編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2024年01月04日バカロードその169 アフリカ幻影編7「まほろしマボロシ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。赤道直下の約五千三百キロを踏破し、残り二百キロを切った。ゴールとなる大西洋岸の都市ドアラを目前にし、ぼくは旅の意味を見失っていた)

     ドアラまで百二十キロ。
     熱く焼けただれたアスファルトが、シューズのゴム底を溶かす。右足の靴底に穴があいてしまう。五千四百キロ、この一足でよく耐えたものだ。
     汗があごの先から滴る。落ちる汗の数を千滴かぞえると、水を補給する。サバンナの涸れ沢の底にたまった泥水だ。いくら飲んでも、もう腹は痛まないし、下痢にもならない。
     ずっと、この汗に意味があると信じてきた。球児が無心に白球を追いかける。そこにこそ意味があると説く大人たちのようにだ。しかし、それは精神的な未成熟さを、求道的行為でチャラ(合理化)にする、子供じみた行動のように思える。
     村がないので、今夜は野営する。
     ツェルト(簡易テント)の周りじゅうアリだらけ。侵入してきたのをプチプチ潰す。
     風が強い。ツェルトの緑色の壁が大きく波打つ。  通気口から雪崩れ込んだ空気の塊がローソクの火を乱す。  目を閉じても、光の揺らぎが見える。
     朝まで何時間あるのだろうか。眠れないまま、朝を迎えそうだ。
                  □
     日本を発ったのが遠い遠い昔みたいな気がする。
     東京では、一日をなんとか乗り越えるので精いっぱいだった。目の前の山盛りの仕事を片づける、それだけで一生を終えてしまいそうだった。
     「時間に追いつかない。助けてほしい」と繰り返し、精神の迷路に入った友がいた。時間は、どんどん足早に逃げ去ろうとする。パソコンのキーボードを高速で叩くように、地下鉄の階段を駆け下りるように、時間は刻々と背中を撫でて通り過ぎていく。テクノロジーや組織論が変革されるたびにスピードは増す。社会というシステムに生きるには、ゲームのルールを知り、自分をプレイヤーとしなくてはならない。
     日本を脱出したあの日、ぼくはその「システム」を否定したつもりだった。システムから最も遠ざかる手段がアフリカだったはずなのに、頭に浮かぶのは下らない妄想ばかり。この旅を終えたらどうしよう。アマゾン川でも下ってみようか。南極を歩こうか。たとえば歩いて地球を一周したら、強い満足感を得られるのだろうか…馬鹿馬鹿しい。サバイバルに強くなりたくて、こんなことやってるんじゃない。もう一度大学受験をして、知らないことを学ぼうか。受験勉強なんて苦痛でしかなかったけど、今なら参考書だって楽しく読めそうだ…いや、ぼくは実践でしか物事を吸収できない不器用な人間だ。座学では何も学べない。
     歩いているぼくに、村人たちは必ず問いかけた。
     「どうして君は歩いているんだ?」
     最初の頃、ぼくは言葉が出てこず口ごもった。わけのわからない衝動と冒険心、それだけでアフリカにやってきてしまったからだ。でも、今は答えられる。
     「こうやって歩いているから、キミと話せるんじゃないか」
     村人はニヤリと笑い、納得したよという表情を見せる。
     オートバイや自転車のツーリングではない、ヒッチハイクでもない。機械に拘束されずに、時速3㎞ののろのろスピードで進む徒歩を旅の手段として選んだのは、まちがいなく、人と出会って優しくされたり、ナメられたり、裏切られたりしながら、人間というものを知るためだった。
     不安のままに街をさまよい歩いたインド洋岸のモンバサ。熱病に倒れたケニア、環境に溶け込んでいったタンザニア、人間不信に陥ったルワンダ、生涯同じ場所で生きることの偉大さを教えてくれたザイール、悪友ヒグマと再会し「真理」を掴んだ気がした中央アフリカ共和国。
     そしてカメルーン。大西洋まで五十キロを切り、あさってには最後の街ドアラに到着する。アフリカに行くと決めてから七年目、ぼくの長い旅は終わる。
     ゴールが近づくほどに、言いようのない不安に圧し潰されそうになる。
     自分の足で確かにここまで歩いてきた。しかし、終止符の打ち方がわからない。極めれば、神秘的なエネルギーが降り注ぐものだと思い込んでいた。きっと最後に「完全燃焼」とやらの舞台が用意されているのだ、と。しかし、現実はウェルズの冒険小説ほどロマンチックではなく、ゴールは平凡な毎日の延長線上にある一日に過ぎないとうっすらわかる。
     むくんだ脚と傷まみれの腕、漂白された心。それだけを残して、ぼくはまたゼロに戻るのだ。
     出会った人々、できごと、密林の濃緑、荒野の紅土…。鮮烈に脳の襞にまで溶け込んだはずの記憶が、すっかりあいまいになっている。日記を読み返してみても、ぼくじゃない別の誰かが書いたような、実体のない感覚にとらわれる。千枚の写真も、千ページの日記も、千年後には砂となって、カケラも残っていないだろう。だから記録ではない「そこにぼくがいた」という記憶が必要なのに。アフリカが冷めていく。大麻草の幻覚が醒めるような感じ。アフリカで見つけたすべての言葉が色あせていく。
     この旅はマボロシだったのだろうか。
     ぼくの意識がマボロシか。
     存在自体がマボロシなのか。
    (つづく)

  • 2023年10月27日バカロードその168 アフリカ幻影編6「さいごの分裂病日記」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダ、ザイールのサバンナやジャングル地帯を踏破する。中央アフリカ共和国の首都バンギでは、永遠の宿敵であり登山家の「ヒグマ」と偶然の再会を果たし、自分たちの「旅」について無限のような対話を繰り返す。五千キロ余りを踏破し「最後の国」カメルーンの首都ヤウンデに着く)

     カメルーンの首都ヤウンデは、ドロ沼のようなぬかるみ地獄の向こうに、とつぜん現れる。巨大なビルディングの群れ。ラッシュアワーの人、人、車、車。人間がいっぱいいる。こんなにたくさんの人を見たのは、ケニアの首都ナイロビ以来、何カ月ぶりだろう。
     都市の住人たちは、みな目的を持って歩いている。どこかの方向へと急いで移動しようとしている。書類を届けるのだろうか。商談に向かうのだろうか。食べることや、眠ること以外にも、都市住民には果たすべき役割があり、要件に準じて動き回っている。統率者はいないが、何者かによって行動を規定されている蟻塚のアリと似ている。そんな都市的な集団行動に、ぼくはうまく順応できない。「神の意図」によって構成された密林世界の自由な行動規範と比べると、人間の意図によって造られた都市は、いたたまれない不条理性と窮屈さを放っている。
     ロータリー交差点の真ん中で、白いハチマキを巻いた二十歳くらいの女の子が、必死に車の数をかぞえている。乳房がはだけている。ノートに何かをメモしつづけている。服は汚れ、目は緑色に輝いている。ときどき、たまらなく不安そうな表情でアーという声をあげ、しゃがみこむ。じっと眺めていると、通りかかった人が「あれは、頭がおかしいんだよ。一年中あそこで車をカウントしてるんだ」といまいましそうに吐き捨てる。
     カメルーンの滞在許可の延長をするため入国管理局を訪ねる。英語を理解する係官が一人もおらず、さんざたらい回しにされたあげく、髭ヅラの小役人に「お前は今月末までにカメルーンを出国しなければならない」と怒鳴られる。そんでもって「バカは相手にしてらんない」といった侮蔑的なポーズを取られる。よくいる黄色人種サベツ者の典型である。この国の権力側…役人や警察官は、徹底的にサベツ主義者なのである。白人を敬い、アジア人を嫌う。「権力の犬野郎」と英語で罵声を浴びせてやる。誰もわかりゃしない。「イエロー・イズ・ビューティフル」だぞ、このボケども。 徒労感に包まれながら、街をさまよう、ヤウンデの物価は想像以上に高く、とても宿などとれそうにない。
     高層ビルの群れを見下ろす高台に、下町が発達している。ドロに覆われた街には、バラック仕立てのバーやパブ、映画館、屋台がひしめきあっている。どの店からも大音量の音楽や派手な嬌声がこぼれ、表通りを音の渦にしている。有名なカメルーン美女の「立ちんぼ」もいるがお高くとまっていて、向こうから声はかけてこない。
     ひと呼吸ごとに鼻孔をつく匂いが変わる。石鹸の清浄な香り、ガソリンオイルのつんとする刺激、カカオチョコの甘い誘い、腐った生肉の下卑た主張。
     下町はまだ神の意図が届く世界だ。無秩序で、誰にも管理されていない。街の構成に人の意図は介在しない。
     道ばたでヤマハバイクにまたがっているヤンキーっぽい若者に「マリワナ売っているところはない?」とたずねると「オーケー教えるよ。後ろに乗れよ」と荷台を指さす。オフロードの極地みたいなドロ地獄を、足首までもぐりながら数分走り、あやしい見世物小屋といった佇まいのダンスホールの前で降ろされる。
     壊れたジュークボックスとピンボールマシンが無造作に置かれたフロアで、不良たちは生ぬるいビールとカメルーン・ポップスに身をゆらせ、汗をしたたらせている。ダンスフロアの周りでは、売春婦やオカマの男娼が、今夜の食いぶちを求めて、人やテーブルの間を魚のようにスイスイと泳いでいる。
     ジャンキーたちがごっついマリファナの束を巻紙でたばね、産業革命の工場の煙突のように、豪勢な白煙を闇に吐き出している。
     「この日本人、マリワナが欲しいんだって」
     「やあフレンド、ここに座れよ」 と腰を浮かせ、席をあけてくれる。
     「日本人にしちゃあ汚いな」
     「今夜泊まる場所がないのか?」
     「ここで朝までいればいいさフレンド」
     「おれたちもここにいる、ずっとな」
     ジャンキーたちはサベツとは最も遠いところにいる。
     ズドーンと重い塊が肺に落ちる。
     思考が少しずつ加速する。
     オピウム、コーク、エル。
     瞑想の極みをめざして、旅に出る。足の踏み場もないほどの雑念が見える。ぬぐおうとする心もまた雑念である。と、考えることもまた雑念。雑念の陸地を進みながら、いつしか磨かれた鏡の表面のように、色のない、澄んだ精神状態になる。感じ取る、あらゆるものから感じ取る。すべてのものの心を見る。
     なんということだろう。ぼくは確かに世界の変化を実感している。現実の重い幕が、しずかに開け放たれ、ばら色の輝ける精神世界を見る。「かもめのジョナサン」が見た、光速の世界だ。これが「総て」というのか。
                  !
                  !
                  !
     ぼくは、自覚症状のあるうちに、自分を遺したいと考えている。ある瞬間から、ちがう扉の向こうに足を踏み入れる自身を予知しうるほどに、不安定だからだ。書き遺しておこうと思う。整合性よりも、いま考えていることを書き留めておかないと、ぼく自身が迷路に迷い込んだときに、精神の修復ができない。
     首都ヤウンデから大西洋岸の都市・ドアラ間は二百二十三キロ。
     その間、思考はまとまらず、ぼく自身を取り戻す作業で必死になった。一日中、何かをしゃべりながら歩いた。いったいどうなっちまうんだ。
     ぼくは「普通」を失い、自分を客観的に見られず、存在のありかがわからない。一気呵成に跳びすぎて、後方の自分を見失ってしまった。これからは虚像の自分を演じるしかない。
     「狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり」である。
     言葉を選ぶと、句は死ぬ。技巧ではなく、感じることや、感じとることが必要だ。心で感じてただ筆をおろせばいいんだ。絵画だって、文章だって、セックスだって同じだ。
      ぼくはアフリカで死ぬつもりだったのかもしれない。でも死ねなかった。だから、旅に終止符を打てずにアセっている。タライに張った水の縁で、足をバタつかせている羽虫のよう。羽は決して開かれず飛べもしないのに永遠に生きる。
     自分を知れ。自分は何も知っちゃいない。そのことを知らなければならない。
     ヤウンデの夜、ほんとうに「総て」の入口まで行ったのか。ぼくの見た世界はなんだったんだ。最高の到達点なんて、ありえるのか。あれは現実だったのか。ウソだ。あれは偽の世界だ。ドラッグはドラッグだ。ぼくはバカだ。ノンドラッグで、あの世界をもう一回見てみやがれ。いったいなんなんだ。「総て」なんてほんとにあるのか。
     旅の終着の地・ドアラに着いた瞬間、ぼくの内側にはなにもなくなるだろう。七年間、思い続けたアフリカが終わり、空っぽの存在になる。
     今までの旅の結末は、息苦しく、せつないものだった。氷のように冷たい真っ暗な海を漂流するような気分になった。なにかをやり終えたよろこびなんか、なにもない。
     自分には、歩くことしかできないのだから、歩くしかなかった。だから、歩き終えてしまうと、自己証明は崩壊する。
     ぼくにはなにも残らない。
     目的はなんだったんだ?
     アフリカとの融合?
     求道的精神?
     亡くした子犬への罪ほろぼし?
     すべてがそうだとも言えるし、すべてがニセモノのような気がする。
     自分の存在を確認したい。
    (つづく)

  • 2023年08月29日バカロードその167 僕とスパルタスロンとヘンテコな14年 スパルタ2023出場に挑んだ4つの街から

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     

    「路上から 台湾台北市」

     痛み止めを20錠呑んだ。
      ロキソニン、いくら飲んでもぴくりとも効かない。

     走ることができなくて48時間のうち45時間は歩いた。1時間だけ走って2時間は寝た。  
     「ずっと路上にいる」という誓いは簡単に破った。
      もうスパルタには行けないんだなーって思うと、涙が止まらなくなった。
                  □
      1年半、布団の上で過ごした。
     免疫が暴走する病気。あと、ひどい鬱病。
     1本50万円もする注射を2カ月に1本。抗うつ剤と睡眠薬は1日に15錠。医師との約束を守らず薬物過剰摂取をしていた。ボロボロだ。
      外に出られるようになったのは、2022年の夏。
      ネズミの細胞注射のおかけで、病が回復に向かい、同時に鬱も治ってきた。
      久しぶりに青空の下で、ランニングシューズを履き、吉野川の堤防道路に立った。
      嬉しかった。
      ところが、走ろうとしたら5歩で足が止まった。理由はわからない。走り方がわからないのだ。いろんなやり方で、手と脚を出してみるのだが、どんな順番でやればいいのか思い出せない。
      仕方ないので歩きだした。毎日、夜明け前から夜中まで。10時間、12時間、15時間。歩くことはできた。僕は元々、徒歩ダーなのだ。なんとなく存在証明ができた気がした。 走れない僕を、愛媛の河内さんがむりやり騙して、24時間走をやっている大阪の緑地公園に拉致した。もちろん走れないので6時間だけ歩いた。
     なぜだか翌日から走れるようになった。たくさんのウルトラランナーが楽しそうに走る背中を見て、感化されたんだろう。
     10キロのタイムトライアルをしたら1時間47分だった。自分はもうスパルタスロンなんて走ってたランナーじゃなくなったんだと自覚した。
                  □
     「ぼくはマラソンが好きなわけじゃなくてスパルタが好きだから走ってるんだ」
     と恩人の安藤さんは繰り返し言ってた。
     僕もそのとおりなのだ。
     走るからには、あそこを目指すしか選択肢がない。キロ14分しかスピードが出ないのに、どうしても、もう一回だけでいいから、あの戦いの舞台に立たせてほしくなった。走る動機がそれしかないから。
                  □
     毎日、夜明け前から夜中まで走る生活をはじめた。仕事は闘病中に辞めたので、走ること以外、することもない。
     100㎞走、170㎞走と距離を伸ばしていった。10月と11月には150㎞前後を8本やった。相変わらずスピードは戻ってこない。
     スパルタスロンの参加資格が欲しくて3レースに申し込んだ。
     10月の「瀬戸内行脚」。230㎞を36時間以内で資格が獲れる。序盤からまったくスピードが出ずトラブルのあった菅さんとゴジラさんを除けばダントツビリを独走し、170㎞で自ら走るのを辞めた。
     1月の「ジャパントロフィー」。200㎞を29時間以内で資格が獲れる。わずか20㎞で耐えかねる足裏と膝の痛みに苦しみ、全選手に置き去りにされた。歩くことしかできなくなり、85㎞まで進んだところで、主催者の方から心配のお電話を頂き、迷惑をかけたくなかったので辞めた。
     2月、台湾の首都で行われる「台北ウルトラマラソン」。48時間で280㎞以上を記録すれば資格が獲れる。2023年のスパルタ参加資格の取得期限は、2月25日までの記録なので、これが最後のチャンスだった。
     レース3日前に、台北の路上で大暴れした。細い路地裏の道を歩いていて、行く手を阻まれた。喧嘩を売ってきた相手は最初は2人、徐々に仲間が加わり最終的には5人。台湾マフィアなのかな、目が血走って入墨の入った連中だ。打撃には応じす、徹底的に掴まれ密着戦に持ち込まれて硬いアスファルトの地面に10度ほども叩き投げられ続けた。喧嘩慣れしていて決して逃がそうとしない。アジトのような家に引っ張り込まれようとしたので、手を振り切って逃げた。
     右肘の関節部分に突起が飛び出している。左大腿部の打撲は、収まるところかレース当日まで日増しに痛みを倍増させている。頭頂部には謎のタンコブがたくさんあった。どんなボコられ方をしたら、こうなるんだろね。
     レース前日に、試しに横断歩道が青信号に変わったタイミングで走ってみたら、着地の際に大腿部の鋭い痛みが脳天まで突き抜け、10歩と走れなかった。
     しかし、スパルタの資格を獲るんだという気持ちに、いささかのブレもなかった。
    (つづく)

  • 2023年08月14日バカロードその166 僕とスパルタスロンとヘンテコな14年 スパルタ2023出場に挑んだ4つの街から

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     

    「走るんだよ。もっともっと 愛媛県松山市」

     20分後に瀬戸内行脚のスタート地点に向かう。
     ヤバい。ヤバすぎる心境だ。
     スパルタスロンのスタートの朝と同じぐらい高揚している。心臓が高鳴り、足がもぞもぞする。病気をして2年間一歩も走れず、床に伏せっては「もう二度と戻ることはないんだろな」と思っていたガチの舞台に戻って来れたんだ。こんな幸せはないけど、スパルタの資格タイムである36時間以内が出せなければ、何の意味もないことも自覚している。ほんと意味なしだ。

     スパルタスロンを完走した頃のスピードは、まったくない。だから頭から突っ込む。突っ込むだけ突っ込んでタイムを稼ぎ、潰れたあとは、早歩きで歩き、ラスト10㎞だけ60分でぶっ飛ばそう。それが僕の培ってきたスタイルだ。やってみせる。
     エイドの皆さんにはお世話になるが、僕はほぼ立ち寄らない。ランナーの皆さん、お会いして弱ってる僕を見かけたら、闘魂ビンタを喰らわせてください! 走力はないけど、燃える闘魂だけはあるので!
                  □
     スタート直後に先頭で飛び出すと、100m先で道を間違え、10人ほどの方に「そっちじゃなーい!」と呼び戻された。
     20㎞も進むうちに、全ランナーのスピードについていけなくなり、「人命救助中」という一人の選手を除いて最後尾に落ちた。
     それでもスパルタ参加資格である36時間を切ることへの意欲は衰えることなく、決して足を止めず、走り続けた。
     86㎞地点にあるしまなみ海道大三島のクラフトビールエイドで初めて3分ほど腰をかけた。頭で計算すると、その時点で38時間ペースであることを自認した。
     これはマズいなと内心焦っていると、それを見透かしたかのように、今回故障してサポート役に回った三井田さんと、脱水症状に見舞われ最後尾から現れた生きる伝説・ゴジラ小川さんお二人から「キロ6でいけよ!」とムチが入り、ペースをキロ6に上げた。
     最初はすごく調子よくて「全員ブチ抜いてやるぞコラー」ってガンガンに夜道を飛ばしていたが、そこで1カ月しか走り込んでない現実にさらされた。キロ6は15㎞ほどで限界を迎え、脚に力が入らなくなり、眠気に襲われ、軽く嘔吐もやってきた。何より先週実施した100㎞+160㎞走の際に傷めた足裏の打撲が、激痛となって襲いかかってきた。ああ、懐かしい、これぞ200㎞オーバーの世界だな。
     それでも耐えていたが、当初100㎞を13時間30分でいく予定が16時間半もかかってしまった心理的ショックが、とどめを差した。
     ついには走るのをやめてしまい、大島の無人交番のソファに置いてある等身大ぬいぐるみにもたれて、5分ほど休んでしまった。
     交番を出ると底冷えする寒さと、足裏の痛みは針山を歩くがごとしで、まったくダメダメになった。5㎞続く来島海峡大橋を居眠りをしながら走ると、橋の欄干や車道との仕切りに何度も激突してはハッと目が覚めるのを繰り返した。海に落ちなくてよかった。
     朝が来ると眠気は収まったが、とてもじゃないけど36時間に間に合いっこないというペースに落ち込み、歩き始めてしまった。
     メインロードは日曜ともあって車通りが多く、何やかんやで伊予灘沿いのこの道は10回以上は走ってるので、今まで通ったことのない裏道を選んで進んだ。瓦造りの盛んな土地だけあって、門邸や屋根の瓦が家ごとに特色があって、見物するのに飽きない。
     掃除や散歩中のたくさんの町人から「何やっとん?」「どこから来たん?」「どこ行くん?」と質問攻撃を浴びた。みな親切だった。
     海辺の歩道上から釣竿を5本も使って海魚釣りに勤しむオッチャンたちとも長話をした。
     レースを諦め、完全なるジャーニーランモードとなってしまった。
     160㎞あたりで超ウルトラマラソン界の神様・ゴジラ小川さんが軽快に追いついて来られたので、楽しいバカ話をしながら170㎞地点の松山城下まで進んだ。初めて長話をさせていただいた神様は、想像を超えた大莫迦者だった。尊敬するしかない。
     松山城ロープウェイ乗り場横の加藤嘉明像についたときは午後4時を過ぎていて、大会の打ち上げ宴会開始まで2時間を切っていた。230㎞を完走するには、ここから30㎞先のJR下灘駅まで往復しなければならない。今の激遅ペースだとゴールは朝までかかると判断し、今いる170㎞でリタイアを決めた。この瀬戸内行脚には過去に5回参加させてもらったが、リタイアしたのは初めてだ。
     やめるって決めたときは特に悔しさもなかったのに、ホテルまで足を引こずりながら歩いているうちに、「何やってんだ」「何で諦めたんだ」「まだ走ってる人がいるのに、何で宴会優先なんだ」と自分に腹が立ってきた。
     真夜中にゴールした方々の写真…特に人命救助に時間を取られ、深夜0時を回っても走り続けた菅さんの写真を目にすると、ますます情けなくなってきた。
     スパルタ参加資格36時間なんてどーでもいいじゃねーか。何で走るのをやめたんだよ。今は今しかないんだよ。今がんばれないヤツが、未来にがんばれるはずないわさ。こんな下らない判断(リタイア)するのはバカはバカでも、最悪の方のバカじゃねーか。
     練習が足りないんだよ。元々まったく走る才能もないのに、アホほど月間走行距離を稼いで、何年もかけて走れるようになったんじゃねーか。
     もっと走らないとダメに決まってる。脚が壊れるギリギリまでトレーニングして、ようやく五流レベルなんだよ。
     やり直しだ。悔しさを晴らすには、走る以外に道はない。年齢なんてカンケーねえよ。走るんだよ。もっともっと。

     

    「何も抵抗できない無力さ 沖縄県那覇市」

     間抜けである。  2023年1月、沖縄で開催される「ジャパントロフィー200」に向かっている最中だ。
     レースの主催者である根本さんが送ってくれる丁寧な大会概要にきちんと目を通したのは、那覇行きの飛行機の待ち時間だ。しかも、他のサポートの方のブログを読んで、「やけに93㎞の関門が厳しい」と書かれていて、初めて真剣に各関門の時間を見た。
     ■第1CP(チェックポイント)/  36・5㎞地点
     「ニライカナイ展望台」
     関門時刻:スタートから4時間30分
     ■第2​CP/93㎞地点
     「金武町駐車場」
     関門時刻:スタートから11時間30分
     ■第3CP/122㎞地点
     「三原共同売店前」
     関門時刻:スタートから16時間
     ■第4​CP/151㎞地点
     「金武町駐車場」
     関門時刻:スタートから21時間
     ■ゴール/200㎞地点
     「奥武山公園」
     関門時刻:スタートから30時間
     確かに93㎞が11時間30分と厳しい。100㎞に換算すると12時間15分ほど。これはスパルタスロンの100㎞地点関門の12時間25分より10分早い。100㎞のタイムだけ考えると12時間15分は大したことないように思えるが、そこには頻繁に現れる信号待ちや、大を含むトイレ休憩、サポートをつけない僕には自販機でのドリンク購入と飲用のロス、ガス欠になる手前でのコンビニなどでのカロリー補給が含まれる。更には序盤は登り下りの連続だと聞いている。
     つまりやはり、走っているときはキロ6で行くしかなさそうなのだ。
                  □
     午前4時、大会発案者であり伝説的ランナーである岩本さんの合図で、50名ほどがスタートを切る。スタート直後から、集団の凄いスピードに圧倒される。キロ6で進んでいるのに最後方だ。なんとか集団に取りついているが、離されないので必死だ。
     赤信号になると前には追いつける。先頭グループの凄い方々は、信号待ちのたびに談笑を交わし記念撮影をしている。この人たちは化け物だ。恐ろしい。こっちは既に汗だくなのに。
     5㎞ほど走っていると身体が温まってきて、そこそこ脚が動きだしたので、前を追走しはじめる。ガーミンの表示でキロ5:20まで上げると、前方の選手を追い越しだした。93㎞関門を突破するには、できるだけ序盤にタイムの貯金が欲しい。調子は悪くないのかなあ、と思っていた。
     15㎞までにスピードランナーかつ実力者のカトルスや三原くんを追い越してしまった。他の方のお顔を見回しても日本代表クラスやフル2:40台の選手たちだ。ちょっとこれはやり過ぎたと思い、キロ6までペースを落とすと、またまた全員に抜かされ始めた。皆さん5:30イーブンで坂や階段を走られている。やはり凄い。自分が場違いな所にいるんだなと再自覚する。
     それでもキロ6付近を維持していたが、まずい事が起こりはじめた。集団にいるときはきっと興奮状態で麻痺していた左膝の痛みがぶり返してきた。痛みだけなら我慢すればいいのだが、着地した後に上に引き上げる動作ができない。左脚をずるずる引きずるようなフォームになる。(後の診断で左膝・前十字靭帯損傷。かろうじてミリ単位で繋がっており、スポーツ整形外科医師によると「グジュグジュの状態」らしい)
     それだけではない。下り坂で着地した瞬間に、左足の甲にビリリと鋭い電流が走った。一歩地面に接する度に感電したような痛みが頭の先まで流れる。
     あまりの痛みに耐えかねて鎮痛剤を飲むが、10分経っても20分過ぎても、痛みは引いていかない。(後の診断で左足裏前足部・種子骨の骨折)
     30㎞手前からほぼ歩きになり、リタイアされた方を除けば、全員に追い抜かされ、ダントツのビリに落ちる。このままでは第一関門の36・5㎞、4時間30分ですら越えられない。
     わざわざ沖縄までやってきて、朝の8時半にレースを終えるなんてアホにも程がある。痛み止めを更に飲むために、民家の前にある水道の蛇口を借りようとお爺さんに挨拶したら「その水道は使えないよー。うちに上がりなさい。冷たい水を出してあげるから」と親切に言ってくれたが、「マラソン大会中で、自分はビリで、先を急がないと失格になる」との説明をし、裏のお勝手口でお水を頂いた。
     36・5㎞のニライカナイ展望台は、とんでもない坂道の上にあった。当たり前だ、「展望台」なんだもんな。登りを全部歩いていると、折り返してきた選手たちが「残り850mですよ」とか「(関門閉鎖まで)あと14分ですよ」など声をかけてくれる。ありがたい。
     関門閉鎖の10分前にやっと展望台に到着した。下から駆け上がってこられた岩本さんが「この先は下りが続いて平坦になりますよ!」と励ましてくれる。「はい!必ず第二関門突破しますから」と返したけど、きっともう無理って思われてるんだろうなーと想像する。
     下り坂もまったく走れずに歩き続ける。一歩一歩、踏みだすのが怖いくらい痛い。骨にヒビでも入ってしまったのかな。アメリカ横断の最中に足の甲の中足骨を折ったことがあり、その痛み方にすごく似ているのが嫌な感じだ。
     当大会では全選手の現在地点がマップ上に掲示される。50㎞あたりでGPSマップを見ると、他の選手は全員10㎞ほど先にいて、僕一人が大きく取り残されていた。走りを再開できたとしてもキロ5分台でいかなければ、93㎞関門が越えられないことも把握した。
     無力だった。いろんな方法を試してみた。走り方を変えたり、着地する足裏の位置をずらしたり、4度目の痛み止めを飲んだりした。脂汗を大量にかき、喉がやけに乾く。自販機でドリンクを10本以上飲んでも、喉はカラカラのままだ。
     93㎞関門閉鎖の15時30分が過ぎる。この時点で失格が確定する。前ゆくランナーは全員が突破したようだ。さすがである。こっちは200㎞の半分もいかないうちにリタイアなのに。
     本来は失格の裁定が下れば、バスを見つけて那覇に帰るべきだが、歩いてでも93㎞には進みたかった。もはやペースは時速4㎞よりも遅い。関門時刻を3時間もオーバーした午後6時半頃に着きそうだ。
     だが夕方5時前になって主催者の根本さんからお電話を頂いた。「このまま進むと、今日が休日ということもあり那覇行きの最終バスに間に合わなくなる。スタッフも、坂東さんが夜になって路頭に迷わないか心配している。なんとか自力でバス停を探し、那覇に戻ってもらいたい。お家にちゃんと帰るまでがジャパントロフィーですよ」と説得される。
     こんなジジイのわがままな行動に、若いスタッフの方々を心配させたことに痛く反省する。「止められるまでは進む」なんて自己陶酔バカの極み。これは個人ジャーニーランではない。主催者やスタッフの支えあっての催しなのだ。関門時刻が過ぎた時点で、さっさとギプアップ宣言すべきだった。
     根本さんからのお電話直後に、眼下に大きな市街地が見えてきた。「石川」という海辺の町だ。Google mapsでバス停を検索したが那覇行きのバス停は見つからず、だいぶ手前のコザや知念行きしかなさそうだ。
     道ゆく方3人に那覇行きのバスがないか尋ねたが、よくわからないようだった。那覇から40㎞ほど離れたこの町は那覇経済圏ではなく、お買い物は地元の大きなイオンか、近くの沖縄市で済ませているようだ。
     4人目に道を尋ねたお兄さんが「石川インターの高速道路の出口に行けば、那覇行きの高速バスがありますよ」と教えてくれた。最終バスが何時かはわからないけど、とりあえず1㎞離れたインター出口まで走る。
     バス停に着いて時刻表を見ると、2分前に那覇行きバスは去ってしまったみたい、ショック! バス停の柱に背中をもたれかけさせたラッパー風のお兄ちゃんがいたので「もう那覇行きって行っちゃたんですかねー」と訊くと、ヘッドフォンを外しながら「ぜんぜん。まだ2本手前のバスも遅れて来てないよー」とのこと、ホッ。
     1分もしないうちにバスが来た。席に着いてスマホを見ると、先にリタイアした秋山もへいさんから「早く那覇に帰って来い、反省会やろう!」とメッセージが入っていた。きっと一人ぼっちで寂しさを持て余してるんだろう。では帰るとしますか、もへいさんの待つ那覇へ。
    (つづく)

  • 2023年08月07日バカロードその165 僕とスパルタスロンとヘンテコな14年 スパルタ2023出場に挑んだ4つの街から

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     

    「走れないなら歩けばいい 徳島県徳島市」

     スパルタスロンとは毎年9月下旬、地中海に面したギリシャで行われる総距離246・8㎞、制限36時間の超長距離マラソンレースである。  スタート地点を首都アテネの中心部にあるアクロポリスという遺跡直下とし、ゴールを古代戦闘国家として繁栄したスパルタ市に置く。

     僕はこのスパルタスロンに2010年から挑戦をはじめ、通算成績は1完走・9リタイアという惨憺たるものではある。しかしその魔力にとらわれ、挑戦を諦められずにいる。 大会に出場するには、あらかじめ規定された成績を残す必要がある。主だったクリア値は以下だ。
     200㎞以上レースを29時間以内で完走。
     220㎞以上レースを36時間以内で完走。
     24時間レースを180㎞以上走る。
     48時間レースを280㎞以上走る。
     以上の記録を過去2年以内にマークし、その客観的証明を行う。
     コロナ禍の期間に、僕のこれら資格は消滅した。2023年9月に行われるスパルタスロンに参加するには、新たにこれらの記録を叩き出さなければならない。4年前なら「楽勝」の部類のハードルである。半分遊んでいても出せる。しかし、僕を取り巻く状況は非常に悪いものであった。
     2年近く寝たきりになってた。外を出歩くことはおろか、立ち上がるのも困難だった。
     ずっと寝てるもんだから、お布団は臭くなったねえ。いや、最低限の天日干しはしてたんですよ。しかし24時間寝てると、さすがに体臭がしみこむわ。
     運動消費カロリーゼロのくせして、キットカット、白くまアイスファミリーパック、ミカン大袋、カッパえびせん紀州梅味…と偏食は一層ひどく、2年間で体重が56㎏→86㎏と30㎏増えた。
     こんな感じなんで、働きつづけるなんてとんでもなく、もともと辞める予定だった仕事を前倒しして退職した。五十過ぎの中年が無職になってしまったのだ。
                  □
     状況が少し好転したのは、2022年の6月ごろ。
     大学病院の治療がうまく効いて、体調が良くなったのだ。何やらネズミの細胞を体内に注入してるらしい。
     そりゃ治るもんなら、カバの歯くそだろうと、アリクイの唾液だろうと、何でも突っ込んでちょうだい。
     7月には久しぶりに太陽の下に立った。
     それで走ってみよっかなってんで、駆け出してみたんだけど、10歩も続かなかった。
     市民ランナーが昔を振り返ってよくのたまう「最初は500メートルで息が上がりました!」とゆうヤツとは違う、なんか走り方自体がわからないんですよ。手と脚がバラバラってーか、同じ動きすぎるってか。意識して走るフォームを作ろうとすると、ますますぎこちなくなって、走れなくなる。
     それで仕方なく歩きはじめたんだ。
     こっちは仕事も辞めて、時間は無限にあるので、夜明け前から歩きだしては、日没すぎても歩いてました。
     最初はまあまあ楽しかったんですよ。久々のお外だしね。しかし2週間もすると飽きたねー。見る景色は毎日変わり映えしないしさ。
     それで持て余した暇の解消のために、あいさつ運動を始めたんだ。とにかくすれ違うすべての人、お年寄りから幼児まで、のべつまくなしに爆音で「おはようございます!」「こんにちは、いい天気ですね!雨ですね!」と声をかけまくった。
     そりゃ最初はこっ恥ずかしかったですよ。なんせ社会人のときは一切定番の挨拶をしなかった人なので。←どんな人?
     なんか嫌だったんですよ。心の底から思ってないのに「おはよう」「行ってらっしゃい」「お疲れさま」って口にするのが。朝は早いに決まってるし、仕事は取材なんだから外に出ていくのは当然だし、若いヤツらがいちいち疲れるはずないだろって。 そんなへそ曲がりはさておき、ウォーキングの暇つぶしあいさつ運動、ヤバかったですわ。
     「いい話し相手が現れたぞ」って目を輝かせるおじい、おばあの餌食になりましたね。持病と病院通いの話は定番で、お得意は悪口ね。嫁の悪口、連れあいや親戚の悪口大好き。貰い手のいない独身息子への嘆きも多いね。墓じまいの相談までされたな。
     その日、ウォーキングコースにある徳島市立高校のわき道「さわやかロード」を歩いてたら、すんごい歓声が聴こえてきたの。ふだんはしんと静かなのに。そしたらグラウンド全面と体育館全フロアで校内球技大会やってたんです。まあ十代のエネルギーは凄いね。プレーしてる生徒は生き生きと躍動してるし、応援してる子たちの声やリアクションが眩しくて眩しくて。若者だけが持ちえる無限の生命力がほとばしっている。
     校庭の脇で腰掛けてダベってた10人くらいの男子に「おはようございます」って声かけたら、全員がこっち振り向いて「チワーっす!」って大声で返してくれて、なんかシンプルに感動して鳥肌立った。
     その日から青春ブームに突入して、TSUTAYAで「白線流し」「高校教師」「1リットルの涙」「サマータイムマシーンブルース」「青春デンデケデケデケ」…借りて見まくりました。
     特に「白線流し」に心打たれました。昔、観たはずなんだけど、ストーリーは全部忘れてた。いやー良かったですよ。主演の長瀬智也と酒井美紀の芝居に没入できるのは当然として、脇を固める京野ことみ、柏原崇、馬渕英里何、中村竜、全員ステキ。中でも惚れたのが町工場勤務のヤンキー役の遊井亮子ね。社会の矛盾を睨みつけるような目がケガレなくて綺麗だわあ。
                  □
     あいさつ運動にも慣れてくると、今度は近所をぐるぐる巡るのが退屈で嫌になってきた。そこで遠征を始めたんだ。いや、こちとら歩きなんであまり遠くまでは行けませんが。自宅のある徳島市川内町から徳島空港とか鳴門海峡とか、標高538mの大麻山とか。往復で40㎞近く歩いたね。歩くの遅いし、よくへばって休憩するので、帰着が深夜になることもあった。
     基本、お金は持たずに家を出るので、給水はもっぱら公衆トイレかコインランドリーか、あるいは人の家の前にある水道蛇口からの水泥棒。夏なんでね、生ぬるくて不味いんだわ。
                  □
     そんなことしてるうちに、ある夜、遅くに電話が鳴ったんですよ。誰かもわからない電話番号がスマホ画面に表示されてました。こんな夜中に誰なんだろ?って思ってボタン押したら、あの恐ろしい鬼からでした。
     愛媛の河内さん。
     あのさ、電話もらえるのありがたいんですけど、そっち側の風の音がビュービューやかましくて、ほとんど聴きとれないんですけど。明らかに外を走ってる最中じゃないんですかね?
     風の止む隙間に聴こえてきたのはこの質問。
     「坂東くんって、昔、スパルタの練習で佐田岬(愛媛県の四国最西端の岬)まで走ってなかった?」
     ほおほお、確かにそんな元気あり余る頃もありましたな。
     「はあ、走りましたけど」と答える。それが何か?
     「それ、レースにしてみたらどう」
     立て続けに、
     「してみたら?」
     状況がよくわからないので、中途半端な返事しかできない。もごもご言ってると、
     「また打ち合わせしよや。松山いつこれる?」
     そして、抵抗できるだけのバイタリティとディベート力に欠けるぼくは、なし崩されるがままに、愛媛に向かう羽目となってしまった。
     河内さんは、ほとんど何も決まってない段階でインターネットで発表した。そこにはこう書かれていた。
     「待望のアドベンチャーレース 坂東カップ開催!」
     はあ? 誰が待望してるってんだよ。
     いちばん嫌なのが「坂東カップ」って名称だよ。それ、まるでブラジャーのサイズみたいじゃね。…このあと、たくさん紆余曲折あるわけですが「坂東カップ」だけはかたくなに拒否して大会名称は「バカロード300」(300㎞走るって意味です)に落ち着きました、ほっ。いやいや、ほっとしてる場合じゃないって。知らん間に大会やることなってるし。自分が走れもしないのによ。
                  □
     恐怖の電話はこれで終わらなかった。
     「来週の○日、時間あいとる~?」と今度は陽気だが、相変わらず風の音がビュービューうるさい鬼だ。ぼくは無職なので、もちろん全日予定はない。
     「はあ、あいてますけど、何か?」
     「わかった、朝にそっち行くわ。とりあえず運動できる格好だけしとって」
     「え、でも僕まだ走れませんけど」
     「大丈夫、大丈夫。ほんじゃおつかれさまー」
     出たよ。また得体の知れない深夜電話。
     仕方なく指定された朝、運動用のシャツとパンツ履いて待ってたら、僕んちにやってきました。
     「せっかくなんで、上がってください」と言うと、なぜか河内さんはせわしない。2分もしないうちに「ほんじゃ行こか」と立つ。どこ行くんですか?と聞いても教えてくれない。
     それでマンションの下に停めてあった河内さん専用タコ焼きマシン搭載の軽ワゴンに乗り込む。助手席の床には穴が空き、その部分をスーパーのチラシかなんかで隠し、ガムテープで貼りつけてある。今どきカンボジアやラオスでもこんなボロ車走ってなさそう…。
     どこ行くんすか?
     「淡路島かなあ」 とか言ってはっきりしない。
     カーナビに目的地までの距離が小さく表示されている。160㎞とあった。明らかに淡路島を通り越している。
     「160㎞って淡路島じゃないでしょ。まさか、大阪ですか? アレじゃないですよね。Y子さんがやってる24時間走の大会じゃないですよね?」
     「当たりー。大丈夫、大丈夫。ランナーにタコ焼き焼いて食べさせるのが目的やし、6時間だけ走ろう」
     でも、僕まったく走れないんですけど。
     「走れんかったら歩いたらええんよ。歩いたら」
     そして僕は大阪のどこだか知らん公園まで拉致され、主催者からその日欠席した人のゼッケンを渡されシャツにピン留めし、何が何だかわからないままスタートラインに立たされた。
     スタート直後から全員に置き去りにされて、仕方なく6時間歩きつづけた。ちょうど30㎞で時間が来た。やれやれ疲れたよ、けど久々に走る人たちとコースを共にできて楽しかったナー。
                  □
     この日を境に、どんな効果なんだか、走ることができるようになった。全力で走ると10㎞に1時間47分かかった。これでも自分的にはスロージョグじゃない。息をゼェゼェいわせてのトップスピードなのだ。気持ち的にはキロ4分、しかし後ろに流れてく景色はスローモーションのように遅い。けどね、嬉しかったね。なんせ走れたの2年ぶりだから。どんなに遅くても、ウォーキングのオッチャンやちょこちょこ散歩する豆柴犬に軽く追い抜かされても、走るのは気持ちいい。
     8月、汗をどぼどぼかいて、毎日10㎞のタイムトライアルを繰り返した。体重は歩きはじめた2カ月前から22㎏減った。メシを食っても食っても痩せていくのだ。たいした距離走ってないのに不思議だわ。
     そして9月の「バカロード300」の当日を迎えた。話すと長いので詳細は「タウトク」2022年11月号に、大会の様子をまとめたリポートが6ページにわたって掲載されているのでぜひご覧ください。感想を述べるとこれまたクソ長くなるので、ひとことで。「ランナーよ、カッコ良すぎだろ」です。完走した人もリタイアした人も、全員が光って見えました。夕陽に飛び込んでくランナーの後ろ姿って、あんなにいいもんなのね。永く走ってきたけと、まったく気づいてなかったよ。
     そして、強くこう思いました。絶対この舞台に還ってやるって。
     3日後に迫った瀬戸内行脚(愛媛県・230㎞・10月)で、2年ぶりにレース復帰する。レースなんだから、やれるだけやってみますみたいな甘い事を言うつもりは毛頭ない。そんなゆるい姿勢で走る人を主催者の鬼は許さないだろう。本気でスパルタスロンの参加資格である36時間以内を獲りにいく。
     もちろんこのジャンルの困難さは嫌というほど知っている。230㎞という距離は、たったの1カ月ぼっちの練習で攻略できるほど甘いものじゃない。しかし、2023年のスパルタ資格の取得期限は2月25日時点までのものと厳密に定められており、獲得できる可能性があるレースは、この瀬戸内行脚と1月に沖縄である「ジャパントロフィー」の2本しかない。走れない理由をうだうだと上げてる暇はないのだ。
     僕は、僕の脚と身体の特性を知っている。潰せば潰すほど強くなるのだ。だから先週、100㎞走と160㎞走を中5日で行った。両方とも盛大に潰れた。ホントは昨日と今日200㎞走る予定だったのだが、足の裏が腫れ上がって歩くのもままならずDNS(直前逃亡)してしまった。だから不安要素がないわけではないが、もう腹はくくった。あとは突っ込むしかない。
                  □
     思えば人生の多くの熱量を費やしてきたスパルタスロンだって、あの悪魔のささやきから始まったのだ。
     プロポーズした女性にふられた哀しさを忘れるために走りだした無欲で凡庸な市民ランナーであった僕が、某大会を終えて無防備に休憩していると、あの恐ろしい人が笑顔で近づいてきたのだ。
     もちろんその時はこの人が地獄からの使者だなんて知る由もない。
     「徳島から来たんやって? スパルタ出んのん?」
     「スパルタって何ですか?」
     「最初はちょっと走るけど、あとはレクリエーションみたいな大会よ。楽しいよ。来てみたら?」
     ふーん、楽しそう。こんな優しそうな人が声かけてくれて、誘ってまでくれて。ギリシャも30年前に旅行して以来だし、どんなに変わったか観てまわりたいな。「スパルタ」とかゆうレクリエーションも良さげだし。
     こうやって、まんまと罠にハメられた。
     そこには娯楽の要素はまるでなく、あったのは生き地獄だった。ゲロを吐き、意識は途切れ、目の前が真っ白になったらジ・エンド。毎年同じことの繰り返し。完走できるまでに10年という途方もない歳月と、4倍の季節が流れていった。
                  □
     いつもあの鬼は笑顔で現れる。ふだんまったく接点がないのに、とつぜん目の前にフイっと登場しては、あの5文字をつぶやいて去っていく。
     「してみたら?」
     「来てみたら?」
     その瞬間から、ぼくの人生の歯車が10年分動きだす。
     今はバカロードの活動をグローバルなものにしたくてNPO法人の設立準備に取り掛かっている。軌道に載せるまでに10年はかかるだろう。また10年だよ。翻弄されすぎなんだって。あの人は誘うだけ誘って、あとは本人次第だろうよって冷てーんだから。
     とりあえず土曜日、死ぬ気で鬼の手のひらの上で暴れてきますわ。道中お会いするであろう皆さん、僕が弱気を少しでも見せたら、全力でしばいてください。
    (つづく)

  • 2023年07月31日バカロードその164 アフリカ幻影編5「しんしんと降りつもるように、しずかに降る。」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダ、ザイールとサバンナやジャングル地帯を踏破する。中央アフリカ共和国の首都バンギでは、永遠の宿敵であり登山家の「ヒグマ」と偶然の再会を果たし、自分たちの「旅」について無限のような対話を繰り返す。四千五百キロ余りを歩き「最後の国」カメルーンに入国する)

     道は深い森に入る。
     「サピック」と呼ばれるエゲつない虫が、カメルーンの森に棲息している。体長わずか〇・一ミリくらいの土埃のようなこの吸血小虫は、数千匹という集団で、人間や家畜を襲う。サピックは微小すぎて、飛んでいるときは目に見えない。だから、避けようがないのだ。気づくのは襲われてからだ。
     ジャングルの巨大な切り株の上で昼寝をしているとき、初めてこの憎っくき虫の襲撃を受けた。鼻ちょうちんを膨らませながら、穏やかなシエスタを愉しんでいたぼくの全身を、激痛にも似た強いかゆみが襲った。なにがなんだかわからない。発狂しそうなくらいかゆいのだ。真っ赤な発疹が、肌の露出している箇所すべてにブツブツブツと現れる。五十個、百個、二百個と増殖していく。爪をたてて掻きむしる。掻いた部分にみるみる血がにじむ。顔も首もかゆい。たまらずガーァと叫ぶ。
     悶絶しているうち、太陽光線の光の中に、微かに反射する塵芥のようなものに気づく。腕にぐっと顔を近づけて凝視する。小さな、ほんとうにミクロな羽虫が、びっしりと肌を埋め尽くしている。こいつらか原因は! からだじゅうをシャツではたく。犬みたいにからだをプルプル震わせ、羽虫を肌から離す。
     その日ぼくは、太陽が沈むまで、このイカれた羽虫と格闘しなければならなかった。動きつづけていなければ、襲われちまう。歩き疲れて腰をおろせば、ふたたび攻められるのだ。首都ヤウンデに達するまで、このサピック野郎に襲われつづけた。
                  □
     密林の民が大好きな川遊びの習慣に従うにつれ、寄生虫にも悩まされるようになった。タチの悪いのは足ミミズ。左足の薬指にできたマメの中に黒い塊を発見し、安全ピンの先でほじくり出すと、グロテスクな緑色の足ミミズがピュッと飛びだす。黄色い卵もぐじゅぐじゅと百個くらい出てくる。穴の深さ約五ミリ。骨に達するかと思うくらい、肉を深く食い破っている。しつこい足ミミズは肉に噛みついて、なかなか引っ張り出せない。こうなると血と膿まみれの格闘だ。
     足ミミズより不安なのが、キンタマの腫れである。カメルーン入国以来、左のキンタマが、直径で三倍ほども腫れあがり、マンゴスチン大に成長している。もしかして寄生虫なのだろうか。それともマラリア薬の飲み過ぎでホルモンの分泌が狂ったのだろうか。痛みはないのだが、左右バランスよく歩けなくて、格好わるい。
     寄生虫に蝕まれた分、ぼくだって自然に寄生してやる。密林の民のタンパク源である昆虫の幼虫食に凝っているのだ。最近はどれが毒虫で、どれが安全で美味しいのかわかってきた。判断基準は色と匂いだけど、村人たちが食用にしている赤や黄の極彩色のを口に入れるのは怖い。カブトムシの幼虫みたいなのは、けっこういける。丸ごとかじるとドロンとした液体が喉に流れる。チョコレートみたいに甘く、やみつきになる味だ。
     ぼくは密林の生活が好きだ。
     生と死が、一片の違和感もなく交錯しあっている。食って食われ、寄生し寄生され、生命は穢れなく循環している。
     「アフリカは貧しく飢えている」という印象は、赤道直下の広大な密林地帯にはあてはまらない。スコールが大地に水を潤し、圧倒的な太陽の熱量が、植物の根や茎や果実を育てる。虫や動物たちは生殖を謳歌し、子を産み育てる。密林の民はその恵みのなかで、森羅を傷つけることなく、分相応に喰らい、育て、生きている。自分を異型の鋳型に押し込めたりはしない。
     ぼくたちが生まれた国のように、労働の成果や、人の能力や、土地や、太陽の光や、ときには生命までもが貨幣という単位で換算され、売買されるシステムはない。
     物質文明の先に待ち受けているのはなんだ。
     ぼくたちの欲求は恐ろしく肥大化している。地上を見下ろす高層マンション、個性を競う注文住宅、細分化された自動車のグレード、世界中で食材を買い漁りむさぼる美食、流行した年にしか着られない服…。消費の海にどっぷり浸かりながら、いびつな社会に子どもたちを順応させ、自然はありのままであるべきだと訴えたりもする。
     「何も求めないことこそ豊かで思慮深いことだ」とかつて尊ばれた国なのに。
                  □
     ヤウンデ首都圏が近づくと密林は途切れ、切り拓かれた文明の匂いがする。夕暮れ時にたどり着いた小さな村は、家々がベージュ色の土塀で規則的に囲われた、どこか日本の古都の下町を思わせる風情である。珍しく電気が通っていて、薄明かりに街灯が揺れている。入り組んだ細い路地を痩せた猫が小走りに駆け抜ける。土塀の向こうから、家族団らんの声が漏れる。夫婦喧嘩らしき怒号も聴こえる。懐かしくて、切なくなる淡い空気。
     ハロー、ハロー。
     子どもたちがまとわりつく。
     マギという名の少年が「今夜はうちに泊まりに来ないか?」とはにかんで誘う。
     もちろんオッケー、オッケー。
     子どもたちと二十人ほどの大集団でマギの家を目指す。
     集団の中に十七歳くらいの、目のくりっとした女の子がいる。学校で勉強した英語を試してみたいって感じで、話しかけてくる。
     「マギの家に行くまえに、私の家に来ない? アドレスの交換をしたいの」
     もちろんオッケー、オッケー、大オッケー。
     彼女は、門前で子どもたちを追っぱらうと、ぼくを部屋に招く。
     「わたし、今ヤウンデに住んでるんだけど、友だちと田舎に帰ってきて遊んでるの」
     都会で洗練されたのか、彼女はとてもモダンな服を着ている。うすいスカートの生地が透け、白いスリップがのぞいている。
     「実は来年からポリスウーマンになるのね、でも怖がらないでね」と、ぼくをベッドに腰掛けさせる。彼女はぼくに身体を押しつけるようにぴったり並んで座る。マンゴスチン状になったぼくのモノに鈍い痛みが走る。
     「あなたカメラ持ってない? 一緒に写真を撮りましょうよ」と彼女。
     「肩に手をかけていい?」と尋ねると、「IF YOU HOPE SO」と悪戯っぽくぼくの顔をのぞきこむ。彼女の瞳は、完全にひとつの意味を示している。ぼくの血圧は急上昇する。
     しかし、不幸な出来事が起こる。クソガキどもが部屋に乱入してきたのだ。ぼくたちはアセり、会話も途切れがちになる。
     「それじゃ、ぼく行くよ」と表に出ると、彼女はフランス語でなにかつぶやきながら駆け寄ってきて、頬にキスをする。そのまま踵を返して、門の向こうに消えていく。
     マギの家では、家族の大歓迎を受けた。信じられないくらいたくさんの料理を胃袋につめこむ。この街はきっと豊かで、マギのお家はさらに上等な階級に属しているのだ。ぼくは洋風家具が並べられた寝室にベッドを与えられ、隣に陣取ったマギに長い長い旅の物語を吟じる。そうしたかったわけではなくて、彼女のキスが忘れられなくて、なかなか眠れなかったからだ。
     しかしいつしか眠りに落ちていく。うつらつうらしていた夜更け、ドラム缶の底を数百のバチで叩くような、壮絶な騒音が部屋を揺らす。ポルターガイストにしては大袈裟すぎる。赤道直下でヒョウでも降りだしたか? ともかく外ではエラいことが起こっているみたいだ。横で寝込んでいたマギが跳び起きて、とてもうれしそうな顔をして「表に出よう」と中庭の方を指さす。
     ドアを開けると、夜空には無数の黒い物体が飛翔している。何千、いや何万と。中庭にぶらさがった裸電球をめがけて、暗い空から無限のように現れる。互いに空中でぶつかりあい、自ら壁に激突しながら、次々と地上に落下してくる。いつしか中庭一面が黒い絨毯に塗りつぶされる。仰向けになった腹と脚をガジャガジャ鳴らして暴れている。
     カブトムシだ。
     銀河鉄道999の停車駅にネジクギが降るウラトレスという工業惑星があったけど、この街もまた別の天体の法則に支配されている。
     マギの兄弟たちは皆、手に手にバケツを携えてカブトムシを拾っては放り込んでいく。素揚げにして食べるのだろうか。家じゅうのバケツをカブトムシで満たすと、マギたちは飽き飽きした様子で寝室に戻っていく。ぼくもベッドにもぐりこむ。
     トタン屋根にカブトムシの降る音が響く。しんしんと降りつもるように、しずかにカブトムシが降る。
    (つづく)

  • 2023年03月01日バカロードその163 アフリカ幻影編4「おくのほそみちみたいに」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダ、ザイールと、サバンナやジャングル地帯を踏破する。中央アフリカ共和国の首都バンギでは、永遠の宿敵であり登山家の「ヒグマ」と偶然の再会を果たし、自分たちの「旅」について無限のような対話を繰り返す。四千五百キロ余りを歩き、「最後の国」カメルーンの国境に達する)

     中央アフリカ共和国とカメルーンの国境検問所があるケンゾウでは、たくさんの貨物トラックが積み荷のチェックを受けている。入国管理局でぼくは、シュガー・レイ・レナードに似た国境役人の、いつ果てるとも知らない長々とした質問攻勢に「アー」とか「ウー」とかいう生返事でこたえる。必要な答えを聞き出せない役人は業を煮やし、結果どうでも良くなったのだろう、パスポートにカメルーン入国スタンプを押す。
     検問所を後にしようとしたとき、ザックの中からカメラが消えていることに気づく。いつ抜き取られたのだろう。なんてこったい。大して値の張るカメラじゃない。ヨドバシカメラで買った型落ちの古いコンパクトカメラだ。それでも三年間放浪をともにした愛着あるカメラだった。もう二度と出てこないだろうなと思いながらも、あたり構わず「ぼくのカメラが失くなった」と大声で訴える。すると、そこいらへんにいたトラックドライバーが皆集まってきて、積み荷のドラム缶や麻袋を全部外に出そうとするので、面倒くさくなって「もういいですよ、ストップストップ!」とあきらめる。
     暑い。そして頭が割れるように痛い。路傍に呆然と座り込んだぼくの前に、一人の警官が泥まみれになったカメラを持って現れる。
     「この男が、きみの物を盗んだのだよ」
     と言いながら、後ろ手に拘束したその男のスネを蹴りあげ、地面に転ばせる。警官は棍棒のようなもので、男をガツン、ガツンと殴りはじめる。男は、うめき声ひとつ上げずに、赤土にまみれながら耐えている。ぼくは、無感動にその光景を眺めている。ぼくのカメラが原因で、この男は暴力を振るわれている。「殴らないでください」と間に割って入れば、この仕打ちは終わるだろう。しかし、ぼくはダラダラと汗を流しながら、遠くの映像を見るように、ただぼんやりと焦点の合わない視線を送るだけだ。人が殴られるのを平然と眺めていられる自分って何だろう?
                  □
     国境の街の穴蔵のような暗いホテルで、ぼくは三日間昏々と眠り、熱帯熱マラリアのぶり返しからの回復を待つ。ときどき目が覚めると、入口のドアの横にパパイヤやバナナが置かれている。誰の好意かはわからない。こんな汚れ乞食のことを心配してくれる人がいるのだな。
     光の挿さない部屋で、ベニヤ板やポスターでつぎはぎした壁と天井を睨みながら、終わりが近づきつつある旅のことを思う。
     この旅の結末はどんなだろうと。何か変わることができたのだろうかと。高校生の頃、教室の窓辺で鼻クソをほじくりながら突如こみあげてきた「熱い何か」は、無限の可能性を秘めた何かであった。そして旅に出た。そこに絶対の真理が見つかるはずだった。
     大西洋岸まであと八百キロ。ゴールに何かがあるとは思えなくなっている。終わりが見え、プレッシャーが消え、精神的に楽になり、同時にこの旅への憧れや執着がなくなった。
     イライラ、そして不完全燃焼。
     こんなことでは満足できない。あと三十日も歩けば、旅は終わってしまう。ゴールのない海へと「実体のない自分」という貧相なイカダで漕ぎはじめるのか。
                  □
     徒歩再開。
     ドウメという街の大学に通っていると名乗る学生が英語で話しかけてくる。
     「あなた日本人ですか? ヒュー! ぼくたちの国で日本人に会うことなんてめったにないですよ。一緒に歩きましょう」
     とやたら明るい。
     「日本の文学は素晴らしいです。ユキオ・ミシマはファンタスティックだし、ゲンジモノガタリはとても興奮します」
     「日本人の多くは特定の信仰を持たないんでしょう? でも日本人は穏やかでルールをきちんと守る。国民の間で宗教観が一致していないのに、平和な国が成立するなんて不思議です」
     「友達が何人か日本に留学しています。でも日本の人たちは、われわれの黒い肌があまり好きではないようですね。でもね、カメルーンの人たちは、あなたが旅の途中でなにかトラブルに遭ったときは、いつでも力を貸しますよ。きっとね」
     彼は二十キロほどを一緒に歩き、最後に道端に咲いた黄色い花を一輪摘んで、ぼくのザックの脇っちょに挟む。そして来た道を引き返していく。壊れたサンダルを両手でブラブラさせながら、裸足のままで。
     よりよい生活環境、高度な教育、豊かな老後…そんなものは本当につまらないことだと思う。彼らのほうが人間として何倍も大きい。ぼくは国境検問所で暴力を見過ごした自分を思い出し、ナイフで心臓をえぐり取られるような気持ちになる。
                  □
     適当な野宿ポイントが見つからないまま、深夜になってしまう。遠くに懐中電灯の明かりが見える。近づいてみると、トヨタのランドクルーザーが故障し、ドライバーがトンカチで機械を叩いている。振り返った彼に「夜歩いたら危ないよ。明日まで修理は終わらないから、荷台で寝ていっていいよ」と諭される。
     空はギンギンの満天の夜。星が目に痛くて、なかなか眠れない。眠れないから、また考え込んでしまう。
     ぼくがやっているのは「冒険」なのだろうか。ジャーナリストであり探検家の本多勝一は、冒険についてこう定義した。
     一、生命の危険がなければならない。
     二、自主的でなければならない。
     三、人類にとって最初のできごとでなければならない。
     地理上の冒険なんて、もはやこの地球上には存在しない。マルコ・ポーロやアムンゼン、ヒラリー卿にラインホルト・メスナー。超人たちは、今世紀中盤までにあらゆる海を渡り、高山を制し、極地と未開の地を踏破した。残されているのは、バリエーションルートと、他人が思いつかないような奇抜な方法を用いてのトレース作業だ。
     たとえば後ろ向きに歩いて北極点に立てば、間違いなく世界初だろうが、ドン・キホーテ的な滑稽感を残す以外に、何の意味もないだろう。現代の「冒険」なんて、多かれ少なかれそんなものだ。
     ぼくの旅は、まぎれもなく「冒険」ではない。人類史上に残るオピニオン性もなければ、生命を賭けて挑戦する危険なクレバス越えや、犬ぞりの犬を食うほどの食糧難もない。
     ぼくの旅は何なのだろう。
     日本から中央アフリカの大使館宛に送ってもらった松尾芭蕉の「奥の細道」や「笈の小文」を読み、三百年も前に流浪の旅に出たオッサンに強烈に憧れはじめている。芭蕉の旅は風雅を極めるための手段であり、創作の場であった。
     「今日、何をした。何という街をとおり、何々という川を越えた、などという紀行文はつまらぬだけ」と彼は考え、「旅は人生の集約であり、人生はまた旅そのものである」と言い切る。
     芭蕉のような卓抜した人生観は、ぼくには得るべくもない。でも「物」の無意味さと、常識や既成概念の不確かさを、少しずつだけど旅から学んでいる。
     寒さから身を守る衣類、飢えないだけの水と食料、幾ばくかの薬、それさえあれば人は生きていけるのだ。
     旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る 芭蕉が死の数日前に詠んだ最後の吟を、ぼくは何度もノートに書き写してみる。
    (つづく)

  • 2023年02月20日バカロードその162 アフリカ幻影編3「国境のイナズマナイト」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダを経て、世界最大の密林国家ザイールと、スタートから四千キロ余りを踏破する。五カ国目となる中央アフリカ共和国の首都バンギで、永遠の宿敵であり登山家の「ヒグマ」と偶然の再会を果たす。理由もなく発作的に歩きだした自分たちの「旅」について、無限のような対話を繰り返した)

     ぼくは、というよりヒトは食物連鎖の王であることは、言うまでもない。
     この王は、悪名高きハイエナやハゲタカよりも悪食だ。ヒトを除くあらゆる動物は、空腹を満たすために捕食を行うが、ヒトは飢えからではなく、精神的充足を得るために、動植物類を根こそぎ餌とする。
     被食者(人に食べられる側)にとって、「グルメ」などというのはヒト文明が造りだした悪食の極みである。要するに、食欲という欲求が過度に増幅され、あらゆる生命体をむさぼり食おうとする狂った行為なのだ。しかもそれが間違いではないという理論武装をたっぷりと施して。かつて栄華を極めたギリシャ世界やローマ帝国はじめ、文明がピークから没落に転じるときに必ず横行するのが、為政者の汚職と、性的倒錯者の増加、近親者殺人、そして神経症的なまでの美食志向である。  ヒトは野生を失った囲われの種族である。だから、生態系を維持しようという「見えざる意思」のルールは遺伝子から抹消されている。森を焼いて耕作地とし、畑を作って単一植物以外の生命をすべて根絶させ、生産性を高めるために化学物質をバラまく。ヒトは自然を破壊しないと、自らの生命を維持できない。どれだけエコロジストを気取ってみても、荒野に住み、素っ裸で、木の根を食いながら、ヒトは生きていけない。
                  □
     中央アフリカ共和国の村々に、奇妙な缶詰が出回っている。中身は単なるサバやサンマの煮付けであるが、缶の表面に日の丸が印刷されているのだ。砂塵舞うサバンナの寒村のバラック造りの商店の棚に、ずらりと並んだ日の丸マークは異様である。
     これが星条旗で、ぼくが白系アメリカ人なら、無邪気に喜ぶか、祖国を思いうっすら涙を流すかどちらかであろうが。
     こいつは想像するまでもなく援助物資だ。フランス語で印刷されたパッケージには、日本からスーダンやエチオピアに贈られたもの、と記されている。  缶詰は、本来必要な飢えた民には届かず、輸送の途中で誰かが横流しし、あるいは為政者の懐を肥やしながら、砂漠や山岳や密林や国境を越え、四千キロも離れた小さな村々に卸された。
     流通コストのためか、それとも日の丸ブランドが効いているのか、原価ゼロ円のはずの缶詰には八十円の値がついている。中央アフリカ製造の同等の物の三倍も高い。しかしオイルをからめただけの地元産に比べ、さなざまな調味料がブレンドされた日本製のは、舌先が痺れるほど美味い。こいつを毎日嬉しそうに食っているのがぼくだ。つまり、援助物資を消費しているのは日本人で、主旨はまったく貫徹されていないのである。ぼくは飢餓難民の生命の糧を奪いながら、旅を続けている。そして、まるで罪悪を感じていない。
     南アフリカ共和国のアパルトヘイトが世界最悪の政治システムとされながら、アフリカ随一の豊かさを保っているように。アメリカ原住民が駆け回った大地が、白人虐殺者たちの「夢の大陸」にすり代えられたように。世界にはどうしようもない矛盾がはびこっている。
     でも、単純な正義感から怒りの声をあげられない。その矛盾に、すでに自分自身が組み込まれているからだ。  サベツ者とヒサベツ者。
     自然破壊者と自然保護家。
     抵抗者と日和見主義者。
     マゾヒストがサディストたるように、両極はすなわち同意であり、ともに人間そのものである。何が正義であるか、悪であるかなんて、絶対的なモノサシはない。あるのは「立場」だけだ。
     正義感はファッションであり、社会悪は人間の本質そのものであったりする。
     だからぼくには、世界最悪の悪食者として自分を認識する作業が必要なのだ。習慣や文化や身分や体制などという装飾物じゃなくて、人間の本質を知りたい。
                  □
     昔、周りから物知りだと認められている人に「猿を食べる習慣があるのは、世界広しといえど、中国とザイールだけだよ」と教えられ感心したものだが、大ウソだった。この中央アフリカ共和国でも、猿はしっかりとヒトの餌食になっている。調理法は、燻製にした猿をダンダンとぶつ切りにして大鍋に放り込み、パーム油をドバドバ投入し、ひたすら煮るだけ。こいつが恐ろしくまずい。まるで胃炎患者の吐瀉物を食ってるみたい。食後は、自分の口臭で失神しそうになる。しかしアフリカ密林地帯で、この貴重な蛋白源を愛さない人はいない。子どもたちは「頭の部分が美味しいよ」とスプーンで顔をほじくって食っている。生煮え燻製猿の表情は阿鼻叫喚の様相で、なかなかに凄まじい光景だ。
     森には、うっとおしいくらい猿が群棲している。三十匹ほどの大群が木から木へと飛び移りながら、歩いているぼくを囲うように移動する。
     「食うぞコラ」と恫喝すると、一斉に叫び声をあげながら包囲網を狭め、威嚇してくる。石を投げつけてやる。あたりかまわずビュンビュン投げていたら、鈍臭い猿がドドドドドと木からすべり落ち、路上にペチャっと叩きつけられる。追いかけると大慌てで逃げだしていく。間抜けな食料どもだ。
                  □
     中央アフリカ国内五百六十キロを二十日でクリアし、カメルーンとの国境に達する日、ぼくは再び倒れる。
     朝から十キロも歩かないうちに、思考がもつれはじめ、身体がバラバラに砕けそうになる。指先やマブタや、いろんな筋肉がだらんと弛緩し、よだれがタラタラたれている。大林宣彦監督の映画みたいに景色が薄黄色く見える。
     すぐそこはカメルーンだ。ギニア湾岸の豊かな国。一年間思い続けた憧れの国にぼくは向かっているのだ、という思いが、意識もうろうのぼくを国境へとにじり寄らせる。
     アフリカを歩きはじめた頃。視界のすべてを覆う赤茶けたケニアのサバンナが、脳みその記憶スクリーンに溢れだす。「カメルーンまで歩いていくんだ」と村人たちに話すと、親切な彼らはたいそう心配し「大丈夫かい、この子は…」と両手を天にさし伸べた。「カメルーンなんて一生かかっても行けないよ」と馬鹿にされたり、「ライオンの餌になりたいのか!」と怒鳴られたこともあった。そのカメルーンに、ついにやってきたのだ。
     国境らしき場所には検問ゲートらしきものはなく、衛視もいない。聞けば、数キロ先のゲンゾウという村に入国管理局があるという。日はまだ高く、しかしもう一歩も踏み出せないほど疲れ果て、道ばたにツェルト(簡易テント)を張る。ここはカメルーンなのだろうか、それともまだ中央アフリカ共和国なのだろうか。
     発熱と悪寒がする。マラリアのぶり返しか。ゴロゴロと鈍い雷音が鳴っている。分厚い黒雲があたりを覆うと、とつぜん激しい雷鳴とともに、イナズマが空を真っ白に切り裂く。ヒョウ状の雨が、テントの合成繊維を破らんばかりにパリパリと表面を叩く。水が浸入しはじめる。テントを張るときよく確かめておかなかったが、この辺でいちばん低地に陣取ってしまったみたい。荷物も服も、身体も水びたし。
     嵐は夜になっても収まらない。泥水が容赦なくテントの底に流れこむ。しかし寝床を移動する気力と体力はない。頭ふらふら。タオルで水を吸い取り外で絞る、という作業を繰り返しても効果なし。
     マラリアの特効薬「ファンシダール」を二錠飲む。体内にいるマラリア原虫の発育を阻害させる唯一無二の薬・ファンシダールは、治癒と引き換えに、白血球や血小板を減少させる血液障害を起こす超強力薬だ。
     次の朝は、夜明けとともにツェルト内がサウナ風呂のように蒸され、あぶりだされる。猛烈な直射日光が脳天を焼く。ビカビカと目の奥に電流が走り、道ばたに倒れ込む。そのままの格好でいると、大型の貨物トラックが砂塵をあげて停まる。「外人」とか「死ぬ」とか「生きてる」という単語が聴こえてくる。助けてくれ、とつぶやきながら腕をかすかに動かしてみる。
    (つづく)

  • 2023年01月04日バカロードその161 アフリカ幻影編2「ヒグマ男との黄金の闇」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダを経て、世界最大の密林国家ザイールで偉大なるアフリカの民との遭遇に胸を踊らせる。スタートから三千九百五十キロ余りを踏破し、五カ国目となる中央アフリカ共和国の首都バンギに入り街を歩いていると、突如背後から首を絞められる。そこにいたのは永遠の宿敵「ヒグマ」だった)

     アフリカ東西南北のド真ん中に鎮座する中央アフリカ共和国で、宿命のライバルであるヒグマ(樋熊)に突然の再会を果たした。怒涛のように地表へと降り注ぐ直射日光のかげろうの中に、すっくと立ったヒグマは、それこそボロ雑巾のように汚い。髪はボウボウ伸び放題で、全身真っ黒に日焼けしてテラテラと光っている。破れたTシャツの袖から、隆起した筋肉がむき出しになっている。白い歯を出してニカニカと笑っている姿は、ボボ・ブラジルのようである。
     「なんでここにおるんなぁ?」
     ぼくは呆然として尋ねる。久しぶりに喋る日本語だ。
     「ケープタウンからチャリで来た」とヒグマは鼻をゴシゴシこする。
     「はん?」何のこっちゃ。
     「大陸縦断やってんだよ」と怒り顔面でヒグマは叫ぶ。
     「おまえ、むちゃくちゃアホやなあ」。ぼくは横隔膜全開のため息をつく。そうだ、こいつはずっとこんなIQの低いことばかりやってる。
     「そりよりテメエ、マジで歩いてきたの。バカみたいだな」。やれやれといった表情で、ヒグマはぼくを見下ろす。
     とにかく何百日ぶりかに遭遇した悪友に対し、罵詈雑言を浴びせ、頭突きを応酬し、ザックを交換しあって再会を祝う。アフリカみたいにめちゃくちゃ広くて、地図のほとんどが空白の大陸で、横に歩いているぼくと、縦に自転車で移動しているヒグマが、まるで学校帰りに駅前でバッタリ出くわすくらいのお気軽さで、偶然鉢遭う確率ってどれくらいなんだろう。きっと途方もない小数点以下の数字なんだろうな。
                  □
     「アルゼンチンのメンドサという町から、アコンカグア山(標高六九六〇メートル)に向かったんだ。麓から山塊に取りつくまで、けっこう何日も歩かなきゃいけないんだけど、何日目かの朝、テントから起き出したら、犬が脇で寝てるんだ。可愛いからちょっと缶詰をやったんだけど、そいつ、ずうっと後を着いてくるんだよ。
     標高五千メートルを超えて、核心部に入っても、犬のヤツ全然帰ろうとしないんだ。「帰れ」つっても日本語通じないしさあ、いったいどこまで着いてくるんだろうって思ってたら、ついに最終のアタックキャンプまで来て、テントの横で平気な顔して寝てる。ちょうどその頃から次の朝方まで猛烈に吹雪いて、オレはツェルトザックにくるまるような感じでやり過ごしたんだけど、犬はずっと雪の中でまるまって眠りこけてる。で結局、その昼、頂上までそいつと登っちゃったんだ。きっとアイツ、世界で一番高い所まで到達した犬だよ。でも、オレやんなっちゃったよ。オレなんかフル装備でさあ、アタックの前の晩なんか、もう死ぬかと思ってんのに、犬なんか全然無装備で楽しそうに登ってんの」
     南米最高峰に犬とともに登ったヒグマは、南アフリカ共和国に飛んだ。横浜からケープタウンに輸送してあった自転車を組み立て、喜望峰を出発点にアフリカ最北端のチュニジアを目指し、大陸縦断をはじめた。ヒグマが用意した高級MTBはすぐにブッ壊れた。彼はすぐさま自らの過ちに気がついた。パーツが精巧すぎて、交換部品がアフリカには存在しないのだ。そんな当たり前のことにも気づけない情けない男なのである。タンザニアでは、キリマンジャロ山(アフリカ最高峰・標高五八九五メートル)に登った。一日あたり二十ドルが必要な国立公園入山料をケチって、ふつう五日かかる行程を、ほとんどの登山道をヒイヒイ言いながら走り、たった二日で登頂した。まったくのバカっぷりである。キリマンジャロはヒグマにとって三山目の大陸最高峰制覇となった。
                  □
     ぼくたちは逗留先であるバンギ郊外のキャンプ場にテントを張る。中央アフリカの滞在許可の延長と、次の訪問国カメルーンのビザを取る必要があった。ビザ申請以外には当分の間、何もすることはなさそうだった。  ヒグマはやや疲れているようだった。彼は最近人を殴ったらしい。殴られもしたという。この旅に少し失望しているようだった。こんなに疲れている彼を目にするのは初めてだった。
     キャンプ場は、大麻草の臭いと煙に包まれ、ぼくたちは日がな一日、中央アフリカ産の鮮烈なガンジャの洗礼を受けながら、果てしない時を過ごした。
     表面のペンキが剥がれ、ささくれだった机をはさんで、ぼくとヒグマは自分たちの旅について語りあった。そんな経験は初めてだった。旅というよりも、ぼくたちについて考えた。自分たちは、何者なのかということだ。
     何のために、だだっ広いだけの砂漠や、迷路のように複雑怪奇な密林や、酸素不足で頭がクラクラする高山を、ただひたすらに求めて、旅しつづけているのだろう。どこへ向かおうとしているんだろう。地理的に困難な場所を求めるのは、明確な理由がある。たとえば危機的な状況に陥ったとき、眠っていた本能のようなものが静かに頭をもたげる。体力が限界に達したとき、全身の細胞が少しずつエネルギーを放出しあって、身体にパワーをもたらす。それは素晴らしい神秘体験だ。その陶酔に及ぶ快楽はない。しかし、生命を危険に晒すことなんて、別にどこでだって、自宅のトイレの便器の中でだってできる。
     特殊な空間にいたいという願望はない。
     別天地を求めているのではない。
     目もくらむ銀稜の雪山や、風景を湾曲させる熱砂の空気や、吐き気がするほどの熱帯魚の群れを前にしても、ぼくたちの心は動かない。旅は非日常的な行為ではなく、旅もドラッグも日常をより現実にさらし、認識するための手段なのだ。ただ、その環境で自分がどう対応できるかに興味があるのだ。
     旅は目的ではない。旅するために、旅しているのではない。
     旅立った十代の終わり…。
     「ぼくたちは宙ぶらりんで」
     「ぼくたちには戦うべきリングがなく」
     「ぼくたちは物事の核を知らない」
     だから旅は、社会に対する決別の儀式であった。
     ノーリスクではなかった。いろいろなものを捨てなくてはいけなかった。「輝ける青春」や「まっとうな社会生活」は比較的簡単にあきらめられた。しかし「知」の現場から遠ざかったのは悲しかった。ノウノウと合コンにいそしむ大学生に対してコンプレックスを抱いた。しかし、狭い閉ざされた空間で培われた学問よりも、人間がバカみたいに生きる広大な世界の方が面白いと思えた。人間はなぜ繰り返し戦争をするのか、ということですら学問は解明していない。ぼくは人間の本質を知りたい。弱さも強さもひっくるめて、人間という生き物の核を解き明かしたい。もし誰かに愛すべきザイールの民を殺せと命じられたら、ぼくはきちんと自殺できるだろう。
     六日目の夜、ヒグマは叫んだ。
     「真理はオレの内側にある。真理は最初っから自分の内にあるんだ。オレは気づかなかった。知っているということを知らなかった」
     日本から何万キロも離れたこの遠い町で、この言葉をヒグマに語らせるためだけに、ぼくは存在しているような気がした。遠くに行くことは回帰することだ、と古い中国の賢人は書き遺した。遠くへ、もっと遠くへと願うことは、自分の内側へと近づく作業なのだ。
     ずっと暗闇の中を歩いてきた。まるで見えない未来に、不安に脅えながら生きてきた。それは、ヒグマも同じだった。旅人の存在証明なんてないんだ。でも、このバンギの薄汚いキャンプ場の片隅で、その暗闇の向こうにぼくたちは小さな光を見つけた。
     黄金の日々…そんなものがもし生涯に一度か二度あるとしたなら、きっとこの一週間は、最上の黄金の日々だったに違いない。
     ぼくは、さらに西を目指して町を出る。壊れた自転車の回復を待つためヒグマは停滞。彼のゆく手には「世界で最も何もない場所」が広がっている。サハラ砂漠が怖い、と彼はつぶやく。何かに怯えるなんてヒグマらしくない。無鉄砲だけが取り柄だったのに。
     道路に出る。
     ぼくはヒグマに手を振る。
     ヒグマもぼくに手を振る。
     ぼくたちは、それから二度と出会うことはない。
    (つづく)

  • 2022年11月28日バカロードその160 アフリカ幻影編1「ヒグマ男との遭遇」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダを経て、世界最大の密林国家ザイールで偉大なるアフリカの民との遭遇に胸を踊らせる。スタートから三千六百キロ余りを踏破し、五カ国目となる中央アフリカ共和国へとにじり寄るのだった)

     ザイールと中央アフリカ共和国を隔てる国境へと向かう。国境が近づくにつれ、道は苛烈なものになっていった。背丈より高い草をかき分け、強烈な太陽光線に焼かれながら前進する。突然のスコールに見舞われる。二階の風呂の底が抜けたような大スコール。ぼくのザックもシューズも、パンツの底までも、深海に囚われられたカイウサギの産毛のように、ずっしりと重く濡れてしまう。鼻や顎や耳たぶや膝がしらや、体じゅうのあらゆる突起から、ザアザアと音をたてて雨水がしたたり落ちていく。
     雨が森を揺らす音。
     雨が土を溶かす音。
     雨がつるを流れつたう音。
     地面の吸収が飽和に達すると、雨水は赤い濁流となって、道を埋め尽くす。いろいろな水の音が混ざりあった、ゴーッという抑揚のない断続音に鼓膜が慣らされていく。あたりは、井戸の底のような静けさに満ちる。
     身長ほどもあるバナナの葉っぱの下にうずくまり、マッチを取り出す。手が震えて、マッチ箱半分すっても発火しない。残り少なくなった頃、ようやく煙草に火が灯る。 寒い。震えながら、眠る。
     人間とは不思議な生き物だ。数カ月前に地獄だと思えたことに、今はわずかな反応すらしない。耐性ができてしまったのだ。
     脱水症状に慣れ、栄養失調に慣れ、ひとに殴られることに慣れた。暑さや寒さに慣れ、濡れることや、蒸されることに慣れた。出血に慣れ、下痢に慣れ、嘔吐に慣れた。汚れることに慣れ、臭うことに慣れた。怠惰に慣れ、覚醒に慣れた。
     突然、ライフル銃を持った男が、目の前に立つ。静けさが破れ、スコールの轟音が世界を揺らす。男は麻袋の紐を解き、体調五十センチくらいのまだ子供のワニを取り出す。尻尾をつかんで、ぼくの目の前でぶらんぶらんさせながら「二百ザイールで買わないか?」と言う。目を閉じたワニは、口の先から雨水をしたたらせながら、深い深い眠りについているようだった。
                  □
     茶濁したウバンギ川を越えると、対岸は中央アフリカ共和国だ。国境商人たちを詰め込んだ乗合ボートが陸を離れる。離れゆく岸辺からザイール人たちが手を振る。偉大なるザイール。息苦しくなるほどの緑の絨毯と、優しき密林の民と、幻想の大麻草。やがてそのザイールは一本の緑の線となってしまう。
     船着き場は、商人や旅人でごった返している。中央アフリカ共和国の首都バンギは、対岸のザイールとは経済の進捗が明らかに違う。路上の物売りでさえ、昨日までは見たことのないピカピカの電化製品やナイフや文房具を並べている。メインストリートに建ち並ぶ巨大なショッピングセンターや銀行のプロムナードをネクタイ姿のサラリーマンが闊歩する。ショーウインドウには色とりどりの缶詰や洗剤が積み上げられている。豹柄やシャネル柄をあしらったバティック(ろうけつ染めの布地)をヒラリ風になびかせ、美女たちが通り過ぎていく。ほんの三十分前までいたジャングルの植物の緑と赤土色から一転し、けばけばしい都会の色彩がドッと眼球に流れこむ。
     フランスパン、かき氷、サモサ(揚餃子)、焼肉、アイスクリーム…。軒を連ねる青空屋台のいろいろな食い物は、ぼくに食べられるために存在している。猛烈な空腹感。狂犬病持ちの疥癬犬みたいに、舌の先からダラダラと唾が流れ落ちる。「食うぞ、おまえらみんな食ってやるぞ」とうつろに宣言する。ぼくは無防備なまま、食べ物に見とれてしまう。
     とつぜん、背後から何者かに襲われる。首を締めあげられる。二の腕がガチッと喉に食い込み、強烈な力でグイグイ絞めつけられる。賊だ。しかも、街のド真ん中で大胆に襲うのだから、並の相手ではない。全身から力が失せる。もともと抵抗するパワーなどありゃしないのだ。腹がへって、力が入らない。
     と、賊は、急に緊迫を解いたかと思うと「ケッケッケッケ」と笑いだした。振り返る。そこには、懐かしい顔がある。
     「アホのヒグマ…」
                  □
     ヒグマ(樋熊)と最初に出会ったのは二年前の夏、蒸し暑い運送屋の十トントラックの荷台だ。
     ヒマラヤに行く資金を貯めるために、ぼくは割のいい運送屋の深夜勤務をはじめた。東京の湾岸ターミナルに、一晩に何百台と集まる大型トレーラーの荷物を、ただひたすら下ろしつづける仕事だ。夜勤一日で一万二千円の日当。土日出勤すれば一万四千円。休みなく働けば月に四十万円以上になった。未成年者の給料としては破格だ。おまけに更衣室には大浴場と仮眠所がつき、社員食堂の白飯と漬物は無料だった。つまり構内に泊まりっぱなしでいたら、ほぼ金を使う必要がなく、給料のほとんどを貯められる。三カ月で百万円貯めて、あとの九カ月をその金で遊んで暮らすバックパッカーの巣窟となるのも無理はない。
     しかし、労働は苛烈だった。荷台のコンテナの中は蒸し風呂のように暑く、油や繊維の臭いが充満して息苦しい。動くたびに段ボール箱に汗の飛沫が飛び散り、息があがった。金も才能もない、けど体力だけは、というわずかの自信も勤務早々に打ち砕かれていた。
     彼は、コンテナいっぱいに詰まった荷物を、圧倒的なスピードで処理していた。動きは俊敏で無駄がなく、ヒラリヒラリと宙を舞う蝶のように華麗であった。ぼくはその背後に中腰でスタンバッて、彼がむんずと掴んで縦一列にローラー上に倒した荷物を、外に送り出す役目をしていた。彼の動きに着いていくので精一杯だった。対応できないと、たちまち荷物が滞ってしまう。
     「オラオラオラオラ、テメエもっと動けるぞ!」と煽られる。
     ぼくは血が熱く沸騰するのを感じた。この男には負けたくないと本能が反応した。スタミナのロスなんてどうでもいい。百メートルを全力疾走してるように、とにかく畜生コノヤロウという怒りで、メチャクチャに動いた。 荷台の天井まで積み上げられた荷物を、彼は全身をテコにして、クルクルと回転を効かせながら、芸術的に、しかも衝撃のないよう静かに、車内のローラーの上へと倒す。ぼくはその荷物にふられた宛先番号を天へとひっくり返しながら、車外のベルトコンベアへと流していく。延々とその作業が続く。いつしか不思議なリズムが二人を包んでいた。ぼくたちは笑いながら荷物と取っ組みあいっこをしていた。とても愉快だった。
     作業を終えると荷台からポンと飛び降りた彼は、「おれはヒグマだ。登山家だ」と名乗った。ついでに「オメエ、もっと鍛えた方がいいぞ」と胸をバンとついてきた。
     ムラムラとライバル魂が湧きあがった。
     ぼくは十八で、彼は二十だった。
     彼のような傲慢で、独善的な人物には初めて出会った。
     たとえば、ヒグマと街を歩くのはとても疲れた。彼は早足の登山家・加藤文太郎(明治三十八年~昭和十一年)を崇拝し、必ず他人より数歩先を歩きたがった。ぼくはそれが許せず、ヒグマを追い越す。彼はプライドを傷つけられ再び抜き返す。新宿や池袋の雑踏を、ぼくたちはそうやって競争しながら歩いた。週末には、二人で奥多摩や丹沢にロッククライミングに出かけたが、ヒグマとの山歩きはバカバカしいの一言である。二人とも相手の背後を歩くのが屈辱なので、ザックを背負ったままクロスカントリー競争のように走ってしまう。
     岩場に取りついてからも、アンザイレン(互いにロープで身体を結び合い安全確保する)した相手がミスって滑落するのを楽しんだ。自分が制したルートを相手が失敗したり、断念してエスケープするのを心から馬鹿にした。絶対に負けたくないのだ。
     ヒグマは仕事中、こっちのフイをついてはよく殴りかかってきた。奇襲であろうがあるまいが、殴られた方が負けだった。ぼくは背後から彼に近づき、関節技を仕掛けた。ぼくたちの行動に意味はなく、単に相手に勝てればよかった。
     ヒグマは、古いカスタムバイクを乗りまわし、バッテリーが凍結しても撮影可能な極地対応の一眼レフカメラを持っていた。片腕だけで懸垂を何度もこなし、百五十キログラムの鉄塊を気合いで持ち上げた。十八歳のときにチャリンコで日本一周したことがあり、地元新聞に大きく取り上げられた。その話をするときは、鼻をヒクヒクさせた。何かを自慢するとき、この癖を隠さなかった。
     ヒグマはある日、プイッと運送屋からいなくなったかと思うと、数日後にスイスの山村からモンブラン(四八〇七メートル)に単独登頂したという報せを絵葉書で寄越した。手紙を書きながら、鼻をひくつかせている姿が目に浮かんだ。
     ぼくは二カ月後に運送屋のバイトを辞め、ヒマラヤにでかけた。赤痢にかかり、毛ジラミをもらい、高山病に悩まされ、ひどい状態で歩いていたエベレスト街道の峠道で、前からゆらゆらと歩いてくるヒグマを見て、これは幻なのかと目を疑った。彼は「ふっふっふ、よくここまで来たなタコ」とこちらを見下ろした。ヨーロッパアルプスで遊んだあと、中東の砂漠を越え、エベレストを偵察しにきたのだと言う。前人未踏のエベレスト南西壁の単独登頂は、彼の人生の最大目標であった。その「敵」を目に焼きつけておくのだという。
     ネパールから帰国後、ぼくは徒歩で日本縦断し、宿願のアフリカ徒歩横断へと向かった。一方ヒグマは、南米最高峰アコンカグア(六九六〇メートル)の単独登頂をめざしてリオ・デ・ジャネイロに旅立った…はずであった。そのヒグマとなぜ、こんなアフリカのど真ん中で会うのだ?  
    (つづく)

  • 2022年10月11日バカロードその159 アフリカ密林編6「あっち側とこっち側」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。ケニア、タンザニア、ルワンダを経て二千キロ余りを踏破し、大密林地帯のザイールへと入る。州都キサンガニから西へ向かう道が途切れたことから、一艘の木彫りカヌーを買い、川幅最大十キロという大河・コンゴ川を下る。六百キロの川旅を終えて再上陸を果たし、西部アフリカの徒歩旅を再開する)

     インド洋岸から三千二百キロほどを移動してきた。大西洋岸まで二千キロ余りである。すでにここはアフリカ東部の文化圏ではなく、西部にあたる。同じような風景が続くジャングルに住んでいても、言語も文化も食べ物も違う。たとえば彼らの食事のメインひとつとっても、東側ではトウモロコシの粉を蒸しパン状にした「ウガリ」だが、西側ではキャッサバイモをお餅のようにこねてバナナの皮で巻いてちまきみたいにして食べる「クワンガ」に変わる。
     この国ザイールでは、東側はほとんど未開拓の昔ながらの生活をしているが、西側には開発の手が入っている。道路は赤土なれど四輪自動車が走れるし、街道沿いには数キロおきに集落が現れる。東側では、現金がほとんど流通しておらず、物々交換が主流だったが、西側にはキオスクと呼ばれる商店が点在しており、皆がそこで物を買っている。要するに貨幣経済が浸透しているのだ。
     今、ぼくがさしかかった西ザイールでは、黄色人種に対する差別意識が強い。それはおおむね中国人労働者に向けられたものである。道路や橋の建設は中国人が行っていることが多い。自分たちの村をより便利にしてくれている中国人たちは、尊敬の対象なのかというと、まったく逆である。中国人たちは住居などの拠点を自ら村外れに築き、地元の人とは交じろうとはしない。地元民にとっては、異国から押し寄せてきた奇妙な言葉をしゃべる異邦人なのである。
     彼らの目に映るぼくは中国人と変わらないから、ここのところ、被差別者的な扱いを受け始めている。「ヒーホー、ヒーホー」(ニイハオのこと)と中国語独特の発音を真似ながら、からかい半分で近寄ってきたり、さまざまに侮蔑語を吐いては大笑いする連中があとを絶たない。リンガラ語を理解する中国人なんていないから「コイツに何を言っても分からねえだろ」と思っているのだろうが、ぼくは異言語圏に入ると、まず侮蔑語から覚えるのだ。
     たいていは無視をする。あまりにひどい態度を取られたときは、覚悟を決める。そいつの真正面に立ち、顔を三センチくらいまで近づけてメンチを切る。「ぼくはお前に馬鹿にされる筋合いはまったくない」ということを、きちんと伝えておくのだ。何ごとにつけても、相手に意思を伝えることは大事だ。
     すぐに逃げだす臆病者もいれば、目をそらしてブツブツつぶやいているヤツもいる。めったに反撃には遭わない。確かにぼくは乞食のように汚れ、貧相な骨格をした異人種だが、それを根拠に馬鹿にされるのは納得がいかない。
     ここいらの人は、今まで旅してきたザイール東側の純粋で穏やかな密林の民ではない。華僑や西欧人が無秩序に商売や宗教を持ち込んでしまったがために、人間が壊れてしまっている。アル中にハッパ中、物乞いにチンピラ。濁った目をして、怠惰と堕落が蔓延している。
     物乞いといってもインド亜大陸の乞食のような誇り高さはない。無遠慮で、面白みがなく、思慮に欠ける。アル中といっても、酒に人生を供する潔さはない。単にアルコールに犯されているだけだ。昼間からドロっとした目玉で、ブツブツとひとり言を呟きながら、何もしていない。
                  □
     カヌー旅を終えたリサラから二百七十キロを西に歩いた所に、コンゴ川北部で最大の市場をもつゲメナ・タウンがある。久方ぶりの都会である。 街に入ったとたん、背後から物を投げつけられる。十センチ大の尖った金属片が背中に当たり、足元に転がる。
     どうしようか、と思う。やるしかないだろう。
     ぼくは鉄片をつまみあげ、息を吸って吐いて整え、充分間合いをとってから、知っているリンガラ語をメチャメチャに並べて怒鳴る。
     「誰、投げた。話をしたい。ここに来い。なぜ投げたか、知りたい」
     下町の裏路地なら、物を投げられた瞬間に、なりふり構わず全速力で逃げるだろう。だが、ここは通行人が多く商店が建ち並ぶ表通りなので、大丈夫だと踏んだ。喧嘩になっても、危険な状態に陥る可能性は低い。
     道の真ん中に陣取り、投げたヤツが出てきて謝るまで動かない、という姿勢を見せる。何ごとにつけても、相手に姿勢を見せることは大事だ。
     たちまち黒山の人だかりとなる。
     齢七十ほどの、汚れた布を体に巻きつけた老人がソロリソロリとぼくに近づく。そして周りを見回してから、やせこけた身体からは想像もつかないほどの大声を上げる。
     「お前たち、なんて馬鹿なことをやったんだ。早く出てきて謝れ」
     まさに救世主現る、といった感じである。
     さらに見物の輪の中から、高校教師風の身なりの良い紳士が発言する。
     「さっきまでここにいた人、みんな出てきなさい。自分のやったことを彼に詫びなさい」
     とりまきの野次馬たちも「マベイ、マベイ」(悪いぞ、悪いぞ)と口々に非難をはじめる。
     予想外の展開に、ぼくはとまどう。物凄い強そうなのが出てきたら、どの方向に逃げるかを計算していたのだ。
     マトモな感覚の持ち主はいっぱいいるのである。西欧の文化に毒された「植民地人」はごく一部だし、東洋人が嘲笑の対象にされているのは、この地を開発した側に問題があるのかもしれない。結局、名乗り出る者はなく、老人と群衆に礼をし、その場を去る。
                  □
     ゲメナは街の中心に市場を抱く交易都市だ。久しぶりのマトモな街だ。一泊二百円の安い商人宿に荷をほどき、物見遊山にでかける。
     「市場があれば国家はいらない」とさる賢人はのたまったが、まったくもって市場は自由で、無法地帯である。
     ぬかるんだ地面にぶちまけられたように、あらゆる商品の成れの果てといった風情の厄介物が並べられている。
     ノズルが固く錆びついた蛇口、底に穴の空いた片方だけの長靴、歯がくだけ飛んだノコギリ、濡れて煎餅みたいにパリパリになった地図。
     ガラクタの見本市ではない。堂々と、自信満々販売されている。この不条理性を問うのはナンセンスだ。価格という二者間の合意点のみが物を正当に評価する。商品の屍たちは、この自由市場で再び生命を取り戻し、市場経済の渦へと放り込まれるのだ。でも、ゼンマイの壊れたオルゴールなんて、いったい誰が必要とするのだろう。
     この町で驚くのは、残飯が所構わず捨てられていることだ。クワンガというイモ餅、ロソと呼ばれる米、肉や野菜の食い残しが、市場や食堂脇の路上に山となしている。腐ってもいない果物や野菜が、水たまりに転がっていたりする。
     物があるということは、物がないよりはいい。人間がいちばん辛く惨めな気持ちになるのは飢えたときだからだ。残飯にあふれたこの町には、人類最大の不幸は存在しないということだ。
     ザイールに入ってから、米粒一つ、芋の皮一枚を始末にしてきた。もちろん、ぼく自身常に飢えていたし、村人たちが食べ物を粗末にするはずがなかった。
     この町はきちんと文明を享受しているのだ。消費しつづけることで市場は安定し、拡大し、人は富を得る。市場と、消費と、繁栄だ。資本主義の基本だ。回し続けないとコケてしまうのだ。しかしそんなのはうんざりだ。
     道端の赤土にメシ粒がベシャッとへばりついている。ついさっき捨てられたようなドンブリ飯の残骸だ。拾って口に含んでみる。奥歯でジャリジャリ土を噛む。人間、どっち側で生きていくのかを決めるのは、最後は自分自身なのだと思う。
                  □
     宿に帰ると、数人の軍人が宿泊者の身分証明書をチェックして回っている。一人の男が部屋から中庭へとひきずり出されると、三八銃式の銃底で頭を殴られている。ガツガツと音が響くほど打たれ、たちまち血まみれになる。男は泣きわめいている。ぼくは、見物の群衆をそっと抜け出し、部屋に戻って、英国空軍用の航空地図をベッドの下に隠す。スパイか何かに間違えられたらひどい目に合わされそうだ。
     中庭に戻ると騒動は引けており、殴られた男がしょげ返って地べたに座り込んでいる。宿の門前で拾ったミカンを差し出すと「ありがとうミスター」と手を握られる。その挙動に妙な優しさが感じられ、(あ、こいつはヤバいやつかもしれない)と疑念が湧く。案のじょう、それから夜ごと部屋のドアをノックされることになる。売春ボーイに仏心を見せてはいけない。
     その色気ムンムンの青年に誘われ、夜の市場をほっつき歩いてみる。昼間とは店主が入れ替わっていて、小さな机だけを並べた露店が百軒余り連なっている。電気が通っていないから、照明はアルコールランプだ。オレンジ色の炎の列が、永遠のように続いている。まるであの世への通路みたいに美しくて怖い。
     二十軒ほどの薬屋が並ぶ 一 角は、赤や紫や青のカプセル薬が、ランプの光を受けてキラキラ輝いている。「ネオトーキョー」の闇市っぽい雰囲気だ。注射針や避妊具も置いてある。いろいろな形のコンドームの見本が、スルメイカのように吊るされていて、悪ガキどもが引っ張って遊んでいる。どれもこれも長さ二十センチはある巨根仕様で、日本人としての生まれを呪う。
     旅の鉄則に「風土病を治すのは、日本の薬じゃダメ。現地の病気は現地の薬が効く」とよく聞く。ならば、これを機会に下痢止め薬を購入しようと思い立つが「下痢」を意味するリンガラ語がわからない。仕方なく身振り手振りで「おなか痛い痛い」「尻からジャージャー」と説明していると、「一時間で君の病気を止めてしんぜよう」と豪語する薬屋のオヤジが現れる。丸薬一個五円。ぼくは念のため二十個を購入する。
     結果はきっちり一時間後に表れる。激烈な腹痛と下痢が襲ってきたのだ。屋外の厠へと走る。あの怪しい薬は、一時間であらゆる便秘を止めてしまう、優秀な下剤だったのだ。きっとそうだ。
     厠は井戸の底のように真っ暗である。便器の穴すら位置の確認ができないが、とにかく出しちゃえばいいのだ。
     耳元でガサゴソ得体のしれない音がする。
     何かいるのか。
     闇に目が慣れていく。
     壁がぬらりと動く。
     絶句する。クマゼミのように肉感的な巨大なゴキブリが四方の壁に数百とへばりついているのだ。床にもいる。ぼくの股間の下、便槽へと続く暗い穴を、さかんに出入りしている。このクマゼミゴキブリは人糞を喰らって生きているのだ。
     何となくほっとする。このゴキブリたちは「こっち側」にいる仲間なのだ。
     いっせいにゴキブリが羽ばたきはじめる。ぼくは下痢便が濡らした股間もそのままに立ち上がり、脱出を試みる。しかし厠のドアはなぜか押しても引いても開かないのだ。
    (つづく)

  • 2022年09月20日バカロードその158 アフリカ密林編5「流星の巣」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。ケニア、タンザニア、ルワンダを経て二千キロ余りを踏破し、大密林地帯のザイールへと入る。州都キサンガニから西へ向かう道が途切れたことから、一艘の木彫りカヌーを買い、川幅最大十キロという大河・コンゴ川を下る決意をする。川を下り始めて一週間、六百キロある川旅の半ばにある)

     コンゴ川には「人喰いカバ」以外にもいろんな伝説がある。有名なものは「地獄船」である。地獄船とはザイールの首都キンシャサから内陸都市キサンガニまでの片道約二千キロを往復する商業船のことである。貨物輸送できる満足な道路がないこの国で、地獄船だけが唯一、大量の物資と人を数千キロにわたって移動させられる。この船をヘルシップ(地獄船)と呼んでいるのは貧乏旅行者だけで、ザイールの民にとれば「希望の船」といったところである。
     「地獄」の冠は、比類のない船内の混乱ぶりを指して称されたものだ。詰め込めるだけの人間、野菜、衣類、家具、豚に鶏…があふれ、目隠しされた食用ワニや、かさぶただらけの奇魚が甲板に無抵抗なままに転がっている。船上は交易場と化し、人々は市を開いてモノを売りさばき、買い占め、再び売る。
     途中で立ち寄る村からは、どんどん人が乗ってくる。誰も乗船券など持ってないのに堂々と乗客ヅラをし、人と動物とモノの間に割り込んでくる。そんな密集した船内にだけあって、マラリア、コレラをはじめひととおりの伝染病が蔓延し、死に至ることは珍しくない。川底の浅いコンゴ川で浅瀬に乗り上げるのは日常茶飯で、ある時など川の真ん中で二週間も立ち往生し、数百の乗客が腐乱死体で見つかったという(これは大げさすぎる都市伝説だとぼくは思うが)。
     「地獄船」にまつわる噂と憶測は、ジャングルを旅する者たちの妄想をかきたてながら、熱帯の偶像を作りあげる。地獄船に乗り込み、数十日を耐え、大ジャングルの塵芥にまみれることは、密林旅行のロマンチシズムなのである。達成すれば勲章となる。勇気あるツーリストは、いつ訪れるとも知らぬ船の到着を、コンゴ川の畔で何週間もぼんやり待っているのである。
                  □
     川下り九日目。
     幸か不幸か、本物の地獄船とすれ違うこともなく、孤独な川の旅が続いている。数十キロにひとつあるかないかの集落の近辺以外で、人に遭遇することはほとんどない。
     今日はついに村が現れないまま日没を迎えてしまった。仕方ない。小島で野宿することにする。うっそうとしたジャングルが川岸近くまで迫っている。椰子の幹に蚊帳をくくりつけ、葉っぱを地面に敷き詰めて寝床を作る。
     真夜中、眠り込んでいると、荒々しい息遣いに目覚める。蚊帳の周りの暗闇に巨大な影がうごめいている。影は一つではない。少なくとも三つ以上いる。バオッバオッと咆哮をあげる。
     そのうち、足元でグシャグシャと何かを喰いあさりだす。寝る前に、濡れたビスケットを乾燥させておいたのだ。カヌーが浸水したときに水浸しになった貴重な食料である。どうやらそれを、むしゃぶり食われているらしい。ビスケットを喰いつくすと、蚊帳越しにぼくの腕の臭いを嗅ぎ、フンゴフンゴと鳴く。こりゃ野ブタだ。しかも猪のように巨大だ。ヒゲの感触がザワザワと皮膚を刺激する。カバが人間を襲う話は山ほど耳にしたが、野ブタが危険生物かどうかは聞いたことがないので、正しい対応が思いつかない。身動ぎせず耐える。
     野ブタの群れは、これ以上食い物がないと悟ると、蚊帳から離れていった。森の奥に入っていきブォーという雄叫びをあげて、バフバフと肉と肉が衝突する音がする。交尾をはじめたようだ。ぼくは豚に噛みつかれずに済んでホッとして眠りにつく。
                  □
     川下り十一日目。
     今日中にカヌー旅の終着地点となる街・リサラに着くぞ!と必死に漕ぐ。リサラは、キサンガニから千キロ下流間の最大の街という。
     ところが午前から向かい風の大風が吹きはじめ、高波がカヌーの内側にザブザブ侵入してきては、いくら漕いでも前進はおぼつかず、逆に上流へと連れ戻されそうになる。
     日没間近、集落もなく焦っていると、二日前に上流のブンバ村にいた木材の輸送船が停泊していた。操舵室に向かって「誰かいませんか」と叫ぶと、乗組員が顔を出し「オマエ、上の方の村にいた奴だな。夜はカヌーに乗ると危ないよ。今、メシ食ってるから上がって来い」と誘われる。
     直径二メートルはある巨木を数十本束ねた丸太船だ。体育館の床ほどの広さのイカダを、小さな動力船がけん引している。これから首都キンシャサ近くの取引所まで、幾日もかけて材木を運んでいくのだという。
     この巨大イカダが今夜の寝床だ。乗組員たちが、丸太の上に木の皮を集めて敷きつめ、簡易ベッドを作ってくれる。支柱を立てて蚊帳を張って完成。
     船員たちが、川魚やイモを煮込んだスープを椀に山盛りにして注いでくれる。コンロの火を囲んで、夜飯を食っていた最中だったようだ。
     彼らはコンゴ川の水をそのままコップですくって飲んでいる。「その水を沸かさずに飲んで、コレラにかかったりしないんですか」と尋ねると、「オレらは生まれたときからこの水を飲んでいる。大丈夫だからおまえも飲みなさい」と勧められる。それまでは、村で出された濁り水は飲んでいたが、コンゴ川からの直飲みはさすがに控えていた。まあでも、地元の人が大丈夫ってんだから大丈夫なんだろう。コーヒー色をした濁り水をガブカブ飲む。
     久しぶりに満腹になるまでマトモな食事をしたので大満足である。丸太船に寝転ぶと、夜空は百八十度さえぎるものは何もない。闇の深さに浮かぶ人工の光源は、蚊帳の中で炊いている蚊取り線香のオレンジ色だけ。星の光のまたたきは、チカチカと音が聴こえそうなくらいに騒がしい。流れ星が幾筋もの白い軌跡を残して地上に降る。黒い半球の表面を次から次へと流れつたう。ここは流星の巣だ。一生分の願い事をつぶやいてもおつりがくる。
     丸太船は揺りかごのように、ゆっくりと揺れている。どこからか、長い汽笛とともに銀河鉄道が降りてくるんじゃないかと、子供のような幻想にとらわれる。
                  □
     川下り十ニ日目。
     夕べとはうって変わって無風だ。鏡の表面のようにつるつる滑らかな川面を、幾何学的な波紋を描いて進む。
     不思議なことに、抗生物質を飲んでも治らなかった下痢がピタリと止まっている。昨日の晩、コンゴ川の水を直飲みしたからなのか、これが自然の治癒力かと驚く。
     丘陵上にリサラの街が現れる。ここがカヌー旅の終着地点である。ゆるく湾曲したコンゴ川の縁に屹立するこの街は、湖に浮かぶ島のようにも見える。
     州都キサンガニからここリサラまで約六百キロを十ニ日かけて下った。リサラから西方面へは道路が中央アフリカ共和国の首都バンギへと伸びている。バンギまで、五百二十キロほどの距離だ。
     カヌーは川辺に乗り捨てることにした。どうせ売っても端した金にしかならないだろう。
     街に上陸する。リサラはこの数百キロ間で最大の都会だが、豊かさは感じられない。茅葺き屋根の家々が、ぬかるんだ道の両側に延々と連なっている。
     珍しく立派な店構えのレストランが現れたので、たまにはぜいたくも良かろうと入ってみるが「メニューは山羊肉のスープだけだ」と言う。パーム油でねっとり味つけされた山羊肉は、パサパサしているうえに野獣臭が立ち昇り、喉を通すので精一杯なほどマズかった。
     店を出て、碁盤目状の街を西へと向かう。土埃が舞う長い道の左右に市が立っている。売っているのは天日干しの魚や、燻製された密林の動物だ。
     めったやたらと暑い。Tシャツが汗でぐっしょり濡れる。呼吸がうまく続かない。脚の関節がサビがまとわりついたみたいに軋む。カヌー旅をしていた十二日の間に、すっかり下半身が衰えてしまったのだ。
     乾ききった赤土の道の上で、熱い太陽にチリチリと焦がされながら、目玉が飛び出した干し魚のように、みじめにゼエゼエと喘ぐ。歩き旅の再開だ。ここからアフリカ西海岸まで二千キロ以上ある。あの飢えと乾きとの戦いがはじまるのだ。
    (つづく)

  • 2022年08月18日バカロードその157 アフリカ密林編4「滑空する肛門魚と人食いヒポ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。ケニア、タンザニア、ルワンダを経て二千キロ余りを踏破し、大密林地帯のザイールへと入る。州都キサンガニから西へ向かう道が途切れたことから、一艘の木彫りカヌーを買い、川幅最大十キロという大河・コンゴ川を下る決意をする)

     ジャングルの大都市、キサンガニ・シティの対岸にある寒村から、六百キロ西にあるリサラという街まで、コンゴ川を木彫りのカヌーで下りはじめた。
     二千五百円で購入したカヌーは、1本の丸太から削り出したもので、長さは四メートル、幅は七十センチほどの一人用だ。細くて不安定な漕艇を川に浮かべ、ビビリながら漕ぎだす。ぐらぐら右に左にと揺れるばかりで沖に出られず、陸に逆戻りしては、見物客の喝采と嘲笑をいっせいに浴びる。岸辺には、外国人の無謀な挑戦を見ようと、たくさんの村人が集まっては、酒の肴にしているのだ。
      櫂(パドル)もまた木彫りである。カヌーの左側の川面に櫂を入れたら、右に曲がるはずなのに、まったくそうはならず、川の流れの圧力のままに船首はあらぬ方を向き、みじめな格好で流されていく。自分の思惑どおりの方向には移動できない。ほとんど漂流である。
     赤銅色に濁った川水は、一センチ底すら透かさない。森のような巨大な浮草が、轟音を立てて通り過ぎる。この間まで歩いていた閉ざされた密林が嘘のように、空は百八十度の半球を描いている。
     川は、今まで見たどんな海よりも広く感じる。何万立方メートルもの水が、そろりそろりとしたスピードで地の果てまで流れていく。その膨大な質量を体の下に感じると、更に不安定な気分に陥る。
     しばらく川に流されるがままでいると、大型カヌーを駆った三人組が接近してくる。彼らは、眼光鋭く「なんだかんだ!」と因縁をつけはじめる。複雑なリンガラ語を理解する術もなく、彼らのカヌーに固定され、川岸へと牽引される。
     抵抗できないままに岸辺へと拉致される。男たちは「この船は俺たちのモンだ。今すぐ寄越せ」という主張をしているようだ。このカヌーが盗品だったのかどうかはさておき、強引なやり方にムカッ腹が立ったので、一番上背のある男の胸ぐらをつかんで頭突きを入れ、足を払って倒してやる。すると、ほぼ同時に、別の男のナックルパンチを顔面にくらう。前歯が上唇に刺さって流血する。とにかくカヌーを奪われたらこの旅は終わってしまうという憤怒から、ぼくは「ワーワー」と大声をあげて暴れ、その気勢に三人が圧されたと見るや、強引にカヌーを沖に出して逃げる。
     男たちは追ってこなかった。どういう事情でぼくのカヌーを奪おうとしたのかはわからない。実際に盗品を転売したオヤジから買ってしまったのかもしれないし、ただの強盗だったのかもしれない。
     いきなりのトラブル発生で焦ってパドルを漕げば、船はぐるぐる回転するばかりで、ぶさいくな格好で漂流していると、今度は後方から猛然と一艘のカヌーが現れる。
     漕ぎ手のオッサンは漁師らしく、彼の船は大量の投網が占領している。並走しはじめたオッサンは、まともに船をコントロールできない哀れな外国人を気の毒に思ったのか、正しい櫂の操り方にはじまり、カヌーの底に空いた穴から漏れる水の目止め方法まで伝授してくれる。ぼくは従順に指導に従う。
     四、五キロ並走すると、彼は「まっすぐだ。まっすぐいけば村がある」と言い残し、猛スピードで消え去っていった。
     あらためて一人で漕ぎだすと、不思議なもので軸先にかかる水圧を身体で感じ取れるようになっていた。頭上で櫂をヘリコプターのようにぐるんと回転させながら、左右交互に水面をかくという、オッサンが教えてくれた玄人っぽい漕ぎ方を試すと、カヌーの舳先がびゅんびゅんと真っ直ぐ水を切っていく。船と自分が一体化したような気分になる。
     ヤッホ、ヤッホと声を出しながら一時間も進めば、岸辺の崖の上に大きな建物のある「ヤクス村」に着いた。まだ日は高いけど、初日はここまでにしておこう。上陸すると、村には十数軒の屋台が並んでいるが、どこもかしこもバナナしか売っておらず、疲れて食べる元気がない。川から見えた大きな建物は病院だった。玄関が開けっ放しだったので、待合所のような所にもぐりこんで寝る。
                  □
     川下り二日目。
     昨日カヌーを留めておいた場所に向かうと、影も形もない。盗まれてしまったのだろうか。
     「ぼくのカヌーが消えてしまった。誰か知りませんか」と泣きべそ顔で訴え、辺りを探していると、昨日、カヌーの指導をしてくれたオッサンが現れ「ムトゥンボ(カヌー)はあっちに移動しておいた。取ってくる」と走り去る。やがて密林へと通じる小川から立ち漕ぎで登場する。
     「こんな川岸に留めたまま夜を越したら、増水したときに流されてしまうよ」と櫂を渡してくれる。どこまでも親切なオッサンなのであった。
     雨季のコンゴ川は雨日和がつづく。空はどんより厚い雲をたたえ、冷たい雨が川面を叩く。夕方、白波の立つ早瀬に巻き込まれるが、何とか脱出する。それなりにカヌーを操縦するスキルが上がってきたようだ。
     日暮れ前に川辺の集落に上陸する。二日間、何も食べていないのでハラがへって力が入らず、重いカヌーを陸揚げするのに四苦八苦する。周囲を取り巻いている村人たちに「コメが食べたい」と訴えると、「ちょっと待て」と言うが早いか、洗面器にドカッと山盛りにされた五合分もありそうな白ごばんを出してくれる。おかずは彼らが「ピリピリサマーキ」と呼んでいる赤い香辛料入りの魚缶詰だ。ピリピリサマーキを米に載せて手でかき混ぜながら食べる。ぶっかけメシはほんとうにうまい。コメばんざいと心で叫ぶ。
     夜は、村長の家で泊まらせてもらう。黄色く濁ったドブロクを飲まされ、周りの皆が踊りだしたので、酔っぱらいがてら日本舞踊を適当に踊る。村長宅には大勢の村娘たちが集まってきていて、ぼくの髪の毛を代わる代わる撫でては「黒くてまっすぐな髪の毛、いいわねえ」などと色っぽい吐息をかけてくる。上機嫌の村長は「この中から一人選んで子供をつくれ。そしたら、真っ直ぐな髪の毛の子供が生まれる」などと調子に乗っている。どこまで本気なのかわからず怖い。
                  □
     川下り四日目。
     本流から支流に入る。 支流と言っても川幅は一キロくらいある。出発以来、ずっと茶濁していたコンゴ川が、ふと気づくと透き通って川底がきれいに見える。透明な水に揺らぐ紫や白の砂粒にうっとり見とれていて油断してしまい船底が浅瀬に乗り上げる。櫂にいくら力を入れても脱出不可能、座礁してしまったのだ。
     いくらもがいても状況は変わらず、ヤケのヤンパチで船を降りてみる。おそるおそる足を踏み出すと、川底は思いのほか硬く、歩いてもへっちゃらであった。ぼくの体重が減った分、船も軽くなり、座礁位置から脱出成功する。
     でっかい川のど真ん中を、ロープで結んだカヌーを飼い犬のように引っ張って歩く。映画「十戒」の海を切り裂いて歩く聖者のように、ぼくは堂々と川を歩く。
                  □
     川下り五日目。
     食料を求めて川の横断をする。一日に一度は、適度な大きさの村を見つけて、食料補給をしたい。
     なめらかな鏡の表面のようにぬるりと平板な川面に、カヌーの波紋がするすると扇状に広がる。まっ白なガスが、頭上低く静かに移動していく。いったいいくつ島をわたってきただろう。今、カヌーの脇に連なっているこの陸地は、コンゴ川の右岸なのか、それとも中洲の 一 部なのかわからない。川幅は十キロほどもあり、その間に何百もの中洲が浮かんでいる。気が遠くなりそうなくらい広大だ。
     七時間も漕ぎ続けて、ようやく支流の右岸らしき陸地に村が現れる。高い崖が連なっていて、崖の上に子どもたちが何人かいたので「ハラへった、メシを食べたい」と叫ぶと、「魚も肉もあるぞ」と言うではないか。これ幸いと二十メートルくらいの絶壁をよじ登って村に入る。
     この村は「ヤーレンバー村」というそうだ。パパイヤがいっぱい実っていて、村じゅうパパイヤの甘い匂いが充満している。「パパイヤを食べたい」と言うと、村人が良く熟れたパパイヤを八個持ってきてくれたので五十円で買う。ところが後から後から、村人たちがわんさとパパイヤを抱えてきて「こんなのタダでやるよ」と言う。三十個くらい集まってリュックはパパイヤで満杯になる。最初に五十円払ったのもったいなかったなと後悔する。
                  □
     川下り七日目。
     すがすがしい朝だったが下痢気味で、カヌーの上で屁をこくと同時にウンコを漏らす。しかし、見ている人は誰もいないのでパンツを脱いで洗えるから嬉しい。
     川岸に倒れていた古木の上に攀じ登ってしゃがみ、川に向かって野グソをしていたら、背後に気配を感じる。と同時に、ケツの穴周辺に鈍い痛みを感じる。ふりかえると、鋭く口の尖った銀色の目玉をした魚がウヨウヨと何十匹も集まっては、ぼくの排泄したウンコを食らっているではないか。さらにエサ(ぼくのウンコ)にあぶれたヤツらが、肛門めがけて、水面を叩いてビュンビュン滑空してくる。さっきの痛みは、目玉魚のクチバシの感触だったのだ。怖くなって、あわててパンツをあげて逃げる。
     その先には三メートル以上ある黒と黄色のマダラ模様のヘビが、水中をうねっている。大迂回して逃げる。
     さらに下流で、流木のような物体が水しぶきをあげている。しかし流木にしては、流れに抵抗して上流へ移動していくなど動きが尋常ではない。変だな、と目を凝らして見つめていると、突然ブフォッと空気を吐き出した。

     ヒポだーーー!

     密林の民に最も恐れられる存在、ヒポに出くわしてしまったのだ。
     わが国では「カバ」と呼ばれ、動物園の柵に囲まれたコンクリートの人工池に浮かぶ彼らは、さも呑気そうに、天下泰平おだやかに浮遊している。しかし、その鈍重な姿が仮の姿であることを、われわれは知らない。
     密林の民に最も恐れられるヒポは、まがいもなくジャングル最強最悪の凶暴獣である。ヒポの狂乱ぶりを示すに、ザイール人たちはいろんなエピソードを用いる。
     「ヤツは動く物とみたら、とにかく突進していくんだ。アメリカ人のカメラマンが乗ったジープの横っ腹に突っ込んだときは、さすがにアヒャーと叫んだな。そのままヒポは車を横倒しにしちまったんだから」
     「ヒポに追いかけられたら逃げられっこねえよ。ああ見えて、陸にあがると時速四十キロ以上で走るんだから」
     「ここらじゃ毎年一人はヒポにやられるよ。アイツを見ろよ。ヒポに咬まれたおかけで、腰の骨が砕けて、今でも這って歩いている」
     「リサラまでムトゥンボ(カヌー)で行くのか。じゃあヒポを見かけたら声を出すな。死にたくなければ、気づかれないように息を殺してその場を去れ」
     確かにアフリカくんだりまでやってきて、カバに噛み殺されるなんて哀れだ。せめてワニに襲われた方が絵になる。まぬけそうな風体のカバに殺されるなんて、あまりにせつなすぎる最期だ。
     今まで、村人たちに叩き込まれてきた“カバに会ったとき対応”を思い出す。「ヒポに会ったら騒ぐな、逃げるな。ヤツは動くものを見ると追いかけてくる」。教えられたとおり、体を硬直させ、カヌーの底に身を横たえる。アメンボほどの水音も立てないようにし、川の流れに身を任せる。
     頭の中は真っ白で、思いつく限りのお経を唱える。といっても仏説摩訶ハンニャハラミッターくらいしか知らないので、キリスト教やイスラム教の神様にもまとめてお祈りする。すると、不動の体勢が功を奏したか、あるいは世界の神々に助けられたか、ぼくのカヌーはカバの三十メートルほど横を、浮草のように下流へと流れ、カバはプカプカと遠ざかっていったのだった。
    (つづく)

  • 2022年07月06日バカロードその156 アフリカ密林編3「コンゴ川のジオラマ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。ケニア、タンザニア、ルワンダを経て二千キロ余りを踏破し、大密林地帯のザイールへと入る。迷路のようなジャングルをひたすら西へ西へと歩く)

     

     ジャングルに突入してから二週間。覆われ続けていた密林がふいに失われる。
     溶かしたチョコレートをトロリと流したような川面のコンゴ川が現れる。数百メートル向こうに陸地が見える。対岸だと思っていたら、そこは川の中洲だという。対岸は遥か奥にあり視界で捉えられない。地図で見ると川幅は一キロ以上ある。
     そして街はまったく唐突に現れた。川辺に中層のビルディングが並んでいる。キサンガニ・シティだ。
     大陸横断の出発地・モンバサから西へ二千四百五十キロ。ザイール第五の都市・キサンガニは、コンゴ川中流域に唯一存在する近代都市だ。「緑の魔界」と呼ばれる世界最大のジャングル地帯のド真ん中に、奇跡のように存在している。キサンガニからはるか南、ザンビア国境地帯の森に端を発したコンゴ川は、この中流域で、対岸まで最大川幅十キロもの広大さとなって、二千キロ彼方の大西洋へと流れている。
     西欧建築の官公庁の建物、整った並木道、エアコンが唸りをあげるスーパーマーケット。綺麗なショーウインドウにはモダンな洋服や布が飾られている。コーヒーショップからはうっとりするような焙煎豆の香が、アイスクリーム店の周囲には甘ったるいバニラの匂いが漂う。写真店には西欧の映画スターのブロマイドが飾られ、ナイトバーのピンクや黄色の毒々しい蛍光灯が昼間から不規則に点滅している。
     この光景は、ジャングルを彷徨いながら夢見ていた幻そのものだ。贅沢な食い物と、凍りつくように冷やされたコカコーラの喉を焼く感じ。全部の汗腺をキリリと引き締めるエアコン。すれちがいざまに浴びせられる磨かれた肌の都会の女の匂い…。
     数時間前まで、生ぐさい野生の猿の肉と、ボソボソした野草を喰い、ボウフラだらけの水を飲んでいたとは思えない。ジャングルにはなかった全ての贅沢がここにある。
     眩しい。白いビルやコンクリートで固められた道が、陽射しを反射する。ここには赤道直下の太陽をさえぎる密林がない。目玉を虫メガネで焼かれるような、鈍い痛みが走る。欲望が急速にしぼんでいく。ぼくは、現代社会に迷い込んだ原始人のように落ち着かなくなる。外界とのつながりを感じられないのだ。ほんの数時間前まで、森や、地面や、人や、動物たちと共生していたというのに、今は孤立している。
                  □
     キサンガニ市内の中心部に「ホテルオリンピア」がある。名高い旅行者の基地である。密林を抜け北の砂漠を目指す旅人、四輪駆動車でジャングル横断を試みる者、コンゴ川の悪名高きフェリー船「地獄船」の出港を待つ酔狂な人、キャンピングカーで十数年も旅している富豪。アフリカ大陸のド真ん中に位置するこのキサンガニには、大陸を縦断する人、横断する人が必然的に交差する。そんな宿場町の看板宿たるこのホテルで、旅人たちは情報交換と静養と準備の時を過ごす。
     洋風の建築物が広い中庭を囲んでいる。
     フロントで「シングルルームは一泊二千ザイール(二千円)、庭でキャンプを張るなら五十ザイール(五十円)だ」と説明を受ける。選択の余地もなく、中庭の滞在者となる。
     バックパッカーらは庭にテントを張っているが、ぼくはテントすら持っていない。蚊除けの蚊帳をロープで張り、リュックを枕にコンクリートの床にごろ寝をする。
     熱帯のぬるい風が頬を撫でていく。「さてこの先、どうすべきか」と考える。キサンガニから西の方角には道が伸びていない。大陸を自力で横断するには、どのような可能性があるのか、旅人たちから情報を集めたい。周囲にいる旅行者に声をかけ、西方への移動ルートについて尋ねてみる。しかし、どの旅行者も「道はないよ。いったん北に何百キロか向かうんだ」「カヌーを手に入れて、コンゴ川を下っていくしかない」と口を揃える。絶望的な話しか耳にできない。
                  □
     「ホテルオリンピア」に滞在して七日目に、マラリアを再発する。四十度の熱が出て、うめき声すら上げられないほど消耗する。でもケニアで初めて発病したときのように、死を身近に感じることはない。マラリアに対応する薬も持っているし、慣れなのかもしれない。
     中庭でテントを張っているスウェーデン人の美しい女性が、マラリアでダウンしているぼくの世話を焼いてくれる。濡れタオルで膝から下を拭きながら、「上半身を温めて汗をたっぷりかきなさい」と言う。北欧では「頭寒足熱」ではなく、逆らしい。タンクトップの胸元で豊かな白い乳房が揺れている。それだけで平和な気分になる。
     マラリアの発熱には周期がある。高熱が出るものの、数時間後には平熱に戻る。それを何日か繰り返しながら快方に向かう。熱が下がったときには街を散歩する。街のべーカリーで買ったアイスクリームを舐めながら、木陰に腰掛け、コンゴ川を眺める。 三百メートルほど沖にのっぺり連なる陸地。川の対岸や中洲には大きな集落が見える。集落というよりは街といった方がよいかもしれない。
     河原に降り、ふらふらと歩いていると、渡し船の船頭が大声を張り上げている。
     「オラオラ、十ザイール(十円)だよ!」
     巨大な丸太をくり抜いたカヌーは、舳先から船尾まで十メートルはあろうかという大型の木造船だ。船尾には年代物のヤマハエンジンがでんと乗っかっている。さしずめ高速カヌーといったところだ。川のこちら側と、対岸にある集落とを往復する渡し船である。
     呼び込みに誘われ。たちまち二十人ほどの乗客が集まる。その多くがご婦人で、両手いっぱいに生活用品や食料をたずさえている。彼女たちは商人か、あるいは比較的裕福な階層の人だろう。川の上手には無料の渡し船があるにも関わらず、十ザイールを払って高速カヌーに乗れる人たちだ。
     船頭にムリヤリ腕を取られる。
     「オイ外国人。早く乗っちまいな。すぐ出発するぞ」
     ぼくは成りゆきにまかせてカヌーに乗り込む。
                  □
     川の対岸には街があり、市が立ち、数百人の人々が暮らしていた。
     市場を歩いていると、マラリアの悪寒がぶり返してきた。ガタカタと震えだし、体温が急上昇していくのがわかる。
     選択の余地はない。どこかに倒れこむ必要がある。粗末なホテルの看板が目に入った。小さな商人宿に転がり込んで、ベッドに横になって 一息つく。天窓しかない三畳ほどの、刑務所の独房のような部屋だが、道ばたで卒倒するよりはマシである。
     宿の一階はダンスホールのある酒場で、真っ昼間からリンガラロック(ザイールの軽音楽)をガンガン流している。ひどい頭痛のする脳髄に、オンボロスピーカーの爆音が響く。
     この名も知らぬ川の対岸のボロ宿で、マラリアが回復するまでの数日を過ごす。
     宿の女将(ママ)は三十代半ばの美人だ。彼女はぼくの具合を心配し、昼に夜にと食事をたずさえて部屋に現れる。何も喉を通らないときは「何かほしいものはない?」と聞いてくれる。「ナナシ(パイン)が欲しい」と言うと、大雨の中をパイナップルを抱えてびしょ濡れで帰ってくる。
     毎日二回、きまって三十九度台の発熱がある。ママは枕元で様子を見守りながら、冷たいタオルを優しく額に乗せてくれる。美人ママに優しくされるたびに「たとえばここで生活をはじめてみるのはどうだろう」などと夢想する。コンゴ川に浮かぶ熱帯雨林に覆われた川っぺりの、リンガラロックがかかるディスコの二階にある商人宿の、コンゴ美女との暮らし…熱に浮かされると、ロクなことを考えない。
     キサンガニシティの対岸にある名も知らぬ街の住人となったぼくは、マラリアの熱が下ると、暇つぶしに街を散歩してまわった。
     この街は、神様が暇つぶしに造ったジオラマ模型のような場所だ。小さな市場と繁華街、ヤクザ者がクダを巻く酒場、尻が背中につきそうなくらいスタイルのいい女の子が腰をぐりぐりローリングさせるダンスカフェ。対岸のキサンガニという洗練された都会からあぶれ出された庶民階級の人たちが、ここに集まっているのだ。
     川べりの掘っ立て小屋の脇に、木彫りのカヌーが十艘ほど並んでいる。いつの間にか横に立った親父が「カヌー買わないか?」と誘ってくる。「一艘、一万ザイール(一万円)だ。君だけの特別プライスだ」という。そして、親父のセールストークは一時間も続く。
     「何? 歩いて中央アフリカ(共和国)まで行くだと? そりゃ百パーセント無理だ。なぜなら道がないからだ。キサンガニから西へ延びる道なんてないよ。あるとすれば北に四百キロのブタという街を経由する方法だが、そりゃトラックでも行けないよ。今は雨季だろう。道が川に浸かっちまってるんだ。象でも歩けないって言うぞ。キサンガニから六百キロ西のリサラという街まで、このカヌーで川を下っちまえばいいんだ。なあに、素人でも大丈夫さ。ザイール川は水量が減っているから、危険はないさ。三百キロ西の集落でコレラが発生しているから気をつけろ。飲み水は沸かせば問題ないだろう」
     軽口の親父だが、嘘はついていない。地図をどうひっくり返して眺めてみても、ここから西へと向かう道はないのだ。
     カヌーで六百キロの旅か。面白いのかな…と少し思う。
     そして彼のセールストークを一週間聞き続け、ついにぼくはカヌーを購入するにいたる。毎日値引き交渉を続けているうちに、ふっかけられていた元値の一万ザイールは二千五百ザイール(二千五百円)まで値下がりした。木彫りの櫂(オール)込みの料金だ。
     ここから西に向けて六百キロ。ぼくはジャングルを貫く世界随一の大河を、カヌーで下る決意をしたのだ。もちろん一人漕ぎのカヌーなんて、生まれてから一度も乗ったことはない。ぼくは生きてジャングルを抜けられるのだろうか。
    (つづく)

  • 2022年06月29日バカロードその155 アフリカ密林編2「耳虫と足ミミズ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。ケニア、タンザニア、ルワンダを経て二千キロ余りを踏破し、ついに大密林地帯のザイールへと入る。迷路のようなジャングルをひたすら西へ西へと歩く)

     

     ジャングルに入って以来、ずっと頭痛が続いている。原因はわかっている「耳虫」だ。学術上の名前は知らない。ただ、ぼくの耳に住んでいる虫だから、そう呼んでいる。月の明るい夜、寝ている間にごぞごぞ耳に忍び込み、それからずっと居座っている。
     昼間は活動しない。夜になると耳の中でせっせと動き回っている。何を企んでいるんだろうか。ぼくの耳に城でも作ろうとしているのか。おかげで眠れないし、難聴気味だ。ガサガサゴソと今夜もうるさい。
                  □
     ジャングル生活七日目。何百カ所とある虫刺されの跡が、ひどく化膿している。じゅくじゅくと膿が溢れだし、いっこうに固まる気配がない。ハエが次々と飛来しては傷口をなめて、よけいひどくなっていく。絆創膏を貼って対応できる面積ではとうにない。放っておけば良くなるのか、膿を毎日しぼり出した方がいいのかわからない。カサブタを剥がすと、奥から生皮が出てくる。「絶対に剥がさない」と心に誓うのだが、カサブタの下で膿がパンパンに溜まると、張り裂けそうな痛さのあまりピンで刺してしまう。傷口からミルク色の液体がドロリと流れだす。それを目がけて、また数十匹のハエが群がってくる。ぼくはため息をつく。
                  □
     密林の深さは底知れない。村はめったに現れることなく、そして村に着いても食料は期待できない。ジャングルで暮らす人びとは、住居の周辺で自然繁殖した根菜類や野草、果物を食料としており、異邦人に提供できる食料の備蓄はほとんどない。
     森の樹々になっている果実を見つければ、手当たりしだいに口に入れてみる。たいていが青臭くて熟しておらず、食料には向いていない。野生のバナナは貴重なカロリー源であるが、その果肉は石のように硬く、咀嚼するのに苦労する。住民らは生では食べない。煮込み料理に使っている。
     ジャングルなら水くらいは困らないだろうと期待したが、水系に恵まれない村落ではたいへんな貴重品であった。村人たちは、何キロも離れた標高の低い場所にある谷川まで、ポリタンクや 一 斗缶を背負ったり頭に乗せて、水を汲みにいく。
     荷役はたいてい女性や子供の仕事だ。密林の小道を、顎の先から汗をしたたらせながら、水を運んでいる。そうやって苦労の末に汲んだ水が、透明な清水とは限らない。赤土混じりの茶色い水だったり、上流に村がある非衛生的な汚水だったりする。
     どこの村にも雨水を貯める錆びたドラム缶があるが、あまりきれいなものではない。小虫や蚊の絶好の産卵場所になっている。それでも水がなければ生活できないので、その水を煮沸して料理に使ったりしている。
     そして今、喉がカラカラになってたどり着いた村で、親切な老夫婦がさしだしてくれた白濁した水は、記録的なすさまじさだった。ガラス瓶に入った水は、カルピスのように白い。ゴクンと 一 気に飲む。つーんと腐ったような味が喉を刺激する。瓶を日光に透かしてみると、そこには何十匹ものボウフラが漂っている。屋外に出て吐いてしまおうか。しかし、水を恵んでくれた老夫婦に失礼なのではないかと思い直し、天井の梁を見上げてグッと飲み込む。
     昼過ぎから強烈な下痢に襲われる。キュルキュルと腸がねじれあがり、パンツを下ろす間もなく、水便が股間を濡らす。ウンコを漏らすたびに自我が壊れていく。ジャングルに四つん這いになってオエオエ吐き、じゅるじゅるクソを漏らす。
                  □
     ジャングル生活十日目。
     ドロドロにぬかるんだ道にスネまで浸かりながら、急坂を登っていく。泥道はお粥のようにトロリと熱い。密林に閉じ込められた空気はゆだっている。
     ゼエゼエゼエ。寝不足で倒れそうだ。耳虫が 一 晩じゅう暴れまわっていて、昨晩はよく眠れなかったのだ。
     土の匂いを近くに感じる。アレ? 鼻の横に木の根っこがある。高い椰子の木の向こうに青空が見える。ぼくは今、どういう状況にあるのだろう。知らぬ間に気を失って倒れていたのか。
     誰かがぼくを介抱してくれている。若者が、 一 人、二人…四人。
     「外国人、こんなところで昼寝かい?」と尋ねられる。リンガラ語の方言だ。リンガラ語というのはこのザイール国 一 帯で使われている共通言語なのだが、街や集落ごとに方言が強く、日々三十キロほど移動しているぼくにとっては、毎日言語が変わるような印象だ。
     だが、生きる・死ぬに関わるリンガラ語は何があっても学習する。水が欲しい、寝る場所はないか、食べるものを下さい、などだ。
     倒れた格好のぼくの口をついて出たのは「ハラへった」という言葉だ。
     「ハラへって、寝ていたのかい?」と若者たちが笑う。
     「うん、ハラがへってる。食べ物が欲しい」
     「じゃあ、ちょっと待ってろ」
     言うが早いか、若者の 一 人がスルスルと木を登り、紫色の果実を千切って、放り投げてくれる。かじりつくと、中からピンク色の果肉が現れ、ラズベリーのような味がする。若者は、ぼくが食べ終わるのを待っては、別の房を取りにいき、手渡してくれる。それを五、六回繰り返すと、飢えと乾きが収まり、正気を取り戻しはじめる。
     「君たちはどこへいくんだい?」と尋ねる。
     「キランボという街だよ。こいつを運んでいくんだ」。指さした先には、縄で括り付けられたビールケースが立てかけられている。 一 人分が背負う木枠の梱包に、ビール瓶がたっぷり三ダースは詰まっている。
     「俺たちは今からメシにするけど、オマエも 一 緒にどうだい。メシを食って元気が出たら、 一 緒にキランボまで行こう」と蒸したイモを取り出して、分け与えてくれる。ためらいもなく、むしゃぶりつく。
     彼らはイモをかじりながら、教科書のような本や大学ノートを見せあって、キャッキャとはしゃいでいる。覗き込むと、フランス語で書かれた数学の本だ。代数幾何のけっこう難解な内容。彼らはまだ十代だろう。こんなジャングルの奥地で、数学の勉強をしながら、森の中でビールケースの運搬をしている。なんか…かなわないなと思う。
     蒸しイモを食べると体力復活し、隊列の最後尾について行進する。彼らの荷物の十分の 一 の重さも背負ってないのに、山道をヒィヒィ喘いで、ついていくのに精 一 杯だ。
     キランボ村に入ると、ビール隊を歓迎する村人たちにドッと囲まれる。広場のあちこちで宴がはじまる。 一 本のビールを皆で回し飲みしながら、少し豪華な食事をごちそうになる。久しぶりのアルコール、喉から胃へと熱い塊が落ちていく。
     それから若者たちと森を抜けて川へ水浴びに行く。
     透明度ゼロの激流うずまく茶色い川だ。丸太を渡しただけの 一 本橋の上に皆で座り、石鹸でゴシゴシ体をこすりあう。石鹸だらけになるとドボンと川に飛び込む。
     通りかかったヤリを持った 一 団が、叫び声を上げながら川に飛び込んでくる。今から泊りがけで象を仕留めに行くのだ、と威勢がいい。このへんの森はゴリラや象がよく出没するらしい。「象の肉はうまいんだぞ」と、まだ小学生のような若いハンターが自慢げに鼻を鳴らす。
                  □
     ジャングル生活十二日目。
     五日連続の雨。 雨季に突入したのだろうか。朝方から雨が降りだし、どんどん激しくなってくる。雨宿りにかけこんだバラックの建物は、この辺では珍しい診療所だった。「こんにちは、旅の者です。雨がやむまでいさせてください」とお願いする。ヨレヨレの白衣を着ているのは、齢七十にもなろうかという老医師だ。
     ぼくの様子をまじまじと見ていた老医師は「こっちに来い」と手招きをする。 近寄ると、老医師は化膿だらけのぼくの腕をムンズと掴み、手にした果物ナイフのようなもので、カサブタを削りはじめる。 「痛い、痛い」と叫んでも容赦してくれない。両方の腕が、膿と血まみれになる。生皮がむき出しになった皮膚の上から、ビーカーに入ったアルコールらしき液体を脱脂綿につけ、傷口に塗りたくる。
     「ヒィーッ」
     さらに老医師は、ぼくのリュックにくくりつけた靴下を指さし「それを寄越しなさい」と要求する。さしだすと、靴下の先をナイフでジョキジョキと切り裂く。「何をするんですか?」と抗議すると、環状にした靴下を、ぼくの腕にかぶせる。簡易包帯というわけだ。
     続いて、ぼくの足を掴んで椅子の上に載せると、ピンセットで親指の先をほじくりはじめる。爪と肉の間に差し込み、ぐりぐりかき回すと、白いイトミミズのような寄生虫と、大量の小さな卵が出てくる。アレヨアレヨという間に、深い穴が爪の脇に空いてしまう。そこに再びアルコールをかける。右足の三本の指先から「足ミミズ」が出るわ出る。いつの間にか、ぼくの身体には、いろんな生命体が住み着いていたのだ。
     膿は広がらないうちに出し切ってしまい、削った皮膚の部分は、消毒液をぶっかけ、蝿にたかられないよう布で覆う…野蛮だと思ったこの老医師の治療方法が、治癒までのいちばんの近道であることは、数日後に知ることになる。化膿した腕は綺麗になっていったのだ。
     老医師には「耳虫」のことは内緒にしておこう、何をされるかわかったものではない。
    (つづく)

  • 2022年06月22日バカロードその154 アフリカ密林編1「大ジャングルの光」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。寒村でマラリアに倒れ死線をさまよったが、療養期間を経て再び歩きだす。ケニア、タンザニアを経て、山岳国家ルワンダを横断。密林国家ザイールの国境へとたどり着く)

     

     山岳国家であるルワンダから、ザイールへの国境越えはキブ湖を渡るボートに乗る。大ジャングルが広がる密林国家ザイールの間に横たわる黒い湖だ。
     このボートがまるで出発しない。
     ルワンダ最後の街キブエに来て、はや三日になる。湖畔の教会は、ボート待ちの商人で溢れかえっている。 一 泊百フラン(五十円)のベッドが隙間なく並んだ大部屋は、旅の興奮に憑かれた商人たちの、甲高い笑い声や、大げさな叫び声が充満している。
     「船はいつ出るんだい?」と尋ねても、誰も知らない。知ろうともしないのだ。皆が皆、結末のない旅を楽しむかのように、時間を無駄に費やしている。
     ぼくは、船着き場に近い湖畔の大岩に座って、夕日が落ちるまで湖を眺めている。
     湖の向こう岸に、べろーんと薄っぺらに広がる土地がザイールなのだろうか。切り立った山々が続いたルワンダとはまるで様相が違う。地図を見ると、ザイール側の国境の街ブカブから先は、七百キロ西方にある都市・キサンガニまで街らしき街はない。道を示す線は破線となり、やがては途切れてしまっている。今から進む先、地図上は密林を示す濃い緑色で覆い尽くされている。そこは既にコンゴ川流域エリアだ。
     アフリカ大陸の中央部を蛇行するコンゴ川(ザイール川)は、不思議な流れをもつ大河である。南半球のザンビア国境に端を発し、南から北へと赤道をまたぎながら、南米アマゾンと並ぶ世界最大のジャングル地帯を形成する。その湿地帯では、いくつもの支流を飲み込みながら、西へと向きを変え、やがて北から南へと二度目の赤道またぎをし、源流から四千七百キロを経て、彼方の大西洋へと流れ込む。総延長の四千七百キロという距離は、日本から真南に向かえばオーストラリア大陸に達するほどの遠大さだ。
     これからぼくが足を踏み入れるコンゴ盆地 一 帯は、わずかに整備された車道以外は、ほとんどが人跡未踏の空白地帯という魔境中の魔境である。インド洋岸からこの地までの乾燥地帯サバンナ二千キロの旅は、水不足による乾きとマラリア原虫との戦いだった。これからはじまる密林の旅は、どんな困難を突きつけてくるのだろうか。果たして、生きて七百キロ先のキサンガニまでたどりつけるのか。  
                  □
     ようやく国境越えのボートが出航する。乗り合わせた若者たち五人は気のいい連中であった。彼らはザイール出身のロックオーケストラバンド「ザ・ジョイ」のメンバーで、ルワンダでの演奏旅行を終え、ブカブの街に帰るところだという。彼らは、船上で即興の演奏会を行った。ローリング・ストーンズの「刺青の男」のナンバーを、A面の 一 曲目から順に歌う。
     彼らは、ぼくの意味不明の旅を訝しがることなく共感し、「ブカブでは君の面倒を見させてもらえないか」と申し出てくれる。
     国境の船着き場に降り立つと、ザイール最初の町ブカブの街並みが開ける。
     突然、別世界へ瞬間移動してしまったようだ。数時間前までいたルワンダと、何もかもが違っている。店の看板や商品のパッケージはすべてフランス語になった。下校途中の子供たちが、外国人のぼくを目にすると「ボンソワール」と挨拶してくれる。人々の視線は穏やかで、ルワンダのギスギスした空気はない。
     市場で値引き交渉している客と店主の会話が耳に飛び込んでくる。ケニアやタンザニアの公用語であるスワヒリ語だ。ルワンダで通じなかったスワヒリ語を数十日ぶりに聞くと、異郷で母国語に遭遇したかのように温かに耳に流れ込んでくる。ぼくはスワヒリ語圏に百日ほどもいたため、すっかり音感に馴染んでしまっているのだ。
     両替場でアメリカドルをザイールの通貨に換金する。通貨名は国名と同じ「ザイール」である。百ドル紙幣を 一 枚、窓口に差し出すと、分厚い札束が十二個、ドスドスと積み上げられる。十ザイール札が千二百枚分。十ザイールは約十円だ。日本円に換算しやすいのは良しとして、千二百枚もの札束を貧乏旅行者が所有している違和感が甚だしい。
     この町でいちばん見すぼらしい格好をしているぼくが、リュックがパンパンに膨らむまで札束をギッシリ詰め込んでる事実に、罪悪感を感じる。「貧乏旅行者」と言っても、この国では金持ちに類する。他人に食べ物や寝床の施しを受けながら、実は背中に大金を背負っているというギャップが甚だしい。
                  □
    ホームステイ先のバンドメンバー宅では、家族ぐるみで温かく迎えられ、夜遅くまで旅と日本の話で盛り上がる。真夜中になり、若者のベッドに二人でもぐりこんでからも、国境越えの興奮からか眠れず、明け方まで話し込む。
     口にしようかどうか迷ったが、ルワンダで受けた暴力と差別について、話してみる。彼はちょっと考えてから、表情を曇らせて答える。
     「ルワンダは問題が多い所だ(※)。君が経験したいろいろな出来事は、君とルワンダの問題ではなくて、ルワンダ自身の問題なんだ。ただ君は、君の国に帰ってから、そこであったことを他の人にも伝えなくちゃならない。そうすることがルワンダにとって 一 番必要なんだ」
     けど、やっぱりぼくの問題でもある、と返そうとしたが、彼のアドバイスを守ることが自分にできる唯 一 のことだろうと思い、彼の言葉を噛みしめる。
     (※この数年後、ルワンダでは数百万人が生命を落とす大虐殺が起こる)
                  □
     ブカブの街を出て、しばらく湖岸道路を進んだあと、道は深い森へと伸びている。この辺りの森は、野生ゴリラの生息地として世界的に名高い。森に入ってからは、ひんぱんに集落が現れる。無人地帯が続いた序盤のサバンナ地帯とは、人の往来の数が違う。七百キロ彼方のキサンガニまで歩いていくという奇妙な旅人を、村人らはみな珍しがり、心配し、サトウキビや水を差し入れてくれる。
     昼頃から、ヤギの親子を連れた老夫と、二十キロほどを抜きつ抜かれつ歩く。夕暮れ時分にたどり着いた集落で、老夫は「今日はここまでにしなさい」とぼくの手を取り、民家へ連れていく。雰囲気からして、老人の家ではなく、知り合いの家のようだ。
     突然の異邦人の訪問に、家族は戸惑うこともなくベッドを用意し、スクマ(緑黄野菜の煮込み)とウガリ(蒸したキャッサバ芋の粉)をテーブルに並べる。「家族のために用意した夜食でしょう?」と遠慮しても、「気にするな、食べろ食べろ」と勧める。
     食事を終える頃には、村人たちが庭先に見物に集まっている。村の少年が「コレ食え。うまいぞ」と渡してくれたのは、昼間ごにょごにょと道路を這っていたグロテスクな紅い毛虫だ。口に含んで噛んでみると変な味がして「ギョエ」っと吐き出す。村人たちはキャッキャと笑う。
                  □
     ザイールに入って三日目。久々に大きな村に着く。食堂に入ってワリ・ニャ・ニャマ(肉ぶっかけご飯)を注文すると、異様に臭い肉が出てくる。割ってみると、中にたくさんの白い幼虫が茹で上がって死んでいる。我慢して飲み込んでみたが、死ぬほどまずい。喉を通らないので「水をください」と頼む。出されたコップ水をよく確かめずに飲むと「ゲボーッ」とむせ返る。これは紛れもなく酒だ。店の主人は、ぼくの様子を見て、腹をかかえて笑っている。
                  □
     道はだんだんとジャングルの奥深くへと分け入っていく。ツルがまとわりついた背丈の高い椰子の木、巨大なシダの群生、鳥獣のささやき声や遠吠え。「グォーグォー」という大型獣の鳴き声が辺りを圧する。ジャングルが静寂に包まれる。この森の主の雄叫びなのだろうか。
     サルの死体をぶら下げた少年たちが歩いていくので「それは何だい?」と尋ねると「チャクラだ」(メシだ)と答える。サルの身体は燻製されたのか黒くいぶされ、硬直している。口と目を大きく開いて、天に向かって吠えているかのようだ。
     獣道のような頼りない山道が十五キロも続くと、やがて踏み跡に変わり、道が途切れる。サラサラと水音が聴こえる。突然、密林が開けると、二十メートルほどの幅を持つ小川が横たわっている。水は澄み切っていて、磨かれた川砂の模様がくっきりと浮かび上がる。跳躍する川魚が川面を叩き、飛沫が宙を舞う。太陽の光が降り注ぎ、光が揺れている。
     川面に蝶が舞っている。光の中に何千、何万という蝶がいる。銀色の羽を光の渦の中で羽ばたかせながらダンスを踊っている。目を開けていられないほどの光だ。
     ぼくは靴を脱ぎ捨て、浅瀬へ飛び込む。頭のてっぺんまでピーンと冷たさが伝わる。蝶といっしょにぼくは踊ってみる。ここは、密林の天国なのだ。
    (つづく)

  • 2021年06月21日バカロードその153 アフリカ灼熱編10「自分不明者、石つぶて、悔恨」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。寒村でマラリアに倒れ死線をさまよったが、療養期間を経て再び歩きだす。スタートから千百キロを超え、タンザニア北部の巨大湖ビクトリア湖岸から、山岳国家のルワンダへと足を向ける)

     Tシャツの袖から先の皮膚は、マトモな部分が残ってないほど虫に刺され、咬まれている。栄養失調からか治癒力に乏しく、ジュクジュクに白く化膿している。歩きながら両腕の虫刺されの跡を数える。昨日は二百十六個、今日は二百六十六個。一晩で五十個も増えている。咬み跡で何の虫か想像がつく。二つ牙跡で列を成しているのがダニ。広い範囲でぶわっと数十カ所を発疹させるのが南京虫(シラミ)・・・なんだろう。
     かゆみはあまり感じなくなっている。百個を超したあたりで飽和状態に達してしまっている。もうどこでも吸って、咬んでくれって感じ。
               □
     ムワンザは北部タンザニア随一の都市である。しかし、農村部の穏やかで豊かな人びとの暮らしぶりとは様変わりし、街の隅々まで貧困がこびりついている。郊外からダウンタウンの中心部へと向かう街道には、バラックの建物が連なっている。歩く人びとの目は虚ろで、表情がない。田舎の村人たちとは違って、外国人のぼくを一瞥もしない。
     垂直の位置にある太陽が、あらゆる影を地面に焼きつけんばかりに照りつける。蒸し器に閉じ込められたような嫌な暑さ。顔の周りをハエがまとわりつく。ここいらのハエは、舐めるだけじゃく噛みつくのでひどく痛い。
     食物市場の裏側の、猛烈な腐臭がする汚泥のたまり場に、人がいる。腐った野菜や、発酵しすぎたフルーツや、魚の内臓がヘドロになったゴミ溜めに、ひとりの男が座っている。彼の横で、図体のでかい黒豚が腐敗したゴミをクチャクチャと食っている。
     男がふいにつぶやく。
     「お前は誰だね?」
     はっきりしたスワヒリ語で、明瞭な発音で問うてくる。
     「日本人だ」と答えると、彼は「アパナ(違う)」と首を振る。
     そして繰り返す。
     「お前は誰だね?」
     男の目は青白く光っているように見えた。
     「お前は誰だね? お前は誰だね?」
     ぼくは逃げ出した。赤土の道を、脇目もふらずに歩いた。背中と胸にジュクジュクと脂っこい汗をかいた。
     男は狂っている。道行く人すべてに「お前は誰だね?」と尋ねているのだ。彼の目には何も映ってやしないのだ。
     しかし、男の問いかけが頭にこびりついて離れない。
     ぼくはいったい何者なのだ?
             □
     七月二十七日、ルワンダ共和国の首都・キガリに到着する。インド洋岸の街、モンバサを出発してから百四十四日目、距離は千七百キロあまり。タンザニアとルワンダの国境から首都キガリまで二百五十五キロを六日で歩く。
     官公庁やホテルがあるキガリ市の中央部に着いても、これが本当に一国の首都なのかと疑うほど閑散としている。なぜこの国が独立国家として機能していけるんだろう?
     小さな、本当に小さな国だ。
     そしてこの国について考えることは、とても苦痛を伴う作業だ。
     キガリ市の中心部にある市場の入口で、警官五人が少年を羽交い締めにしている。盗みでも働いたのだろうか、それとも言いがかりなのだろうか。髪の毛を引っ張られ、顔が歪んでいる。抵抗したためか、シャツが破けて上半身が顕になっている。一片の脂肪もない美しい身体だ。
     少年が隙をつき、パッと側方に飛ぶ。少年の運動能力は、警官のそれを上回っている。少年が走りだす。黒豹のように俊敏で獰猛な動きだ。だが、少年の挑戦はまったく成果を見せないまま、再び警官の制圧下に陥る。野次馬がつくる人垣が、彼の行く手を阻んだのだ。警官らはあっという間に彼に追いつくと、手にした警棒でめった打ちにする。肉と骨が砕ける鈍い音が響く。広場を引きずりまわされながら、少年は抵抗力を失いぐったりする。頭がザックリ裂け、白いシャツが鮮血にまみれる。野次馬らは黙ってその光景を見ている。
     「おい中国人」
     背後から声がする。ぼくのことを呼んでいるのだ。この国ではぼくは「中国人」という風に呼ばれる。自動車とゲームとアニメづくりの得意な東方の島嶼国家など誰も知らない。
     「中国人、聞こえないのか?」
     気づかないふりをする。声の主が正面にまわりこむ。小男だ。右目のまわりの皮膚が溶けて、眼球がむき出しになっている。
     「お前はツーリストか。ツーリストならガンジャをやるだろう。いいガンジャがここにあるんだがね。産地も乾燥具合も申し分ない。あっという間に天国だ。お望みならハシシもエルもある」
     男は上着のポケットから茶色く枯れたガンジャ入りのビニル袋を取り出し、ぼくのズボンのポケットにねじこもうとする。こいつはぼくを陥れようとしている。おおかたグルになっている警官がいるのだ。きっと直後に警官が登場し、身体検査をされ、「豚箱に入りたくなければ百ドル寄越せ」という段取りだろう。
     ぼくは男の襟首をつかみ、力まかせに地面に叩きつける。そして後ろをふりかえらずに全速力で逃げる。路地裏をめちゃくちゃに走り、目立たない小さな食堂に逃げ込む。
     猛烈な空腹感に襲われる。少年の血を見たからだろうか。
     そら豆と豚肉を煮込んだものを注文する。といっても料理はそれだけしかない。山盛りになった煮豆を口に押し込んでいく。一皿では足りない。二皿めはペースを上げてかきこむ。窓という窓に、子供たちの顔がへばりついている。
     「シーノア! シーノア!」(中国人だ、中国人だ)
     嘲笑混じりの大合唱がはじまる。
     だから、ぼくは、何者なんだ?
          □
     ルワンダでは「小石」という小さな暴力と憎悪にさらされた。
     村に入る。子供たちに取り囲まれる。彼らは口々に言う。
     「中国人、一フランくれよ」 
     子供たちの瞳に純朴さはない。強い敵意に満ちている。彼らに一フランコインをさし出すことはできない。欧州の駐在員や一般のツーリストたちは、ズボンのポケットに子供たちにばらまくための小銭を忍ばせている。持てる者は、持たざる者に与える。それがこの国の道徳観だ。
     ぼくの手持ちの全財産は七百ドルだ。七万円、それはこの国の労働者の数年分の収入にあたる。ぼくはこの金で、旅という娯楽を営んでいる。子供たちは、一フランあれば数日の間、食べ物に困ることはない。
     わかっている。わかってはいるのだが、ぼくは子供たちとの間に、与える側と与えられる側の境界線を引きたくない。しかしそんな綺麗事は、この国に住む人たちには関係のないことだ。「金払いの悪い金持ち」の烙印を押される。
     投げつけられた小石が周囲を飛び交う。振り返らない。振り返ると、子供たちをさらに挑発することになる。走って逃げる。派手な歓声と、石つぶてが追いかけてくる。この国に入ってから、こうやってずっと逃げつづけている。逃げるたびに、自分がコメツキバッタのように卑しい存在になっていく気がする。
     ルワンダでは幹線道路を歩かない。山を大きく迂回する車道よりも、山越えの峠道のほうが、目的地まで数キロ近いことがある。それより何より、あまり集落を通過しないですむ。人と出くわさないほうが、嫌な出来事に遭わなくてすむ。
     木の根っこが縦横に張り出した山道は、前夜の雨でつるつる滑り、何度も転倒する。急な峠道を登ったり下ったりしながら、この国からの脱出を願う。はやく次の国、ザイールに逃げ込みたい。あと数日で、国境の町キブエに着く。ザイールがどんな国かは想像もつかないが、この国ルワンダよりはマシだろう。
     見晴らしのいい峠のてっぺんで、子供連れの婦人に出くわす。背中と頭の上にたっぷり荷物を載せている。五歳ほどの幼い少女もたくさんの荷を身体にくくりつけている。婦人はぼくの目的地を尋ねると、どっこいしょと荷物を下ろし、「こっちの方が近いわ」と小枝の先で土の上に丹念に地図を描く。そして、手にした布切れで、ぼくの汚れたシャツやリュックを拭いてくれる。
     「中国人、今夜はどこに泊まるのかい?」
     「ここから二十キロ先の村です」
     「アタシん家で泊まるか? アタシの村は、あっちの山の方さ。その村より近いわ」
     「でも今日はもうちょっと先まで歩くよ、ありがとう」
     好きにすればいいさ、と婦人はサバサバした物腰で笑う。そして、
     「それじゃ、少し先までいっしょに歩くよ」と腰をあげる。
     数キロの山道を彼女の先導で歩く。ぼくの何倍もの荷物を担いでいるのに、気を抜くとどんどん引き離れる。少女の脚もたまげんばかりに強い。二人は息を切らすことなく、大声で歌をうたっている。
     休まずに二時間歩いた所で婦人は立ち止まり、細い崖道を指さして言う。
     「アタシらはあっちの道から帰るよ。気をつけて行きな。道を間違うとザイールにはたどり着けないよ」
     久しぶりに気持ちのいい出会いだ。「さよならマダム!」と声をかけ、彼女たちを見送る。
     ところが、いったん立ち去ろうとした婦人が、すごい形相で走り寄ってきた。
     「ハァハァ、フラン(お金)をちょうだいよ」
     ぼくは愕然とし、悲しくなる。「お金はあげられない」と断る。
     すると彼女の表情は一変し、手にしていた雨傘をこっちめがけて投げつける。傘は足元でバウンドし、壊れて柄の部分が谷へと落ちていく。娘が崖を下って取りにいく。ぼくは残った布の部分を拾いあげ、婦人に返す。婦人の瞳には、あの子供たちと同じ憎悪が宿っている。ぼくは目を逸らす。
     奥深い森と、清涼な渓谷。豊かで美しい自然にあふれるルワンダ。なぜぼくは、この国の人びとと衝突し、傷つけあわなければならないのか。
           □
     夕暮れの空、連山の向こうから闇が迫る。頭上を覆う絶壁から、霧雨がふりそそぐ。
     ドーンドーンドーン。周囲を圧する鳴動が、耳を衝く。巨大な滝の落水が、荒々しく滝壺を叩いている。ますます山は深くなり、冷たい雨粒が身体を芯まで凍えさせる。
     遠くに灯りが見える。五軒ほどの集落に近づいていく。一軒の家の扉を叩く。
     「こんばんわ。ぼくはツーリストです。今夜一晩だけ、軒先を貸してください。お願いします」
     ドアが開かれる。でっぷり太ったおばさんが、うさん臭そうな表情で見つめる。
     「家の外なら寝てもかまわないわよ。どうぞお泊まりなさい。料金は五百フランよ」
     五百フラン!  とてもそんなお金は払えない。
     ぼくは再び歩きだす。雨が激しく地面を打ち、深く暗い森の、何万という広葉樹の葉をピリピリと揺らす。高地に降る雨はひどく冷たく、髪の毛の芯までぐっしょり濡らす。髪を伝うしずくは、首元を滝のように流れ落ちる。赤土の道はぬかるみとなり、靴を脱がそうとする。
     すべて洗い流してほしい、と思う。この国で出会ったすべての悔恨と暴力を。
            □
     [この旅のあと、ルワンダでは部族間の紛争が起こり、多数派フツ族や政府軍等によって、少数派ツチ族住民に対する虐殺が行われた。死者は全人口の十~二十パーセントに達する五十万人~百万人とされ、国内避難民や国境を越えた難民は二百万人にも及んだ。ぼくが歩いた幹線道路や峠道沿いの集落でも何十万という人が死んだ。
     ぼくは、この国で自分に向けられる敵意の意味を計ることができず、ただ苛立っていた。同族外の人間に向けられる憎悪の奥に、どんな人々の感情や歴史が横たわっているのかなんて、学ぼうとも、知ろうともしなかった]
    (つづく)

  • 2021年03月19日バカロードその152 アフリカ灼熱編9「サギ師、ジキジキ、ねむりバエ」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。小さな村でマラリアに倒れ、村人に介抱される。一時は死線をさまよったが、二カ月の療養期間を経て再び歩きだす。スタートから千百キロを超え、タンザニア北部、ナイル川源流のビクトリア湖岸を西へ西へと向かう)

     漁業が盛んなビクトリア湖岸に広がる肥沃な平原地帯を離れ、アップダウンのある灌木帯に突入する。米や魚にありつける機会はマレになり、主食はサトウキビ、バナナ、キャッサバイモのローテーションだ。
     街道沿いにずらりと、茅ぶき屋根のサトウキビ屋が軒を連ねている。長さ二メートルと背丈よりも高いサトウキビは、一本二シリング(日本円にして二円)だ。それを三本ほどまとめ買いし、ナイフで五十センチ大にカットして、リュックの左右に突き刺しておく。
     サトウキビは表面の頑丈な皮を割いて、芯の部分をかじると甘い砂糖水が口中にジュバジュバあふれる。水分をすべて吸い終わった繊維質の芯をペッペと吐き出す。一日で口にする食料がサトウキビだけという日もあるが、豊富な糖分と水分が補給できるので、飢えや乾きに瀕することはない。
     バナナ屋に出くわすと小躍りしたくなる。貴重なカロリー源である。長さが一メートルにもなる巨大な房は、木刀のようにカッチカチだ。ぶんぶん振り回すと、牛を追っ払える。生のままで噛じることは不可能。皮をそぎ落として、バナナの葉で蒸し焼きにするか、鍋で煮込むかして食べる。たいていのバナナ屋の横では、この蒸し・煮込みバナナを皿に入れて出してくれる。これも一皿二円。贅沢しても、一日の食費は十円かからない。
     毎日だいたい十五時間歩き、四十五キロほど前進していく。一日じゅう動きつづけ、少量の食事しかとれないため、摂取したものはすべて身体に取り込む。食事のあとは、小腸の繊毛がうなりをあげて吸収している感じがする。小便やウンコはめったに出ない。実に経済的である。
     真昼の太陽の下、サトウキビ屋の前であぐらをかき、サトウキビをバリバリかじっていると、ドブロク酒で酔っぱらい気味の店のオヤジが肩をツンツン突いて、横に並んで座る。「兄弟も一杯やろうぜ」と上機嫌だ。
     手にした一枚のチラシを見せる。
     「この人は、アンタの知り合いかい?」と聞く。
     モノクロで印刷されたチラシには、
     《ジーザス・クライスト、アフリカ大陸を横断する!》
     との見出しが踊っている。ビザンティン時代の宗教画のような、前時代的な挿絵が描かれている。聖衣をまとった白人神父がジャングルの小道を歩き、彼の足元には村人たちがひざまずき、うっとり潤んだ瞳を向けている。
     《フランスの高名な神父○○氏が、布教のためにアフリカ大陸を徒歩で横断しようとしている。四千マイルの道のりを、ジーザスの教えを説きながら自らの足で踏破する》
     英語とフランス語で説明が続く。
     《偉大なる彼の旅をサポートするために、心からの寄付を! 一マイルにつき五ドル、全行程で二万ドルの旅の資金が必要です》
     二万ドル、イコール三百万円! これが旅行費用だとしたら大サギだな。
     「オヤジ、この人はアフリカを旅するために三百万シリング必要なんだって。三百万といえば、このサトウキビ百五十万本分だ」
     「ほう、すごいな。そりゃ」
     オヤジは目をまるくする。
     「神父さんは、かなりの大食らいだ。お前と同じでな、ヒャッヒャッヒャ」
        □
     ここまで通過してきたタンザニア北部の村々では、そうとうな寒村でもキリスト教の教会が設けられている。どこの教派に属するかは、ぼくの知識ではわからない。教会といっても聖堂があるわけではなく、質素な土壁の小屋の前に広場があり、椰子の木を切り出して削った長イスが十脚ほど並んでいる。日曜になると村人が集まって礼拝が行われ、ゴスペル調の歌をうたったりする。
     ぼくが村に着くと、子供たちに手を引っ張られて最初に案内されるのが教会だ。神父さんはイコール村の名士であり、英語かフランス語を解するからだ。
     彼らはおおむね身だしなみが整った紳士であり、未知の文化に興味が強く、議論好きである。
     「友よ、日本は仏教国だと聞いたが、ジーザスを信じる人はいないのかね」
     「日本は仏教徒が多いわけではありません。結婚式はキリスト教、新年には神道、お葬式では仏教と、時と場合によって手を合わせる対象が変わるんです」
     神父は首をひねる。
     「私には理解できないね。いろいろな宗教が地球上に存在しているのは事実だが、それぞれの神の教えは違うはずだ。日本人は、すべての神を信じているのですか」
     「逆ですね。多くの日本人はどの神様も信じていないから、何にでも手を合わせるのです」
     「何も信じていない?」
     「あえて言うなら資本主義(キャピタリズム)を受け入れているかもしれません」
     「キャピタリズムの神は誰かね」
     「お金です」
     「お金は神ではないよ」
     「でも、みんなお金のことを頼りにしています」
     「友よ。私は日本でジーザスの布教をしたい。神とお金は絶対的に違うのだと伝えたい」
     神父の宗教談義から解放されたのは、夜鳩が鳴く頃だ。ロウソクが消され、ようやく眠りにつける。やれやれ。
     ・・・・・。
     トントントン。
     タンタンタンタン。
     バッタンバッタン。
     ドォーンドォーンドォーン。
     アーアーアーアー。

     う、うるせー! 
     神父め、ジキジキおっぱじめたな!
     ジキジキとは性交のことだ。「ジキジキ」という言葉は、東はバングラデシュにはじまり、インド亜大陸、中近東、東アフリカへと、大海と大陸をまたにかけて共通語として愛用されている。セックスという言葉には淫靡で秘匿すべき印象があるが、「ジキジキ」には、カラッと明るく開放的で、力強い生のイメージがある。サバンナの太陽や、密林の木漏れ日の下に、ジキジキはよく似合う。この行為の先に、人間の誕生や、生命の謳歌があるのだと思わされる。
     だからジキジキは嫌いではない。だけど、民家泊まりではさんざ悩ませられる。家主らは客人の存在を気にしない。隙間だらけの板張りの壁一枚を隔てて、ドッタンバッタンが繰り広げられる。あるいは、六畳ほどの土間にムシロを敷いて雑魚寝という状態で、一メートルほどの距離をおいて実施されるのである。
     甘美な声ではない。野獣の咆哮のような声にエロスは伴わない。明かり取りの窓から射す月の光に浮かぶのは、なまめかしい蠕動ではなく、直線的な前後運動だ。そして、おおむね五分で終了する。
     自然体といえば自然そのものの営みの姿であるが、二十歳のぼくには刺激が強く、脳髄はギンギンに冴えわたる。
     翌朝、寝不足で寝ぼけマナコのぼくに神父は言う。
     「さわやかな朝だね」
     「ええ、そのようですね、神父」
     「ところで友よ」
     「何でしょうか」
     「日本の電気製品は素晴らしいと聞いた。ぜひ送ってもらえないだろうか」
          □
     目立つ産業ひとつないこんな土地にも開発の触手は伸びている。道路を行き交う工事車両には、中国人らしき人たちの姿が見える。新たに造られた道が平原をまっすぐ切り裂き、地平線へと伸びている。森の木々を根こそぎ切り倒し、下草を焼き、熱したアスファルトを敷き詰める。あたりは石油の匂いで充満している。ここに生命の繁栄はない。焼け出されたハリネズミや肉食獣の死体が転がっている。
     三十匹ものハエが顔の周りを飛び交い、気が狂いそうになる。手にしたタオルをヌンチャクのようにぐるぐる回し、ハエを追っ払いながら歩く。乾ききった荒野に突然現れた血と肉の塊(ぼく)に、ハエは興奮し、歓喜しているようだ。わずかな水分を求めて、目や鼻や口の中へとカミカゼ特攻をかけてくる。タオル攻撃を逃れると、リュックの後ろ側にいったん逃れ、再び上空に舞い上がっては集団で攻撃をかけてくる。
     逆襲してやろうかと、口の中に飛び込んできたハエを噛み潰してやる。甘い味がした。食えないわけではなさそうだ。
     「キーン」
     突如、高周波数の金属音が耳をつく。
     何だ? 耳鳴りのようでもあるし、ラジオのノイズのようでもある。あたりを見回しても発信源が認められない。
     「キーン」
     かつて一度も聴いたことのない奇妙な音。それはしばらくの間、灌木の茂みの中から背後へ、そして頭上へとつきまとってきた。
     ふいに、一昨日の夜の記憶がよみがえる。バイパス道路沿いの宿場町の酒場で、テーブルをともにした輸送トラックの運転手にさんざ脅されたのだ。
     「ここから先は国立公園だ。ライオンはいるし危険な猛獣でいっぱいだ。なにより怖いのがツエツエバエだ、ツエツエバエに狙われたら決して手を出すな。ヤツらは攻撃的で、オマエの勝てる相手じゃない。刺されたらオシマイだからな」
     この金属音はツエツエバエの羽音なのか?
     その名は何度も耳にした。アフリカ赤道地帯に生息するこの凶悪バエに刺されると、日増しに衰弱していき、半年後には二度と目覚めることのない永遠の眠りにつくという。恐るべき殺傷虫だ。
     メラメラと燃える太陽と、気味悪いくらい群青に冴えた空。ブスブスとくすぶる焼き畑の黒い焦げ跡。猛々しい熱波と、原色しか存在しない原野に、そいつは満を持して姿を現した。形状はハエそのものであるが、アブラゼミのようなデカさでまさにヘヴィー級の威風。腹部の黄色と紅色のまだら模様が、異様さを放っている。
     ヤツは明らかにぼくを標的にしている。ツエツエバエは吸血して生きながらえているのだ。牛も山羊もいなくなった荒野に、ぼく以上の極上の獲物はいない。
     焼けただれた平原の真ん中に呆然と立ち尽くす。心臓が痛いくらいに収縮する。手足の先がジンジンと麻痺する。あごの先から滴り落ちる冷や汗が、地面の赤土を濡らす。
     金属音が再び近づいてくる。   (つづく)

  • 2021年03月08日バカロードその151 アフリカ灼熱編8「意思のない枯れ草として」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発したものの、五百キロ余り進んだ村でマラリアを発症する。二週間うなされて悪化の一途をたどり、首都ナイロビの国立病院に担ぎ込まれ入院する)

     ナイロビの国立病院で抗マラリア剤(たぶん硫酸キニーネ)を二日間ぶっ通しで点滴され、五百ドルもぎ取られて金欠になり病院を脱出した。薄暗い安宿の大部屋に生還し、更にベッドの上で三週間、平熱と高熱の間をいったりきたりした。皮膚は黄色くなり、あばら骨が洗濯板のように浮き出した。一向に回復の兆しがないため日本に戻る決意をした。別のバックパッカーが放棄した東京~ナイロビ間の往復航空券の帰り分のチケットを、一万円ちょいで調達した。そういう怪しいチケットを専門に売りさばく手配師は、どこの国にもいるのである。
     日本に帰って東京にある感染症の専門病院にかかった。詳しい検査をして言い渡された診断は、ナイロビの医師がぼくの目玉とベロをささっと見て、ものの三分で断言したのと同じで、熱帯熱マラリアと卵形マラリアの併発だった。ケニア人医師はヤブ医者ではなかったのだ。
     適切な治療を受け、歴史小説を読みながら何週間かを安静に過ごし、一日五回の食事を続けた。半月もすると体力は元どおりになった。若い身体は、バカバカしいほど単純な構造をしているのだ。
     筋肉や脂肪が弾力を取り戻すにつれ、自分が薄気味悪い幽霊のように思えはじめた。アフリカに惨敗しおめおめと帰国して、目標のない宙ぶらりん状態。腕ひとつ動かすのでも億劫でたまらない。
     日本縦断やアフリカへの旅に出る数カ月前まで根城としていたバイト先の運送屋のロッカー室に巣食っていた友人や、家賃一万五千円の下宿の住人の多くは、そこにはいなくなっていた。
     六大陸最高峰の登頂を目指して南米へと旅立った登山家や、百人の仏様を描いて個展をはじめたイラストレーター、ピンク映画の脚本を書いて三十万円のギャラを手にした脚本家・・・。ちょっと前まで地の底でくすぶっていた二十歳前後の同類たちは、立ち止まってはいなかった。誰もが皆、自分の未来に何の恐れも抱かず、小さな穴からこぼれる光源へと猛スピードで突っ込んでいっているようだった。そこにしか自分の生きる場所はないと、あっさり決断していた。居心地の良かったモラトリアムな箱庭は、既になくなっていた。
     これといってやることもなく、野晒しにしてあったバイクに乗って徳島に帰ることにした。国道一号線を下り、烏帽子岩を正面に望む湘南の砂浜で野宿した。箱根で芦ノ湖を眺めたり、甲府のパチンコ屋で時間をつぶした。そして高校生の頃に登った北アルプスを見たくなり、信州に向かった。
     底冷えのする上高地は、人っ子ひとりいなくて寂しい雰囲気だった。どしゃぶりの雨が降っていて、槍・穂高連峰は霧の奥に隠れていた。意地でも山を目にしてやるぞと野宿を決め、物産センターの雨除けの下で、段ボール箱を組み立てて箱の中で丸まった。凍える夜をやり過ごすと、北アルプスの連山が朝日を浴びて白く光っていた。河童橋まで全力疾走すると、息が蒸気機関車の煙みたいに後ろにたなびいた。
     それから再びバイクで日本海側に出て、東尋坊をぶらついてから国道八号線を南へ下った。一年前、子犬おけけと歩いた道だ。あの頃、野宿した納屋や休憩したバス停は、おけけとの記憶がまだ真新しい。
     国道沿いの雑木林の奥の、日当たりのいい畑の脇におけけの墓はあった。何も目印はないけど忘れることはない。スーパーで買っておいたおけけの好物の牛乳とサバ缶を置いた。代わりに、その辺に転がっている小石をひとつ拾ってリュックにしまった。
     徳島に帰省したら、母校の先生に「顔を見せろ」と連絡をもらい高校にでかけた。登山部の顧問だった人で、ぼくの無謀な単独登山を怒ってくれていた人だ。
     土曜の午後の校舎は、しんと静まり返っていた。八角堂と呼ばれる古めかしい大正モダン建築の建物の床に、高校生のとき「アフリカばんざい」と彫刻刀で刻んだ文字が残っていた。
     五階建ての校舎の屋上に出る。屋上にはロッククライミングの練習に最適な壁があり、休み時間になると指先の力を鍛えるために、ヒサシにぶら下がっていたものだ。隣で煙草を吸っている不良たちに、頭のおかしいヤツだと訝しがられていた。昔そうやったように、ヒサシに飛びつき懸垂を繰り返した。冷たいコンクリートに触れている指がジンジン痺れた。
     いったいぼくは何をしているのだ? 
     あちこちほっつき歩いても、そこには何もないことを知っている。
     帰るべき場所は、アフリカ以外にない。
     ぼくは、アフリカに帰るのだ。
         □
     日本での停滞は一カ月で充分だった。東京四谷にある汚いビルの一室で安い航空券を手配し、ナイロビ行きの飛行機に乗った。アフリカに帰還すると、マラリアに倒れた村を再出発点に歩きだした。
         □
     「グオオオオオオオ」
     装甲車や戦車の車列が、地鳴りをあげてウガンダ方面へと猛進していく。二十台、いや三十台はいる。アスファルトに食い込むキャタピラが、赤土の砂塵を舞い上げる。粒子の細かい砂が辺りに漂い、火星の表面のように赤い世界をつくる。ぼくの腕や、顔や、Tシャツや、肺の中まで真っ赤に染めんばかりに。
     奥歯でジャリジャリと砂を噛み締めながら、「ウオッホホーイ」と叫び、頭上でリュックをぶんぶん回す。装甲車のハッチから上半身を出した兵士や、幌つきの輸送トラックの荷台に陣取る兵士たちが手を振り返してくれる。満面の笑顔で、ピクニックにでかけるみたいに、彼らは戦場に向かっている。
     口の中の砂を吐き出すための唾はない。細胞という細胞がカラッカラに乾いている。空になった胃袋、汗が出ずウロコ状にささくれだった皮膚、小石を絡め取って逆毛だつ髪の毛、すべてが生の喜びに溢れている。
     「戻ってきたのだ」と実感する。ぼくは、熱帯の太陽の制圧下にいる。アフリカを歩いている。
     身体じゅうからエネルギーがほとばしっている。幸福感と陶酔にめまいすら感じる。自分がいるべき場所に帰ってきたのだ。
     ケニアから真西に進むウガンダルートは、ケニア陸軍の行軍が示すように紛争が起こっているいらしい(後で知ったことだが、この時期はウガンダ内戦の最終局面で、首都カンパラでは反政府軍によるクーデター作戦の真っ只中であった。ケニア軍は国境の平定に向かっていたようだ)。
     ぼくは進路を変更し、南下に転じた。
     ケニア南西部には、ナイル川の源であるビクトリア湖岸に広がる大草原地帯が広がる。ウガンダルートに比べれば三百キロの遠回りとなるが、戦乱に巻き込まれるよりはマシな選択だろう。再出発から十四日間で四百キロを歩き、タンザニアに入国した。
     これといった観光地も都市もない北西部タンザニアは、まさに辺境地だった。
     ケニアとの国境を越えたとたん、生活にまつわる物資が消えてしまった。青空市場にモノは少なく、痩せた野菜や、天日干しのカチカチになった小魚が、布の上に申し訳程度に並べられている。
     たまに食堂というかカフェがあるが、木柱に布切れをくくりつけて、屋根と壁代わりにした粗末なものだ。メニューは、チャイ(ミルク入り紅茶)とマンダジ(小麦粉を丸く揚げたドーナツ)があればいい方。コップ水はたいてい濁っており、透明な水にはありつけない。
     ケニアならどんな寒村でも通じた英語は、タンザニアの田舎村では使えない。耳で覚えたスワヒリ語で会話をする。といっても、
     腹へった(ムナスキアジャーラ)
     眠りたい(ンナタカクララ)
     愛してる(ミミナクペンダ)
     の一辺倒だ。
     タンザニアでは野宿の必要がない。ムラという共同体が、客人の野宿を良しとしないのだ。
     外国人など絶対訪れる機会のないこの地に、突如現れたぼくの姿は、さぞかし珍妙に映ったはずだ。長い棒の先に、汗に濡れたTシャツをくくりつけ、頭に布切れを巻いた山賊のような格好をしているからだ。
     集落の入口にさしかかると、ぼくを目撃した子供たちがまず騒ぎだす。「面白いものがやってきたぞ」と歓声が上がり、リーダー格の子が集まってくる。Tシャツ旗を掲げたぼくを囲んだ子どもたちが、村の長の家へと案内してくれる。
     長老から「この村で泊まってもよろしい」との許しを頂くと、村でいちばん裕福な家の主が迎えに来てくれる。裕福といっても、土壁で藁をふいた屋根、土の床であることは他の家と変わらない。土間にムシロが敷かれ、寝床をあてがわれる。
     バケツ一杯の水を渡され、トイレで水浴びする。穴を掘った地面に渡し木を並べたトイレは、同時に水浴び場になっているのだ。
     典型的な夜食は、ウガリ(キャッサバ芋の粉を練って蒸したもの)に、スクマと呼ばれる青菜をパーム油(アブラヤシの実を潰したオレンジ色の液体)で炒めたものが添えられる。指先でウガリと青菜をこねながら食べる。これが絶品である。
     一晩を過ごして出発する前には、知っている限りのスワヒリ語を並べて礼を述べる。気持ちばかりですが、といくばくかのお金を渡そうと試みるが、必ず断られる。「そのお金は、この先も長く旅をする君のために取っておきなさい」と家のあるじは言う。
          □
     ぼくの内側でいろいろなことが変化した。
     あまり地図を見なくなった。一日に何キロ進んで、日程どおりに行程をこなすことを自分に強いていたが、今はどうでもよくなった。アフリカ東海岸から出発した頃は、生きるか死ぬかの極限の精神状態にあった。めったに水場や食い物にありつけない環境に追い込まれていた。今は、路上やメシ屋で会った人に誘われたら、どこにでもついていく。道路から遠く離れた村に寄り道し、民家に泊めてもらう。
     マラリアから回復し、アフリカに戻ってこれた。これ以上の幸福を求める必要がなくなった。アフリカという硬質な土地と戦っても跳ね除けられるに決まっている。風に吹かれて適当な方向に転がっていく枯れ草のように、行きあたりばったりでいいのだ。
          □
     少年は、十キロも手前の村からついてきている。ぼくが休憩をすると彼は道端に座り、歩きだすと彼も腰を上げる。振り返るたびに距離が詰まってきて、そのうち横に並んでしまう。手に持った木の枝を振り回しながら、飛んでくる虫を追っ払っている。
     「ねえ君、一緒に来るのはいいけど、もう家に帰らないと日が暮れてしまうよ」
     「オレの家はこの先だよ。ムズング(外国人)は、どこに寝るんだ?」
     「どこでも寝れるよ。道のはじっこでも、トウモロコシ畑でも、牛のウンコの上でも、どこでも大丈夫だ」
     「なら、オレの家でも寝れるか?」
     「泊めてくれるのか?」
     「いいよ。これから先は村はないから、メシを食って泊まっていけばいい」
     幹線道路を外れて、木綿畑を貫く土の道に入る。少年は駆け足で先行し、曲がり角のたびに行く方向を指さしながら、ニッとぎこちなく笑う。
     少年の家は、土壁でできた素朴な家だった。父親と兄弟たちが出迎えてくれる。「ようこそ」と言って握手を求められる。突然、奇妙な外国人が現れたのに、驚くそぶりがないのが不思議だ。
     ぼくのつま先から頭の先までをひとしきり見回した父親が、あきれ気味に言う。
     「ムズング(外国人)は、まず水浴びをするべきだな」。
     再び少年の先導で、水浴び場に向かう。家の裏に広がる背丈のあるトウモロコシ畑を抜けると、だだっ広い平原の中に小さな泉が現れる。あっという間にパンツを脱ぎ捨てた少年は「ヒュー」っと喉を鳴らして泉にダイブする。ぼくも服を脱いで宙に舞う。どこから情報を得たのか、村の子どもたちが次々と集まってきては、どんどん飛び込んでくる。子どもたちと水面を叩いて飛沫を浴びせかけあってハシャぐ。
     空全体に朱色のペンキをぶちまけたような夕焼けが広がる。ジャンプを繰り返す子供たちの影が、切り絵のように空中で静止して見える。
     夜空に金星が輝き始める頃、家族で焚き火を囲んで食事がはじまる。スパイスをたっぷり効かせた小魚の油炒め、乾かした芋やバナナ、芋の粉をこねたウガリ。ぼくは芋を立て続けに十二個ほおばり、喉につまらせて家族を慌てさせる。
     食事を終えると、家の隅に積み上げられた白い綿花の山に布をかけて、急ごしらえのベッドを作ってくれる。客人の様子を確認しにきた父親が、「よく休みなさい」と神妙な顔つきで去っていく。綿毛にはイモムシがたくさんいるらしく、夜中にシャツの中で這い回ったりしたが、久しぶりの柔らかい寝床に安眠をむさぼる。
     目が覚めて外に出ると、朝日がヤシの木の上に登っている。ベッドが心地良すぎて寝坊してしまった。あわてて出発準備をはじめる。父親が「そんなに急がなくていい。もう一日いてもいいんだぞ」と引き止めてくれる。「ムズングはわしの息子みたいなものだ」と言いながら。とはいえ、こんな親切な家に長逗留をしては迷惑をかける。昨夜の贅沢な晩ごはんは、きっと無理をして用意してくれたのだ。
     少年と父親と三人で、西に向かって歩きはじめる。代わる代わるぼくのリュックをかついでくれた親子は、地平線をひとつ越えるくらい遠くまでつき添ってくれる。別れ際に、ウガリを葉っぱで包んだ弁当を手渡してくれる。父親は「いつか手紙をくれよ」と強く手を握る。
     「ポレポーレ!」(のんびりいけよ!)
     そう叫ぶ二人は、丘の向こうで姿が豆粒になるまで手を振っていた。
     こうやってぼくは、毎日五リットルずつ汗を流しながら、アフリカの内陸へ内陸へとジリジリ詰め寄っていったのだ。 (つづく)
     

  • 2020年12月05日バカロードその150 アフリカ横断灼熱編7「完膚なきまでのKO負け」

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサから五百二十キロ歩いて首都ナイロビに着く。退廃した路地裏世界に翻弄されながらも、西へと向かう道を再スタートする。ところが小さな村で熱病を発症し、村人たちに介抱される)

     東アフリカではマラリアは日常茶飯事だ。サバンナやジャングルには耐性を有する部族が存在するらしいが稀有な例であり、風土病として瘧(おこり・熱病の症状)に苦しむ人々は多い。地元の人でさえ罹るのだから、無菌培養された清潔な国から来た人間が、無防備に汚染エリアを旅すれば、たちどころにやられてしまうのは至極当然だ。
     マラリアは蚊の一種であるハマダラカによって媒介される。人間から血を吸うために肌を刺した際に、ハマダラカの唾液から「マラリア原虫」が体内に送り込まれ、人の肝臓や赤血球内で増殖する。つまり人は、ハマダラカに血をあげた代わりにマラリア原虫をもらうという、恩を仇で返される仕打ちを受けるのである。
     そもそも、ドラム缶に溜まったボウフラだらけの雨水で乾きを癒し、土の家や草原で夜を明かして蚊に刺され放題のぼくなど、感染しない方がおかしい。カネをケチって予防薬すら飲んでないのだ。マラリア予防薬は主に2種類。そこらへんの庶民売店にも置いてる低価格のマララキン、病院や薬局でしか入手できない高価格のファンシダール。マララキンは気休め程度で、ファンシダールはガチで効くが肝臓や腎臓への副作用強い・・・というのが旅行者の通説。
     ぼくは「守られた旅」をする気がない。水が汚染されているからとミネラルウォーターを飲み、蚊やハエが多いからと防虫スプレーをかける。兵隊アリに攻撃されまじとテントを張り、切り傷に抗生物質を塗りたくる。精巧な地図を持ち、コンパスで方位を測りながら進む・・・。リスク回避された正しい旅の方法は、ぼくには何の意味も持たない。
     村人たちと同じ水を飲み、毒虫にたかられて、飢えて乾いて足の裏を血まみれにして、下痢腹をピーピー鳴らしながらじゃないと、わざわざアフリカを歩いて旅する意味はない。
     たとえばエベレストに登るという行為の場合、ヘリを使って山頂に降り立つのと、無酸素・少数精鋭のアルパインスタイルで頂点を極めるのでは、まったく意味合いが違う。文明の利器に守られた快適な旅は、ぼくには不必要なのだ。コテンパンにやっつけられて、この旅を完踏できなくなったとしても、それでいい。その失敗までの濃密な時間が必要なのだ。
         □
     発病から三日目の夜。
     三日間、面倒を見てくれていた村の若者たちが「これ以上ここにいたら死ぬ」と、ぼくを抱えあげる。一人の若者の背におぶわれて集落から少し歩いた幹線道路に向かう。首都ナイロビ行きのバスが通っているという。背負われたぼくの周りを老人や子供たちが囲い、後ろには行列ができている。名も知らない小さな村の優しい人たち。村の前で行き倒れ、気を失っていたやっかいな異邦人に、水と食べ物と薬を分け与えてくれた親切な人たちだ。
     遠くにヘッドライトの光が現れる。決まったバス停があるわけじゃない。子供たちが道路の真ん中に踊りだし、身をていしてバスを停める。若者たちは、バスの中へとぼくを担ぎあげ、椅子に横たわらせる。若者たちはバスを降りる前に強い意志をこめた瞳でぼくを見つめる。うわ言のような返事しかできず、二度三度とうなずく。
     バスに(たぶん)二時間ほど揺られると、椅子に寝た姿勢からでもナイロビの繁華街の高層ビルの窓明かりが見える。どうにかこうにか背中を起こし、記憶にある街の風景の場所でバスを降りる。ここには肩を抱えてくれる人も、背負ってくれる人もいない。下車してからは方向感覚もあいまいで、道に迷っては路上に座り込み、ゼエゼエと息をつきながら体力の回復を待ってはまた歩く。 
     ようやくたどり着いた常宿で、今夜は満室だと断られる。愕然として廊下の壁にリュックを立て掛け、もたれ掛かってうなだれていると、事情を知った親切な旅行者が肩を叩き、「私は他に宿を取るから、あなたはここで休みなさい」とベッドを空けてくれる。
     二階にある部屋に向かう階段の途中の踊り場で、植木鉢に嘔吐する。
     四人部屋のベッドの一つに横たわると、周りの旅行者がいろいろ世話を焼いてくれる。体温計で計ると三十九度四分だった。あとは眠る以外にできることはない。
         □
     発症から四日目、同室の英国人がアスピリン錠剤を口に含ませ、水を飲ませてくれる。三十分もするとぐんぐん気分が良くなり、平熱まで体温が下がる。「やった、治った」とベッドの上で跳ね回ったのも束の間。一、ニ時間後にはものすごい悪寒に襲われ、震えが止まらなくなる。毛布を何枚重ねても、氷の膜に包まれたように不快だ。
     六日目の真夜中。宿は停電していて、窓の外の街も真っ暗である。喉が渇きすぎて唾が出ず口の中がガサガサして痛い。どこかで水を買えないかと、頭にヘッドランプをつけ、宿の玄関を出て久しぶりに屋外の空気に触れる。すると以前から顔見知りのマラヤ(娼婦)の二人組が近づいてきて、いきなり両側から抱きついてくる。こちらの体調など知ったこっちゃないと、顔や首筋にキスの雨あられ攻撃を加える。いったい何の魂胆かと訝しんでいると「私たち今からディスコに行くから、その頭につけてる光るモノを寄こしなさい」とヘッドランプをむしり取る。そんな無茶なと抵抗するが、筋肉ムキムキの彼女たちに抗う体力はなく、無残に奪われる。ヘッドランプをつけて踊ったらウケるのか?とムダな想像をしつつ、容態を悪化させて宿の階段を這い昇る。
     八日目。オレンジを口にする。発病して以来、上に戻さず胃に入ったのは初めてだ。少しは回復しているのだろうか。
     十日目。嘔吐が止まらなくなり、トイレの中に毛布を持ち込んで、一晩じゅう胃液を吐き続ける。体温計を脇にさすと四十度を超えている。宿の主人が再三、部屋にやってきては「病院に行くように」とうながす。厄介払いをしたいのが有りあり伝わる。「お金がないので、病院に行けない」と拒む。ケニアでは医療費が驚くほど高く、入院すれば一日に二百ドル(二万円ほど)もかかると聞いている。二万円といえば、旅行費用の二カ月分にあたる。入院なんかしたら、あと一年以上かかるであろうこの大陸横断の旅が、ここで頓挫してしまいかねない。
     十二日目。朝から高熱。まぶたを開いても閉じても紫の万華鏡のように光の乱反射が見える。身体が痺れてトイレにも立てず、ベッドで排尿する。昼ごろに意識が混濁する。ツーリスト四人に担がれて、ナイロビ市内の大きな病院に連れていかれる。
     受付で三時間待たされたあと、車いすに乗せられ診察室に入る。右手の甲に太い注射針を打たれ、点滴が流れ込む。血液と濃度が違うのか血管がピリピリ痛む。体温は四十一度。診察は目と舌を見て、あとは何やらこちょこちょやったら終わり。医師は、付き添いの旅行者が持参していた英和辞書のページをめくりながら「熱帯熱マラリアと卵形マラリアの混合感染・併発」と教えてくれる。
     担架で入院病棟に運ばれる。右隣のベッドにはアラブの商人風の男。左隣のベッドはインド人とケニア人のハーフっぽい男。入院患者にケニア人らしき人はおらず、みな裕福そうに見える。ここは「ケニヤッタ国立病院」というケニア国内で最も権威のある総合病院だそうだ。インド人患者が女性看護師の尻を触ったらしく、口喧嘩をおっぱじめる。二人の怒鳴り声がグワングワンと頭に響いて、気が狂いそうになる。
     夜になって気づいたのだが、点滴の管に気泡がたくさん浮かんでいる。血管に気体が入ったらマズいのではないかと不安になり、看護師を呼んで指摘する。でっぷり太った看護師はスワヒリ語しか理解せず、ぼくは「空気」や「泡」というスワヒリ語の単語を知らないために、身ぶり手ぶりで抗議するが伝わらない。怒った彼女は、頭上のライトを点けっぱなしで去ってしまう。まぶしいし、暑苦しくて眠れない。
     喉の乾きが抑えられず、枕元のポットの水を飲み干してしまう。寝返りを打ちたいが、身体が重くてうまく回転できない。手足が邪魔で切り落としたくなる。
     発症から十四日目、入院から三日目。まるまる二晩、ぶっ通しで点滴薬剤を注入したせいか、少し体調が上向いている。意識がはっきりしだすと、治療費や入院代が気になって仕方がない。午前中、担当医師の回診がある。口に差し込まれた体温計に、舌や上アゴが触れないようにして、平熱を偽装する。
     「もう退院できますか」
     「だめだよ。熱が下がったのは、薬で抑えてあるのと、マラリア特有の症状のためだ。きちんと治しておかないとすぐ再発するよ」
     「でもホントに大丈夫なんですよ。もう元気満点、力があり余って仕方ないくらいです」
     とベッドから飛び降り、オリャオリャと空手ポーズを取る。
     「ぼくにはお金がない。早く退院しなければドクターに迷惑がかかるから、退院させてください」
     「わかったよボーイ。ただしホテルに帰ったら、一週間は無理をせず寝ていなさい。そして、来週中にもう一度病院に来ること」
     なかば強引に退院手続きを済ませ、料金の支払いカウンターに行く。態度の横柄な受付のお姉さんがバンと請求書をカウンターに叩きつける。そのゼロの並びを見て、頭がクラクラする。たった二晩の入院で五百ドル以上の請求書。五万円といえば、ぼくの全財産の半分近く。旅行者保険にも入ってないため、返金される可能性はない。ドル札を一枚一枚名残惜しげに数え差し出す。代わりにペラペラの薄い紙の領収書を一枚もらった。
     屋外に出ると、目の前が真っ白になる。さっそくマラリア再発症かとアセる。違った、久しぶりに見る太陽が眩しすぎるのだ。急激に痩せ細ったためか、地面を踏む感覚があいまいで、雲の上をふわふわ歩いているよう。ケニヤッタ国立病院の広い敷地を抜け、道路に出たらダウンタウン行きのバスに乗る。
     相変わらずバスの窓にはガラスがない。車窓から土埃が舞い込む。
     手すりを掴む腕はガリガリで肉が消え、肘の関節の蝶つがいの骨がデコボコ浮き上がっている。急ブレーキがかかると、身体がふわっと持ち上がり、体重を支える筋力が腕になく、床に尻もちをつく。
     ふいにつらい気持ちになる。ぼくはアフリカに敗れたのだ。無知蒙昧にアフリカにぶつかり、いとも簡単に駆逐された。完膚なきまでに叩き潰され、序盤であっけなくノックアウトされた。じわじわと涙が溢れてくる。床に座り込んだまま、立とうとしない東洋人を、乗客たちが振り返って見つめている。土埃と草原の匂いが鼻の奥に流れ込む。赤い大地が広がるあのサバンナに、ぼくは再び戻れるのだろうか。(つづく)