バカロードその66 生きるための不必要について

公開日 2014年07月08日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 そこそこの歳になれば多くの人が経験することだけど、癌告知を受けた。腸壁にできた悪性腫瘍は5段階あるステージの2段階め。切り取る範囲はギリ20mmに収まるから、開腹手術はしなくてもいいという。
 内視鏡手術で取ってみて、組織をタテヨコに細かく刻んで、腸壁の外とかリンパ節まで潜り込んでないか浸潤の深さを確かめるとか・・・というレベルなので余命×年なんて大それた話でもないんだが、癌ホルダーになって気づいたことがある。意外にも自分は死への恐怖心がないってこと。歯医者さんに「今日は歯のお掃除をしましょう」と言われただけで動悸が激しくなり、血圧が上がりすぎて意識が遠のくほどビビリ症な割に、今や死を恐れるどころか興味しんしんでワクワクが止まらないから得体が知れない。
 片道分の燃料だけ積んだプロペラ機のコクピットで敬礼し、青空へと旅立つ青年兵の最期ならば、生命の持つ価値も最大限に高まっているだろうが、こちとら平和日本の凡百たる人生の途上にあるオジサン。よどみに浮かぶうたかたのような無情な存在である。死なんてどのみち万人に訪れるし、1人だけ逃げ切れるはずもないから抵抗する気は起こらない。仮に死期というものがあるのなら、予定された期日をただ淡々と受け入れ、日数を逆算してやるべきことをやればよい、との安らいだ気持ちにすらなる。
 ステージ3以降ともなれば大手術も必要だろうし、抗癌剤治療によって嘔吐したり脱毛したり、全身のあちこちに転移して痛かったり苦しかったりと、今置かれた状況とは一変してしまうだろうから、あくまで死神の姿が見え隠れしてない現段階での心情にすぎないんだけど。
 昔から他人より人生が短く終わる心配よりも、長く生きてしまったときの心配ばかりしている。性格的に他人の温情に触れるのが嫌いで、何か施しを受けてもありがとうのひと言も素直に返せないひねくれた性格だから、余計に老後と呼ばれる年齢まで生存していることを恐れる。ヘルパーさんにおっぱいのひと揉みもサービスせいよとセクハラ戯言の速射砲を浴びせまくり、デイサービスセンターで問題ジジイ扱いされる余生しか想像できない。
 長く生きてこんなことやりたい、あんなことも経験したいという欲がない。商売の都合もあって、半年くらい先までの予定は考える習慣はあるけど、そこから先はいつも空白だ。スティーブ・ジョブスの述べるハングリー精神は野犬並みにあり、愚直さは社会適合できないほど備えているのだが、未来への展望と意欲が決定的にない。
 このような人間が、日本人の平均寿命まで80年生きてしまったなら、時間をもてあましすぎる。あと40年近くものあいだ暇をつぶす方法が見あたらない。
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 西洋医学が普及する前、統計の残る明治後期から1925年あたりまで、日本人の平均寿命は42〜44歳であった。ずいぶん若くして天寿が訪れるものだと平成人なら思うだろうが、これとて人類が共助社会を作り上げた後の話であり、縄文人の遺骨を解析すると10代後半〜30歳で死を迎えた事例が多数を占める。
 哺乳類の寿命は体重の1/4乗に比例する、と生物学者の本川達雄は述べている。成体となった動物は、その体重と心拍数に反比例の関係があり、体重が重いほど脈を打つペースはゆっくりしている。そして、哺乳類は成体の大小にかかわらず、心臓がおよそ15億回脈動すると自然寿命に達するとしている。その論で算すると人間の自然寿命は26歳だという。
 互助システムも医療もない時代には、自然界の他の動物と等しく、病に罹れば死に、怪我をすれば死んだ。それが生物としての自然の姿なのだ。あらゆる動物は天寿の時期を与えられるのに、人間だけが特異ケースとして意図的に寿命を長くすることに成功してきた。その結果が平均寿命80年である。
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 人間の生命の維持は、たくさんの殺生のうえに成り立つ。厳格なベジタリアンでない限り、動物や魚の肉、卵を日々摂取する。1日3食、そのうち2食で捕食をすれば、単純に1日2個体と換算しても80年間で6万匹の動物の生命の犠牲を強いている。つまり1人の人間を生かすためには6万匹の生命を奪わねばならない。しらす丼やいくら丼を食えば1食につき1000倍増に換算すべきだけどね。
 それは食物連鎖の普遍的な姿であり、地球上のあらゆる動物が行っている営みであって、特別に人間だけが虐殺王だと卑下する必要はない。アリクイは1日に3万匹の蟻を食わないと生きてられないし、シロナガスクジラは1日に400万匹のオキアミを口ひげで濾し取って養分にしながら、あの図体に成長する。
 しかし一個人に戻り、わが生命に他の動物6万余匹分の生命と釣り合いの取れるほどの価値があるのかと自問すれば、とてもなさそうだとの結論に至る。だから積極的には肉を食べない。動物愛護の信念から生じた考えではないから、ダブルクオーターパウンターも食うし、ミミガーもかじるのだが、肉食は週に1回くらいにしておく。生態系になんの影響も及ばさないけどね。
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 荷物は軽量、身軽がいい。
 外を出歩くときはクレジットカード1枚ポケットに忍ばせてたら万事こと足りる。電子マネー決済と交通系の機能がついてればよい。日常生活でもジャーニーランの最中でも、こいつと保険証があれば、生命維持に必要な物資とサービスの98%は調達できる。他人と四六時中つながっている必要については、いくら頭をひねっても思いつかないのでスマホも持たない。Nシステムやら顔認識システムとやらで自分がどこにいるのかを赤の他人に把握されるだけでも嫌なのに、さらに携帯基地局から発信追跡されたりWi-Fi使って位置特定されるのは更にウザい。
 わが国の男性は、若い頃はデイパック、おじさんになるとセカンドバックを携えるのが多数派だが、ぼくはふだんカバンに入れて持ち歩くべきモノが一個も思いつかないのでいつも空身の手ぶらである。
生きていくのに必要な道具って、広告チラシの裏にリスト書きできる程度のものしかない。ホームレスのおじさんがブルーシートでこさえた住居内に揃えてる生活用具一式があれば、不自由はない。
 何かを収集する癖は子どもの頃からなく、過去の思い出をファイルして時おり回想する感傷的な心も持ち合わせない。流行に無頓着でいられたら20年前の服でも平気で着られるし、いつ大地震が来るかと日々案じなければ食料を備蓄する必要もない。他人によく見られることを願わず、未来の安定を担保しようとしなければ、必要なモノはほぼなくなる。
 今はまだ世捨て人ではないので、バイクやスマホ(固定電話として)を所有しているが、生存に必需なアイテムではない。「職業」から離れた段階で手放すだろう。
死を迎える頃には、段ボール箱1個分に所有物がまとまっていて、気がついた人に燃えるゴミに出してもらっておしまい、くらいが清々しい。
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 春にある「さくら道国際ネイチャーラン」事務局から合格通知が届いた。4度目の応募で初の合格だ。名古屋城から金沢市兼六園までの250kmを36時間制限で走るこの大会は、超長距離ランナーあこがれの大会だ。あこがれるのには理由があって、めったに出場権を手にできないのからである。
 国内選手100人と少々の出場枠は常時有力選手で占められていて、前年にリタイアした人の枠数しか「新人」は参加できない。名うての猛者はめったにリタイアしない。1年にわずか10人出るか出ないかの狭い枠に新参者の実力者が殺到し、過去の実績と持ちタイム上位者から埋まっていく。平凡な過去実績しかないランナーは出る幕がないのである。
 毎年ハードルは上がり続け、今や100kmで8時間台以内、なおかつ萩往還250kmや川の道520kmレベルの大会で上位入賞、あるいはスパルタスロンを33時間台以内で完走、などの実績が必要とも噂される。だから、まずぼくには縁のない大会だと九割五分あきらめつつも、しつこく応募だけはしていた。
 去年、同大会は深夜の山越えエリアにドカ雪が降り、くるぶしまで雪で埋まるほどだった。そのためリタイア数が例年になく増えたという。そんな特殊事情でもなければ、ぼくレベルのランナーには席は回ってこなかっただろう。さくら道国際ネイチャーランの出場権は、250kmを主戦場とするランナーにはまさにプラチナチケットである。1度リタイアすれば翌年と翌々年の出場権がなくなる、とも言われている(主催者の公式見解じゃないですが)。
 3年先に250kmも走れる身体をキープできているかは相当怪しい。だから今回に賭けよう。 半年分の視野しかないぼくにはうってつけの獲物が鼻先にぶら下がったのである。ショートスパンで人生を生きよう。