編集者のあやふや人生(コラム)

  • 2018年12月10日バカロードその124 黄色い太陽

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=高校2年生の春休み、ぼくは3日間走りつづけて真夜中の高知駅にたどり着いた。段ボールを敷いて野宿していたぼくに声をかけたのはアル・パチーノ似の黒シャツ男。「ブローニュの森」という店へと誘われる。そこでは、全裸の男たちが身をくねらせ、男女が唇を吸い合う、世紀末的な退廃ムード漂う世界が広がっていた)

     男はグラスにバーボンを際限なく注ぎ足し、ナメられまいと熱い塊を喉に詰め込んでいるぼくの視界の中で、壁や照明がぐるんぐるんと回転しはじめた。
     「ブローニュの森」を出ると、まだ夜明けは遠く、霧雨がまとわりつく。階段の下で待機していたタクシーにふたたび乗せられる。男は「ぼくは店をやっているから、朝まで休んでいけばいいよ」とフロントガラスについた雨粒を遠く見つめる。
     タクシーは、小さな喫茶店の前で止まる。木製のドアを開けると照明の消えた喫茶スペース。小ぶりなカウンターに何席かのハイスツール。店の脇から階段が暗く伸びている。
     先に立った男について2階へと上がると、住居スペースらしき部屋がある。奥に二間続きの和室と、窓辺に小さな流し台。手前の部屋にはこたつがあって、奥の部屋との間はふすまで仕切られている。男は天井の蛍光灯、こたつ、テレビ、ビデオデッキ・・・と順に電源を入れていく。
     「おもしろいビデオがあるから観ない?」と言いながら、ぼくの返事に耳を貸すでもなく、デッキに入れっぱなしのビデオテープの再生ボタンを押す。男は、さほどビデオには関心がある風でもなく、流し台に取って返す。冷蔵庫から苺のパックを取り出し、一個ずつヘタをちぎり取り、水でよく洗う。白い皿に盛りつけ、たっぷりの練乳ミルクをかけて、こたつ机の上に置く。
     ぼくはビデオに集中する。
     ブロンドヘアの男性訪問販売員が、きれいに刈り込まれた芝生の庭を通りぬけ、瀟洒な邸宅に近づく。玄関のドアノッカーを叩くと、トビラを開けるのは褐色の肌をした美青年。年の頃は二十歳。広大なリビングルームに通された訪問販売員は、アタッシュケースを広げてセールスを試すが、視線をまっすぐ外さない美青年の魅力に抗することができない。二人は互いのシャツのボタンを外しあって一糸まとわぬ姿となり、肉欲の世界に溺れていく・・・という洋物エロビデオである。
     ぼくがそれを凝視している間、男はドリッパーに熱湯を注ぎ、2杯分淹れたコーヒーを手にこたつに座る。ビデオの感想を聞くでもなく、ビデオデッキの電源を落とす。会話がないまま苺をかじり、濃いコーヒーに黒砂糖を何個か落として飲む。
     しばらくの沈黙の後に、男はぼくに背を向け、おもむろに着替えをはじめる。
     シャツを脱ぐと痩せた背中が現れる。青いくらいの色白で、脂肪の欠片ひとつない。スボンを下ろすと、面積の小さな黒のブリーフをはいた尻が見える。
     スカイブルー色の上下のパジャマを取り出す。洗濯のりが効いていそうなパリッとしたシャツを羽織り、ゆっくりボタンを止めていく。部屋の境のふすまを開けると、奥の間はベッドルームだった。男は、ベッドにするすると潜り込むと、掛け布団を持ち上げて、こう言った。
     「こっちにおいでよ」
     事態は風雲急を告げる。
     人は死に直面した瞬間、目に映る光景がスローモーションとなり、あらゆる記憶が洪水のように脳のスクリーンに投影されるという。そのときのぼくには、確かにそのような現象が起こった。
     ---誘いを断ると、毒蛇のように襲いかかる男。やめてくださいと懇願するぼくにまたがり、衣服をビリビリに引き裂き、上気した瞳で見下ろしながら、若き身体を陵辱していく青パジャマ・・・。
     あるいは。恐怖がリミッターを超えたぼくは、流し台へとあとずさり、手にした包丁を男の下腹部をぬるりと刺す。青パジャマが黒く濡れ、足元に血溜まりが広がっていく。動転したぼくは、裸足のまま高知の闇夜へと飛び出す。パトカーのサイレン音が四方からこだまする街を、ぬめぬめした両手を壁になすりつけながら、路地裏を逃げ惑う・・・。
     それとも。甘美な男の誘惑に敗れ、ベッドへといざなわれたぼくは、押し寄せる快楽の予感にうめき声を漏らす。何かの儀式のように、あらかじめ定められたルートに従って舌を這わしていくアル・パチーノ。目を閉じ、腰を突きだして、十六歳の青春に別れを告げるいたいけな少年の頬につたう涙・・・。
     とにかく数分後の自分は、今の自分ではない。運命の荒波にさらされている。
     勇気ある冒険家ならば、自らの意思で、いずれかの道へ一歩踏み出すだろう。トビラを開ければ、そこには未踏の世界が広がっているのだから。
     だが現実のぼくは、走馬灯に映るドラマチックな演者とはほど遠く、ひたすらビビっているのである。
     「イヤですよ。こっちのこたつで寝ますよう」
     「なに言ってんの? ヘンな子だな。そっちじゃ寒いだろう。こっちで一緒に寝ようぜ」
     「そう言われても困りますって」
     押し問答がつづく。すると男は突如、さっきまでの柔和な仮面を外し、欲望の牙を露わにする。
     「おい、いいかげんにしろよ! 何のために今まで一緒にいたと思ってるんだ!」
     ぼくはその瞬間、理性というものを無くす。心臓の筋繊維が激しく収縮する。半鐘のごく打ち鳴らされ、全身の血管に大量の血が押し出される。手と足の20本の指先が痺れ、視界の奥に稲光がチカチカとまたたく。
     獣のスピードで男の上にのしかかり、パジャマの襟首を両手でつかんで、男の後頭部をベッドに叩きつける。言葉にならない唸り声を上げて、現時点での力の上下関係をはっきりさせる。
     抵抗する力を失った男の目は、気弱な山羊の目のように生気なくひからびていった。
     「ごめんなさい。もう言わないから、別々に寝ていいから、ごめんない」と半ベソをかいている。
     馬乗りにした男から降りたぼくは、こたつの部屋へと戻る。
     男は、天井の蛍光灯を消し、豆電球だけが灯る薄暗い部屋で、自分の過去についてぼそぼそと語り続ける。
     男性しか愛せないと気づいた学生時代のこと。愛した人との最後は、いつも一方通行な思いに支配されていたと思い知らされた日々。学校が春休みや夏休みになる時期に、一人旅の若者をハントするために、夜ごと高知駅へとでかけては声をかけて・・・声が消えていく。
     男は布団にくるまり、眠りについた。
     もう何も起こらなかった。
     夜明けは近く、ぼくはまんじりともせず、白けていく空を窓越しに見つめながら、人生というものについて少し考えた。昨日の夜、この男に出会ってから経った時間を指を折って数えてみる。6時間だ。本当に6時間なのか? 何日分もの時が過ぎ去ったように思える。
     夜が明ける。彼は流し台で顔を洗い、歯を磨き、脱いだパジャマを丁寧にたたむ。二人で部屋を出て、階段を降りる。階下の彼の店ではなく、近くの喫茶店へと歩いていく。モーニングを二人分頼むと、コーヒーにハムエッグがついてくる。「今からどこに行くの?」と聞かれたが、ぼくの頭の中には答えがない。果たしてぼくは、今からどこへ向かうのだろう。
     男の家に戻り、荷物をまとめて出発することにする。今いる場所がどこかわからないので、高知駅の方向を指をさして教えてもらう。
     店の前の道路で、この場にふさわしい別れの言葉が見つからずにいると、男は哀願するような顔になり「最後だからさわらせてくれる?」と言う。もう、これ以上、彼につらく当たることはできなかったので「うん」とうなづく。道ばたで股間をさわらせているのも変なので、店の中に引き返す。男はぼくの股間にそっと手をあてがい、しばらくそのままでいた。仕方がないので、ぼくはその間じゅう、店の白い壁を見つめていた。
     男と別れ歩きだすと、正面から射す太陽の光が黄色かった。
     「アレをやりすぎたら、太陽が黄いろーに見えるんぞ」と教えてくれたのは高校の同級生のカメオ君である。
     確かに、ぼくのマナコに映った太陽は黄色く、いつもより大きく見えた。黄色い太陽はさんさんと光の粒子を地上へと降らせ、街やぼくの輪郭は、その影響を受けてゆらめいていた。 (つづく)
     

  • 2018年12月10日バカロードその123 ブローニュの森にて

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

    (前号まで=16歳のぼくは春休みを利用して「人類史上初」のローラースケートによる四国一周の旅に出た。しかし安物ローラースケートは出発からわずか5kmで車軸が割れタイヤが取れてしまう。仕方ないので、そのまま国道195号線を自分の足で走って高知を目指し、3日後の夜中に高知駅にたどり着く)

     真夜中の高知駅。野宿を決め込み、段ボール箱をつぶした寝床で熟睡していたぼくを起こしたのは、黒ポロシャツの男だった。腹をすかせた少年を案じて、男は虎巻きと缶コーヒーを買ってきてくれた。
     虎巻きを喉につまらせてむせ返るぼくを、心配そうに覗き込む。
     「何か食べないとダメだよ。駅の近くにさ、ウマいメシを食わせる店があるから、連れていってあげるよ」
     断る理由は特にない、と思う。
     今宵の寝床と決めた2階から正面玄関に移動する。男はタクシーを指さし、乗れとポーズする。田舎の高校2年生、めったにタクシーになんか乗らないので、VIP気分で少しうれしい。冷え切った身体に、温かいエアコンの風がブアーッと当たって、いっそう幸福な気分になる。
     路面電車の線路の凹凸が伝える振動。屋台を覆う赤や黄色のシートからこぼれる光。旅に出てからわずか3日間とはいえ、まだかまだかと思い焦がれた高知の街だ。
     知らない街で、知らない男と、行方も知らぬ車に乗ったぼくは、まさに「銀河鉄道999」の星野鉄郎そのものであり、街の灯を銀河の星々に見立てて頭の中で遊んでみる。しかし、隣のシートに座っているのは絶世の美女メーテル、ではなくて高知のアル・パチーノである。痩せぎすで彫りの深い男を、ぼくはアル・パチーノと勝手に名づけた。ゴッドファーザーのマイケル・コルレオーネじゃなくて、「狼たちの午後」のソニー役のアル・パチーノ。
     15分ほど走っただろうか。タクシーは迷路のような裏道に入り、右折左折を繰り返す。ヘッドライトの光の奥に朱色の看板が浮かび上がる。「ブローニュの森」という店名が書いてある。
     タクシーを先に降りた男は、ぼくを振り返りもせず、ビルの外に備えつけられた鉄階段を、カツカツ踵を鳴らしてのぼる。突きあたりのドアを慣れた感じで押し開け、狭い厨房スペースにいる人物と軽い調子で挨拶をかわし、カウンター席に僕を招く。
     これはいわゆるバー、あるいはスナック。マスターらしき人がいるからバーなのか。どっちにせよ16歳の僕としては、初めて立ち入る大人の空間だ。
     ぼくたち以外に客が2人いる。灰色の髪の毛をした四十代後半とおぼしき男性と、シルク生地のシャツを着た三十前後の栗毛の女。女は酔っているようで、首の位置が定まらない。男の腕は女の腰に回され、上半身が隙間なく密着している。
     アル・パチーノが尋ねる。
     「お酒、飲んだことある?」
     あるような、ないような。
     マスターがウイスキー瓶と氷の入ったアイスペールを運ぶ。
     「これバーボン。飲めるかな」
     氷のカケラを頑丈そうなグラスにひとつ落とし、琥珀の液体を注ぐ。
     高校生といえど男児であり、酒ぐらいでビビッていると思われたくない。ロックグラスを鷲掴みにし、一気に流しこむ。たちまち熱い空気の塊が、食道の奥から逆流する。むせ返りそうになるのを、歯と唇を閉めてこらえる。
     男はその様子を見てクックッと笑っている。
        □
     アルコールなんて胃に落としてしまえば、どうってことない。酒の極意を極めつつある頃、店内の照明がすうっーと落ち、アップテンポなバックミュージックが流れだす。店の奥にしつらえられたステージにピンスポットが当たる。ステージといっても幅、奥行きともに2メートルくらいの狭さだが。
     舞台上座の安っぽいカーテンをめくって、2人の男が現れる。
    筋肉質の男と、肥満腹を醜くたるませた男。2人とも薄いビキニパンツ1枚を着けただけで、ほぼ全裸である。
     音楽のリズムに合わせて奇妙な舞いがはじまる。不規則に手脚を交差させ、互いの指先をからませる。こういう振り付けは、何かのダンスカテゴリーに属しているのだろうか。いや、そもそもダンスという部類なのか。素人が当てずっぽうで身体を動かしているようにも見えるし、前衛的な舞踏を演じているようにも見える。
     ステージを凝視している視界の隅で、男は僕のグラスにバーボンをなみなみと注いでいる。
     BGMがサビにさしかかると、2人のダンサーはスパンコールつきの薄手のパンツを、お互いに脱がせあう。股間にむき出しになったのはやけに白っぽい男性器。ロウ細工のように白い。陰毛をぜんぶ剃っているからか。非現実すぎてプラスチック製の人工物のように見えるが、男の動きに合わせて揺れるそれは、やはり肉そのものである。
     筋肉質の男が上半身をくねらせながら、背後から肥満男の腰を両腕で拘束する。円を描くように腰をループさせ、たるんだ尻に非現実的な肉棒を突き立てる。肥満男は後ろにのけ反り、ウーウーと押し殺したような声を漏らす。
     ステージの背後を彩る紫色の間接灯が、ぼくの眼底へしのびこむ。視界は薄ぼんやりとし、目の前に展開されている光景が、違う惑星のできごとのように思える。
     隣の席の男女が背中に両手をからめ、キスしはじめる。他人のキスしている様子を、こんなに間近で見るのは初めてだ。舌と唾液がからむ音が聴こえてきそうなディープキス。
     アル・パチーノの顔が、ぼくの耳元にある。
     「酔った? 興奮してる?」
     ささやく吐息が、耳の奥の神経に届く。彼の手がぼくの股間に伸びる。手のひらがゆっくり収縮する。
     見栄を張って胃を直撃させつづけたアルコール度数45度のバーボンのせいか、それとも16歳の小僧には抵抗のすべもない状況に追い込まれているのか。ぼくはなされるがままになる。
     アメリカンポップなステージミュージックとは真逆の音楽が遠くから聴こえてくる。ビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」。ランカシャーの道路に空いた4000個の穴を数える男の救いがたい物語、そして退廃。
     耳たぶの横で、男のささやきは止まらない。
    「夜が明けるまでだいぶ時間があるからさ、よかったら俺の家に来ない? 美味しい苺があるよ」
     その瞬間、気づいた。
     ぼくはこの旅から脱けだせない。大人になって、他人に従属したり、社会に迎合したり、組織に組み込まれたりすることがあったとしても、きっとこの旅に出た自分を捨てることはない。
     股間が熱かった。はやく家に帰りたいと思った。                        (つづく)

  • 2018年10月16日バカロードその122 高校2年、夜の底で

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく) 

    (前号まで=16歳のぼくは春休みを利用して「人類史上初」のローラースケートによる四国一周の旅に出た。しかし安物ローラースケートは出発からわずか5kmで車軸が割れタイヤが取れてしまう。仕方ないので、そのまま国道195号線を自分の足で走って高知を目指すことにした) 

     日が暮れてから何時間たっただろう。昼に家を出てからずっと走っている。いったい今は何時なのか。時計は持っていない。
     上那賀町の中心街(現那賀町小浜あたり)の向こうからは、唯一の光源である街灯がなくなった。
     右側の森の奥からガサガサと獣が動く音がする。左っ側のガードレールの向こうは深く切れ落ちた谷になっている。トンネルが何本か続けて現れる。ゴツゴツと波打つ岩盤の表面にコンクリを吹きつけただけの素掘りのトンネル。薄暗い黄色のランプが灯り、いかにも心霊が手招きして待ってそう。壁に浮き上がった地下水のシミが、人の顔に見えてくる。トンネルの中は外気温より5度は低い。寒さと恐怖で膀胱がキュンと縮まる。
     こわごわ抜けたトンネルの向こう。背の高い木立の間の狭い夜空を、光の粒をぶちまけるがごとく星々が埋め尽くしている。キラキラというよりギラギラと電飾のように主張が激しい。
     木沢村と木頭村への分岐点の手前に、集会所みたいな建物があった。ひさしのある玄関先の地ベタに横たわる。両脚がジンジンと熱い。裸足になった足の裏を、ひんやりとしたコンクリートの床にくっつけると気持ちいい。
     それから安物の寝袋に頭までもぐりこみ、穴から目と鼻と口だけを出す。夜明け間近の空気は肌を刺す冷たさで、吐き出した息はたちまち白い蒸気となる。星の洪水が降り注いできそう。これが野宿というやつなんだな。16歳、初野宿。偉大なる冒険家への一歩となる夜だ。
           □
     目が覚めると、あたり一面が白い。朝もやの奥にうっすらと黄色い橋が浮かんでいる。国道195号と193号を分ける出合橋だ。ここで那賀川と坂州木頭川が合流している。出合橋の上から見下ろす2本の川面はぴたりと静止していて流れを感じさせない。広大な湖にいくつもの小島が浮かんでいるよう。
     木頭村へとつづく狭い一車線の道を走りながら、すっかりこの旅に慣れている自分の心境変化を実感する。昨日は終始、興奮気味であった。初めて自分の足で旅に出て、知らない道を夜中じゅう走り、道ばたで野宿した。人生初体験が怒涛のように押し寄せた。
     しかし旅も2日目になると、心はすっかり大人びており、そうそうの出来事では驚かないぞという冒険家としての自意識が芽生えている。
     何かに追い立てられるように走る必要もない気がして、もっとこの偉大な旅を楽しむべきではないかと考えるほど余裕が生まれている。
     ひと回り厚みを増した自らを表現すべく、道ばたで拾ったエロ漫画本を読書しながら歩くことにする。田舎の道にはけっこうな数のエロ本が落ちているのだ。
     すると道路から一段あがった所にある畑から、野良着姿のお婆さんが興味深げにこっちを見ていたので「こんにちは」と挨拶する。
     「ぼく、どこから来たんえ?」と聞かれる。阿南からですと答えると「遠いのに歩いてきたんえー、勉強しながら偉いでぇ」とひとしきり感心する。エロ漫画を読みながら歩いている様子が勤勉勤労の士・二宮尊徳とカブったのだろうか。
     「いや、まぁそんなとこです」とモゴモゴ返事する。お婆さんが「おにぎり食べへんかえ」と言うので、ほしいです、ほしいです、と懇願する。プラスチックの弁当箱から取り出された、何の変哲もない海苔を巻いたおにぎり。中には、ほっぺたの脇の唾液の出口がキリキリ痛くなるくらい酸っぱい梅干しが入っていた。昨日、同級生の福良くんのお母さんにもらったバナナを食べてからまる1日、何も腹に入れてなかった。
     見ず知らずの村人と出会い、施しを受けながら、歩みを進めるのもまた旅の醍醐味であろう。「テレレレッテッテレー♪」と経験値のあがる効果音が聴こえた。
     大きなおにぎりを食べると、この旅に出てはじめての便意を催してきた。むろん木頭の山奥に公衆トイレなどない。崖側のガードレールをまたいで擁壁を両手両足を使って下り、杉の葉が降り積もった森で脱糞する。「テレレレッテッテレー♪」人生初の野グソでレベル5に昇格である。
     ぐねぐね道を右へ左へと曲がり峠道を登っていく。四ツ足峠トンネルの入口にさしかかると、2回めの日没がやってくる。「虎が出るので気をつけろ」と注意を受けた四ツ足峠トンネルだが、むろん魔物が現れたりはしない。それよりもこんな山奥に2kmもの穴を、戦争が終わって10年しか経たない頃から掘りはじめた土建屋のおじさんたちの熱量に感心する。こっちは走ってるだけでも大変なのに。
     トンネルの真ん中に徳島と高知の県境がある。徳島を脱出するのに、自分の足なら2日もかかってしまうのかと、その広さに改めて驚かされる。
     「十代のカリスマ」と呼ばれるロックシンガーたちは、生まれ育った場所を「こんなちっぽけな街」と歌い、飛び出さなきゃとアオる。だけど、端っこまで自力で到達するにはこんなに苦労しないといけない。しかも先人が原野を拓いて築いた道を使い、山ひだを掘り抜いたトンネルをくぐって。「生まれた街、あまりちっぽけでもないよなあ・・・」。筋斗雲に乗って地の果てまで行ったら釈迦の掌の上だった、みたいな気分。
     トンネルの出口からはひたすら下り坂。テケテケ走っているうちに精も魂も尽き果てたって状態になる。2泊目の寝床は、クワやトンガなどの農機具やコンテナが山積みにされた農作業小舎。バス停も兼ねているみたい。ベンチには座布団が敷いてあって温かい。今夜は熟睡できそうだ。
     ローラースケートを履いて旅に出たのが昨日のこととは思えない。遠い昔の記憶のようだ。
           □
     3日目は何ごともうまくいかなくなった。足の裏がグニョグニョするので、靴下を脱いで覗いてみると直径5センチの水ぶくれができている。いったいこれは何なんだ? 変な虫にでも刺されたのか。この頃のぼくは、長距離を走ればできるマメだと知らなかった。怪しい病気にかかったのかと気分がふさいだ。
     一度目にすると気になる。休憩のたびに裸足になって足の裏を注視する。水ぶくれは1個だけじゃなく指先や指の間に7つも8つもできている。一番大きいのは靴を脱ぐたびに大きさを増し、次第に真っ黒に変色しはじめる。これは血なのだろうか。両足とも水ぶくれだらけで、地面に着地すると稲妻のような痛みが電流となって脳天に届く。それはそれは痛い。
     ここにきて、旅のロマンだの冒険家としての自意識の芽生えなどはどうでもよくなり、歩いても歩いても縮まらない「高知○km」の道路標識を呪いはじめる。
           □
     高知駅にたどり着いたのは夜の10時頃だ。公衆トイレに入って鏡に映った自分を見ると、乾燥しきった髪の毛がボサボサと空中に逆立っている。メガネを外すと、フレームの跡を白く残してデコや頬っぺたが赤黒く変色している。可愛く言えばパンダ、実際んとこはドリフのコントに出てくるホームレスなおじさん顔。
     あまりに薄汚いので風呂に入りたくなり、駅前で立ちタバコをしていたタクシーの運転手に近場の銭湯を教えてもらう。駅のすぐ裏手にある時代がかった銭湯で汗とアカを流す。銭湯を出て、野宿ポイントを探してうろつくが、高知駅の周辺には適当な場所が見当たらず、ボロい駅舎に戻る。
     1階の待合室に、ヌシのように腰掛けているホームレス風情の爺さんを発見。髪の毛ばかりか顔中が白髪で覆われている。何となくこの人の許可が必要な気がして「寝れるとこないですか?」と話しかける。眼光鋭くこっちを見返した仙人爺さんは「君、幾つ?」と問う。「16歳」と答えると「いい場所があるので少年に提供してあげよう」と先に立つ。
     照明の消えた2階への階段を登った先は踊り場になっている。脇の土産物店は営業終了している。ここなら朝まで誰もやってきそうにない。確かにベストポジションである。仙人爺さんは「敷き布団にしろ」と段ボールをくれると、余計な会話は不要だとばかりに、きびすを返して去っていった。
     過去2日の寝床に比べると天国のようだ。寒風は吹きつけないし、夜露に濡れる心配もない。3日ぶりに入った風呂の石鹸の匂いが心地よい。
     眠りに落ちて何時間たったのだろう。数分なのかもしれない。目が醒めると、仰向けに寝ている枕元に人の影がある。両方の膝に肘をつき、しゃがみこんだ姿勢で、こっちの顔を覗き込んでいる。歳の頃は三十代後半。黒いポロシャツによく刈り込んだ短髪の男。
     「大丈夫?」と話しかけられる。
     どの点を確認しているのか不明だが「ダイジョウブです」と答える。
     「どこから来たの」
     「徳島からです」
     「サイクリストなの?」
     「いえ走ってきました」
     「ふーん、変わってるね」
     方言ではなく標準語を使っている。ぼくが晩ごはんを食べていないことを確認すると「ちょっと待ってて」と階段を駆け下りていく。10分もしないうちに戻ってくると、熱い缶コーヒーと和菓子の虎巻きパックを床に置いてくれる。「食べなよ」と言う。
     喉が乾きすぎていて、虎巻きの生地が唾を持っていってしまい、無理に飲み込んだらゲホゲホとむせ返る。喉につまった虎巻きを缶コーヒーで流しこもうとしたら、熱すぎて目を白黒させる。
     「ホントにダイジョウブなの?」
     男はぼくの前髪に人差し指を当てると、髪をかきわけ、手のひらを額に当てる。「熱はないか・・・」。血管が浮くほど痩せた前腕。手首から香水のいい匂いがする。心なしか男の視線が熱い。      (つづく)

  • 2018年10月16日バカロードその121 16歳、暗闇をバナナ抱えて

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
     人類はいま自分たちを地球の盟主と信じこみ、原油を掘り尽くし、魚を底ざらえし、ミサイルぶっ放したりと、やりたい放題やっている。まとこにヤバい種族に神は智慧の実を喰わせてしまったものである。

     46億年の歴史がある地球で、たかだか10万年生き長らえただけのホモ・サピエンスが覇王気取りなのはおごり以外の何物でもない。それに10万年どころか、近代文明に属する人間が地球のあらましを目撃しだしのは、たかだか500年前からなんである。
     ヨーロッパ人が北米大陸に到達したのは1492年、オーストラリア大陸へは1606年。全大陸の形を大まかにとらえた世界地図が初めて描き上げられたのは1500年代後半から1600年代中盤にかけてのメルカトルやブラウの時代だ。この頃になって人類はようやく、地球全体の土地と海がこんな形になっているという認識を持った。
     それから400年後の1969年、地球以外のよその天体である月にアームストロングとオルドリンが降り立つ。地球の重力圏を離れた星に人間が初上陸するのは、次に火星と大接近する2035年だろうか。
     人類の悪行はとりあえず置いといて、近代史500年は輝かしき探検と冒険の歴史でもある。新大陸発見をメインイベントとして、大陸の先っぽを廻り込める新航路や、運河を掘れる地峡の発見は、西欧型の文化や思考を地球の隅まで拡げるのに役立った。
     経済的利益を求めた探検の時代は、大陸と航路を見つけ終わると徐々に終焉する。すると探検はアドベンチャーと呼ばれだしスポーツ化していく。北極点、南極点、世界最高峰への到達は、名誉と名声を懸けて行われた。これらモンスター級の目標物を攻略すると、人々はバリエーションを競うようになった。無酸素、無補給、無寄港はいいとして、最高齢、最年少、女性初、女性最高齢、少女初・・・と細かくなってくると、値打ちがあるんだかないんだか、よくわからない。
     大雑把に言えることは、ヴァスコ・ダ・ガマも三浦雄一郎もイーロン・マスクも、みな他人に誇れる「人類初」のポジションが魅力に映っているってことだ。
         □
     これら偉業をなしとげる人類の皆さんとはまったく縁遠い、四国の田舎の片隅で、高校2年生の僕は壮大な遠征計画を立てていた。
     ローラースケートによる四国一周、である。自転車で四国一周した人は数えきれないほどいるだろうし、一周に等しい八十八ケ所巡りのお遍路さんは歩きが基本。でも、ローラースケートなら前人未到に違いない・・・というスキマ狙いの着想である。
     草刈りのバイトくらいしかしてない16歳に貯金はあまりないので、一流メーカー物のローラースケートは買えない。そこでチャリ通学途中にある怪しい品揃えのホームセンター・・・戦国武将の鎧甲冑や、中世ヨーロッパの剣、ツキノワグマの剥製に数十万円の値札をつけ堂々と陳列しているような、いわゆるバッタ物屋にて入手した。メイド・インどことも書いていないローラースケートは、2980円とお求めやすい価格であった。
     冬休みが明けると、放課後はローラースケートの練習に充てた。今も当時もローラースケートなんてやっているのは小学生までが相場であって、高校生にもなってシャーシャーと道路を走っているのは恥ずべき行為であったが、「人類史上初の冒険」というお題目が羞恥心を消した。
     特訓3カ月。3学期の終業式を終えて午前中に帰宅すると、あらかじめ用意してあった荷物をリュックに詰め込み、すぐさま家を出た。リュックの中身はこれらだ。
     ・寝袋(1980円)は先ほど説明したバッタ物屋で購入。
      ・ヘッドランプ(3000円くらい)は、徳島大学常三島キャンパス前にあった「リュックサック」という登山用具専門店で購入したちゃんとした登山メーカーのモノ。
     ・防寒用の毛糸の帽子(マネキで買った安物)。
     だけである。こういう長期間の旅に何が必要かは、考えてもよくわからなかったのである。地図すら持ってはいない。
     阿南市内にある自宅からは、国道195号線をひたすら西へ西へといけば高知市に着くだろう、という当てずっぽう。とりあえず道路標識に書いてある「鷲敷」を目指すことにした。
     「ああ、今から僕はどうなってしまうんだろう」などと人生初の冒険旅行に心打ち震えていたのは最初の10分である。出発して1kmもしないうちに登り坂がはじまり、自分に陶酔する余裕はなくなる。ゼエゼエと息は荒く、汗だくになるのだが、ローラースケートはぜんぜん登り坂を進まないどころか、足を休めると後ろに下がっていってしまう。バッタ物屋で買ったローラースケートは片足1キログラム以上はあって鉄ゲタのように重く、着地のたびにガチャガチャとうるさい。
     思えばローラースケートの特訓は、近所の平坦な道をシャカシャカ転がしてただけで、登り坂の練習なんて一度もしていなかった。
     それでも地味に30センチずつ前進し、周囲の景色が山だらけになってきた頃、ふいにローラースケートの底がガリッと音を立てて地面につき刺さり、つんのめってコケそうになる。下を見ると、なんと片側の車輪が取れているではないか。
     ちょちょちょい! 壊れるん早すぎるって! まだ家から5kmも進んでないって!
     外れた車輪を力ずくで車軸にねじ込んでもグラグラしていて、走りだすとすぐに外れてしまう。修理をする工具など用意しておらず、仮に工具があったとしても、車軸からポッキリ割れているので修理しようがない。想定全長1000kmに及ぶ旅は、わずか5kmで頓挫したのである。
     壊れたローラースケートを道ばたのバス停に置き去りにし、僕は走りだす。とつぜん「前人未到の偉業」がついえてしまい、どうすればいいかわからなくなり、走るしかなくなったのである。
     旅をやめるという選択肢はなかった。春休みはまだ10日以上ある。目標はないけど、どこかに向かって進むしかない。
     ローラースケートを捨てると身軽になり、苦悶していたさっきまでと打って変わって、坂道をぐんぐん登れる。阿瀬比トンネルを抜けると道は平坦になり、気持ちも落ち着いてきた。旅ってけっこう楽しいんでない?  僕は変わり身が早いのである。
     鷲敷と相生の街を抜けると、すれちがう小学生たちが物珍しそうな顔でこっちを見ては「さようならー」と挨拶してくれる。
     道ばたの田んぼのあぜ道で、おばあさんが中腰のままスボンを膝までおろし、股の間から後方にシャーッとオシッコをはじめる。女の人の立ちション姿は生まれて初めて見た。
     自宅からたった数時間移動しただけで、別の世界にやってきたかのようだ。
     憧れの人たちと自分を重ね合わせる。冒険家・植村直己は犬ぞりで北極点を目指し、22歳の上温湯隆はラクダを引いてサハラ砂漠を横断しようとし、青年藤原新也はカメラ片手にインドを放浪した。そして16歳の僕は今、相生でおばあさんの野ションを見ているのだ。「これが旅というものなんだ」と感動にひたる。
     川口ダム湖を過ぎると、夕暮れに空が燃えていた。
     後ろから脇を通り過ぎた軽自動車が急ブレーキを踏み、路肩で停まった。左右のドアが開くと、高校の同級生の福良くんが顔をのぞかせた。運転席から下りたのはお母さんのようだ。
     わけのわからない旅に出た同級生の心配をして、50kmも車を走らせて探しあててくれたのだ。
     「これ持っていき」とお母さんが差しだした袋には、ジュース2本とお菓子とバナナ1房が入っていた。
     「ほんまにこんなところまで来たんか。死んだらあかんぞ」と福良くんは言う。
     「死なんだろ」と僕は答える。
     福良君とお母さんは長居することなく、車をUターンさせて帰っていった。さみしい気持ちになって車が消えるまで見送った。
     川口ダムから西は民家が少なくなり、完全に日が暮れるとすれ違う人もいなくなる。街灯のない暗い夜道を走っていると、お母さんが去り際に残した言葉が頭にこびりついて離れない。
     「このまま高知に行くんだったら、木頭を越えた所にある四ツ足峠でトンネルに入るんやけど、ほこには虎が出るけん気をつけて」
     意表をついた情報に、ぼくは「トラ?」と聞き返したが、親子はうなずくばかりで何も答えてはくれなかった。
     (日本に虎やおるわけないでえな)と常識ではわかっているのに、頭の中には黄色と白のシマシマ模様で、牙をむいて迫ってくる虎のイメージが、どんどん輪郭を強めていく。
     街灯ひとつない漆黒の国道195号線。
     目を開いても閉じても、なんにも見えない深い闇のなか。僕は虎の恐怖におびえて背中に冷たい汗をかきながら、重いバナナを1房抱えて走り続ける。 (つづく)

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    (最近のできごと)7月、みちのく津軽ジャーニーラン(青森県)、188kmの部に出場。初開催から3年目だが、263kmの部と合わせると350名が出場するという、200kmクラスの超長距離レースの大会としては国内最大級の規模に成長している。188kmの部は、弘前駅前公園を朝6時に出発。制限時間は38時間で、翌日の夜20時までに弘前市内の大型ショッピングモールの玄関に用意されたゴール(目立つのでまあまあ恥ずかしい)に戻らなくてはならない。
     レース当日は、早朝から雲のない日本晴れ。コース上に日陰はなく、直射日光がお肌をチリチリ。左右対称の完璧な三角錐を描く岩木山のフチをぐるりと廻り込み、38kmあたりで白神山地の麓にある観光用の遊歩道へ足を踏み入れる。昼には気温33度まで上昇し、決壊したダムのごとく汗がドバドバ濁流となって落ちる。序盤にして暑さにやられ、早くもグロッキー状態。白神の森を抜け出した所でバッタリと仰向けになって天を仰ぐが、寝ていても何も進展しないのでノロノロ起きてまた走りだす。
     55kmでいったん日本海に面した漁港へ出て、すぐに内陸へと再突入する。青い稲穂が揺れるだだっ広い平野を貫く一本道を、太陽に焼かれながら北上する。90km付近から海のように広大な「十三湖」の湖面が右手に。ここはシジミの名産地だけど、シジミ汁を出してくれる有名店は夕方早々に店仕舞いしていて、何にもありつけはしない。
     日がとっぷり落ちた夜8時過ぎ、104kmの大エイド「鯖御殿」に着く。ここは食事スポットでカレーライスや筋子丼など、工夫を凝らした地元グルメを用意してくれている。しかし疲労からか、何も喉を通らない。
     コースの半分を過ぎ、残り78kmしかないので、ぼちぼちお気楽ムードに浸ってもよさそうなもんだが、そうは問屋が卸さない。大エイドを出てからゲロ吐きがはじまると悪戦苦悶。朝から腹に入ったのはメロン2カケとガリガリ君の梨味2本くらいで、ゲロ吐きによって更にエネルギー供給が止まり、ハンガーノックに陥って脚が動かない。人目のつかない道ばたで、潰れたカエルのようにみじめに地に伏しては「5分だけ、10分だけ」と休憩時間を延長しつつ、夜道をさまよう。
     朝日がのぼると灼熱びよりは相変わらずで、木陰のない道にできた黒い自分の影を追いながら、魂の抜けた屍となってふーらふらと進む。
     黒石駅前のレトロな街「中町こみせ通り」は、藩政時代に造られた木造のアーケードが印象的。ここで177km。エイドで黒石名物「つゆ焼きそば」を出してくれ、レース始まって以来の固形物をとると、胃の中でエネルギーが炸裂し、急に足が回転しはじめる。って今ごろ絶好調の波が来るなよ。残り10kmしかないんだよ、手遅れでやんす。
     けっきょく188kmに31時間27分もかかってしまったが(目標は28時間)、参加150人のうち15位と順位はよろし。みなさん暑さに潰れたのでしょう。
     ゴールすると、スタッフの方が「(エイドの食事用に用意していた)筋子が大量に余っていて、白米はないんだけど欲しい?」というので、ショッピングモールのスーパーに駆け込みパック入りの白ごはんとビールを調達。見たこともない巨大な筋子を乗っけて、米に食らいつく。しょっぱい筋子が喉を落ちると、塩分が抜けきった全身の細胞に、血流に乗ってドクドクと運ばれるナトリウム。「塩しびれるー!」と叫ぶ僕を、距離を置いて取り巻いていた子どもたちが、怪訝な目で眺めていた。

  • 2018年09月01日バカロードその120 逃走しよう!

    文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく) 

     人類は生まれながらにして、できるだけ遠くへと歩いてくように遺伝子にプログラミングされている、と思う。移動を続けながら、野生動物を子どもから育てて飼いならすことを覚え、植物のタネをまいて実を収穫し、食料事情を安定させる方法を発明した。食い物に困らない環境がつくれた土地で定住を決める。いったん決めてはみるんだけど、いつかはその場所から移動をはじめる。

     集団の中でいさかいごとがあって、負けた人たちが追い出されたり、場に溶け込めない風変わりな人間が一人で荒野にさまよい出たり。男女の駆け落ちもあれば、オキテを破った者の逃亡もあるだろう。
     もろもろ理由のいかんを問わず、人類という大きな種族のかたまりは移動に移動を続け、アフリカ中央地溝帯の南のはしっこあたりから南米パタゴニアの隅っこまで、3万5千kmほどの道のりを歩いて旅することになる。
     サルから人間に近づくまでに10タイプくらいのヒト属種がいたけど、とりあえず僕たちの祖先であるホモ・サピエンスは、理由はわからないけど7万年前に、アフリカから北へ北へと歩きはじめた。アフリカから南米まで3万5千kmって途方もない距離なんだけど、7万年を平均すると、1年に500mしか移動してない。原始狩猟時代の先祖は、狩りのために1日20kmも30kmも走って動物を追い詰めたようだから、1年500mなんて距離は、自分が北上・西行したことにすら気づかない微々たる変化だろう。
     ご先祖たちは、それまでの定住地よりも果実がたくさんとれる森や、おいしい肉をぶらさげているヌーやツチブタを追いかけながら、知らず知らずのうちに地中海とベーリング海峡を渡り、その先には荒れ狂う氷の海しかないマゼラン海峡にまで行き着いた。
     厳しい旅で鍛えられた人類は、雨が1滴も降らない砂漠や、大蛇と大サソリがうごめく密林や、凍てつく永久氷床の上と、どんな環境にも適応し、地球という天体の陸地のほとんどを生存拠点とし、種の繁栄を実現した。こうやって、人類は偉業をなし遂げたわけだけど、先頭を切って移動をしつづけた人たちは、誰も「そうしたくて歩いていったわけではない」と思う。
     よその家族の乾燥肉をかっぱらったり、ボスの留守中に嫁とちちくりあったりして、もろもろの悪さをした結果、石をぶつけられて集落から追われ、仕方なく5km先の洞窟で身を潜めて生きながらえた、といった「村八分」型の移動が多かったはずだ。移動の先陣にいたのはハグレ者なのだ。
     集団を統率できる知性と身体能力に富んだ人は、7万年前でも女にモテただろうし、わざわざ集団を離れる理由はないものね。
     だが逆に、長年にわたって少集団の定住が固定化されると、血縁者同士による交配が増え、おのずと健康上の問題が生じて、集団が危機に瀕することもあっただろう。
     つまり人類は、近親交配による絶滅へのリスクヘッジと、酷暑・極環・風土病などの悪環境に適合していく尖兵役を「村から追い出されたヘボいヤツら」に託し、遺伝子を地球の隅々まで運んだことになる。
           □
     前置きが長くなったけど、僕が言いたいことはひとつなのだ。
     「昔っから社会に適合できないバカは、遠くまで歩いていきたくなる」
     これは、ひいひいひいひいひい×3500回の爺さん、婆さんあたりから受け継いだ宿命であり、クセなのである。だから避けようがないのだ。
           □
     さて人類のお話から、僕個人の話に矮小化する。
     僕の逃げグセはひどい。世の中の多くの人が真剣に向き合っている行事に対して、僕はマトモに取り組んだことがない。
     大学には行ったけど1日でやめてしまい、就職活動といえばバイト面接以外は一度もしたことがない。嫌なことを耐えたり、我慢してやるという日本人的な感性を持てない。目上の人を敬ったり支えたり、目下の人を慈しんたり育てたりという道徳心がない。
     今いる場所から逃げだしたい、遠くに逃げたいとばかり考えている。
     精神病理学上はスキゾフレニアってやつ、つまり分裂病だ。昭和のニューアカデミズム用語でカッコよくいえばスキゾキッズ。要するに、閉じられた空間のなかで蓄積された成果や人間関係に自分の位置を見いだすことに価値を感じられず、既存の枠組みから逃走したくてしたくて、理由もなく病的にしたくてたまらない人のこと。
     一方で、社会常識を推測する能力くらいはあるので、地の欲望を解放すると完全に無法者となってしまうのを理解している。だから、ふだんの生活では抑圧に抑圧をつづけている。平日には一般市民らしく行動・言動し、道路や廊下の隅をできるだけ小さくなって歩いている。
     他人にはまず理解してもらえない逃避グセをガス抜きするために、週末にはウルトラマラソンの大会(100km~500kmほどを走る)に出たり、ひとりで数百km先まで走りにでかける。
     これらは逃避の代償行為である。あくまで疑似餌であって、本当のエサではない。
     自分にウソ偽りなく心のおもむくままに行動するのなら、行くあてもなく街を離れ、何の目的もなくさまよい、誰も知らない誰もいないところまで移動しつづける・・・のがあるべき姿である。
     しかし、測位衛星がぐるぐる周回する現代の地球には、誰も知らない場所なんて1ミリもないのである。Google Earthにはチベットの山襞の1枚1枚、グリーンランドの氷河湖の1粒1粒まで詳細に映し出されている。そんな辺境に定住者はいないとしても、人間の目に晒されていない土地はもはやなく、今後もテクノロジーの進化が未知性を引き剥がしていく。
     7万年前、村の決まりを守らずに棍棒で殴られ、土くれしかない不毛の地に追い出されたバカ男は、寂しかっただろうがトキメキもあったと思う。その先には何もなく、自分を抑えるものはなく、誰も知らないだだっ広い荒野が、あるだけなのだから。
     僕はそんな村八分男の、ちょっとしたマネごとをやってみたいのである。 (つづく)
    ---------------------------
    (できごと) 6月、サロマ湖100kmウルトラマラソン(北海道)に出場。9時間切りをめざして序盤50kmを4時間26分08秒で入る。ところが「人は飢餓状態におかれると本来の能力が目覚める」という何かの本に書いてあったことを試すために、スタート時刻前の20時間メシを抜いたせいか、50kmすぎから超絶ハンガーノックになりふらふら。またベスト体重58kgに合わせようと前夜に宿のサウナで2kg絞り、おかげで目まいもひどい。あえなく撃沈し、結果は9時間49分39秒。皆さん、レース前はごはんをしっかり食べましょう。

  • 2018年09月01日バカロードその119 めざせ難関サブナイン! 

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     歳を取るのをありがたがる人って少数派だと思うんだけど、ぼくは老化が進むのって便利だなあと、日々感心している。人体や脳みそには、人間をラクに老けさせていく機能がインプットされているようなのだ。

     老化によるボケは、深刻な認知症ともなれば周囲を混乱に巻き込んでしまうが、一方で老女を可愛らしい乙女に退行させたりして、現世のあらゆる悩みから心を解き放ち、死への恐怖を軽減させてくれる。
     どっちに振れるかは自身ではコントロール不可能な領域なので、なるべく周囲に疎ましがられないようにボケたいと願う。
     他者との介護上の関係性はさておき、個人の脳内だけの変化を分析するに、老化とともにあらゆるものがどうでもよくなってくる。大まかには「衣食住」への執着がなくなる。若かりし頃に大切に思えた、おしゃれな服を着て、おいしいものを食べて、すてきな暮らしを営む・・・ことの値打ちが目減りしていく。
     ほら、農山村で生活してる高齢のご老人いるよね。何十年も前に買ったありあわせの服を着て、食事はわずかな白米に漬物と梅干しがあれば良し、家は多少の雨漏りやムカデの繁殖くらいなら容認。そういう達観状態に近づいていくのである。座って半畳、横になって一畳以上のスペースは、生きてくうえでは本来必要がない。広すぎる家は、掃除が大変なだけである。
     小皿にちょっとだけ盛られた懐石料理や、大皿にちょっとだけ盛られたフランス料理をありがたがる繊細な舌は元々ないが、加齢とともに一層舌の鈍さは増す。一方で、ガリガリ君やパピコのおいしさはこの世の天国に等しい。70円少々の出費で満足しているのだから、それ以上を求める必要がない。
     どんな仕立てのいい服やブランド物を着てようと、見栄えで人の本質は変わらないと経験から学んでいる。肩書きや立場の良し悪しが人の価値とは比例しておらず、どっちかいうと立場が上の人ほど浅ましいことも。人間は、経歴や所属や資産で身を飾りたがるが、しょせんはうたかたの物である。
     必要以上のゼニカネや人様からの評判を溜め込もうと気を尖らせても仕方がない。カネも名誉も、棺桶に入れてあの世に持っていけるものは何もない。他人からいいね!ともてはやされる人を目指すと日々切羽詰まってくるが、ふだんから薄汚いバカ者だと誰からも相手にされていないなら、何かと気楽である。人の価値なんて、スーパー銭湯の脱衣所でスッポンポンのフリチンになったときに「どんだけのものなの?」を示せればいいのだ。
         □
     このように、あらゆる点で年寄りは若者を凌駕しておるのじゃが、唯一難点がある。身体的な能力の低下だ。
     歳を取れば健康上の諸問題が押し寄せてくる。しかし身体のどこかに慢性的な痛みがあっても、若い頃なら「何か深刻な病気のサインか」などと気をもむが、五十も過ぎれば「どうせどこかは痛いし、あと何年かしてあの世に行くまでのことだから」と素直に痛みを受け入れられる。病というものは不思議なもので、あれこれ悩みを深めていると進行が早まるが、気にせず笑っていると知らぬ間に治っていたりする。
     何ごとも、あるがままを受け入れると楽ちんなのだが、唯一、ランナーたる自意識がそれを邪魔する。
     「昔出したタイムで走れなくなった」「あの大会を完走できなくなった」とレースのたびに肉体からダウン提示が出され、ガックリ落ち込んで帰路につく。
     この執着心だけは消しようがない。「今年あの記録を出せなければ、来年からはきっと下降ラインに乗って二度と出せない」という強迫観念に迫られる。仕事がどんなにコケていても大して悩まないのに、ただの趣味で苦悶する。バカである。しかし、こればかりは心が勝手に動くのであって、理知的に対応できない。
    加齢の進むランナーは、「今年が体力のピークかもしれないから、今年だけはタイムに固執したい」「今年がラスト勝負なんだから、全身全霊で向うのだ」と毎年のように強く思っているのである。バカである。
         □
     ぼくもその性から逃れられない。今期前半の最大目標は、100kmマラソンで9時間を切る「サブナイン」としている。自己ベストは9時間40分で、我が身をかえりみず上方修正しすぎの目標値であるが、そうしたいのだから自分でも止めようがない。
     あるウルトラマラソンの情報サイトには(世の中にはどんな狭いジャンルにもマニアがいて、対価を求めない奇特な努力で情報提供をしてくれるのである)、100kmで9時間を切れるのは全ウルトラランナーのうち3%、それが50代以上となると1%を切る、と書かれている。
     そのサイトには統計的根拠が示されていなかったので、自分で調べてみることにした。日本の100kmマラソンの頂点にある大会といえば、6月に北海道で行われるサロマ湖100kmウルトラマラソンであることは多くが認める所だろう。記録表が入手できた2014年から2016年まで3年間のサロマのゴールタイムの分布を調べてみた。

    □男子出走者のべ8430人中
    6時間台 30人(0.4%)
    7時間台 97人(1.2%・8時間未満計1.6%)
    8時間台 293人(3.5%・9時間未満計5.1%)
    9時間台 774人(9.2%・10時間未満計14.3%)
    10時間台 843人(10.0%・11時間未満計24.3%)
    11時間台 1444人(17.1%・12時間未満計41.4%)
    12時間台 2681人(31.8%・13時間未満計73.1%)
    リタイア 2268人(26.9%)

     サブナイン(9時間未満)の比率は5.1%である。また多くの市民ウルトラランナーの目標とするサブテン(10時間未満)は14.3%である。分布率からフルマラソンの難易度に当てはめると、サブナインはフルマラソンの3時間10分切り、サブテンは3時間30分切りに相当しそうだ。ただしサロマ参加者は「100kmを完走できる」というフィルターを通した中級以上のランナーであり、誰でも彼でも出ているフルマラソンの達成率よりはゆるく出ているだろう。
     2017年のサロマでは、55歳以上372人のうちサブナイン達成者はたった3人しかいない。こと55歳以上に限るとサブナイン達成率は0.8%まで下がる。
     (サロマでは年齢刻みが45歳~55歳という区分なので、50歳以上に限定したデータは取れなかった)
         □
     では、ぼくが目標とするサブナインを達成した人々は、どんなペース配分で100kmを走ったのか。
     2017年サロマでは、8時間50分から9時間未満の10分間に24人がゴールしている(左ページ表を参照)。それぞれの選手の10km、フル、50km地点の通過タイムを洗い出してみよう。
     まず10km地点では24人のうち最多の6人が47分台、次いで多い5人が51分台で通過している。

    □10km通過タイム
    最速 44分25秒
    44分台 1人
    45分台 2人
    46分台 1人
    47分台 6人
    48分台 2人
    49分台 3人
    50分台 3人
    51分台 5人
    52分台 1人
    最遅 52分10秒

     100kmを9時間ちょうどでゴールするためのイーブンペースは1km5分24秒、10kmでは54分ジャストである。もちろん100kmの長丁場を同じペースで走りきれる人はいない。後述するが、前半50kmまでに15分から30分ほどの貯金が必要である。中間地点のイーブンタイムは4時間30分。15分の貯金を作るとして4時間15分。これをクリアするためにはキロ5分06秒、10kmを51分で進む必要がある。
     入りの10kmを47分台とした人たちは、サブナインより上の目標を設定し、後半潰れてしまったか、もしくは前半50kmで30分ほどの余裕を得て後半のプレッシャーを抑えようとしたか、どちらかだろうと推測する。
     入りが51分台の方々は、まさにサブナインを出すために理想的なタイム配分をし、計算どおりに最後まで走りきったクレバーな方々だろう。
     次にフルマラソン地点(42.195km)の通過タイムを分析しよう。

    □フル通過タイム
    最速 3時間12分55秒
    3時間10分~14分59秒 1人
    3時間15分~19分59秒 3人
    3時間20分~24分59秒 3人
    3時間25分~29分59秒 13人
    3時間30分~34分59秒 2人
    3時間35分~39分59秒 1人
    3時間40分~44分59秒 1人
    最遅 3時間40分14秒

     タイムにばらつきがあった10km地点に対し、面白いほどの集約が見て取れる。24人のうち半数以上となる13人が3時間25分~29分59秒の5分幅で通過しているのである。
     これはひとつの黄金法則ではないか。
     「サブナインを達成するには、フルをサブ3.5ギリギリで通過すること」
     と言っても残り距離は58kmもある。全力を出してサブ3.5を切っても仕方がない。口笛吹けるくらいの余裕をもって3時間半以内にフル地点を通過しないと、サブナインには至らない。
     24人のうち最も遅い人は3時間40分14秒。これより遅くなってしまえば戦線離脱と言っていい。
     中間点である50km地点も見てみよう。

    □50km通過タイム
    最速 3時間52分31秒
    3時間45分~50分未満 1人
    3時間50分~55分未満 2人
    3時間55分~4時間未満 0人
    4時間00分~05分未満 6人
    4時間05分~10分未満 8人
    4時間10分~15分未満 5人
    4時間15分~20分未満 1人
    4時間20分~25分未満 1人
    最遅 4時間22分33秒

     いったんフル地点で足並みが揃ったものの、わずか7.8km先でバラけている。これは多くの選手が、フル地点での目標値をサブ3.5に設定しており、中間地点までは少しペースを緩める人が出てきたということか。
     24人の平均値は4時間6分29秒である。平均値を元にキロあたりペースを計算してみよう。サブナインランナーたちは、前半50kmをキロ4分56秒、後半50kmをキロ5分47秒でカバーしている。ごく単純にイメージするなら、前半50kmをフルサブ3.5ペース、後半50kmをサブフォーペースで押していければサブナインを達成できる。
     最も遅く通過した4時間22分33秒のランナーは、8時間54分28秒でゴールしている。7分27秒の貯金を中間地点で持ち、最後までほとんど貯金を減らさない(5分32秒)まま100kmに達している。走力的にはこの方がいちばん強いと見る。
         □
     さて、このようなハイペースをぼくが維持できるのかと自問すれば、相当困難である。ぼくはフルマラソンの自己ベストが3時間19分04秒だが、平均すれば3時間25分ほどの実力に過ぎない。
     つまり100kmレースのフル地点を3時間29分前後でいくには、ほぼ全力で前半を突っ込まなければならない。そんなことすればきっと後半は歩くのもやっという所まで潰れるのがオチである。・・・との悲惨な末路を予見しながらも、突破する方法はないものかと模索する。
     3月から練習内容を以下のように変えてみた。
     まずはふだんのジョグペースを上げる。日常の疲労抜き10kmジョグを、今まではキロ6分程度で行っていたものをキロ4分50秒に設定し直す。これにより前半50kmまでのペースを身体に叩き込む。
     キロ4分50秒、つまり10km48分ほどのスピードを懸命に出すのではなく、「極めてゆっくりだよね」との意識でいられるよう走りの巧緻性を高める。口はつむったまま、鼻呼吸を保てる程度の負荷で、イージーに前に推進していくフォームを見つける。
     週に2度、水曜と週末はハーフもしくは30km走(キロ5分)を行い、中間地点までにヘバらない脚を養う。
     さらには、キロ6分ペースの50キロ以上走を月2回。後半タレてストライドが狭くなった時でも、キロ6分をオーバーして自滅しないためのロング走だ。
     勝負レースはサロマ(6/24、北海道)とし、その3週間前の柴又100K(6/3、東京都)にもエントリーする。
     柴又100Kで序盤をキロ5分ペースで入り、何キロ地点で潰れるのか、また潰れた後にどの程度粘れるのか。その時点の能力を確かめたうえで本番のサロマに挑む。
         □
     5月上旬の連休を利用して、徳島市の吉野川河口からから愛媛しまなみ海道経由で、島根の日本海側までのジャーニーランにでかけた。
     来たるべき100kmサブナイン挑戦への足づくりの意味合いが強いので、ふだんの走り旅のようにトロトロしないように自戒する。バックパックを担ぐ負荷を考慮しても、キロ6分台で前進するよう心がける。
     初日は徳島市から西条市まで140km、2日目は尾道市まで100km、3日目三次市まで70km、4日目出雲市まで80km。合計390kmの行程である。
    で、その旅日記を書く予定だったのだが、あえなく徹夜明けの愛媛県境あたりで両足を傷めてしまい、これ以上酷使すると1カ月後の柴又100kmに影響すると判断し、完走をあきらめた。たまには常識で物事を計ることもオトナには必要なのです。105km地点の伊予三島駅から電車でワープした。
     今治駅前から尾道市までは、自転車を車内に積み込める新・直行バス「サイクルエクスプレス」ってのに乗る。今までは因島のバス停乗り継ぎで2時間30分かかっていたこのルートを、1時間20分で尾道駅前まで運んでくれる(片道2250円)。ゴールデンウィーク中の尾道市内にまともな宿が空いているはずはなく、宿泊サイトで唯一予約が取れた旅館に向うと、玄関ドアの取っ手が外れかけ、カウンターまでの通路は物置状態、エレベータはガタガタ横に縦にと揺れるハードボイルドな宿であった。さすが宿泊サイトのユーザー評価ほぼ1つ☆宿である。5月初旬なのに部屋の中には蚊が群れ飛び、耳元でキーンキンと騒いでくれたおかげで一睡もできず、徹夜走のよい練習になる。
     ズルして電車とバス旅を満喫しているうちに足の痛みは治まり、尾道~出雲間150kmはキロ6分~7分ペースを取り戻して走り切る。
     この中国地方を縦断する道には近年「やまなみ街道」あるいは「歴史街道54」「出雲神話街道」「飯石ふれあい農道」などの名称がつけられ(やたらと愛称の多い道です)、しまなみ海道と同様にサイクリスト向けに道路のアスファルト表面に距離表示や方向が示されていて、ジャーニーランナーにとっても快適な道となっている。
     全行程のうち90%程度は歩道が広く取られ、自動車との接触が危惧される場所はない。ほどよい間隔で道の駅が現れ、トイレには暖房が効き、おおむねウォシュレットを装備している。いくつかの道の駅は真夜中でも屋内(道路情報などを提供するフロア)が開放されており、柔らかいソファもあって短時間の仮眠所として最適である。
     何より中国山地越え(標高600m程度)の青葉に覆われた山々や、艶のある瓦屋根の山里の風景が、走りを飽きさせない。予定した390kmのうち255kmしか走れなかったが、100kmレースへの足づくりとしては十分な練習となった。徳島~しまなみ海道・やまなみ街道~日本海のジャーニーラン完走は、次なる課題としておこう。
     さて、あらゆる物事がどうでもよくなってる割に、執念深く他人のリザルト研究に精を出す老化著しいランナーが、天王山決戦の場・サロマにて難関のサブナインを突破できるのでしょうか。

  • 2018年05月17日バカロードその118 花のお江戸を真夜中さんぽ~小江戸大江戸フットレース204km~

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

    (前号まで=埼玉県川越市を起点に、東京都心をジクザグに駆ける「小江戸大江戸フットレース204km」に参戦中。スタートから91km、中継地点である川越・蓮馨寺に戻る)

     花のお江戸の時代。江戸城下を経って山辺の道を京・三条大橋へと向かう中山道六十九次の長い旅のはじまり・・・その最初に現れる宿場町が板橋宿であった。板橋宿から小江戸川越まで北西の方角に伸びる道が、その名を今に残す「川越街道」である。当然のごとく、現在は道路も周辺環境もさま変りし、外食チェーン店やスーパーが立ち並ぶ雑多な郊外ロードと化している。昼間なら中央分離帯あたりに松並木の名残が見えるらしいが、「小江戸大江戸フットレース」のランナーが通過する時間帯は日もとっぷりと暮れている。ヘッドランプの灯りだよりでは、旧街道の趣は見つけられない。
     川越街道がありがたいのは東京都心までひたすら一本道で、道迷いする余地がないこと。ありがたくないのは歩道の整備状態が悪く、路面の亀裂やデコボコが多いこと。二度三度とつま先を引っ掛けては、転倒寸前でこらえる。元は人馬の歩いた街道を、継ぎ足しながら拡げてきた道だから仕方がないですね。
     91km地点の川越エイドから、東京都心の玄関たる池袋までは30km。過去に出場経験のあるランナーは皆「距離はたいしたことないのに、やたらと長く感じられる」と口を揃える。確かに地図をざっと眺めても、ランドマークになりそうなのは「赤衛軍事件」の現場となった自衛隊朝霞駐屯地か、STAP細胞の舞台となった神戸CDBの方じゃない理化学研究所の本所くらいだ。さしたる目標地点がないということは、いちいち「あと○×キロ」なんて暗算を繰り返さなくて済む。
     さして思考を巡らせるテーマもなく、ぼやっと走っていたら、知らず知らずのうちに埼玉と東京の境界を越えていた。都内に入ると、路傍には中層マンションが隙間なく建ち、商店から漏れる灯りが歩道を明るくして走りやすい。これなら転倒の恐怖におびえなくてすむ。
     大会が設定したコースでは、環状6号線・通称山手通りと交わる所で川越街道とはお別れ。交差線を右折し1km進むと、池袋駅西口から西方に伸びる大通りに出る。ここいらは要町(かなめちょう)という地区で、僕が十代の頃に暮らしていた場所だ。月の家賃8千円の木賃アパート暮らしの頃を懐かしみながら散策しようかと思っていたが、さすがに30年以上経ってしまうと、記憶の断片にある風景と重なるものがひとつもない。100グラム20円の鶏皮を買いにいってた肉屋も、1袋15円のパン耳を取り置いてくれてたパン屋も見当たらない。そういえば新左翼の有力セクト「中核派」の拠点ビルもあった。おかげで昭和天皇崩御の頃は物騒な緊張感が張り詰め、アナーキータウンな感じだった。今はこざっぱりとした垢抜けた街並みに変節している。まあ、つまらないと言えばつまらない。
     淡い青春プレイバックの願いは叶わず、128km地点の「成願寺エイド」を目指す。
     西新宿の高層ビル群を奥に、大都会の喧騒の中に成願寺の紅い門がぽっかりと浮かぶ。古代中国の山寺のような、あるいは竜宮城の玄関のようである。
     境内に手水場があったので顔を洗う。汗の塩が結晶となってバリバリ皮膚にへばりついている。石鹸を塗りたくってごしごし擦るときれいさっぱり落ちる。さてエイドはいずこ?と境内をウロチョロしていたら、後からやってきたランナーが「地下にあるよ」と教えてくれる。
     128km地点の到着タイムは16時間26分。時刻は深夜12時を回っている。
     地下室に用意されたエイドスペースは、人いきれに満ちムンムンしている。エイドの世話焼きお兄さん(僕を超長距離の世界に誘った悪い人)が、当エイドの名物だという鹿肉カレーを勧めてくれる。あまり食欲がないので「ちょっとでいいですよ」と申し出てたが、「そんなん言わんと、いっぱい食べなあかん」と小ドンブリの表面張力限界までルウを盛ってくれる。食えるかな?と心配しつつスプーンに乗せ口に運ぶと、得も言われぬおいしさにモンゼツする。臓腑に落ちたカレースパイスに、空腹感が呼び覚まされる。網走刑務所前でカツ丼をかきこむ高倉健ばりにガツガツと平らげる。鹿肉カレーを完食すると更に胃腸にムチが入り、テーブルに山盛りされたサンドイッチやフルーツを両手でバリバリ食らう。鉄を喰え、飢えた狼よ、という尾崎豊の歌詞が脳内にリフレインする。
     成願寺エイドを出れば、深夜の大江戸観光はメインステージを迎える。
     まずは東京都庁前へ。都庁の正面玄関前の路上で、私設エイドの方がテーブル上で「おでん鍋」をコンロでぐつぐつと煮込んでいる。東京は一国の首都であり、警備が厳しそうなイメージするけど、なんとまぁ自由な街なんだなあ。
     新国立劇場や代々木公園を傍らに進むと、キラびやかな街角に出くわす。JR原宿駅前だな。世界のカワイイカルチャーの聖地・竹下通りの一本横を通るコース設定はちょっぴり残念。表参道の通りを六本木本面へと下っていくと、極彩色にギンギンに輝く原宿ゴールドジムが不夜城のよう。深夜2時に筋肉と対話している人々は満ち足りているのか、あるいは孤独なのか。
     地下鉄も止まっているこんな時間帯に、カツカツとヒールを地面に叩きつけて闊歩する女性たちは、どこから来てどこへ向かうのだろう。東京ガールズコレクションのステージから抜け出してきたようなモデル体型とファッションを纏っている。すれ違うたびに、徳島では嗅いだことのない高級げな香水の匂いが押し寄せてくる。鼻をクンクン鳴らしてディオールかクロエか何かしらん匂いを嗅ぎまわり、ヘッドランプをビカビカ光らせて、表参道メインストリートを漂流するワタクシは完全な不審者であります。
     六本木には、マッチョな黒人ボディガードが10人くらいで入口を固めている絵に描いたようなナイトクラブあり。VIPルームでは半グレたちが海老蔵を殴ってたりするのかな。こんな街で暮らしてたら、さぞかし人生観変わるだろうねえ。仕事を終えたらキョーエイとマルヨシセンターとハローズを日替わりで廻っているオラの人生とは違うだ。花の都さ出でみでぇよ。
     東京タワーはオレンジ色の照明がフル点灯していて、美味しそうなキャンディみたい。並走するランナーが「ふだんは日付変わるときに消灯するのにね」と不思議がっている。確かに午前0時に消えないと、島耕作が大町久美子をキューンとさせた、息吹きかけてタワーを消すマジックが使えない(エピソードが古いね)ので困るね。
     東京タワーのふもとでは、賑やかな三人娘さんが私設エイドを構えていた。「おなかペコペコなんで助かります!」と軽食にかじりついていると、「おうどん、どうですか?」と遠慮がちに尋ねられる。もちろんいただきます! 差し出された紙コップには、大きないなり寿司のような物体がポコンと入っている。かじってみると、お揚げの中からうどん麺がニョニョーと出てきた。キツネうどんを球体状にまとめたアイデア料理だ。「今日これ食べてくれた人、はじめてなんですよー!」と皆さん、盛り上がっている。いただき物を食っただけなのに、喜んでもらえて恐縮である。
     次なるお江戸めぐりメニューは皇居一周だ。お堀の傍らに点在する警ら所で、お巡りさんたちが目を光らせているので治安がよろしい。深夜3時なのに、ふつーに女性の市民ランナーが1人でジョギングしている。この人は満ち足りているのか、あるいは孤独なのか。
     皇居の周回路を離れて、箱根駅伝の1区スタート会場の大手町・読売新聞社前から南下する直線道路を逆走する。東京駅を越え、国道1号線の起点であり東海道の始まりでもある日本橋の高架下をくぐる。
     JR山手線内や近辺では、1ブロックごとに歩行者用信号に出くわす。青信号が点滅しはじめるとダッシュし、赤信号に変わるとガードレールや車止めに腰掛けて休憩・・・を繰り返す。が、ダッシュをしても、その1ブロック先の信号で引っかかるので、ムダな努力だとわかる。あきらめて、信号の意思にまかせてのんびり進む。ランナー皆がボヤくように、合わせて1時間以上は信号待ちに費やしている。走っている時間より休憩時間の方が長い。そのためか、ふだんは疲労困憊となる徹夜ランだがぜんぜん疲れない。
     東京スカイツリーのテッペン部分が見え隠れしはじめる。相撲原理主義者・貴乃花の反乱に揺れる両国国技館前では、せっかく訪れたので何か爪痕を残そうと、駅前の大正クラシックな公衆トイレで用を足し、ついでに生ぬるい水道水を飲む。
     スカイツリーのたもとにある156.1km地点「おしなりエイド」に到着したのは朝5時30分。「川の道」やスパルタスロンでお会いした何人ものエイドボランティアの方々が、まぶたが半分落ちかけている僕の目を覚まそうと、元気に話しかけてくれる。気遣いがありがたい。テーブルに盛られた、おむすび、みかん、キウイなどを胃の容量いっぱいまで詰め込む。
     おしなりエイドを出て、東京スカイツリータウンを浅草方面へと回り込むと、街と空の境界線がうっすら白味を帯びている。2日目の朝がやってきた。
     ふだんは観光客でごった返している浅草・浅草寺の境内や仲見世商店街だが、早朝6時すぎだと近所のご老人やバックパッカーの外国人がのんびり散歩しているだけ。雷門通りから本堂までの参道は、群衆の列に並べば何十分もかかるが、軽く駆け足すれば5分もせず抜けてしまう。
     アントニオ猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを食らってベロ出し失神した蔵前国技館跡地を左手に見ながら、世の中をお騒がせ中の財務官僚を多数輩出する東京大学の赤門前を通過。東大のある本郷から先は「都心」というよりは雑多な下町な雰囲気になる。「月曜から夜ふかし」でおなじみの千円でベロベロに酔っぱらえる立ち呑み街があるJR赤羽駅前へ。「せんベロ」の飲み屋街の見学も楽しみのひとつだったが、大会指定のコースとは駅の反対側にあるようだ。朝からやってる店もあるので、次回はコースを外れてビール1杯くらいは飲みにいくぞと誓う。
     街並みは徐々に郊外の風景へと変化していく。洗濯物がベランダに揺れるファミリータイプのマンションや、鉄工や金属加工の工場の長い門塀が続く。
     「高島平エイド」(178.4km地点)では、大好物の粗挽きウインナーがこんがり焼かれていて、ハムスターのごとく極限まで口につめこんでモグモグしながら先を急ぐ。この2日間でいったい何キロカロリー採ってるんだろうね。1万キロカロリーは軽くいってるはずだが、まだお腹は空いたままだ。満腹中枢こわれてないのかな。
     181kmで荒川南岸の河川敷に降りる。昨日の昼ごろに荒川を離れたから、まる1日ぶり、距離にして150kmぶりの対面だ。草ボーボーで見通しの悪い河川敷の道を進んでいたのだが、左側の土手上の高台に、何人かのランナーの姿が見える。河川が左カーブでRを描いているから、あっちの方がインコースで距離が短いうえに景色も良さそうだ。来年は堤防道路を走るぞ・・・と既に次回参戦のことばかりが頭をよぎる。
     189.9km地点の「秋ヶ瀬エイド」の先で荒川を離れ、ゴールの川越・蓮馨寺へと一直線に伸びるバイパス道に躍り出る。車道との境を植栽やガードレールが仕切っているので、車との接触を気にせず気持ちよく走れる。路傍には川越中心街への距離表示版が1kmごとに設置されている。われわれランナーに、ゴールへのカウントダウンを告げているようだ。
     残り距離が1kmずつ減るたびに、荷物の重さが1kgずつ軽くなってくるように、爽快さが増していく。今朝方からキロ8分のジャーニーランペースを守っていたが、ゴールを間近にして気分の高揚が止められない。キロ7分、6分、5分・・・GPSの表示速度が上がっていく。ラスト3kmはモハメド・ファラーとなって空中を滑空する。
     204.2kmの川越・蓮馨寺にゴールする。ゴールゲート下で記念写真を撮ってもらったら、エイドのお姉さんが「ノンアルがいい?アルコール入り?」と極冷えの缶ビールを手渡してくれる。当然アルコール入りでお願いします。250mLの小さめの缶なのに、半分飲んだら30秒もしないうちに酔いが回って頭がぐるぐる揺れる。ついでに花粉症と眼球の紫外線焼けが手伝ってか、ショボショボと涙が止まらない。これでは完走に感動して泣きじゃくる不気味な中年男・・・と思われやしまいかと周囲の目を警戒する。
     タイムは28時間41分08秒、出走者390人中37位。自分にしてはたいそう立派な順位である。特にラスト60kmで、61位から37位までランキングを上げられたのが嬉しい。後半へろへろが当然の僕には珍現象と言っていい。
     次々にゴールするランナーたちをぼうっと眺めながら酔いが醒めるまで待ち、真っ直ぐ歩けそうになったのでゴール会場にほど近い「川越温泉 湯ゆうらんど」へと歩いていく。レース前にもらった無料入浴券、せっかくなので使っとこう。
     何種類も浴槽のあるバラエティな温泉だが、ハシゴ湯するエネルギーは残ってない。ヒノキ張りで底浅の炭酸泉風呂に寝そべる。ぬるい湯にゆらゆら浮いていると、ものの3分もしないうちに意識が遠ざかっていく。鼻の穴が湯面の下まで落ちて、鼻の奥まで炭酸泉を吸い込んでしまった所で、ブフォフォとむせ返りながら目を覚ます。明日の朝までこのまま浮いていたい・・・と願いながら、2度めの睡眠に突入する。 

  • 2018年05月17日バカロードその117 歩いても走っても 楽しいものは楽しいのです

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

     1月にオートバイで転倒し、骨折あちこち7カ所。走ると骨がズレるとビビらされ、ひたすら歩く。
     早朝12km、職場への通勤往復8km、毎日およそ20kmを4時間かけて。ランニングの練習なら平日は長くても2時間程度だから、倍ほどの時間を体を動かすことに努める。

     ジョギングを再開したのは事故から40日ほどたって。おっかなびっくり5kmだけ。どんなにそろそろペースでも、やっぱし走るのは格別。空を駆けていくシベリアからの野鳥の群れや、海岸に打ち寄せる波濤の頂点でターンを繰り返すサーファーたち・・・目に映る風景の色彩の強さが、以前よりも増したようだ。
     2月の海部川風流マラソンまでは、10kmLSDを3本できただけだった。キロ7分ペースがやっとこさ。もともと42kmをすべて歩いて6時間内完走する腹づもりだったので、駆け足ができたのは大きなアドバンテージである。関門が危うくなっても、ちょこちょこ走って間に合わせられるから。
     マラソン当日。スタートブロックに並ぶと、甘ぼやーんとした幸せ感が心に流れ込んでくる。ランナーは、サブスリーやサブフォーなどの大きな区切りを乗り越えようとしたり、今より若い過去の自分を超えようと自己ベストを目指したりと、最良の時を求めて頑張るものだけど、やっぱりとどのつまりは、理由なんて何でもいいから、ただ走れているだけで幸せなのだ。タイムとか順位とかは後づけの目標なのであって、実のところは広い公園に連れてこられた5歳児のように、目の前の原っぱをテンション高く走り回りたいだけなのだ。
     号砲が鳴る。まぜのおかの管理棟がある丘の上までは、周りの邪魔にならないように端っこをちょこちょこゆく。例年はゼエゼエ息を切らして登る急坂に感じていたが、気負わなければ大した傾斜でないんだなあと知る。坂のテッペンからは重力に逆らわない。着地の衝撃がホネに響くので、前足をそっと地面に置きながら静かに下る。
     何十人と抜かされながらも、周りの速いペースに影響され、そこそこ走れているので気分が良い。4kmの海部川橋を越えて、堤防上の道に出ると足が軽くてくるくるとよく回転する。こりゃ練習の手を抜いたときの「さぼりバネ」って現象なのかな。脚にも心肺にも疲労がない状態。過去データをリセットして、初期化されたパソコンのよう。サクサクと軽快に動く。そのうち鉄ゲタはいたみたいに脚が重くなるのはミエミエですな。今はこの軽快感を満喫するとしよう。
     15kmの折り返し手前で、サブスリーを狙う集団と1kmしか離れてないので嬉しくなる。ハーフ通過が1時間35分、自己ベストが出そうな良いペースだ。マラソンってのは本当に謎めいている。月間400km、500kmと練習しまくっても一向に走力は上がらないのに、10kmジョグ3回でなぜこんなに調子いいのかな。
     大里松原の並木道に入る39kmのちっちゃい坂以降は、思いどおりに脚が動かなくなり、がっくりペースは落ちる。練習不足だから仕方ないよね。
     ゴールタイムは3時間19分06秒。フルマラソン52本目にして初めて3時間20分を切れた。ぜんぜん自己ベストなんて狙ってもなくて、完走できさえすればいいと楽しく走っていたら、素敵なオマケのプレゼントである。しかし、ほぼランニング練習なしで好タイムが出るってのは、どういう身体反応なんだろ。長々とウォーキングを続けたのがプラスになったのだろうか。自分なりに理由を考察してみた。
    ①長時間、体を動かしつづけることに慣れた。
     フルマラソンの30km、35kmでずっしりくる疲労感がやってこなかった。毎日4時間歩いていたため、連続して脚を動かすことに慣れたのかもしれない。
    ②慢性疲労が抜けきって、ダメージゼロの状態でスタートラインについた。
     月間500kmほど走っていると、毎朝が抜けきらない疲労との戦いである。布団から上半身を起こすのすら難儀する。起床後、まともに体を動かせるまで1時間はかかる。走るのをやめて2週間あたりで、この慢性疲労が消失した。
    ③速く歩くために、ウォーキングフォームの巧緻性を考えたことが、走りに好影響を与えた。
     海部川風流マラソンを歩きで完走(6時間)するために、キロ8分30秒から9分で歩けるよう試行錯誤した。速く歩くコツは「一生懸命がんばって歩く」のではなく「正しいフォームで静かに歩く」ことが大事だと知った。要点は、脚をしなやかなムチと考え力をこめないこと。全身の起動ポイントを骨盤の両脇にある股関節だと考えることである。これらは「大転子ウォーキング」(みやすのんき著)に学んだ。この早歩きの動きが、効率よいランニングフォームへと応用できたのかもしれない。
    ④厚底でやわらかいクッションのシューズで歩いていた。
     骨折直後から半月ほどは、地面との着地衝撃が上半身の患部まで響き、ビジネス革靴や薄底のランニングシューズでは歩けなかった。そのため、手持ちのシューズでいちばん靴底のやわらかい「On」のクラウドフライヤーという空気グニョグニョの靴をはいてウォーキングをしていた。薄底シューズは地面からの反力で加速するが、グニョグニョ靴で体を前に持っていくには、効率のよい骨格の移動しかない。これもプラスに働いたのかもしれない。
          □
     いずれにせよ「かもしれない」な想像であって、走る練習なんてしない方がいいという論拠ではない。
     ぼくのタイムがサブスリー達成といったハイレベルな物であれば、原因と結果の因果関係を立証しやすくなるが、3時間20分切り程度なら単に「疲労が抜けただけ」なのかもしれん。この疲労抜け感による好結果が、100kmや250kmの超長距離レースまで波及するのかは、やってみなければわからない。
     何はともあれ、42kmのゴールテープを切れたことが嬉しい。走っている最中の苦しさなんて、走れないことの辛さに比べたら屁でもないと、骨折が教えてくれた。ホネさんありがとう。
          □
     フルマラソンを完走できたことで、翌々週に控えた204kmの長距離レースに出られるメドが立った。100kmを超えるレースは、ランナーの責任感や身の処し方によって大会側に迷惑をかけてしまうことがある。怪我をごまかして出場し、病院沙汰を起こしてしまうのはよろしくない。海部川を完走できないようなら参加を取りやめようと考えていたが、ためらう必要はなくなった。
     「小江戸大江戸200kフットレース」は今年で第8回目を迎える。「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われる埼玉県川越市をスタート・ゴールの地としている。前半は、荒川沿いを北上しUターンして川越市に戻る91.3キロの「小江戸コース」。後半は東京へと南下し、都心の見所をめぐる112.9キロの「大江戸ナイトランコース」と命名されている。
     ランナーはいずれかのコースを選び参加できる。また、前後半通しの204.2キロ「小江戸大江戸コース」や、204キロを経たのちに更に28.5キロを往復する232.7キロの「小江戸大江戸230kmコース」がある。ちなみに後者は「エキスパートコース」とランナーたちに呼ばれているが正式名称ではない模様。
     204キロの制限時間は36時間。「さくら道国際ネイチャーラン」などいわゆるガチンコ250kmレースの制限時間が36時間であることを考えると、ランナーには優しいタイム設定となっている。
     参加者数は、ぼくが出場する小江戸大江戸204kmに390人。エキスパート233kmに42人、小江戸91kmに66人、大江戸113kmに162人。いずれもエントリー開始から数分で受付終了するほとの人気大会である。
     主催である「NPO法人 小江戸大江戸トレニックワールド」は、超長距離走の歴史を刻んでこられたランナーの方々が運営する団体だ。だから、事前に送付される解読しやすいコースマップはじめ、エイドのサービス内容や、温かくも骨のあるランナーへの声がけなど、何もかもがランナー目線で大会が作り上げられている。
               □
     スタート会場の川越・蓮馨寺の境内は、旧交を温めあう約500人のランナーの声々が青空に響き渡っている。
     受付票と交換に、大量のおみやげ物が手渡される。デザインセンスのよいTシャツ、川越名物の芋菓子や煎餅やクッキーが何種類も。さらには1kg入のマルトデキストリンや携帯用ゼリー、それにゴール後の温泉無料入浴券まで。お土産でパンパンに膨らんだリュックを、境内の建物の一角にあずける。スタートから91km先、再び蓮馨寺に戻ってきた際に、このデポ荷物から夜間走行用の防寒装備を取り出すのだ。
     スタート時刻は朝8時。といっても一斉に出発するわけではない。ランナーは1人ずつゲートの左右に設置された計測機にリストバンドのチップを「ピッ」とかざしていく。最初のランナーがゲートを通過してから最後尾のランナーまで5分少々かかるようである。いちおう自己記録や順位はネットタイムで計算されるので、我先にと飛びだす必要はない。上位でゴールする一流選手らは、どちらかといえば最後方にいるようだ。人がまばらな最前方で独走するよりは、スタートから何十キロかは前の選手たちを追い越し、声がけしながら進むのが気分的に楽なのだろう。
     小路の両側からたくさんの声援を受け、蔵造りの街並みが続く「川越一番街商店街」の通りに出る。早朝のため店々はシャッターを下ろしているが、古都の雰囲気は十分に味わえる。
     いくつかの信号で止まりながら街を抜けると、のどかな田園地帯に入り、14キロ地点で荒川土手の自転車道にあがる。荒川は埼玉県の秩父山中から流れ出し、東京湾へと注ぐ全長173キロの超大河である。過去、何度も参加した「川の道フットレース」のコースと一部分が重なっており、感傷的な気分にひたる。
     後方から追い上げてきた選手が笑顔も爽やかに話しかけてくれたので、ランニング談義を交わしながら距離を稼ぐ。風景が変化しない土手道なので助かる。最初はフルマラソンを完走するのが目標だったのに、いつの間にやらこんな距離を走ることになって、やれやれ・・・といったウルトラあるあるなお話。10km近くおしゃべりに興じていて、ふとその選手のゼッケンを見ると「00」ゼロゼロ数字が並んでいる。この大会では昨年の成績順にゼッケンナンバーが割り振られる。なんでこんな若いナンバーの人が、ぼくと並走してんの?と聞けば、昨年の204kmの部の優勝者だという。おまけに昨年はさくら道国際ネイチャーでも優勝したという。いやはや油断したぜ。一流ランナー殿をしゃべりで引き止めてしもた。「お邪魔してしまいました。マイペースでいってくださいよ」とお願いすると、いやこのペースで十分だという。そういや超長距離に強いランナーって、序盤にぶっ飛ばすんじゃなくて、キロ5分30秒から6分で20時間~30時間と維持できる人なんだよな。まさにこの御方はそんな方でしょうか。33kmのエイドでお別れしたが、後にリザルト表を見ると2位の選手を2時間以上離しブッチギリで優勝されていた。
     52kmエイドは埼玉県寄居町の浄恩寺の境内にある。小江戸大江戸コースでは、スタート・中間地点・ゴールの蓮馨寺はじめ、東京都内で最初のエイドとなる成願寺(中野区)など、要所のエイドが寺社内に設けられている。そのためコースの大部分で「次は○○寺」と、常にお寺を目指している感覚がある。それが独特の風情を醸し出している、ような気がする。
     エイド間の距離はまちまちだが、平均すれば20kmごと。ちょうどお腹が空いてくる絶妙な間隔である。エイド手前の5kmくらいから「次はナニ食べようか」と到着が待ち遠しくてならない。それぞれ特色のある食べ物が用意されている。うどん、ラーメン、カレー、いなり寿司、粗挽きウインナー、サンドイッチ・・・手づくりの温かみのある料理たち。種類豊富な生フルーツも山盛りになっている。皮ごとポリポリかじられるブドウが甘くて、糖分が全身の細胞に染みわたるようだ。
     コースの最北端にあたる寄居町から大きく反転し、東京都心へと続く国道254号線を南下する。「池袋65km」という標識が現れると、東京までの意外な近さにほっと安堵する。
     なだらかな起伏のある高原状の台地をゆく。周囲に住宅はほとんどなく、大規模な工場群が左右を囲む。自動車メーカーの本田技研の組み立て工場は、美術館のようなアーティスティックな外観をしている。「寄居町」といえばマラソン日本新を出した設楽悠太の出身地であり、「HONDA」といえば彼の所属企業である。(悠太くんは地元企業に就職したのか。いい子だなあ)とか、どーでもいい感想を抱きながら変化に乏しいバイパス道を進む。
     スタートから60kmを経て、右腕が外れ落ちそうな感覚がつきまといはじめる。骨折カ所が右胸の前側(鎖骨)と後ろ側(肋骨3本)にあるため、腕の重量に前後の筋肉が耐えられなくなっているのだ。こうなることを予想して、鎖骨バンド(固定具)を装着しているので、キュッときつく絞り直す。スタート前は、この一見ブラジャー的な外観の鎖骨バンドを着けるかどうか大いに迷ったが、着けておいて正解だった。縛りあげれば、腕の重みをそこそこ緩和してくれるのである。
     80kmを過ぎた頃に夕日が落ちる。ハンドライトを持って川越市郊外の狭い歩道をゆく。歩道の路面は老朽化していて、ひび割れたり隆起している部分が多い。スタートしてから転倒だけはしまいと地面と睨めっこしながらここまで来た。くっつきかけた骨をまた折ったら、整形外科の先生に何とお叱りを受けるやら。事故の翌日からこそこそ走ったせいで、骨の断面が離れてしまったと呆れられた前科があるのだ。
     ところが中間地点の蓮馨寺も近くなり、周りに商店が現れだしたため集中力が散漫になった。凸凹のひどい歩道エリアを脱し、整った路面になったと安心した先にわずかな突起があった。つんのめって立て直せず、今から自分はコケると自覚したので、右の鎖骨とアバラを右腕で守る。右ヒジと右ヒザを地面で痛打。起き上がるとヒザには3カ所裂傷を負い、血がどっくんどっくん流れている。ふくらはぎ用の黒色ゲーターをしていたので、血はゲーターに染み込んでいき大惨事には見えない。痛みよりも、自分のマヌケさに嫌気がさす。
     スタート地点の川越・蓮馨寺に戻る。ここまでの91.3kmに10時間21分31秒かかる。
     荷物置き場は室内休憩所にもなっている。明るい室内でいると、血まみれのヒザがグロくて周りを引かせてしまいそうなので、境内の暗がりにそそくさと移動する。リュックには手袋から目出し帽まで防寒セットをひとまとめにしている。翌朝の東京都心は5度以下まで冷え込むらしい。だけど現時点では季節外れの暑さで、長そでや長ズボンを着込むべきか悩む。この先コンビニはたっぷりあるだろうから、寒けりゃ500円カッパを買えばいいやと、半袖シャツのまま再出発すると決める。
     地べたに座ってごそごそと荷物を引っかきまわしていると、大会代表の太田さんが声をかけてくれる。
     「怪我しているランナーがいるから救急車を呼んだほうがいいと報告があってきてみたら、誰かと思えば坂東君かい」。太田さんはこの大会を創られた方。5年ほど前、スパルタスロンで似たような場所でリタイアし、片田舎町のバーみたいな店でヤケ酒をオゴって頂いた大先輩である。「ぜんぜん大丈夫でえす。血が吹き出しているので派手に見えているだけです」とお詫びする。
     すると今度は、7年前の北米大陸横断レースで70日間サポートをしてくださった、人生の大恩人である菅原さんが現れる。「怪我してるの? 坂東君なら心配ないね」と腰掛け用にとブルーシートをそっと敷いてくれる。
     それからも、いろんなランナーやスタッフの方が心配して見舞ってくれる。何年かぶりに再会した懐かしい顔が多い。小江戸大江戸は、自分自身のランニング史を噛みしめられる、タイムマシンみたいな場所でもあるんだなあ。
     大仁田厚の有刺鉄線デスマッチより大したことないですよ、ブッチャーにフォークで刺されたテリー・ファンクくらいのダメージですよ、と昭和風の軽口を叩きながら、夜の川越街道へと走りだす。さあ今宵は東京観光としゃれこもう、がんばるべっ。 (つづく) 

  • 2018年05月17日バカロードその116 骨折日記

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

     マヌケをやらかしてしまった。
     正月早々、凍結したアスファルト道の下り坂で、バイクですっ転んだ。
     危機に瀕したらスローモーションに見えるというけど、ヤバと思った次の瞬間に地面に叩きつけられていた。右半身から地球に激突すると、ペキペキとどこかの骨が裂けたのがわかった。 

     バイクは、ぼくを残して20~30メートル先まで勢いよく滑っていった。「慣性の法則」というめったに使わない言葉が頭をよぎる。
     立ち上がってみると、右腕がぶらーんと垂れ下がったままだ。あらやっちゃった。動かそうと試みると、胸と右肩をつないでいる鎖骨あたりが、千枚通しをザクザク突き刺しまくられるハードプレイ。これは確実に折れてますな。
     周囲を見回すとなんたるラッキーか、「整形外科」の看板を掲げた立派なたたずまいの病院が距離100メートルの所にある。
     腕をぶらぶらさせながら歩いていき、受付のお姉さんに「骨が折れたと思うので診てください」とお願いすると、待ち時間なくレントゲン室前のソファへと招かれる。
     座ってると、分刻みで鎖骨の激痛が増していく。背中を猫みたいに丸めてないと辛い。粘度100%のネバネバした脂汗が顔に吹き出す。グラップラー刃牙の好敵手・花山薫の「握撃」にやられたら、きっとこんな感じに違いない。掴んだだけで相手の骨や筋肉を破壊するヤツね。
     診察室に呼ばれ、医師がレントゲン写真を見せてくれる。鎖骨がグニャっとV字に折れている。すると、どこからともなく満面に笑みを浮かべたおじさんが現れて、「こうやっといたら楽になるんよ」とか何とか言いながら、前ぶれもウォーミングアップもなく、背骨を軸に肩を後ろにぐいいっと反らせた。バキバキバキと音を立てる鎖骨! 突然の攻撃に抵抗しようもない。あううううと為すすべもなく身を任せること3秒。「どうで?」と尋ねられる。
     するとどうだ。さっきまで上半身をヒザに着くまで折り曲げて耐えていた痛みが、バキバキ後は直立していても平気である。荒療治の予告なく、いきなりコトにかかるタイミングといい、こっちを油断させる笑顔といい、これが柔道整復師のテクニックか。再びレントゲン室に戻って撮影。数分前までV字にひん曲がっていた部分が真っすぐになっている。すごいなこのイリュージョン!  
     次に、鎖骨バンドと呼ばれるコルセットを、ぎゅーっと背中を反らすように締められる。折れた骨が重なって短くくっついてしまわないための器具だ。当面は、昼夜問わず睡眠中も外してはいけないらしい。
          □
     いちおう、念のため、ランニングをしていいかと医師にお尋ねすると、ぜったいにダメと禁じられる。当然ですね。
     しかし、駆け足くらいなら骨の断面を刺激して、逆に早く治癒するだろうと独自の解釈をし、事故の翌日から走りはじめる。右手がぶらぶらしてジャマなので、輪っかにしたウエストポーチを首から下げ、前腕を乗っけて走る。
     着地するごとにギュンギュン痛み、1キロ走るのに12分もかかる。
     年末までは絶好調だったのにさあ。キロ4分30~45秒ペースの21.1km走を週3度はこなし、近来マレにみる仕上がりだったのだ。それなのに今や青息吐息でキロ12分。骨折そのものよりこっちがショックだよ。
     この冬は徳島では珍しく積雪が多い。凍結道でコケて怪我したもんだから、薄く雪がついただけの地面が恐くてしょうがない。歩くより遅いペースだから雪を振り切ることができず、体温も上がらず、頭に肩にと雪が降り積もっていく。雪だるまのようになってノロノロ走る。
          □
     裸になって患部を指先で触ると、骨周りの太さが、折れてない方の倍にもなっている。そして折れた骨の先端がぴょこ~んと皮膚を尖らせている。皮膚の表面はタテ20cmほど内出血で紫色に変色している。
     骨折の修復にはこの血が必要なのだ。骨のすき間をまず血が埋め、そこに骨芽細胞が増殖する。細胞に石灰分が沈着し、いったん仮骨をつくる。骨の表面を覆う骨膜がこのとき太さを増す。やがて破骨細胞という本家が登場し、仮骨を吸収して、元どおりの形状に調えていくのだという。なんとよくできた仕組みではないか。
     それと当日はそうでもなかったのに、翌朝から寝床から起き上がる動きをしたり、息を深く吸い込むと、胸部がひどく痛みだした。後にわかるが、みぞおち近くの肋軟骨も折れていた。アバラ骨は、肺に刺さるほどひどく折れてなければ保存療法を行う。つまり放っておくだけだ。
     転倒した日から1週間後にレントゲンを再撮影すると、整復師さんにボキボキッと入れてもらった骨が、大幅にズレていた。ナナメに割れた骨が上下にズレて、かろうじて部分的にくっついている。
     安静に過ごさなければならない最初の1週間で、アホみたいに走ったアホな結果である。そんなに早くランニングを再開させたいなら、手術をして骨を固定したら1週間ほどで復帰できるとのこと。
     しかし手術の工程を聞くほどに、怖さで股間がキューンと縮み上がる。
     ①全身麻酔をして切開し、②細長い金属のプレートを支えにし、③ネジだかボルトだかを骨に7本ぐらいねじ込んで、④1年くらい経ったら再度切開してプレートとネジを取り外す・・・という。ムリです、ムリです。あたしは歯科技工士さんに歯の掃除をしてもらうだけで意識を失いそうになるほどの小心者です。お願いです。手術だけはムリですと、打ち捨てられた仔犬のような目をして診察室から逃げ帰る。
         □
     仕方ない。走るのはあきらめる。かといって、まったく運動をせずには生きていられない。10年以上、少ない日でも10kmは走ってきた。その分の消費カロリーのマイナスがなければ、どんどんデブっていく。
     朝のウォーキングと通勤往復あわせて20km歩くことを日課とする。時間にすると約4時間。ランニングでは絶対に入っていかない住宅街の中や、田んぼの畦道や、漁港や工場地帯をずいずいと歩く。走っていると気づかないきれいな庭を眺めたり、早朝から海苔を乾かしたり、橋脚の土塁を築いたりと、働く人たちを観察するのも楽しい。歩くのもそう悪くない。
     しかしさすがに毎日4時間は長く、時間を持て余しすぎるので、ラジオを聴きながら歩くことにする。
     朝からラジオを聴くなんて何年ぶりだろか。たまたま周波数があった音質の良い放送局の番組を聴き流していると、どうやらNHKのようだ。アナウンサーの男性の喋りが尋常なくうまい。ささいなエピソードを膨らませ、人間心理の微細をとらえたコメントをはさみながら、最終的にはクスッと笑えるオチで締める。軽妙洒脱で、頭の回転早く、クセのあるゲストの投げる変化球を次々と打ち返す。声質は実にシブく、天然のバリトンボイスが耳に心地いい。
     AMラジオの朝の番組の担当というのは、NHKアナウンス部の序列では下の方にいる人なんではないだろうか。それなのにこの才能のきらめき。日本じゅうの皆さん、薄暗いラジオブースの片隅に凄い人がいますよ!と興奮しながら聞き惚れていると、CM明けに「麒麟の川島がお送りしています」と言う。うらぶれた地方局出身で、学閥から外れた若ハゲの実力派アナウンサーと勝手に想像していたら川島かよ~!
     その番組は「すっぴん」といい、朝の8時05分から始まる。月曜から金曜までの帯番組であり、毎日メインパーソナリティが交代する。月曜は劇作家の宮沢章夫、火曜がタレントのユージ、水曜はロックスターのダイヤモンドユカイ、木曜が麒麟の川島明、金曜に作家の高橋源一郎と、おいおい、いったいどういう人選をしてるんだという顔ぶれ。
     朝っぱらからRED WARRIORSのダイヤモンドユカイが、ゲストに招いたBOWWOWの山本恭司と、ビートルズの「Something」をギターと生歌セッションしてる。なんなんだNHKラジオ第1よ、斬新すぎるぞ。
     昭和30~40年生まれ世代にはまさにプレイバック青春。ヤンタン、ヤンリク、パワフル、オールナイト2部から歌うヘッドライトまで徹夜し、鼻ちょうちん作って登校してた深夜放送世代である。あの時代の空気感が、毎朝再現されているとは知らなんだ。
     昨今のメディアは、不倫暴露系の週刊誌がもてはやされたり貶されたり、SNSはしょっちゅう炎上してギスギスが日常。反対にテレビは自主規制だらけでつまんない。そのなかで、いまだにラジオは人間味に溢れていて、そこそこ過激発言もシモネタも許されてるんですね。人生1周まわってラジオ好きに戻りそうだ。
     こんな風に、走れない日々をラジオに慰められた。
         □
     ある日、田んぼの畦道を歩いていて、端っこまで進むと幅50センチほどの狭い用水路に突き当たった。遠回りすればよいものを、何の気なしにエイッと飛び越し着地した瞬間、脳天まで電流が貫いた。
     ううう、骨が外れたー! くっつきかけていた鎖骨がバーンと外れたに違いない。痛さが限度を越して、目の前が暗くなり、吐き気をもよおす。手足の体温が氷みたいに下がり、全身に悪い汗を噴き出しながら、やっとの思いで自宅にたどり着く。
     翌週、おそるおそる撮ったレントゲン写真では、鎖骨は順調にくっついていた。ほっとひと安心。ところが、事故直後に折れた形跡がなかった背骨の脇のアバラ骨がポッキリ折れていて、骨の幅の半分ほどが天地にズレていた。その骨の上下2骨にもヒビが入っていた。
     元々入っていたヒビが、用水路ジャンプでバキンと折れたようだ。新たに3本追加。当初から骨盤の端っこも欠けていたので合計7本。もう骨折にもずいぶん慣れ、どれだけ折れても大したコトのように思わなくなった。
     あまりにあちこち折れすぎているので、骨が弱すぎるのではないかと、骨粗しょう症の検査を命じられる。DXA(デキサ)という最新のX線マシンは、腰椎や大腿骨の頸部の骨密度を正確に測定できるという。結果は同年代の平均値より20%ほども骨密度が低いと判明し、活性型ビタミンD3製剤を処方される。完全にジジイへの階段を登っています。
            □
     利き腕の右手が使えないだけで、今まであたり前にできていた単純作業に苦労する。
     車に乗ろうとしても風で開いたドアを閉められない。左手で洗濯物を持つと、右手で洗濯バサミが開けられない。洗濯物を干すには両手が必要なのだと知る。世の中にあるほとんどのモノが、右利き用に作られているのを実感する。ドアも、押しボタンも、文房具も、調理具も、みーんな右利き用なんだね。左利きの皆さんは慣れっこだろうけど、実に不公平ではあるね。
     一方で、今まで眠っていた左手の技能が飛躍的に向上する。文字を書いたり、箸を使った食事は2週間くらいで慣れてきた。
     左腕の背後に回した際の、手が届く範囲が20センチほど広くなった。コルセットを付け替える際に、左腕で背中の着脱部分を締める。最初は指先が届かず10分間ももたついていたが、一瞬でできるようになった。
     人は、何かを失えば何かを得られるのである。
            □
     困ったのは睡眠だ。左右どちら側とも寝返りをうてば鎖骨の断面がズレてしまう。常に仰向けで、まっすぐ天井を向いてないといけない。
     といってもいったん眠り込んでしまえば、身体は勝手に寝返りをうつ。その瞬間にゴキィと痛みが走り目が覚める。寝返り予防のために、身体の両側にまくらを3個ずつ並べて、身動きをとれないようにする。
     こんなに寝にくそうな体勢にも関わらず、毎晩布団に入った瞬間、コトンと眠りに落ちてしまう。そして夢すら見ないほど朝までぐっすりと深く眠り、目覚めた瞬間から今日やるべきことを考える。
     怪我する前はひどい不眠症体質で、1時間以上続けて眠れなかった。朝起きるとドーンとした重い疲労感から、なかなか起き上がれなかったほどだ。
     怪我して、走るのをやめて、歩きまくって、寝まくったら、何年間もつづいた疲労感が完全に抜け落ちた。
     人は、何かを失えば何かを得られるのである。
         □
     歩きに慣れない頃は1kmに12分かかっていたが、11分、10分と速く歩けるようになり、9分台でもこなせるようになってきた。
     みやすのんき著「驚異の大転子ウォーキング」を参考書にした。著者はサブスリーランナーであり、また漫画家として人体の観察能力に長けていて、ウォーキングの固定概念を完全否定しながら、理にかなった歩き方を指南している。振り出した脚の動きや着地、体重の乗せ方、遊脚の考え方は、そのままランニングに応用できる。
     右半身があまり使えないことが幸いしている。ぼくは元々、ランニング中に左側の腕振りや着地が弱くて、左右バランスの悪い走り方をしていた。この機会に左半身を使えるよう改造するのだ。
     2週間後の海部川風流マラソンにエントリーしている。今回は第10回の記念大会である。第1回大会から皆勤を続けているので、なるべく棄権したくない。歩いてでも完走しよう。海部川マラソンは制限時間が6時間だから、時速7kmペースで歩けば6時間で42km進む。余った195mはちょこちょこ走って縮めればいい。
     時速7kmペースとは、キロ8分34秒ペースである。歩きとしては相当なハイペースだ。試しに早歩きしてみると、どんなに脚を動かしてもキロ8分50秒しか出せない。キロ4分ペースを50kmも続ける競歩の選手たちって、どういう鍛錬をしてるんだろうね。
     練習では1時間に6.5kmしか進めないが、いざレースになれば脳からアドレナリンが出る。運動能力も一時的に上がり、時速7kmに近づくんではないだろうかと淡く期待する。関門に間に合わなさそうな時だけ、ごまかして走ろう。
         □
     骨折は確かに痛いもんだけど、数本の骨と引きかえに、ずいぶんたくさんのモノを得た1カ月であったな。 

  • 2018年03月20日バカロード 北米大陸横断レース

    2011年に出場したLA-NY Footrace(5139km・70日間)の
    様子を掲載した日記と写真です。
    ロサンゼルス~1534km(22日目)
    1534km~3668km(51日目)
    3668km~5139km(70日目)ニューヨーク
    北米大陸横断レース写真

  • 2018年03月06日バカロードその115 夢の祭り あとの祭り

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=247km、36時間制限のレース・スパルタスロン。7連続リタイアのバカ記録更新を断つべく、自ら考案した百の戒めに緊縛され、キロ6分ペースを厳守しながら最後尾あたりを進む。100kmの計測ラインを11時間01分で越え、関門アウトまでの余裕を1時間24分まで増やす)

     えっほえっほと100kmに到着。波乱はございません。いつもの年なら、この辺までにゲロの噴水を盛大にあげ、路上に倒れて路地裏の少年(浜省)を口ずさみと、一人で大騒ぎしてるのに、今年は水を打ったような静けさである。
     とにかく涼しいんだわね。こんな涼しいのってアリなん?という想定外の低気温、真昼でも30度いってない。おいおい何のためにクソ真夏の昼ひなか、パトカーのおまわりさんに睨まれながら、ほぼ全裸でジョグを重ねて暑熱対策してきたと思ってんだい。スパルタの神様が「今年はラッキーチャンスを与える」とガードを甘くしてくれた? んなわけないし。絶対どこかに落とし穴がある。物事がうまくいくなんてことは、わが身に起こるはずがない。
     警戒レベル100%でそろそろと進んでいたら、ほらきたよ。日が暮れて、山の辺の街を縫って標高を上げていく坂道で、第一弾のバテがやってきた。呼吸器はゼーゼー、ぐにゃつく太もも、気力も湧いてこんね。念のため戦意を喪失してないか自分に問いかけてみると「戦意はある」と心が応える。ならばただの体調不良だ。路上でフラついていても衰弱が増してくだけなので「7分間だけ寝る」と決める。
     道ばたの廃屋の前の空地でねっころぶ。夜の空気は透明で、またたく星々が降り注いできそう。朝までゴロ寝したい気分です。いやいや何言ってんのオレ。関門までの余裕時間が30分まで目減りしてるんだよ。
     地面から体を引きはがしコース上に帰還する。さて7分間レストの効果はいかに。うーむ、さして体調は変わらない。千鳥足で右に左によろけていると、後方から顔見知りの選手がやってきて「どしたの? 眠いんじゃないの?」とカフェインの錠剤を恵んでくれる。ふむ、オレは眠いのだろうか?
     カフェイン服用からものの15分。急にやる気が満ちてきては、足取りも確かにザクサクと坂道を登りはじめる。恐るべし薬物効果。ちっちゃい粒を2つ飲んだだけで、精神状態まで真逆に豹変するなんて。助かるけど、生理機能が単純すぎて、なんか怖いです。
     スタート地点から135km、自己最長地点をあっさりクリアする。今までどしてこんな所でくたばってたんだろ。並走したベテラン選手が「この先にあるマランドレニ村は楽しいよ」と教えてくれる。楽しいって何だろか? 長い下り坂をテケテケと重力のおもむくままに下っていくと、キラキラ輝く集落が下界に見え隠れしはじめる。ははん、アレが楽しいマランドレニ村っぽいですね。
     深夜1時をまわっているというのに、エイドは大賑わいを見せている。民家の広い前庭に、テーブルや椅子がずらりと並べられ、たくさんの村人がワイングラス片手に赤ら顔でなんやかんやと語りあっている。こりゃエイドっていうより居酒屋だねえ。ランナー用に用意された食パンに、チューブ入のギリシャ蜂蜜をべたべたに塗りたくってかじる(あとで土産物屋で同じ蜂蜜の値段を見たら500円だった。高級品なのだ)。酔っぱらいの村人グループが「ここに座って酒を飲めい」と椅子を指さす。うわー、関門まで余裕があればアルコール補給したいとこだが、おっちゃん、ぼくには時間の貯金がビタ一文ないんですよ。
     後ろ髪ひかれまくりながらエイドを離れる。ギリシャ人の人生の楽しみ方はおおらかで良い。この国に住んだわけじゃないので本質なんてわかんないけど、店や工場は潰れまくってるのに、暗い顔して電車に乗ってる人はいない。ダメで元々なんだから、ダメでもゼロなんだから、マイナスになんかなりゃしない・・・なんて達観してる風でもある。
     スパルタスロンの最大の魅力は、ギリシャの田舎町に暮らす人びとの助けをもらいながら、自分自身も酒の肴になり、小さな村にとって年に一度の一夜限りのお祭りの装置になることなんだ。エイドに陣取る世話焼きのおばちゃんたち、酔っぱらってデコ突き合わせて議論してるおっちゃんたち、ノートとペンを持ってランナーの間を駆け回りサインを集める少年少女たち。選手に対して過剰なくらい面倒見が良くて、人種の壁などみじんも感じさせず、ヒーロー扱いしてくれる。ぼくたちの走りが、彼らに何かのささやかな楽しみをもたらせてたらいいなと思う。
        □
     深夜3時、リルケアという小さな集落の入口には、馬糞らしき物体が道にたくさん落ちていて、夜目が効かずふんづけてしまう。ヌルヌルした靴底だと急坂ですべってしまい難儀する。
     リルケア村はアテネから148km、ちょうど20時間が経った。村の郊外からは、いよいよ標高差960mを登りつめていく山岳エリアに入る。永く憧れつづけたサンガス山のすぐそばまでやってきたのだ。
     ヘアピンカーブがつづく舗装道路を、6回、7回と折り返しながら高度を稼いでいく。振り返るとはるか眼下に20個ほどのヘッドランプの光が、道路のうねりのままに連なっている。自分より後方にたくさんの選手がいるという事実にホッと安堵する。
     行く手には、山岳地帯を縫う高速道路のオレンジの照明だけがあり、その背後にあるはずのサンガス山の姿はまるで見えない。だが、闇の奥には明確に巨人の威容を感じとれる。標高1100mのサンガス山は、無論ヒマラヤやヨーロッパアルプスといった巨大な山塊ではない。地理的には平凡な岩山にすぎない。しかし、何百、何千というスパルタ挑戦者をはね返してきた歴史と、障壁となって立ち塞がる存在感の圧が、吹き下ろしの風となって押し寄せる。
     岩山の麓までの10kmあまりの長い登りを、一歩たりとも歩かず、立ち止まることなく走りきる。アドレナリンが大放出されているのか、サンガス山が近づくにつれ好調さが増す。
     159.5km、岩山の麓のエイドに着く。ここには防寒具をあずけている。防水性のあるウインドブレーカー、長ズボンのジャージ、もこもこの手袋、耳まで隠せる毛糸の帽子、ホッカイロ2個。
     しかし長い坂道を走りつめたせいか、身体は発熱しており汗をたっぷりかいている。設定タイムどおり進めば、山越えに擁するのは1時間30分程度である。過去に読んだ多くのランナーの走行記には「サンガス山を警戒していたが、意外とあっけなく終わった」「すんなり頂上に達して拍子抜けした」などの記述が見られた。
     (よーし。体調はいいし、この山越えでタイムに貯金を作るか)と欲を出す。
     (防寒着を着込む時間がもったいないし、着衣の重量を増やさずに、一気に登って下ってやろう)と戦闘的な気分になる。
     スタートからこの地に至るまで、用心に用心を重ねた。自分の力を一切信用せず、物ごとを全てネガティブにとらえ最悪の事態に備えてきた。しかし、ついにオフェンシブな精神状態になった、「オレはやれる子だ!」と。
     それがすべての間違いの元であると気づかされるまで、そう時間はかからなかった。
          □
     山道へと続く小さなゲートを越え、未舗装の石ころ道に入る。浮き石がたまにあるが注意しておれば事故にはつながらない。山腹の巻き道が谷側にざっくり崩れ落ちて、えぐり取られている部分もあるが、大会側が崖側にテープを張ってくれているので、滑落の危険性はない。居眠りさえしなければ問題はない。
     ゴツゴツの岩の道は、10メートル進んではUターンを繰り返すジグザグの登り。この道を駆け上がる走力があれば良かったが、ダメージゼロの状態でも歩くしかない不安定な階段状である。歩けばおのずと運動量が落ちる。さっきまでのアプローチ道でかいた汗が冷えてくる。標高が上がるにつれ、風も強くなってくる。冷気を含んだ風が体温を奪う。せめてシャツやパンツが乾いていたらと思うが、湿度が高いのか汗が乾くことはない。
     10回、20回と折り返した崖の先にいた大会スタッフが「頂上まであと400メートルだ」と教えてくれる。400メートルが距離を示すのか、標高差なのかわからないが、(もう少しなんだな)と心の救いになる。さらに何度か折り返すと、達磨のように厚着で膨れた2人目の大会スタッフがいて「あと700メートルだ、がんばれ」と言う。相変わらず標高差なのか距離なのかわからないが、どっちにしろ遠ざかってるじゃないか!  こんな小さなことに激しく精神ダメージを受ける。
     (いつ頂上に着くんじゃ? あっけなく着いて拍子抜け・・・という情報は何だったんだ?)
     壁のような山腹を見上げる。目を凝らしても、安全確保のための小さな照明光がポツポツと続いているだけで、その上部は霧がかかっているのか頂上まで見通せない。
     辺りにまとわりついていた霧雨が、はっきりとした雨に変わる。寒い。防寒具を着けなかったことを後悔する。警戒を怠ったぼくの甘さを攻めたてるように、むき出しの皮膚を氷漬けにしていく。
     気が遠くなるくらい歩いてようやく山のテッペンに着く。遮るものを失った場所には暴風が容赦なく吹きつけている。雨筋が真横に走り、雨つぶてが痛いほど顔に叩きつけてくる。
     山頂エイドのテントに逃げ込む。テントといってもほとんど吹きさらしで、暖を取れる場所ではない。
     エイドのおばさんに頼み、ハンドポトルにブラックコーヒーを入れてもらう。待ち時間に椅子に座っていると、体温は下がる一方。一刻も早く山を降りないと、身体が動かなくなりそうだ。コーヒーを注いでもらったらすぐにテントを出る。背中から雨がバシバシ当たり、一瞬で頭から脚の爪先までびしょ濡れになる。
     ボトルをシャツのお腹のあたりでくるむ。触ると火傷しそうな熱湯だ。貴重な熱源を逃がさないように両手で包む。しかし熱湯コーヒーは、ほんの数分で冷え切ってしまい、カイロの役目を果たさなくなる。
     つづら折れの下り坂をターンすると、真正面から雨と風が襲ってくる。ガチガチガチと鳴りだした奥歯の震えは前歯に伝播し、手にも脚にも広がっていく。
     後ろからランナーが次々に追い越していく。20人くらいいる。関門時間ギリギリで進む最終集団なのだろう。泥濘んだ土道を水しぶきをあげて走るさまは勇猛果敢だ。ヘッドランプの光の輪の先に、上半身裸のヨーロッパ系の選手が浮かび上がる。プロレスラーのような分厚い胸板。獣のような雄叫びをあげ、飛び跳ねながら駆けていく。このすっ裸男の登場が、精神的ダメージを壊滅的なものにする。
     (こっちは凍え死にそうなのに、裸でも平気な人間がいるとは。こいつらとはタフさも理性も、何から何まで全部違ってる)と絶望する。
     全身がひどく震えているのに、生暖かい感覚がしのび寄り、眠気が思考を鈍くする。これってニュース番組によく出てくる、無防備な軽装で夏山に入り、ちょっとした天候変化で遭難して迷惑をかけるドシロウト登山者と同んなじ?  ぼくは今、最も恥ずべき存在に片足がかかっている。
     山の麓にサンガス村が見えてくると、嘘のように風がやむ。といっても身体の震えはなおひどく、手も脚も思うように動かせない。村の中にエイドがあるはずだが、いくら歩いても到着しない。
     民家の駐車場を使った小さなエイドに着いたのは早朝の6時すぎ。山中で行き倒れにならず、人に迷惑をかけなかったことだけを安堵する。
     椅子に腰掛けたままガタガタが止まらず、喋るのも困難なぼくの様子を見たエイドのおっちゃんが、ぐっしょり濡れたシューズ、ソックス、シャツと、パンツ以外のすべてを脱がし、乾いたタオルで全身を拭いてくれる。ひと通り拭き終わったら、大きな毛布でくるんでくれ、ゴシゴシ摩擦して温めようとしてくれる。しかし冷え切った体はまったく発熱しない。
     ぼくが最終走者かと思っていたが、後からエイドに入ってくるランナーがいる。飲み物をコップに注いでもらおうとするが、手の震えがひどくて、うまくコップを構えられない。ぼくと大差ないくらい衰弱しているようなのに、彼はまだレースを諦めていない。エイドを離れ、ゴールの方向へと消えていく。ぼくにはもう、その気力はない。
     164.5km、ゴールまで残り82km。8連敗が確定した。
     素っ裸のまま収容車に放り込まれ、街に着くまでの3時間、震えっぱなしであった。運転手がゴミ袋でぐるぐる巻きにしてくれたが、温かさは戻らないままであった。
     山を彷徨っていたのは、何十分間なんだろうか。2時間はかかっていないと思う。そんな短時間のうちに、絶好調な状態から低体温症で行き倒れる寸前まで追い込まれるなんて、人生と同様に一寸先はわからない。
          □
     レースから3カ月が経った。ゴールまで82キロも残しておいて言うのもなんだが、ツメが甘すぎるのである。なんで防寒具つけんかったかなー。
     サンガス山にさしかかるまでは、汗をかくほど暑かったのである。アプローチの登り坂をぜんぶ走りきれたことで、調子がいいと判断してしまった。実力どおりにフラフラでたどり着いていたなら、山麓エイドに用意してあった防寒具をまとったはずだから、違う結果になっていたかも知れない。もっと寒い年ならば雪まで降り積もるというサンガス山を、甘く見た結果だ。
     考えてもすべて後の祭り、アフター・ザ・フェスティバルである。
     悔やんでもどうしようもない失敗はさておき、収穫はたくさんあった。
     大塚製薬の経口補水液OS-1は圧倒的に効いた。嘔吐や脱水症状に陥らなかったのは8年目で初めてだ。粉状のOS-1をハンドボトルの水に溶かしながら、ちびりちびり飲んだ成果である。
     マタズレ対策として、古バスタオルを幅20センチほどに細長く断ち、腹に巻いたのも功を奏した。上半身の滝汗が下半身に流れ落ちるのをダムとなって防いだ。ランニングパンツは乾いたまま。ランパンの股間が濡れてない限りマタズレにはならない。
     緑茶パックをボトルに入れ、即席の水出し緑茶を飲みながら走ったのも正解だった。レース中は、エネルギー補給の必要から、糖分の多いドリンクやゼリーを10kmにつき500mLほど摂取せざるを得ないが、累積5リットルもいけば気持ち悪くなってくる。緑茶はそんな口の中をさっぱり洗い流してくれた。
     ふたたび負け惜しみを述べるが、風雨にくじける瞬間までは、ゴールを狙う気力、体力とも十分にあった。そして、今回も過去最長地点から、ゴールまで30キロ近づいた。このペースで前進するなら、あと3年で完走できる。まだあきらめてはいないのですよ。
      

  • 2018年01月20日バカロードその114 酸欠の脳みそに浮かぶこと

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

        昨今、市民マラソン大会の参加料の高騰が続き、ハーフマラソンなら5000円、フルマラソンだと1万円近くかかるようになった。それでも赤字が出ている大会は少なくないそうだが、なんだかんだと無駄な物をいっぱいくっつけるから支出が増えてる気がしてならない。

     読み返しもしない分厚い選手名簿とか、21世紀にあるまじき時代遅れのロゴマーク入りTシャツの配布はやめて、かかる経費分をカットして参加費の値上げをやめてもらいたいものである。スタート会場とゴール会場をループにするだけで、荷物の運送費や、参加者をピストン輸送する経費が不要になるのだが。地元のバス会社にお金を落とすために、無理やりスタート・ゴール会場を離れた場所にしてるのかもしれんね。
     そんな世相に与しない大会もあります。毎年11月に神山町で行われる神山温泉すだちマラソンはとてもよい大会なんである。10kmレースとはいえ参加料金が2000円と良心的で、質のいいタオルやすだちドリンク、神山温泉の入浴半額券をもらえる。2000円の対価としては余りあるサービスで、これ以上の過剰なサービスがないのが良い。
     現行大会になる以前の「神山町マラソン大会」は、鮎喰川上流の下分地区にある中学校の校庭からスタートしていた。たしか受付で500円を支払って、布に数字が書かれたゼッケンをもらった(ゴールしたら汗びちょのゼッケンを返却します)。ゴールラインが近づくと、大会役員のオッチャンが大声でゼッケンナンバーとタイムを読み上げ、それを本部席の方が記録用紙に手書きでメモっていた。パンフレットもお土産も何もないけど、こっちは走るのが目的なんだから、国道を通行止めにして、車道の真ん中を走らせてもらえるだけでありがたや~と満足である。マラソンブーム前夜の大会と言えば、どこもそんな感じだったよねえ。
     そんな牧歌的だった大会も、今やランネットからエントリーできる。返却不要になったナンバーカードの裏にはちゃんと計測チップがついていて、ゴール直後に記録入りの完走証をプリントアウトしてくれる。すごいね、こういった町民マラソン大会にもデジタル化の波が届いているのである。コースは以前と逆向きになり、往路が登り坂で、復路が下り坂にと改良された。後半すごく楽できて、タイムが出やすくなった。

     朝9時の受付時間にあわせて現地へ着くと、スタート会場のすぐ隣の神領小校庭に車を停められた。本部席からの拡声器のアナウンスが聴こえてくるので、慌てて行動する必要がなく助かる。校庭を下った所のトイレ(大)前に待ち人はゼロ。マラソン大会のトイレといえば、足元が尿のしぶきにまみれた仮設ポットン便所というのが相場だが、ここのようにきれいな水洗トイレで用を足せるのは嬉しいことです。
     ぶらぶら土のグラウンドを横断し、これまた行列なしの受付をすませ、更衣室に指定された町民体育館へ。広々とした屋内にランナーの姿は数えるほどで、ゆったり座って準備できる。
     これがマンモス大会だとそうはいかない。ぼくの経験では、関西エリアの大会の更衣所では、アホみたいにデカいシートやマットを狭いスペースに広げて、場所取りに必死な腸内悪玉菌のようなオッサンが多い。今から花見や酒宴でもするんかよ? 場所がなくて困ってる人もいるのにストレッチ始めんなよ。こういう自己チューなヤカラは年寄りランナーに多い。マラソンを始めたばかりの若い人に「ランナーってマナー悪い種族だわ」と呆れられても厚顔無恥だから気にしない。着替えなんて、体育座りする面積だけあれば充分なのに、何考えてるんだかね。
     9時30分になると、地元のスポーツ少年団や、大人と子どものペアの部からスタートしていく。3kmで競われる中学生の部や1.7kmの小学生たちはガチンコな雰囲気だ。何かの駅伝大会の選手をこのレースの結果で決めるらしい。参加者は全部門あわせて620人、人口5500人の神山町としてはけっこう大きな催しなんではないだろうか。7割が町外からの参加者だというから、道の駅や神山温泉でお土産物がたくさん売れたらよいですな。
     青少年たちが走り終えると、いよいよオジサンとオバサンたちの出番である。10kmの出場者は270人、小ぶりなグラウンドは選手でいっぱいになる。最前列にはランパン&ランシャツの駅伝選手風の若者や市民マラソン界のレジェンドたちがずらり。鶏モモ肉のような形状をした太腿からしてレベルが違う。三列目くらいには半そでシャツと短パンの一般市民ランナーが陣取る。頑張る気まんまんのオジサンたちは、その場飛びなどをして筋肉を温めている。五列目からは徐々に長そでシャツやロングタイツ率が高くなる。持ちタイムと着用服の面積は比例しているのだ。
     号砲一発、選手たちはグラウンドの土を蹴り上げて、国道438号線へとなだれを打つ。速い、速い。こっちも周りにつられてダッシュする。キロ4分ペースなのに、グワングワン追い抜かれる。そうそう、これが10kmレースなんだよねぇ。心臓が口から飛び出しそうですよ、ほっほっほ。
     往路は登り、といってもたいした傾斜はない。向かい風が吹いている。それも気になるほどではない。前後に7人のランナーがいて、同じペースを刻んでいる。風貌を盗み見すると二十代や三十代の若者と思われる。彼らはライバルとは言えない。50mくらい前方に「その体型とフォームで、どうしてそのスピードが出るの?」とガムシャラ走りしているオジサン1名を発見。当面はあの人が宗猛で、ぼくが瀬古という設定でいこう。もとい。あの人が村澤で、ぼくが大迫だ。
     ラップタイムは1km4分00秒、2km4分09秒、3km4分08秒とそこそこ。「ゆっくり、大きく」と自分に言い聞かせる。4kmと5kmの途中で急坂があることはわかっている。去年は4分25秒までラップを落としたはずだ。登りでもがいておけばタイムを短縮できる。ゼエゼエと青い息を吐いて4km4分11秒、5km4分11秒と落ち込みを防ぐ。5km通過が20分39秒、悪くない悪くないよーと小出監督調で自分を褒める。ちなみにぼくの10km自己ベストは41分25秒です。
     旧神山町マラソンの思い出がよみがえる下分集落。毎年「粟飯原」という食料品店で光月堂のメロンパンを買ってましたな。下分の先で折り返すと、復路は下り坂にプラス追い風という好条件になった。鮎喰川の清流を左手に見ながら、広々とした一直線の国道を、山と空に吸い込まれるようにスピードを上げて走る。気持ちいいねー。6km3分55秒、7km3分55秒、8km3分55秒と3分台のラップを連チャンする。前から落ちてくる若者ランナーを1人、2人とパスしていくと、自分がデキる人物のような気がしてきて、心肺を追い込んでいても苦しさを感じない。
     スタート直後からずうっと前にいるオジサンランナー(仮想・村澤)が、復路に入って両手両足をバタつかせ苦悶しているが、どうしても距離が縮まらない。「がんばるなあオジサン。がんばれオジサン!」ともらい泣きしそうになる。自分がオッサンになると、同世代の頑張りに涙腺が弱くなるのである。村澤オジサンの更に前に、尊敬する市民ランナーの後ろ姿も見え隠れしはじめた。何とか彼らに追いつきたい、追いすがろう。
     9kmラップ3分56秒。通過タイムは36分20秒・・・と表示された腕時計をチラ見する。4km続けての3分台は明らかにオーバーペースで、頭の中は酸欠。数字の意味する所が入ってこない。
     ラスト1kmを3分39秒で行けば10km39分台というぼくにとっての快挙を達成できるのだが、追い込みすぎの9km地点で、そんな複雑な暗算はできない。とにかく前を行くランナーをとらえようとヒィヒィ嘶きながら走る。
     一周200mもない町民グラウンドへと駆け込む。前に追いつくどころか、後ろから何人かの足音が猛々しく迫ってくる。短距離スパート、不発です。なんとか追手を振り切りゴールラインを越え、記録証のプリンターまでふらーふらーと歩く。プリントアウトされるまでのテケテケテケテケという機械音も待ち遠しく記録証を受け取ると・・・40分04秒なり。はぁー4秒足りんかったか。
     体育館で汗ボトボトのシャツを着替えながら、(4秒って何mなんだろ?)と思う。今なら暗算できますよ。キロ4分なら約17mってとこだ。ラスト1kmで残りタイムを暗算できていたら、ダッシュかまして17mくらい縮められた気がする。めったにないチャンスだったのにとちょっとだけ残念。
          □
     ってな感じでレース直後はたいして悔しくなかったが、日増しにあの4秒が、喉に刺さった棘みたいに鬱陶しくなってきた。しょっちゅうダメダメレースばかりして、反省する態度ゼロなのに、このたびは前向きに悔しがっているのが新鮮である。脳みそを酸欠状態まで追い込んだので、人格に影響したのだろうか。眠っていたスポーツマン魂が呼び起こされたのだろうか。
     悔しい、この悔しさを何にぶつけるのか。答えは簡単だ。インターバルだ。インターバルにぶつけるしかない。速い人はみんなやってるインターバル。すごく好きじゃないインターバル。明日せないかんと考えただけで鬱になり、結局1年に2回くらいしかやらないインターバル。
     しかし、絶対的なスピードを上げるにはインターバルしかない。ジャック・ダニエルズ先生のVDOTの表などをむさぼり読めば、3分40秒で7本まわせたら、10kmで40分を切れるはずだ。
     12月の徳島は、それまでの暖冬日和とは打って変わり、毎日風速10メートル前後の冷たい風が吹き荒れている。風が止む日を待ちきれず、短パン半そでシャツで外に飛び出す。
     1000メートルを7本、アムロ行きまっす!  4本めまで3分45秒、5本めに3分35秒にあげて撃沈。家からずいぶん遠くまで来てしまった。うううっ、同じ場所を往復しておけばよかった。
     氷雨はみぞれに変わり、手足の指先はドライアイスに触れたように痛い。とめどなく流れる鼻水は、手鼻をかんでもかんでもダラタラと糸を垂らす。突風をナナメにした傘で避けながら犬の散歩をするご老人が、短パンでよろよろ歩く怪しい男の姿に足を止める。濡れた柴犬が、不思議そうに黒い瞳をこっちに向ける。
     正面から叩きつける風と雨。腕や足の表面から皮膚感覚がなくなってくる。寒い・・・家までたどり着けるのだろうか。インターバルで酸欠になった頭を、ぐるぐる記憶がまわる。
     あの夜も、ぼくは横殴りの凍った雨のなかを、打ちひしがれながら歩いていた。

     7年連続リタイアという大会の歴史に残りかけの不名誉記録を引っさげて、今年もまたギリシャはアクロポリス神殿から古代戦闘国家スパルタ(今は女子好みの可愛らしい観光の町)までの247km、36時間制限のレースに挑んだ。
     過去7年間の不甲斐なさや反省の蓄積は、あまりに多くの教訓を残しすぎ、決まりごとの多い宗教宗派のように、膨大な禁則事項となって、ぼくの頭を占めている。ギリシャに向かう機内でメモ書きしていると、不眠症も手伝って100項目にも膨れ上がり、走りながら情報処理できる限界をとうに超えてしまった。 以下はメモの一部である。

    ・アホな暴走をしない。
    ・キツい予兆があればペースをキロ1分落とす。
    ・脚の筋肉をいっさい使わない。
    ・無酸素運動をして後半にダメージを残さない。
    ・登り坂は積極的に歩くか、ゆるく走る。
    ・42キロ地点を4時間すぎても構わない。いやむしろ3時間台で行ってはならない。
    ・エイドでコーラを口にしない。
    ・電解質、アミノ酸を摂りつづける。
    ・塩は10キロに1タブレットかじる。
    ・100kmのラインを気力満タン、余裕しゃくしゃくで越える。
    ・どんなにキツくなっても、道ばたで倒れることは絶対しない。歩きつづける。歩いているうちに必ず復活する。
    ・ゴールのことを考えない。次のエイドまでの道のりだけ考える。
    ・残り距離や、残り時間を考えない。次のエイドを越えることだけに集中する。

     要するに、ぼくにとってのスパルタスロンとは、制御できないバカな自分をいかに抑制するかの戦いなのだ。能力以上にスピードを上げたり、序盤にタイムを稼ごうとしたり、乾きに耐えかねて糖質飲料をガブ飲みしたり。嘔吐が止まらないからってレースを放棄したり、眠いからって草むらで熟睡したり。そういう自分を「そうあらぬように」コントロール仕切った先に、そのだいぶ先に、うっすら蜃気楼のようにゴールが浮かびあがる・・・はずだ。
     レースがはじまる。百の戒めを守りに守り、抑制に抑制を重ねる。1km6分~6分10秒ペースを守る。序盤の関門がキツいスパルタスロンではギリギリの最遅ペース。最後尾ランナーにつけた大会車両が見えるが気にしない。
     100kmの計測ラインを11時間01秒で越え、関門アウトまでの余裕を1時間24分まで増やした。気力、体力は満ちている。順調すぎるほど順調。完走を阻害する要素は、たったの1つも見当たらない。100kmから先は、山里と山里をつなぐ傾斜のある道へと入っていく。日没が迫ってきた。山岳エリアへと続く、薄暗く長いアプローチ道を、ぼくは意気揚々と駆けている。その先に、メモ書きした百の戒めではまったく想定外であった嵐が、怒涛のように襲ってくることを、その時はまだ知らないのであった。 (つづく)

  • 2018年01月20日バカロードその113 負けっ放しもまた人生よ

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく) 

      生来の短絡さというか、何をするときも取り掛かる前は「これはうまくいくに違いない」と思い込んでしまう。必ず成功すると確信しているために、リスクヘッジを一切しない。こんな問題、あんな問題が発生した時に、どう対処すべきかという想定ができない。起こってもいないことに用心深く準備するのはおっくうであり、何もしない。

     だからいざ取り掛かると、自分の能力を顧みなかったツケが波状的に押し寄せてくる。それが商売ならば、目論見はことごとく外れ、作ったものは売れ残り、目も当てられない数字が並ぶ。それが人間関係ならば、大切な人ほど去っていき、育てた人にはあんたバカねと呆れられ、人を信じて貸した金はその人とともにどこかへ消えていく。
     歳をとるごとに、持ち前の忘れっぽさに拍車がかかり、失敗しても失敗しても、失敗したことを3日で忘れるので、すぐまた「次はうまくいきそうだ」と未来を夢見て楽しい気分に浸る。そしてまた船を漕ぎ出すと、水漏れがはじまり「あーあ、こんなこと自分にできるはずないのに」と櫂を投げ出してしまう。
     さてランニングにはその人の性格が表れるというが、本当にそうだなぁと思う。特に1日じゅう走っているウルトラマラソンや、何日間もぶっ通しのジャーニーランでは、人間性そのものが噴き出してしまうので、まったく僕にとってはよろしくない。
     暑さ寒さに弱く、痛さ辛さから逃げまわり、「やってはみるけどすぐにあきらめる」という人生の価値観がモロに出てしまう。足を引きずり、シャツやシューズを血染めにし、それでもゴールを目指しているランナーがたくさんいるなかで、僕は足にちょっとだけマメができたくらいでバス停の時刻表をチェックしては、ほどよい時間にリタイアする計画を立てている(200km以上の大会では収容バスは回ってこないので、自力でどこかに帰り着かなくてはなりません)。
     2017年もそろそろ終わりが近づいてきた。今年こそすべてがうまくいくと1月頃には血気盛んに高ぶっていたが、振り返ってみれば、何もかも失敗づくしであった。過去から一切学ぶ姿勢のない自分の軽薄さを、年末の今だからこそ省みようではないか。

    【別府大分毎日マラソン・大分】(2月)
     高校時代の同級生のタイラくん(羽ノ浦のスーパーニコー店長さん・アラフィフ)が、いつもフルマラソンをサブスリーで走っては、全力を出し尽くした果てにゴールで倒れて担架で運ばれるのを見てうらやましくなり、自分も生きているうちに1回だけでもサブスリーに挑戦したいと思って、身の程知らずに別大(べつだい)にエントリーしてしまった。しかし慣れないスピード練習に取り組んだせいでストレスが溜まり、絶食とドカ食いを繰り返しているうちに、ベスト体重58kgで別大に挑むはずが、大会2日前に5kgもオーバーしている。どうしても58kgにしたいものだから、前泊した別府・鉄輪温泉の宿の内湯や、100円で入れる外湯めぐりスポットに2日間で計10度入浴し、皮膚が真っ赤になるほど熱い湯船やサウナで汗を流しまくって4kgを落とした。ベスト58kgより1kg重いが許容範囲に収まった。
     ところが、本番当日を迎えるとスタート直後から体にまったくキレがなく、ぜんぜんスピードが出ない。10kmを45分13秒とサブスリーなんて問題外の遅さ。別大だとこれは最後尾に落ちていくペースだ。案のじょう、最初の折り返しですぐ後方にパトカーや収容バスが迫っているのを知る。
     ハーフを1時間37分26秒。こりゃダメだ。何がダメって喉はカラカラに乾き、汗がまったく出ず、口に猿ぐつわ噛まされたみたいに呼吸ができない。27kmで足がふらつきはじめ、33kmからの1kmに9分かかる。おお、これは箱根駅伝の中継でときおり見かける悲劇的な選手の姿なり。完全に脱水症状である。温泉めぐり10カ所、やり過ぎだったみたいです。
     やがて最後尾の集団に抜かれて、パトカーの拡声器から「はい歩道に上がってください」との指示が飛んでジエンド。サブスリーはおろか3時間30分の制限時間すらクリアできず、収容バスの乗客となった。

    【川の道フットレース・東京~新潟】(5月)
     太平洋岸から日本海までの514kmレース。スタートからわずか110kmあたりで体調がひどく悪化し、両手両足ガタガタ震え、口もきけないほど衰弱した。
     時刻は深夜2時、場所は埼玉県の寄居という田舎町(設楽啓太・悠太の生誕地です)。動いている電車もバスもなく、このまま行き倒れるのかなとモウロウとしていた頃にエイドに着く。気がつくと顔が地面にくっついている。ぼくはどういう状態なの?
     スタッフの方に導かれ、エイド車両の中に誘導される。シートを横倒しにし、ヒーターをフルパワーに入れ、具合が良くなるまでここで寝ろと言う。無言で従い、うわ言をつぶやきながら吐き気に耐え、3時間ほどが経って空が薄っすら白くなる頃には、どうにか車からはい出せるほどには回復していた。
     ほとんど走れない代わりに、休憩を入れずひたすら歩く。200kmを過ぎると両足裏とも真っ赤に腫れあがる象足になり、一歩一歩に激痛が伴うが、やめようかという気分にはならない。いつものことだがビリケツ付近にいると、前からランナーが落ちてくる。皆どこかをひどく故障していて、拾った棒を支えに片足だけで歩いている人や、泣きじゃくっている人など人間模様が慌ただしい。
     四方を山に囲まれた佐久平盆地を貫く真っ直ぐな道。傍らを流れる千曲川のせせらぎに夕陽が反射する。冠雪を抱いた浅間山や、白雪連なる北アルプスの峰々から冷たい風が届く。痛々しく脚を引きずるランナーの背中がセピア色の風景に溶け込んでいく。「川の道」ってどうしてこうも哀愁に満ちてるんだろね。バカなことに必死になってる人間ってやつが素敵だからかな。
     昼と夜が5回ずつやってくる。
     気温30度を超す真昼には、コンビニで買ったアイスを頭や首に巻く。凍える夜には道に落ちているジャンパーやヤッケを何枚も拾っては重ね着する。眠気に耐えられなくなると、公衆便所の温かい便座を抱きしめて15分だけ眠る。
     そうやって最下位のあたりを順調にキープし、ゴール制限時間の132時間に対し、20分ほどの余裕を持って最後の街となる新潟市に入る。日はとっぷりと暮れている。
     ゴールの7km手前で国道を逸れて、信濃川の堤防道路に上がるコース設定だが、そのあたりで住宅街に迷い込む。抜け出そうとしても寝不足からか方向感覚がない。
     いよいよ追い詰められ、最終手段だとスマホのGPSを起動させるとバッテリーの残量が1%しかない。(この地図を目に焼きつけるんだ!)とマナコをカッと見開いた瞬間、ディスプレイは暗転する。網膜に一時保存した地図の残像を頼りに、信濃川の方へと駆けていく。夜の風景の奥に、かすかに横一線に暗い影が見えた。(土手だ!堤防だ!助かった!)。長時間迷っていたようで、時計を見ると残り7kmをキロ6分ペースでカバーしないと間に合わない。
     もう全力で走るしかない。駆ける駆ける、息を切らせて駆ける。510km歩きとおしたズタボロの脚で、この大会最速のスピードを出し、街灯のない土手や河川敷を突っ走る。
     ゴールまで残り1km。前の方からたくさんの人が駆けてくる。地元ランナーや他の選手の応援の方、エイドで助けてくれたスタッフの方もいる。僕の周りを取り囲み、伴走をしてくれる。「きっと間に合いますよ、でも油断するとアウトになるので気を抜かないで。ギリギリですよ」と引っ張ってくれる。
     大きな建物の角を曲がると、直線の向こうの温泉施設の玄関に、ゴールゲートが光り輝いている。もう間に合う、ゆっくりと噛み締めながらゴールしよう。
     131時間58分11秒78。6年前に初完走したときのタイムより100分の22秒速い自己ベスト記録だ。6年間で僕は100分の22秒進歩したってことだ。

    【土佐乃国横断遠足・高知】(5月)
     高知県の室戸岬から足摺岬まで土佐湾をめぐる242kmの道。川の道フットレースの514kmを走り終えてからの中2週間レストは、回復するには短すぎる。走りだした最初の1kmが515km目に感じる。クサビカタビラを纏ったかのように全身が重く、倦怠感がひどい。キロ7分でだましだまし進んでいた脚は、70km付近で反乱を起こす。「これ以上は走りたくないし、歩きたくもない、もう何もしたくない、帰りたい」。
     すっかり嫌になって、高知龍馬空港の滑走路の先の道ばたに寝転んで、夕焼け空に離着陸する飛行機を(きれいだなあ)と下から眺めていると、20分ほどで心変わりが始まる。(せっかく走りだしたわけだし、10km先の桂浜エイドにはカツオの塩タタキがあるし、80km先の四万十町エイドには窪川ポークの生姜焼き定食が待っている。せめてそこまで歩いていこう)と思い直す。あんなに自暴自棄になってたのにさあ、食い物への欲求だけで立ち直れるものなのね。
     この大会、各エイドやゴール後に出してくれる土佐食材を使った料理の味が格別なのである。さらには、道すがらにある売店やファストフード店に、高知でしか食べられないスイーツがあることを僕は知っている。
     20km、30km先のソフトクリームやアイスクリンに誘われながら、2晩の徹夜を経て、3日目の朝に足摺岬に到着する。記録は47時間14分。ゴールすると大会スタッフの車に乗せられ、高台にあるリゾートホテル・足摺テルメのお風呂に送迎してくれる。ほこほこになった湯上がりの体に、土佐清水漁港でその朝水揚げされたばかりのカツオの刺身を生ビールで流し込む。うううっ、リタイアしなくてよかったー。

    【サロマ湖100kmウルトラマラソン・北海道】(6月)
     100kmを9時間未満で走る「サブナイン」は、僕にとって大きな勲章だ。キロ5分24秒イーブンで走り通せば9時間ちょうど。自分の走力だとよっぽど頑張らないと達成できない。理想のペースは最初の50kmを4時間15分で越え、どうやってもスピードが出なくなる後半50kmを4時間45分で耐え忍ぶ前半貯金型だ。
     スタート前から降りしきるオホーツク海の冷たい雨。シューズが濡れるのが嫌で、道路にできた水たまりをよけ、蛇行したりジャンプを繰り返していると、脚がだるだるになる。しかし濡れシューズでキロ5分を維持する方が難しい気がして、忍者のように飛んだり跳ねたりがやめられない。フルマラソン地点を3時間46分で通過、無駄な動きが多いためか予定より10分遅い。
     それほどまでに努力を重ね、乾いたシューズを守り抜いていたまである。ところが、フル地点直後に用意された仮設トイレで用を足そうと駆け寄り、トイレドアの真下の草地を踏みしめた瞬間、左足が「ドボン」、勢い止まらず右足も「ドボン」。草に隠れていて見えなかったが、トイレの周囲が足首まで浸かる深い水たまりになっていたのだ。引っこ抜いたシューズから滝のように水が滴り落ちる。おいおい、なんてトラップだよ。
     意気消沈激しく、急激にスローダウンし50km通過は4時間31分。タプタプ音をたてるシューズに、もうどうにでもなれとヤケクソ気味。プールと化した歩道の真ん中をジャブジャブ直進していたら更にペースダウン。ラスト2kmは意識が飛びかけて歩いてしまい、タイムは9時間45分11秒。
     冷静になってみれば、たかだか靴が濡れた程度のこと。そんな些細なできごとで大きな心理的ダメージを受けるワタクシ本来のダメダメっぷりが全開となったレースであった。

    【みちのく津軽ジャーニーラン・青森】(7月)
     「奥武蔵ウルトラ」や「川の道」の運営で定評のあるスポーツエイド・ジャパンが昨年から始めた大会。250kmと200kmの部があり、200kmの方にエントリーした。
     スタート会場は弘前駅前の公園。小雨パラパラ模様の天気は、スタートから2kmほど先の弘前城に入る頃には土砂降りとなり、一瞬のうちに城内の遊歩道が小川と化す。しばらくたつと空は晴れ渡り、雄大な岩木山の三角錐が正面に現れる。しかし40km地点の白神山地では、アスファルトに雨の王冠が咲くほどの驟雨に見舞われる。
     それからも、雲が切れて晴れる兆し→やっぱし雨→強風が吹いて衣類が乾く→にわか雨→一転カンカン照り、と繰り返しているうちに股間に異変が起こる。マタズレである。マタズレなんてウルトラマラソンにはつきもので、マタが痛い程度のことで泣きが入るような根性なしは大会に出なければよい・・・のが定石であるが、そんなんわかっていても涙が溢れるほど痛いのである。
     グレー色のパンツ表面は股間を中心に赤く血に染まり、その周辺からスソの部分まで乾いた血でドス黒く変色している。脚を交差するたびに、パリパリに乾いたパンツ内側の布地が皮膚をこそぎ落とす。パンツをめくってマタを覗いてみると、縦8センチ、横4センチ幅の皮膚がなくなっていて、ザクロのような真紅の生皮がむきだしになっている。脚を動かし続けているために、傷口がカサブタで閉じられる余地がない。カサブタにならないと血は止まらない。内股から流れ出た血はカカトまで伝い、シューズもえんじ色に血塗られる。
     流血がはじまり5、6時間が経つと、両手の指先にピリピリと痺れがくる。次にグー、パーができなくなり、痺れが両肩まで上がってくる。ほっぺたを触ると感覚がない。頭をゲンコツで叩いても自分の頭じゃないみたい。麻痺が拡がってくると歩くのもままならなくなり、1時間に1.5kmしか進まない。ふらふらしながら103kmエイドのある十三湖の中島に到着し、リタイアを告げる。
     案内された浴室にこもり、シャワーノズルの先からちょろちょろ出した水をおそるおそる股間に当てると叫び声がギャーッと漏れる。痛え、痛すぎる。ナイフで生皮をはがされてるみたいな痛さだ。
     脱いだランニングパンツにシャンプーをすり込みゴシゴシこすると、見たことないほどの量の血液の塊が排水溝へとドロドロ流れていく。パンツを何度絞っても血は止まらない。鮮血にまみれた浴室の床を見つめながら(ああ、リタイヤしてよかった・・・)と心の底から思うのでした。

    【広島長崎リレーマラソン・広島~長崎】(8月)
     本誌10月号~11月号に様子を掲載させてもらったが、広島市から長崎市まで全行程423kmのうち半分の232km(福岡県直方市)までしか進めなかった。いやほんとマジで体力ねえわ。

    【伊都国マラニック・福岡】(9月)
     台風直撃のあおりを食らい、103kmのコースのうち山岳部分をカットして、平地のみの52kmに短縮された。朝5時のスタート時刻はそのまま実施されたので、大半のランナーが昼前にレースを終えた。僕がゴール地点の海辺の民宿に着いたのは午前11時だが、先着ランナーによる飲み会がはじまっていた。昼2時くらいにはテーブルの上に一升瓶やワインボトルが並び、へべれけになってる方も散見される。着座したままゲロを吐いて倒れ、それでも飲みの席に復帰しようとする妖怪も目撃した。
     夕方になるとバーベキューハウスに移動し、生アコースティックギターの伴奏で大会用に創作されたマラソンソングを選手とボランティアスタッフ百数十人で熱唱。九州のランナーらは皆ソラで歌えるほどの有名ソングのようです。炭火焼肉をたらふく食うと、再び和室の大部屋に取って返し、何次回目かの飲み・・・その宴は深夜1時まで続いた。いや、僕がギブアップして寝てしまったのが深夜1時なので、宴席はもっと続いていたのかもしれない。短縮コースながら大嵐のなかを52km走った直後から14時間、酒をぶっ続けで飲むという、恐るべき九州ランナーたちの生態にド肝を抜かれる。
     九州エリアの大会に参加するたびに思い知らされるのだが、この人たちは本当に走るのと飲むのが好きなのだ。
     「お風呂に行こう」と誰かが言いだせば、200kmも彼方の温泉まで山脈を横断していくし、「飲みに行こう」と盛り上がれば徹夜で120km走って他県の飲み屋まで出かける。博多、北九州、熊本といろんな街にウルトラランナーの巣窟たる居酒屋があるのだそうだ。
     これが九州ウルトラランナーたちの日常。毎週末のように練習会と称しては100km以上走り、ゴールを居酒屋か温泉に設定して、底なしで飲み干す。レースともなれば、エイドにビールを仕込み、レースだけど立ち飲み屋に寄り道し、ゴールしたら徹夜で飲み明かす。生命体としてのエネルギー量が凄すぎて圧倒される。悩みの一つや二つはあるんだろうけど、愚痴や不満は酒の肴にはならない。ああ九州って、地上に咲いたウルトラランナーの花園なのかも。

     振り返るとこの1年、まともに走れたことがほとんどなかった。そしてまた人生も同様である。
     欲しい物は手に入らない、願ったことは叶わない、チャレンジしたら失敗する、夢はほとんど実現しない。それは今までずいぶん学んできたので、今さらショックを受けたり落ち込んだりするほどではない。
     連戦連敗が常態だと、恐れるものがなくなる。失敗に慣れると、失敗が怖くなくなるというメリットがある。人はみな失敗を恐れて二の足を踏むものだが、「どうせ失敗するんだから」と気楽に一歩を踏み出せる。だからまた来年もいろいろやってみるとしよう。

     しかし、ゴールテープなんてただの一本の布切れだろうに、走っても走っても届かないもんだね。今や幻のように遠い存在である。だからたまにゴールテープを切ると、輪にかけて何倍も嬉しいのである。リタイア続きだと、そういうお得感もありますね。

  • 2017年11月23日バカロードその112 真夏の遠い道 広島長崎423km 後編

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

    (前号まで=「広島長崎リレーマラソン」に単独で出場した。広島に原爆が投下された8月6日午前8時15分と同時刻に原爆ドーム前で黙祷を捧げ、9時にスタートを切る。

    そして長崎に原爆が落とされた8月9日午前11時までに爆心地に近い浦上天主堂遺壁付近へゴールし、惨禍のあった時刻11時02分に合わせ黙祷を行う。総距離は423km。制限時間は約74時間。単独走者はアーリースタートを選択でき、正式スタート時刻の9時間前、8月6日午前0時にスタートをしてもよい。この場合、制限時間は約83時間に延長される)

     午前0時のアーリースタートの場合、制限時間の83時間内に4晩を越えなくてはならない。奇跡的にゴールまで達しても(13年間で完走者はたった1名)、道半ばで断念しようとも、4度の夜がやって来るのは同じだ。昼間の気温は35度前後になるので、日中に連続走行するのは困難と思われる。多少なりとも気温の下がる夜間をうまく使えるかが肝となる。
     この大会に、公式エイドや荷物預けはない。必要なものはすべて自分で背負い、調達する。休憩所や仮眠所も設けられてはいない。過去の参加者の記録を読むと、コース沿道にあるスーパー銭湯やマンガ喫茶などで、数時間の仮眠を取りながら進んでいる。主催者が用意してくれたルートマップには、コース沿いの温泉施設やビジネスホテルの情報が詳しく記されている。自分でも調べてみたところ、全コース上に日帰り入浴できる施設は10カ所ほどある。しかし、24時間営業しているのは1カ所のみで、他はすべて深夜11時から翌2時までの間に閉館する。深夜2時以降に睡眠を取るなら、マン喫か、あるいはバス停や駅舎か、奮発してビジネスホテル泊りか、という選択となる。
     スタートからゴールまでに通過する県は、広島、山口、福岡、佐賀、長崎の5県。本州と九州を海底の地下道で結ぶ長さ780mの関門人道トンネルは徒歩で抜けられるが、ゲートが開くのは朝6時から夜10時までと限定されている。したがって夜10時以降に関門海峡に着いてしまうと、そこから先には進めない。朝の6時まで待ちぼうけを食う。
     これら諸条件に自分の能力を加味して、完走するための3条件を洗い出した。
    ①本州区間の終点である関門人道トンネル(190km地点)を、スタート翌朝の早朝6時~7時に抜けること。つまり190kmのリミットは約30時間。
    ②九州区間(距離233km)のペースは、仮眠によるロスタイムを含めても時速5kmを下回らないこと。
    ③スーパー銭湯などを利用しての仮眠は1日1回のみ。各所での滞在は2時間から3時間以内に抑えること。
     かつて錚々たるランナーが打ち砕かれてきたこの道を、ぼくが完走できる確率はゼロパーセントだろう。だけど自分の能力の許す限り、一歩でも前に進みたいと思う。
         □
     深夜0時スタートにも関わらず気温はムシムシと暑い。そして地図読みの能力が低いために、何度も道に迷っては正規ルートへの遠回りを繰り返す。夜が明けてからは、脳天をカチ割られそうな太陽の熱波に襲われ、たった60kmしか進んでないのに熱中症に陥る。「南無三!」とばかりに小虫に毛虫に蛾が浮かぶ水たまりに飛び込み、ピンチを救われる。
     水場のない峠道を下り終え、いったん国道2号線に出てしまえば、コンビニが4~5kmおきにあり、熱中症の心配はなくなる。コンビニが現れるたびに、大袋入りのクラッシュアイス(1kg)を買い込む。まずは、タオルに氷をくるんで首筋に巻き、頸動脈を冷やす。お次にひっくり返した帽子に10カケラほど入れ、脳天にこんもりと山盛りに。ハンドボトルには詰められるだけ詰めてドリンクを極冷えに。余った残り半分は、ビニル袋のままリュックに入れて背の部分に当てがう。
     どんなに気温が高くて意識もうろうとしていても、こうやって氷で全身を冷やせばたちまち元気を取り戻すから、体温コントロールはホントに大切である。
     山口県周南市のJR戸田駅あたりが100km地点。夕焼けの色も沈んだ午後7時、スタートから100kmに19時間も要したことになる。そのノロノロペースにア然とする。道中サボッていたわけではない。そこそこ懸命に走っていたにも関わらず、結果として時速5kmしか出ていない。どこでどう時間が消えてしまったのか。コースロスしていた1~2時間に加え、氷を補給するたびにコンビニの前でしばらく座り込んでみたり、洗濯タイムと称して公園のトイレで昼寝したりの累積か。
     このころ並走したベテランランナーの方から「この大会では、コースマップに指定された道を忠実に守らなくてもいいんですよ」というお話を聞く。「道がわからなくなったらとりあえず国道2号線に出てみる」「毎年、同じ道ばかり進むのは飽きるから、道をちょこちょこ変えて走っている」といったハウツーも。(なーんだ、道を間違えた地点に戻ろうとジタバタしていた自分はおバカさんだったのね)と無駄な努力に費やした時間を惜しむとともに、脱力した心境になる。
     すると心にムクムクと邪念が生じる。(あんまし足も動かないし、眠くなってきたし、ここはひとつ一晩きちんと睡眠を取り、心と身体をリセットしてはどうだろう)というもっともらしいサボり案を思いつき、114km地点である防府駅前のスーパーホテルを即座に予約する。3800円で温泉と朝食つきというお得な値段。
     22時30分頃、ホテルにチェックインする。服を着たまま冷水シャワーを浴びつつシャンプーで同時に洗濯する荒業により睡眠時間を1分でも長く確保。ベッドに横たわり、発泡酒をプシュッと空けると、テレビでは世界陸上の女子マラソンのライブ放送中。先頭集団に食らいつこうとしない日本代表選手に対して「何のために代表になったんだ! 潰れてもいいからトップを目指すべきだろう!」とハッパをかける。しかし、かくいうわたくしは歩くより遅いペースで一日を過ごし、徹夜ランを放棄してぬくぬくとベッドに横たわり、淡麗〈生〉でよい気分。女子選手の皆さん、すみません。
     目覚まし時計を午前3時にセットし「明日は絶対に関門海峡まで行くぞ、オー!」と誓って眠りに落ちる。ところが目が覚めると夜はとうに明け、時計は午前6時を示している。ちょうど朝食バイキングのはじまる時間で、どうせ寝坊したなら朝メシもいただこうと食事会場へ。バイキングのおかわりを3回転する。足はダメだが食欲は旺盛なのだ。
     朝7時30分に遅い出発をする。防府市から山口市までの20kmほどはキロ6分台で遅れを取り戻そうと奮闘するが、暑くなるとまたバテバテになり、よちよち走りのペースに戻る。
     もはやコース上で大会参加者の誰とも会わない。ホテルで寝ている間に、単独走ランナーだけでなく、9時間遅れで出発した全リレーチームに置き去りにされたのだろう。ダントツのビリに違いない。(どうせこんなに遅いのなら、ジャーニーランを楽しめばいいさ)という悪魔のささやきが聞こえてくると、その意識をぬぐい去ろうとしても速いペースに戻せない。
     主催者が配布してくれたマップには、赤線と緑線で指定された何本かの道がある。赤線は基本となる推奨コースだが、複数描かれた緑線の道には、過去からのいわれのある旧街道や史跡が点在している。そんな旧街道沿いの街々には、いま生活している住民たちの匂いが溢れている。
     たとえば、JR厚狭駅前(山口県山陽小野田市・160km地点)の古い商店街では、正面から夕陽が差すなかを、嬌声をあげて道をゆく少年たちの服が白ランニングに短パン姿であったりして、昭和の中期頃にタイムスリップしたかのような不思議な感覚に包まれた。
     あるいは宇部市の郊外では、平凡な平屋の民家の駐車場に、レクサスやベンツ、BMWなどの高級車が停まっていることが多く、原油や鉄鋼に比べてセメント産業は安定的に儲かるのかなあ、などと思いを巡らせたりする。
     そうです。気分はとうにレースモードを失い、走り旅を楽しむ熟年ランナーと化してしまっているのです。
     昨晩、発泡酒を飲みながら発案した「明日中に関門海峡を越える」という目標は霧散し、(無理すれば関門トンネルには夜10時までに着くけど、深夜に大都会の北九州市街に入っても寝る場所に困るだろうし、ここはひとつ一晩きちんと睡眠を取り、あえて体力を温存してはどうだろう。どうせ明日から九州に入れば、本気を出す予定なんだから)ともっともな言い訳を編み出す。自分をより楽な道へと誘う理屈は、湯水のごとく湧きだすのである。
     JR長府駅(182km地点)を過ぎた所にあるホテルAZ山口下関店に着いたのは22時過ぎ。朝食つき4800円なり。チェックインをしながら「明日こそ3時起きで頑張るぞ」と決意を強くしていたら、カウンターのお姉さんが「実は、本日は大学生のお客様が多くて、明日の朝食に混雑が予想されるので、食事のスタートを6時に早めさせていただきます」と案内してくれる。
     その言葉に素直に従い、翌朝もまた早起きすることはなく、きっちり朝食バイキングをとり、日が高くなってから出発する。神戸製鋼の大工場地帯の脇を、出勤する作業着やスーツ姿の人びとの合間を縫って走る。工場群を抜けると海辺に出る。狭い水路の反対側の陸地は、ようやっと九州なのだ。正面に関門橋の威容が迫ってくる。走りだして3日目の朝8時30分、関門海峡の地下トンネルをくぐり抜け、九州に上陸する。
     山腹にへばりつくように築かれた門司の古い街並み。斜面を削り取って街を造っているためか、歩道もひどく斜めになっていて着地のたびに足首が痛い。高い煙突やサイロ、道路と工場を隔てる長いコンクリブロックの壁が連なる。小学生の頃、社会科で習った北九州工業地帯ってあたりに入ってきたのかな。
     高層ビルが林立する小倉駅前の大都会ぶりは圧巻だが、都市エリアを抜ければ再び古い街並みに変わる。薄暗い照明の酒屋さんにはカウンターがしつけられ、100円でコップ酒が飲めるようだ。まだ昼前というのに、堂々と営業中である。古い商店街から脇へと伸びる小路には、このような立ち飲み屋があちこちにある。新日鐵住金はじめ世界に名だたる製鉄工場が湾岸に居並ぶこの街ならではの原風景だ。工場の夜勤を終え、駆けつけで一杯やる「クイッー」は、さぞかし労働者の心を癒やすことだろう。
     本日も灼熱びよりが一層増し、陽射しが肌に照りつけて痛い。クラッシュアイスを首筋や帽子に投入しても、すぐに溶けてなくなってしまう。
     JR八幡駅前(214km地点)のロータリーで路上に座り込み、天を仰いでグロッキーになっていたら、散歩していたトラ猫が5メートルくらい離れた所で止まり、興味深げにじーっと見つめている。手招きすると近寄ってきたので、そのまましばらく猫とじゃれあっているうちに戦意が萎んでくる。
     八幡駅から3km先のJR黒崎駅前は、とても興味深い街である。地図を俯瞰すれば駅前から180度の角度に12本もの道路が放射状に配されていて、横道が蜘蛛の糸のように張られている。そのうち何本かの細道にはガールズパブにピンサロにソープにと風俗店が軒を連ねている。いかにも風俗街と思わせながらも、いかがわしいピンク色の看板の間に間には、一般のご家庭人が暮らすマンションが建ち、下校中の小学生たちが闊歩している。ううむ、このような混沌とした場所で幼少期を過ごせば、精神面のバランスが良い大人へと成長するのであろうな。ブレードランナー的世界観の街にはぜひ一泊して後学を深めたい所だが、広島長崎リレーマラソンの主旨に合わないのは明白。後ろ髪を引かれつつ離脱する。
     夜21時30分頃、福岡県直方市の街にさしかかった辺りで、夜道に燦然と輝くホテルAZ直方店のエントランスへと吸い寄せられてしまう。九州で有名なホテルチェーンの「ホテルAZ」は、どんな田舎町の郊外にも必ず1軒はある。店舗の壁にはカラフルな虹の模様が描かれていて「ご休憩しなさい」と旅人を甘く誘ってくるのだ。実に目の毒である。来年からは目をそらして前を通過しよう。ビジネスホテル3泊目である。
     翌朝、ホテルからJR直方駅(232km地点)まで走り、「広島長崎リレーマラソン」のランを終える。参加ランナーは、本日の午前11時までに長崎市の浦上天主堂遺壁に集合するのが、この大会「唯一最大」と言っていいルールなのだ。その時刻に間に合う電車に乗らなくてはならない。
     JR直方駅から長崎駅へと電車移動する。博多駅で乗り換えると、セレモニーのある長崎市への特急電車は満席で、通路や連結部分まで立錐の余地なく、トイレ横の壁にへばりついて2時間近くを過ごす。
     長崎駅前に降り立つと、原爆落下中心地へと向かう凄い数の人の波に圧倒される。数百台の自転車に乗った子供たち、練り歩くデモ団体のシュプレヒコール、拡声器からは政治団体の手前勝手な主張・・・。広島長崎リレーマラソンの諸先輩方の集団とは自然と合流できた。大半のランナー方もまた、午前11時に合わせて423kmをリレー形式で走り続けてきたのだ。
     結局、ぼく自身は全行程の半分程度の232kmしか走れず、広島市を発ってからビジネスホテルに3連泊という、現世にただれた走り旅をやらかしてしまった。必死の思いを携えてこの地にやって来たわけではないのだが、最後の2kmでは、大きな人の渦がつくるエネルギーの塊に運ばれるような、不思議な感覚を味った。自分の足でここまで来られたら、この感覚はずいぶん違ったものになっただろう。

    【今回の反省点と来年の再チャレンジに向けてのメモ】
    ・道に迷ったら、元いた場所に戻ろうとジタバタするのはやめ、方角優先で突破する。
    ・赤信号の待ち時間の多い国道より、旧街道や裏道を選択した方がよい。
    ・背中が熱くなりすぎるリュックはやめ、荷物を削ってウエストバッグにする。
    ・コース一帯のコンビニで売っている竹下製菓(佐賀県)製のアイスは秀逸。特に「ミルクック100円」と「おゴリまっせ70円」は来年も大量投入したい。 

  • 2017年11月23日バカロードその111 真夏の遠い道 広島長崎423km 前編

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     (前号まで=「広島長崎リレーマラソン」に単独で出場した。広島に原爆が投下された8月6日午前8時15分と同時刻に原爆ドーム前で黙祷を捧げ、9時にスタートを切る。

    そして長崎に原爆が落とされた8月9日午前11時までに爆心地に近い浦上天主堂遺壁付近へゴールし、惨禍のあった時刻11時02分に合わせ黙祷を行う。総距離は423km。制限時間は約74時間。単独走者はアーリースタートを選択でき、正式スタート時刻の9時間前、8月6日午前0時にスタートをしてもよい。この場合、制限時間は約83時間に延長される)

     大会がはじまって今日まで過去13年間、単独走で時間内完走を果たしたのはたった一人しかいない。かつて24時間走のアジア記録(274.8km)を保持していた關家良一さんである。24時間走の世界大会で4度優勝し、スパルタスロンも2度制した、誰もが認める歴史上日本最高の超長距離走者である。そんな実力者でしか完走できない厳しい道のりと言える。
     大会への参加資格として、2点が明示されている。
    ①核兵器と戦争のない平和な世界の実現を願う方
    ②炎天下でも夜間でも時速6km以上のペースで数百km以上、安全に留意して走ることのできる方
     とある。
     両方の資格ともぼくはヤバい、というか実際のトコないのです。
     まず①について。終戦20年チョイを経た高度経済成長期にこの世に生まれついた時から、ぼくは安保体制下の米国の核の傘の下にいる。ま、好むと好まざると国民全員そうだけど。生涯でたったの一度も紛争・戦争の不幸に見舞われないラッキーをぬくぬくと享受し、平和と消費と惰眠を貪ってきた代表的な世代だわね。
     そんな人物が、核なき世界をどう声高に訴えられましょうか。貧弱な武力でギリギリの国防をしているそこら辺の国の人の目には、核武装した米軍を傭兵みたいに雇いながら、片方で核廃絶を訴えてる人ってどう映るのだろう。家の門をカラシニコフやAK-47持ったヤクザに守らせて、安全な窓の奥で「みんな争うのはやめましょう」と天に向かって祈っている大金持ちの息子みたいには見えないのかな。
     現実の世界では・・・クルド人やミャンマーのロヒンギャやエチオピアのオモロ族の人びとは、血みどろになって平和や独立を勝ち取ろうとしてる。自分の目の前に、親や子供や恋人を敵に殺された紛争の当事者がいるとする。その人の目を見ながら訴えられる武装放棄や平和だけが本物のような気がする。毎日コンビニ行って新作スイーツ買い占めみたいな自堕落なぼくには権利ないんだわ。
     その逆もまた難しくて、広島や長崎で核爆発の熱線や放射能を浴び、生涯を後遺障害に苦しみ戦っている方を目の前にして、「ぼくは米国の核兵器に守られて暮らしてきたので、核廃絶を訴えることはしません」などと正直に述べる勇気も、むろんない。
     要するにどっちの立場にも立てず、明確な主張もなく、身の安全は米兵と自衛隊員まかせにしてダラダラと生きる自分に、この参加資格は「テメーはそれでいいのかよ」と踏み絵を突きつけてくるわけである。
     もひとつの②について。今までの夜間走行の実績からすると、徹夜2晩めからは時速5kmをキープするので精いっぱいである。ヘタすると時速4kmを割り込んで、散歩している乳母車のおばあさんに抜かれたりするほど徹夜に弱い。
     つまりぼくは、2つしかない参加資格を両方とも持ちあわせていない。だが、その事実はひた隠しにして出場のお願いをし、参加する運びとなった。小さなウソをつく能力くらいはあるのだ。
          □
     徳島から広島までは高速バス1本で行ける。朝8時の便に乗りこんでグースカ寝てるうちに、昼12時過ぎには広島市の目抜き通りにあるバスターミナルに着いている。
     鈍足のぼくは、正規スタート時刻の朝9時ではなく、9時間分おまけをもらって深夜0時スタートを選択している。真夜中スタート時刻の直前まで寝だめしておきたいので前日入りし、安宿に2泊分の料金を払う。美魔女キャバクラや熟女専門店の看板が並ぶエロ街の奥にあるホテルは、1泊3500円と格安なのに大浴場がついている。部屋のドアを開けると、間口は狭いのに奥にやたらと長いウナギの寝床のようなレイアウトの部屋である。ベッドが縦に2列並べられている。2人客ならばタテ一列に寝るのだろうか。変だけど3500円なので仕方ないか。
     ひとっ風呂浴びに大浴場へ。立派なサウナ室がついているのは良いとして、サウナ上がりに必須の水風呂がない。かつて水風呂があったと思われる浴槽には、なぜか植木が置かれている。さらに洗い場のカランからは水の方をひねっても熱湯しか出ない。浴室内のあるゆる物が猛烈に熱いのである。3500円なので仕方ないのでしょう。
     夜11時40分に原爆ドーム噴水前に出かけると、すでに何人かの選手が集まっていた。
     昨年も参加された選手の方から、この1年間に何度もコースを試走するために遠方からやってきたと聞き、思いの強さに圧倒される。その方の荷物はウエストバッグひとつだけ。暑さとの戦いが続くこの大会では、リュックより正しい選択だと思う。重い荷物は走りのスピードを阻害し、また背中に密着するリュックを熱の塊とし、体温を放散しにくくする。
     ぼくも極限まで持ち物を減らしたが、ウエストバッグの容積にまでは圧縮できなかった。持ち物は、基本的には「ほぼ何も持たない」という考えでまとめた。
    ①お金とカード
    ②スマホ(居場所と通過時刻を主催者に報告する必要があるため)と充電コード
    ③馬の油を少量つめこんだ小瓶(マタズレ防止に塗る用)
    ④コース地図(56枚)および注意事項が箇条書きされた用紙。合わせて約100枚。
    ⑤ヘッドランプと背後の点滅灯
    ⑥350mLハンドボトル
     着替えは持ってない。シャツとパンツは公衆トイレで脱いで水洗いすればよい。洗ったら絞ってそのまま着る。どのみち汗でビチョビチョだし、濡れている方が涼しくてよい。
     5リッター容積のリュック内の90%は地図と注意事項の用紙100枚で占められている。これはスマホに取り込んでおくべきだった。が、今さら手遅れなり。
          □
     深夜0時、走りだした直後からむんむんと蒸し暑い。気温は29度である。
     単独走でアーリースタートを選んだランナーは8名。縦に長く集団で進む。地図に指定されたコースは、昔ながらの商店街や住宅街を縫うように続く一車線の道である。ひんぱんに分岐が現れ、正しい道を選択しないと鉄道のフェンスに突き当たってしまったり、山の麓で行き止まりになる。
     相談したわけでもないのに集団で進んでいるのは、道に詳しいランナーについていった方が得策だと皆が判断しているのかもしれない。それにしてもペースが速すぎる。今から400km走るというのにキロ6分から6分半くらいだ。参加者の多くがさくら道国際ネイチャーラン(250km・36時間制限)の完走者なので、ぼくにはレベルが高すぎるのだ。
     大量の汗がシャツからパンツ、そして足元へと伝い、靴の中がボトボトになる。今回、大汗や台風(2日目に大型台風が直撃予定)を見越して特別なシューズを着用している。ノースフェイス製の「水陸両用シューズ」ライトウェーブフローレースというもの。どういう競技向けかは知らないが、海中や川の中を走るために開発されたとの触れこみだ。水はけがよく、水に浸かっても重くならない。ペロペロ生地のカカトは、踏んづけたまま歩いても型崩れしない。また、靴ヒモがゴム製なので、ヒモをいちいち緩めなくても、一瞬で着脱できる。足の裏が熱くなりすぎて、しょっちゅう氷で冷やすぼくにとっては、ありがたい機能が満載なのである。
     シューズに流れ込んだ滝汗がべちょべちょ音を立てるが、重さが増すことはなく、不快感はない。この靴を選んで正解だったと最新ギアに満足しているうちに、キロ6分30秒で進む集団から取り残される。一人ぼっちになったとたん、自分の居場所が不明瞭になる。
     スタートから10kmすぎ、廿日市駅を過ぎたあたりで住宅街に迷い込む。どこに進んでも袋小路の行き止まりを繰り返す。地図を上に下にとひっくり返して悪戦苦闘するが、ここがどこかわからない。 スマホのGPSで調べれば良いのだが、なんとなくプライドが邪魔して見る気がしない(まったくもって無意味なプライドである)。
     時間だけが過ぎていきラチがあかない。心すっかり折れてしまい、迷子になったポイントまで戻ることをあきらめる。とにかくこの迷路から脱出しよう。
     広い道に出ないとどうしようもないので、夜空に街灯のオレンジ色がうっすら透けていたり、かすかに車のエンジンがする方へと向かってみる。遠くに点滅信号が見えて、やっとこさ二車線の車道に出られる。道路標識が見当たらないので、相変わらずどこなのかわからない。
     ふと気づけば、進行方向の左側にトロンとした黒い水面が広がっている。レース序盤に海辺に出る予定はない。広い川か湖かと思ったが、コンクリート造りの岸壁が現れたことで、そこが波音ひとつしない静かな港湾だとわかる。正規ルートと全然違う場所にいるじゃないか。やっちまったよ。本来の道をたどれば12~13km地点では峠道にさしかかっているはずなのだ。そのうち観光名所の宮島や厳島神社への看板が登場しはじめ、本格的にあらぬ場所にいることを認識する。ここは国道2号線だ。
     これが正規コースより遠回りならまだ良いが、近道なら反則行為であろう。しかし、道に迷った住宅街まで引き返す気力は失せている。改めて地図を見直すと、10km先の大竹市で正規コースと合流する。そこまではこの反則ロードを走っていこう。スタート直後のコースミスで精神的ダメージが深い。ぼくの実力では、完走はどだい無理なんだけど、無理は無理でも力尽きるまでは完走を目指していたかったのである。気分が滅入り、脚に力が入らなくなってしまった。夜明けまぢかの国道をのろのろと西へ西へと進む。
     30kmを過ぎてようやく正規コースに復帰する。夜はすっかり明けている。景色が見渡せるようになれば、二度とコースアウトなんてするもんかと慎重に地図を解読していたが、今度は広島・山口県境を山越えする「苦の坂」にたどり着けない。山麓への取りつき道への分かれ道を、1本手前のY字路で曲がってしまったらしい。正規コース上にいる時間より、迷子になってる時間の方が長いぞ、ほっほっほ。見知らぬ街を西に東にとウロウロしているうちに、なんかヤケクソになってきたぞー。この道が正しかろうが間違ってようが、とにかく前に進みましょう。
     43km地点の山口県岩国市の錦帯橋までに7時間もかかってしまった。
     錦帯橋を過ぎると山道に入っていく。まだ朝8時というのに、太陽のギラギラはずっしり重量感がある。炭火焼きのサンマみたいに肌が焦げていく。真夜中にドバドバかいていた汗は止まり、腕や顔には塩が吹き出している。体毛の先に塩の結晶が見えるほどだ。乾燥した肌では、体内にこもる熱を放散できない。
     2つ目の峠・中峠にさしかかった頃に、右手の指先が痺れてくる。初歩レベルの熱中症なら、頭から水をかぶっておればどうにかなる。しかしこの辺りはけっこうな山深さなのに、どこからも山水が流れ出していなくて身体を冷やせない。
     開会式の席で、川の道フットレースやバッドウォーターで何度も上位でゴールされているトップランナーの方が「このレースの夏の暑さは限界を超している。バッドウォーターの砂漠より暑いよ」といったお話をされ、そのときはピンときていなかったが、(ああ、この暑さのことをおっしゃってたのか)と実感する。
     いよいよ意識が飛んできてマズい状況に陥った頃に、道から10メートルくらい離れたヤブの中から水音が聴こえてくる。近寄ってみると、幅1メートルくらいのコンクリート造りの水路に、人間が1人浸かれるくらいの水たまりがある。手をひたすと充分に冷たいが、アメンボやボウフラみたいな小虫がたくさん浮いている。しかし四の五の言ってられないので、虫どもを刺激しないように、服を来たまま足先からそろりと水に入り、アゴまで潜る。水温は20度くらいだろうか。鼻先の水の表面で、大きな蛾が羽をばたつかせて燐粉をふりまいている。ふだんなら気味悪く感じるだろうが、今はどうでもいい。
     15分くらい浸かっていただろうか。体温が下がるとともに、意識が明瞭になってくる。
     水たまりから上がって、周囲に人の気配がないことを確かめ、シャツとパンツと靴下を脱いでフリチンになる。服を手絞りし、着なおす。身支度一式を整えると、峠の下り坂へと恐る恐る復帰する。あたりに民家がない場所で、熱中症のダメージをリカバリーできないのなら、ならちょっとばかり深刻な状況に陥るからだ。だが踏み出した足は軽く、快調にピッチを刻みはじめる。ふー、ひとまずはピンチを脱したようだ。
     しかし原爆ドームを経ってわずか60km。レース序盤にこんなにもヨレヨレになって、長崎ゴールどころか九州上陸すらおぼつかない。本州と九州の海峡間をつなぐ関門人道トンネル(190km地点)までここから130km。途方もない距離のように思えてならない。             (つづく) 

  • 2017年08月19日バカロードその110 暑さ最弱ランナーなりの灼熱対策 その1

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

     ウルトラランナーって年がら年じゅう、クソ暑いかクソ寒いなかを走ってるよねぇ。熱中症への意識の高まる昨今では、気温35度を超せば運動部やスポーツイベントは活動中止になるのがふつう。危険度を判断する基準も進化していて、熱中症予防の目的で考案された「WBGT・湿球黒球温度」の値を用いて、より科学的に人体への影響を図ろうと試みられています。

     「WBGT・湿球黒球温度」の算出要素は、気温10%、湿度70%、地面や壁からの輻射熱20%です。この比率、ランナーの皆さんなら納得するよね。大会本部テントの涼し気な日陰に置いてある温度計と、カンカン照りのアスファルト上で感じる暑さはまったくの別物です。
     でもって「WBGT」指数では、31度を超すと「高齢者においては安静状態でも熱中症を発生する危険性が大きい。外出はなるべく避け、涼しい室内に移動する」との指針がある。そうそう、夏の暑さは、お年寄りにとって死にも直結する悪因なのです。
     かく言うわたくし、若者か高齢者かと問われれば、明らかに高齢者の部類に属するお年頃です。猛暑日には冷房の効いた甘味処で白玉あんみつなどをついばんでいたいものですが、いざレースとなれば、いつまでも木陰でグズグズと休憩してはいられません。
     体力充実した中学生や高校生ですら活動休止している酷暑環境で、物忘れがひどくて日々ボーッと過ごしている中年男子が、100km、200kmと走りつづけてよいものでしょうか・・・と疑問を呈しても誰も答えてはくれません。嫌なら走らなければいいのです。誰か怖い人に命令されたわけでもないのに、好きこのんで勝手に走ってるバカにつける薬はありません。
        □
     アスリート体質のランナーならいざ知らず、気温が35度を超すとなると、凡庸なランナーならば体温調節機能のスペック外です。
     自動車のエンジンには水冷・空冷があって、内燃機関がつくりだした熱を、風や水を使って下げています。人間なら血液や汗が「水冷」にあたります。毛細血管や汗腺は、車の部品でいえばラジエターでしょう。一方「空冷」の役目は皮膚表面が担ってます。
     昭和中期の頃には、自動車が道ばたでエンコして煙をもくもく出してる場面をよく見かけました。エンジンの出す熱を外に放出する機能が低かったんでしょう。現代の車では滅多にありません。
     車に比べて人体はそれほど短期間に進化しません。中年太りの暑がりオヤジが、ある日一念発起してウルトラマラソンを始めたからといって、急に暑さに強くなったりはしません。
     真夏、走ってる最中に深部体温は40度近くまで上がります。そして外気温が35度を超すと、この発生した体温の逃げ場がどこにもなくなります。だから気温35度を超すと大多数のランナーはオーバーヒートします。では、どうすればいいのでしょう。
     そこで昭和40年代製の旧タイプの冷却システムしか持っていない中年男であるわたくしが、真夏のレースを乗り越えるために無駄骨を折りつづけて得た暑熱対策をまとめてみました。
              □
    ①使える外部手段はすべて使う。最強アイテムはやはり氷。
     体温を最も効率よく下げられるのは言うまでもなく氷です。熱脱離が速く、溶け終わる瞬間まで効果が持続します。
     エイドにブロックアイスを用意してくれている大会が、以前よりは格段に増えています。エイドのないマラニックなら、コース上にあるコンビニで購入します。
     特に頭皮一帯と首まわりは、可能な限り氷を使って冷やし続けるべきです。帽子の中に入れて頭頂部を冷やし、首まわりにはタオルや手ぬぐいで氷を巻いて結びます。その際、後頭部の頚椎部分だけじゃなく、左右のエラの下あたりにある動脈部分に氷があたるように巻きます。この場所を通った血液はそのまま脳内に流入するので、「回復した気分」に達する時間が短いです。しかし実際はいったん熱中症に陥ると肉体全体にわたってダメージを受けています。そうそう簡単には回復しないので、「回復した気分」に過ぎないと理解しておきましょう。
     熱中症対策には、ワキの下や股関節付近の動脈を集中的に冷やすことは常識ですが、ランニング中にワキとマタに氷を挟むのは無理です。動脈にこだわらず、両手に氷の塊を持ち、あらゆる体表面に塗りたくるのがよいです。衣類から露出している顔、腕、太腿に加えて、シャツやパンツにも塗りつけましょう。
     衣類はビショビショに濡らしすぎると、体温の放散が繊維内の水にジャマされ、気化熱の効果が発揮できません。霧吹きスプレーで吹きつけた程度に薄く濡らし、乾ききる前にまた濡らすようにします。これがいちばん体温を下げやすいです。
     いちいち立ち止まって身体に塗っていると、どんどん関門までの余裕時間がなくなるわけだから、すべて走りながらの行為です。
     氷が入手できない場合もあるでしょう。コンビニがない田舎道なら、昔ながらの商店で売っているアイスクリームを活用します。パウチ容器やチューブ入りのクーリッシュやパピコを氷の代わりに使います。
     氷、アイスクリームともになければ、ボトルの水をうまく活用します。頭からジャブジャブ水をかぶってる人がいますが、得策ではありません。ボトルから手のひらに少しずつ受け、体表面に薄く塗りたくります。
     水の持つ気化熱(液体が気体に変わる時に周りから熱を奪う)を最大に利用する最良のツールは「霧吹きスプレー」です。霧吹きだと手持ちの水を減らすことなく、水量に対して最も効率よく皮膚表面の温度を下げられます。といっても、スプレー容器をもって走るのは邪魔くさいと感じる人が大半でしょう。そのときは昭和のプロレスラー・・・ザ・グレート・カブキやグレート・ムタがよくやっていた「毒霧」の要領で、口に含んだ水を霧状にして吹き出し、身体に浴びせかけるテクニックを習得しておきましょう。2、3回練習すればできます。周りにランナーがいるときは迷惑なのでやめといてください。
     ドラッグストアには、アウトドア活動用の涼感・冷感スプレー製品が多く販売されています。使っているランナーも少なくないですが、それら製品の多くは原料のメントールなどに「冷たく感じる」作用があるだけで、実際に体温を下げるわけではありません。ガムを噛んだりミントティーを飲むとスースーするけど、口の中の体温が下がっていないのと原理は同じです。
     だからレース中に冷感スプレーを使用して、熱中症予防バッチリと信じ切っているのに、体温は高いままというのは危険です。高体温状態が10時間以上つづく夏のレース時に、体温調整アイテムと信じて使うのは間違っています。

    ②着衣カラーの影響は大きい。
     「体温を下げる」という点では、衣類やシューズの色も重要です。
     直射日光の下では圧倒的に「白」が有利です。気温50度以上まで上昇するバッドウォーター・ウルトラマラソン(米国カリフォルニア州・217km)や、砂漠を走るアドベンチャーレースでは、全身シルバーや白色で覆われたダボダホのウエアをまとっている選手の姿が見られます。
     色による熱吸収率や太陽光の反射率については、学術的な研究結果を見つけられませんでしたが、ペンキメーカーや外壁施工の企業による自社調べの数値が公開されています。
     そこでは色による違いは顕著です。最も優れた反射色は銀色で反射率90%、つづいて白80%、黄色60%、金色50%、オレンジ30%、赤20%、青10%、黒5%といったところです。銀色のシャツはあまり販売されていませんから(帽子はあります)、安価で簡単に入手できるのは白色のウエアです。

    ③足の裏の熱を外に逃がすには。
     気温が40度付近になる場合、アスファルトの路面温度は50度を超すことはザラです。疲れ果てていても、路上に腰かけられないほどののフライパン状態になっています。地面の高熱はシューズのアウトソール素材を伝わり、内部まで侵入してきます。足裏の体温それ自体も、数十万歩もの着地から高温化しているので、内に外にと熱されて、こもった熱の逃げ場がなくなります。シューズ内の温度が上昇しっぱなしになると、足裏の腫れや水ぶくれの原因となります。ひどい時には、剣山の上を走っているような激痛をもたらします。
     そんなときは迷いなくシューズの指先部分を刃物で切り裂きます。いきなりバッサリ切るのが不安なら、最初は爪先2cmくらいの切れ目でよいでしょう。それでも効果が薄ければ、ざっくりと指全体が露出するように穴を開けます。
     指先を露出させるとシューズ内の通気性が一気に良くなり、足裏全体が冷やされます。
     シューズを切る際に気をつけたいのは、切り目の位置です。地面すれすれの下の方を切ると、つま先で蹴りあげた小石が入り込み、たびたびシューズを脱いで石を落とさなければならなくなります。なるべく爪先のアッパー部分を切りましょう。
     すごく単純なことですが、道路のどちらか側に日陰があるのなら、それを選んで走ることも大事です。道を左右に移動してのランは多少の遠回りではありますが、冷たい日陰の路面で足裏のダメージを軽減させられれば、その貯金は日没後の50km、100km先で生きてきます。

    ④胃薬に頼らない。
     胃薬と一概に言っても、薬品によって患部へのアプローチの方法が違います。ウルトラランナーがよく使うのはH2ブロッカー系です。H2ブロッカーは胃酸の分泌を抑えます。次にスタンダードなのは、胃粘膜を保護して胃酸を中和するタイプ、また胃粘液を増加させて胃粘膜を守るタイプです。ほかには消化を促進したり、胃の痛み自体を抑えるものもあります。
     ウルトラランナーの間では、ロキソニンやボルタレンなど強い鎮痛効果のある錠剤を、用量以上に飲みながら走ることが一般化していて、そういう人は鎮痛剤と胃薬をダブル飲みしています。医者ではないぼくの根拠のない意見ですが、激しい運動中でなおかつ水分枯渇状態で、第一種医薬品や処方薬をダブル飲みするのは、いくらなんでもヤリ過ぎではないかと思います。 
     レース中に嘔吐が止まらなくなり、それでも完走をあきらめたくない場面はいくらでもあるでしょう。ぼくも今までいろんな胃薬を服用しました。H2ブロッカーの代表的な市販薬「ガスター10」を飲んで劇的に吐き気が収まった経験があります。しかし別のレースではまったく効き目がなかったりもしました。おそらく同じ「嘔吐」でも、時と場合によって原因が違うためだと思います。シロウト療法では、どのタイプの胃薬がその時点で最も適切なのかは判断しようがありません。
     また、胃薬の副作用として起こる反応の方が、いっそう肉体にダメージを及ぼす気がしています。たとえば胃酸を抑制する薬を飲むと、食べ物はおろか水分さえも消化吸収しにくくなり、血液などから筋肉へと栄養が供給されなくなってハンガーノック状態に陥ることがあります。そうなってしまうと「こればマズい」と無理にジェルやコーラを飲んでエネルギー切れを脱しようとします。しかし胃はマトモに動いていないので、それらを受けつけず、反射的な反応として吐いて戻そうとします。
     結果、ハンガーノックだけでなく、塩分やミネラル類なども体内に取り込めなくなり、脚ばかりか腹筋や両手指まで攣りはじめます。嘔吐が続くと「吐く」という行為自体に体力が奪われ、精神的にも擦り切れます。この暗黒のスパイラルが繰り返され、戦意が失われていきます。これが、ぼくが暑さに敗れていく典型的な過程です。
     「嘔吐」は症状のひとつに過ぎません。循環器はじめ全身の機能不全による結果が嘔吐となって現れているのであって、胃内容物の逆流はハデな現象のひとつです。やむなく胃薬に頼らざるを得ない状況に陥ったときには、すでに手遅れである場合がほとんどなのです。極度に根性、人間力のあるランナーはコレを乗り越えていきますが・・・。
     冒頭に挙げた「胃薬に頼らない」とは、胃薬を絶対に飲まないという意味ではありません。レース展開として、制限時間や関門までの余裕タイムが3時間、4時間とあるときは胃薬の世話になるのも選択のうちです。ゆっくり効いてくるのを待てるし、急激な副作用にも対応できます。でも3時間もあるのなら、ただ横たわっておれば体力は回復するだろうから、あえて薬を頼らなくてもよいとも言えます。
     大切なのは「胃薬を必要とする状況に自らを追い込まない」ことです。
     そのためには、
    ・残り距離に対して自分がキープできる速度以上にスピードを上げない。
    ・直射日光の下では、さらにスピードを20%以上落とす。
    ・呼吸を荒げたり、心拍をドキドキ鳴らす走り方をしない。
    ・関門を越えるためにスパートを繰り返す状況をつくらない。
    ・氷や水を使い、体温を下げる努力をしつづける。
    ・他人のペースに合わせない。特に知り合いが後ろから追いついてきたときには注意。ペースは追いついてきた人の方が上。並走しているうちは脳に刺激が与えられ楽に感じるが、取り残された後にダメージが出る。
     これらの自己コントロールが必要です。
    (次号につづきます) 
     

  • 2017年08月19日バカロードその109 鶴岡100kmその3 日本でいちばん制限時間の短い100kmレース

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

    (前号まで=9月初旬に山形県で行われる鶴岡100kmは、制限時間が11時間以内と厳しいレースだ。ぼくは50kmを5時間12分で通過したものの、気温35度を超す猛暑に見舞われペースはだだ落ち。最後まで粘りきれるだろうか)

     青空には一点の曇りもない。天球のてっぺんに居座る太陽は、自らの威力を示さんばかりに「これでもか」とギラギラを放射している。降り注ぐ光は頭上にのしかかり、質量があるかのごとくズッシンと重い。
     お昼を過ぎると、コースの道ばた何カ所かに、氷ブロックを山盛りにしたバケツが置かれた。大会スタッフの配慮だろう。バケツに手をつっこんで氷を5個、6個とわしづかみにし、パンツの両ポケットに突っ込む。顔や腕や脚やあらゆる皮膚に塗りたくり、口に放り込んでガジガジかじる。内臓を冷やし、皮膚表面も冷やす。体温が1度下がるだけで意識は明瞭になるものだ。身体自体が持っている体温調整力を遥かに超えた環境では、外部要因を徹底的に使うしかない。
     並走した選手が「完走できそうなペースで走ってるのは6、7人らしいよ」と教えてくれる。ぼくはその6、7人に含まれているのだろうか? 周回コースということもあり、自分の順位はさっぱりわからない。このクソ暑さと11時間という制限時間を克服し完走できたら、ちょっとは自信がつくのではないかと考えるとヤル気が湧き出し、つかの間シャキッとなる。が、すぐに太陽に押しつぶされてフニャフニャになる。
     60kmを6時間28分。ランナー同士は、周回の違いで追い抜いたり追い抜かれたりしながら、少しの時間を並走し、言葉を交わし合っている。
     ゼッケンナンバー1番をつけたランナーに何度か追いつく。当大会ではゼッケンの数字が若いほど大会黎明期からの参加者ということになる。1番ならば30年以上前からウルトラマラソンに取り組まれているに違いない。終始マイペースで、ニコニコ笑顔で楽しそうに走られている。わずかな時間を並走するたびに「いい走りをしてますよ」とか「(底の薄い)ターサーでよく走るねぇ」「氷をポケットに入れるのはよいアイデアです」なんて声を掛けてもらう。ベテランランナーからお褒めの言葉をいただくと舞い上がる。「でしょでしょ~」などと調子乗りな返事をしていた。しかし、帰宅してから氏のお名前を検索してみると、おそれ多くも第一回サロマ湖100kmウルトラマラソンの優勝者であった。30年も前に100kmを7時間台で走られているお方に軽口叩いて・・・穴があったら入りたいです。
     8周回目、前方をいくランナーが民家の前で立ち止まる。足元には、庭先から歩道に突き出したパイプがある。パイプの先端からゴウゴウと溢れる地下水は、ポリバケツに注ぎ込まれている。そのランナーは、水が満タン入ったバケツを「エイヤッ」と頭上まで持ち上げ、バッシャーンと全身にかぶった。
     思わず「み、水ごりですか!」と声をかける。修行僧のような荒行の結果、彼のシャツやパンツ、シューズまでびしょ濡れだが、「気持ちいいよ! 君もやってみたらどう!?」と全身で爽快さを表現している。マネしたい、気持ちいいだろうな。だけどタプタプのシューズじゃペースをあげて走れない。(よし、ラスト1周になったら、絶対やってやるど!)と心に誓う。
     80kmラインを8時間51分で通過し、9周目に入る。最終関門とも言える90kmラインは制限時間10時間ちょうど。この1周を69分でいけばクリアできる。
     だが100kmを完走するためには、この10kmを65分でカバーする必要がある。更にラスト一周を64分でまとめ、ギリギリ11時間切りを達成できる。
     80kmラインからペースをぐんと上げキロ6分にする。とにかくタイムの貯金をしたいという意識で頭がいっぱいになる。
     3、4キロはスピードを維持できたが、無理があったのだろう。急に意識が遠のき、立ってるのがやっとこさになる。85kmエイドを過ぎると脚のろれつが回らなくなる。真っ直ぐ走れず蛇行し、この1kmに10分近くかかってしまう。
     こんなんじゃ90km関門すら危うい。90kmから先のことなんか考えても仕方がない。熱中症だろうがスタミナ切れだろうがそんな心配している暇あれば、全力で脚を前後に動かし続けるべきだ。90kmを越えたら、いっかい倒れたっていいんだ。とにかく目の前のボーダーラインを乗り越えるしかない。
     「先のことを考えなくてよい」と自己暗示をかけると、脚がふわふわ動きだす。アラッ、けっきょく病は気のものなのかねぇ。再びキロ6分にペースが上がる。
     89km、9時間55分50秒くらい。のこり1kmを4分ちょいで走れば間に合う! 不可能か?  いや今は可能性の有無などを論じている時ではない。自分が出せる最大出力のスピードで駆けるしかないのだ。
     住宅街を抜け、突き当たった丁字路を最短インコースをとって左折する。90kmラインのある本部テントが見えてくる。よっしゃ出し惜しみなく走りきったぞ、結果はどうだい?
     しかしラインを越したところで主催者の方に「ここまででぇす」と止められる。90kmの記録は10時間1分10秒。ラスト1kmは5分18秒にしか上げられなかった。温情で関門を通してくれないかなと淡い期待を抱いたが、オマケは一切ない模様。ハッキリしていてよいことです。
     リタイア地点がそのまま本部会場というのは切なくもあるが、収容バスを待たなくていいので、便利といえば便利である。着替えカバンを置いてある公民館まで20メートルも移動すればよいのだが、なんとその20メートル先にたどりつけない。公民館の駐車場に尻餅ちをつく。選手にぶっかける用に水道から伸ばされたホースの水を、頭のてっぺんから10分間くらいかけ続けるが、一向に体温が下がらない。
     本部テント脇に置かれた子供用のプールに、氷のブロックが浮べられている。その冷水にタオルを浸し、頭や両脚に巻きつけて何度も取り替えていると、少しずつ正常な意識が戻ってくる。
     後続のランナーたちはそれぞれの周回数を経て、スタート地点へと戻ってくる。若いゼッケンナンバーをつけた60代、70代の伝説的ランナーたちもレースを終える。彼らは着替えもそこそこに、公民館の一室にある食卓を取り囲み、缶ビールで酒盛りをはじめている。大盛りのカレーライスを酒の肴に、日焼け顔なのか酔っ払いなのかわからない赤銅顔で盛り上がっている。灼熱下を11時間走っても尽きない旺盛な食欲。こちとら何一つとして喉を通りませんよ。ウルトラランナーとしての豪快さも内臓のタフさも、とても敵いそうにはありませんです。
         □
     レース終了後間もなく、選手とスタッフ全員は市内随一(と思われる)格式あるホテルで再集合する。マラソン大会の後夜祭といえば体育館で立食ってのが相場だが、鶴岡100kmの閉会式は結婚式の披露宴会場のような立派なホールで行われるのだ。受付で名札をもらってつけるのもパーティみたい。
     指定された円卓の席に着くと、両隣はランナーではなく大会スタッフの方であった。お二人とも20代くらいの若者である。円卓を囲んでランナーとスタッフが交互に座る。全国からやってきた様々な世代のランナーと、鶴岡市という地元に根を張って生きる若者たちが酌をしあう。お世話をする側とされる側の間に仕切りがない。宴会の席の配置ひとつとってもコンセプトが貫かれた素晴らしい大会だと改めて思う。若いスタッフからは、いろんな地元事情を聞かせてもらった。ぬかりなく名物スイーツ情報も教えてもらいメモした。
     やがて選手ひとりひとりの名が呼ばれ、ステージ上に招かれる。100km完走した人も、11時間コース上でがんばった人も、赤ら顔を満足そうに緩めている。
      11時間内に100kmに達したのは5名。ぼくは完走できなかったものの、未完走者のうち最初に90kmラインに到達したという6番目の成績を収められた。関門超えには1分10秒足りなかったわけだけど、われながら実力以上に走り、大変な健闘をしたレースであったな、と自画自賛しておく。
     テーブルには、お腹を満たすに程よい料理が皿を変え何度も届けられる。山形の銘酒はじめお酒は飲み放題だ。好きなだけ走ったあとで、気のすむまで呑める。格別な一日だねぇ。
     愉しい宴席が終わると、ホテル最上階の露天風呂へ移動する。浴槽からは鶴岡市内の夜景が一望できる。仰向けになって浴槽のヘリに後頭部をひっかけ、湯面に身体をぼやーんと浮かべる。今日1日で7リットルは汗かいたな。どの細胞にもアルコールがしみわたっていて心地よい。キッツいけど何から何までよい大会だったな。90kmアウトは来年またチャレンジするための布石としておこう。しかし部屋に帰るのが面倒くさいな・・・このままここでおやすみなさい。

    【酷暑下で100km以上を走る対策について】
     30度を超すと常にレロレロになり、コース上にいるより木陰で昼寝している時間が長くなりがちなぼくですが、鶴岡100kmでは日陰に設置された気温計で35度という酷暑の条件ながらも、最後までタレずに走りきれました。85km地点でふらつきと蛇行を起こしてしまいましたが、これは暑さというよりその直前に能力以上にペースアップしたことが原因です。10分ほど我慢していたら元の体調に戻ったので、長丁場レースなら諦めず、歩きを混じえながら体調の回復を待つべきだという教訓も残しました。何らかの危機的状況に陥っても「このまま際限なく悪化していく」とネガティブに考えなくてよいということです。
     話を脇道にそらしますが、最近は実業団マラソンの選手や指導者からこんな発言がよく聞こえてきます。「夏のマラソンを走りきるには暑熱順化はたいして重要ではない。それよりもスタートラインにつくまでのコンディションづくりが大事だ」。真夏に行われる東京五輪や世界陸上を念頭に置いた発言です。全盛期の瀬古選手が五輪前に過剰な走り込みをして血尿を出し、本番で失敗したというエピソードも効いているのでしょう。
     猛烈な陸上競技ファンのぼくとしては、憧れの選手や有能なコーチ陣らがそう発言していると思わず鵜呑みにしたくなります。「なるほど。暑いところで練習しすぎて疲労困憊になるよりは、まずは体調づくりね」とラクチンな道を選びそうになりますが、ぶるぶると首を振って否定をしなくてはなりません。
     当たり前すぎることですが、彼らとぼくらは同じ「マラソン」という言葉を使ってはいても、実際はまったく別物の競技に取り組んでいます。トップクラスのマラソンランナーはキロ3分ペースで2時間10分の短期決戦をしています。一方、ぼくたちの土俵は主に一昼夜以上の徹夜レースです。ペースは昼間はキロ6分以上、深夜にはキロ10分まで落ちるのが普通です。日中、高温にさらされるのが朝9時から夕方4時までとしても7時間。もちろんその前後も、直射日光を肌に浴びつづけています。昼間に蓄積されたダメージは、日没後の暗闇のなかで襲ってきます。ボロ雑巾のように重く役に立たない脚の筋肉、絶え間ない吐き気と空ゲロ、どのような痛みも感じなくなるほどの強烈な眠気・・・。
     このようなバッドな状態に陥らないために、たくさんの打つ手があります。トップランナーが否定する暑熱順化は、われわれにとっては最も重要なトレーニングです。
     ぼくは人一倍暑さに弱く、またゲロ吐き常習者です。だからこそ、元から暑さに強いランナーよりはノウハウが積み上がっているかもしれません。自分を使って人体実験を繰り返し、灼熱の中でもコト切れない方法を探ってきました。
     8月、9月からのウルトラ&マラニックシーズンがいよいよ開幕します。フルマラソンですらほとんど行われないこの真夏に100km以上のレースがたくさん行われるとは、まったくもって超長距離走者という種族はイカれた人たちです。次号では「暑さ最弱ランナーなりの涙ぐましい暑熱対策」をまとめてみたいと思います。 

  • 2017年07月21日バカロードその108 日本でいちばん制限時間の短い100kmレース・その2

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)


    (前号まで=ときはド真夏、制限11時間という厳しいウルトラマラソン「鶴岡100km」に参加するべく山形県に向かう。空港に降り立つといきなりのピーカン日照り。大会当日は36度まで気温上昇との予報。はて、こんなんで10km✕10周なんてできるものだろうか)

     大会前日は午後3時から全員参加での開会式が行われる。開会式まで特に用事もないので、近隣の温泉場に立ち寄るとする。宿泊していた湯田川温泉から乗った路線バスをいったん鶴岡駅前で降り、湯野浜温泉行きのバスに乗りかえる。市街地を抜け30分ほどで波穏やかな日本海の海辺に出る。コンクリートの護岸が続く海岸ぶちには、時代がかった鉄筋コンクリートの中層ビルの温泉宿が建ち並んでいる。昨夜泊まった湯田川温泉はしんと静まりかえっていたが、この温泉街も観光客らしき人の姿はポツポツ。その代わり、黒いスーツに白ネクタイの披露宴客や、昼から赤ら顔をした宴会客が群れをなして歩きまわっている。
     源泉かけ流しで日帰り入浴のできる旅館を選び、夕方までの時間をつぶそうと試みる。露天風呂でだらだらと過ごすが、湯滝のように降り注ぐお湯は熱く、外気もまた暑く2時間でギブアップ。温泉街に歩き出てはみたが、気温は33度。ちょっとした坂道を登っただけでゼェゼェと息が荒らぐ。団体の酔客たちは大型バスでどこかへと去り、一般観光客がチェックインする時間までも遠く、温泉街には人の気配がない。日光だけがサンサンと降り注く街路は、時が止まったかのようである。強烈な陽射しが、足元に黒々とした影を焼きつける。せっかく風呂に入ったばかりだが、吹きだす汗が止まらずシャツはびしょ濡れである。日陰で猫が2匹、暑さのあまり身体を真っすぐ伸ばして、冷たいアスファルトに身体をなすりつけている。
     外湯をハシゴする気も起こらず、時間をもてあまし、鶴岡市内へと戻るバス待合所のあるロータリー交差点で無益に時を過ごす。何もやることがないと、時計の針はなかなか進まない。
     30分ほどしてやってきた路線バスに乗って鶴岡駅前に戻る。開会会場である公民館「第5学区コミュニティセンター」まで、1kmほどの道のりを裏道を選んでぶらぶらと歩いていく。
     会場の入口では、若い大会スタッフらがきびきびと選手の応対をしている。この大会は、30年以上前から開催されている国内で最も古いウルトラマラソン・レースであるが、数年前に大会の存続が危ぶまれたようである。しかし、歴史ある大会を絶やしてはならないと、地元の若い世代を中心に新たな実行委員会がつくられ、再スタートを切られたもよう。大会を支えているスタッフの皆さんは、みな若々しい。
     ホールにずらりと並べられたパイプ椅子の背には数字の番号が振られていて、自分のゼッケンナンバーの椅子を探して座る。椅子は、最前列からナンバーの若い順に並べられており、古くから大会に参加されている選手ほど前列に陣取るという趣向だ。
     大会の主催者が挨拶される。すごく若い女性(二十代?三十代?)である。ハツラツとした喋り方や身ぶりが印象的で、どっからどう見てもリーダーシップに溢れている。こんな人が中心にいるから、皆ついてくるんだなぁと感心する。
     一方のランナーの顔ぶれは、わが国のウルトラマラソンの歴史をそのままリアル年表にしたかのような偉人的な風貌な方が、一ケタ番号の席からお座りになられている。30年以上も前から100kmという距離を走り、今もなおウルトラランナーとして現役であられる。凄すぎるとしか言いようがない。
     やがてゼッケンの順にマイクが渡され、参加ランナー80数人が一言ずつスピーチをする自己紹介タイムがはじまる。話術達者なランナーたちのトークに笑いが絶えない。ぼくは「エイドに美味しいものがたくさんあると聞きつけてやってきました。1日にアイス10本だけ食べて生きていけるスイーツ中年男子です。美味しいスイーツを楽しみにしてます」といった腑抜けた挨拶をしてしまったが、スタッフの皆さんは「うんうん」と楽しそうに耳を傾けてくれていた。
           □
     翌朝は朝5時前に、鶴岡駅前のホテル玄関で待ち合わせたランナーと、予約しておいたタクシーに乗り込み、5kmほど離れたスタート会場へ向かう。早朝なので路線バスは動いてないし、大会の送迎バスも用意されてない。これはちょっと不便である。
     スタート会場は、周囲を田んぼに囲まれた「高坂地区」にある公民館。レース開始は朝6時であり、1時間前に着いたが、ランナーはまだ2、3名しか集まっておらず、それらの人も公民館の畳の間で横になって眠っている。1時間前入りは早すぎたようだ。マンモス大会と混同してしまった。
     30分くらい前になって、どやどやと選手が集まりだした。多くの方々は昔からの顔見知りのようである。顔に刻まれた年輪や赤銅色の日焼けが、彼らのランナーとしての年期の入りようを表している。ジャージのスボンを脱げば、運動部の女子高生のようにスラリと伸びた贅肉のない脚があらわになる。顔はおじいさん、脚は女子高生。違和感たっぷりである。よほど走り込まないとこんな脚にはなんないよねぇ。
     6時10分前くらいになって、スタートする駐車場になんとなく皆がやってくる。今から走るんだか、走らないんだかよくわからない気の抜けたムードのなか、主催者の方に「スタートぉ」と言われたとたん、スタートラインから田んぼの方に向かって伸びる草むらと砂利道へと、ダーッと駆けだす選手たち。わぁすげえスピード! てーかこの農道がコースなのかあ。制限時間が11時間しかないんだから、完走するにはそこそこ突っ込まないと無理ってのもわからなくはないけど、だるだるな雰囲気とスタートダッシュの激しさのギャップがすごい。
     戸惑いながら先頭集団の見えるくらいの後方位置でハァハァ息を弾ませて追走する。いきなりのダート道というか農道には軽トラのワダチが2本通っているので、そこをちょこまかと走る。
     農道を抜けると「黄金小学校」という運気の良さそうな名称の小学校グラウンドの脇から住宅街に入る。住宅街の奥に赤い欄干の橋が見えてくる。橋のたもとに噴水状にチョロチョロと水が吹き出している水飲み場がある。壊れているのか、ハナからそういう出しっ放しサービスなのかはわからない。赤茶けた錆シャビの飲み口で、喉が乾いてないとまず口をつける気にならない。が、後にこの水飲み場に何度も助けられることになるのである。
     いったん広い直線の車道に出て、行儀よく歩道を進む。自動車道との立体交差をくぐる。10キロのコース中、2カ所しかない貴重な日陰の場だ。
     その先、民家の庭先にしつらえられたパイプから、ドウドウと歩道に水が流れだしている。水の吹出し口の下にはポリバケツが置かれていて、氷水のように冷たい水がまんまんと湛えられている。遠望できる出羽三山から届けられた雪溶け水なのだろうか。何の目的で水を放出しているのかわからないので1周めは素通りした。後の周回で、前方を行くランナーがここで顔を洗ったり、シャツを浸したりしているのを見て、ああこれは選手も利用してよい水なのだな、と理解してからは水浴びに使うようになった。
     2.6km地点あたり、寿公民館の前に「Aステ」と呼ばれる1つめのエイドがある。たくさんのスタッフが待ち構えてくれているが、序盤はタイムを稼ぐために可能なかぎり足を止めないと心がけていたので、1周めは会釈をして通り過ぎる。けっきょくパスしたのはこの初回だけで、あとの周回では必ず立ち寄り氷を補給しないと、正常な意識を保てないほどの暑さに見舞われる。
     「Aステ」を過ぎると再び田んぼを貫く一本道に入る。農家が何軒かかたまった集落を抜けると、その先もまた一本道。天をさえぎる街路樹や日よけとなる建物はなく、剥き出しの直射日光が注がれる。早朝6時台というのに、すでに肌を焼くような暑さに見舞われている。
     2つめのエイド「Bステ」がある民田公民館は5.2km地点。元々は保育園であった建物を改修したようで、運動場に遊具の跡がある。このBステには、たっぷりの氷プールにドリンクが冷やされていて何度も救われる。開会式でスピーチした「アイスクリームさえあれば生きていける」とのコメントを覚えていてくれたスタッフの方が、ぼくのためにアイスを何本も用意してくれた。本当に嬉しかった。
     日枝神社を目標物として三叉路を左折し、参道を逆に進むと真っ白な鳥居が道路をまたいでいる。鳥居をくぐって広めの車道に出たら、3つめのエイド「Cステ」が現れる。ここがスタートから7.2km地点。
     交通量の多い車道を右折すると、近代的な産直施設「こまぎの里」の前にやってくる。ここのソフトクリームの看板やノボリには本当に苦しめられた。駐車場が広いために、走路から建物が離れているのが救いである。道路脇に建物があったなら誘惑に勝てない。クーラーが効いた建物に立ち寄ってみたり、ソフトクリームを舐めながら木陰で長い休憩を取ってしまったに違いない。
     ソフトクリームをやり過ごしてもなお危機は続く。その先の民家のお庭では、お昼どきからバーベキューにいそしんでいるファミリーがおられ、お肉の焼けるかぐわしい匂いが風に乗って鼻腔をくすぐる。この横を通り過ぎるのもまた荒行であった。
     魔のBBQエリアを抜けると、700mにわたる砂利道に突入。けっきょく10kmの周回コースのうち不整地は、スタート直後のわだちのある農道500m、6km付近にある丸石がゴロゴロ転がる200m、そしてトドメとなる8km付近の700m。3カ所合わせると10kmのうち1400mはダートである。100kmに換算すれば14km分にもなる。脚が痛いの痛くないのは我慢すればよいが、いかんせんスピードが落ちてしまう。キロ6分ペースを維持すべきこのレースで、なかなかの障害物となって現れるのである。
     最後に「藤沢周平生誕の地記念碑」と刻まれた石碑のある住宅街を抜けると、スタート地点の高坂公民館に戻る。ふー、これでようやく一周だ。
            □
     さてさてレース展開はといえば、1周目は速い人についていったので53分、2周めは57分。1周60分を切れたのは最初の2周だけであった。3周目からは気温の上昇に伴い62分、68分、70分・・・どんどんペースが落ちていく。50km通過は5時間12分。2倍すれば10時間24分で完走できそうなもんだが、ペースの落ち込みがひどくて先行き暗澹としてくる。
     後に気象庁のホームページで当日の気温を見ると、朝10時には30度を超しており、昼3時にこの日の最高となる33.1度を記録している。しかしこれは気象庁の観測ポイントのお話。本部テントに設置された気温計は36~37度を示しており、これもまた日陰の気温。直射日光にさらされたコース上は40度を超す猛暑だったと思われる。
     4カ所のエイドでは必ず氷のカケラを大量にもらい、短パンの左右ポケットに詰められるだけ詰める。両手にこぶし大の氷を握り、腕や太ももなど露出した部分やシャツの表面に塗りたくりながら進む。気を抜くと、ふらーっと意識が遠のいていくほどの熱波だが、氷の威力はたいしたもので、ひとしきり全身に塗ると生気を取り戻せる。次のエイドまでの15分~20分に、ポケットの氷はすべて溶けてなくなっている。
     レース環境としては「超難関」であるのは確かなのに、周回を重ねるごとに楽しみが増していく感覚がするのが不思議である。
     この角を曲がればあの風景が見られるとか、あそこまでいけば冷たい水浴びができるとか。
     4カ所のエイドや、分岐道で誘導してくれているスタッフの方の顔も徐々に覚えはじめる。スタッフの皆さんはベテランランナーのことは最初からよくご存知だし、ぼくのような初参加ランナーにも名前を呼んで声を掛けてくれる。エイド各所で「アイス好きのお兄さん、アイス食べて~」と市販のシャーベットアイスを手渡してくれ、そのたびに生き返った。
     (つづく) 

  • 2017年05月29日バカロードその107 瀬戸内行脚後編~日本でいちばん制限時間の短い100kmレース・前編

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

    (前号まで=愛媛県のしまなみ海道を舞台に222kmを駆ける瀬戸内行脚。松山市の道後温泉前を出発し、瀬戸内海の3島を徹夜でひとめぐり。再び四国本土に戻った165km地点で爆睡してしまう) 

    【今治市~伊予灘街道~松山市大街道 165km~222km】
     地図に描かれた波方半島は、タージマハルのたまねぎ屋根みたいなトンガリを、瀬戸内海にブスッと突き出している。この半島を外縁に添って北上したのち、伊予灘に面した漁港に突き当たったら海岸通りを南下する。海が見渡せるのは所々で、農耕期を終えた田畑の景観がつづく。
     道ばたに現れた広いため池の水面に、ポッチャンポッチャンと輪っかの波紋が広がっている。鯉がエサに食いついているのかと凝視すれば、後方からゴルフボールが滑空し、ため池に落下している。ゴルフの打ちっ放し場なんだな。水面にプカプカ浮いているボールはどうするんだろ?  おう、回収用のボートも係留されてんなあ。コレって自分の土地をほとんど持たずにゴルフ練習場の商売ができますな、ぬふふ。うまいこと考える人もいるもんだな。
     それにしても眠い・・・。明け方に30分ほど仮眠をとったのが裏目に出ている。走ったままうつらうつらと居眠り。まぶたは重力に抗しきれず落下していくが懸命にこらえる。が、ふと気づけば目をつぶったまま数十、数百メートル進んでいる。異常な危機感を感じてパッと目を開けると、着地した足は用水路のフチすれすれ。踏み外したら大落下のヘドロまみれだ。
     両手で頬をぶってみたり、頭を左右に激しく振って遠心力で目を覚まそうと試みるが、効果はない。眠気覚ましにはピンセットの針で太腿を刺すといい、と聞いたことがあるが、想像しただけでお尻の穴がキュンとなり、自分にはそこまでの覚悟はないと落ち込む。
     ちょっとした峠道のてっぺんに、たこ焼き屋さんの売店が現れる。受け取り窓口だけがあるテイクアウト専門のお店。たこ焼き屋さんなのに、カウンター横の貼り紙には「アイスが名物」と書いてある。値段はダブルが110円でトリプルが160円とある。なぜだかシングルは存在しない。ふつうアイスクリームのトリプルって400円くらいするもんだよねえ、160円でも3倍盛りなのでしょうか。おばちゃんにトリプルを注文すると、高知のアイスクリン的な丸っこい盛りつけでもって3段重ねにしてくれる。シャリシャリアイスが内臓から血液へと吸収され、血糖となって脳内を駆け巡ると、ようやっと眠気から解放される。
     巨大な造船所や石油の精製工場の脇をゆく。高さ50メートルはあろうかという精油塔には配管パイプが複雑怪奇に張り巡らされ、VRゲームのCG画面のよう。工場萌えや写真コンテストの投稿マニアには垂涎の場所らしいです。工場の敷地と道路の間は、ジャンプしたら飛び越えられそうな低い塀しかなく、不穏な意図をもったテロリストなら1人でもどうにかできちゃいそうなくらい開けっぴろげ。わが国はまことに平和です。
     菊間という街を過ぎると、人工的な護岸のうえに築かれた海岸ロードに出る。小さな岬や岩礁がつくる突起を10個くらい越えると、道の駅「風和里」の駐車場に大会スタッフが設けてくれたエイドがあった。ここが200km地点、スタートから31時間ほど経っている。なんぼ走ってもお腹が空かず、常時ハンガーノックという超常現象に悩まされたが、テーブルに並べられた食べ物を見て、ついに食欲が湧く。おにぎりを3個ガツガツ食いし、4個目のおにぎりは味噌汁が入ったコップに混ぜて、胃に流し込む。スタート前夜から40時間ぶりのお食事。残りたったの22kmだからチンタラ走ってもゴールはすぐそこ。終わりも近しと自覚した内臓たちが正常に機能しはじめたんだろうね。わたくしは精細な心の持ち主なのです。
     北条バイパスと呼ばれる長い直線道路に進路をとり、ふたつのトンネルを抜けて、松山市の市街地へと続く坂をくだる。夕暮れどきの街では、自転車のカゴにスーパーで買った食材を山盛り乗せた主婦や、部活や塾の帰りらしい中高生が嬌声かしましく帰路を急いでいる。
     うしろから追いついてきたジョギング中らしき女性ジョガーの方に「222km走られてるんですよね。もう少しでゴールですね」と話しかけられる。いろいろ質問してくれるのだが、寝ぼけた脳には会話に対応できる余白がなく、「徹夜で走るのは健康にとても良くないのです」とか「ゴールしたら生ビール飲もうと思って、ずっと水を飲むのを我慢してしたので、いま脱水症状になっています」などとトンチンカンな受け答えに終始する。もっと夢のあることを語るべきなんだよ、こういう場合は。お姉さんは、手に持っていたペットボトルの飲み物を「冷えてるのでどうぞ」と恵んでくれ、さっそうと夕焼けの街へと駆けていった。お姉さん、格好いいこと言えなくてすみません。
     松山城を取り囲むお堀の周回路から愛媛県庁方面へ。スタート以来ずっと山と島と田んぼのなかにいたので、松山の街が大都会に映る。きれいな服を着たショッピング客やビジネスマンが歩く歩道の隅っこを小さくなって走る。汗と泥まみれのシャツやパンツは、さぞかし異臭を放っているだろう。
     メイン繁華街である大街道の入口へ。むかしラフォーレ原宿松山があった場所には、今はカンデオホテルというモダンなデザインの高層ホテルが建っている。そのホテルの裏側にゴールが用意されている。瀬戸内行脚に参加したランナーたちが最後にたどりつく場所には、ゴールゲートやゴールテープはない。完走タオルやメダルをかけてくれる女子高生もいない。ゴールは居酒屋である。
     トタン壁のスタンドバーのある角を曲がると、換気扇の煙突に「おときち家」と店名が書かれた居酒屋がある。店の前まで行ってもここがゴールであるという表示はない。ガラス扉の向こうに、主催者やスタッフの姿がある。扉を開けると「おー来たなー、おつかれ~」と部活終わりの中学生みたいに迎え入れられる。タイム計測マシンに、ピッと計測チップをかざせばゴール完了である。34時間20分23秒。ふらふらゾンビ走りの時間帯が長かった割には好タイムだと満足する。
     奥に細長くつづくお店のテーブル上には、空になった生ビールのジョッキが何杯分も並んでいる。先着ランナーたちはすでに酒盛りの真っ最中で、既に目が座っている人や、隣の人にからんでいる人もいる。この人たちは走ったままの格好してるけど、お風呂入ったんでしょうかねえ。徹夜で走って、今からまた徹夜で飲まれるのでしょうか。さっそく生ビールいただきます。脱水症状をきたした全身の細胞に、ビールの気泡がしゅみこんでいく。やばい、風呂に行く前に瞬殺ノックアウト喰らいそう。

    【日本でいちばん制限時間の短い100kmレース】
     むちゃむちゃマイナーで、おそろしく大変で、だけどもんのすごく楽しい100kmレースがある、と何度か耳にしたことがある。だけどその大会、ランネットとかスポーツエントリーに載ってるわけではなく、大会のホームページもない。大会名でネット検索すると、過去に参加した人の報告がちらほらヒットするが、3、4人分しか見あたらないので、あまり実体がつかめない。申し込むのってどうすんの?  郵送、電話、それとも紹介?   よくわからなくて、何年か放置したままになっていた。
     一昨年頃に、親しいランナーから「絶対いい大会なので出ておくべき」と強くおすすめを受け、ならばトライしてみるべしと本腰を入れた。
     タイミングよく、公式ホームページも完成しているらしい。少ない情報ながら大会のことを調べてみると、とても興味深い仕様と歴史を秘めていることがわかった。
    ①大会名は「鶴岡100km」。開催地は山形県の鶴岡市。
    ②距離は100kmで、10kmの周回コースを10周する。
    ③制限時間は11時間。最後の1周回にあたる90kmラインは、10時間00分ちょうどに閉鎖される。
    ④参加者数は毎年だいたい70~80人。完走率は10%を軽く切り、年によっては完走者が3~4人しかいないときも。
    ⑤日本で最初に行われた(とぼくが勝手に思いこんでいた)サロマ湖100kmウルトラマラソンの第一回大会(1985年)よりも前から行われている。つまり日本最古のウルトラマラソンの大会であるらしい。
    ⑥南東からの山越え季節風がフェーン現象を起こす庄内平野で、真夏のいちばん暑い盛り、9月上旬に開催される。
    ⑦コースの途中に砂利道がたくさんある。

      うーむ。ますます興味がひかれる。制限11時間というのは、どう考えても国内最短の制限時間である。13時間のサロマ湖でも「短い」部類とされており、12時間台ですら聞いたことがない。9月上旬というド真夏に100kmってのもほぼないし、完走率10%はよほどの過酷さなんだろう。昨年分だけの着順・成績表がネットにアップされているが、実力的には100kmを8時間台の人が10時間かかっていたりと、ふだんのタイムより1時間から1時間30分はタイムが悪くなっている。ということは、ベストタイムが9時間くらいでないと完走がおぼつかないということか。こんな破天荒な大会を30年以上も昔・・・フルマラソンですら「鉄人レース」と思われていた時代より更に前から、東北の一都市で続けられているのがまた凄い。
     公式ホームページにはエントリーフォームがついていて、ネツト経由で申し込めるようになっている。勢い込んで入力し、送信ボタンを押すと、大会主催者の方から折り返し連絡があった。まだエントリーは始まっていないそうで、「今年の大会要項を作成中なので詳細はのちほど。申込みについては受理させていただいております」と丁寧なお返事をいただいた。気がはやって勇み足してしまいました。
            □
     徳島から羽田空港を経由して「おいしい庄内空港」に降り立つ。羽田空港での乗り継ぎに2時間必要だったが、それでも朝に自宅を出たら昼前には日本海の海辺の街に着いている。便利なもんである。
     空港からのバスが着くJR鶴岡駅前には6階建ての大きなデパートがあるが、最近撤退してしまったようで、シャッターが下りたままでしんと静まり返っている。ここは東北地方だというのに、肌を炭火焼きであぶられてるくらい直射日光が痛く、汗がダクダク止まらない。今の気温は34度。大会当日は36度に上がるとの予報。
     冷たいジュースを飲みながらぶらぶら歩道を歩いていると、前から「キャー」っと叫び声が聞こえてくる。顔をあげると、自転車に乗ったご婦人・・・60歳前後でよそ行きの綺麗な洋服を着た女性が、金切声を上げながら、斜め45度方面から歩道を横切り、こっちに向かって突進してこようとしている。(ななな、なんでー?)  ハンドルを握った両手はぐらぐら揺れ、ブレーキレバーを握る気配はない。それなのにペダルを漕いでるから止まるはずもない。バッと飛び退き、すんでの所でかわすと、婦人はそのまま10mくらい先まで進むと、その場所でぐるぐると回転しはじめる。5回転ほどしてスピードが落ちるとようやく地面に足を着き、何事もなかったかのように自転車を押して去っていった。大会を前にご婦人と正面衝突という大惨事は避けられた。なぜか汗はピタリと止まっている。
     大会のスタート会場は、JR鶴岡駅から車で20分の稲作地帯の真ん中にある公民館。当日は早朝3時起きで向かうので、前泊は鶴岡駅前の宿でとるとして、前々泊はせっかくなので観光気分を満喫しよう。駅前から路線バスで30分ほどの所にある湯田川温泉に足を伸ばしてみる。バスに乗り込むと、色あせたシートの布地や、サビの浮いた窓枠のサッシに、昭和の頃からの年期が深く刻まれている。おそらく40年もの?  近頃の公共交通はなんでもピカピカに真新しいのが当たり前になっているが、古い車体を大事に使い続けて何が悪いものか。
     10人ほどの乗客は全員お年寄りで、なおかつおばあさんばかり。これはどこの地方都市でも似たり寄ったりな光景か。
     古めかしいアーケードが歩道のうえに連なる商店街を抜けていく。3、4百メートルおきにある停留所で停まりながら、バスはのんびりと進んでいく。運転手がヘッドホン型のマイクで車内アナウンスをしている。マイクをオフにしないから、乗客との会話が丸聞こえ。ライブ感が満点で飽きない。「こちらおつりでしたー」みたいに、いちいち言葉尻が過去形になっているのが面白い。山形弁、特に庄内弁の特徴であるらしい。
     ほどなく到着した湯田川温泉は、狭い1本の車道の左右に温泉宿が連なっている。バス停で下車して、辺りを見わたしても、観光客はおろか人影がひとつもない。神隠しにあったかのように街は静まり返っていて、側溝を流れる温泉の湯の音だけがチロチロと音色を奏でる。建ち並ぶ温泉旅館の玄関を覗いても、なんとなく薄暗く、照明が消えているような感じ。昼の3時ちょっと前だから、まだ営業は始まっていないのだろうか。観光客向けの土産物店や飲み屋さんは見当たらない。「ひなびた温泉街」っていうのはこういう空気の所を指すのでしょう。
     予約をしていた宿の玄関を開けても誰も出てこない。受付らしき部屋を覗いてみたが、やはり誰もいない。「こんにちわ」と何度か声を掛けたが、人がいる気配はない。手持ちぶさたでぼーっと立っていると、明らかに接客担当ではないおじいさんが、ももひき姿でごぞごぞ現れる。「予約をしている者です」と伝えると、特に返答はなく、部屋の鍵をそっと渡してくれる。部屋は2階のようなので、自分で勝手に上がって部屋を探し、荷物を下ろす。ぼくとしては、いちいち女将が部屋に入ってきて仰々しく挨拶される宿よりは放ったらかしにされる方を好むので、これでよし。
     湯田川温泉には2つの共同浴場「正面の湯」と「田の湯」がある。一寸の休憩ののち1階に降りると、さっきのじいさんとはとは別のおっちゃんがいたので「外湯に入りたいのですが」と告げると、またまた何を説明するでもなく「はいはい」という感じで、鍵がついているらしき物体を手にして玄関を出る。後をついていけばいいのだな。おっちゃんが先導した先にあったのは「正面の湯」。おそらく宿から近いという理由で「田の湯」ではなくこっちが選ばれたのだろう。
     「正面の湯」は木造・入母屋造りの重厚な外観をしている。おっちゃんが鍵を使って入口を開けてくれる。その鍵がないと中に入れない仕組みだ。入口には「外来者は入浴券200円」と書いてある。日帰り入浴客は、近所の商店で入浴券を買って、これまた商店の人に連れてきてもらいドアを開けてもらう・・・というシステムらしい。お客がどっと押し寄せた時はどうするんだろう。宿泊客は入浴無料のようである(どこにもそう書いてないが、200円払えと言われなかったので、きっとそうである)。
     狭い脱衣所で服を脱ぐ。すっ裸のときに入口が開いたら、外から丸見えな気がします。入浴客はぼくひとり。5、6人が浸かれば満杯になる浴槽がひとつだけの浴室は、高窓から外光がさんさんと射し込んでいる。湯口よりこんこんとほとばしる湯は、そのまま浴槽のへりへと贅沢に溢れ出している。湯は無色透明ながら強い温泉臭を放っている。ここの共同浴場の湯は、いっさい加水・加熱していない完璧なかけ流しで、なおかつ「新湯流入量」が全国屈指だとか。確かに10分ほど浸かっているだけで、湯あたりしそうな予感。
     そのうち仕切りの向こうの女湯に、地元のおばさん方らしき数人の声が響きだす。耳をそばだててガールズトークの内容を聞き取ろうとしたが、強烈な方言は、何一つとして意味を理解できない。しかし独特のイントネーションがタイル壁に反響し、安らかな調べとなって耳に心地よい。
     もうひつとの離れた方の共同浴場に入るにはどうしたらいいのだろう。たぶんもう一回宿に戻って、ふたたびおっちゃんに連れていってもらうのが正解なのだろうが、面倒くさくなってしまった。
     湯上がりに温泉街の端から端まで歩く。下駄履きで往復しても15分しかかからない。片道300メートルの温泉街には、食料品を売っている店が2軒あった。1軒は最近改装したっぽいオシャレな古民家カフェ風。もう1軒はどこの田舎町にでもありそうな生活必需品をなんでも売ってる商店。
     田舎商店に入り、アイスクリームの冷蔵庫からカップアイスを取り出すと、カップの周りはびっしり氷の結晶が層をなしている。何年くらい売れてないんだろ? ま、腐るもんでもないしいいか。レジのおばちゃんがアイスを新聞紙でくるんでくれる。はっ、確か子供のころ、近所の商店でも買ったものをばーさんが新聞紙に包んでくれてた気がする。
     その夜は「日本屈指の注入量」の湯が効きすぎたのか、ふだん寝つきが悪いのに、ドーンと深く眠りに落ちた。
     翌日も朝から猛暑の気配がしている。太陽フレアは髪の毛根まで届き、頭皮を焼きつくそうとしている。地面のアスファルトに映った自分の影が濃すぎて、「ドラえもん」の怖い話を思いだす。自分の影をハサミで切り取って、影に宿題や嫌なことをさせる。そのうち影に意識が芽生えて、自分と入れ替わろうとするお話。
     鶴岡駅前へのバスの到着をバス停で待っていると、30歳くらいの女性が歩いてきて隣で立った。夏らしい花模様のワンピースを着て、美しい顔立ちをしている。ほどなくして、1台のスポーツカーがバス停の前で停まる。車の窓からいかつい30代の男が顔を出し、彼女に声をかける。どこまでいくの? 街までなの。よかったら乗ってけばー。顔見知りのようだ。女性はいろいろな理由を並べて断る。バスなんか乗らなくてもさあ、こっちの方が速いから乗っていきなよ。男はあきらめない。押し問答を10回くらい繰り返す。地上のものを焼き尽くさんばかりの太陽の下で、額に汗を浮かべた男は粘り腰を見せつづける。ぼくの頭のなかで天童よしみの「なめたらあかん」のミュージックが「やめたらあっかん」の歌詞でリフレインする。粘れ、ひげヅラ男! もうあとひと押しでワンピースは落ちる。今日は土曜日だ、この女とドライブしたいんだよな。きっと前から狙ってたんだよな。今がチャンスだ、負けたらあかん。
     そのとき、温泉街の端っこの交差点を、路線バスがディーゼルエンジンのうなりをあげて曲がってきた。時間切れだ。男は仕方なくサイドブレーキを下ろし、また飲みに行こうよと誘い文句とためらいを残して去っていった。よく戦ったよサンチョ・パンサ。お前のチャレンジ精神と粘りを、オレは明日のレースで見事に受け継いでやる。
     ぼくはバスの最後部席に座る。サスペンションの効きの悪いレトロなバスが走りだす。前の方の座席で窓辺にほおづえをつく女性。全開に放たれた窓から吹き込む風に、長い髪が揺れる。なんとなくバスじゅうに彼女がつけた柑橘系のフレグランスの香りが漂っている気がした。(つづく) 

  • 2017年05月29日バカロードその106 瀬戸内行脚中編 うつらうつらと島めぐり 

    文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)   

    (前号まで=愛媛県のしまなみ海道を舞台に222kmを駆ける瀬戸内行脚。松山市の道後温泉前を出発し、今治市まで50km。島々への入口となる来島海峡大橋を渡り、最初の島・大島へと上陸する)

    【今治~大島~伯方島 50km~75km】
     ときおり城郭のようにバカでっかい石垣を組んだ民家が見える。瓦屋根の両はじっこには鯱(シャチ)が踊っている。いったいどんな商売で財を成した人が築いたんだろう。かつて芸予諸島をわが者顔で暴れた海賊・村上水軍の末裔でも住んでるのかな。
     大島の中心市街地は「吉海」という集落、ってよりも立派な街だなこりゃ。瀬戸内海に浮かぶ小さな島というイメージとは掛け離れ、広い駐車場を備えたホームセンターやドラッグストア、コンビニが並ぶ。徳島の田舎町ではお目にかかれない立派なホールや役所がでーんと建っていて、ちょっとしたプチ都会な見栄えである。
     瀬戸の花嫁が小舟に乗って、幼い弟と泣き別れした頃から40年。島々は長大橋とバイパス道でつながれ、外国人観光客たちがママチャリに乗って自撮りにはげむ繁栄の地となっております。
     標高100mほどの田浦峠を越えて、島の北側に出る。花崗岩を切り出す作業場がひんぱんに現れる。道の左右には、一辺が1メートルを超す巨大な石が積み上げられている。やや青みがかったこれらは「大島石」と呼ばれる高級な青御影石で、古くから重要建造物に用いられてきた。大阪・心斎橋の石組みはじめ、京都の四条大橋・七条大橋、東京の赤坂離宮、そして国会議事堂の一部にも使われているという。こういう石で自分の墓石をつくったら墓参りにきた人が誉めてくれるかなぁ、と石材の表面を撫でてみる。
     大島の島内を17km走り、北端に架かる伯方・大島大橋(1230m)を渡ると、次なる島、伯方島が近づいてくる。
     伯方島側の橋のたもとから、くねくね道を下っていく。はるか眼下に島の外周道や、カラー舗装された遊歩道が続くビーチが見える。海岸ぶちに突き当たったら、少しコースを逆走すると「マリンオアシスはかた」という観光拠点が近づく。その駐車場に第二エイドが設けられているのだ。
     スタートから75km、8時間03分で到着。なかなかの好タイムです。
     エイドのスタッフの方が、カップ麺のフタを開け、湯を注ぐ寸前の状態で待機してくれていた。しかし降り注ぐ直射日光は強く、なんなら氷水をかぶりたいくらいで、熱いラーメンは喉を通りそうにない。代わりにみかんをたくさんもらう。
     このエイドには、夜間用の防寒服をあずけている。前年に参加した際、夜中は震えるほど寒かった。ところが、暑さ寒さのつらさは「そうなってみないと実感できない」ものであり、クソ暑さしか感じていない今、かさばる上下ウインドブレーカーを背負って走る気になれない。行き当たりばったりで行こう、いくら寒くっても5時間くらい我慢したら朝が来る・・・と自分に言い聞かせ、荷物袋からヘッドランプだけ取り出しリュックにしまう。  
     
    【伯方島~大三島 75km~110km】
     エイドを飛びだし、伯方島一周の旅へ。この島、しまなみ海道上にある6つの島の中では面積では最も小さな部類だが、人口は7000人と比較的多い。いちばんに栄えた街である木浦地区に近づくと、7階建ての近代的なオフィスビルや高層マンションが。また、広い道路に面して建つ一般住宅は、生け垣で囲った広い庭や、立派な切妻の瓦屋根を備えている。庭には柑橘の樹木が植わり、熟れはじめたばかりの黄緑色の実を揺らしている。
     集落と集落の間は、山の切り通しを抜ける外周道路で結ばれている。集落はたいてい海辺にあるが、漁船が停泊している漁港はなく、魚の加工場や鮮魚店も見あたらない。魚を獲って生計を立てている島ではないようだ。島の東側から北側にかけての沿岸には、造船工場や製塩工場が連なる。有名ブランドとなった「伯方の塩」はこの島や隣の大三島で製造されている。これらの産業がもたらした潤いが、豊かな雰囲気を作りだしてるんだろうか。
     島一周は距離15km、寄り道もせずまじめに走る・・・というか寄り道できるようなスポットないねぇ。
     遠く前方に自動車道の橋脚が見えてきたら再び本道を外れ、次なる大三島との間に架かる大三島橋へのとりつき道路を登っていく。
     大三島橋は全長328mと小ぶりだが、前後の島の斜面が急で、深い瀬戸をまたいでいるため、高度感がたっぷりある。白い鉄骨組みがアーチを描く橋の向こうに、大三島の鬱蒼とした森が横たわる。背後には高い峰々がそびえている。しまなみ海道で最大面積を誇るだけあって、島はあたりを圧するような盟主感を漂わせている。
     橋を渡り終えたら、またまた蛇行しまくった自転車道をたどって海岸線に出る。
     下り坂のつきあたりには狭い海峡があり、正面にデデンと島が浮かんでいる。何という名の島だろうと地図で確認すると、何のことはない、さっきまでいた伯方島ではないか。伯方島を離岸してからずいぶん走った気になっていたのに、ぜんぜん遠ざかってないし・・・と気落ちする。
     しまなみ海道を自らの足で踏破していると、誰しもが自分のいる場所の不確かさを感じるのではないか。
     島と島をつなぐ橋は海面から高い位置にあり、橋へのアクセス道はペアピンカーブだらけのぐねぐね道。時にはループ状になっていて、くるくる回転しているうちに方向感覚が奪われる。
     それに、島の形状が複雑であるゆえに、視覚からの情報もややこしく、錯覚を起こす原因となる。多くの島は、単純な楕円型じゃなくてアメーバ状の角(ツノ)をたくさん突き出してるような形。たくさんの岬のトンガリが海に伸び、さらに隣の島の湾のヘコミと折り重なっている。
     さて今ぼくの目の前で、海峡をまたいで存在している陸地が、これから先に向かう島なのか、さっきまでいた島なのか、あるいは自分がいる島のいっこ先の岬なのか。
     海図がない時代に、海賊が跋扈した理由が何となくわかる。ここは海の迷路なのだ。瀬戸内海の事情を知らずに航海をし、速い潮流と海の迷路に翻弄されているうちに、四方を海賊に取り囲まれたら、なすすべないだろう。
     夜が近づいてきた。薄紅の夕空の向こうに、斜張橋のシルエットが浮かぶ。大三島からさらに広島県寄りの生口島へと渡る多々羅大橋(1480m)だ。今大会では生口島には向かわないので、この橋は眺めるだけ。橋上に連なるオレンジの照明灯、2本の主塔と斜めに張られたケーブルのシンメトリーな姿はアーティスティックである。
     多々羅大橋の下をくぐる。大三島の縁をなぞる道は一周約42km、長い徹夜行のはじまりだ。
     橋脚の向こうにこの島最後のコンビニがある。「最後の」というのはランナーにとって、って意味。ここから先、30kmほどはお店もなく食料調達ができないのである。なにか胃に入れておくべき所だが、お腹は空いていない。昨日の夕方食べたコンビニ弁当を最後に、口にした固形物は溶けてどろどろになったみかんソフトクリーム2個とエイドでもらったみかん3個だけである。人類は進化の過程で、カロリー摂取などしなくとも、あり余る体脂肪を運動エネルギーに変換し、100kmくらいなら軽く走れる高度な能力を手にしたのである。
     人さみしさからコンビニに寄ったものの、取りたてて欲しいものがない。手ぶらで出るのも何だかなと、ガリガリ君レモンスカッシュ味とお茶を買う。走りながらのスイーツ夜食としましょう。
     道路に復帰し、コンビニ袋からガリガリ君を取り出す。パッケージ袋の端っこを口にくわえて破り、ガリガリ君の本体を握ろうとした瞬間、想定外のできことが起こる。
     パッケージとアイス表面の摩擦係数がゼロになっていたのだろう。つるりと滑ったガリガリ君の中身は、つかみそこねた握力の縦方向のベクトルを受け、みごとに発射された。ロケットのように空中を舞うガリガリ君。放たれた勢いは、地上に落ちても衰えず、コンクリートの路面をササーッと滑っていく。そのまま、道路脇の工場に張られた外壁フェンスの下をくぐり、工場の敷地内に入ってしまった。
     ヘッドランプの光をあてると、フェンスから1メートルくらい向こうまで飛んでいったレモン色のガリガリ君が浮かびあがる。フェンス下部と地面との隙間は10センチくらいしかなく、腕をこじ入れてもガリガリ君に届かない。フェンスを乗り越えて侵入しようかとも考えたが、セコムの警報が鳴り響いて、泥棒の疑いをかけられてもレース中だし困る。やむなくフェンスの向こうにガリガリ君を残し、先に進むことにする。たった70円のアイスだったけど、人知れずあそこで静かに溶けていくガリガリ君のこと想うと、さみしい気持ちになる。
     スタートから100km地点を11時間55分で通過する。大三島でいちばん大きな街、宮浦の交差点を過ぎると、大三島の南半分はなーんにもない。何にもない、なんて島の人には失礼な言い草なんだろけど、光っているものといえばポツンポツンとたまに出てくる自販機くらい。
     岬の背骨となる尾根を越え、港のある集落へ下るという何度かの繰り返し。海が近づくたびに、むわっと温かい空気に包まれたり、身震いするような冷気が押し寄せたりする。湾によって海流の水温が違うんだろうか。月明かりも星空もない暗い夜道を、空気の変化だけを確かめながら黙々と走る。
     
    【大三島~今治市 110km~170km】
     大三島の南半分とそこからの復路の記憶が残っていない。四国本土に着くまでの50kmの間、半分眠りながら走っていた、と思われる。脳みそと身体はけっこう便利にできているのだ。
     大三島を一周し、ふたたび伯方島そして大島へと渡りついだ。
     何カ所かのバス停のベンチで5分ずつくらい仮眠をし、コンビニに入ってガリガリ君レモンスカッシュ味を買い(無意識下のリベンジ?)、かじりながら走った場面だけうっすらと覚えている。
     四国本土へと永遠のように延びる来島海峡大橋(4105m)にさしかかった頃に夜が明けてくる。橋を渡り終えると、糸島公園のある高台へと本道を逆走し、165km地点にあたる「来島エイド」に向かう。ここまで来れば、ゴールまで残り57km。あとは海辺の景色でも堪能しながら、ゴール後のジョッキビールなどを思い描き、のんびりウイニングラン気分に浸りたい所だが、立ってられないほどの眠気はますますひどく、心にゆとりが芽生えない。
     たどり着いたエイドで、スタッフの方に「どこか横になれる場所を見つけて寝てきます」と告げると、クッションの良いウレタンマットを貸してくれる。あぁ、今のぼくには高級な羽毛布団に匹敵する良品です。
     公園の芝生の上にマットを広げて大の字になっていたら、パラパラと小雨が降ってくる。いったん撤収。雨よけになる場所はないかと辺りを見まわすと、よい具合にひさしのある自転車駐輪場がある。
     ずるずるマットをひきずって移動し、よっこらしょと横たわる。3秒もあれば眠りに落ちるかと思いきや、いざ安住の地を見つけると、早いこと寝たらさっさと起きて走りださねば・・・という強迫観念が心を圧迫しはじめ、アセッて入眠できない。
     時をもて余し、ごろごろと寝返りを打つ。マットに腹ばいになって背骨を反ると、こわばった背中の筋肉や骨々がミシミシ音を立てて伸びる。あまりの気持ちよさに「う~う~」とうめき声が出る。
     すると、「大丈夫ですか」と女性の声。見上げると掃除道具一式をたずさえたおばさんがこちらを注視している。公園のお掃除をされている方のようだ。「ちょっと眠くて横になっています」と返事するが、ふつう朝っぱらから駐輪場で寝ている人はいない。おばさんは「この人どこか具合が悪くて倒れてるにちがいない」とやや慌てているみたいで、救急車でも呼びかねない雰囲気。これはマズイと気づき、居住まいを正したうえで、「自分は徹夜で走るマラソン大会に出ていまして、倒れているように見えましても、本当は健康状態はすごく良い人間なんです」と懸命に訴え、誤解を解く。安心したおばさんがお掃除に戻っていくと、ぼくもまた安心して眠りに落ちた。
     そのまま何十分、寝込んでしまったのかよくわからない。目覚めると、太陽は高々と昇っている。展望台のある高台から今治市街方面へと下っていたら、前方からモーレツな勢いで駆け上がってくるランナーがいる。地元の市民ランナーが坂道トレーニングしているのかなと思ったが、後方からも続々と派手なシャツ色のランナーの集団がやってくる。これは「伊予灘行脚」の方々だろう。「伊予灘行脚」とは、瀬戸内行脚と同時開催で行われている100kmレースだ。今朝、JR今治駅を出発し、大島、伯方島を経て、ゴール会場はわれわれと同じ松山市中心部というルートを巡る。大会前に主催者の方が「今回の伊予灘行脚には、日本の超長距離界を代表する実力者がたくさん出てくれるよ」と喜んでらっしゃったのを思い出す。
     先頭あたりにいるランナーたちは、ハーフマラソンかと思うような猛スピードで迫ってくる。「さすがわが国の一線級、手抜きなしのガチンコ勝負をやってるんだな」と感心する。ところがすれ違うトップ選手、ぼくの姿を確認すると「イエーイ」なんて言いながら、手に持ったカメラで写真を撮りはじめる。風のように去った後も、あたりの景色をぬかりなくパシャパシャ撮影している模様。あれほどのスピードで100km走破しつつも、当人はレジャー感覚なのかー、とあっけに取られる。サラブレッドと駄馬の違いを思い知らされるが「ぼくはもう170kmも走ってるんだもんね、君たちまだ5kmくらいしか走ってないよね、ふふん」と悔しまぎれにつぶやき、溜飲を下げることにする。(つづく)