公開日 2023年08月29日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
「路上から 台湾台北市」
痛み止めを20錠呑んだ。
ロキソニン、いくら飲んでもぴくりとも効かない。
走ることができなくて48時間のうち45時間は歩いた。1時間だけ走って2時間は寝た。
「ずっと路上にいる」という誓いは簡単に破った。
もうスパルタには行けないんだなーって思うと、涙が止まらなくなった。
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1年半、布団の上で過ごした。
免疫が暴走する病気。あと、ひどい鬱病。
1本50万円もする注射を2カ月に1本。抗うつ剤と睡眠薬は1日に15錠。医師との約束を守らず薬物過剰摂取をしていた。ボロボロだ。
外に出られるようになったのは、2022年の夏。
ネズミの細胞注射のおかけで、病が回復に向かい、同時に鬱も治ってきた。
久しぶりに青空の下で、ランニングシューズを履き、吉野川の堤防道路に立った。
嬉しかった。
ところが、走ろうとしたら5歩で足が止まった。理由はわからない。走り方がわからないのだ。いろんなやり方で、手と脚を出してみるのだが、どんな順番でやればいいのか思い出せない。
仕方ないので歩きだした。毎日、夜明け前から夜中まで。10時間、12時間、15時間。歩くことはできた。僕は元々、徒歩ダーなのだ。なんとなく存在証明ができた気がした。 走れない僕を、愛媛の河内さんがむりやり騙して、24時間走をやっている大阪の緑地公園に拉致した。もちろん走れないので6時間だけ歩いた。
なぜだか翌日から走れるようになった。たくさんのウルトラランナーが楽しそうに走る背中を見て、感化されたんだろう。
10キロのタイムトライアルをしたら1時間47分だった。自分はもうスパルタスロンなんて走ってたランナーじゃなくなったんだと自覚した。
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「ぼくはマラソンが好きなわけじゃなくてスパルタが好きだから走ってるんだ」
と恩人の安藤さんは繰り返し言ってた。
僕もそのとおりなのだ。
走るからには、あそこを目指すしか選択肢がない。キロ14分しかスピードが出ないのに、どうしても、もう一回だけでいいから、あの戦いの舞台に立たせてほしくなった。走る動機がそれしかないから。
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毎日、夜明け前から夜中まで走る生活をはじめた。仕事は闘病中に辞めたので、走ること以外、することもない。
100㎞走、170㎞走と距離を伸ばしていった。10月と11月には150㎞前後を8本やった。相変わらずスピードは戻ってこない。
スパルタスロンの参加資格が欲しくて3レースに申し込んだ。
10月の「瀬戸内行脚」。230㎞を36時間以内で資格が獲れる。序盤からまったくスピードが出ずトラブルのあった菅さんとゴジラさんを除けばダントツビリを独走し、170㎞で自ら走るのを辞めた。
1月の「ジャパントロフィー」。200㎞を29時間以内で資格が獲れる。わずか20㎞で耐えかねる足裏と膝の痛みに苦しみ、全選手に置き去りにされた。歩くことしかできなくなり、85㎞まで進んだところで、主催者の方から心配のお電話を頂き、迷惑をかけたくなかったので辞めた。
2月、台湾の首都で行われる「台北ウルトラマラソン」。48時間で280㎞以上を記録すれば資格が獲れる。2023年のスパルタ参加資格の取得期限は、2月25日までの記録なので、これが最後のチャンスだった。
レース3日前に、台北の路上で大暴れした。細い路地裏の道を歩いていて、行く手を阻まれた。喧嘩を売ってきた相手は最初は2人、徐々に仲間が加わり最終的には5人。台湾マフィアなのかな、目が血走って入墨の入った連中だ。打撃には応じす、徹底的に掴まれ密着戦に持ち込まれて硬いアスファルトの地面に10度ほども叩き投げられ続けた。喧嘩慣れしていて決して逃がそうとしない。アジトのような家に引っ張り込まれようとしたので、手を振り切って逃げた。
右肘の関節部分に突起が飛び出している。左大腿部の打撲は、収まるところかレース当日まで日増しに痛みを倍増させている。頭頂部には謎のタンコブがたくさんあった。どんなボコられ方をしたら、こうなるんだろね。
レース前日に、試しに横断歩道が青信号に変わったタイミングで走ってみたら、着地の際に大腿部の鋭い痛みが脳天まで突き抜け、10歩と走れなかった。
しかし、スパルタの資格を獲るんだという気持ちに、いささかのブレもなかった。
(つづく)