バカロード146 アフリカ灼熱編3 ウンコ、赤土、壁のない世界

公開日 2020年08月24日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前号まで=アフリカ大陸の赤道直下を東から西へと五千五百キロを歩いて横断すべく、ケニア共和国にやってきた"ぼく"。アフリカ東海岸の港町モンバサから歩きだしたが、サバンナの猛烈な太陽に炙られて皮膚はヤケド、頭はパンク。一日に十リットルも飲み干してしまう水の補給に苦戦し、わずか二日目にしてダウン。しかし沿道の集落のおっさんに助けられ、ふたたび路上に戻ったのだった)

 三日目の夜は土の上で眠った。もう一歩も動けないってくらい疲れてしまえば宿探しに困らなくていい。そこがどんな場所だろうと、寝転べばすぐに睡魔が拐ってくれる。
 日中は灼熱地獄を呈するサバンナだけど、夜と朝はフリーザーの底みたいに寒い。ヤケド状に真っ赤に腫れて、ジンジン痛む肌にはちょうどよい。ひんやり冷たい地面に火照った体をこすりつける。ノミをふるい落とそうとする猫のように、ゴロゴロ転がって赤土まみれになる。
 四日目の朝、目覚めると世界はオレンジ色に塗りたくられていた。サバンナの大地や、樹々や、ぼくの体が、地平線からの太陽光線を受けてギラギラ輝いている。
 出発すべくシューズを履こうとすると、足の裏は水ぶくれだらけ、ブヨブヨにむくんでいて入らない。ナイフの先端でマメを切り裂いて水を抜く。頭の先までピリピリ刺激が走る。
 三百六十度、誰もいない。音一つしない無音の世界。
 草原の真ん中で用を足す。
 さえぎるものは何もない。
 この世界は、ウンコするぼく一人のために存在する。ぼくはこの世界の支配者だ。ジョン・レノンの「一人ぼっちのあいつ」を大声で歌う。声はどこにも反響することなく、壁のない世界に吸収されていく。
 もんじゃ焼き状にびろーんとだらしなく広がる水ウンコが、赤土を黒く濡らす。ボーゼンとそれを見つめる。
 ウンコ、赤土、壁のない世界・・・それが今、ぼくを取り巻くものすべて。
 ふいに矮小な現実感に襲われる。
 モンバサを出発してここまで百キロ歩いた。三日かけてたったの百キロ!? アフリカ西海岸まであと何千キロあるんだろう。五千キロ? 六千キロ? 地平線をあといくつ越えたら、たどりつくんだろう。ミシュランの地図によると、アフリカ中央部の密林地帯にはザイールや中央アフリカ共和国という国々が横たわっていて、都市はおろか村を示す記号すら打たれていない。道路の線は破線となり、やがてジャングルの途中で消失している。
 密林の中で何百キロも無人地帯が続いたらどうしよう。アフリカでは最も先進国に属するこのケニア共和国でさえ、食料や飲み水を手に入れるのに四苦八苦している。はるかに貧しい熱帯雨林の国々を歩き通せるんだろうか。
 そうやって何カ月も先のことを憂いでも、ここではクソの役にも立たない。まずは今日という一日を生き抜くのだ。涸れ死にしないだけの水を飲み、体を動かすのに必要なカロリー分の食料のありかを見つける。今できることは、それだけだ。
 朝焼けの鈍い光が、不可視光線の白にとって代わられる。雲はたちまち消え、地上には一点の陰りもなくなる。まっすぐ続く道の奥にバオバブの木が見える。"悪魔が根ごと引っこ抜いて、逆さまに突き刺した"という伝説のあるバオバブは、サバンナの偉大な道標だ。高さ三十メートルはあろうかという巨大な影が、陽炎の向こうに揺れている。
 歩いても歩いても近づかない。頭頂部の体温は上がりっぱなしで、目の奥がジンジンしてきて、景色が血をぶちまけたように真っ赤に点滅しはじめる。倒れるか倒れないかのスレスレの状態でたどり着いたバオバブの木は、豪勢な日陰を用意してくれていた。幹のたもとには、棒で砕かれたスイカの残骸が散らばっている。何日か前に人間が食い散らかした跡だ。果肉は腐っている。だけど迷う余地なくかぶりつく。臭い! けどうまい! 生きていくために必要なものなら、腐ってようと生きた昆虫だろうと、捕食者としての本能が、理性を軽くうわまわる。大脳皮質の奥深くにインプットされている人類始祖からの記憶が目覚めつつある。ぼくは、ちょっとずつ野生に近づいているのだ。
 リュックから文庫本を取り出す。「カラマーゾフの兄弟」と「経済学批判」をバオバブの幹に立てかける。この地に置き去りにしよう。今、ぼくに必要なのは思想ではない。求めるべきは頭の先まで痺れる冷たいコカコーラと肉だ。胃壁を凍らせてしまうほどのコカコーラと、血のしたたる動物の肉のかたまり。凍てついたロシアで記されたドストエフスキーとマルクスは、熱帯の荒野に朽ち果て、やがてバオバブの根から吸収されていくのだ。
 サバンナの奥へと進むごとに、珍しい昆虫や動物が行き交いだす。青や黄色の蛍光色のクチバシや翼をもつ小鳥が、樹木の間を舞い飛び、不思議なさえずりを奏でる。鳴き声をマネすると、ぼくの周りをヒュンヒュンと旋回する。
 草むらがバッと揺れて、大きな影が一メートルもの高さに跳びはねる。ピョンピョンと蹄を鳴らして逃げていったのはトムソンガゼルだ。十センチ以上もある甲虫が足元をのろのろ横切る。ツチノコみたいにボテッとした蛇が木陰に逃げていく。死神博士のような頭をしたハゲワシが、岩の上に止まってこっちの様子をうかがっている。
 茂みの合間や路上に、シカや子牛の死骸がひんぱんにある。車に跳ねられたのか、あるいは餌食になったのか。サバンナでは、生と死は、塀一枚へだてたお隣さんほどの気軽さで存在している。昨日まで闊歩していた動物が今日は死ぬ。野に伏した瞬間から、さっさと肉と内臓は食われる。骨と毛の残骸は、太陽に灼かれてすぐに乾く。骨粉は風に舞い、その場には跡形も残らない。生命の重さは、風のように軽い。
      □
 出発から四日目。
 道の真ん中にジャッカルの死体がある。車にはねられたのか原型をとどめ、死臭はしない。死んで間がないのだろう。両脚を持ってズルズルと道端まで引きずり寄せる。
 ブッシュの中にはダニが多い。首筋や、目や口の周りにウヨウヨまとわりつく。ダニにやられた痒みは、蚊の比じゃない。タチの悪いダニは耳の穴にガサガサと入ってくる。一方、頭髪の中にもぐりこんでは毛穴に寄生しようとするのはたぶんシラミだ。毛のある部分に集中砲火してくる。股間やその周りを焼けつくように痒くする。
 荒野にニョキニョキと立つ赤土の墓標は蟻塚だ。人間の背丈をゆうに超える三メートルくらいのバカでかいのもある。ほとんどが原住民だった蟻に見放され、枯れ塚と化している。ぼくはそれに登ったり、小便を盛大にかけたりして、しばしデストロイヤー気分を味わう。ときおり行列をなして移動する何万匹もの蟻の群れに出くわす。うっかり踏んづけて大騒ぎになる。体長十ミリを超す兵隊蟻が、牙をむいて集団で足元にたかってくる。牙で噛じられるとメチャクチャ痛い。血小板を無効にする唾液を注入されたか、たらたら流れる血が止まらない。蟻塚一個分の蟻と生死をかけて戦ったとしたら勝てるだろうか。絶対に勝てはしない。
 ぼくたちは、人類こそが地球を支配する生物だと思いこんでいる。しかし、この平原の王は間違いなく蟻だ。個体数にしろ社会の成熟度にしろ、どの観点においてもヒエラルキーの頂点に君臨する。

 野生動物の保護区であるツサボ国立公園のエリア内で最も大きな街である「ボイ」に近づく。モンバサからずっと続いていた一本道が、ボイ市街に通じる道と、ナイロビへと直接向かう道に分岐する。どっちに進もうか迷ったが、ナイロビ行きの幹線道の方が距離が近い。街も近いし売店くらいは出てくるだろうと決めてかかったのが間違いだった。行けども行けども家一軒ない。はるか遠い山の麓に、ボイ市街らしき高い建物の影がかすかに見える。
 ボイで水を補給するつもりでいたので、ポリタンクには一滴の水も残っていない。絶望とともに、凶暴な太陽がガンガン照りつけだす。汗が止まる。唾液が出なくなり、口の中が乾ききる。舌を動かすとカサカサ音がする。またしても倒れそうになる。
 どれくらい苦悶したのか、道路を下った先にバラック建ての五軒ほどの家が集まった村が現れる。家の前に子どもが一人いて、棒立ちになりこっちを見つめている。「こんにちわ」とスワヒリ語で声をかけると、ヒィーと叫んで逃げだす。違う棟の方にも五、六人の子どもがいたが、彼らも目をむいていっせいに走り去る。
 地下水を汲み上げる水場があり、若い女性が水道管の先から流れる水を大きなポリタンクに溜めている。「水ください」と申し出ると、女性は「これいっぱいになるまで、ちょっと待て」と言う。時間がかかりそうなので、近くの木陰に移動し、木の根っこを枕にして横になる。
 ぐったり寝そべっていると、さっき逃げだした子どもの一人が、大きな空き缶に表面張力ぎりぎりいっぱいの水をつめて、両手で支えながら近づいてくる。おそるおそる手渡された空き缶の水を、五秒で一気に飲み干す。
 遠巻きにしている別の子どもたちが、顔を見合わせてクククと笑っている。それから少年たちは一人ずつ交代しながら、水のおかわりを運んでくれる。ぼくが飲み干す様子をしげしげと見つめては、空になった缶を受け取るときには恥ずかしそうに微笑み、仲間のいる場所へと一目散に駆けて帰る。
 さすがに四杯目で満腹になる。「もうお腹いっぱい」と訴えると、まだ届けていない子どもたちが、缶の底にちょびっと水を入れて全員が一巡し、この儀式を終える。
 集落の近くに川が流れている。
 モンバサを発ってからここまでの間、かつて川があったとおぼしき谷筋や橋の残骸はあっても、すべて乾燥しきった涸れ跡だった。流れる川を見るのは初めてだ。ドロドロの真っ茶色の泥水だけど、膨大な水がある風景は掛け値なしに嬉しい。
 村人や水牛が沐浴をしている。一緒に浸かりたいが、恥ずかしくて裸になれない。ぼくの顔や手足は、この四日間で真っ黒に焦げてるんだけど、服を脱ぐと残りの部分は真っ白の色白なのだ。注目を浴びそうで脱ぎづらい。
 そのまま川辺の巨木のたもとで休んでいると、一人の若者がやってきて、ぼくのポリタンクを指さして「その水をくれ」と言う。
 (満タンにしたばかりやのにな。これから先、村があるかどうかわからんし。何で外国人のぼくの水を欲しがるんだろう)と思う。
 しかし、この地下水だって村の人に恵んでもらったものだし、逆の立場になって嫌がるのは変だ。飢えと乾きは人を卑しくする、情けない。気前のいい笑顔を偽装して、どうぞと手渡す。
 すると若者は少しだけ口をつけて、すぐにポリタンクを返す。そして「水のお礼だ」と言いつつ、植物の実をこっちに寄越そうとする。葡萄の房を三十センチほども長く伸ばしたような、見たことのない果実だ。口に含んでみると、甘酸っぱくてとても美味しい。
 つたない彼の英語と、デタラメなぼくのスワヒリ語で会話を交わす間に、ぼくは葡萄を三房も平らげる。
 彼は、水が欲しかったわけではなかった。川の横でひっくり返っているぼくを心配したのだ。そして、一方的に果実を恵んでやるぞって態度にならないよう「君は水をくれた。ぼくは葡萄をあげる」という五分の関係をつくろうとしたのだ。そんなメンタリティをケニアの若者は持っているのだ。水をあげるのをもったいないとケチ根性を出した自分の器の小さいこと。
 それから二人でシャツとパンツを脱ぎ、フリチンになって川で泳いだ。十九歳と同い年の彼は巨大な物体の持ち主であった。ぼくのブツは脱水症状のため縮こまっており・・・という言い訳を経てもなお小さく、おまけに生白っくて格好悪い。ぼくのヌードは村人たちの間で注目の的となり、恥ずかしさのあまり首まで泥水に浸かっていた。その格好がヘンだと、村人たちはキャッキャと笑った。
 何となくこの旅がうまくいくような気がした。道がある所には人がいて、そこには生きるために必要な水と、人の情けがある。
 別れ際、彼は「これ、持ってけ」と、さっきの葡萄とは違うミルク色をした丸い果実をたっぷりリュックにつめてくれた。そして、ぼくの持っているアフリカの地図の一点を指さして「オレの実家はこの辺にある。絶対に寄ってくれよ」と白い歯を見せる。その場所は、ここからは影すら見えないキリマンジャロ山の向こう側なのだった。
(つづく)