゃ。まったく困ったもんだ。
バカロードその19 スパルタスロンへの道 5 スパルタスロン・メモ
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

 アテネからの帰りの飛行機内で書いたメモです。レースの半分も進まずリタイアした人物が書いた今回の気づきと次回への対策です。読まれる方の役に立つ可能性はあまりないので、ごめんなさい。個人的なメモです。



【宿舎と食事など】

□大会前々日から大会終了2日後まで、大会サイドの指定するホテルに宿泊する場合、全5泊(リタイア者は6泊)のホテル代金・3食の食事は無料(参加料に含まれる)である。
参加者が支払う250ユーロ(約3万円)では賄えないほどのサービスは、ランナーに代わって地元の企業スポンサー、個人、自治体が肩代わりしているという。財政危機に瀕するギリシャにおいて、この待遇には本当にありがたいと感謝しなくてはならない。

□空港から大会指定ホテルのあるエリアには市バス「X96」でグリファダ方面へ。バス代は3.2ユーロ。どこで下車したらいいかは、運転手にでも聞かないとわからない。

□アテネ市内からなら「Syntagma」駅より市電トラム(1ユーロ)で直行。「Asklipiio Voulas」行きに乗り、受付のあるホテルロンドンなら「Paralia Vergoti」駅で下車徒歩5分、日本人ランナー指定宿舎の「シービューホテル」なら「Kolymvitirio」駅にて下車徒歩1分。

□日本人の参加比率が高い(今回はエントリー365人中70人が日本人)ためか、日本人だけは全参加者とは別の指定ホテルが用意されている。

□ホテルはツインもしくはトリプルの相部屋。

□食事は朝、昼、晩と3食とも提供され、メイン2〜3品に、パン、サラダ、デザート、フルーツ、コーヒーなどをバイキング形式で採る。メインデッシュはギリシャの煮物料理、肉料理、パスタなどが中心。

□「シービューホテル」には小ぶりだがプールがついている。また、徒歩5分の所に大きなスーパーマーケットがあり、食料や物資調達には苦労しない。

□大会前日のガイダンス(説明会)は、「ホテルロンドン」にて母国語別のミーティング形式で行われ、日本語でも開催される。その年からのルールやコース等の変更点が説明されるので必ず参加しておくべき。

□提出を義務づけられてる「健康診断書」は、どんなチェックがされるかと心配したが、ただ係員に手渡すだけで済んだ。

□ゴールのスパルタ行き荷物は、スタート当日の朝あずけられる。荷物には若干の現金を入れておきたい。スパルタの街には魅力的な市場やカフェ、バーなどが多くあるため。

□ゴールのスパルタにおけるステージ・花火セレモニー、翌昼のスパルタ市長との昼食会、そしてアテネに帰っての盛大な完走者表彰式と、大会前後はイベント満載である。素晴らしいギリシャ料理やワインが提供される。パーティはラフな格好で参加しても浮くことはないが、正装の方がなおよし。



【エイドの活用】

□75カ所あるエイドへの荷物あずけは、スタート前日の朝10時より開始。自分のゼッケンナンバーと預けたいエイドナンバーを書いた荷物を、75個の段ボール箱に放り込んでいくだけ。超簡単。

□エイドに置く荷物は、わざわざビニル袋に入れる必要はない。例えばボトルや缶詰めにナンバーを大書きしておくだけでも十分OK。

□エイドで使い終わったものは「無くなってしまう」ことを前提に考える。意図的に盗まれるのか、間違ってゴミ箱に入れられるか、あるいは間違って他の選手に返されるか原因は不明。ライト以外の貴重品はあずけない。

□エイドにあずける荷物の仕分けは、日本で済ませておきたい。ギリシャ入りしてから気が楽だ。

□エイドに置くものは最少限に。ヘッドライト、ハンドライト、ビニル雨具、防寒具上下、くつした予備、ワセリン、胃薬、痛み止め薬など。あえて食糧を入れるなら、梅がゆレトルト、ミックスフルーツ缶詰などがよい。硬い物は胃が受けつけなくなる。柔らかく、喉に流し込め、素早くエネルギーに変わるもの。

□荷物受け取り予定のエイドでは、到着後ほんの数秒で荷物が手渡される。その点のロスタイムは少ないものの、給水のみの利用に比べれば30秒〜1分はよけいに時間を食う。

□エイドで使い終わったものを返すとき、係員に「フィニッシュ?」と聞かれるが、「イエス」と答えると、ゴミ箱行きになることも。使用後、返却してもらたいければ「トゥ・スパルタ」と念を押したい。



【レースに対する準備】

□レース1週間前から牛乳を飲み、胃壁にバリアを作っておく(医学的な根拠はない)。

□レース中の痙攣防止のため、1週間前から積極的に塩を摂取する(医学的な根拠はない)。

□和風パスタの素(たらこなど)を持っていくとバイキングの食事に使える。

□レース中は、直射日光除けのため、使い捨てのアームウォーマーがあった方がいい。途中で捨てるのを前提に、使い古しのくつしたの先をハサミで切ったものでよい。

□エイドで水分をガブ飲みしないよう、ハンドボトルを手に持って走る方法をとるランナーもいる。

□シューズは軽く、クッション性のあるものを選択。アスファルトの硬さ対策。今回使用したアシックス・ターサーでは薄すぎた。

□薄いウエストバックに少なくとも以下を入れる。コース関門時間表、塩、胃薬、応急処置テープ、小銭(冷たいドリンクかアイスを買い体温を下げる)。コース関門時間表は汗やかぶり水で濡れるためビニルに封入しておく。

□急な登り坂は走らず速歩でいき、心拍数をいったん落とす。



【練習方法】

□月に1度以上100キロか、もしくは登りの70〜80キロ走を行う。

□スパルタスロンを走る格好(シューズ、ウエア、ハンドボトル、持ち物)で、200キロ試走を何本か実行する。

□登り坂の徒歩スピードをあげる練習をする。1キロ9分で歩く。

□体重を55キロ以下(身長167センチ)に、体脂肪率10%以下に調整する。

□スパルタスロンを完走するために達成すべき自己記録は、フル3時間10分以内、100キロ9時間以内、24時間走200キロ以上。このタイムに至らないランナーでも完走を達成している人は少なからずいるが、観察するに常人を超えた精神力と並外れた耐久力を有し、さらに何ごとにも屈しない根性があるとしか思えない。やはり、凡人ランナーとしてはそれなりのスピードを土台にしておかないと、完走はおぼつかない。