バカロードその164 アフリカ幻影編5「しんしんと降りつもるように、しずかに降る。」

公開日 2023年07月31日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダ、ザイールとサバンナやジャングル地帯を踏破する。中央アフリカ共和国の首都バンギでは、永遠の宿敵であり登山家の「ヒグマ」と偶然の再会を果たし、自分たちの「旅」について無限のような対話を繰り返す。四千五百キロ余りを歩き「最後の国」カメルーンに入国する)

 道は深い森に入る。
 「サピック」と呼ばれるエゲつない虫が、カメルーンの森に棲息している。体長わずか〇・一ミリくらいの土埃のようなこの吸血小虫は、数千匹という集団で、人間や家畜を襲う。サピックは微小すぎて、飛んでいるときは目に見えない。だから、避けようがないのだ。気づくのは襲われてからだ。
 ジャングルの巨大な切り株の上で昼寝をしているとき、初めてこの憎っくき虫の襲撃を受けた。鼻ちょうちんを膨らませながら、穏やかなシエスタを愉しんでいたぼくの全身を、激痛にも似た強いかゆみが襲った。なにがなんだかわからない。発狂しそうなくらいかゆいのだ。真っ赤な発疹が、肌の露出している箇所すべてにブツブツブツと現れる。五十個、百個、二百個と増殖していく。爪をたてて掻きむしる。掻いた部分にみるみる血がにじむ。顔も首もかゆい。たまらずガーァと叫ぶ。
 悶絶しているうち、太陽光線の光の中に、微かに反射する塵芥のようなものに気づく。腕にぐっと顔を近づけて凝視する。小さな、ほんとうにミクロな羽虫が、びっしりと肌を埋め尽くしている。こいつらか原因は! からだじゅうをシャツではたく。犬みたいにからだをプルプル震わせ、羽虫を肌から離す。
 その日ぼくは、太陽が沈むまで、このイカれた羽虫と格闘しなければならなかった。動きつづけていなければ、襲われちまう。歩き疲れて腰をおろせば、ふたたび攻められるのだ。首都ヤウンデに達するまで、このサピック野郎に襲われつづけた。
              □
 密林の民が大好きな川遊びの習慣に従うにつれ、寄生虫にも悩まされるようになった。タチの悪いのは足ミミズ。左足の薬指にできたマメの中に黒い塊を発見し、安全ピンの先でほじくり出すと、グロテスクな緑色の足ミミズがピュッと飛びだす。黄色い卵もぐじゅぐじゅと百個くらい出てくる。穴の深さ約五ミリ。骨に達するかと思うくらい、肉を深く食い破っている。しつこい足ミミズは肉に噛みついて、なかなか引っ張り出せない。こうなると血と膿まみれの格闘だ。
 足ミミズより不安なのが、キンタマの腫れである。カメルーン入国以来、左のキンタマが、直径で三倍ほども腫れあがり、マンゴスチン大に成長している。もしかして寄生虫なのだろうか。それともマラリア薬の飲み過ぎでホルモンの分泌が狂ったのだろうか。痛みはないのだが、左右バランスよく歩けなくて、格好わるい。
 寄生虫に蝕まれた分、ぼくだって自然に寄生してやる。密林の民のタンパク源である昆虫の幼虫食に凝っているのだ。最近はどれが毒虫で、どれが安全で美味しいのかわかってきた。判断基準は色と匂いだけど、村人たちが食用にしている赤や黄の極彩色のを口に入れるのは怖い。カブトムシの幼虫みたいなのは、けっこういける。丸ごとかじるとドロンとした液体が喉に流れる。チョコレートみたいに甘く、やみつきになる味だ。
 ぼくは密林の生活が好きだ。
 生と死が、一片の違和感もなく交錯しあっている。食って食われ、寄生し寄生され、生命は穢れなく循環している。
 「アフリカは貧しく飢えている」という印象は、赤道直下の広大な密林地帯にはあてはまらない。スコールが大地に水を潤し、圧倒的な太陽の熱量が、植物の根や茎や果実を育てる。虫や動物たちは生殖を謳歌し、子を産み育てる。密林の民はその恵みのなかで、森羅を傷つけることなく、分相応に喰らい、育て、生きている。自分を異型の鋳型に押し込めたりはしない。
 ぼくたちが生まれた国のように、労働の成果や、人の能力や、土地や、太陽の光や、ときには生命までもが貨幣という単位で換算され、売買されるシステムはない。
 物質文明の先に待ち受けているのはなんだ。
 ぼくたちの欲求は恐ろしく肥大化している。地上を見下ろす高層マンション、個性を競う注文住宅、細分化された自動車のグレード、世界中で食材を買い漁りむさぼる美食、流行した年にしか着られない服…。消費の海にどっぷり浸かりながら、いびつな社会に子どもたちを順応させ、自然はありのままであるべきだと訴えたりもする。
 「何も求めないことこそ豊かで思慮深いことだ」とかつて尊ばれた国なのに。
              □
 ヤウンデ首都圏が近づくと密林は途切れ、切り拓かれた文明の匂いがする。夕暮れ時にたどり着いた小さな村は、家々がベージュ色の土塀で規則的に囲われた、どこか日本の古都の下町を思わせる風情である。珍しく電気が通っていて、薄明かりに街灯が揺れている。入り組んだ細い路地を痩せた猫が小走りに駆け抜ける。土塀の向こうから、家族団らんの声が漏れる。夫婦喧嘩らしき怒号も聴こえる。懐かしくて、切なくなる淡い空気。
 ハロー、ハロー。
 子どもたちがまとわりつく。
 マギという名の少年が「今夜はうちに泊まりに来ないか?」とはにかんで誘う。
 もちろんオッケー、オッケー。
 子どもたちと二十人ほどの大集団でマギの家を目指す。
 集団の中に十七歳くらいの、目のくりっとした女の子がいる。学校で勉強した英語を試してみたいって感じで、話しかけてくる。
 「マギの家に行くまえに、私の家に来ない? アドレスの交換をしたいの」
 もちろんオッケー、オッケー、大オッケー。
 彼女は、門前で子どもたちを追っぱらうと、ぼくを部屋に招く。
 「わたし、今ヤウンデに住んでるんだけど、友だちと田舎に帰ってきて遊んでるの」
 都会で洗練されたのか、彼女はとてもモダンな服を着ている。うすいスカートの生地が透け、白いスリップがのぞいている。
 「実は来年からポリスウーマンになるのね、でも怖がらないでね」と、ぼくをベッドに腰掛けさせる。彼女はぼくに身体を押しつけるようにぴったり並んで座る。マンゴスチン状になったぼくのモノに鈍い痛みが走る。
 「あなたカメラ持ってない? 一緒に写真を撮りましょうよ」と彼女。
 「肩に手をかけていい?」と尋ねると、「IF YOU HOPE SO」と悪戯っぽくぼくの顔をのぞきこむ。彼女の瞳は、完全にひとつの意味を示している。ぼくの血圧は急上昇する。
 しかし、不幸な出来事が起こる。クソガキどもが部屋に乱入してきたのだ。ぼくたちはアセり、会話も途切れがちになる。
 「それじゃ、ぼく行くよ」と表に出ると、彼女はフランス語でなにかつぶやきながら駆け寄ってきて、頬にキスをする。そのまま踵を返して、門の向こうに消えていく。
 マギの家では、家族の大歓迎を受けた。信じられないくらいたくさんの料理を胃袋につめこむ。この街はきっと豊かで、マギのお家はさらに上等な階級に属しているのだ。ぼくは洋風家具が並べられた寝室にベッドを与えられ、隣に陣取ったマギに長い長い旅の物語を吟じる。そうしたかったわけではなくて、彼女のキスが忘れられなくて、なかなか眠れなかったからだ。
 しかしいつしか眠りに落ちていく。うつらつうらしていた夜更け、ドラム缶の底を数百のバチで叩くような、壮絶な騒音が部屋を揺らす。ポルターガイストにしては大袈裟すぎる。赤道直下でヒョウでも降りだしたか? ともかく外ではエラいことが起こっているみたいだ。横で寝込んでいたマギが跳び起きて、とてもうれしそうな顔をして「表に出よう」と中庭の方を指さす。
 ドアを開けると、夜空には無数の黒い物体が飛翔している。何千、いや何万と。中庭にぶらさがった裸電球をめがけて、暗い空から無限のように現れる。互いに空中でぶつかりあい、自ら壁に激突しながら、次々と地上に落下してくる。いつしか中庭一面が黒い絨毯に塗りつぶされる。仰向けになった腹と脚をガジャガジャ鳴らして暴れている。
 カブトムシだ。
 銀河鉄道999の停車駅にネジクギが降るウラトレスという工業惑星があったけど、この街もまた別の天体の法則に支配されている。
 マギの兄弟たちは皆、手に手にバケツを携えてカブトムシを拾っては放り込んでいく。素揚げにして食べるのだろうか。家じゅうのバケツをカブトムシで満たすと、マギたちは飽き飽きした様子で寝室に戻っていく。ぼくもベッドにもぐりこむ。
 トタン屋根にカブトムシの降る音が響く。しんしんと降りつもるように、しずかにカブトムシが降る。
(つづく)