編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2020年08月24日バカロード146 アフリカ灼熱編3 ウンコ、赤土、壁のない世界

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の赤道直下を東から西へと五千五百キロを歩いて横断すべく、ケニア共和国にやってきた"ぼく"。アフリカ東海岸の港町モンバサから歩きだしたが、サバンナの猛烈な太陽に炙られて皮膚はヤケド、頭はパンク。一日に十リットルも飲み干してしまう水の補給に苦戦し、わずか二日目にしてダウン。しかし沿道の集落のおっさんに助けられ、ふたたび路上に戻ったのだった)

     三日目の夜は土の上で眠った。もう一歩も動けないってくらい疲れてしまえば宿探しに困らなくていい。そこがどんな場所だろうと、寝転べばすぐに睡魔が拐ってくれる。
     日中は灼熱地獄を呈するサバンナだけど、夜と朝はフリーザーの底みたいに寒い。ヤケド状に真っ赤に腫れて、ジンジン痛む肌にはちょうどよい。ひんやり冷たい地面に火照った体をこすりつける。ノミをふるい落とそうとする猫のように、ゴロゴロ転がって赤土まみれになる。
     四日目の朝、目覚めると世界はオレンジ色に塗りたくられていた。サバンナの大地や、樹々や、ぼくの体が、地平線からの太陽光線を受けてギラギラ輝いている。
     出発すべくシューズを履こうとすると、足の裏は水ぶくれだらけ、ブヨブヨにむくんでいて入らない。ナイフの先端でマメを切り裂いて水を抜く。頭の先までピリピリ刺激が走る。
     三百六十度、誰もいない。音一つしない無音の世界。
     草原の真ん中で用を足す。
     さえぎるものは何もない。
     この世界は、ウンコするぼく一人のために存在する。ぼくはこの世界の支配者だ。ジョン・レノンの「一人ぼっちのあいつ」を大声で歌う。声はどこにも反響することなく、壁のない世界に吸収されていく。
     もんじゃ焼き状にびろーんとだらしなく広がる水ウンコが、赤土を黒く濡らす。ボーゼンとそれを見つめる。
     ウンコ、赤土、壁のない世界・・・それが今、ぼくを取り巻くものすべて。
     ふいに矮小な現実感に襲われる。
     モンバサを出発してここまで百キロ歩いた。三日かけてたったの百キロ!? アフリカ西海岸まであと何千キロあるんだろう。五千キロ? 六千キロ? 地平線をあといくつ越えたら、たどりつくんだろう。ミシュランの地図によると、アフリカ中央部の密林地帯にはザイールや中央アフリカ共和国という国々が横たわっていて、都市はおろか村を示す記号すら打たれていない。道路の線は破線となり、やがてジャングルの途中で消失している。
     密林の中で何百キロも無人地帯が続いたらどうしよう。アフリカでは最も先進国に属するこのケニア共和国でさえ、食料や飲み水を手に入れるのに四苦八苦している。はるかに貧しい熱帯雨林の国々を歩き通せるんだろうか。
     そうやって何カ月も先のことを憂いでも、ここではクソの役にも立たない。まずは今日という一日を生き抜くのだ。涸れ死にしないだけの水を飲み、体を動かすのに必要なカロリー分の食料のありかを見つける。今できることは、それだけだ。
     朝焼けの鈍い光が、不可視光線の白にとって代わられる。雲はたちまち消え、地上には一点の陰りもなくなる。まっすぐ続く道の奥にバオバブの木が見える。"悪魔が根ごと引っこ抜いて、逆さまに突き刺した"という伝説のあるバオバブは、サバンナの偉大な道標だ。高さ三十メートルはあろうかという巨大な影が、陽炎の向こうに揺れている。
     歩いても歩いても近づかない。頭頂部の体温は上がりっぱなしで、目の奥がジンジンしてきて、景色が血をぶちまけたように真っ赤に点滅しはじめる。倒れるか倒れないかのスレスレの状態でたどり着いたバオバブの木は、豪勢な日陰を用意してくれていた。幹のたもとには、棒で砕かれたスイカの残骸が散らばっている。何日か前に人間が食い散らかした跡だ。果肉は腐っている。だけど迷う余地なくかぶりつく。臭い! けどうまい! 生きていくために必要なものなら、腐ってようと生きた昆虫だろうと、捕食者としての本能が、理性を軽くうわまわる。大脳皮質の奥深くにインプットされている人類始祖からの記憶が目覚めつつある。ぼくは、ちょっとずつ野生に近づいているのだ。
     リュックから文庫本を取り出す。「カラマーゾフの兄弟」と「経済学批判」をバオバブの幹に立てかける。この地に置き去りにしよう。今、ぼくに必要なのは思想ではない。求めるべきは頭の先まで痺れる冷たいコカコーラと肉だ。胃壁を凍らせてしまうほどのコカコーラと、血のしたたる動物の肉のかたまり。凍てついたロシアで記されたドストエフスキーとマルクスは、熱帯の荒野に朽ち果て、やがてバオバブの根から吸収されていくのだ。
     サバンナの奥へと進むごとに、珍しい昆虫や動物が行き交いだす。青や黄色の蛍光色のクチバシや翼をもつ小鳥が、樹木の間を舞い飛び、不思議なさえずりを奏でる。鳴き声をマネすると、ぼくの周りをヒュンヒュンと旋回する。
     草むらがバッと揺れて、大きな影が一メートルもの高さに跳びはねる。ピョンピョンと蹄を鳴らして逃げていったのはトムソンガゼルだ。十センチ以上もある甲虫が足元をのろのろ横切る。ツチノコみたいにボテッとした蛇が木陰に逃げていく。死神博士のような頭をしたハゲワシが、岩の上に止まってこっちの様子をうかがっている。
     茂みの合間や路上に、シカや子牛の死骸がひんぱんにある。車に跳ねられたのか、あるいは餌食になったのか。サバンナでは、生と死は、塀一枚へだてたお隣さんほどの気軽さで存在している。昨日まで闊歩していた動物が今日は死ぬ。野に伏した瞬間から、さっさと肉と内臓は食われる。骨と毛の残骸は、太陽に灼かれてすぐに乾く。骨粉は風に舞い、その場には跡形も残らない。生命の重さは、風のように軽い。
          □
     出発から四日目。
     道の真ん中にジャッカルの死体がある。車にはねられたのか原型をとどめ、死臭はしない。死んで間がないのだろう。両脚を持ってズルズルと道端まで引きずり寄せる。
     ブッシュの中にはダニが多い。首筋や、目や口の周りにウヨウヨまとわりつく。ダニにやられた痒みは、蚊の比じゃない。タチの悪いダニは耳の穴にガサガサと入ってくる。一方、頭髪の中にもぐりこんでは毛穴に寄生しようとするのはたぶんシラミだ。毛のある部分に集中砲火してくる。股間やその周りを焼けつくように痒くする。
     荒野にニョキニョキと立つ赤土の墓標は蟻塚だ。人間の背丈をゆうに超える三メートルくらいのバカでかいのもある。ほとんどが原住民だった蟻に見放され、枯れ塚と化している。ぼくはそれに登ったり、小便を盛大にかけたりして、しばしデストロイヤー気分を味わう。ときおり行列をなして移動する何万匹もの蟻の群れに出くわす。うっかり踏んづけて大騒ぎになる。体長十ミリを超す兵隊蟻が、牙をむいて集団で足元にたかってくる。牙で噛じられるとメチャクチャ痛い。血小板を無効にする唾液を注入されたか、たらたら流れる血が止まらない。蟻塚一個分の蟻と生死をかけて戦ったとしたら勝てるだろうか。絶対に勝てはしない。
     ぼくたちは、人類こそが地球を支配する生物だと思いこんでいる。しかし、この平原の王は間違いなく蟻だ。個体数にしろ社会の成熟度にしろ、どの観点においてもヒエラルキーの頂点に君臨する。

     野生動物の保護区であるツサボ国立公園のエリア内で最も大きな街である「ボイ」に近づく。モンバサからずっと続いていた一本道が、ボイ市街に通じる道と、ナイロビへと直接向かう道に分岐する。どっちに進もうか迷ったが、ナイロビ行きの幹線道の方が距離が近い。街も近いし売店くらいは出てくるだろうと決めてかかったのが間違いだった。行けども行けども家一軒ない。はるか遠い山の麓に、ボイ市街らしき高い建物の影がかすかに見える。
     ボイで水を補給するつもりでいたので、ポリタンクには一滴の水も残っていない。絶望とともに、凶暴な太陽がガンガン照りつけだす。汗が止まる。唾液が出なくなり、口の中が乾ききる。舌を動かすとカサカサ音がする。またしても倒れそうになる。
     どれくらい苦悶したのか、道路を下った先にバラック建ての五軒ほどの家が集まった村が現れる。家の前に子どもが一人いて、棒立ちになりこっちを見つめている。「こんにちわ」とスワヒリ語で声をかけると、ヒィーと叫んで逃げだす。違う棟の方にも五、六人の子どもがいたが、彼らも目をむいていっせいに走り去る。
     地下水を汲み上げる水場があり、若い女性が水道管の先から流れる水を大きなポリタンクに溜めている。「水ください」と申し出ると、女性は「これいっぱいになるまで、ちょっと待て」と言う。時間がかかりそうなので、近くの木陰に移動し、木の根っこを枕にして横になる。
     ぐったり寝そべっていると、さっき逃げだした子どもの一人が、大きな空き缶に表面張力ぎりぎりいっぱいの水をつめて、両手で支えながら近づいてくる。おそるおそる手渡された空き缶の水を、五秒で一気に飲み干す。
     遠巻きにしている別の子どもたちが、顔を見合わせてクククと笑っている。それから少年たちは一人ずつ交代しながら、水のおかわりを運んでくれる。ぼくが飲み干す様子をしげしげと見つめては、空になった缶を受け取るときには恥ずかしそうに微笑み、仲間のいる場所へと一目散に駆けて帰る。
     さすがに四杯目で満腹になる。「もうお腹いっぱい」と訴えると、まだ届けていない子どもたちが、缶の底にちょびっと水を入れて全員が一巡し、この儀式を終える。
     集落の近くに川が流れている。
     モンバサを発ってからここまでの間、かつて川があったとおぼしき谷筋や橋の残骸はあっても、すべて乾燥しきった涸れ跡だった。流れる川を見るのは初めてだ。ドロドロの真っ茶色の泥水だけど、膨大な水がある風景は掛け値なしに嬉しい。
     村人や水牛が沐浴をしている。一緒に浸かりたいが、恥ずかしくて裸になれない。ぼくの顔や手足は、この四日間で真っ黒に焦げてるんだけど、服を脱ぐと残りの部分は真っ白の色白なのだ。注目を浴びそうで脱ぎづらい。
     そのまま川辺の巨木のたもとで休んでいると、一人の若者がやってきて、ぼくのポリタンクを指さして「その水をくれ」と言う。
     (満タンにしたばかりやのにな。これから先、村があるかどうかわからんし。何で外国人のぼくの水を欲しがるんだろう)と思う。
     しかし、この地下水だって村の人に恵んでもらったものだし、逆の立場になって嫌がるのは変だ。飢えと乾きは人を卑しくする、情けない。気前のいい笑顔を偽装して、どうぞと手渡す。
     すると若者は少しだけ口をつけて、すぐにポリタンクを返す。そして「水のお礼だ」と言いつつ、植物の実をこっちに寄越そうとする。葡萄の房を三十センチほども長く伸ばしたような、見たことのない果実だ。口に含んでみると、甘酸っぱくてとても美味しい。
     つたない彼の英語と、デタラメなぼくのスワヒリ語で会話を交わす間に、ぼくは葡萄を三房も平らげる。
     彼は、水が欲しかったわけではなかった。川の横でひっくり返っているぼくを心配したのだ。そして、一方的に果実を恵んでやるぞって態度にならないよう「君は水をくれた。ぼくは葡萄をあげる」という五分の関係をつくろうとしたのだ。そんなメンタリティをケニアの若者は持っているのだ。水をあげるのをもったいないとケチ根性を出した自分の器の小さいこと。
     それから二人でシャツとパンツを脱ぎ、フリチンになって川で泳いだ。十九歳と同い年の彼は巨大な物体の持ち主であった。ぼくのブツは脱水症状のため縮こまっており・・・という言い訳を経てもなお小さく、おまけに生白っくて格好悪い。ぼくのヌードは村人たちの間で注目の的となり、恥ずかしさのあまり首まで泥水に浸かっていた。その格好がヘンだと、村人たちはキャッキャと笑った。
     何となくこの旅がうまくいくような気がした。道がある所には人がいて、そこには生きるために必要な水と、人の情けがある。
     別れ際、彼は「これ、持ってけ」と、さっきの葡萄とは違うミルク色をした丸い果実をたっぷりリュックにつめてくれた。そして、ぼくの持っているアフリカの地図の一点を指さして「オレの実家はこの辺にある。絶対に寄ってくれよ」と白い歯を見せる。その場所は、ここからは影すら見えないキリマンジャロ山の向こう側なのだった。
    (つづく)

  • 2020年08月10日バカロード145 アフリカ灼熱編2 カサカサのミイラになるのだ

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=アフリカ大陸の赤道直下を東から西へと五千五百キロを歩いて横断すべくケニア共和国にやってきた"ぼく"。血まみれのミートパスタを食べてから下痢が止まらなくなり、女性旅行者にもらった生理用ナプキンを尻にはさんだまま、出発地点となるインド洋岸の港町・モンバサへと向かったのであった)

     時代は静止軌道衛星のように、止まっているのやら猛スピードで動いているのやら、わからないのであった。
     「俺たちに戦いのリングはない」と言い放った十代のジャーナリスト・高野生は、単身北朝鮮に不法入国し、旧日本赤軍派と接触を図る。誰もが戦うことに絶望した八十年代、彼は「全共闘」の復古を願った。
     十代のロッカー・尾崎豊は、日比谷野音の高さ七メートルの照明の足場から舞台へと飛び降りた。左脚を骨折し、ステージに這いつくばったまま歌い続けることで、伝説の扉をこじ開けた。
     五十年に一人の逸材と称された天才ボクサー・高橋ナオトは、神技的なディフェンスを封印し、閃光のようなカウンターパンチで世界への道を疾走していた。自らの生命を削り取るような殴打戦の繰り返し。彼もまた十代だった。
     そして十九歳になったぼくは、目指すべき先も戦う場所も曖昧模糊としながら、アフリカの端っこのフライパンのように熱くなったアスファルトの上で、毎日汗を十リットルも流しながら、帰るべき蟻塚を見失った蟻のように、のろのろとただ歩いていたのだ。
          □
     ケニアの首都ナイロビから列車に乗り、インド洋岸の港町・モンバサへやってきた。ここをアフリカ大陸横断のはじまりの地とする。
     出発のセレモニーは何もない。いや、スタートを切るつもりもないのに、なし崩し的に始まってしまっていた。
     その朝、蚤と南京虫だらけのスプリングの壊れたベッドから逃げだしたくて安宿をチェックアウトした。庶民メシ屋に入り、小麦粉を焼いた得体のしれないものを腹に収め、次の宿を探そうと街をふらついているうちに郊外の広い幹線道路に出てしまった。「↑ナイロビ520km」という標識が現れた。街の中心部からけっこう遠くにまで来てしまっていて、戻るのが面倒くさくなった。このまま歩いていこか・・・。こんな感じで大陸横断を始めてよいものか。誰かが見送ってくれるわけでもないし別にええか。まことにシマリのない旅立ちである。
     市街地エリアはすぐに終わり、ナイロビへと続く一本道の周りは、砂ぼこり舞う赤茶けた土地に、太陽に焼かれたトラックのタイヤが転がる荒涼とした風景に変わる。といっても無人地帯ではなく、数キロおきに集落がある。村人たちは、観光地でもない自分らの村にひょっこり登場した奇妙な旅人を放っておかない。
     「おい、そこの若いの。どこに行くんだ」
     「ナイロビだ」
     「ナイロビに行くんなら、そっちじゃない。モンバサに戻ってバスか鉄道で行くんだよ」
     「ぼくは歩いていくんだ」
     「金がないのか。金があればバスに乗れるんだぞ。金がないならトラックをヒッチハイクしろ」
     「金はなくはないけど、歩くんだ」
     「イーッヒヒヒヒ、何言ってんだお前。ここから先はブッシュ(茂み?)だぞ。ブッシュを知っているのか? ライオンいるぞ、わかってるのか? ナイロビなんて行けっこない。今からライオンのエサになるんだぞ」
     「食われるときは食われるときだ。とにかく歩くって決めたんだ。そのために日本から来たんだ」
     「オーケー、じゃあピストルを持っていけ。さもなくば本当に食われちゃうぞ」
     幹線道路沿いには、トラック運転手向けのレストランやジュークボックスバーが点在していて、店の前に客がたむろしている。英語を解す人が多い。彼らは、歩いてやってきた謎の外国人の行動がおかしくてたまらないといった表情で目を丸くして大笑いする。ぼくのゆく先を聞き、また爆笑し、そのうちこちらが真剣だと気づくと、頭を両手で抱えて心配したり、必死で止めようとしてくれる。メシやコーラをおごってくれ、別れ際には「頑張れ」と抱きしめて励ましてくれる。みな優しい。
     だんだんと集落の気配が消えていく。
     土はますます朱色を濃くし、乾いた草むらの奥にバオバブの巨木が天を衝く。目に映るほぼすべてが、地面、空、太陽。太陽に焼き固められた土は、素焼きの陶器のように硬質だ。何百年と風化に耐え抜いた赤土の塊は、物質そのものの力強さを放っている。
     南アジアを旅した時に触れた世界とはまるで違う。ごった返す人の群れや、生命の気配に満ちた森、雪溶け水を外界へと運ぶ高峰。あらゆる物が生まれては死に、再び生まれ変わることによって永遠性を保つ、輪廻の世界観とは真逆だ。「生まれて死ぬまで一代で終わり」といった潔さがここにはある。
     直射日光が道路のアスファルトをぐんにゃり柔らかく溶かしている。地面からの輻射熱でヒザから下が真っ赤に腫れ上がっている。上から下から炙られてオーブントースターの中を前進しているよう。
     腕に浮かぶ汗は、水滴になる前に空気中へ消えていく。皮膚がカラカラに乾くと、焼けつくように表面が熱くなり、水ぶくれ状のヤケドとなってくる。
     皮膚に水を塗ってしのぎたいが、リュックの中のポリタンクの容量は五リットルで、すでに残り少ない。ここから先、無人地帯に突入すれば、水を補給し続けられるかどうか怪しい。飲む目的以外には使えないのだ。そして、もし水が完全に尽きてしまったら、ただちに汗はストップし、ぼくはカサカサのミイラとなって道端に倒れるのだ。
     すっかり日が落ちた頃、ピンク色のセロファンで蛍光灯を覆ったまがまがしいドライブイン・バーにたどりつく。店に入り「何でもいいので食べ物と水ください」と懇願する。肉とイモの煮物をぶっかけたモノを出してくれる。そのまま店主と打ち解けて、庭先に簡易テントを張って寝かせてもらう。この夜は村の集会があるらしく、次から次へと村人がやってきて、テントをバンバン叩いては「おう外国人、何でこんな所で寝てんだよ」と顔を突っ込んでくる。駐車場では酔っ払いたちが爆音のミュージックとともにゴーゴーダンスを踊っている。
     真夜中に騒ぎが収まると、次はテントの中で蚊がブオンブオンと暴れだす。日本にいる蚊の倍ほどもサイズが大きく、凶暴さは桁違いである。叩き潰そうとするが逃げる素振りもなく攻撃してくる。朝まで全然眠れなかった。
           □
     二日目の朝。身体を起こすのがつらい。吐き気やめまいがする。寝不足もあって疲れ切っている。
     ピンクバーを出て、十キロも進まないうちに道端にへたりこむ。初日の昨日は二十三キロしか歩いてない。たったの三十キロ少々でダウンなのか?
     ミシュラン社製の東部アフリカの道路地図を見つめる。昨日の移動距離は、地図上の長さでは鼻クソの直径にも満たない。鼻クソの上でぼくはもがき苦しんでいる。途方もなく広いアフリカ。やっぱり無謀なのだろうか。
     ポリタンクにつめた五リットルの水を、早々に飲み尽くす。喉を通った水はたちまち細胞に吸収され、乾きを癒やす間もなく、皮膚から体外に放出される。
     もう水が一滴もない。ノドの粘膜が乾燥して、吸い込んだ空気が痛い。目がかすむ。景色がグラグラ揺れる。身体から何リットルの水が失われると日射病になるんだっけ・・・。
     道路から少し離れた木立のなかに、家が五軒ほど並んでいる。助かった。ふらふらと近づくと、水桶を頭に乗せたお婆さんがいた。
     「水場はありませんか。水をください」と身振り手振りでたずねると、こっちに来なさいと集落の中へと導かれる。そこには小さな食堂があり、ぐったりしたぼくにプラスチックのコップに満たした氷水を運んでくれる。一杯では足りず、悪いなと思ったけどおかわりする。そのうえ図々しくも「とても腹が減ってるんです」と訴えてみる。横でお茶をすすっていたおっさんが「よし、オレの家に来い。うまい料理を食べさせてやる」と立ち上がる。
     招かれた彼の家は清潔で、応接間にはきれいなソファーと蓄音機らしきレコードプレーヤー、そしてキッチンがある。おっさんは、最近まで学校の教師をしていたものの、何らかの事情で今は失業中の身だという。ソファーを指差して「そこに座りなさい」と勧めてくれたが、赤土まみれの肌とシャツで汚らしい自分が恥ずかしく「外の方が涼しいので、外で座ってます」と申し出ると、軒先に椅子を出してくれる。
     鶏とヒヨコが六匹、餌を求めてピヨピヨ歩きまわっている。台所の様子を心待ちに眺める。おっさんは、キャベツとトマトを包丁で刻み、ガスコンロで怪しげな料理を作りだしている。そのうちぼくは、軒下のひんやり冷たい床と心地よい風にうとうとし、横になって眠ってしまう。 
     おっさんに起こされると、すっかり食事の用意ができていた。野菜の炒め物の横には、ウガリがでーんと添えられている。ウガリとは、ケニアの食卓に必ず登場する主食で、キャッサバ芋の粉と水を練って蒸したものだ。巨大な蒸しパンみたいな形をしている。
     空腹で死にそうだったので、皿に口をつけて犬みたいにガツガツむさぼる。野菜炒めがめちゃくちゃおいしくて、食べているうちに涙が出てくる。戦争体験のあるお年寄りはよく「涙が出るほどおいしい」という表現を使うけど、本当にこうなるんだ。おっさんは、ぼくが泣きだしたのを見て「大丈夫か、大丈夫か」と背中をなでてくれる。
     近所の人たちが集まってきて、窓の向こうからこっちを見守っている。いつまでもここにいたい気持ちになるが、そういうわけにもいかない。おめかし服を着たかわいい子どもたちと一緒に記念写真を撮ったら再出発だ。
     おっさんは道路までついてきてくれ、握手を交わして別れる。
     「ヤングボーイ、いい旅を。疲れたら意地をはらずに車に乗れよ」。
     ぼくの姿が見えなくなるまで手を振っている。
     おっさん、ありがとう。
            □
     人の優しさに触れ、お腹もパンパンに膨れて、元気は百倍に回復している。「やるぞー」などと叫びながらサバンナを歩く。
     ギチギチと羽音を立てながら巨大なバッタが頬をかすめる。人間の足音を聴きつけた野ネズミが、驚いたようにザザザと逃げていく。腹に白い模様のあるカラスみたいな鳥が、上空で群れをなして旋回しながらついてくる。明らかにこっちが行き倒れになるのを狙っている。ぼくは食物連鎖のどこかに位置づけられ、こいつら野生動物にとっては単なる食料と見なされているのだ。
     地面を這うツル植物の中に、恐ろしく堅いトゲを持ったイバラが目立ちはじめる。うっかりトゲを踏んだら、トゲが靴底を貫通した。おお、こわ。こんな道をケニアの人々は裸足で歩いているのである。
     日ざしは変わらず猛烈だ。おっさんの村で補給した水が、ポリタンクの中で熱湯に変わっている。
     家の影ひとつない平原の向こうから青年が道路ぶちへとやってきて、遠くからこちらを見つめている。「ジャンボサーナ」(こんにちわ)と声をかけ、人畜無害なことを伝える。村がまったくない場所なのに、ときどきひょっこり人がいるのが不思議だ。みな、どこからやってくるのだろう。しばらく一緒に歩いてくれた青年が、別れ際に「次に人がいる所まで十キロ以上あるよ。歩いてはいけないよ。気をつけて」と注意してくれる。
     二日目の夜が訪れる。猛スピードの車がやってくるたびにはね飛ばされないよう、ヘッドランプを外して光を回してこちらの存在を示す。日が暮れたあとは気温がぐっと下がり、行き倒れは回避できる。深夜まで歩きつづけて距離を稼ぐ。
     平坦な空き地を見つけ、シートを敷いてゴロンと横になる。星のひとつひとつがギラギラと輝きを放っている。サバンナでは星もまた力強いのだ。大の字になった真上にオリオン座がある。あとは知らない星座ばっかしだ。
     と突然、遠くの地平線のあたりにすさまじい光が走る。西の空に暗雲がたちこめ、その雲がときおり紫色に輝いては、遅れて雷鳴がゴロゴロとうなりをあげる。やがて数秒間隔で空全体が大きな閃光に包まれる。風が砂を飛ばし、草原が雷の共鳴装置となる。嵐がやってきそうだという恐怖心よりも、その巨大な自然の力の制圧下に自分がいることにワクワクする。リュックを枕に、簡易テントを掛け布団にして、強風に身体が持っていかれそうになるのを愉しむ。そして眠りに落ちる。
     体じゅうを這いずりまわる蟻の感触に目覚めると、嵐の予兆は消えうせ夜空は晴れ渡っていた。満天の星々が、大地の動きと逆方向に静かに移動していく。ぼくは今、アフリカの表面にへばり着いているんだ。憧れのアフリカに抱かれているんだ。たとえようもない幸福と充実感のなかで、いつまでも星を眺めていた。
     (つづく)

  • 2020年07月31日バカロード144 アフリカ灼熱編1 水爆の太陽と生血スパゲティ

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     飛行機はゆっくりと右に旋回し、徐々に高度を下げている。
     アラブ首長国連邦のアブダビで乗り換えたパキスタン航空の小型ジェット機は、宙に浮かんでいるのが奇跡に思えるほどのオンボロ飛行機だ。座席周辺の壁や天井には、ゆるみきった丸ネジがブラブラとぶら下がっている。外れかけの壁はガムテープで補修してある。最後部のトイレに入ると天井パネルがなくなっており、奥には圧力隔壁らしきものが丸見えになっている。

     「世界のあらゆる航空会社のなかで、未だかつて一度も墜落していないのはパキスタン航空だけだ」とカラチから乗り込んできたパキスタン人の商人が自慢げに喋りかけてくる。「落ちないのは何か理由があるのか?」と聞くと「アッラーの神のおぼしめしによる」と鼻毛をフンと鳴らす。
     ぼくは今、憧れのアフリカの上を飛んでいるんだ。血のりをぶちまけたような真っ赤な土地。言葉を失うほどの摩訶不思議な色彩が、空と大地の境界線いっぱいまで埋め尽くしている。
     この窓から見渡せる無限の荒野のその先、薄ぼんやりとかすんで目にすることができない地平線の向こう側までぼくは歩いていくんだ。
     やがて眼下に雪を抱いた弧峰が現れる。乗客らは窓辺へと身を乗り出し、赤道直下の銀稜の登場に驚嘆の声をあげる。
     隣の席の英国人紳士が、感慨に耐えかねたような表情をし、おもむろにつぶやく。
     「Oh、キリマンジャーロ・・・」
     しかし、その鋭角的な山影は、明らかにキリマンジャロ山ではなくアフリカ大陸第二の高峰・ケニア山なのであった。
        □
     東アフリカの盟主的ポジションにあるのがケニア共和国である。アフリカ大陸横断徒歩旅行のスタートの地として、ぼくはケニアを選んだ。首都ナイロビで飛行機を降り、鉄道に乗り換えてインド洋岸の貿易都市モンバサへと移動し、海辺に出て歩きはじめる。赤道直下の国々を数カ国経て、5500キロほど西方の太西洋岸まで歩く・・・というのが旅の計画だ。ずいぶんザックリとしているが、これ以上に詳しい予定はない。どの道を通るか決めてないし、どの国を経由するかも考えてない。ただひたすら西へ西へと進むのだ。
          □
     ナイロビの下町、飲み屋街の真ん中にある安宿「ホテルイクバル」は、一晩中ケニア人たちのドンチャン騒ぎの喧騒に包まれている。海抜千七百メートルの高地にあって「アフリカの軽井沢」と日本語ガイドブックに書いてあるナイロビシティだというのに、避暑地には程遠い蒸し暑さだ。腰が床につきそうなくらいスプリングが緩んだボロベッドの上で、パンツいっちょうになって寝ていると、一瞬にして何十カ所も蚊に刺される。
     痒くて眠れそうにないので、1階にある大衆食堂でメシを食うことにする。メニュー表はアルファベット書きなのだがケニア語の料理名なので理解できない。唯一読めたのがミートソーススパゲティ。注文するとなにがしかの動物の生血がたっぷりかかったパスタが出てきた。血の匂い以外にまったく味がしないので、塩をぶっかけて無理やり口につめこむ。
     真夜中の十二時を過ぎているというのにタバコ売りの少年がフロアをうろついている。眼光鋭くマルボロや「555」の洋モクをぼくの鼻先に突きつける。無視していると、今度はジョイントはどうだ、エルもあるぞと小声でつぶやき、耳の穴に息を吹きかけてくる。なんてこった、ここじゃ十歳少々でドラッグの売人かい。
     食堂を出て街をふらつく。細い路地が、ゴールのない迷路のように果てしなく続く。羊肉をスモークする匂いと煙、モスリムの宝石商、路上にテーブルを置きイカサマ賭場を開く詐欺師とサクラ客たち、でっぷり肥えた肉塊を色鮮やかなサリーで隠したインド女、象皮病の脚をもっと見ろと迫る物乞い。カンフー映画館の薄い壁から歓声が聴こえる。ピンクや黄色をしたヒラヒラのシースルーをまとった娼婦たちが速足で通り過ぎる。歯の抜けた立ちんぼのオバチャンが「ファックミー、ファックミー」と叫ぶ。道端には人間が倒れている。死んだように動かない。
     Tシャツが汗でぐっしょり濡れる。立ち止まることもできない。砂漠の遭難者がループウォーキングするように、同じ所をぐるぐる廻ってどこにも脱け出せないような錯覚に陥る。
     翌朝から下痢がはじまる。生血スパゲティの効果はてきめんだ。胃腸の中をザリガニが暴れまわるような鋭利な痛みに襲われる。明け方から便器に張りつきっ放しで、一日がかりで腸内の残留物を排泄したあと、肛門からは白い泡がゴボゴボと溢れるだけになった。水便よりひどい泡便だ。それでもまだ便意は途絶えない。
      夕刻になって鉄道駅までふらふら歩き、インド洋岸の港町モンバサ行きの二等席の切符を買う。肛門の括約筋はすでに力を失っており、薄いお粥状の便がこぼれている。安宿のドミトリールームの隣のベッドにいたフランス人女性にもらった生理用ナプキンをお尻にあてがって列車に乗り込む。
     延々とスラム状の街が続くナイロビの都市圏を抜けると、鉄道はツサボ国立公園を貫き、一直線に東へと向かう。窓の向こうにはダチョウやジャッカルの群れが見える。まるでサファリパークだ、いや本物のサファリなのだ。ときどき赤茶けた土の道が現れるが、集落や人の気配はまったくない。赤銅の土地に谷筋を刻む涸れた川の跡・・・この地に水場なんてあるのだろうか。旅の第一歩はこのモンバサ~ナイロビ間の五百キロなのだ。ほんとうにこの岩と草しかない荒野の真ん中を、一人ぼっちで歩いていけるんだろうか。ほとんど無理な気がする。
     翌日の昼、モンバサ駅に降り立つと、すざまじい太陽の圧力が脳天に襲いかかってきた。「太陽は水素で形成されたガス球であり、水爆の何百倍規模の爆発を断続的に起こし、エネルギーを放出している」という高校地学の教科書に載っていた説明を実感させる説得力を持っている。じっとしていると人間の丸焼きができそうだ。
     サウナ風呂のような熱波の中で、重さ二十キロを超すザックが両肩に食い込む。何リットルもの汗がドクドクと皮膚から溢れだし止まらない。ついでに下痢便が股間を伝って足まで流れ落ちる。
     ぼくはアフリカを甘く見すぎていた。日本で五千キロに及ぶ徒歩行を重ね、一日十二時間の運送屋の仕事で身体を作った。絶食に耐えられるよう食事を二日に一食に制限した。アフリカが初海外となるとビビってしまいそうなので、東南アジアやヒマラヤの山村で数カ月暮らし、四千メートルの峠を毎日登ったり下ったりした。無謀な挑戦にならないよう身体をいじめ抜いてきた。
     ところがどっこい、ついに本丸アフリカに取りついたというのに、歩きだす前から下痢と灼熱に心身ともにダウン寸前なのである。飛行機から眺めた果てしない荒野、列車の向こうに広がる野生動物しかいないサバンナ、そして身体じゅうの水分を暴力的に奪い去ろうとする猛烈な太陽・・・。モンバサの安宿で、ぼくは便意と自己嫌悪と不安に苛まれながら、ベッドの上でのたうちまわった。
     翌日、交換した真新しい生理用ナプキンをお尻にはさんで、ひょこひょことぎこちない歩き方をしながら「オールドポート」と呼ばれるビーチにでかけた。インド洋でひと泳ぎするのは、この旅の儀式のひとつである。インド洋で泳ぎ初めし、大西洋で泳ぎ納めするのである。
     ビーチの脇には古い砦がそびえ建っている。15世紀、ポルトガル商人が貿易拠点であるこの港を守るために築いたフォートジーザス砦である。大きな城壁の中には、何門もの大砲が備えつけられ、隆盛を極めた中世交易時代の跡をかいま見せる。新大陸を次々と開拓していったあの時代には、たくましい冒険家や本物の男どもが血湧き肉躍る旅をしたのだろう。
     彼らに比べたら、ぼくのやろうとしていることなど所詮ニセモノの冒険ごっこだ。人の造った道の上を、ミシュラン社製の道路地図を頼りに歩くだけだ。テントや寝袋を用意しているから、野宿には困らない。どこの安宿にも「旅の情報ノート」が置いてある。そこに立ち寄った旅人が、のちに旅するツーリストのために貴重な情報を書き留めていくノートだ。治安の悪い街を回避したり、適正物価を知ることができる。・・・くだらない、本当につまらない「旅ごっこ」だ。
     おばあさんの行水程度にインド洋で水浴びしてからホテルに戻ると、明後日の出発に備えてパッキング途中の荷物がベッドの上を占領していた、一眼レフカメラ、寝袋、ガスコンロ、ガソリンボンベ、カメラフィルムの束、コンパス、ダウンジャケット、コッヘル、旅行ガイドブック、文庫本。この旅のために揃えた真新しい装備が、旅を束縛する足かせのように思えてきた。
     ぼくは快適な時間を求めてアフリカにやってきたんじゃない。身体も心もボロボロになって、そこから何かを見つけるために、灼熱の大地を歩き続けるんだ。
     翌日、生きていくために必要な最低限の荷物以外をすべて段ボール箱に詰めこみ、郵便局に持っていって船便で日本に送り返した。手元に残したのは2リットルポリタンク、ツェルト(露営用の簡易テント)、コンパクトカメラ、ミニ三脚、お金とパスポート、わずかな米、そしてシャツとパンツいっちょうだけだ。着替えはない。二十キロ超の荷物はニキロほどに減った。何もなくなったら、いい気分になった。
     ケニアに入国して以来やめていた生水を、水道から直飲みでガブガブ飲んでやった。今まで不調だった腹の具合がとたんに良くなった。
     ぼくはアフリカに溶け込むんだ。最低限の装備とこの身体ひとつでアフリカに立ち向かってやる。これは旅なんかじゃなくて戦いだ。ぼく自身との戦い、アフリカがそのレフェリーなんだ。(つづく)

  • 2020年06月05日バカロードその143 日本徒歩縦断2700キロ おけけとぼくの旅5


    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで="アフリカ大陸徒歩横断"を目論む十九歳のぼくは、前哨戦として北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬へと日本列島縦断二千七百キロの徒歩行を始める。生後間もなく保健所行きになりかけていた北海道犬「おけけ」を道づれに。旅をはじめて一カ月が過ぎようとしていた。風雨日和の北陸路でぼくは、最初の頃はお荷物に感じていたチビ犬に恋しはじめている自分を知りガクゼンとするのだった)

     ぼくが七十歳になって、皺くちゃのジジイになっても、自分の核を失いたくない。
     日曜の午後に川釣りにでかけたり、日当たりのいい縁側で猫のノミを取ってやったりする平和を手に入れたとしても、ぼくは自分の核を失わない。
          □
     十月二十一日、石川県小松市。オバケの出そうな古い納屋で夜を越す。ガラス窓が破れていて、めちゃくちゃ寒かった。昨日の夜、しのびこんだ時はわからなかったけど、床には埃が雪のように積もっていて、起きだすと顔も服も真っ白け、白犬のおけけは全身灰色になっている。
     国道八号線をひたすら歩く。途中でおけけがついてこなくなった。十分くらい待ったけど姿を見せないので引き返すと、茶色をした何か汚い物を食っていて、「やめろ」と言って引き剥がそうとしたけど言うことを聞かないので、頭をドつく。おけけを殴るのは初めてだ。驚いたおけけはひどく鳴く。昨日の朝から、ぼくもおけけもメシにありつけていない。国道沿いには食堂や商店がなくイライラする。やっと見つけた小さなスーパーで、マグロの缶詰と牛乳を買ったけど、おけけはどちらにも口をつけずに、朝から水ばっかり飲んでいる。ぼくはコインスナックで二百円のうどんを食べる。店のおばさんに犬連れなのを見つかり、大騒ぎされたので逃げだす。
     石川達三の「青春の蹉跌」を二日がかりで読み終える。残りのお金が一万円を切り(これがぼくの全財産だ)、ますます旅がつらくなる。
     夕方、バス停のベンチに寝そべって、ここまで日記をつける。
     風が樹木を揺らし、黒い雲がトグロを巻いている。空が本格的に荒れはじめるまでに少しでも前進したいので、休憩もそこそこに歩きだす。ベンチの下で丸くなり、つむじ風に転がる空き缶を不思議そうに見つめているおけけを揺すって「行くぞ」と声をかける。いつものように「クオン」と返事する。
     一キロほど歩いているうち、おけけはどこで拾ったのか白いTシャツを口にくわえ、ズルズル引きずりながら必死の形相でついてくる。その顔がおかしくて、ぼくは声をあげて笑う。
     再び歩きはじめる。
     突然、道の横にある住宅の庭から、飼い犬の大型犬が激しく吠えだす。同時にぼくは振り返る。
     威圧感のある犬の咆哮に驚き、一瞬車道に飛び出したおけけが見える。カーブの向こうから猛スピードで白いスポーツカーが現れる。「おけけ」と叫ぶ間もなく、車と彼女が交錯する。コン、と小さな音がする。全身の細胞が真っ白に凍りつく。「おけけ」と声にならない声を出す。
     「クン」と小さく鳴いたおけけは、ヨロヨロとこっちに向かって近づいてこようとしている。それを見て、安心する。ぼくの足元までたどりついたおけけは、その場所でころりと横に倒れる。
     おけけの目玉が、どんどんろうそく色に濁っていく。
     彼女の上に馬乗りになって、名前を何度も呼ぶ。耳と鼻の穴から、少しだけ血がこぼれる。
     身体はまだ温かく、このぬくもりが失われないうちに、なんとかしなければいけないと思って「オイ、オイ」と耳に口をつけて叫ぶ。四本の脚から、首から、唇から、力がなくなっていく。
     おけけを抱き上げる。ノドの奥から熱い塊が何個も何個も溢れだし、ゲエゲエと首を絞められた鶏のような声を出して、ぼくは泣く。涙より鼻水がたくさん出てくる。ダラダラ流れてくる。ヨダレもたくさん垂れ落ちる。
     動かなくなったおけけを抱えて、脇道から雑木林に入り、国道の擁壁の上まで回り込んで、丘の上に登る。ちょっとでも景色のいい所に埋めようと思う。落ち葉が降り積もった腐植土に穴を掘り、おけけを横たえる。口の隅っこに少し血がにじんでいる以外は、いつものように眠りこけているように見える。おけけの上に柔らかい土と落ち葉をかぶせる。

     国道に戻ると夜になっていた。
     ぼくは走り続けた。
     自分を痛めつけることで罪をつぐなえるのだろうかと思った。走っても走っても苦しくならない。足の裏にできかけていたマメが靴の中でべちゃっと裂けたのがわかった。さっき食べたうどんと胃液の全部を三回に分けて吐いた。四回目は何も出てこなかった。暗闇はどこまでも続いていた。ケシ粒ほどの街の灯も見えなかった。この世界に誰も存在せず、地上に一人取り残されたような気がした。
     全力疾走した。歩道の脇に穴ボコがあって、左足をスボリと突っ込み横転した。引っかかったスネから血が流れた。いい気味だと思った。血はいつか止まり、傷はカサブタとなって、やがてポロポロとはがれ落ちるだろう。でもおけけの流した血はドクドクといつまでも止まることはない。
     旅をやめることなど毛頭考えられなかった。生まれて間もない子犬を千キロも連れ回し、痛めつけた愚かな人間に、まともな人生など求める資格などないだろう。死ぬまで歩いてやる。何千キロも何万キロも、足の裏の皮がなくなり、アスファルトでガリガリ骨をけずり取られ、骨髄液を垂れ流しながら、それでも歩いてやる。
     それくらいしか、ぼくにはできることがない。

     それから敦賀、大津、京都を経て大阪へ入り、フェリーで四国に渡って徳島、松山、八幡浜と四国を横断して、九州の小倉へと向かった。奥歯にできた虫歯がずっと痛く、風邪をこじらせて微熱が続いた。足の裏の傷が化膿し、ひきずりながら歩いた。何日間も、誰とも話さなかった。死体が歩くように歩いた。
     福岡の小倉から鹿児島の佐多岬までは五百キロ。かつての筑豊炭田地帯を行くと、頂上をえぐり取られたような奇怪な山が現れた。高校生の頃、夢中になって読んだ五木寛之の「青春の門」の舞台となった香春岳だった。その容貌があまりに小説のイメージと一致していたので、既視感と現実と活字の記憶がごちゃまぜになって、脳みそがショートした。「ぼくは今どこにいるんだろう」。自分の存在がどんどん不確かになっていくようだ。
     後ろを振り返ると、いつものようにおけけがいるような気がして、何度も振り返ってみた。
     真夜中の峠道の暗闇の深さが怖かった。瞼を閉じても開けても同じ黒、三六○度の黒。足元のない空中に浮遊しているようだ。自分という物体と暗闇との境界があいまいで、意識だけが歩いている。今ここで発狂したら、ぼくは消滅するのだ。
     野良犬が後をついてくることが何度も何度もあった。雨の中をびっこの赤犬が十キロ以上ついてきたこともあった。ぼくの体には、おけけの匂いがしみついているんだろう。
     熊本、八代、隼人、垂水を経由し、爆発音と火山灰を吹き上げる桜島のきのこ雲を見上げながら大隅半島を南下した。そして、北海道宗谷岬を経って六十七日目に列島最南端の佐多岬の先っぽに立った。
     断崖絶壁の岬からはるか水平線まで続く青い南シナ海は、十一月だというのに温かそうにうねっていた。
     海を見ながら鼻クソをほじった。桜島の火山灰をたっぷり吸収した鼻クソは丸々としたダンゴになった。
     昨日商店で買っておいたチョコマーブルぱんを二個食べた。鹿児島県の製パン工場でつくられたチョコマーブルぱんはとてもおいしいのだ。小石を拾って何べんも海に向かって投げた。プロ野球のいろんな投手のマネをしながら百個も投げたら肩がジンジン痛んだ。二カ月かけて目指した日本の端まで来ても、別にやることはないのだった。
     岬の先端のながめのいい岩場に見つけた土の部分に、おけけの写真を埋めた。毎日歩くのに疲れるともぐりこんでいたピンクの肩掛けカバンの前に座って、おけけがこっちを見ている。
     陽ざしは春のようにやわらかく、ぼくはただひたすら眠く、そのまま岬の岩の上で何十分か寝込んだ。目が覚めたらまだ眠くて、場所を変えてまた眠った。岩場や松林や、草っ原や、神社の境内や、いろんな場所で眠った。
     おけけ、いつかまた一緒に旅に出よう。
     おけけ、二人でアフリカに行こう。
     おけけ、ずっとぼくを見守ってくれ。
     夢の中で、ぼくはおけけと歩いている。
                        (つづく)

  • 2020年06月05日バカロードその142 日本徒歩縦断2700キロ おけけとぼくの旅4

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
    (前号まで="アフリカ大陸徒歩横断"を目論む十九歳のぼくは、前哨戦として北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬へと日本列島縦断二千七百キロの徒歩行を始める。生後間もなく保健所行きになりかけた北海道犬「おけけ」を道づれに。北海道を抜け、みちのく路から北陸へと続く旅は、連日の雨と風に打ちのめされる日々。懸命に後をついてくるおけけが心の支えだ。歩きだしてちょうど三十日目に新潟県に入る)

     国道沿いの廃屋の土間で、ぼくは朽ちかけた漆喰の壁にもたれかかって座り、やすらかなおけけの寝顔を見つめていた。
     ぼくは幸福だった、そして少し動揺していた。
     「ぼくは彼女(おけけ)が好きだ・・・」
     その瞬間、背後からボボ・ブラジルのココバッドを喰らったがごとき鈍く重い衝撃が走った。頭蓋骨がカラカラと砕け、前頭葉の中心軸がグラグラ揺れる。身体じゅうの関節のゴムバンドがびょんとたるんだような虚脱感に包まれた。
     「おいおい」とぼくは驚いた。
     「何を馬鹿なことを考えているんだ」そして「冷静になるべきだ」。
     ぼくとおけけの間を紡ぐ運命共同体としての意識が、多少偏向して表層に現れているのだ。動物への愛玩と、恋愛感情が混濁している。
     疲れているのだろうか。寝不足なのかもしれない。冷静になろう。
     けど明らかに意識は覚醒している。
     ぼくはおけけを愛することに戸惑い、おびえている。その事実は、彼女(おけけ)に対する愛が、動物(イヌ)と人間(ヒト)との間で通常交わされうる愛情の範疇を超え、常軌を逸しはじめていることを示す。
     倒錯しているのだろうか。
     ぼくは狂える動物偏愛者か、それとも単なる変態か?
       
     十月十六日。左前方に高い山群が見えだす。北アルプスの気配が濃くなり、心なしか大気が緊張している。
     午後二時半、糸魚川市。激しい風と雨にあおられる。傘をさしていられない強風で、歩くのもままならず。青海町(おうみまち)を過ぎると海崖沿いに隧道と絶壁が繰り返される。天候はさらに悪化し、稲妻が海に突き刺さり、天井が抜けたようなバケツ雨が海面を泡立たせる。隧道のコンクリート柱の向こうに広がる黒々とした日本海。鈍色の空を切り裂く雷光のコントラストは「ベン・ハー」や「十戒」の天地交歓シーンのようだ。
     午後七時半、親不知駅(おやしらずえき)にやっとこさ到着。駅舎のベンチで夜を明かせるかなと勇んで来たが、有人駅だったので野宿をあきらめる。一キロほど引き返し、小学校のグラウンド脇の物置小屋に無断侵入する。せまくて脚を伸ばせず、雨漏りが顔にふりかかって眠れない。四十・二キロ歩く。

     人類の性は形而上にあり、精神世界のあやふやな構築物である。サマセット・モームとボーイ・ジョージはゲイで、KISSの連中はグルーピーの女の子のプッシーを何百人分も撮影し、野坂昭如は羊や鶏と肉体関係を結んだ。そういう事実をちょっとずつ認識し、理解していくことが十代前半の最大テーマであった。
     幸いなことにポルノ映画館から徒歩五分というコンビニエントな高校に進んだ。土曜日、昼までの授業を終えると千円札を握りしめ「ピンク映画」や「ロマンポルノ」を観に映画館にダッシュした。ぼくたちは「にっかつ」と耳にするだけでパブロフの犬のようにゼエハアした。極めて健全で単純な青春だった。
     映画館はパステルカラーのトンガリ屋根を持つメルヘンな建物だったが、館内はいつも湿っていて、精液の臭いがかすかに立ちのぼっていた。薄茶色に汚れた年季モノの銀幕では、あらゆる人種や民族、国籍の人間たちが、階級や性別を超越して、綿々と性の営みを繰り返した。昼下がりの団地妻もロシア文学読みの女子大生も、みなが歓びの声をあげた。スクリーンの向こうには差別も戦争もなく、果てしない自由があった。
     性は奔放で大衆的で、観念は何物にも束縛されない。人間と動物の境界すら破壊する。ある映画では、白い肌の女がサラブレッド馬の股間に顔を埋め、黒い肌の男が綿羊の背後から荒々しく男を叩きつけた。
     それぞれが愉快な動作だった。スクリーンの営みはぼくを優しい気持ちにさせた。ポルノムービーを一つ観るごとに、一つ年輪を重ねていくような熟し方をしていった。土曜日の午後は限りなく平和であり、リアリティに満ちていた。

     十月十七日。午前五時四十分。今日も雨。歩道のない嫌な感じの道で、おけけの歩きも不安定。昼ごろまでは肩掛けカバンに入れて、顔だけ出した格好で歩く。
     市振(いちぶり)という街に午前八時半着。雑貨店のおばちゃんがおけけにと白飯をくれたので、サバ缶を混ぜてやる。おけけが食べ残した残飯をぼくが食べているのを見て、おばちゃんは可哀想に思ったのか、別にオニギリを三個握ってくれる。
     玉ノ木という村で、おばあさんに呼び止められ「家に上がっていけ」と手招きされる。奥の部屋に消えたおばあさんを客間で待っていると、お盆にたくさんの食べ物を載せて現れる。アサリの味噌汁、オニギリ三個、せんべい五枚、茄子の漬物、お茶・・・。野豚のように貪り食らう。たぶん臭かったのだろう。お風呂にも入れてくれる。
     おばあさんは汚い身なりをしたぼくを家出少年か浮浪児と思ったらしく、「物を盗むなよ」「野良になるなよ」「ちゃんと世の中を見ろよ」と何度も繰り返す。
     午後、富山県境を越える。黒部市の道沿いにある弁当屋のおっさんに話しかけられる。昔阿南市の電力会社で働いていたそうで、二時間も延々と徳島の思い出を聞かされる。期待した弁当はもらえることはなく、ゆで玉子を二個くれる。おっさんに教えてもらった小学校の体育倉庫に忍びこんで、跳び箱と平均台の間に畳んであった体操マットの間に挟まる。セーターとヤッケを着込んでも寒い。マットは重くて臭く、眠れない。三月からアフリカに行こうと思う。アフリカのことを考えるとやや興奮気味になり、再び眠れなくなる。三十九・二キロ歩く。

     ポルノムービーに学んだおおらかで広大な性の解放区は、逆に強迫観念となってぼくを傷つけようとした。
     彼女(おけけ)にオスの野犬が近づくと、ぼくはムキになって小石を投げつけ防戦に努めた。いくら彼(野犬)が友好的な態度を見せようと無駄である。おけけには指一本ふれさせないと強い意志のもとに戦った。明らかにぼくは、野犬に対して嫉妬していた。薄汚く、空腹を満たすためだけに生き、ペニスからダラダラと青白い精液を垂れ流している野犬に対して、ヤキモチ
    を焼いているのである。父性愛の表れだと無理に納得しようとした。しかし、もっと倒錯し混乱した愛情であることは自分自身がいちばんよく知っていた。
     彼女(おけけ)の処女性についてぼくは強く意識した。生後四カ月のおけけにとって"世界"のほぼすべては"ぼく"であり、彼女が処女を失うことは"ぼく"以外の世界のトビラを開くことを意味した。それは耐えられないことだった。
     ライク・ア・ローリン・ストーン。ぼくの内部で何かが崩れ、転がる石のようにカラカラと無軌道なままで、どこに向かうのかもわからず、毎日ただ五十キロを歩く自分を追いかけることで邪念を忌避しようと苦闘した。
     悪天の続く日本海に夕日が沈む頃、奇跡のように風景が飛び去った。暗雲が散り、波濤は鋭角を失う。舞台の第二幕の幕開けのように全てのセットが早変わりし、目の前に展開される。ぼくとおけけは遠くウラジオストクの黒土まで見渡せそうな孤岬の頂に立った。おけけはまっすぐ風を観る。風は、水平線上で空を紅色に切り取り、太陽より放たれる。夕日を映すおけけの瞳は力強さに満ち、白く長いまつげが可憐に揺れる。大きな黒目は、未踏峰のカルデラ火山の頂にたたずむ湖のように深く濃く、けがれを知らず、圧倒的に美しい。
     潮騒が静かに岬にまとわりつく。
     抱えあげたおけけの白い胸にそっと耳をあててみる。心臓がトクトク鳴っている。鼓動は高く弾け、潮騒と調和し、ぼくの右耳のうずまき管に流れこむ。カタツムリのような形のうずまき管は音をじわじわとからめ取る。カカトの先っぽから順に、やすらかな気分が満ちてくる。羊水の海に漂う胎児が母の心音に癒やされるように、おけけの心拍音が今の自分を支配するすべての状況をやさしく包み込んでいく。

     十月二十日。朝起きて立ちションしていると、おけけも起きだしてきて、横に並んでオシッコをはじめる。
     新潟と石川の県境を過ぎ、道路工事中で未舗装のドロ道を強行突破する。シューズの底に赤土の塊が分厚くくっつき歩きづらい。おけけもまた、ぬかるみの中でドロまみれになっているが、いたって楽しそうだ。
     午前十時ごろ、金沢市の名園・兼六園に到着。門の前で修学旅行中の女子高生の集団に取り囲まれる。おけけの人気はあきれかえるほどだ。入園口の手前でおけけを肩掛けカバンに放り込み、チャックをちゃんと閉める。チケット係の人に見つからないようにし、ぶじ園内に侵入する。しばらく散歩してみたが、公園の文化的価値はよくわからなかった。ロサンゼルスから来たというアメリカ人観光客の集団につかまり、写真をたくさん撮られる。英語でいろいろ質問され、舞い上がりながら答える。
     「なぜ歩いて旅しているのか?」と聞かれて「Because there are roads.」と言うと、「ワオ、オゥ、ワンダフル」と誉めてくれ、全員に握手を求められる。なぜなら、そこに道があるから-----しばらく自己嫌悪に陥りそうだ。そんなの露ほども心にない。四十四キロ歩く。
    (つづく)

  • 2020年04月04日バカロードその141 日本徒歩縦断2700キロ おけけとぼくの旅3

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで="アフリカ大陸徒歩横断"を目論む十九歳のぼくは、その試金石として北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬まで日本列島を縦断する二千七百キロの歩き旅をくわだてる。ところが居候をしていた牧場で、生後間もない北海道犬「おけけ」を貰い受けたことから事態は思わぬ方向へ。沿道のさまざまな人たちの情けに涙しながら、二週間目にして函館にたどり着く。そして冬の到来も近い東北路へと足を踏み入れるのだった)

     ガンコウケータイ的ハッテン
     ガンコウケータイ的ハッテン
     ガンコウケータイ的ハッテン
     眠れない夜、ぼくはあのグラフを思う。
     驟雨の下水管の中で、みぞれ舞うテトラポットの型枠の底で、ぼくとおけけはだんご虫のように丸まって「ガンコウケータイ的ハッテン」と百回つぶやいてみる。
     社会科の教科書の隅にぬらりとたたずむ、あの斜め右上にフニャフニャと伸びる意思の薄弱そうな曲線。睡魔の回路にたちまちアクセスし、すみやかに瞼の荷重を増大させる無遠慮なグラフ。
     「雁行形態的発展」とは、ある特定の経済区域において好不況を交互に繰り返しながら、マクロ的には経済が上昇していくという状態を示したもので、それがどうしたんだい?という理論である。狂騒と浪費も、絶望と苦悩も、そこでは単なるフニャフニャ曲線として描かれる。庶民の苦悩を他所に、あくまで右上方へと飛躍していくであろうとのハッピーでオプティミステックな未来予想図。「ガンコウケータイ的ハッテン」と百回繰り返す間に、ぼくの眠りの深度と同調しながら経済は発展し、社会と遠く隔たった下水管の中で、無一文に等しいぼくは安らかに眠りにつくグー・・・・・・。

    日記 十月二日。
     朝起きるとひどい雨だった。鈍い雨空は気分を憂鬱にし、夜中に忍び込んだ建設現場のプレハブ小屋で、寝たり起きたり茶を飲んだり、また寝たりして過ごす。
     朝遅くに出発。腹の調子が悪く、平賀町(現在の青森県平川市)で大便をもらしそうになり、駅へと駆け込み何とか危機を脱する。無理に走ったので足のマメが裂けて出血する。
     一日中、話しかけられていた北海道とは対象的に、津軽の人たちは無口である。ぼくたちの姿を見かけると、困ったような表情をする。
     昼過ぎに入った大衆食堂のおばさんが、おけけにソーセージをくれる。ぼくには「胃腸が悪い時はりんごがいちばん」とりんごを三個包んでくれる。津軽弁の訛りが激しくて、実際には何と言っているのかわからないが、だいたいの意味を推測しながら会話する。
     それからしばし歩くと、国道沿いのりんご販売店のおばあさんがりんごを五個くれる。「傷物だけど味は天下一品」と津軽弁で自慢している(たぶん)。碇ケ関(いかりがせき)という街では、おばさんが追いかけてきて、鶏ガラとドッグフード入りのごはんをおけけに、ビニル袋にずっしり入ったりんごをぼくにくれる。数えると八個もあった。
     リュックはりんごで溢れ、今日だけで十個以上食べたけど、まだぎっしり残っている。さすが青森だな。朝、サボったので二十六キロしか歩けなかった。

     徒歩旅行者はいろんな場所で眠る。
     真夜中の野球場のベンチ、田んぼの脇のポンプ小屋、深夜営業のランドリー、ドライブインのトイレ、ショベルカーの運転席。適当な場所が見つからないときは、洞穴、路上、季節はずれの海の家、と吹きさらしの中でも寝る。
     「いかなる状況下においても眠ることができる」というのは、永らく男の勲章であったり、偉人のエピソードであったり、達人の条件だったりした。古代印度の苦行僧は片足で立ったまま三十年間眠ったり目覚めたりし、南ヴェトナム解放戦線の兵士たちは泥中に全身を沈め顔面のみ出し眠る。現代のハイパーサラリーマンもまた、地下鉄の吊り革にぶら下がって眠る。
     徒歩旅行者とて、タタミ半畳のスペースさえあればいかなる苦境下においても眠れるのである。と自信をもって宣言したい所だが、わりかしまぁ難しい局面もあるわけで、そう易々とはいかない。
     まず最も野宿イージーと思える週末のオールナイト映画館や、東屋やベンチが整備された都市型の公園は、必ずや物腰柔らかなお兄さんやオジサマたちがたむろするデンジャラスゾーンといえる。ウトウトしている間に、優しく股間をもみしだかれていた経験には事欠かない。
     かつて一晩じゅう駅を開放し、野宿者に優しかった国鉄は、民営化してJRと名を変えてからは態度が一変した。終電が出ると、雨が降ってようが雪が積もってようが、容赦なくホームレスやツーリストを駅舎から追い出すという非情さを露わにしている。・・・などと無銭旅行者が社会に対してエラそうな事を述べられる立場にはなく、屋根と壁と段ボールさえあれば、どこでも安眠できるよう心を整えている。
     さすがに参るのは大雨や雪の夜だが、悪天候には想像力で対抗する。鋭利なガラスの刃で全身をチクチク責めいたぶられるような凍った夜に、ぼくとおけけは真冬のグランドジョラス北壁を思い浮かべる、ヨーロッパ三大北壁の中で最も登攀困難なグランドジョラスの厳寒の壁。テラスしかない垂直の断崖、足下は二千メートルも切れ落ちた絶壁。気温マイナス三十度、叩きつける烈風、スノーシャワーが間断なく振り続ける。幾人もの天才クライマーを死に至らしめた悪魔の壁でビバークする恐怖に比べたら、ボットン公衆便所の壁にもたれかかって一夜を過ごすわれわれは、極めて平和な状況にあるだろう、と分析しつつグー・・・・・・。

    日記 十月六日。
     国道七号線を南下し、秋田県に入っている。昨日は秋田駅の公衆トイレ前で、新聞紙をかぶって寝た。
     朝から小雨がぱらつきひどく寒い。駅前にはまるで人の気配がなくゴーストタウンのよう。街の中をさまよい歩いているうち猛烈なデジャブーに憑かれ、あまりにリアルで怖くなる。ところが街角にミスタードーナツを見つけ、昔この場所に来たことがあるのを忘れていたのだと気づく。高校一年生の冬休みに「青春18きっぷ」を使って東北を一周したときにも、この店でドーナツを買ったのだった。五年ぶりに店に入り、フレンチクルーラーを五個買って、おけけに二個やり、自分は三個食べることにした。
     ドーナツをかじりながら歩いていると、登校中の女子高生の集団に囲まれてしまい、いろいろ質問される。彼女たちは色白で黒目がちな目をしていて美しく、怪しい旅人に壁を作るわけでもなく、あっけらかんとしていて笑顔が眩しい。ぼくとおけけはうろたえ、以後目立たないように道の隅の方を小さくなって歩く。
     お昼に日本海沿いに出る。国道を離れて、砂浜を歩いているうちにヤブの中に迷い込み、さんざんな思いをして脱出する。切り株で傷ついたのか、おけけは足の裏から大量出血している。水道で血を洗い、親犬が子犬を慰めるように舐めてやったが、しばらく血が止まらなかった。怪我をしてからのおけけは、肩掛けカバンにもぐりこみブルブル震えてばかりだ。肩掛けカバンは、リュックに入り切らないほど成長したおけけのために、函館で新調したものだ。四十二キロ歩く。

     ゲームソフトに裏技攻略本があり、プロレスにチョーク攻撃があるように、野宿にも反則ギリギリのテクニックがある。
     ちょっとした街の郊外の幹線道路沿いには、必ず中古車販売店があり、駐車場に停めてあるたいていの展示車はロックなどしていない(注釈・1980年代のお話です)。そこで、なるだけ立派なランドクルーザーやステーションワゴンを選び、車内で一夜を明かすという、まあ端的に言えば犯罪行為なわけだが、何ともこれが寝心地がよくクセになってしまうのである(注釈・良い子はマネをしないでね)。
     完全防風防雨、クッションに富んだソフトシート、内側から鍵をかければセキュリティも万全。あわよくば、つけっ放しにされたキイをそっと回し、エアコンディショナーを効かせ、深夜ラジオをBGMに天国への階段を昇るように夢の世界へと誘われる。
     建設現場や清掃会社前に停まっている業務用車両も狙える。廃材を積んだ産廃トラックや、バキュームカーは盗難の恐れもないからか、キーロックされている方が珍しい。また運送会社の構内には長距離トラックがわんさと集合していて、舌なめずりしてしまう。大型トラックの運転席の背後にある仮眠スペースの居住性はベストオブベスト。毛布や枕まで用意されているのでカプセルホテル並みの快適さだ。しかし、早朝もしくは夜明け前にドライバーが乗り込んでくる場合があるので、必ず言い訳の三つか四つは用意しておきたいものだグー・・・・・・。

    日記 十月十三日。
     バス停の掘っ立て小屋で起きると猛烈な腹痛。一秒たりともガマンできる余地なく新聞紙の上に漏らす。完全に水ゲリ。おけけは「もう休ませてくれよう」とまなざしで訴えてくるが、構わず出発する。
     山形県を抜けて新潟県に入っている。相変わらず今日も雨降りで、拾ったビニル傘をさして歩く。この雨はいつまで続くのだろう。月曜日だというのに商店はみなシャッターを下ろし、ぼくとおけけは飢えに瀕する。ようやく見つけた食堂に飛び込んだら「犬は外につないで!」と怒られる。外は雨で、おけけだけ追い出せないので仕方なく店を出る。
     道路に泥だらけになった文庫本が落ちていたので拾って読みながら歩く。二十歳の美人の女の子が学生運動に疲れ、森で首を吊って死ぬ話。
     夕方、トラックの運ちゃんに声をかけられる。びしょ濡れのぼくたちを見て哀れに思ったか「温泉に連れていってやるから、夜の九時に出雲崎駅で待っとけ」と約束してくれる。
     出雲崎駅は少し遠かったけど「おんせん、おんせん」と掛け声を出しながら走ったら、ぶじ夜九時前に着いた。思えば1カ月も風呂に入ってない。
     期待に胸をふくらませて駅のベンチに腰掛けて運ちゃんの到着を待つ。九時になってもトラックは来なかった。夜中の十一時まで待ったけど、現れなかった。つらくなり、またトボトボと歩き始めた。真夜中、倒れそうになるまで歩きつづけた。五十一・五キロ歩く。

     ぼくとおけけは毎日抱き合って眠った。
     横になったぼくがスウェットのパーカーのすそをめくると、おけけはもの凄い勢いで中にもぐりこんでくる。襟元から冷たい鼻先を出し、ぼくのアゴにくっつけて眠る。寝顔が可愛い。ピュウピュウという鼻息がくすぐったい。かすかな鼓動と体温が伝わってくる。ときどきクンクンと寝言をつぶやいたりする。
     ある夜、ぼくは眠れずにおけけの寝顔を見つめながら、かすかに胸のときめきを感じ、そして戦慄を覚える。
     (ぼくは彼女にあやうい感情を抱きつつあるのではないか)
     おけけとの旅がはじまり、はや1カ月が過ぎていた。ぼくたちはこの1カ月というもの、二十四時間かたときも離れずにいた。少なくとも十九年の人生の中で、ある特定の人物(あるいは動物)とこんなにも長い時間、密着して暮らしたことがあっただろうか。ない。
     彼女(おけけ)とぼくは、いつしかお互いの気分を理解しはじめていた。痛みや苦しみを共有し、苛立ちや焦りはたちまち伝播した。日常の喜びや悲しみは、ぼくと彼女の共通の記憶として蓄積されていった。
     ウッディ・アレンの「SEXのすべて」という七話からなるオムニバスムービーの作品のひとつに、メスの羊に恋する医者の物語があった。黒いランジェリーをまとい診察台の上で戸惑う"羊"に、当時中学生だったぼくは異様な興奮を覚え「自分は性的倒錯者ではないか」と三日三晩もだえ苦しんだ。
     なにやらその時以来のヤバい状況に立たされているのではないか。
     おけけは、ぼくの腕の中で静かに夢の世界をさまよっている。
     「ガンコウケータイ的ハッテン」
     と百回繰り返してみる。ダメだ、今夜は効果がない。 (つづく)

  • 2020年02月06日バカロードその140 日本徒歩縦断2700キロ おけけとぼくの旅2

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで="アフリカ大陸徒歩横断"を目論む十九歳のぼくは、その試金石として北海道宗谷岬から鹿児島県佐多岬まで日本列島を縦断する二千七百キロの歩き旅をくわだてる。ところが居候をしていた牧場で、一匹の子犬"おけけ"を貰い受けたことから事態は思わぬ方向へ)

     絶世の美女がぼくを覗き込んでいる。
     長いまつげはしっとり濡れ、ぽってりした唇にタヒチアンレッドの口紅が光る。怪しの微笑みを頬に浮かべると、ぼくの耳たぶを舌で愛撫する。骨盤あたりからゾクゾクと悪寒にも似た快感が押し寄せる。大胆に開いたカクテルドレスの胸元に、豊満なバストが揺れる。張り出した腰が、軟体動物のようにくねくねと動き、ぼくの下半身にぴったり密着して圧力を増していく。耳の穴の奥深くまで、タラコ色をした舌がチロチロ侵入してくる。
     ああ、もうダメなんです・・・耐えられません。あああ、やめてくださいよう。
     一瞬、銀色の光が視界を占拠する。ゆるやかに瞼を開け、網膜に飛び込んでくる光量をコントロールする。甘美な記憶を失わないよう、ゆっくりと、そっとだ。
     ぼくの湿った鼻の先っちょには、確かにつぶらな瞳の女の子がいる。彼女は、ぼくの顔じゅうをペロペロと無邪気に舐め回している。
     正体はこいつか! あぁ願わくば夢の続きを・・・再びぼくは惰眠を貪る。
         □
     干し草の中で眠る幸福感といったら、たとえようもない。夏の間、トラクターによって何重にも巻き取られた巨大な干し草ロールの中心の方で、乾ききらない牧草は冬の間じゅう静かに発酵し、表面に微熱を運んでくる。
     毎日が野宿の貧乏旅行者にとって、夜の闇にまぎれて忍びこむ農家の干し草小屋は、天国そのものだ。鉄道駅の凍ったプラスチックのベンチや、工事現場の埃っぽいプレハブ小屋や、すきま風吹きすさぶバスの待合所に比べれば、チクチク肌を刺す牧草は、一流ホテルのふかふかのダブルベッドに等しい。冷え切った身体に温かさの芯が灯れば、睡魔が訪れる。その寸前の悦びといったらない。
     同行者一名。
     といっても、そいつはぼくの背負った赤いリュックの中で、一日の大半を過ごしている。
     名は「おけけ」という。
     白毛で、まるまる太った雑種のメス犬だ。生後およそ二カ月。アイヌ犬の血を多少なりとも引いているのか、体に不釣り合いなほど大きな耳をピンと立て、未知の世界からの情報を懸命に採取しようとしている。
     この旅は、ぼくの旅であり、おけけの旅でもある。
         □
     三日前、ぼくと子犬のおけけは、日本徒歩縦断の出発地点となる北海道宗谷岬にいた。
     オホーツク海の波濤うちよせ、凍てつくシベリアの大地より吹く北風は頬を切り・・・という哀愁演歌の世界を想像し、鈍行列車とバスを乗り継いでやってきたわけだが、現実はそうでもなかった。原色ギラギラの看板を掲げた土産物屋が建ち並び、「さいはて音頭」といった類いの安っぽい民謡がスピーカーより虚空へと放たれている。ツーリング客らはブオンブオンとエンジンを空吹かしし、団体旅行客は酔っ払った赤ら顔をして時間の潰し方がわからぬ様子であたりを徘徊する。日本のほとんどの観光名所に等しく、ここも風情などないのであった。
     (さておけけよ、ここがぼくたちの旅立ちの場所だよ)と振り返ると、さっきまでそこらの芝生の上で寝転がっていた子犬がいない。あたりを見回すと、派手な洋服を身にまとった女子大生らしき集団が、輪になっておけけに群がっている。
    「いやーん、かわいい~」
    「まだ子犬だねー。あーん、わたしにも抱っこさせてェん」
     おそるおそる近づくと、
    「すみませーん。この子にカマボコあげていいですか~」
     とお姉さんの一人。
    「ど、どどどうぞ」とぼく。
    「この子と一緒に旅してるんだぁ。どこまで行くの?」
    「鹿児島まで歩いていきます」
    「えー、すっご~い。ウエムラさんみたーい」と一同(注釈/1980年代、国民栄誉賞を受賞した探検家・植村直己は女子大生にも知られるほどメジャーな存在であった)。
    「いっしょに写真撮らせてもらっていいですかァ~」
     と求められたので、
    「はは、どうぞ」
     とうろたえながら返事する。
     おけけとぼくは、激しく煽情的な香水の匂いを放つ四人の女子大生と、代わる代わる記念撮影をした。いちばん美人のお姉さんは、ポーズをとるときぼくの腕をガシッと掴んで「ピースピース」と言った。ぼくのヒジのあたりが、お姉さんの柔らかい乳房にギュッと押しつけられ、(ああ、時よ永遠なれ!)と心のなかで叫んだ。
     華やかな撮影会が終わると、自らリュックにもぐりこんだおけけをヨイショと背負い、「日本最北端の地」のモニュメントを離れ歩きはじめる。
    「頑張ってぇ~ん」
    「東京まで来たら連絡してね~!」
    「おけけちゃんファイトぉーん」
     お姉さんグループが、悩ましげな黄色い声で見送ってくれる。実にしまりのなく、しかし幸福な旅立ちである。とにかく鹿児島めざして出発だ、おけけよ!
         □
    日記/九月十六日。
     歩きはじめて三日目だ。農家の物置小屋で寝ていたら、小学生のガキに発見されて睡眠を妨害される。朝から十五キロ以上歩いても、自販機の影すら見えない。水道も川もない、街も現れない。ノドの乾き、空腹感でもだえ苦しみ、ついついおけけ用に買ってあった牛乳を半分飲んでしまう。
     振老(ふらおい)という牧場しかない一本道をふらふら歩いていたら、車が横づけに停まりビールをくれた。ビールを飲むともっとふらふらした。
     午後二時。天塩町(てしおちょう)着。スーパーで買った巻き寿司をおけけと山分けする。
     午後九時。遠別(えんべつ)という街の「居酒屋のぶちゃん」にて、みそラーメンとごはんをタダで食べさせてもらう。「道向かいの運送屋の詰め所のカギが開いてるからそこで寝ろ!」と大将にアドバイスを受ける。電気の消えた運送店に無断でしのびこみ、床に段ボールを敷いて寝る。
     今日は四十五キロを歩く。歩くのは苦痛じゃない。明日からは五十キロを目標に歩こう。

    日記/九月十八日。
     ここまでリュックにほとんど一日中こもっていたおけけが、「歩きたい」という顔をして這い出してくるようになった。
     広大なひまわり畑の中を突っ切って豊岬(とよさき)に着くと、雨が降りだした。えらく寒くて、お腹をすかせたおけけに冷たい牛乳をやると、カタカタ震えだした。
     やがて強風となり、叩きつけるような雨が来た。雨宿りする場所もなく、びしょ濡れで歩きつづけた。
     夕方、海沿いの崖の上にある「第二栄」というバス停の小屋に逃げ込むと、壁いっぱいに落書きがされていた。自転車で日本一周中の人が二人、徒歩で日本縦断の人が二人。バイクやリヤカーやいろんな野宿旅行者がこのバス停で夜を明かしたのだな、と思うと勇気が湧いてくる。
     外は大風、バス停の薄っぺらなトタンとベニヤ板の壁を叩く。荒れ狂う海の波音が地響きとなって伝わる。寒い、けれど眠れないほどじゃない。たくさんの夢を持った若者たちが過ごしたこのバス停は優しさに包まれている。
     おけけが頭の横でションベンしたせいで髪の毛が濡れる。嵐のため三十一・七キロしか歩けなかった。

    日記/九月二十一日。
     雄冬岬(おふゆみさき)の手前で高い峠を越える。朝からおけけはまったく歩こうとしない。歩古丹(あゆみこたん)という打ち棄てられた集落をボーッと歩いていたら、目の前にマムシが! あと一メートルまで迫っていた。
     午後三時、雄冬の漁港着。札幌まで百キロを切った。おけけは一日中眠ってばかりだ。どこか具合が悪いのだろうか。
     夕方六時。野宿をするためバス停の小屋に入ると、自転車旅行中のオッサンが先客にいた。オッサンはロレツが回っておらず、意味不明のことを口走りつづけている。「じ、人類は進化すると、男はみんなホモになるんだ。ホ、ホモってどう思うキミ」とか「コカインは、イ、インドではコークって言うんだって」とかデンジャーな発言が多く、朝までヒヤヒヤしてよく眠れなかった。三十四・四キロ歩く。

    日記/九月二十九日。
     あと五十キロで函館だ。森町という街で、商店のおばさんが牛乳をくれる。ちょうど高校の登校時間と重なってしまって、女子高生に囲まれてキャアキャアと騒がれ、おけけとぼくは困ってしまう。
     駒ヶ岳山麓にさしかかると、たこ焼き店から顔をのぞかせた美人のお姉さんが「今朝、車からキミたちを見かけたよ」と言って、たこ焼きとかつおぶしをくれる。さらにはドライブインの店員さんが「おーい」と追いかけてきて、紙に包んだホットケーキを手渡してくれる。「わたし犬好きなんですよ、ホッホッホ」と笑って去っていく。
     その先では、道沿いの雑貨店の前でウンコ座りしていたヤンキー風の兄貴がこっちを睨みつけてくるので、殴られるのかと思いビクビク前を素通りしたら、後ろから「おい少年、ホットドッグ食べない?」とお店にお金を払い「犬の分も」と2個買ってくれる。そして「頑張りな」とおけけの頭を撫でてくれる。
     夜中の十二時、ついに函館着。四十九キロ歩く。
     ここからは青函連絡船に乗って青森に上陸するのだ。
         □
     おけけは行く先々で人気者になった。リュックから首だけを出して、あたりをキョロキョロ見まわしている彼女は、道ゆく人たちの目に愛らしく映るようなのである。
     小学校の下校時間ともなれば、大変な騒ぎになってしまう。物珍しい旅行者とチビ犬のコンビは、小学生にしてみたら、とてもやり過ごしてはおけない存在であるようだ。子供たちは好奇の視線を浴びせながら、ぼくらの後ろを二十人もの大行列をなしてついてきてしまう。ハーメルンの笛吹き男になったようである。
     一方で、おばあさん世代にはよく説教された。
     「こんな産まれて間もないこっこ犬を連れて歩いてかわいそうでしょ!」
     と言うのである。
     ぼくは返す言葉もなく「ごめんなさい」と謝るしかない。何べんも謝った。
     そのうちぼくは、自分がこの子犬の従者であるような錯覚に陥りはじめた。
     知らぬ間に、旅の主導権を完全におけけに握られているのだ。この旅は、アフリカ大陸を歩いて横断するための前哨戦であり鍛錬の場として企画した。しかし今のぼくは、いかにおけけ様につつがなく旅していただけるか、おなかは空いていないか、機嫌をそこねるような事をしてないのか・・・そのような心配ばかりしながら歩いているのである。
     おけけの態度も、なんとなくエラそうになってきたような気がするのだ。(つづく)
     

  • 2020年01月07日バカロードその139 日本徒歩縦断2700キロ おけけとぼくの旅

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     北海道の東のはじっこの方、根釧台地の真ん中あたりにある小さな田舎町の牧場で、ぼくは十八歳の夏を過ごした。
     春に入学した東京の大学には、入学式に出て以来、一度も足を踏み入れてない。金がないので他人の部屋に居候し、毎日ぶらぶらしていた。有り金あわせて四千円を切り、いよいよ食費にも事欠くに至って、さすがに働かないとマズいだろうという正常な判断をするようになった。
     

     コンビニで立ち読みした求人情報誌に「住み込み、三食付き、往復交通費支給」という夢のようなアルバイトを見つけ、その場で連絡先の電話番号を暗記し、店を飛び出して公衆電話に手持ちの十円玉をすべて投入して、採用してもらう約束を取りつけた。勤め先は、北海道の名も知らぬ町だった。
     東京から釧路行きのフェリーで船中2泊した。北海道が近づくと海面は黒みを増し、港湾の風景はグレーがかっていて色彩に乏しく感じられた。釧路港でタラップを降りると、これからの職場となる牧場のおじさんが迎えに来てくれていた。うながされるがままに年季が入ったライトバンに乗り込むと、車内には青臭い草の匂いと、動物の香りが充満していた。
     はじめて目にする道東の風景は、うねりのある牧草地が空と地面の境界までつづく緑一色の世界であった。牧草以外に目に映るものと言えば、1キロくらいの間隔で現れる牧場の看板と、土くれ道の先にあるエンジ色の屋根をした家。その周りを牛小屋だと思われる長ったらしい建物や、鉛筆を逆さにしたようなトンガリ屋根の倉庫が囲っている。興味深げに眺めていると、「あれはサイロっていうんだぁ」とおじさんが説明をはじめる。サイロというのは、中が空洞になった円筒形の倉庫で、底が井戸のように掘り込まれている。夏に刈っておいた青草を上から放り込んで、積み重ねておくとやがて発酵する。発酵した草はサイレージと言って栄養価が高く、冬の間じゅう乳牛に食べさせるのさー、と。
     1時間ほどかけて到着したのは、乳牛を百頭ほど飼育する酪農農家だった。無口で無骨だけど焼酎を呑むととたんに陽気になるおじさんと、小さくて丸々と肥えていて甘い物が大好きなおばさんが営んでいる。
     冗談好きのおばさんは、初対面のぼくに「あれー、女の子かと思ったよぉー、今度おばさんがお化粧してあげるからね、ホホホホ」と執拗に化粧と女装を迫ってきた。僕に女の子的な要素はなく、単にロン毛なだけだが、髪の毛を三つ編みにしたがるので勝手にさせておいた。無職で、三つ編みで、牛の乳搾りをする十八歳になるなんて、高校生だった3カ月前には想像もつかない展開である。
     牧場の仕事は「3日もしないうちに、自分には無理ですと帰ってしまう学生さんがいっぱいいる」そうだ。ハードでタフなのは確かだが、ぼくにはすべての作業が楽しく感じられた。
     起床は朝4時。ビニルヤッケとジャージのスボン、長靴、ニット帽がこの仕事の正装だ。まず牛舎に出て、夜中の間にたまった百頭分のウンチを掃除する。野球グラウンドを慣らすときに使う「トンボ」という道具があるが、それに似た鉄製のかき棒で、牛の周囲にこんもり山となったウンチを糞尿溝に落とす。オシッコがはねて湿った「敷ワラ」も捨てる。自動糞尿掃除マシンの電源を入れると、100メートル以上にも及ぶコンベアが動きだし、溝に落としたすべてのウンチを牛舎外へと運び出してくれる。
     牛のエサは9割が干し草だ。一年前の夏に刈り、ロール状に丸めておいた牧草を、農業用のフォーク(悪魔のイラストに登場する三つ槍のアレそのもの)に大量に絡め取り、ズルズルと引きずっては、牛の口元に置いていく。
     干し草の上には「配合飼料」と呼ばれる物をスコップでふりかける。乾燥させたトウモロコシやさまざまな穀物、魚粉を混ぜた栄養食で、牛は目をむいて喜ぶ。飼料タンクの下に一輪車のネコ車を設置し、山盛りいっぱいに積んでから牛に配ってまわる。油断していると、食欲旺盛な牛がアゴでネコ車を引き寄せ、派手にひっくり返してしまうので用心する。
     ウンコ掃除とエサやりの次に、もっとも大切な作業である搾乳にとりかかる。まずは人肌よりも熱めのお湯をバケツに汲み、湯に浸したタオルで牛の乳房をきれいに拭いていく。夜中に腹ばいになっているうちについた汚れをぬぐうとともに、湯で乳房を刺激することで、母牛は条件反射的にオッパイを分泌しようとする。半日分の牛乳をためこんで膨らんでいる乳腺が、さらに張りを増し、乳首から白いミルクがぽたぽたと垂れはじめる。
     牛乳を収獲するには、ミルカーと呼ばれる吸引口が4コあるタコ足状の道具を使う。ミルカーを、人の頭上50センチほどの位置に張り巡らされたミルクパイプに接続すると、仔牛が乳首を吸うようなリズムで拍動をしはじめる。それを母牛の4本の乳首にスポスポと吸いつかせると、勢いよく乳がほとばしりだす。
     1人の搾り手は、同時に5台ほどのミルカーと、乳房を拭うためのバケツを移動させながら、牛舎の隅から順に搾乳していく。
     牛ごとにオッパイの容量が違い、乳房が大きいほどかかる時間は長い。また、4つの乳房それぞれに個性があり、乳を放出し終えるまでに時間差がある。搾り終えると同時に、ミルカーの吸引口を外さないと、乳房にダメージを与えてしまう。外すのが遅れて「空搾り」になったり、早すぎてミルクを残しすぎると、乳房炎という病気にかかる。
     この作業をうまくこなすために、毎日飽きるほど牛たちの乳房を眺めて、個体差を頭に叩き込んだ。大根のように巨大なの、小ぶりでチャーミングなの、4本がバラバラの方向を向いているの、ばあさんみたいに皺くちゃなの。牛ごとに搾乳の好き嫌いもある。「早く搾ってよ」とモウモウせがむのが大半だが、後ろ足で人間を蹴飛ばして嫌がるのもいる。
     朝に晩にと、牛の乳ばかり観察していると、夢の中までオッパイ一色になる。ピンク色の何百という乳房に圧し潰されそうになり、窒息しかけて跳び起きたりした。
     朝の牛舎仕事が済むと、今朝搾ったばかりの牛乳と一緒に朝メシを腹にかきこみ、屋外の仕事にでかける。冬の間に雪の重みで倒壊した放牧場の囲いを修復したり、トラクターに乗って牧草地に肥料を蒔いたり、冬場のエサを確保するための牧草をサイロに詰めたりする。
     北海道の最果てとも言える道東では、一年のうち七、八カ月も続く冬場を乗り切るために、夏が最盛期のわずか二カ月ほどの間に、集中的に働くのである。朝4時から夜7時頃まで、食事の時間を除いて動きっぱなしだ。その労働が、一年間の牛乳の品質や収穫量となって表れる。
     牧草の刈り入れが始まるまでの期間、ぼくは放牧場を有刺鉄線で囲う作業を一人で進めていた。一年の大半を牛舎で暮らす牛たちだが、夏の間だけ牧場に放たれ、柔らかい若草がある場所を移動していくのだ。
     牛は、その鈍重な印象とはかけ離れたジャンプ力がある。人間の肩の高さの位置で、有刺鉄線をたるみなく張っておかないと、飛び越えて外に出てしまう。逃げ出しても、行くあてはないので、その辺をうろつく。何年かに一度、脱走した牛たちが、鉄道の線路上や住宅街に群れをなして歩いてきてしまい、騒動を起こすことがあるそうだ。
     牧場は一辺が数キロメートルもあって、はじっこまで見通せない。地平線まで届くかと思うほどのバカっ広い土地に5メートルおきに鉄の支柱を打ち込み、その間に有刺鉄線を張っていく。まるまる一日かけても端までたどり着かない。つくづく北海道は広いのである。
     見渡すかぎり草の緑と、空の青の二色構成だ。人の気配はまるでなく、自分のたてる足音以外に音もなく、どこかの惑星に置き去りにされたような不安感につきまとわれる。
        □
     自衛隊の演習地に近いこの町では、市街地を貫く幹線道路を、カーキ色をした輸送トラックや機動車が平然と走っていて、周囲の朴訥とした農村風景と違和感がはなはだしい。
     夜の牛舎の仕事を終えると午後7時をまわっている。たいていの日は、疲れてすぐ寝床に入るのだが、ときおり街の若い衆に誘われて夜の街にでかけた。
     夜の街といっても、むろん大げさなものではない。鉄道駅から延びるメイン道路と、それに交差する何本かのだだっ広い通りに、スナックやバーが何軒か立ち並ぶ飲み屋街だ。目立った産業といえば酪農しかなさそうなこの街に、夜の店が軒を連ねているのは自衛隊の基地や宿舎が近いためだ。
     どこの店も、カウンターの隅にコートの襟を立てた細川俊之が座ってそうな何の変哲もない内装。申しわけ程度にしつらえられた安い家具のテーブル席。レーザーディスクか8トラのカラオケマシンが置いてある。たいてい二十代から三十歳前後の女性が1人か2人で接客をしているが、客もカウンターの中に入って酒を作ったりしているので、誰が経営者なのかわからない。
     オレンジがかった薄ぼんやりとした照明の下に集まる人たちは、この街で生まれ育った未婚の女性と、それに自衛官が大半であった。アルコールが回ってくると、決まって語られるのは恋物語。誰もかれもが、自らのラブストーリーを甘く感傷的にしゃべる。
     将来を誓いながら任期切れとともに街を去っていった自衛官を恨むでもなく。家庭持ちだと知りながら刹那の恋に身を焼いたり。いずれ街を去る日が来る自衛官や、農家のアルバイト学生と、地元の若者たちの恋は期限付きの恋だ。戻るべき場所のある「内地」の人間とは対象的に、この街で生まれた女性たちは、恋人が去ったあとも待ちつづける。あるいは後を追いかけて街を出る。ハッピィエンドのない鎌田敏夫の脚本のような、あるいは藤圭子が吐露する怨歌のような話は、果てることがない。
     初対面のぼくに彼女らは饒舌だった。いつかこの地を去る「東京の学生さん」は、秘めたる想いを吐き出す相手として最適なのかも知れない。
     酪農アルバイトは、夏が過ぎると無用となる。牧草の刈り入れ期が終わり、短い夏がいっぺんに秋にとって代わられると、朝夕の牛舎の仕事以外はやることがなくなる。住み込みとしては、夏と同額の賃金と三食を提供してもらうのが心苦しくなってくる。
     ぼくは町をあとにし、東京までの1600kmを二十数日かけて走った。十代のうちにアフリカ大陸の赤道直下を歩いて横断する計画を立てていた。実現させるためには強い脚を作っておく必要があった。
          □
     その冬から春にかけては、シベリア抑留所の強制労働なみにキツいと評判の、東京湾の埋め立て地にある運送会社で働いた。深夜勤務で12時間、ぶっとおしで重い荷物を10トントラックから下ろし、また積み込んだ。4割増し賃金の土日も働き、月給は40万円を超えた。
     会社のロッカー室の床でボロ毛布にくるまり寝て、白めし無料の社員食堂で梅干しと福神漬けで食事を済ませたら、生活費はいっさいかからない。半年で200万円ほど貯めた。そしてアフリカへの最後のトレーニングのため、日本最北端の宗谷岬から、九州南端の鹿児島・佐多岬まで約2700kmを走ることにし、夏を前に再び北海道へと向かった。
     宗谷岬への道中、去年世話になった牧場に「ちょっと挨拶するだけ」のつもりで訪問した。ところが、発酵した牧草や、牛の糞尿の匂いを嗅いでいるうちに、たまらない気持ちになった。金を得るために運送会社に缶詰めで働いた東京での日々に比べて、この場所で過ごした夏の数カ月は、なんとおおらかで豊かだったか。
     「しばらく家にいて、たくさん食べて、太ってから行けばいいんだ」とおばさんは言う。
     「鹿児島まで歩くなんてバカなことはやめて、冬が来るまでここで働きなさい」とおじさんは言う。
     甘い言葉に誘われて、来週には来週にはと出発を先延ばしにしているうちに、三カ月も居着いてしまう。このルーズさが、日本縦断行をあらぬ事態へと向かわせる。
     牧場には二匹の飼い犬がいた。いちおう毎日エサを与えているから「飼い犬」なんだろうけど、鎖につながれた都会のペット犬とは違い、勝手気ままに野山を駆け回り、年中泥だらけで、見た目は野犬と大差ない。夜だってどこで寝ているのかわからない。牧場の飼い犬だから、いざとなれば牛を追ったりするのかと思えば、牛が怖いらしくて近寄らない。
     しかし「アタシらは飼い犬」という意識はあり、大声で名前を呼ぶと、遠方から全速力で駆けつける。人懐っこいカワイイやつらである。
     ところが一年ぶりに再会した二匹は、ずいぶん様子が違った。名前を呼んでも気だるそうなトロンとした瞳で無表情にぼくを一瞥し、どこかへ去っていく。おばさんによると、一匹は歳をとってお婆さんになったから、もう一匹は「誰かにヤラれちゃった」ということだ。つまりお腹に子供がいるのである。
     ある日を境にぷっつり姿を見せなくなった母犬は、数日後に牧草地の隅っこの盛り土に掘った穴ぐらから、意気揚々と登場した。遅れて三匹の子犬も這い出してきた。土にまみれて真っ黒だが、三匹とも白犬だ。
     さてここからの展開は、この街を覆う幾百の恋物語ほどにはロマンチックなものではなく、ペットを飼う家庭ならよくあるお話だ。「今でも二匹飼ってるから、これ以上はねぇ、残念だけど」ってわけで、家族みなで四方八方に頼んでまわり、ひと月かけて二匹の貰い手は見つかった。しかし、三匹のうちいちばん臆病で、人見知りし、もこもこ毛深いという理由で「おけけ」と名づけたメス犬が残ってしまった。引き取り手のないおけけは、牛舎を遊び場にして、牛の敷きワラの上をころころ転げ回って遊んでいる。このままでは「良くない判断」の方に傾いていきそうである。
     ふだんのぼくは、道ばたで雨に濡れる捨て犬、捨て猫を抱きあげてやるような慈悲の心は持たない。それなのにこの無邪気に遊ぶ仔犬を生かしたいという柄にもない感情が湧いている。
     盛夏をすぎた北海道はとたんに秋の匂いを濃くし、万物が生き生きと栄えた夢のような季節が終わったことを伝える。ひと夏の間に何十センチと伸びた牧草は勢いを失い、牛舎の牛たちは「外に出たい」と鳴くのをやめた。朝には息が白くたなびき、冷え込みが強くなってきた。
     出発のときが迫っているのだ。十月の声を聞かないうちに旅立たないと、豪雪の東北や北陸で雪に閉じ込められてしまう。
     おけけは・・・連れていく。とりあえずの場当たり的な措置。しかし他の方法がない。生後1、2カ月の仔犬にはいい迷惑だ。毎日50km以上、狭いリュックのなかで揺られ、あるいは硬いアルファルトの上を歩かされる。
     何も知らないおけけは、仰向けになって腹を見せ、手足をバタバタと振っている。(つづく)

  • 2019年11月06日バカロードその138 史上最長のレースその3 限界って何なん?

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=「四国一周おおもりオールナイトマラニック」は、四国4県をめぐる総距離785km、制限時間8日間のノンストップレース。愛媛県宇和島市を出発し6日目、517km地点徳島・高知県境の四ツ足峠を前にして落雷と土砂降りの巣に突入する)

    【6日目/徳島県那賀町木頭502km~高知県境・四ツ足峠517km】
     四方を山に囲まれた狭い空に、トグロを巻いた漆黒の雲が次から次へと押し寄せては、10倍速の早送りビデオみたいな猛スピードで千切れ去っていきます。稲妻が一瞬フラッシュして視界を真っ白にし、直後に雷鳴がバアァァーンと空気を震わせます。
     人家がほとんどない山峡の、那賀川の激流音がたえまなく聴こえる河畔に、ポツンと一軒だけ建つ新聞販売店。その軒先に逃げ込んでから1時間近く経っています。
     雨具や長ズボンは持ちあわせておらず、短パン、Tシャツの薄着です。雨や風が容赦なく横殴りに吹きつけます。店先で無人セルフ販売していたデイリー新聞を購入し、新聞紙を全身に巻きつけ、体育座りをして寒さに耐えます。ぱっと見、即身仏のミイラですよこれは。ザ・マミーです。
     ドロドロ雲に切れ間が生じないかと空を睨んでいても好転の気配なく、日没が近づいており谷底は薄暗さが増していきます。雨避けのないこんな場所で、身体の動きを止めたまま、夜を越すのは無謀です。土砂降りでも前進するしかありません。
     せめてものインスタント防寒具として、すでにびしょ濡れになっている黒い新聞を何回か折りたたみ、胴回りに巻きつけました。そして叩きつける雨の下へと飛び出しました。
        □
     雨をはじき飛ばす勢いで駆けます。15km先の四ツ足峠(標高660m)までは雨宿りできる場所なんてないだろうと決め込んでいたものの、次々と集落が現れては、雨よけにうってつけなバス停小屋や車庫が目に止まります。さっさと前進して、ここで休憩しておればよかったです。
     ゆずの産地で有名な北川集落は、峠へと至る最後の村です。北川にさしかかる頃に日没しましたが、幸運なことに雨足が弱まってきました。この先の山中で暴風雨に攻められ続けたら、前進も後退もできなくなります。
     蛇行する峠道は、深い霧に満たされていました。濃い密度で漂う霧の粒がヘッドランプの光をさえぎり、10メートル先も見通せません。長さ1857mの四ツ足峠トンネルの中央部に白線が引かれた県境ラインがありました。トンネルを抜けると「べふ峡温泉 これより3km」という魅惑の看板が浮かびあがります。ときおり現れるこの看板が、冷え切った身体に熱量を与えます。温泉にさえたどり着けば、浴槽に満々と湛えられた、とろりとした天然湯に身をゆだね、鼻先まで温ったまれるんだ。そして死に体に等しい体力を回復させて、前向きな気持ちでゴールに向かい直すのだ。消耗しきった両脚に力がみなぎります。
     べふ峡温泉の入浴札止めが夜9時30分となっているので、間に合わせるべく下り坂をキロ5分のハイペースで駆け降ります。息が上がります。脚に衝撃が届きます。気持ち的には箱根6区のランナーです。峠道を下り終えると、霧雨のベールの向こうに温泉施設の照明灯が見えてきました。
     夜9時15分。入浴終了時刻の15分前です。受付カウンターで入浴券を買おうとすると、係のお兄さんから「今から入浴されるとすると、10分ほどで出ていただかないといけない」と事務的に伝えられます。9時30分は札止めではなく、日帰り入浴客が利用できる最終時刻とのこと。
     「チョト待てチョト待てお兄サン♪ 捨て猫のように濡れそぼったミーを見て! ほら、かすかに震えてるでしょ。きっと宿泊客はも少し遅くまで入浴してるんだから、ここはひとつルールをゆるめてみて!」
     というモンスター客的発言は、喉の奥に押し留めます。いつか、あの時代の浜田省吾のように、純白のメルセデスに乗って最高の女とベッドでドンペリニオン舐めるくらいサクセスしたら、この温泉宿のいちばん値の張る部屋に泊まって、湯舟のヘリからザブザブ湯を溢れさせながら浸かりまくって、べふ峡温泉を見返してやる!と無駄に発奮します。
     お兄さんからは「高知市方面に向かっていくと、この先は何十キロも何もないですよ」と助言をいただきます。ううむ、それくらいで絶望はせぬぞ。ジャーニーランの最中に、地元の方に道を尋ねる場面では、この類のアドバイスはよく受けるものです。「ここから先は何もないよ」と。それって時速60キロのドライバー目線なんですよ。運転席から眺めたら「何もない」という認識であっても、ドン亀ランナーのスピード感なら、集落のない無人地帯といえども、休憩できるベンチや自販機は点在しているものです。

    【7日目/四ツ足峠517km~高知市高知城599km】
     温泉滞在わずか3分で、奥物部渓谷に沿って伸びる道へと再び走りだします。夜の霧雨はいっそう冷たく感じられます。
     そして温泉お兄さんの情報が脚色のない事実だったとわかるまでには、常夜灯のない漆黒の闇とトンネルが繰り返す無人の道を20kmほど進まねばなりませんでした。途中、掘っ立て小屋は2つありました。壊れた壁の隙間からヘッドランプの光をかざして中を覗き込むと、足の踏み場もないガラクタの山。何年間も人の手が加えられてないのは明らかです。一面に埃が積もっており、横になれそうなスペースはありません。こんな「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいな小屋には一刻足りとも滞在できません。
     深夜0時を過ぎる頃には、衰弱ぶりがいっそうひどくなってきました。雨に濡れたシャツやランパンは、谷底に充満する湿気のためかいつまでも乾くことがありません。凍てつく風が、氷のようにカチコチの皮膚の表面から、奪いようのない体温を更にもぎ取ろうとします。血液や内臓までフリーザー漬けになっているようです。脳みそが活動を停止させようと睡魔の波状攻撃を仕掛けてきます。歩きながら夢を見ては、ハッと目覚めると車道の真ん中を歩いていて、アブナイ状態にあることを自覚します。1時間に2kmも進まなくなっています。歩いても歩いても、どこにもたどり着かない気がしてきます。
     ようやく小さな集落が現れます。村人の休憩所のような小屋の壁に、大きめの段ボール箱が畳まれた格好で立てかけられていました。ちょっと拝借して、箱を組みたてると、人間が座って入れるほどの広さでした。中に入って上ブタを閉め、箱の底で猫のように丸くなります。温泉を出てから5、6時間というもの腰を下ろせる場所すらなく深く安堵します。五十歳も過ぎて、路ばたの泥だらけの箱の中で、安心した気持ちになるなんて、安部公房の「箱男」レベルのシュールさです。この先の人生を暗示しているかのようです。
         □
     どんなに長い夜もいつかは明けるものです。朝方には人の匂いがする下界へと近づいてきました。香美市物部町(542km)の広々とした公共パーキングにログハウス風の公衆トイレがあり、その前の木製ベンチに温かそうな朝の光が差しています。ベンチに横になった瞬間、眠り込んでしまいました。
     目覚めると時計が2時間も進んでいます。完走可能なペースから、まる24時間遅れてしまいました。スマホでレース状況を確認すると、完走ペースで進んでいる方々は、56km先の高知市で仮眠を終え、愛媛県境を目指して走りだしていました。もうこの辺りであきらめた方がいいのだろう、と思いました。どんなに頑張っても、決められた最終時刻までにはゴールの松山市にはたどり着けそうにありません。
     黄金連休真っただ中の「やなせたかし記念館」(554km)には、駐車場に列ができるほど大勢の観光客で賑わっています。国道沿いに設けられた食堂には屋外に東屋がしつらえられています。食券で買い求めるメニューは、朝の和定食と洋食の二択でした。五月の爽やかな風が吹き抜ける東屋の下で、旅館の朝ごはんのような充実した朝定食をついばみます。心はすっかり戦線離脱モードになりました。シューズとソックスを脱ぐと、ほぼ全部の指の腹に水ぶくれができています。ジャーニーランに慣れたここ数年は、何百キロと走ってもマメができることはなかったのですが、今回はよほど走り方がヒドかったのでしょう。
     主催者の河内さんにリタイアする旨の電話を入れると「すぐに行く」と返事があり、数分後に飛んできてくれました。
     次のチェックポイントである高知城(599km)まであと45kmなので「そこまで走って終わりにします」と告げます。巡回車に預けてあった荷物を高知駅のコインロッカーに入れておくよう、河内さんが段取りをしてくれます。スタートしてからここまで7日間、お世話になりっ放しです。何のへんてつもない四国の道に、難攻不落のテーマと世界を創ってくれてありがとう。
     リタイアを宣言してしまうと、走る気力は露ほども残っていませんでした・・・と続けたい所ですが、さっきまでの「あと200km以上ある」という重圧が「あと45kmしか走らなくていい」に代わると、脚がガンガン回りだしました。キロ6分を切る猛烈ペースで爆走がはじまりました。羽毛のように軽くなった身体が空中に浮かびます。
     そんな自分にあきれ返ります。ついさっきまでの真夜中は「マジで限界やし」「もう一歩も進めんし」と何百回も口に出して(誰も聞いてないのでけっこうな大声で叫んでました)いた割に、限界なんてどこにも来てなかったのです。治るまで何週間もかかるだろうと思っていた両足裏の激痛は、今は蚊に刺されたほどにも感じません。
     「限界は脳が決める」とはマラソン業界で当たり前のように流布されている金言です。人間の脳は、肉体の限界のはるか手前の段階で、さっさと危険シグナルを出して身体活動を停止させようとするそうなのです。
     「なんだよ。こんなペースで走れるなら、半日後には先頭集団に追いつけたんじゃね?」とアドレナリンの海に浮かぶ脳が調子よく考えます。
     路面電車の終点である後免駅を経て、桂浜へと向かいます。リタイア申告後の30kmを3時間でカバーし(600kmを前に、100kmサブテンペース!)、太平洋岸に延びる黒潮ロードに達すると、踵を返して高知市へと向かう通行量の多い道にさしかかりました。そして、ふいに全細胞から燃料が切れました。身体のどこにも力が入りません。浮遊霊のごとくふわふわと左右に揺れます。
     脳とはややこしい物体です。「本当は限界が来ていたのに、快楽物質やら闘争ホルモンやらを放出して、限界なんてないんだと思い込ませた。けど、脳内ドーピングが尽きるとやっぱし限界だった」のややこしい三段論法攻めです。
     夕暮れの頃に、路面電車が行き交う高知市の繁華街に入りました。交差点で赤信号に当たるたびに歩道のコンクリートブロックに腰を掛けます。ロダンの「考える人」のポーズで地面を見つめますが、考える能力はゼロです。信号が青に変わっても動けません。また赤になり青になってもそのままです。
     座り込んでいる僕に「だいぶお疲れのようですが、大丈夫ですか」と声をかけてくれた人は、六十年輩の男性です。仕立てのいいスーツを着ています。黄金週間中なのに会社帰りなのでしょうか。
     通りがかりのお方に余計な心配をかけないように、膝に両手をあてがってオリャと立ち上がります。スーツの紳士が並んで歩いてくれます。7日前のスタートから、ここに至るまでの経緯を話しながら、1kmほどの道のりをともにします。
     足元もおぼつかない得体の知れない人間に声を掛けて、終始へんてこりんな身の上話にふむふむと耳を傾けてくれる。高知にはずいぶん親切な人がいるものです。企業か役所の管理職然とした紳士は、僕が今晩の宿を確保できているのかどうかを憂慮しつつ、去り際に「私もジョギング再開しようかな」と小さくつぶやき、革靴の底を鳴らして颯爽と帯屋町(中心商店街)方面へと消えていきました。
     夜8時すぎ、白く光る高知城下の天守閣のたもとに着きました。お堀端に点々と灯された紅いボンボリが、冥界への誘いに思えます。愛媛県宇和島市よりここまで599km、パンツをはいたまま脱糞したり、デイリー新聞巻きつけてミイラになったりと、哀れな出来事がありましたが、終わってみれば楽しい旅でした。
     標高44メートルの天守へは、無料貸出していた杖にすがりつきながら石段を登り、膝をカクカク震わせながら下ります。脳の安全ストッパーによる擬似的な限界じゃなくて、ホンモノの限界がきてます。ここから先186kmなんて、とてもじゃないけど進めません。
          □
     「四国一周おおもりオールナイトマラニック」は2019年4月から5月にかけて開催されました。12名の出場者のうち4名の方が、8日間の制限時間内に全行程785kmを完走されました。この強き4人に対しては、称賛を超えて憧れを抱きます。リタイアされた方々も精魂尽きるまで粘られたと聞きました。
     今後このレースは2年に1度開催されるようですが、確かな情報ではありません。またいつか出てみようかな。とても完走は無理かな。
     そして。この大会への参戦を願いながら急逝された大森信也さん、そっちでもまだ走っておられるのでしょうか。完走して大森さんにいい所を見せないといけないのに、いつものごとくダメダメっぷりを発揮してしまいました。天国からいつもの優しい目で笑いかけてくれているようでいて、キリッと真剣な目に変わって「完走するまで挑戦すればいいさ!」と励まされそうでもいてヤバいな・・・。

  • 2019年10月15日バカロードその137 史上最長のレースその2 救いの紙

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=「四国おおもりオールナイトマラニック」は、四国4県をめぐる総距離785km、制限時間8日間のノンストップレース。愛媛県宇和島市を出発し3日目の夜、290km地点の観音寺市に入ったものの、疲労と睡眠不足の果てに理性が崩壊しはじめ、ウンチとオシッコを同時に漏らしてしまう・・・何なんだろねこの説明。すみません)

    【4日目/観音寺市290km~三頭峠358km】
     丸亀駅前の安ホテルで早朝起床。始発電車に乗って、昨夜走るのを中止した観音寺駅へ引き返します。アタマが錯乱した挙げ句、ウンチを漏らした道の駅ことひき近くの公衆トイレに戻り戦線に復帰します。
     他のランナーの居場所情報がメールで届きました。先頭を行く選手は、すでに60kmも先にいて、徳島県境を目前にしています。昨夜時点では10~15kmほどの差だったのに、ホテルで寝て電車移動している間に、途方もない距離を開けられてしまいました。
     大会ルールでは、先頭選手から100km以上離されると、巡回している主催者の車に乗せられ、100km先まで強制ワープさせられる事になっています。今夜は睡眠時間をゼロにして前を追っかけないと、たちまち100kmくらいの差はついてしまいそうです。
     善通寺市を経て、丸亀国際ハーフで何度も訪れたことのある陸上競技場より方向転換し、丸亀市中心部へと続く直線道路に出ます。
     視界のいちばん奥に、こんもりと緑に覆われた丘と、頂にある白い天守閣が見え隠れしはじめます。ようやく丸亀城にやってきた・・・と、感慨にふけっていると油断が生じました。アスファルトのほんのわずかな亀裂につま先が引っ掛かり、スピードを乗せて走っていたため派手にすっ転びました。受け身は取れたものの、膝頭がざっくり切れ、血がしたたり落ちています。パカッと開いた傷口には、油ぎったアスファルトの欠片が何個もめり込んでいて、水洗いとか消毒をした方がいいんだろうけど、見るのも触るのも怖いので、何もなかったことにして、何もしないことに決めました。
     「高さ日本一の石垣」を謳う丸亀城(316km地点)の城壁は、四段の石垣を立体的に重ねています。そのため見た目の高度感は抜群ですが、天守閣のある広場は標高66mとそう高くはありません。観光客で溢れてそうな正面入口はパスして、南側の裏口っぽい門から入城し、スロープ坂を登るとあっけなく本丸広場に達しました。見晴らしはいいけど、のんびりしていられる時間はありません。すぐに踵を返し、次のチェックポイントである金刀比羅宮へと向かいます。
     丸亀から琴平まではわずか14kmと至近距離です。ふだん車で移動しているとわからないものですが、自分の脚で走ればそれぞれの街の距離感がつかめます。2つの街を結ぶ広いバイパス道には、車道を何本も取れそうな幅広の歩道が続きます。歩行者の足に優しいクッション性のある路面が採用されており助かりますが、ふだん誰も歩いてなさそうな場所に、謎めいた公共投資です。
     金刀比羅宮では本宮までの785段の石段を登ります。こんぴらさんに何か願い事をしたいわけじゃないですよ。それがこの大会のオキテです。とにかく山の上にある史跡にはすべて登るべし!なのです。
     めでたくと言うか生憎と言うか、本日は令和元年の初日とあって、人波が石段を埋め尽くしています。肩が触れあうほどの密集度です。参拝客たちは手にしたソフトクリームをぺろぺろ舐め回し、袋入りのレモネードをちゅうちゅう啜って、令和初日の浮き立つ気持ちをスイーツに投影しています。一方の僕は、石段を真っ直ぐ登れる筋力が太腿に残っておらず、右に左にとふらついては通行者に眉をしかめられます。本宮にたどりつくと賽銭箱の前には100人ほどの行列ができていて、神頼みするテーマもないので参拝はあきらめます。
     展望台からは、琴平の街とその背後にこれから向かう阿讃山脈の屏風のような連なりが見えます。西の空がオレンジ色に色づいています。さてさて、28km先の徳島県境・三頭峠(標高479m)トンネルを目指しますかぁと石段を駆け下ります。
     観光客でごった返す表参道とアーケード街を抜けると、石畳の門前街を歩く人は誰もいなくなりました。歩き参拝客が中心だった昭和の頃までは、この道もさぞや賑わっていたんだろうな。
     コースは馴染み深い国道438号線に合流し、讃岐まんのう公園前から美合渓谷へとさしかかります。日はとっぷり暮れています。当初予定では県境手前の「道の駅エピアみかど」の温泉で身体を洗い、畳敷の大広間で仮眠をとる計画でしたが、とうに営業時間は終わっています。山峡の寒さがひたひたと迫り、自販機でホットコーヒーを2本買ってシャツの腹の所でくるみ、トイレの隅にうずくまってコーヒー熱で体温を上げようと試みますが、いっこうに暖かくはなりません。
     深夜12時近く、県境の三頭トンネルを抜けて徳島県に入りました。スタートから358km、4日目の一日が終わりました。

    【5日目/三頭峠358km~那賀町もみじ川温泉466km】
     日付が変わっても、今夜は眠ることは許されません。寝たら(たぶん)強制ワープ対象となり、完走の夢は潰えます。またまた情報が入り、先頭をゆくランナーらは徳島市に入っているとのこと。昨日の朝方と変わらず60kmの差です。ただし先行選手たちは、徳島市内のネットカフェやスーパー銭湯で仮眠を取る予定だとか。距離を詰めるには彼らが寝ている今夜しかありません。
     もはや脚に力はなく、三頭峠の長い坂を重力の惰性のままに下っていると、闇の中から3人の人影が現れました。顔見知りのウルトラランナーの方々です。当大会のコースを車で逆走しながら、選手たちを応援しているのだそう。1時間に1人くらいしかやってこないはずのランナーを探しながらです。徳島市内からこんな遠い山中まで、ありがたやです。車の荷台からたくさんの手づくり料理を出してくれます。冷めないように保温してくれていた塩おむすびが美味しい! 昨日一日、ひとかけらの食料も口にすることなく走っていたことに気づきました。たくさん運動しても、案外お腹って空かないもんなんですね。
     さて、2日前からどの選手とも遭遇しませんでしたが、ついに目撃しました。しかしその人は、三頭峠を下りきった所にあるコインランドリーのベンチで死体のように倒れていました。顔はジャージで覆われていて見えないし、起こすわけにもいきません。窓の外から覗き込んだだけで通り過ぎます。そして、脇町の中心商店街のコインランドリーでも別の選手が丸まって眠っていました。
     ジャーニーランでは、夜中に1時間ほどの仮眠を取るのはよくある事です。しかし体力に余裕があって惰眠を貪っている人と、限界の極致にある人では醸し出す雰囲気が違います。このお2人は、ちょっと再生不能なくらい衰弱しているように見えました(実際そのあとでリタイアされたようです)。
     阿波市から岩津橋を通って吉野川を渡り国道192号線へと移ります。次のチェックポイント徳島城跡までわずか35kmほどなのに、果てしなく遠く感じます。強烈な睡魔がやってきては、堤防の草むらで仰向けになったり(草がびしょびしょで最悪)、三角座りをして歩道のガードレールに背中を預けます(自転車のオッサンがびっくり)が、寒気が強くて眠れません。
     川島、鴨島あたりの記憶は飛んでいます。眠りながら走っていたんだと思います。長い夜がようやく明けると、石井町のバス停のベンチに朝の光が射し込んでいました。暖ったかそうでつい腰をかけると、そのままのポーズで眠ってしまいました。「いけるでー」という声で目を覚ますと、乳母車を押したおばあさんがこちらを見つめています。死んでいるのかと思ったそうです。たいそう身の上を心配してくれました。
     寒い夜が終われば、元気は復活します。車が激しく行き交う国道192号線の上に5月の澄んだ青空が広がっていて、鮎喰川の奥にはなだらかな稜線を描く眉山が優しく横たわっています。沿道の並木は若々しい新緑の葉を湛え、太陽の光をかざすと瑞々しいグリーンを輝かせます。嫌ってほど見知っているはずの徳島が、400km走るという行為を経ると初めて訪れた街のように感じられ、まるで違った様子で目に写ります。
     正午すぎに徳島城公園(414km)に着き、お城の近くにある職場に停めてあったバイクに乗って自宅に戻ります。途中、吉野家に寄り道して、牛丼特盛をテイクアウトします。家に着くやいなやシャツやパンツやシューズやリュックをドバドバ洗濯機に放り込み、シャワーを無心に浴びて、ヘッドランプの電池を入れ替えたりこまごまと出発に必要な準備をし、洗ったウエアをベランダに干したら、牛丼特盛をビールで流し込んで、布団に潜り込みます。3時間眠ってから徳島城に戻り、夕方4時には走りを再開しました。
     かちどき橋から論田、小松島を経て立江の旧街道に入ったあたりで日没。無性に塩気が欲しくなり、灯りの点いた商店に飛び込んでサッポロポテトや駄菓子を3袋買い、バリバリかじりながら走ります。
     加茂谷橋を渡って那賀川を越え、旧鷲敷へと山越えする峠道にさしかかると冷たい強風が正面から吹きつけだして、寒くて寒くて心が折れてきます。街灯のないくねくね夜道は果てることなく続きますが、もちろん終わりはあります。国道195号線に突き当り、道の駅わじき(446km)からは民家が点在しはじめました。丹生谷の底は冷気に満ちていて、これだけ人の気配のある場所なのにどこにも休憩できそうな場所が見当たらないことが、辛さに拍車をかけます。期待した旧鷲敷の市街地にも暖を取れる場所はなく・・・コンビニの休憩スペースは終了し、コインランドリーは施錠され、バス停は吹きっさらしと空振りが続き、あっけなく商店街は終わりを告げました。そしてまた街灯のない森の中の道がはじまります。

    【6日目/もみじ川温泉466km~四ツ足峠517km】
     5回めの夜明けは、朝霧もやる川口ダム湖の奥にようやく見えたもみじ川温泉(466km)前で迎えました。ここも予定では入浴して仮眠を取るポイントとして設定していましたが、開館前で利用できません。あらかじめ組み立てた予定と、実際の行程が後ろに半日ずれてしまっているために、あちこちの温泉施設への到着はことごとく営業時間外で、昼間に睡眠を取りながら進むという甘い目論見は外れっ放しです。
     旧上那賀町の中心街は、那賀川が刻む深い谷の上辺にへばりつくように高層の病院や集合住宅が建っています。街外れの商店に入ると、こんな山の中の店であるにも関わらず、ハマチやブリなど海獲れの魚が保冷氷の上にずらっと並んでいます。
     値札ラベルに自家製と書かれた白身魚の握り寿司と焼き鳥を選びました。レジをしてくれるおばちゃんが「これも持っていきよー」とお菓子やドーナツをポイポイと袋に放り込んでくれます。四ツ足峠まで走っていくと言うと「(木頭の)北川まで車で行くんも遠いのに気の毒な・・・」と気をもみ、店の外まで出て見送ってくれました。
     道ばたに座り込んでつまんだ白身魚寿司の分厚く弾力に富んだネタは、甘みに溢れ、柚子酢がキュッと効いていて、脳内快楽物質が爆発するほどの美味さです。わが人生でこれ以上の鮨を食ったことがあるだろうか? ないと思います。
     木頭の歩危峡の手前で、大会主催者の河内さんが車で追いついてくれ、ガスコンロにフライパンを乗せて肉入り焼きそばを作ってくれました。先頭から最後尾まで120km以上は開いているとのこと。その間にいるすべてのランナーの世話を焼きながら、前へ後ろへと移動しているようです。ほとんど眠ってないんだろうな、瞼をぽてっと腫らしています。それでも40kmほど後ろにいる最後尾ランナーが「ぜんぜんあきらめる気がないんよー」と愉快げに話してくれます。どうやら、先頭から100km離されたら強制ワープルールはご愛嬌だったらしく、「本人があきらめないかぎり収容せず走らせる」という方針のようです。いや、それどころか「○○さんからリタイアするって電話があったけど、まだアカン、もっと走ってみてって断った」と、リタイアすら認めない方針のようである。うーむ、怖い。
            □
     木頭の商店街(502km)を抜け、高知県境の四ツ足峠へと続くだらだら坂を登っていると、ゴロゴロと絵本の効果音のような雷鳴が近づいてきます。小雨がポツポツと地面に黒点を描きはじめます。灰色の雲が低空まで降りてきて、狭い空を絵巻物のように通り過ぎます。数分後、小雨は一気に滝雨と化しました。強雨のことを「滝のよう」と比喩する事は多いですが、実際は本物の滝ほどではありません。しかしこの雨は本当に滝みたいです。アスファルトに叩きつけられた大粒の雨は王冠を作って跳ね上がり、地表を白い霧状に覆っていきます。枝分かれした稲光が上から左右から空を切り裂くと、数秒後にはドーンという落雷音が森と地面を揺らします。
     全身びしょ濡れなのは仕方ないとして、日没が迫っている今、この荒れまくりの天候のなかを、15キロも彼方の四ツ足峠へと足を踏み入れるべきなのか。この先に雨宿りできる集落があるかどうかもわかりません。
     深く刻まれた谷あいの、那賀川の激流が立てる轟音の縁に、一軒の新聞販売店の建物が見えてきました。地獄の底で、天から垂らされた蜘蛛の糸のように思えました。軒先に逃げ込みます。雨を直接浴びないだけでずいぶん助けられます。でも強い風を遮ってくれる壁や屋根はなく、横殴りに降り込む雨のために乾いた床面はありません。活動を停止すると急速に寒さが増し、がたがた震えがやってきます。
     軒下にある新聞スタンドに何紙かの新聞が差され、料金を小銭箱に入れると購入できるようになっています。新聞紙一枚でも防寒の足しになるものがほしい・・・。販売している4紙のうち一番分厚いページ数のデイリー新聞を選び、代金を箱に入れます。新聞の束を3つに分け、ひとつをシャツの中に入れて胴回りに巻きつけます。別の束を肩から蓑のように被り、下半身にもスカート状に巻きつけてみます。壁に背中をぴったりつけて三角座りになり、ひたすら雨が降り止むのを待ちます。
     通り雨であることを願って空を見上げますが、稲妻と雷鳴はますますひどく、軒先から垂れる雨粒が風にあおられて吹きかかり、身体に巻きつけた新聞紙を濡らしていきます。それでも短パン、半袖シャツにそのまま風雨が当たるよりはよほどマシです。
     だんだんと夜の帳が下りてきます。空を覆う雲はますますドス黒く、叩きつける雨音に谷底は支配され、誰に助けを求めるわけでもないんだけど、スマホが圧倒的な「圏外」を示していることが絶望感を高めます。誰も見てない、誰も知らない場所で、デイリー新聞にくるまりながら、なすすべもなく追い込まれている自分って何なんだろ。 (つづく)

  • 2019年09月11日バカロードその136 史上最長のレースその1 理性のタガ

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     「四国おおもりオールナイトマラニック」は、今年の黄金連休に初めて開催されました。四国4県をめぐる総距離785km、制限時間8日間のノンストップレースは、国内ウルトラレース史上最長距離だと思われます。
     結末を最初に言ってしまうのはレース紀行文としてバカポンタンですが、785kmには程遠い599km地点でギブアップしました。事実を先に明かしておけば、今後の出場(2年に1度開催との噂)を検討している方にいらぬ期待を抱かせずにすみます。参考資料とはなりませんのであしからずです。

     ゴールまで残した距離は186km。あとちょっとな気もしますが、もうどんなに頑張ってもムリぃー!って感じで撤退しました。だから、当レースのうち最も過酷で、ハイライトシーンとなるはずの最終盤186km分の説明はありません。あらかじめご了承ください。
        □
    【1日目/宇和島市スタート~大佐礼峠106km】
     レースの起点は愛媛県の宇和島市です。徳島からの高速バスを松山市駅で降り、宇和島市行きの路線バスに乗りかえます。松山市駅での乗り継ぎ時間が1分しかなくて、停車場から乗車場まで全力ダッシュしてギリ間に合いました。徳島から宇和島まで乗車5時間、四国の真反対側まで大横断したと考えれば、かかる時間も短く感じられます。
     宇和島駅前の安宿で一泊。翌朝、大会ボランティアの方が乗用車で迎えにきてくれました。スタート地点となる津島町岩松という街は、駅から南へ14kmほど下った所にあります。
     タイムスリップ感のある商店街の一角が出発会場となっています。松山城下をゴールとする全行程785kmに挑戦する12人と、330km地点の金刀比羅宮をゴールとする方々がにこやかに談笑しています。緊張感なく「ぼちぼちいきましょか」という感じでスタートを切りました。
     ゆっくり進むつもりでしたが、皆さんのペースが速くて置いていかれないようついていきます。キロ6分ペースです。おーい、今から785kmも走るのにこんな調子で行くんですかあ、と心で叫びます。いやはや、この先が思いやられます。朝、送迎してくれた宇和島市街までの14kmを1時間半ほどで帰ってきてしまいました。
     1つめのチェックポイントである宇和島城の急階段を登ります。天守の標高は74m。自然石造りの石段は急峻で、駆け上がれはしません。このレースでは、四国内の現存天守や城跡のある八城(宇和島、大洲、松山、今治、川之江、丸亀、徳島、高知)の天守閣の前でスマホ撮影し、主催者にメールで画像を送信したり、フェイスブックにアップして通過を証明します。あと、6時間おきに自分のいる位置を送信する義務があります。行方知れずにならないためですね。
     1コ目のお城の登り下りで、すでに太ももは悲鳴をあげています。宇和島市街を抜けると、宇和海のヘリに出ます。峠と入江を繰り返すリアス式海岸をエッサホイサと登り降りします。ってーか、このコース設定、ひたすら坂道一択です。鳥坂峠(49km地点、標高315m)の手前で、道路工事中のおじさんに話しかけられ「気をつけて行ってこいよ!」とチャーミングな笑顔で見送られました。黄金連休のさなか、ごくろうさまです。笑ったおじさん、前歯が2本しかなかったです。
     次なる目標地点の大洲城(58km地点)までは、久保さんという強いランナーの方と並走しました。走ることが本当に好きで、ジャーニーランをこよなく楽しんでいるのが伝わってくる人です。「痛い、寒い、眠い」とブツブツ文句たれっぱなしの僕とは、精神のステージが何段も違います。8日後、久保さんはこの大会4人しかいない完走者の1人となりました。やっぱし大切なのは「心」なのです。侍ハードラー・為末大の著書でも読んで、人生を一からやり直したいです。
     家々の外壁に水害の爪痕が残る大洲市街を抜け、標高25mの大洲城を登ります。宇和島城と違って足腰にやさしいスロープ状の坂でした。
     日がとっぷり暮れた頃に、女子旅の聖地とされるレトロタウン内子(70km)の旧街道を抜けます。その後、指定されたコースは四国の外周ではなくなぜか内陸へ内陸へと向かいます。
     谷間の底にある「道の駅 小田の郷せせらぎ」に着いたのは夜8時すぎ。ここまでの90kmに10時間30分ほどかかりました。あれこれ道草したり、道ばたに座り込んでお菓子を食べたりしてた割には、早い到着となりました。
     道の駅で到着を待ち構えてくれていたレース主催者の河内さんのワゴン車に5分ほど乗せられ、古民家を改装した宿泊施設「京の森」に運ばれます。ここでは食事や仮眠室を用意してくれています。宿のご主人に「薪で沸かした」という温かいシャワーを薦められ、遠慮なく使わせてもらいました。畳の部屋でちょっとだけ仮眠しようと試みましたが、初日の夜ということもあり、眠りに落ちるほど衰弱してなくて、目が冴えわたっていて眠れません。ありがたくカップ麺と河内さんお手製の焼き鳥を堪能した後に、深夜の峠道へと踵を返しました。
        □
    【2日目/大佐礼峠106km~今治市201km】
     標高556mの大佐礼峠(106km地点)は、霧雨やガスに覆われて真っ白です。急坂すぎて歩きだしてしまいました。歩きだと距離が稼げなくなります。1時間に3、4kmしか進みません。走れている時は体調も気分も良かったのに、ずどんと重い疲労がのしかかってきます。峠道を下りきって海沿いの双海町(125km地点)に出た頃には、ふらふらになってました。毎度そうなんですが、2晩以上の徹夜レースでは初日の夜越えがいちばん苦しく感じます。何日間もぶっ通しで走るという異常な世界に慣れる前の「ふだんの自分」と、幻覚や幻聴をBGM代わりにしてしまう「イカれた自分」との境界線の手前にいるからです。
     伊予市街手前で標高差100mほどの峠道にさしかかります。ゆるい登りですが走る気力が湧かず、ひたすら歩きます。伊予市から松山城まで15kmほどが果てしなく遠く感じられます。
     松山城(151km地点)に着いたのはお昼前。ここまで26時間もかかっています。遅いです。ゴールデンウィーク真っ盛りの松山城は、観光客の人波が途切れません。標高132mの天守まではリフトやロープウェイのゴンドラを仰ぎ見る格好で坂道を行きます。足をぶらぶらさせて暇そうにリフトに乗っている観光客を睨みつけながらヒイコラ登ります。天守前の広場に着くと、売店でいよかんソフトクリームを買い、木陰のベンチに寝そべったままナメナメします。とても行儀が悪いです。
     松山市街からは50km先の今治市へと北上します。「愛媛マラソン」のコースをなぞる広いバイパス道に出ると、雨足が強くなってきました。荷物を最小限にするため雨具や防寒具は持ち合わせていません。コンビニでビニル傘を買い、差したまま走ります。500円のビニル傘は想定外に大きく頑丈な作りで、風をはらむと身体ごと持っていかれそうになります。
     吹きっさらしの伊予灘沿いに出ると風雨をさえぎる物なく、傘をナナメ差しにして踏ん張ります。スタートから200km地点の今治市街に着くまで、雨は降り止みませんでした。今治港の近くに1泊3500円の安宿が確保できたので、今夜は天井のある所で安眠できます。
     夜8時すぎに宿にチェックインしました。服を来たままシャワーを浴び、髪の毛でたてたシャンプーの泡をシャツとパンツになすりつけ、入浴と洗濯を同時に済ませます。ウェア類は手絞りした後でバスタオルで三重にくるみ、青竹踏みの要領でコネコネと足踏みすると水気が9割方取れます。人力脱水した服は、浴室のポールにポイッと掛けておけば、出発前には乾いているはずです。
     それから食事を取ろうとしましたが、フロントで聞くと徒歩圏内の飲食店はすべて閉まっていて、ドラッグストアが1軒あるだけとのこと。選択の余地なくドラッグストアに入ると、弁当やおにぎりなどごはん物はぜんぶ売り切れていました。仕方なくカップ麺とカップ焼きそばを買い込み、粗挽きウインナーを乗せてむさぼり食いました。
     起きたらすぐ走りを再開できるよう準備を整えてベッドに寝転ぶと、30秒で意識が失くなりました。
        □ 
    【3日目/今治市201km~観音寺市290km】
     目覚めると真夜中の2時すぎです。瞬きしたくらいの時間感覚ですが、就寝から6時間も経っています。熟睡したのか頭はスッキリしています。午前3時にホテルを出て、チェックポイントの今治城に向かいます。今治城は海に近い平坦な場所にあり、お堀に架かる橋を渡ったら天守がすぐそこにありました。今までのお城とは違って階段がなく楽ちんです。
     国道195号線を伊予小松まで24kmほど南下していくうちに夜が明けました。国道11号線につきあたり、香川県方面へと左折します。ひたすら西へ西へと進んでいくと、国道から100mほど南側に遍路道が並行している様子が見え隠れしはじめました。車の通行量が多い国道を離れ、遍路道に移動します。風情のある旧街道は、ふだんはたくさんのお遍路さんが歩いているのでしょうが、雨模様だからか人の姿はほとんど見えません。しょぼ降る雨に濡れた庭木や門塀が静逸な空気を湛えています。
     新居浜市を過ぎ、三島川之江地区の郊外にさしかかると雰囲気が一変します。大王製紙など大工場群の奇々怪々な配管や、高さ200mもある高い煙突が、左右を圧します。激しく行き交う大型トラックは、深い道路の轍にたまった雨水を跳ね上げ、容赦なくバッシャーンと大量の泥水を浴びせかけます。文句を述べる筋合いはありません。運転手さんは平成最後の1日にも関わらず働いている勤労者であって、こっちはフラフラほっつき走っている気楽な徘徊者です。
     日没間近の川之江城(273km地点)の天守からの下り坂にさしかかると、雨がジャンジャン降りになってきました。傘では太刀打ちできない雨量で、カッパを調達して着てみましたが効果はありません。頭から爪先までびしょ濡れです。うー寒い、5月なのにこんなに寒いとは。凍った手足の指先がピリピリ痺れ、腕を抱え込んで懸命に脚を動かしても体温が戻りません。
     緻密に計算したペースよりも3時間ほど遅れています。今夜は50km先の丸亀駅前にビジネスホテルを取っています。深夜11時頃に着く予定だったのですが、このままだと深夜2時を過ぎてしまいそう。
     夜10時頃に、香川県観音寺市街に入りました。ところが撮影ポイントの「道の駅ことひき」にたどり着けないのです。地図では確かにこの辺りにあるはずなのに、見あたりません。道の駅のような目立つ施設が、道路沿いに現れないとはどういうことなんだ? その時は気づいていなかったけど、道の駅が見つけられない時点で、僕のアタマは少しおかしくなっていたのかも知れません。
     パラパラと降りやまない雨が、手に持った紙地図をボロボロにしていきます。同じ道をぐるぐる回っていると、自転車に乗った青年が通りかかりました。
     「この辺に道の駅ってないですか?」と尋ねると、「あっちだと思う」と案内してくれます。さっき通ったばかりの道を500mほど戻りますが、道の駅はありません。親切な青年は、雨に濡れるのも構わずスマホを取り出し地図検索してくれてます。そして「こっちかな」と行ったり戻ったりし、僕は彼の自転車に離されないようダッシュを繰り返します。
     (自分で探した方が早いんだろうな。でも、もういいですって言えんし・・・)と葛藤がはじまります。同じ道を3往復いったり来たりしているうちに、アタマが軽くパニックを起こし始めました。とにかくこの状況から一刻も早く逃げだしたくなり「あっ、ここ前に来たことあります。思い出しました、たぶんこっちです」と青年にウソをつき、お礼を述べまくって、自転車の後を追いかけるのを止めました。
     結局のところ、自分のスマホで位置検索すれば、無理なく道の駅にたどり着けたのです。スタートからここまで3日間、頑なに紙地図オンリーで来たので、GPSを頼るのに抵抗あったんです。いつもながら無意味で無価値なこだわりです。深夜の「道の駅ことひき」は照明一つ着いておらず真っ暗で、松並木の奥にひっそり佇んでいました。
     なんだかドッと疲れが押し寄せてきました。
     さっき感じた小さなパニックの点が、インクの染みのように脳の中に広がっていき、異変が起こりはじめました。
     説明が難しいんですが、極端な自暴自棄というか、淀みに浮かぶうたかた的な「あらゆることがどうでもいい」という液体状の感情が、頭蓋骨の内側に満ちているのです。
     その様子を冷静に観察している自分もいます。「今の自分はヤバい。何をしでかすかわからない。とりあえず今夜は走るのを中断した方がいい」と真っ当な方の自分が判断し、行動を止めさせようとします。
     しかしヤバい方の僕は、かすかな尿意と便意を人質のように捉え、暴走をはじめました。
     公衆トイレに入ると、3メートル先に洋便器があるにも関わらず、「便器までいって座るん面倒くさい、パンツ下ろすん面倒くさい」との圧倒的な自我に支配されます。そして、パンツをはいたまま、やらかしてしまったのです。放尿と脱糞を同時に!
     理性のタガが完全に外れています。一世風靡セピア調のリズムで「ええじゃないかええじゃないか」という奇妙なお囃子が耳の奥で鳴っています。
     いつか自分が「老人」と呼ばれる年齢になり、ズボンをはいたままウンチを漏らす日常を過ごす時も来るでしょう。ヘルパーさんに「ごめんよごめんよ」と侘びながら、泣く泣く漏らすのかなと想像していましたが、意外に攻めの思考回路の果てに漏らすんだなあ。何事も実際やってみないとわからんもんだな・・・と冷静な方の僕が納得しています。 たった290km走っただけで、僕はあっけなく壊れてしまってるんだな。 (つづく)

  • 2019年08月21日バカロードその135 最後の夏のリアル(17歳ムチャ旅シリーズ)

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

     ささくれだった流木、打ち棄てられたコンドームの包装箱、焦げた安花火はヤンキーたちの夜遊びの残渣だ。何物も動く気配のない海開き前の海水浴場。脇の小道をずうっと北の端まで自転車を漕いでいくと、1メートル大の岩が縦横に積み重なる小さな岬につきあたる。岬の背びれをなすのは高さ5メートルほどの岩壁で、タプタプと静かに波打つ海へと舳先を伸ばしている。

     屏風岩のなかで最も垂直に近く、ところどころがオーバーハング状になった一枚の壁に、ぼくはヤモリのようにへばりつき、身動きが取れなくなっていた。
     ほぼ万策は尽きていた。あと右腕が5センチ長ければ、愚かなぼくの体重を支えて余りある立派なホールドに指先が触れる。しかし、身体じゅうの骨と関節を軋ませても、その2センチほどの出っ張りは、下界の苦闘をあざ笑うかのように、天空の方・・・そっぽを向いている。
     握力は秒単位で失せつつある。足元から地面までは4メートルはある。滑落すれば、ヘタすりゃ足首はポキンだ。しかし、このまま干からびたヤモリのごとくズルズル落ちていくよりは、いさぎよく岩を蹴り、飛び立って、大地に大腿骨の一本も捧げよう。
     そう決意した瞬間、60キロの体重を支えていた両の腕は、あっけなく岩から解き放たれた。重力に逆らい拘束されていた身体は、一瞬のうちに自由になった。「ヒョー」という声にもならない息が気管からもれた。宙に浮き、鳥の視界を手にした。そのとき、目に飛び込んできたのは、赤茶けた地上の砂礫ではなく、6月の青い海だった。
     着地と同時にキナ臭さが口の奥に充満した。足首に痛みがあるが、骨折したときの鋭痛はない。しかしブザマなものだ。自分の実力をわきまえてないと、いずれヒドい目に遭うかもな、と舌打ちする。
     足首の熱を冷まそうと、フナムシやヤツデを追い散らしながら水辺まで歩いていき、岩に腰掛けて足を投げだし海にひたすと、ピリリと冷たい刺激が頭の先まで伝わった。
         □
     高校二年の春。シロウト登山の果てに、雪まだ深い剣山で迷走する事態に至ったぼくはいたく反省し、なけなしの小遣いをはたいて登山用具を買い揃え、ロッククライミングやボッカ練習(20kgほどの荷物を背負い急斜面を登る)、緊急露営のシミュレーションに精を出していた。
     某海岸の北側の縁に連なる岩場は、フリークライミングのゲレンデとしては悪くない。クライマーの目に触れてこなかったか、ハーケンやボルトなどの登攀具が打ち込まれた跡がない。過去に誰も登ったことのないルートを初登するのは気持ちの良いものだ。
         □
     海原には幾艘もの小型漁船が浮かび、水平線に薄ぼんやりと伊島の背骨が見える。目前には、海面から20メートルほど迫り出した小島がある。垂直の崖は、船を着岸できる場所を与えず、人間の干渉を拒絶している。むき出しとなった茶褐色の岩場の上部に、こんもりと松の森をたたえている。確か「007ゴールドフィンガー」にもこんなミステリアスな形の島が登場したはずだ。
     滑落直後のぼくは、自虐的な気分に傾倒しつつあり、そのアポロチョコ型をした小島の頂上に立ちたいという欲望から逃れられなくなった。島まで目測で三~四百メートル。波は穏やかだが、潮の流れがあるかもしれない。小島の手前には、ゴジラの背に似たギザギサの岩礁が、ぼくを島へ誘うように数個、列をなしている。
     人目を気にしながら・・・といっても周囲には人っ子ひとりいないのだが、自殺志願者と勘違いされないように堂々とハーネスのTシャツを脱ぎ捨て(ぼくは18歳になるまでヘインズをハーネスと読み間違えていた)、体育の授業用の青い短パンの腰紐をビッチリ締め直した。
     海水は冷たく、老人が行水するみたいにちびりちびりと心臓のあたりにかけ水をしながら沖へと進んだ。波しぶきが顔を濡らすまでは背伸びして歩き、いよいよ足の指先が海底に届かなくなると、クロールで泳ぎだした。
     波は立っていないが、うねりは想像以上に大きい。海水を飲み込んでは激しくむせ、鼻の奥がキューンと痛んだ。頭の奥でビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」が静かに流れる。誰にも相手にされない「馬鹿な男」は、毎日丘の上に立って、世界が回転しているようすを見つめているって寓話。
     正面に島を補足しながらクロールを繰り返し、うねりの上下動に身をまかせていると、不思議と真夏の海を泳いでいるような温かい感触に全身が包まれていった。息継ぎのたびに、空の青が目に染みた。
     島はなかなか近づいてこず、見た目以上に距離があることを知る。ガタガタ震えるほど体温が下がる頃になっても、手前の岩礁にたどりつくのが精一杯であった。
     それから夏が来るまでに、ぼくは何度もその小島を目指し、到達できずに力つきては、途中で引き返した。
     ぼくは何を目指していたのだろう。
            □
     夏前には同級生たちの進路希望は大筋かたまり、彼らは模試結果の志望校判定に一喜一憂したり、就職先を決めるために進路指導室に入り浸ったりしていた。
     ぼくは、自分が何がしたいのかよくわからなかった。何カ月か先に自分は高校生ではなくなり、社会に出るためのいずれかのレールに乗るのだという実感が、いつまで経っても得られなかった。
     その夏は特に暑かった。ジリジリと照りつける太陽には、地上のあらゆる物を溶かそうという邪悪な意思があるように思えた。蒸しかえる空気には、自分の進路を決められない17歳を、さらに怠惰な気分にさせる微粒子が含まれているようだった。
     徳島大学前の小さな山道具屋「リュックサック」で、イタリア製の登山靴を1万6千円もの大枚をはたいて買った。氷雪登攀用のアイゼンが装着できる本気のヤツだ。毎朝、靴底ブ厚いそいつをボコボコ鳴らしながら、高校までの片道9キロの道を走るのを日課にした。摂氏30度を超える炎天下、木陰のない堤防上の砂利道を、砂塵を上げながら走った。もうもうと舞う砂煙を鼻の奥まで吸いこみ、奥歯でジャリジャリと砂を噛みしめた。

     その夏から逃げ出すために、ぼくは走り続けていた。

     夏休みに入ってすぐ、鈍行列車を乗り継いで、北アルプスへ出かけた。
     阿南駅発の始発に乗りこみ、高松港より宇高連絡船を経由して本州に渡り、宇野駅から何度も列車を乗り換えた。岐阜県の高山駅に着いたのは深夜に近かった。旅程が1日で収まり「青春18きっぷ」の1枚分で済んだので、片道二千円の安旅だ。駅舎のベンチで夜をあかし、朝一番のバスで今回の登山基地となる「新穂高」へと向かった。
     7月下旬という夏山の最盛期にも関わらず、新穂高のバス停から槍ヶ岳へと伸びる登山道に人の気配はなかった。初めて登る三千メートル級の岩峰へと続く道を、黙々と、少しの休憩もとらずに、ひたすら歩いた。いくつかの沢を渡り、そのたびに冷たい山水をガブ飲みし、シャツが濡れるのも構わずに大げさに顔を洗った。
     標高二千メートルを超えると、確かにそこは不穏な熱気と排気ガスまみれの下界とは別天地であった。天を圧する岩峰の連なりの下で、矮小なぼくの存在など、苔むす花崗岩の下に住むアオガエルにも劣るのであった。
     稜線にわずかに現れた白いガスの影は、みるみるうちに巨大なビルディングほどの塊に化けると、下降気流に押されて斜面を駆け下り、数分後にはぼくを覆い尽くし、視界を白く塗り替えた。自分のつま先より先は白一色の世界。これが山岳小説によく出てくるホワイトアウトってやつだな。
     ガスに切れ目が生じ、その奥に槍ヶ岳の威容が浮かんだとき、その感動的な光景に見とれるほどの余裕を、ぼくは失くしていた。広大なカールを描く、モレーン状のガレ場に迷い込み、無数の小さな岩のカケラに足下をすくわれて、このまま蟻地獄のように谷底まで滑り落ちていくのではないかとアセっていた。落石雪崩を起こさないよう、自分が滑落しないよう、蟻の歩みで高度を稼いでいった。
     頂上に近い「肩の小屋」に着くと、山小屋やテントサイトが密集する狭い空間に、数百人もの登山客がひしめきあっていた。ここまでの道でほとんど登山客の姿を見かけなかったのに、みな反対側のルートから登って来たのか。
     親子連れで訪れたのだろうか、子供たちが歓声を上げながらそこらじゅうを走りまわっている。かたや酔っぱらいとおぼしき大学生グループが、猥談に花を咲かせている。ここは下界そのものであった。
     山小屋の受付で場所代を払い、テントエリアの隅に一人用のツェルト(簡易テント)を張った。日没近くになってもテントの外は騒がしかった。山小屋で売っていた何百円もする缶ビールを飲み、ポケットに押し込んでいた「キャメル」の煙草を吸った。両方ともあまり美味しくはなかった。
     翌日は奥穂高岳まで三千メートルの稜線を縦走し、穂高岳山荘前でテント泊をした。明け方、生まれて初めて見る雲海と、朝日に染まる残雪が美しかった。次の日には前穂高岳を経由して、上高地までの長い下り坂を駆けるように下山した。雄大な北アルプスの景観はただ後ろに過ぎ去るためのものであった。眼下に近づきつつある上高地からは、吹き上がる風に混じって、しきりに人間の匂いが届けられた。
     上高地の絵葉書によく登場する河童橋を渡り終えると世界は一変した。四六時中、何十台もの観光バスが発着を繰り返し、女子大生や婦人のグループ・・・なぜか圧倒的に女性客が多いのだが、短い滞在時間を惜しむかのように、せわしなく立ち振る舞っていた。谷川のせせらぎに手を浸したり、山の冷涼な空気を胸いっぱいに吸い込んだり、絵ハガキに向かってひと夏の自己証明をしたためようとしていた。彼女たちとすれ違うたびに、強烈な香水と化粧の匂いがした。
     路線バスで高山駅前に戻り、明朝の始発電車の時間まで、駅のベンチで再び野宿をすることにした。ザックを枕代わりにドカッと横になると、単独行の緊張感がゆるみ、ものの数分後には眠りについた。
     どれくらい眠っていたのだろう。瞳の奥にかすかな刺激が伝わって、ぼくは目覚めた。眼の前にある物体が、現実の物であるのか、夢の続きを見ているのか、しばらくは判別できなかった。現実であるとするならば、あまりに唐突で理解しがたい光景であるし、夢だとするならばかなりの悪夢である。
     ぼくの頭上には、確かにエレクトした性器(ルビ・ペニス)があった。現実と夢との境界から脱けだす時間は、5秒もあれば十分だった。ぼくの顔の上で、自らの性器を愛撫する薄汚れたオッサン・・・ヒゲ面の奥の黄色い口蓋からは、規則的に嗚咽が漏れている。
     こうやってぼくの青春は、わけのわからないオッサンの精液(スペルマ)に汚されていくのか。ふりはらいたい物は山ほどあった。受験勉強もせず、北アルプスまでのこのこやってきて、いったいぼくは何から逃げ出そうとしていたのだろうと考えると、生温かい虚脱感が動脈を駆けるのだ。逃げ出せる場所なんてどこにもないのに。50センチの至近距離にあるオッサンの臭気漂うポコチンが、高校生最後の夏のリアルなんだ。 (つづく)

  • 2019年07月09日バカロードその134 天上界の落とし物(16歳ムチャ旅シリーズ)

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前回まで=高校2年生の春。あてどなき旅に出た「ぼく」は、150km走ってたどり着いた夜の高知でアル・パチーノ似の男性に犯されそうになる。その後も、道なき山林を駆け上がったり、野宿を繰り返しては、混迷を極めつつある青春に戸惑っていたのだった。そして、まだ雪深き剣山の山中へと足を踏み入れたのだった)

     標高千メートルを超すと積雪の深さはさらに増していき、背丈ほどにもなった。ぼくは雪を両手でつかみ、カブガブかじりながらガムシャラに歩きつづけた。ときおり粉雪が舞うが、天候は崩れるか崩れないかのギリギリの線をいったりきたりした。雪が、登山道の境界を消しているが、前日歩いたと思われる登山者の踏跡をトレースすれば、膝までもぐる心配はない。
     それにしても、さっきから気分の高揚が抑えられない。
     「自分がどうなってしまうか、わからない」
     そうゆう状況が、たまらなく興奮をかきたてる。予定調和のない世界。1時間後の自分が、今の自分ではない可能性を秘めた世界。冒険とはそうでなくちゃならない。安全が確保された旅なんてつまらない。
     道のわきに、雪面が黄金色に輝く不思議な光景を見た。手に取ってみたが、なぜ雪がこんな色をしているのかわからない。ザラメ質のその部分に光が射すとキラキラ光って、天上界からの落とし物のように思えた。
             □
     その冬ぼくは、零下を超える寒い夜を利用して、綿シャツいっちょうで家のベランダで朝まで過ごす、という耐寒訓練に取り組んだ。
     これがけっこう厳しい。手足の指とか、おなかとか、股間とか、冷えると眠れなくなる部分から体温は奪われていく。そんなときは、背中と尻以外から体温が逃げないように、だんご虫のように丸くなってベランダに転がるのだ。そんな「ベランダにおけるだんご虫訓練」に順応すると、夜中に自宅から5キロほど離れた岩場にでかけるようになった。そこは、高さ30メートルほどの垂直の岩が屏風状に連なっていて、ロッククライマーらの練習場にもなっている。
     ぼくは高校からの下校途中によく立ち寄って、フリークライミングの真似ごとに興じていた。岩場の上部には、空中に1メートルほど張り出したテラス(岩棚)があり、昼間なら山すそを蛇行する桑野川や、その背景に瑞々しく輝く水田地帯、一年じゅう緑の絶えない丹生谷の山々が遠くまで見とおせる。岩登りの合間にテラスに腰かけて、おだやかな田園風景を眺めていると、いつまでも飽きなかった。
     深夜、ヘッドランプの弱々しい光を頼りに、小さな岩の出っ張りに体を押し上げ、ツェルト(緊急露営用テント)をバサッとかぶって眠るのは、ほんとうに幸せな時であった。かすかな街の灯りと、満天
    にチカチカ輝く星々、山と風がふれあうさみしげな音・・・。凍てつく岩肌は肌を刺すが、体温が少しずつ岩に伝わるにつれ、苦痛は薄れていく。
     ぼくが、なぜそんなことを始めたかというと、加藤文太郎という昭和初期を代表する一風変わった登山家に夢中になっていたからだ。
     作家・新田次郎の傑作「孤高の人」の主人公である加藤文太郎は、一日に百キロ以上を歩く駿脚の主で、山行はいつも単独で行った。真夜中でも平気な顔をして道なき道を歩き、疲れたら雪上にゴロンと横たわり、そのまま眠ってしまうといった、山の常識をまるで無視したかのような登山をする型破りな男だった。
     ぼくは、その上下二巻の長い小説を、夏休みの間に繰り返し読んだ。
     そして、加藤文太郎の「孤高ぶり」に少しでも近づきたいという思いがどんどん強くなっていった。
             □
     ふいに眼の前が開け、灰色のコンクリート壁が現れた。三階建ての大きな建物は、国民宿舎剣山荘であった。ということはここは標高千五百メートル、ようやく登山基地である「見の越」にたどり着いたのだ。
     安堵感がドッと押しよせ、そのまま後ろに倒れそうになったが、そう休んでいる暇はない。太陽は雲の向こうで西の山の縁に傾きつつある。風も強くなりはじめている。風避けできる寝床を確保する必要がある。建物の中にもぐりこめる所はないかと全部のドアや窓を押したり引いたりしてみたが、どれもきっちり鍵がかかっている。
     陽の当たらない建物の陰の部分に、雪が2メートル以上積もっている。ぼくは、旅に出る前にテレビ番組で見た、北極圏で暮らす先住民イヌイットたちの簡易住居を思い出し「アレだ!」と叫んだ。彼らは固く圧縮した雪をブロック状に切り出して組み立て、イグルーというかまくら状の寝床を作っていた。
     眼の前にあるのはふかふかの軟雪で、イグルーは無理としても、雪洞なら掘れるんじゃないか。雪に囲われた穴ぐらは一見寒そうに思えるが、外気がマイナス10度くらいでも、内部はマイナス2~5度に保たれ暖かいのである、とナレーターの久米明か誰かが説明していたではないか。
     ちょうど手頃なスコップが落ちていたので、横穴を掘ってみた。ものの10分ほどで体を横倒しにしても収まるほどの穴が完成した。ぼくはお手製の寝室に大満足し、空にしたザックをマットレス代わりに床に敷き、入口にはTシャツで風避けのノレンを垂らし、寝床を整えた。
     雪洞にもぐりこみ、ごろんと横になって目を閉じると、雪深き北米マッキンリー山や南極大陸の極点をめざす冒険家の仲間入りを果たしたような気分になった。そして「友よ、ぼくはあと一日でピークに立つだろう」などとドキュメンタリー番組に出てくる人みたいなセリフをつぶやいたりした。
     胃がキュルキュル鳴っている。そういえば朝から何も食べてない。貞光駅前の商店で買ったサバの缶詰を取り出し、ナイフの先端でフタをこじ開けて食べる。氷のように冷たいサバの塊が胃に落ちると、そのまま体温に代わっていく。
     しかし、そのままの格好でいられたのはほんの数分だった。寒い・・・恐ろしく寒いのである。山登りを終えた直後は汗ばむほど暑く感じていたが、今はすっかり汗が冷え体温は急下降している。
     雪洞の内部が外より暖かいと言っても、しょせんは上も下も周り全部が雪なのである。熱源となるコンロも持ってはいない。ひと冬かけた「ベランダにおけるだんご虫訓練」に自信を深めていたのだが・・・やはり、いきなりの極地体験はレベルアップしすぎなのか。打ちひしがれて雪洞をもぞもぞ這い出し、新たな寝場所を探す。
     2階のベランダ部分は頭上にひさしがあり、三方を壁に囲われていて、次なる寝床に最適だと思えた。建物のわきにある焼却炉に、シーズン中に使っていたとおぼしき宿泊客用の浴衣が何十枚も押し込まれているのを見つけた。それをぜんぶ取り出して、寝袋の中に詰め込んだ。富岡西高登山部の部室よりこっそり失敬してきた寝袋はたいへんな粗悪品で、素材は羽毛ではなく綿を詰め込んだもので、年期が入りすぎてへたっており、布切れ程度の厚みしかない。ボロ浴衣を利用して保温効果を高めるべし。
     さらに持ち合わせたありったけの衣類を身につける。「職人の店」で買った靴下が半ダース残っていたので、両手と両脚に3枚ずつ重ねてはく。そして空のザックに足を突っ込んだ。
     夕陽が閃光を数秒だけ放ち、山の端に消えてゆくと、あたりは徐々に闇に覆われていった。
     気温がさらに下がりはじめる。寝袋から出ている顔の表面が凍りつくように痛い。頭までもぐりこんで、寝袋の口ヒモをきつく閉じた。
     夜はひたすら長く、かすかな光源もない暗闇の中で、強風がワサワサと森を揺らす音に、身を縮こませた。やるべきことは何もない。体温を逃さないよう、身動きせずにじっと朝を待つしかない。
     時間が恐ろしく長く感じられた。
     遠く、遠く、遥か遠くに、犬の遠吠えを聴いた気がした。浴衣を詰め込んだ寝袋越しにかすかに聴こえたもので、気のせいだと思った。こんな標高千五百メートルの、雪に覆われた山中に犬がいるはずがない。
     それよりも、いよいよ自分が追い込まれて幻聴でも聴こえだしたのかと、そっちの方を恐れた。しかし耳をすますと、遠吠えが耳鳴りのように断続的に鳴りつづけている。
     それは幻ではなかった。鳴き声は少しずつ音量を増し、はっきりと聴き取れるようになった。それは一匹ではない。十匹以上の大集団であり、どうやら一直線にこちらに向かっているようだと気づいたときには、逃げ出す余地もないほど咆哮は近づいていた。
     そういえば、サバ缶の残り汁を雪洞の前に捨てたが、その匂いにつられてこっちを目指してるんじゃないだろうな。
     不安は的中した。飢えに耐えかねたうなり声、激しい慟哭はついに階下までやってきた。それは何十分も、何時間も収まることがなかった。いや、その時のぼくには時間を把握する能力など失せていたにちがいない。
     カメラマンの藤原新也がインドで撮った「人肉を食らう犬」の写真が、鮮明に脳裏に浮かぶ。野に伏して犬に自らの死肉を与える屍。そして人肉を食らうことで生の悦びを享受する犬ども。写真は崇高このうえないものであった。そこには万物の無常と、輪廻転生の美しさが表現されていた。
     しかし、それは遠いインド亜大陸のおとぎ話としての美であって、いざ自分がボロ寝袋のなかで、無抵抗なイモムシのように犬に食いちぎられるのなんて最低の結末なんである。
     寝袋から出る。かたわらにあった物干し竿をたぐりよせる。野犬どもが階段をつたい2階までやってきたら、この物干し竿で戦う。たとえ腕を食いちぎられ、目玉をえぐられても、最後まで戦い抜いてやる。
     冷え切った体に、燃えるような体温が戻りはじめる。
             □
     長い長い夜が終わった。
     朝日の放熱を受けた紺色の寝袋は、サウナスーツのように暖かく、まどろみのなか寝返りを何度も打ちながら、ぬくもりの快感をむさぼった。何時間もそうしていたかったが、破裂寸前まで膨らんだ膀胱が許さなかった。昨夜は、寒さと恐怖で小便すらできなかった。
     雪洞を掘った階下の庭一面に、たくさんの犬の足跡があり、雪面には犬の足の裏から流れ出した赤々とした血がこびりついていた。
     ぼくは、太陽に向かってスボンとパンツを下ろし、思いっきり遠くまで勢いよく小便を飛ばした。めくるめく快感が全身をかけめぐる。そして、朝日にキラキラと輝く飛沫は、純白の雪を黄金色に染めていった。
     む、むむむむむむむむ。
     これは昨日見たあの「天上界の落とし物」じゃないか! ショックはひたすら大きいのであった。  (つづく)

  • 2019年04月25日バカロードその133 女神は消え、オジサンが待つ  ~スパルタスロン2018~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。8年連続リタイアをしている僕は、9回目のチャレンジの真っ最中。コース最大の難所であるサンガス山を下って2日目の朝を迎え、スタートから200kmを越える。土砂降りの台風をふっ飛ばすために、覚えたての怪しいギリシャ語「ハラヘッタ!」を操り出しながら、地元のオバチャンたちのウケを狙ってひた走る)

    【195km~226km/テゲア~英雄記念碑】
     赤茶けた岩盤がむき出しになった切り通しの道を、正面から吹きつける風の圧力をかき分けて、歩幅を狭くして登っていく。
     高原を貫く一本道は、濁った空と台地の境目のいちばん奥まで続いている。数百メートルおきにポツポツと等間隔に並ぶランナーの背中が、突風にあおられ左右に揺さぶられている。身体を斜めにして耐え、蟻の歩みで進んでいる。
     こちらはキロ8分の鈍亀ペースだが、前の選手たちは半ば走るのを諦めている人もいて、距離が詰まってくる。追い越しざまに声をかけ、顔をのぞきこむと反応はさまざまである。「寒い・・・」と両腕を抱えこんで震えている人、「残り全部を歩いても完走できそうだな、フォーッ!」と雄叫びを挙げる人、「5分走って、5分歩くのを繰り返しているんだが、君も一緒にどうだい?」と誘ってくる学者風な人。人間模様がさまざまで飽きない。
     奇妙な格好の人がいる。銀色の断熱マットを細長くハサミで断裁し、両腕と両脚にぐるぐるに巻きつけ、ガムテープで貼りつけている。「関節を動かしやすいように工夫したんだ。最高に温ったかいんだぜ!」と自慢げに見せびらかしてくる。まるで甲冑をまとった古墳時代の埴輪だよ。関節可動域の広さを自慢しているが、カクカクして実に走りにくそうである。この制限時間の厳しいレース中に、いったいどこでそんな細かい工作やってたんだ?
     1人のランナーが僕の戦歴を尋ねる。「今まで8連敗していて、1回も完走したことないよ!」と告げると「ギョッ」と一瞬明らかにビビり、表情にわかにかき曇る。全戦全敗の選手に追いつかれたってことは、自分は今ヤバい状況に陥っているのではないか?と疑心暗鬼に囚われているのがありあり。
     僕は安心させようと努めて陽気にふるまう。
     「ノープロブレム! 関門より2時間も余裕があるし、100%完走できるよ。保証します!」
     言葉は羽毛のように軽く、疑念まみれのランナーの不安をいっそう強める。それまで歩いていた彼らは急に走りだす。
     その様子が面白くてサディステックな欲望が高まる。追いついた選手にいちいち「8戦全敗」をアピールすると「オウ・・・」と絶句し、自分の身を案じはじめる。ははは、大丈夫だってば。
     ゴールまで40kmを残し、僕は完走を確信している。隣り合ったランナーとたわいもない会話を交わしながら軽快に前進する。四肢に力がみなぎっていて、疲労感のカケラもない。この先で潰れる可能性はまったくない。
     どんなに努力しても9年間たどり着けなかった2日めの舞台。毎年のように死に体となって、吐瀉物のカスがこびりついた青白い顔をして道端に倒れ、クッソークッソーと空を睨み続けた。そんな黒歴史の走馬灯はもう回転しない。

    【226km~247km/英雄記念碑~スパルタ】
     高台の頂点にある226km地点のヒーローズモニュメント(英雄記念碑)が、最後の大エイドである。昼の1時39分に到着。スタートから30時間39分を経過。
     空気は白く霞んでいて、どこに記念碑があるのか見あたらない。大エイドといっても掘っ建て小屋にオバチャンとオネエサンが2人いるだけだ。台風で他のスタッフは撤収したのかな。スパルタ市街まで距離は21km、標高差522mを下るのみ。ゴール関門の36時間に対し5時間21分を残しているので、残りすべてを時速4kmで歩いても間に合う計算。
     もっかの最大の関心事は、防寒用にまとっている蛍光イエロー色をした派手なゴミ袋のこと。袋の底に開けた穴から首だけ出して、ドラミちゃん的なほのぼのした格好で走っているわけだが、このスタイルでゴールまで行くべきなのか。スパルタ市街のメインストリートを駆け抜ける情景は、僕にとって一世一代の花舞台である。くだんの道を凱旋パレードする夢を描いて、中年以降の人生すべてを賭けてきたのだ。このゴミ袋には大変お世話になった。ゴミ袋なしでは低体温症に陥ったかもしれない。だけどあの場所に、黄色いゴミ袋をかぶったまま行くのはヤダ!!!
     他の選手はどうするのだろう。僕と同じく、選手おのおのゴミ袋や雨ガッパを不細工に身体に巻きつけている。「ゴールする時に、そのゴミ袋どうするの? 手前で脱ぐの? そのまま行くの?」と尋ねてみる。すると「そんなこと今は考えてない」「寒くてそれどころじゃない」とブ然としている。みな、もっと神聖な気持ちで走っているようです。ゴメンナサイ。
     下り坂にさしかかると、風がいななきをあげながら攻めてくる。横殴りの暴風はさらに威力を増し、前後左右どころか上から下からと全球的に風向きを変える。山腹に当たった風が舌をなめずるように下から吹き上げてきては、身体を地面から浮きあがらせる。破壊された看板や折れた樹木の枝が、高速回転しながら道路を横断する。時にはこっちを直撃せんと飛んできてはかすめ去る。
     道路のすぐ脇の崖が崩れて、岩石や土砂が路上に散乱している。片側車線を通行止めにしてショベルカーが岩をどけている。つい今しがた起きたばかりの土砂崩れのようだ。岩が直撃していたら死んでたぞ。
     大嵐も土砂崩れも、すべてが愉快な出来事に思える。下り坂をキロ5分台のペースで疾走する。自分の力で走っているのではない。巨大なクレーンゲームのアームが天から降りてきて、僕の頭を無造作につかんで、前に前にと運んでくれる。お気楽な自動推進マシンみたい。

     こんな楽しい時間なら永遠に続いてほしい。
     それなのに走れば走るほどゴールに近づいてしまう。
     夢のような時間がどんどん残り少なくなる。
     ゴールになんか着かなくていいのに。

     長い坂道を下りきったらあと5km。最後から2つ手前のエイドは、机やコップを道に出せる状況にないのか、両手にペットボトルを握りしめた1人のお兄さんが、洗濯機にかき回されるように暴風にいたぶられながら、笑顔で待ってくれていた。
     ゴールまで残り2kmにある最終エイドは、多くのランナーが荷物預けをする場所だ。ウイニングラン用にと自国の国旗やチームフラッグを荷物袋から取り出して、マントのように羽織ってビクトリーロードへと向かう。しかし本来エイドがあるべき場所には、荷物かゴミかわからない残骸が道路に散らばっているだけだ。
     この最終エイドはまた、ラスト2kmの道のりを選手を取り囲んで並走する何十人もの自転車の少年少女たちや、選手を先導するパトカーや白バイの警官が待機している場所でもある。もちろん本日は、少年少女も警察官も誰もいない。あたりを見回すと、100mくらい離れた家の軒下で少年3人がこっちを眺めている。手を上げると、少年たちはハニカミながら手を振ってくれる。1年に1度のお祭り騒ぎが水に流されて、さぞかしがっかりしてるのだろう。
     ついにスパルタの市街地に入る。道路の両側には、5階建てほどの中層の集合住宅が連なっている。上階のベランダから身を乗り出して「ブラボー」と声をかけ、口笛を鳴らしてくれる家族がいる。歓迎してくれる人を1人たりとも見逃すまじとキョロキョロ眺め回して、見つけるたびに「エフハリスト!(ありがとう!)」と叫びながら街路をゆく。
     沿道にいた母親と3人の子どもがつぶらな瞳でこちらを見つめている。年長の女の子の肩を母親がツンとつついて合図すると、女の子が紙コップを持って近づいてくる。差し出された飲み物を口に含むと、何のへんてつもない水だった。ただの水なんだけど、砂糖水のように甘く感じる。
     今から交差点を2回右折すると、最後の直線道路へと出る。どれほど長い間、この舞台に自分が立つことを願い続けたか。角を曲がったその先には、万雷の拍手と称賛のシャワーがある・・・のは例年のお話で、雨は変わらずジャンジャン降り、道路が小川と化している今は、人影もまばらに違いない。
     走路を外れて建物の陰に隠れ、重ね着したウインドブレーカーやジャージのズボンをいそいそと脱いで、ウエストベルトのお尻のトコにはさむ。頭からかぶっていた黄色いゴミ袋は、少し手前でゴミ箱に捨てた。最後くらいは正装を整えよう。といっても3年前にこの大会でもらった参加賞の白シャツと短パンなんだけどね。できる範囲でカッコよくフィナーレを迎えよう。
        □
     最後の角を曲がる。
     まっすぐに伸びる500メートルの道が、放射線構図の最奥に控えるレオニダス像へと続く。
     そこは、「人影はまばら」という予想を凌駕して、神隠しにあったように無人なのだった。
     247km走ってきたのに、誰もおらん・・・。笑いがこみ上げてきて、大爆笑してしまう。
     水に浸った車道にジャバジャバ足を突っ込みながら、ゴールへとひた走る。目抜き通りにひしめき合うカフェやショップでは、道から溢れ出した雨水がフロアまで浸入していて、営業を休止しているようだ。店の奥のカウンター席の向こうで、何人かでかたまって避難している人たちが、かすかに「ブラボ・・・」と口を動かしてくれる。お祭り騒ぎしてる状況じゃないですよね。
     日本人の方2人が、雨中の道路に飛び出して来られて、並走をはじめてくれる。ほっ、これで1人ぼっちじゃなくなった。1人は10年前に僕をこのレースに誘った方。「スパルタスロンって楽しいよ! 来てみたら?」とピクニックに出かけるような気軽さで、この道に僕を引っぱり込んだ。そこからドロ沼の中年人生がはじまった。道端にゲロをゲーゲー吐きながら涙ながらに「楽しいなんて絶対ウソだ」と恨みつづけて9年め、今ようやく「楽しいよ!」の言葉が真実だってわかった。ヘンテコで豊かな人生の舞台に導いてくれて感謝しかない。
     1人は脚に重い負傷をし、今回はギリシャまでやったきたにも関わらずスタートラインに立つことが叶わなかった方。痛くて着地もままならないはずなのに、全力疾走の僕と同じスピードで並走し、すぶ濡れになって写真を撮ってくれている。「また怪我するし、そんなに走ったらアカン!」と叫ぶが聞き入れられない。
     先導してくれる2人の足が、水びたしの路面を打って白波を立てる。なぜだか僕は、そればかり眺めていた。ふと気づけば、レオニダス像が眼の前に大きく立ちはだかっている。
     最後の花道をあっという間に駆け抜けてしまった。感傷にひたる余地なく、8度のリタイアシーンを回想することもなく、フィナーレの地に着いちゃった。
     スパルタスロンは、この銅像の足にタッチした瞬間がゴールなのだ。ぼくは9年間、レオニダス像には一歩たりとも、いや10m以内にも寄りつかなかった。像の台座へのアプローチとなる大理石造りの5段の階段すら登らなかった。この像に近づき、触れていいのは、完走するときだけと決めていた。
     初めて階段を登る。バージンロードをしずしずと歩く、けがれなき新婦の心境ってこんなの? たったの5段なのにずいぶん遠くて高い階段だったわ。
     台座に刻印されているのはレオニダス王の「奪りにきたらよかろう」の言葉(※)。ついに、やってきましたよ。
     銅像の真下に立ち、見上げる。遠目にしか眺めたことなかったけど、実物は想像していたよりデカい。レオニダス王の左足に触れる。へぇー、銅像の足って台座からはみ出してるんだ。彫像士、芸が細かいね。
     足首に抱きつき、足の甲の部分に頬ずりする。先着の選手がここにチューをしたり、祈りのポースを決めてデコをすりつけるのは定番。汗と脂と雑菌だらけなんだろな。ぼくのデコの脂もすりつけてやるオラオラ。
     空気は冷たく、銅像は濡れそぼっているのに、レオニダス王の足は温かくてボリュームがあった。僕を見下ろす彼の目は、父のような優しさに溢れていた。                  

    --------------------------

    (※)「奪りに来たらよかろう」

     レオニダス王が戦死を遂げた「テルモピューレ峠の戦い」において、死の数日前に放った言葉である。
     ギリシャの征服を目論むペルシャ王が、二十万人軍勢をずらりと並べ、たった一万人しかいない貧弱ギリシャ連合軍・・・なおかつ最前線に立ったスパルタ兵わずか三百人に対して、こんな伝令を出した。
     「そっちが武器を差し出したら戦闘なしで許してやるよ、占拠はするけどな」
     無血講和を申し込んだペルシャ王に返したのが、次のレオニダス王の伝説的ゼリフ。
     「(武器が欲しいなら、そっちが)奪りに来たらよかろう」
     まさに「喧嘩買ってやるよ! 二十万人VS三百人でもなっ!」な男気マックスな返答。全員討ち死にするとわかっていて、息子(家系を受け継ぐ跡取り)のいるオジサン兵士だけを三百人選び、その三百人でペルシャ兵1万人ほどをなぎ倒し、だけど結局ひとり残らず玉砕しちゃったスパルタの男たち。彼らの勇敢さを象徴する言葉なんである。
     その言葉は2500年後の今に伝わり、スパルタスロンに挑む選手たちに「完走するのが夢か? 欲しくば獲りに来い」に変換され、ゴールをめざす合言葉となっている。

    --------------------------

     ぼーっとしてたら次にゴールする選手の邪魔になる。さっさとゴール後のセレモニーに入ろうか。例年なら、ギリシャ神話の女神の格好をした美女たちが3人ほど待ち構えていて、完走者にそれぞれ記念品を贈呈してくれる。暴風雨のため本日は女神も撤収。もこもこのフリースを着た丸顔のオッチャンがひとり、記念品セットを両腕に抱えこんで、満面のほほえみを湛えて待ち構えている。オリーブを編んだ冠を頭にポンと無造作に載せてくれ、完走記念盾をひょいと渡され、そしてエウロタス川の水が入った水差しから水をもらう。エウロタス川の水を飲まされる理由は、これまた故事に基づく。アテナイ国よりはるばる250kmを徹夜で走り、援軍を頼みにはせ参じた伝令兵に、スパルタ国は助けを断ったあげく、川の水だけ飲ませて返したという逸話に従ってのもの。
     2500年後の今、郊外を流れるエウロタス川は、生活排水がドボトボ流れ込んでいる雰囲気大ありだが、まさかホントに史実に従って、あの水を汲んでるんだろうか。さすがに胃腸強靭なランナーとてお腹を下しそうだし、きっと中身はミネラルウォーターにしてくれてるって。そう信じることにして、ゴクゴクと喉を潤す。
          □
     さてさて感動・・・あったのだろうか。嗚咽したり、涙を流したりはなかったな。
     ただ楽しくて、ただ楽しかった。それだけで十分だ。
     人生はなかなか思いどおりにはいかない。ほぼ上手くいかない。
     スパルタスロンもまた、吐いて、倒れて、絶望しての繰り返しだった。走ることなんて仕事じゃないし、ただの趣味なはずなのに、気がつけば人生の多くの時間と熱量をこんなのに費やしてしまった。上位で完走できるならまだしも、半分の距離(123kmエイド)まで進むのに7年もかかり、都合8回失敗してやっと1回うまくいった。それだけのことだ。でもそれで十分だ。
     スパルタスロン246.8km、33時間22分04秒。
     夕方4時すぎ、大嵐の中、ほぼ人知れずゴール。   (つづく)
     

  • 2019年04月08日バカロードその132 戦士っぽくなりたくて ~スパルタスロン2018~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。8年連続リタイア中の僕は、9回目の挑戦の途上にある。スタートから20時間、コース最大の難所であるサンガス山越えを果たす。地中海性台風メディケーンはますます接近し、冷たい雨と風が強くなってくる)

    【171km~195km/ネスタニ~テゲア】
     171.5km地点のネスタニ村に朝5時24分に到着する。関門閉鎖は7時30分だから2時間の貯金を依然キープしている。曲がりくねった狭い街路は、戦乱の時代、外敵の侵入を遅らせる工夫の名残か。夜明け前の薄暗い道ながら、両側に連なる家並みの様子がこれまでの街とは違う。山越えしたサンガス山の北方の村は白いモルタル塗りの壁が多かったが、山の南側にあたるネスタニ村の家々は、石造りの壁とえんじ色の柱や瓦が組まれ頑強な造りだ。
     スパルタスロンのコースはいくつもの街や村を訪ねながら進んでいく。ひとつの街に滞在するのは通過に要するわずか5分や10分で、立ち止まりすらしない場合もある。しかし沿道から「ブラボーブラボー」と声を掛けてくれる人や、そっと肩に手を触れて体温を伝えてくれる人がいる。そんな一瞬のふれあいが積み重なっていくと、街をあとにするときの寂しさが増してくる。
     レースに要するのは最長36時間、つまり1日半。その短い時間に、半年ほどもかけて旅するバックパッカーの郷愁をぎゅうぎゅうに濃縮しているかのよう。
     ネスタニ村の大エイドもまた、オレンジ色の煌々とした照明に包まれ、エイドスタッフは「陽気な野戦病院」といった雰囲気で右へ左へと慌ただしい。ピットインしたランナーたちを即座に椅子に座らせ、取り囲んで世話を焼いている。ミルクと蜂蜜入りの熱い紅茶をハンドボトルに詰めてもらい、ポケットに入り切らないほどのチョコウエハースをもらう。
     街の中心にある広場を突っ切ると街並みは途切れ、郊外に出る。しらじらとした朝を迎えると、行き交うサポート車のテールランプや、ランナーたちのヘッドランプの連なりが風景から消え、賑やかに感じていた夜道は、寂寥感のある平原のなかの一本道にとって代わられる。
     低く垂れ込めた乳白色の雲。むき出しになった石灰質の白い石が転がる荒れ地に、背の低い灌木がまばらに生えている。
     国土の大半をこんな乾いた土くれに覆われたギリシャという場所で、僕たちが今まんぜんと享受している民主主義の原型が形づくられたなんて不思議でならない。市民が権力者を交代させられる権限を持ったり、人を支配するルールを変更できたり、あるいは階層階級に関係なく職業を自由に選べたり・・・羅列するだけで数千ページの歴史書になるだろうギリシャ人発明の現代に通じる思想。その多くは2500年前のアテナイ国(今のアテネ)で芽生えた発想だ。
     そして今、僕が走っている道も、2500年前のアテナイ国とスパルタ国との戦時協定をめぐる逸話をたどっている。スパルタスロンに参加したすべてのランナーが目指すゴール地点は、2500年前にスパルタ国を率いたレオニダス王の像である。ギリシャを侵略し植民地化しようと東方から押し寄せたペルシャ軍勢20万人に対し、たった300名のスパルタ兵士を率いて敵を狭小谷に誘いこみ、数日間を圧倒しながらも、最後は戦死した映画「300」の主人公のお方。
     2500年前の勇猛かつ賢明なるおじさまたちよ、東洋の島国に住むちっぽけな人間の人生に影響を与えすぎだよ。
     再び大滝選手と並走する。昨晩は眠気に苛まれていた大滝さんだが、夜明けとともに生気を取り戻し、ペースがどんどん上がる。バッテリーをオフにしていたGPSを起動させると、キロ6分ちょいで走っている。いやいや180km走った果てのキロ6分ペースは世界レベルですって。いつもの僕なら、180kmといえばとうの昔に潰れてボロ歩きしている距離だ。こんなペースについていけることが奇跡。人間の体って、エネルギー残量が枯渇したようでも、どこかに着火源が残っている。あきらめたり絶望することがあっても、夜が明ければ一からやり直せる回復力があるんだ。

    【195km~226km/テゲア~英雄記念碑】
     朝8時42分、195km地点のテゲアに到着する。ここまで25時間42分、大滝さんに引っ張ってもらったおかげで関門閉鎖まで2時間28分と貯金が増えた。
     雨足が強くなっている。濡れて重くなったシャツを手絞りしようとエイドテントの下に逃げ込むと、雨垂れが横風にあおられシャバシャバ吹きつけてきて余計に寒い。
     エイドのお姉さんにゴミ袋を1枚めぐんでもらう。袋の底にギリギリ頭が出せるほどの穴を1コ分だけ破き、蓑(みの)のようにして被る。腕を出すと寒いし、腕と首用に穴を3つ空けると保温効果がなくなりそうなので、ゴミ袋から顔だけ出す奇妙な格好で道へと飛び出す。
     日本で売っているゴミ袋はたいていが乳白色だが、もらったギリシャ製のは真っ黄色で、縛りヒモがピンク色と派手である。黄色い袋から首だけ出していると、ファッションとしては漫画「キングダム」の幼き頃の河了貂そのものである。つまり間が抜けているのだが、他に寒さをしのぐ方法がないので仕方がない。
     20時間もぶっ通しで雨に打たれていると、体内で生産できる熱量に対して、濡れた皮膚から奪われる熱の方が明らかに多いマイナス消費。ちょっとでも行動を止めれば奥歯がガチガチと鳴りはじめる。雪が積もっているわけでも気温が零下なわけでもないのに、とにかく寒い。古代中国であった「水拷問」ってこんな感じ? ただの水滴を頭から長時間垂らされると、いずれ正気を失うというアレ。
     この寒さに耐えるには、走りつづけるしかない。座って休憩すればたちまち凍えるから前に進むしかない。
     唯一、暴風雨を避けられるのが、道ばたのプレハブ小舎やガソリンスタンドにおよそ3kmおきに設けられたエイドだ。
     エイドに駆け込んで、デタラメなギリシャ語(※)で食べ物をリクエストする。いの一番に告げるのは「ピナオ!」(腹へった)だ。ギリシャ語を口走る外国人選手なんてまずいない。エイドで待ち構えているオッチャンオバチャンたちは、一瞬キョトンとするが、もう一度「腹へった」と告げると爆笑が起こる。「この人、ギリシャ語しゃべってるよ! ぷっぷっぷー」ってな感じ。
     「それじゃあアンタは何が欲しいんだい?」と聞かれる。食パンを指さして「デュオ パラカロ!」(2枚ください!)と叫ぶ。そうしたらまたウケる。オッチャンオバチャンたちが手に手にパンを2枚ずつ持って、僕にくれようとする。
     すると、その様子を見ていた別のオバチャンが「皆で2枚ずつあげたら、この子は腹いっぱいになって走れなくなるわよ(翻訳は想像)、ワッハッハ」と笑い、他の皆さんも「ワハハハ!」と腹を叩く。風速30mの風にふっ飛ばされそうなプレハブ小屋で、大笑いしている状況がなんとも楽しい。
     例年であればこの道は、木陰ひとつない乾いた土地を、カンカン照りにさらされた灼熱地獄に苛まれ、延々とつづく嫌らしい登り坂を一歩一歩這い上がっていくという、ランナーを苦しめる最後の障壁にあたる場所なのだ。
     本当のところこの辺りって、勝算なき戦いに挑むスパルタ兵士的な切なさを醸し出したいクライマックス場面なんだよ。それなのに今の僕は「次のエイドでどのギリシャ語しゃべったらウケるかなー」などと邪念まみれで先を急いでいる。     (つづく)

    ---------------------------------------
    (※)デタラメなギリシャ語

     街々で出会う人たちやエイドでお世話してくれる方々には、なるべくギリシャ語で話しかけようと思う・・・とはいうものの五十路の中年にギリシャ語をインプットできる脳の空きスペースがない。この1年というもの「旅の指さし会話帳ギリシア」(情報センター出版局刊)を買って自宅トイレに置き、声を出して練習したが、からっきしだった。
     ちょっともマスターできないまま日本を発つ日が来てしまったので、レース時に着用する白いアームカバーに油性マジックで必要と思われるギリシャ語を書いた。エイドで使う言葉は限られているので30語ほどに絞った。

    エイドで使えるギリシャ語(誰の参考になるってーの?)

    □差し迫った欲求の訴え
    腹ぺこです(ピナオ)
    腹いっぱいです(エフォガ) 
    水(ネロ)、氷(パゴス)、熱い飲み物(ゼスト)
    ~ください(パラカロ)

    □同情を誘って優しくされる
    眠い(ニスタゾ)
    寒い(リゴス)
    疲れた(クラズメノス)

    □軽口叩いてウケ狙い
    美しい(オレア)
    友だち(フィロス)
    めでたい(エフハリティメノス)

    □一応の礼儀として
    美味しいです(ノスティモ)
    ありがとう(エフハリスト)
    こんにちわ(ヤーサス)
    すみません(パラカロ)

    □念のため基本
    1(エナ)、2(ディオ)、3(トリオ)
    はい(ネー)、いいえ(オヒ)
    日本人の男(ヤポネズス)
    勝ち(ニキ)、負け(イッタ)

  • 2019年04月08日バカロードその131 無力な虫として

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前回まで=高校2年生の春、あてどなき旅に出たぼくは、150km走ってたどり着いた夜の高知でアル・パチーノ似の男性に犯されそうになったり、こんぴらさんの背後の山を泥まみれになって登りながら、混迷を極めつつある青春に戸惑っていたのだった)

     アメリカの公民権運動活動家・マルコムX。20代の頃は過激なアジテーターであり黒人至上主義の標榜者であったが、彼が凶弾に倒れる1年前、聖地メッカに巡礼し、人種や民族を超越した人間愛に触れ、それまでの暴力革命路線からの方向転換を計った。
     アルバム「サージェント・ペパーズ」を発表した後のビートルズ4人。インド人宗教家マハリシ・ヨギを師事し、インド亜大陸へ旅立った。すでに富も名声も手にしていた彼らが欲したのは超越的な瞑想、そしてドラッグがもたらす幻想。深い精神の旅は「アクロス・ザ・ユニバース」を生みだす。
     日本の若き冒険家・上温湯隆。23歳のときにサハラ砂漠八千キロ横断の旅に、ラクダのサーハビーとともに出発し、還らぬ人となった。熱砂のなか墓標となった彼の魂は、ぼくの心に旅の遺伝子を撒いた。
     心のヒーローたちは常に旅を欲し、旅は人の根源的な存在の意味を旅人に問いかける。
     旅立ちはいつも衝動的でありながら、その人間にとって最もふさわしい時期に、ふさわしい場所へと、得体の知れない巨大なエネルギーによって導く。あらかじめ細胞の奥の、そのまた奥の塩基配列にプログラムされているかのように。
     16歳の春休み、ぼくはいてもたってもいられなくなり旅に出た。そして四国の東半分を、ただ無秩序に這いずりまわっていたのである。
          □
     国鉄貞光駅で汽車を下り、駅前のバスの営業所で剣山方面へと向かうバスを探した。
     一九八三年の冬はやたらと寒く、春の訪れは遠かった。窓口の人に聞くと、剣山の登山基地である見ノ越へは、まだ山開き前ということでバスは通じていなかった。この時期の終点は「つづろお堂」というバス停であるらしい。とりあえずそこまでバスで行って、あとは地道に頂上を目指せばいいか、とたかをくくる。
     なぜに剣山(※)に向かうのか、それは自分にもよくわからない。そもそもこの旅自体が、まったく意味不明なのである。阿南の家を飛び出してから1週間というもの、自分の欲するがままに走り、登り、野宿をし・・・を繰り返している。

      (※)剣山・つるぎさんは標高1955m。西日本では愛媛県の石鎚山に次いで2番めの高峰。

     バスの出発まではいくぶん時間があったので、食料の調達にかかる。剣山山頂アタックには1、2泊の行程が必要だと思われる。
     駅の近くにあった商店で、サバの缶詰2個とチョコレート、缶ジュース、みかん1袋10個入り、それにポリ袋20枚を買い揃える。チョコはカロリー価の高そうな分厚いのを選んだ。食料一式をザックにしまうと、いやがうえにも登山気分が盛り上がってくる。
     バス停に戻ると、しわくちゃの老婆がベンチに腰掛け、太陽の方に向かって目を細めている。どうやらこの老婆も「つづろお堂」方面のバスを待っているようだ。
     同志を得たような気持ちがした。見知らぬ土地で、同じ方向を目指す者がふたり。たとえそれがアンアンやノンノを片手に旅する美人女子大生でなく、齢八十を超えようかというオババでもよいではないか。
     ぼくは、旅する青年らしい爽やかな笑顔をたたえながら、老婆に接触を試みる。
     「あのぉ、おばあさんも一宇の方に行っきょんですか?」
     すると、さっきまで日だまりの猫のようにやすらかな表情をしていた老婆の目に、鋭い光が走る。
     「にいさんは剣山いっきょんけ?」
     魚市場の床に横たわる冷凍マグロの目玉のような、灰色の眼球に射すくめられたぼくは、
     「は、はい」とたじろく。
     「今は、雪で雪でじゃわよ」
     「は、は、はい」とぼくは慌てる。
     ぼくの背負っている赤いリュックを睨みながら、老婆は続ける。
     「まだ、山しょらんでよ」(山開きしてないという意味か?)
     老婆は目を細め、遠くの山峰を仰ぎ見てつぶやく。
     「は、は、は、はい」と気持ちが後ずさりする。
     ぼくの前途には、急速に暗雲がたれこめはじめたような気がした。
         □
     ゴウゴウと低いエンジン音を唸らせながら、バスは曲がりくねった道をローギアで登り続ける。一宇の村役場前のバス停で乗客のほとんどが下りてしまい、いつしか20人乗りの小型バスの中は、ぼくと運転手だけになってしまった。
     ルームミラーでちらちらとこっちを注視していた運転手が、ぼくを運転席近くの席に手招きする。そして、
     「ぼくよ、山登るんか? まだ雪ようけ積もっとうぞ」
     と神妙な顔つきでのたまう。またもや不安になったぼくは「ムゴムゴ」と口の中でくぐもった返事をする。
     五万分の一登山マップによると、終点の「つづろお堂」は標高六百メートルのところにあり、そこから千メートルの標高差をもって登山道が見ノ越の国民宿舎へと伸びている。順調にいけば約3時間の行程か。
     ぼく一人を終点で下ろしたバスは、けたたましいエンジン音を残し、来た道を引き返していった。
     運転手に教えてもらったとおり車道をしばらく歩くと、板切れで作った「登山口」の道しるべがあった。そこから小さな集落を抜けると、雑木林の奥へと山道が続いていた。
     最初から階段状のきつい急傾斜である。5分も歩かないうちに息はゼエゼエとあがり、リュックと背中の間を汗が濡らす。やがて周辺の樹木に純白の雪がつき、道にも積もりはじめる。高度を上げていくにつれ、登山道と山腹の境界を雪があいまいにする。
     幸い木々には数十メートル間隔で赤い紐が巻かれており、それをたどって行けば道を外さずにすむだろう、と考える。
     ナイロン製のスポーツシューズは雪を踏むとたちどころに濡れる。靴下の中へと侵入した水分は体温を奪い、足の指先が割れそうなくらい痛い。いったん腰を下ろして乾いた靴下にとりかえ、二重にしたポリ袋に足を突っ込んだうえで、シューズをはき直す。雪は足首の高さを超え、容赦なく靴の中に侵入してくるが、ポリ袋を巻きつけてからは冷たさを感じずにすむ。
     やがて踏み跡のある登山道と合流する。楕円形の足跡が点々と上部へと続いている。木を曲げて麻で固定した「輪かん」の跡だろう。おそらく前日につけられたものだ。
     急勾配の山道は1時間ほどでだらだら坂に変わり、雑木林を抜けると風景が開けた。急に光量が増したので、目が慣れるまでに少し時間がかかる。薄ぼんやりとした白い山の風景に焦点があったとき、ぼくは思わず、あっと声をあげそうになった。
     それは、何ということもない、ごくあたりまえの山の景色だった。
     深い谷の両側から山ひだが谷底へとすべりこみ、尾根すじの連なりの向こうには、陰鬱な黒い雲が幾層にも重なっている。雲のすきまから挿す一筋の光が、かろうじて風景に彩色をなしているが、数百メートル下まで続く深い谷底は限りなく暗く、死を予感させるに十分であった。
     こんなにも広い空間に、生命の気配はまるでなく、風景のパノラマの中で、呼吸し、瞬きし、鼓動を打つ生命体は、ぼくだけなのだ。巨大な山塊にぴったりと張りついたぼくは、名もなき昆虫のようだ。    (つづく)
     

  • 2019年04月08日バカロードその130 その先には何もない

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=高校2年生の春休み、ぼくは3日間走り続けて真夜中の高知駅にたどり着いた。駅で野宿していたぼくに声をかけたのは黒シャツの男。いつ果てるとも知らぬ長い夜は、男の哀しい物語とともに夜明けを迎え、ぼくは虚無的な心を抱えて再び旅を再開する)

     黄色い太陽に揺らめく高知の街を、ただ呆然と歩き回り、結局、高知駅に戻ってきた。アノできごとはここから始まった。
     段ボール箱にくるまって寝ていたぼくは、黒シャツ男アル・パチーノにさらわれた。「ブローニュの森」という名のバーは、全裸の男たちが身をくねらせ、男女が唇を吸い合う怪しの空間。耽美な江戸川乱歩的奇譚世界を経由して、霧雨に覆われた街をタクシーに乗せられ、アル・パチーノの根城へと向かった。大人の性の凶暴と哀愁を知らされた幻想のような一夜を過ごした。
     そのできごとすべてが、深夜0時すぎから10時間ほどの間に起こったこととは思えなかった。ぼくを貫く地軸のS極とN極は、一晩で逆転した。男と出会う前のぼくと、今のぼくは別人である。頭の上から成層圏まで続く大気の重さが、ずっしりのしかかっているようだ。
     春休み中にも関わらず、高知駅前の広場には制服を着た女子高校生がさんざめいている。黒目がちな彼女たちとすれ違うと、柑橘系の南国の香りがした。ぼくと同じ15、16歳のはずの彼女たちが、なんだか眩しくて、すごく遠い存在に思えた。同じ空間にいるのに、ぼくだけ別の次元の住人のようだ。
     あってないような元々の予定は、更に狂いが生じていて、走って四国一周をするのなら足摺岬へと足を向けるべきなのだが、もはやどうでもよくなっていた。
     目的をもって旅する意味などあるだろうか。そんなしごく真っ当で、論理に逸脱のない時間が、ぼくに必要だろうか。アメリカン・ニューシネマに描かれる哀しい主人公たちのように終着点のない疾走をしたい。「明日に向かって撃て」のブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド、あるいは「俺たちに明日はない」のボニー・パーカー&クラウド・バロウ、そして「タクシー・ドライバー」のトラヴィス・ビックル。陰りのあるヒーローたちは衝動的に生き、砂漠の砂をジャリジャリと踏みしめて、湿度ゼロパーセントの乾いた死を選びとる。
     春休みはまだ一週間もある。
     改札口の上に掲げられた時刻表を見上げる。行く先は自分で選ばないでおこう。いちばん最初に出発する列車に乗るのだ。各駅停車の琴平行きが5分後に出る。あわてて切符を買い、列車にすべりこむ。
     旧式のディーゼル車はゆるやかに発車し、ガタゴトと呑気に市街地を抜けていく。3分おきに頻繁に停まる駅々で、乗客は徐々に降りていくが、誰も乗ってはこない。穏やかな田園風景の中をしばらく進んだのちに、山岳地帯に入る。急峻な崖が迫る大歩危峡にさしかかる頃には、乗客はほとんどおらず、車内には口をおっ広げて眠りこけている老夫婦とぼくだけになった。
     満を持してリュックからハーモニカを取り出す。長さ10センチほどのフェンダー製の小さなハーモニカは、実家のある阿南市から東新町の楽器店「仁木文化堂」まで汽車に乗って遠征し、買い求めたものだ。旅といえばボブ・ディランであり、ボブ・ディランといえばハーモニカはセットである。
     唇にあてがい、息を吹き込む。「ヒュー、ブー」と情けない音が漏れる。イメージどおりに吹けないものかとしばらく悪戦苦闘してみたが、どうにも吹けない。ぼくはボブ・ディランの歌を知らず、ハーモニカの吹き方もぜんぜんわからないのだった。
     (まあ旅を続けるうちに、吹けるようになるだろう)とていねいにリュックにしまいこんだ。
           □
     琴平駅のプラットホームは、夕日色に覆われていた。
     駅前の広場にある地図を眺めれば、この地を訪れた人すべてが金刀比羅宮を目指す前提にあるようだ。あと何時間かで日が暮れそうだが、このまま金刀比羅宮を目指すことにする。長い参道にさしかかると、ほとんどの土産物店や飲食店が店じまいの支度の最中であったり、シャッターを下ろしていたりで見るべきものはなく、本宮へと続く石畳を寄り道せず歩く。
     商店街のつきあたりから石段が始まる。一段飛ばしで駆け上がってみる。百段ほどで息が荒くなるが、そのうち心臓の鼓動と呼吸の調子が合って、ペースを徐々に上げていく。足の裏を覆い尽くしていたマメは、昨日一晩で皮膚が固まり、160km走ったダメージは消えている。快調だ、どこまで走り続けられるか試したい。
     やがて日は落ち、風景が淡い藍色に覆われる。階段を登る人も下る人も、誰もいない。水銀灯や灯籠に灯りがともり、振り返ると木立の合間から、琴平の街の光が眼下に拡がりはじめる。
     石段が尽きた先に、立派な本宮が現れる。てっきり本宮は山頂にあるものと思いこんでいたのだが、そこは山の中腹だった。境内の後ろには、黒くて深い森の影が迫っている。
     中途半端な場所で引き返すのは気持ちが悪い。いちばん高いところまで行きたくなる。本宮を右に回り込むと、奥社に向かって細い参道が延びていて、行ける所まで進み切ると、急な斜面に山道が森の奥へと延びていた。そこからは光源ひとつなく、真っ暗闇となる。荒れだした山道はかすかな踏み跡へと変わり、やがて踏み跡を見失うと、松やクヌギの根が縦横に張った雑木林に迷い込む。
     枯れ葉が堆積した湿った山腹を、ただがむしゃらに上へ上へと登る。木のつるに行く手を阻まれ、根っこに足をとられて何度も転倒する。ぐっしょり濡れたスボン、尻もちをついたケツのあたりは泥まみれ。尖った木の枝に傷つけられた腕を舐めると血の味がする。それでも、自分より上に黒々とした山の端の気配がある限り、登ることはやめない。
     今、自分はどこにいるのだろう。この山の名前も高さも知らない。行く手に頂上という着地点があるのか、そこにいつたどりつけるのか、見当もつかない。こんなのはメチャクチャだ。それなのに後戻りする気はまるで起こらない。この先にはたぶん何もないのに、どこに行こうとしているのだろう。 (つづく)
     

  • 2019年03月07日バカロードその129 嵐をこじあけろ! ~スパルタスロン2018~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。8年連続リタイア中の僕は、9回目の挑戦の途上にある。100km地点を10時間29分でクリアしたものの、標高を増していく道は、稲妻が降り注ぐ嵐の巣へと向かっているようだった)

    【123km~159km/ネメア~マウンテンベース】
     第二関門ネメアでは、風雨を避けて小さな教会に逃げ込む。雨水を吸って重くなった衣類を手絞りし、ウインドブレーカーを羽織る。股ずれ防止のため股間にたっぷり「馬の油」を塗り足す。休憩時間は徹底的にカットする方針だが、冷え切った指先がもたつき15分を費やしてしまう。
     関門閉鎖の2時間前である夜9時にエイドを飛び出すと、雨はいっそうじゃんじゃん降り。天気もこれだけ荒れると「いつか良くなるかも」という淡い期待を抱かなくてすむ。何年も語り継がれそうな悪天候下で、ゴールまでの残り124kmをどう凌いでいくか、そこに意識を集中しよう。
     (走っている最中は知る由もなかったが、この夜から翌日にかけてギリシャのペロポネソス半島、つまり僕たちが今いる場所全域を、メディケーンと呼ばれる地中海性台風「ゾルバ」が襲っていた。風速33~38メートルの暴風雨。海岸線の街々は、海からの高波で洪水となり、土石流にも見舞われるなど大規模な被害を出していた)
     高台にあるネメア市街から坂を駆け下る。3kmおきにあるエイドでは、巻き上げる風に吹き飛ばされそうな天幕の下で、スタッフたちがかいがいしく選手の面倒を見ている。ハンドボトルに熱いコーヒーを継ぎ足してもらうと、シャツの腹のあたりに抱えこみ、両手の指先を温める。
     並走した東欧の選手が、たどたどしい英語で話しかけてくる。
     「昼間は涼しかったので今年は楽だと思わされたが、やはりスパルタスロンは甘くない。絶対に楽な道など用意されてはいない。克服する価値のある大きな壁が用意されている。それこそがスパルタスロンなのだ」。
     人は困難に直面すると、哲学を語りたくなるのだろうか。(ふーん、僕も他の選手に同じことを言ってみよ)と思う。
             □
     ガレた大石小石が10kmほど続く未舗装道に入る。このあたりから日本人ランナーの大滝雅之さんと並走する。大滝さんは2000年のスパルタスロン優勝者であり、48時間走ではアジア最高記録(426.448㎞)を持つ大人物。ウルトラランナーなら誰もが憧れ、尊敬する存在だ。レース後の表彰パーティの席で見かけたことがあるのだが、大滝さんとのツーショット写真を撮りたいと、世界各国の選手がテーブルを訪ねてくる。印象的なのは、大滝さんを前にしたヨーロッパ選手たちのゆるみ切ってデレデレになった顔。スーパースターに出会った少年のような表情を見せるのだ。
     僕にとっては雲の上の存在、いや地球の重力圏より上の存在である大滝さんと同じ位置を走っている事実に、有頂天メーターがレッドゾーンに向かう。いやいや、ここで舞い上がってはならぬ。尊敬すべき選手とつい並走してしまったがために、無理してついていき潰れる・・・という大馬鹿を過去に何度もやらかしている。
     幸いかな、水たまりだらけのガレ場ではスピードは上がらない。ゆっくりペースで進みながら、大滝さんからは20年ほど前のスパルタスロンの様子や、生きる伝説とも言えるスコット・ジュレク(※)とシノギを削ったレースのエピソードを聞かせてもらう。深夜に訪れた突然の約得。夢見心地にも度が過ぎるってもんです。こりゃ全然、眠くなりそうにねーぞ!

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    (※スコット・ジュレク=スパルタスロン3連覇、ウエスタンステイツ7連覇を果たしたウルトラマラソン界の超偉人。かの「BORN TO RUN」の登場人物でもあり、著書「EAT&RUN 100マイルを走る僕の旅」「NORTH 北へ―アパラチアン・トレイルを踏破して見つけた僕の道」は日本語訳版も出版された名著)

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         □
     ダート道が舗装道に変わると、スピードを増した大滝さんについていけるはずもなく、安定のノロノロペースに戻る。
     幹線道路を外れ、急坂を登る。人口300人ほどの小さな田舎の村・リルケア(148.3km)への入口だ。迷路のように入り組んだ道を、アスファルトの路面に黄色く塗装された「→SP」に従って進む。「→SP」の矢印はゴールであるスパルタの方向を示し、247kmの全行程にわたってランナーが道に迷わないよう路面に刻みこまれている。
    左右を民家に挟まれたメインストリートの細道の奥に、煌々と灯された光が見えると、飛び交う人々の声が耳に届く。この村のエイドステーションは建物の1階を開放しており、村じゅうの人が集まっているのではないかと思うほど賑わっている。
     オジサンに「座れ座れ」と椅子に招かれると、中学生ほどの年頃の素朴な女の子が近寄ってきて「何が欲しいですか? コーヒー、紅茶、スープ、フルーツ、パン、チョコレート・・・」と尋ねる。「紅茶をください」と頼むと、「何を入れますか? 砂糖、ミルク、蜂蜜・・・混ぜることもできます」。「それじゃミルクと蜂蜜をミックスで」。すると「ミルクと蜂蜜は、スプーンで何杯ずつ入れますか?」と確認し、「3杯ずつですね」とメモをとっている。「コレに入れてね」とハンドボトルを手渡すと「うん」と深くうなずき踵を返す。
     エイドの奥の方を眺めていると、場を仕切っているベテランお姉さんが「あの選手に声かけてきなさい」「あのランナーにコレを持っていきなさい」と少年少女たちにテキパキ指示を出している。
     こうやって一年に一度、148km彼方のアテネから走ってきた汗と泥にまみれた異国人たちを迎え入れ、世話を焼き、100km先のゴールへと送り出すという、真夜中の儀式が受け継がれていってるんだな。
     素朴な少女が戻ってくる。ボトルの縁いっぱいに注がれた熱々の紅茶を、こぼれないように胸の前で両手で支え、ソロソロとした歩みで近づく。
     沸騰しそうなくらい熱い紅茶。ボトルのキャップをきつく閉め、タオルでぐるぐる巻く。1時間くらいはカイロ代わりになるだろう。
     エイドを後にする。村の出口にある石組みの教会では、深夜1時にも関わらず、塔の最上部にある鐘を鳴らし続け、ランナーを送り出してくれる。
     厳しく凍てついた山登りの道が始まるが、心は温かいままだ。
                 □
     サンガス山(標高1062m)の登山基地へと続く、5kmほどの長いつづら折りの登りがはじまる。このダラダラ坂は、古来よりランナーを苦しめるポイントとされる。150kmを越えて体力消耗著しく、睡魔にも襲われがちな時間帯である。関門ギリギリ通過でさしかかったランナーには、挽回を阻む壁となる。
     この坂道を、下から上まで全部走り切るんだと決めていた。昨年、僕を葬り去ったサンガス山への挑戦権を得るために、強気で攻めていきたいと思ったのだ。
     高度を上げていくと、霧の深さが増す。ヘッドランプの光は、霧に邪魔されて遠くまで届かない。前を行く選手たちのヘッドランプが、周囲の濡れた空気を白く輝かせて、蛍がゆらゆらと群れ飛んでいるよう。
     多くの選手は歩いている。前にいる選手の蛍の灯を追いかけ、追い越していく。数百メートル前に、ものすごく蛇行している選手がいる。道路の右側は切れ落ちた断崖でガードレールなどない。その選手、路肩にふらふらと近づき「あわや!」と思わせると、うまい具合にターンする。さすが歴戦のツワモノ、寝ぼけていても危機回避できるんだな・・・と感心はするものの、ヒヤヒヤしてお尻の穴がキュッとなる。
     話しかけて目を覚まさせようと追いつくと、顔見知りの日本人ランナーだった。
     「藤田さあああん! むちゃくちゃ蛇行してますよぉ!」と声をかける。
     藤田勝美さんはスパルタスロンや関西夢グレートラン、川の道フットレースなど難易度の高い超ロングレースを上位で完走する強者だ。それでいて周囲の人には気さくに声を掛け、ウルトラを愉しんでいることが伝わる走りをする素晴らしいランナーである。
     半寝状態の藤田さんから返ってきたのは謎な言葉である。
     「ああ坂東さん・・・坂東さんはゆで玉子が好きでしょ?」
     (ゆで玉子? ゆで玉子を僕にくれようとしてるのかな? でも他人の食料もらえんしなー)と思い、「おなか空いてないですから、いいですよ」と遠慮する。
     すると藤田さんは「徳島の坂東さん、ゆで玉子好きでしょ」と繰り返す。
     ははーん。これはバンドウ違いだわ。
     「それって板東英二のこと(※)でしょ。僕は野球の板東英二じゃないですよ。モノマネならできますけど」と、「バァンドゥです」のモノマネをして2人の違いを納得させようとする。
     「ああ、そうですよね・・・板東英二・・・眠い。私はそこのエイドで寝ていきます」とテントの方へと消えていった。はたして理解してもらえたのだろうか。
     再び一人ぼっちになる。会話の余勢で「バァンドゥです」を叫んでいると眠気が飛んでいく。
     深い谷底から吹き上げる強風が雨を舞い上げトグロを巻き、四方八方から水責めにしようとする。僕は板東英二のモノマネで徹底抗戦する。

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    ※今さら説明するのも何だが、板東英二とは徳島商業高校の大エースにして、60年間破られていない甲子園の奪三振記録の現保持者(1試合25奪三振、1大会83奪三振)。終戦後、満州からの引き揚げ組だった幼い頃の板東少年は、腹が減りすぎて鶏小舎から玉子を盗んだが、火をつけると見つかって酷い目にあうので、生のままの玉子をすすって生き延びた。その経験から、火を通したゆで玉子に憧れ、今でも大好物だというお話し。
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         □
    【159km~171km/マウンテンベース~ネスタニ】
     サンガス山の登山口にあるエイドはマウンテンベース(159.5km)と呼ばれ、標高767mの位置にある。手前のリルケア村から標高差500mほどを登り、深夜2時55分にマウンテンベースに着く。スタートからここまで19時間55分。多く選手はこのテントサイトで山登りの身支度を整える。
     トラックの荷台から荷物を受け取り、防寒具を身につけていく。ムダに時間を費したくない。動かない脳みそをできるだけ回転させて、効率を追求する。まずはハンドボトルをスタッフに渡し、ホットコーヒーをお願いする。その間に長ズボンをはき、ネックウォーマーで首と耳を覆う。手袋を着け、使い捨てカイロの封を破り、1個ずつ手袋の中に放り込む。ボトルに満たされたコーヒーが届けられるといざ出発。所要3分くらいかな。F1カーのピットインみたいに効率良よくね?と自画自賛。
     テントを出ると、身体を打つ雨の冷たさが増している。去年はここから始まるサンガス登山の最中に、横殴りの風と雨に打たれ、低体温症に陥って命からがらリタイアした。弱くて情けない一年前の自分より少しはマシになってるってとこ証明しないとね。
     暗闇の奥に控える山塊は、雨の幕で姿を消している。登山道のあちこちに蛍光色の簡易照明が点けられているが、首と腰を反り返らせて見上げても先は見通せない。崖側に滑り落ちないように、浮石で足首をグネらせないように、慎重に登っていく。スピードはどうでもいい。ゴールまでまだ87kmある。つまらないケガをして苦境に追い込まれたくない。
     ・・・レースの1カ前、遠方から徳島を訪れ練習会を開いてくれた友がいる。スパルタスロン全勝無敗の彼は、ちっとも完走できない僕を案じて、完走へとつながるいろんな秘訣を伝授してくれた。そして30kmをゆっくりとジョグした。途中、徳島市南佐古の諏訪神社の石段を経て、眉山山頂まで山道を登った。急峻な尾根道だが、標高差は270mに過ぎない。サンガス山への麓からの標高差も295mと似たようなもの。「サンガスなんてコレと同じくらいですよね」とカラ元気を出しながら、時間にして30分ほどで眉山を登り切る。うん、実に大したことない。防寒対策さえきちんとやっておけば、恐れるほどの存在じゃない。そうイメージづけられた。
     (サンガスなんて大したことない)と何度も心で繰り返す。
      雨は強いが、風がピタリと止んでいる。寒さのあまり意識が飛び、眠りに落ちる寸前までいってしまった去年よりコンディション良好だ。一歩ずつ石段を踏みしめる。休むことなくジリジリと高度を上げていく。
     体感でいうと去年の10分の1くらいの時間で頂上に着いてしまう。こんなにあっけないモノだっけ。たったこれだけの登りを、去年は永遠に終わらないと感じた。本当に遭難しかけていたんだな。
     急傾斜の登りに対して、下りは車でも通行できるほどの緩い道だ。しかし大きめの浮き石が多く、ガレ場が苦手な僕は走れない。僕以外の全選手が駆け下りていく。たった2kmの下り道で20人ほどの選手に追い抜かされる。情けないけどまあいいや。山を越えてまだ身体は動いている。上出来の部類だ。
     麓の村、サンガス村(165km)のエイドに着く。去年、低体温症になった僕をすっ裸にして乾布摩擦してくれたオジサンに礼を言おうと決めていたのだが、エイドを見回すと似たような歳と格好のオジサンがたくさんいてどのオジサンだかわからない。たしかハゲていたはずだが・・・ハゲの人もたくさんいる。うーん記憶が曖昧すぎる。山越えをすませてヤレヤレと休憩中のランナーがどっさりいて、オジサンたちはみな忙しそうで、話しかけられないままエイドを後にする。
            □
     サンガス村のエイドから先は、一度も踏みしめたことのない道だ。単純に、嬉しくてたまらない。毎年のように完走するランナーたちを心から尊敬するし、羨ましくてたまらない。だけど、リタイアしか知らない僕にも密やかな楽しみがある。毎年、少しずつ距離を伸ばし「自己最長不到距離」より先の世界へと進む。その歓びは、何にも代えがたい。初めて見る景色、初めて踏みしめる道がそこにはあり、未知の街や人との出会いがある。
     リタイアした場所で何時間も過ごしたり、収容車の移動中にあちこちの村に降り立つので(エイドごとに最終ランナーが来るまで待ち続けます)、コース上のいろんな街や村を知り、さらに愛着が増していく。リタイア常習者でしか知りえないギリシャの田舎旅を通じて、僕はますますこの国を好きになっている。
     100km付近から何度も追い越し、追い越されてしているヨーロッパ人の女性ランナーが話しかける。深夜4時というのに元気まんまんで、エネルギーに満ち溢れているようす。
     「お互いここまで調子よく来てるわね。あなたは何回目なの?」
     「今まで8回出て1度も完走したことないんですよ」
     「あきらめないハートをリスペクトするわ! ちなみに私は過去4回とも完走してるの!」
     そして彼女は瞳をらんらんと輝かせて、
     「ここまで絶対イケそうなペースで来てるじゃない? 今年は勝者になれるわね!」
     と覗き込んでくるので「メイビー(きっとね)」と何気なく答える。
     すると彼女が突然叫ぶ。
     「ノットメイビー! You can do it!」(きっとじゃダメよ! 絶対できるんだから!)
     あまりの剣幕に圧倒されて返事できずにまごついていると、彼女の声量が増していく。
     「You can do it!」
     「You can do it!」
     「You can do it!」
     夜明けもまだ遠い漆黒の深夜4時。地面に叩きつける滝雨が道じゅうに水の王冠をつくる。弱気な僕を絶対に許さないと炎と化すオランダ人のお姉さん。
     追い詰められた僕は「Yes.I can do it・・・」と小声で返す。
     すると彼女はとても満足した表情を浮かべ、
     「オッケー! あなたとはこの先でまた会えるわね」と猛スピードで滝雨の向こうへと走り去っていく。
     あの・・・やっぱスパルタ完走するにはお姉さんくらいの気合いがいるんですね。勉強になります。   (つづく)

  • 2019年03月07日バカロードその128 稲妻に突っこめ! ~スパルタスロン2018~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。何度挑戦しても完走できず、8年連続リタイア中である僕は、大エイドを素通りする荒技で戦局の打開をくわだてる)

    【80km~123km/コリントス~ネメア】 
     80km地点の第1関門・コリントスを越える。ここからはヨーロッパ大陸本土を離れ、ペロポネソス半島内陸への旅のはじまりだ。「ペロポネソス半島」とは言うものの、大陸側と半島をかろうじてくっつけているのは幅5キロの地峡で、その中央を南北の海をつなぐために120年前に掘削された運河が貫いている。大運河によって大陸と半島は完全に分断されたため、実質は「島」なのである。
     ペロポネソス半島の面積は2万1500平方キロあり、四国の1万8800平方キロよりも広大で、点在する街々は4000年以上の歴史を有する。大会のコース上からは、世界遺産に認定された城跡や城壁の残骸が眺められるが、目立って観光開発されてはおらず、手厚く保護される様子もなく、太陽と風雨にさらされている。
     オリーブ畑やぶどう畑のあいだを縫う小道を、西へ西へと向かう。道の延長線上にハゲ山が屹立している。この辺りでは唯一観光客がやってくる古代コリントス遺跡を山すそに抱くハゲ山だ。その鋭角さは「未知との遭遇」のデビルズタワーほどではないにせよ、行く手を指し示すには十分な威圧感を放っている。
     80kmまで維持していたキロ6分ペースはガックリと落ちてキロ7分台になっているが、折り込み済みの下降ラインといえる。ここから先はペースの維持よりも、潰れないことが最重要課題となる。自らに課した次なるお題は「100kmの計測ポイントを、体力を充分に余らせて、鼻歌をうたって余裕で超える」である。
     過去、幾度も100から110kmの間でいったん潰れるという愚行を繰り返している。潰れたまま回復せず時間切れになったこともあれば、立て直してまた戦線復帰したこともある。どっちにしろ、こんな序盤で潰れているようでは、困難さを増す先々の道のりを突破できるはずがない。自戒の意を込めて、周囲に人がいないことを充分に確認したうえで「僕は潰れましぇーん!」と二度、三度叫んでみる。何度叫んでも武田鉄矢に寄っていかない。中年男の殺気を感じたか、ぶどう畑の番犬が駆けてきてワンワンと吠えつく。
     100kmちょうどの所にある街・アソスを10時間29分で越える。関門閉鎖は12時間25分だから、2時間近くの貯金を稼いでいる。ここから102km地点の街・ゼブゴラシオまでは民家が点在していて、なぜかパステルピンクやクリームイエローやスカイブルー色をしたかわゆい外壁ペイントで飾られている。それぞれのお家の前に、子どもたちがノートとサインペンを持って、ランナーがやってくるのを待ち構えている。リクエストにすべて応じ、差し出されたノートに「オバケのQ太郎」を書きまくる。あらゆる漫画キャラクターのなかでいちばん速く描けるのでQ太郎。15匹ほどのQ太郎を描く。子どもたちは、このサイン集をどうするのだろうか。月曜日に教室で見せっこするのだろうか。ギリシャ語が話せたら聞いてみたいものだ。
     スリナリ(109.8km)という山麓の街から、13.5km先の第二関門ネメアまでは、標高差300mほどの山道の登りがはじまる。いつもの年ならフラフラになってるこの辺りに、100km過ぎても潰れずにやって来れたぞ!
     午後7時、日没が近い。紫色に陰った空に、漆黒の雲がニョキニョキと峰をなす。鋭利な稲妻が右から左へと雲を切り裂く。1秒、2秒、3秒、4秒、5秒と数えた後に、遅れて雷音がゴロゴロゴロ。音速は秒速340mだから2kmくらい向こうか。近くではないけど、これから向かう方に雷の巣がある。レース前、他のランナーらが天気予報をスマホでチェックしながら「初日の夜中、半島の中央部はサンダーストームって出ている」と沸き立っていたのを思い出す。天気予報なんて当たらなくていいのに、的中してしまった。
     1粒の雨が頬に触れる。アスファルトに黒い水玉の染みがつく。それがドシャバシャの滝雨に変わるまで、たいして時間はかからなかった。というよりは、もともと大雨が降っている雨雲の制圧圏に、われわれが突っ込んでいっているのだ。
     左の山側から右の谷側へと、赤土まみれの茶濁した水流が道を横切る。シューズを濡らすまじと飛び石を伝ったりしていたが、そのうち道全体が川になり、迂回する手段がなくなる。途方に暮れれている時間はない。やむなしと流れに足を突っ込んでジャバジャバ突っ切る。
     今から凍える山に向かうというのに、足元はびちょ濡れかぁ。替えのシューズも用意してないしな。先を憂いながらも、ちょっとした救いを発見する。今回履いているのはホカオネオネ製の3年ほど前のモデル「トレーサー」。トレイル用シュースの開発メーカーが造ったロード用商品だ。かかと部分の厚みが4センチもあるのに片足217グラムと軽量。廃盤となった今では、アマゾンで7万円という手の届かない値段がついていて二度と入手できない最後のトレーサー君は、濁流に突っ込んだ後でも数歩走れば水がすべて切れる。シューズの中でタプタプと水が遊ぶ感覚がなく、重さが増すこともない。相棒トレーサー君、僕をゴールまで運んでくれ。
          □
     第二関門は、古代都市ネメアに設けられている。ここまでの123kmを13時間44分でカバーし、関門閉鎖の夜11時まで2時間16分の猶予を得た。
     テラコッタの煉瓦屋根と白壁づくりの小ぶりな教会。その前の広場が大エイドとなっている・・・はずだったが、やむことのない大雨のために、屋外エイドは撤収されている。ふだんは立ち入れない教会の中へと誘導される。狭い教会の礼拝堂は、街のボランティアの人びとや選手たちで立錐の余地もない。ごった返す人をかき分け奥に進み、暖を取れる場所を探してみるが、床もまたビチョビチョで座れない。荷物預けしてあった防寒用のウインドブレーカーを羽織り、気休めにソックスを脱いで手絞りする。
     ひと息ついて辺りを見渡すと、本来はマッサージを施すために用意された3台の簡易ベッドに選手が裸で寝かされていて、1人につきスタッフ3人がかりでバスタオルでゴシゴシ体をこすっている。低体温症に陥った選手の体温を上げようとしているのだ。かたわらでは濡れた床に座り込み、銀色の救護シートにくるまったまま微動だにしない選手がいる。野戦病院ってこんなトコだろか? 今から寒さも嵐もひどくなる山に向かうというのに、ここで低体温症になっているようでは先には進めない。
     動きを止めていると寒気が増してくる。こりゃ休憩していても体力メーターを減らすだけだ。震えながらでもゴールに近づこう。エイヤッと教会の外に出たものの激さぶーい! そうそう、山岳エリアに突入する前に、熱源になる食い物を腹に入れとかなきゃね。屋外テントに手つかずのまま山積みされた紙容器入りのピラフをもらう。雨でずぶ濡れになった水っぽいピラフをガシガシかきこむ。
     道路へと飛びだすと、垂直の雨が脳天に叩きつける。すぐに喉の奥が苦しくなってくる。早食いしたピラフが食道につっかえている。その場飛びをして、胃に落とそうと試みるが全然ダメ。胸が熱くなって爆発しそうになり、たまらず全部のピラフをブハーッと吐き戻してしまう。
     民家の前で吐くのはしのびなかったが、門塀の前の排水溝をゴウゴウと雨水が流れていて、そこへ正確に吐瀉する。放流された稚魚のように流れに乗って去っていく白い米粒たちを、ぼくは呆然と見送る。補給すべきカロリーなしで、嵐の山に向かわざるをえなくなった。(つづく)

  • 2019年01月24日バカロードその127 スタート! ~スパルタスロン2018~

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
    (前号まで=毎年9月、地中海に面したギリシャで行われる総距離246.8km、制限36時間の超長距離マラソンレース・スパルタスロン。僕は何度挑戦しても完走できず、8年連続リタイア中である)

     バスの車窓に雨粒が斜めに走る。夜明け前のアテネの街は、昼間の賑わいとは打って変わって、深い夜の底に沈んでいる。日本のように24時間営業の店はなく、オフィスビルに非常灯が点いていないので、夜の深さが際立っている。

     連なるビルとビルの谷間から、急坂が一方向へと延びている。381人のランナーを乗せたバスの連なりが、6車線の幹線道路を外れ、その狭い石畳の急坂を上っていく。やがて家々の隙間や、こんもりとした森の木々の奥に、オレンジ色にライトアップされたパルテノン神殿が浮かび上がる。
     停車したバスを降りると、ランナーたちは誰の案内を受けるでもなく、ゆるい傾斜の階段を、パルテノン神殿の方へといざなわれる。階段を上り詰めると、アーチ状の石組みが連続するイロド・アティコス音楽堂の壁が立ちはだかる。この音楽堂を、遺跡と呼んでいいのだろうか。建立されたのは紀元161年というから、日本なら卑弥呼が誕生する以前の弥生時代まっさかり。だが2018年の今でも現役で使用されているので「遺跡」とは言い難い。われわれの祖先が高床式住居を発明し稲作を始めた頃、ギリシャ人たちは、音楽や朗読、演劇を観るために五千人もの観客を収容する劇場を造っていたのである。
     スパルタスロンは、毎年9月最終週の金曜朝7時に、このイロド・アティコス音楽堂前の広場からスタートを切る。バスが到着してスタートまでの30分ほどの時間を、多くの選手らは古い仲間との邂逅の時にあて、また記念撮影の求めに応じる。
     僕は何となく1人になりたくて、人だかりのしているスタートラインとは反対側の、音楽堂の壁の前にあるベンチに座る。その辺りには、混雑を避けた選手たちがポツポツといる。似たような心持ちなのだろう。しょぼ降る雨の暗い空を仰いだり、ベンチに腰掛けたまま地面の一点を睨んでいたり。
     1人のランナーが音楽堂の壁に正対し、雨に濡れた石組みに額をつけて何かを祈っている。それはとても敬虔で美しい姿に見えた。彼の背中には燃えるような思いや達成欲は匂い立たず、ただ聖なる物に対峙したときに人が見せる無私で無欲な心がある・・・ように思えた。このスパルタスロンにすべてを懸け、長い距離を毎日毎日走り、ギリギリの節制をし、努力を積み重ねてきた人だけが醸し出せる蜃気楼のようなゆらぎ。
     彼がその場所から離れると、すかさず僕はその壁に近づき、同じポーズをとってみる。(うほほー、これマジでカッコよくない? こんな劇的な僕の姿、誰か気づいてくれんかな。ふふふ、もう何人かに見られてるかも・・・)。と、充分にタメを作り、戦いに挑む戦士的な切ない表情をつくって後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。スタートまであまり時間がなくなっていたのだ。大慌てでホテルの朝食会場からくすねてきたバナナと食パンを水とともに胃に流し込み、いそいそと人だかりの中に割り込んでいった。
         □
    【0km~80km/アテネ~コリントス】 
     雨足が強まっている。出だしの2kmはアクロポリスの丘からアテネ市街へと石畳の坂を下る。磨かれたような石組みに足を取られ、すっ転んでケガするトンマは許されない。
     今年は正月からロクなことがなかった。新年早々ひいたおみくじは「凶」、その2週間後にバイク事故して骨折7カ所。コルセット巻いて出場した小江戸大江戸マラニックでも大転倒し血まみれ。もうこれ以上はヘマできない。慎重に慎重を期してソロソロ足を運ぶ。大半の選手に追い越され、定位置の最後尾近くに落ちるが、それはどうでもよい。僕にとってのスパルタスロンは、周りの選手との競争ではない。1年間をこの一瞬のためだけに費やしてきた自分に対する清算なのだ。
     試されるのは走力だけではない。「この程度の実力しかない自分」という頼りない駒を、どう制御し使いこなすか。その気持ちのありようと戦略が正しいかを試す場所だ。
     大切なのは、とにかくゆっくり走ること。「今、自分ができる最も遅い走り方」で進むことを徹底する。序盤の80kmまでは、それよりほかは何も考えなくていい。
     降りやまない小雨が、道路の轍に水たまりをつくる。うかつに足を突っ込んで、シューズを水で濡らしたくない。脚の裏がふやけて皮と肉がズレる原因となるからだ。だけど地面にばかり気を取られたくもない。そのため集団の後ろに取りつく。水たまりがあれば集団が割れて教えてくれる。先行するランナーの着地跡を、機械のように追えばいいのだ。
     ひたすらキロ6分ペースを刻む。だが無理して6分に合わせようとはしない。ペース調整のためにエンジンを吹かしたり、ブレーキを踏んだりすると疲れるだけだ。6分15秒でも5分45秒でも、トータルで辻褄が合っていたらいい。
     全身の力を抜き、半分眠るような意識で、消費カロリーゼロで前方に体を推進させる。危険な兆候の現れは、同じ調子で走っているつもりなのに、自然とキロ6分30秒、7分とペースが落ちてきたときだが、その気配は微塵もない。
     調子が良いとも思えないが、悪くもない。速く走ってはいないが、遅すぎるとも言えない。何ごとも中庸が大事。いや、ここはギリシャだからアリストテレス先生の「メソテース」が大事。
          □
     スパルタスロンは体水分量のコントロールが重要だ。完走する選手らは、エイドごと(※)に300~500mLの水分を摂る。補給エイドが74カ所あるから単純計算すると247kmの間に20リットル前後の水を飲む。それでもゴール後には体重は激減している。1日半で体重が10kg落ちた選手もいる。
     僕は、片手にハンドボトル(SIMPLE HYDRATION 350mL、2376円)を持ち、エイドごとに満タンにする。3~5km先のエイドまで持ち応えるよう、1度に口に含むのは10mL程度にし、愛おしむようにチュパチュパすする。ガブ飲みは厳禁だ。水分の過剰な摂取は胃酸の濃度を下げ、消化能力を落とす。すると食べたものが胃に留まり嘔吐の原因となる。嘔吐が始まるとエネルギーを取り込めなくなり、ハンガーノックを起こして体が活動停止する。こうなると気力ではどうにもならない。
     ハンドボトル「SIMPLE HYDRATION」は口径が5センチ以上あり、ブロック氷を労せず放り込める。例年、気温35度前後となるスパルタスロンでは、エイドでボトルに補給した氷水を全身に塗りたくり、また断続的に飲み込んで内臓を冷やし続ける作業が必務である。
     そしてこのボトル、人さし指や短パンの腰ゴムに引っかかるよう、フック型の形状をしているのも良い。僕は、さらに握力を必要としないよう、左右の手首にパンツ用の替えゴム(ダイソーで100円)を三重巻きにしている。ゴム紐にボトルを挟むと、指で握らなくてすむ。走るために不必要なエネルギーは、握力とて使いたくない。最近は、トレラン用に開発された手のひらにフィットするバンド状のボトルキーパーがあるが、位置が固定されすぎて自由が効かない。パンツのゴム紐なら、キツく締めたり緩めたりが自在で、なおかつ軽量さに秀でる。

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    (※)スパルタスロンには全行程247kmの間に74カ所のエイドが設けられている。平均すれば3kmに1カ所もの高頻度であり、こういった長丁場レースとしては異例のサポート体制が整えられている。各エイドには水、スポーツドリンク、コーラなどの飲料があり、クラッカーや食パン、チョコレート、フルーツ類などの食料も用意されている。エイド間の距離が近いため、ランナーは荷物を背負うことなく、空身で走れる。
     更には、これらエイドのほぼ全てに、ランナーはあらかじめ自分で用意した荷物を置ける。ビニル袋や紙袋に、自分好みの補給食や飲料、防寒具などを詰め込む。袋の表面に自分のゼッケンナンバーと、置きたいエイドナンバーをマジック書きしておくと、そのエイドまで輸送してもらえる。
     ギリシャを旅する多くの旅行者が感じるだろうギリシャ人のテキトーさ大雑把さを考えると、この濃密なランナーへのサービスが、問題なく機能していることは奇跡としか思えない。
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     フルマラソンと同距離にあるメガラ(42.2km)を4時間10分で通過。この地点に3時間台で来ないことが、完走への1つめの大条件としていたので、ひとまず合格。今日は調子がいいと勘違いしたり、晴れ舞台に舞い上がってしまって、実力以上に速く入ることは、百害あって一利もない。とにかく遅く走ることで、先々まで体調を維持し、心の余裕度「まだ本気の自分の1%も出してないよ」を保ちつづけるべし。
     45kmすぎから、エーゲ海へと突き出した岬を登り、入江へと下る海岸道路の連続となる。急な登り坂では、ヨーロッパや南米の選手たちは大股で歩いているが、僕はぜんぶ走ることにする。歩くのが遅い僕は、登りを歩いてしまうとキロ12分まで落ちてしまう。どんなにノロノロペースでも、走っている限りキロ7分で進める。1kmで5分の差は大きい。それに急登の歩きは、支脚の筋肉を使うので想像以上に体力を消耗する。走っている方がラクなのだ。
     正午を過ぎると雨は上がり、雲の合間に青空が見えだすが、気温は低いまま。たぶん20度くらい? 適度にそよ風も吹きはじめ、体表面の火照りを取ってくれる。ギリシャ神話の神々が「オマエ、9年間もしつこく来てキモいし、今年完走して引退しやがれ」と、稀にみる最適コンディションを用意してくれたとしか思えない。ふだんは紺碧色をしたエーゲ海もどんよりと灰色に濁っているが、この冴えない光景ですら、ぼくの目には「ご歓迎」のしるしに映る。
     70km地点で海岸通りを離れて大きな車道に出る。ここから始まる2kmの長い登り坂で10人ほどを追い越し、なんとなく今日は調子がいい日なのだと実感する。
     1つめの大エイド(※)、コリントス(80km)に8時間09分で入る。ここまで完ペキにキロ6分を維持している。スピードを要する序盤の終点となるコリントス(9時間30分で関門閉鎖)では、多くのランナーが軽食を取ったりマッサージを受けるなどして、5分~15分ほどを休憩に充てている。一方僕は、ハンドボトルに水を注いでもらうだけにし、滞在10秒でエイドを後にする。

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    (※)大エイドとは、コリントス(80km)、ネメア(123km)、リルケア(148km)、マウンテンベース(159km)、ネスタニ(171km)、テゲア(195km)、ヒーローズモニュメント(223km)を指す。
     「大エイド」は僕が便宜上使っている名称で、ヨーロッパの選手にはカットオフポイント(関門)と呼ばれている。これらの街や場所には計測マットが敷かれており、ほぼ厳密に、関門時間に間に合わなかった選手に対してレース終了が宣告される。「ほぼ厳密に」というのは、100%厳密ではないということだ。ここはギリシャである。レースを運営しているのは、心おおらかで感情豊かなギリシャ人だ。何秒かあるいは何分か遅れてしまっても、ランナーが不屈の闘志を見せれば「ゴー!ゴー!」と通してくれた例は枚挙にいとまがない。「スパルタスリート」とは、どうなっても諦めない、どんな状態に陥っても前進する人物に冠されるべき名だ。それは関門閉鎖というルールすら乗り越えてしまう。
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     今回、このエイド戦略で思い切った手を打った。74カ所あるエイドには食べ物を置かないと決めたのだ(※補給一覧)。そして大エイドには荷物自体を置かない。ただし荒天の予報が出ていたため、ネメア(123km)に雨具、マウンテンベース(159km)に防寒具のみ用意した。
     大エイドでは、何かと用を足す理由が作れてしまう。腰を下ろし、食事をし、シューズ紐の調整をし、マッサージをしてもらい・・・いずれも次のセクションに進むための重要な準備だと、自分に対して言いわけを作れてしまう。だが実際は、ただ休みたいだけなのだ。そして時計の針は10分、20分と容赦なく進んでいく。大エイドで費やした10分を縮めるためには、1kmにつき30秒速く走ったとしても、それを20kmも続けなくてはならない。それほど頑張ってようやくチャラ。ならば休憩や食事は歩きながらでもいいから、一歩でも前に進みたい。何なら立ち小便だって歩きながらしたい。
     大エイドにはパスタ、ピラフ、ヨーグルトなど、炭水化物や糖質を摂取できるよう準備されている。夜間にさしかかると一般エイドでも温かいコーンスープやヌードルスープがある。いずれも歩きながら飲み食いできるよう紙の器に入れてくれている。
     だから僕は、大エイドで費やす時間をカットし、食事・嘔吐・小用などは可能な限り移動しながら済ませると決めた。
     とにかく前に。立ち止まることなく前に。それを36時間繰り返せたら、きっとゴールに指の先が届くはずなのだ。

     (つづく)

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    (※補給一覧)
    今回、一般エイド10カ所、大エイド2カ所に置いたのは以下。
    ・粉状のクエン酸(メダリスト)、BCAA(アミノバリュー)、経口補水液(OS-1)
    ・緑茶パック
    ・鎮痛剤(イブ)、カフェイン錠剤(エスタロンモカ)
    ・ヘッドランプ
    ・雨具と防寒具(ウインドブレーカー、ゴアテックスのジャケット、ネックウォーマー、長ズボン、手袋、カイロ2個)

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