バカロードその148 アフリカ横断灼熱編5「モニカと耳の穴」

公開日 2020年11月12日

(前号まで=アフリカ大陸徒歩横断をめざす"ぼく"は十九歳、インド洋岸の港町モンバサから歩きはじめたが、赤土と灌木と野生動物に支配されたサバンナに苦悶する。燃えさかる太陽とアスファルトの照り返しに皮膚は火傷しケロイド状になる。一日に十リットルは水が必要なのだが、めったに水場がない。倒れている時間が長いもんだから、一日に四十キロしか前進できない)

 出発から十二日目。土の上で目覚めると、疲労コンパイでそのまま地面にへばりついている。背中が痒くて手で触ったら、三十カ所くらい皮膚が盛り上がってデコボコになっている。髪の毛のなかにアリがうじゃうじゃたかっている。ふり払うのが面倒くさくて、そのままにする。
 今日はいちだんと気力が湧かない。とぼとぼと惰性で歩く。脚に力が入らず、ひざがカックンと抜ける。頭がふらついて景色がかすんでいく。
 何かの病気にかかったのだろうか。そういえば昨日、村で補給した水に白い糸くずのような物がいっぱい浮いていた。ふらふらになって辿り着いた村で「水をめぐんでください」とお願いすると、軒下に置いてあったドラム缶の底に、十五センチくらい溜まっていた黄色い水を、村の人が汗をかきながらぼくのポリタンクに移してくれたのだ。どんなに汚れていても貴重な水なのだ。捨てるわけにはいかないし、そもそもこれを飲まないと、こちらも行き倒れてしまう。
 しかしこの不調の原因は、高確率であの水だな。便意が間断なく襲ってくる。脱糞ピンチ! 身を隠す茂みは見当たらないが、運よく道路の下に埋め込まれた排水口が現れる。
 土管の中でウンコする。出てきた物体は、かつて見たことのない純白のウンコである。いったいこれは何なんだー。疲れ果てて、土管の底にうつぶせで横になった。ひんやりして気持ちいい。もう歩くのは嫌だ・・・。
 ここまで四百五十キロ歩いた。最初の目標地点であるナイロビまで残り七十キロに迫っているというのに、拭いがたい逃避願望にさいなまれる。
 南アジアやヒマラヤの山麓を歩き旅しているときは、街が変わるごとに初めて見る景色や人の習慣に触れ、土地の人と騙し騙されの駆け引きをし、毎日が楽しくて仕方なかった。
 ところがアフリカに入ってからは、ひたすら喉の乾きに耐え、水と食べ物を血まなこで探すばかり。地元の人と接点があるのは1日に1回がいいところ。それなのに、こちらは「水くれ」「腹へった」アピールしかしていない。歩いている最中は、一日中変化しない赤土の中の一本道を、右の脚と左の脚を交互に出しつづけてるのみ。コレを続けることに何の意味があるのだろう。
 ウンコの臭いの充満する土管の中で、そんな厭世観まみれな堂々巡りを繰り返す。通り抜けるサバンナの風は爽やかで、そのままそこで、駄々をこねるようにずっとひっくり返っていた。
    □
 十四日目。
 首都ナイロビタウンの高層ビル群が遠くに見えはじめる。昨日まで野生動物が跋扈していたサバンナの真っただ中にいたのに・・・いや今もいるのに、摩天楼が居並ぶ都市風景は、実体のともなわない蜃気楼のようだ。
 盛り土の上にアスファルトをかぶせただけの一本道が、四車線のハイウェイ道路のような佇まいに変わっていく。地割れと穴ボコだらけだった路面が、なめらかな舗装になる。
 ジョモ・ケニヤッタ国際空港へと離着陸する大型ジェット機がさかんに低空を飛び交う。
 歩いている横を、黒塗りの高級車がスピードを落として進み、五十メートル先で停まる。インド系の顔立ちをした家族が、窓から身を乗りだしてこっちを見つめている。ピカピカにボティが磨かれたドイツ車に近づくと、助手席のドアが開いてサリーをまとった美しい女性が降りて近づいてくる。
 「よかったらこの車に乗ればいいわ。私たちの家に来なさい。その腕に薬を塗ってあげる。それに身体を洗ったほうがいいわね」と微笑みかける。
 久しぶりに都会の洗練された人、しかも上流階級の香りがプンプンするインド美女に話しかけられ慌てふためく。
 「だ、だいじょうぶです。ぼくは大そう汚いので、気にしないで下さい。腕のただれたのはナイロビに着いたら薬屋さんに行って薬を探してみます」とペコペコお辞儀をし遠慮する。
 奥さんとご主人と後部座席の子供たちはしばらく相談し、「遠慮しなくていいのに」と残念そうな表情をつくり、エンジン音もさせずに静かに去っていった。
 あの洗車の行き届いた高級ドイツ車に乗って、御殿のような家に招待されたら、ぼくの人生は変わったのだろうか・・・と考えながら歩く。
 ナイロビに近づくほどに物資が豊かになってくる。キオスクと呼ばれる小さな売店の前には、果物や野菜が山積みにされている。電線が通っているから売店には冷蔵庫がある。コカコーラにファンタに牛乳にと何でもある。この二週間、何度も夢に見た冷たいドリンク類だ。金さえ出せば、いくらでも手に入るというのに、どうしてだか物欲が枯れている。
 そのうち、北の方の空が真っ黒にかき曇ると、ものすごい風が吹きはじめる。茶色い雲が次から次へと湧きだし、押し寄せてくる。道ゆく人々は、空の様子を気にしながら、大股で走りだす。
 ポツポツと大粒の雨がアスファルトに黒い点を打つと、間もなく叩きつけるような土砂降りに変わる。むろん傘など持ち合わせていないので、野宿の時に地面に敷くウレタンマットを両手で持ち、頭にかぶって歩く。商店街の軒先で雨宿りしている人たちが、おもしろそうにこっちを眺めている。
 鉄道の陸橋を渡り、階段を下っているときに転倒する。後ろの人が蹴ったトウモロコシの芯が転がり落ちてきて、それを踏んづけてコケるという漫画のような展開。階段は排気ガスやら何やらの泥でぬかるんでいて、ただでさえ汚い服も手足も真っ黒になる。
 全身、泥とアカに覆われ、ただれた皮膚病のような腕をぶらつかせて、ナイロビの繁華街を歩く。あまりにひどいありさまなので、悪名高きダウンタウンの物乞いや、お婆さんの娼婦ですら、こっちを呆然と見つめるだけで、関わってこようとはしない。
          □
 ケニアの首都ナイロビの本当の姿を、ぼくは今、目にしている気がしている。
 三週間前に、日本からナイロビに降り立ったときは、とんでもなく薄汚く、この世の掃き溜めとしか感じなかったこの街が、五百二十キロのサバンナを経てたどり着いたぼくには、桃源郷のように映った。
 あらゆるモノ、カネ、ヒトが集まる世界の中心。酒も、女も、ドラッグも、欲しいものは何でも手に入る。考えうるすべての快楽が、ミキサーに掻き回された穀物のように、ドロドロになって存在する楽園だ。
 夜、大衆食堂で一人ヤキメシをかきこんでいると、三週間前もそうだったように煙草売りの少年がやってきては、テーブル席の隣に座ってセールストークを繰りだす。
 アタッシュケースにずらりと並べた洋モクや葉巻やライター。二重底になっている上箱をめくると、乾燥させた草やら樹脂が、きれいに整頓されている。
 少年は、取り出した草を器用に紙で巻く。ジッポーのライターを取り出し、キンという金属音も高らかに指先でくるくると三回転させて、ジュワッと火を点ける。手製の紙巻きを口にくわえると、チリチリと葉っぱの先が赤く燃える。ぶわっと思いっ切りよく吸い込んで、天井に届かんばかりの勢いで煙を吐き出す。
 「肺の奥底まで届くように、思いっきり煙を喉に押し込むのさ。肺に溜めたら、そのまま息を吐かずに、肺胞に吸収されるのを待つんだ」
 見た目も実際も十三歳くらいの、おそらく学校になんて一度も通ったことのない少年が使う英語は、英国のインテリ学生のように正しい文法と丁寧な発音で、論理性を伴っている。少年はいったい何歳から、下町の真夜中の酒場で、世界中から集まってきた商人や旅行者を相手に、この売人稼業を営んでいるのだろう。
 天井の半分壊れた大型ファンが掻き鳴らす金属音、食堂のフロアを行き交う給仕たちの靴音。表の通りから聴こえてくるいつ果てるとも知らない喧騒。一台の車のクラクションに呼応して、辺り一帯の車がクラクションを鳴らす。誰かが誰かを怒鳴り、ガラス瓶が破裂する。
 おいおい、ここはいったいどこなんだ。おとついまで、ぼくはサバンナの野獣たちの遠吠えや唸り声の中にいたんだぜ。いったい、世界ってどのように構成されているのだろうか。
          □
 「ここに座っていいかしら」
 テーブルの向かい側に立ったのは、この薄汚い安メシ屋にはそぐわない、可愛い顔立ちをした女の子だ。青いワンピースに、汚れていないスポーツシューズという出で立ち。こういう着こなしをする女の子はケニアではあまり見かけない。若い女性でも、着衣のどこかに鮮やかな布やアクセサリーをまとっているものだ。
 スポーツシューズの彼女は「日本人ですか?」と日本語を使った。
 「そう」
 「わたしモニカっていうのね。東京の新宿にあるスクールに三カ月通ったことあるから、日本語ちょっと話せるの」
 だいたいこうやって綺麗な顔立ちの女が、向こうから近づいてくるのは、睡眠薬強盗か詐欺師か娼婦と相場が決まっている。ふつうなら相手にしない。何かを奪われて、痛い目に合わされる可能性しかない。
 しかし幸いかな、目下のぼくには失うものは何もない。ヨレヨレのTシャツ、股間に穴の空いた短パン、昨日ナイロビで買った五十円のビニサン。首から下げた小銭入れには現金が五百円ほど入っているだけだ。
 ちょうど話し相手がいなくて寂しかったんだ。ぼくは饒舌になり、この二週間、自分が荒野を放浪していた話を、三倍増しに粉飾して、しゃべりまくる。
 モニカと名乗る女の子は、聞いているか聞いていないかは定かではないが、たぶんぼくに勘定を払わす魂胆であろうビールを飲みながら「まあ、あなたのようなおかしな日本人には、めったに会わないわね」という風にうなずいている。
 ぼくの一人語りがひと息つく頃に、部屋に来ないかと彼女に誘われた。(ぼくからむしり取れるものなんて何もないのに。かわいそうな女・・・)と思い席を立つ。彼女がタクシーに先に乗りこんだので「あ、タクシー代、持ってないんだけど」と言うと、「私が払うから心配しないで」と言う。運転手と料金を交渉し、本当に払ってくれた。
 いくつかのドアが並んだ集合住宅の階段を昇った所にある彼女の部屋のドアには、南京錠の鍵がかかっていた。モニカはドアの前で、自分のバッグやポケットをまさぐっていたが、「鍵を失くした」とすぐにあきらめ、隣部屋の住人から金鎚を借りてきた。そして、おもむろに鍵の部分に金槌を「ダンダン」と振りおろしだす。木製のドアは木くずを落としながら派手にぶっ壊れ、ドアが開く。
 先に部屋に入った彼女は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、グラスに注いでくれる。ガスコンロに大きな鍋をかけて湯を沸かすと、部屋の隅にある水浴び場に鍋を運び、広いプラスチック製のたらいに水と湯を注いで、「身体を洗ったら」と勧める。
 置いてあったモニカのシャンプーで身体を洗う。シャンプーなんて使うの半月ぶりだ。「やっぱり彼女は娼婦なんだろうか」と思う。
 モニカは、ぼくの濡れた髪をドライヤーで乾かしながら、「わたしヘアメイクの専門学校に行ってたの。だから上手でしょ」と言う。
 それから熱いコーヒーを淹れ、スパゲティを茹でる。スパゲティの上にはカレー味の野菜炒めがのっていて、二人でそれを食べる。
 「わたし今から仕事があるから、ここで泊まっていって」と言う。
 「わたしと入れ替わりに、女の子が一人帰ってくるわ。その子はウガンダから来た子で、今ナイトバーで働いていて、真夜中に戻ってくるから」
       □
 その会話を最後に記憶がなくなる。目覚めると、朝なのか昼なのかわからない。
 ここはどこだ? 昨夜のことがよく思い出せない。念のため首にぶらさげた小銭入れの中をまさぐってみる。お金はそのままある、といっても五百円ほどのシリング札だが。
 服を着替えたモニカが立っている。
 「起きたわね。君、12時間も寝てたわよ。今から街まででかけるわ。一緒に行きましょう」 
 部屋を出ようとドアに近づいたとき、彼女はぼくの左腕をたぐり寄せ、耳に噛みついた。抵抗したら、両肩を掴まれて、後ろの壁に激しく叩きつけられた。すごい力だったので後頭部をゴツンと壁に打ちつけた。
 モニカは人工呼吸するくらいの勢いで、耳の穴を吸ったり吐いたりした。舌は軟体動物のように自由自在に動いた。
 身体じゅうの関節のちょうつがいに力が入らない。尻に背骨に向かって、ぞわぞわする快楽が駆け昇る。
 ぼくはヘナヘナと壁に沿って床に尻もちをつく。
 ひとしきりそのような行為を推し進めたのちに、モニカは何もなかったような顔で「じゃあ行くわよ」と言う。
 昨日、金槌で穴を開けたドアはそのままになっている。アパート前の通りに立っているとすぐにオンボロバスの姿が見え、モニカが手をあげて停める。ぼくたち以外に乗客はいないけど、モニカは最後部座席まで進んで、二人並んで座る。ガーガーとけたたましいディーゼルエンジンの音を立ててバスは走りだす。道路のデコボコにタイヤがはまるたびに席はバウンドし、「わっ」とびっくりするぼくを見てモニカは笑う。乗降ドアも窓ガラスも全部外れた車内を、ホコリまみれの風が通りぬけていく。
 ナイロビの繁華街の渋谷みたいなお洒落な通りでバスを降りる。ハンバーガーショップに入り、バナナパフェと野菜のサンドイッチとコーラを注文し、半分ずつ分けて食べる。バス代も食事代もモニカが払ってくれた。
 食事を終えて店を出ると、モニカは悪戯な笑顔をつくって「おもしろかったわね」と言い、「じゃあね、また」と余韻のカケラもなく、スカートの裾をひるがえして雑踏へと消えていった。
 ナイロビを経つまでの何日か、ぼくはモニカと出会った大衆食堂にときどき出掛けた。彼女は二度と現れなかった。
(つづく)