バカロードその134 天上界の落とし物(16歳ムチャ旅シリーズ)

公開日 2019年07月09日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前回まで=高校2年生の春。あてどなき旅に出た「ぼく」は、150km走ってたどり着いた夜の高知でアル・パチーノ似の男性に犯されそうになる。その後も、道なき山林を駆け上がったり、野宿を繰り返しては、混迷を極めつつある青春に戸惑っていたのだった。そして、まだ雪深き剣山の山中へと足を踏み入れたのだった)

 標高千メートルを超すと積雪の深さはさらに増していき、背丈ほどにもなった。ぼくは雪を両手でつかみ、カブガブかじりながらガムシャラに歩きつづけた。ときおり粉雪が舞うが、天候は崩れるか崩れないかのギリギリの線をいったりきたりした。雪が、登山道の境界を消しているが、前日歩いたと思われる登山者の踏跡をトレースすれば、膝までもぐる心配はない。
 それにしても、さっきから気分の高揚が抑えられない。
 「自分がどうなってしまうか、わからない」
 そうゆう状況が、たまらなく興奮をかきたてる。予定調和のない世界。1時間後の自分が、今の自分ではない可能性を秘めた世界。冒険とはそうでなくちゃならない。安全が確保された旅なんてつまらない。
 道のわきに、雪面が黄金色に輝く不思議な光景を見た。手に取ってみたが、なぜ雪がこんな色をしているのかわからない。ザラメ質のその部分に光が射すとキラキラ光って、天上界からの落とし物のように思えた。
         □
 その冬ぼくは、零下を超える寒い夜を利用して、綿シャツいっちょうで家のベランダで朝まで過ごす、という耐寒訓練に取り組んだ。
 これがけっこう厳しい。手足の指とか、おなかとか、股間とか、冷えると眠れなくなる部分から体温は奪われていく。そんなときは、背中と尻以外から体温が逃げないように、だんご虫のように丸くなってベランダに転がるのだ。そんな「ベランダにおけるだんご虫訓練」に順応すると、夜中に自宅から5キロほど離れた岩場にでかけるようになった。そこは、高さ30メートルほどの垂直の岩が屏風状に連なっていて、ロッククライマーらの練習場にもなっている。
 ぼくは高校からの下校途中によく立ち寄って、フリークライミングの真似ごとに興じていた。岩場の上部には、空中に1メートルほど張り出したテラス(岩棚)があり、昼間なら山すそを蛇行する桑野川や、その背景に瑞々しく輝く水田地帯、一年じゅう緑の絶えない丹生谷の山々が遠くまで見とおせる。岩登りの合間にテラスに腰かけて、おだやかな田園風景を眺めていると、いつまでも飽きなかった。
 深夜、ヘッドランプの弱々しい光を頼りに、小さな岩の出っ張りに体を押し上げ、ツェルト(緊急露営用テント)をバサッとかぶって眠るのは、ほんとうに幸せな時であった。かすかな街の灯りと、満天
にチカチカ輝く星々、山と風がふれあうさみしげな音・・・。凍てつく岩肌は肌を刺すが、体温が少しずつ岩に伝わるにつれ、苦痛は薄れていく。
 ぼくが、なぜそんなことを始めたかというと、加藤文太郎という昭和初期を代表する一風変わった登山家に夢中になっていたからだ。
 作家・新田次郎の傑作「孤高の人」の主人公である加藤文太郎は、一日に百キロ以上を歩く駿脚の主で、山行はいつも単独で行った。真夜中でも平気な顔をして道なき道を歩き、疲れたら雪上にゴロンと横たわり、そのまま眠ってしまうといった、山の常識をまるで無視したかのような登山をする型破りな男だった。
 ぼくは、その上下二巻の長い小説を、夏休みの間に繰り返し読んだ。
 そして、加藤文太郎の「孤高ぶり」に少しでも近づきたいという思いがどんどん強くなっていった。
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 ふいに眼の前が開け、灰色のコンクリート壁が現れた。三階建ての大きな建物は、国民宿舎剣山荘であった。ということはここは標高千五百メートル、ようやく登山基地である「見の越」にたどり着いたのだ。
 安堵感がドッと押しよせ、そのまま後ろに倒れそうになったが、そう休んでいる暇はない。太陽は雲の向こうで西の山の縁に傾きつつある。風も強くなりはじめている。風避けできる寝床を確保する必要がある。建物の中にもぐりこめる所はないかと全部のドアや窓を押したり引いたりしてみたが、どれもきっちり鍵がかかっている。
 陽の当たらない建物の陰の部分に、雪が2メートル以上積もっている。ぼくは、旅に出る前にテレビ番組で見た、北極圏で暮らす先住民イヌイットたちの簡易住居を思い出し「アレだ!」と叫んだ。彼らは固く圧縮した雪をブロック状に切り出して組み立て、イグルーというかまくら状の寝床を作っていた。
 眼の前にあるのはふかふかの軟雪で、イグルーは無理としても、雪洞なら掘れるんじゃないか。雪に囲われた穴ぐらは一見寒そうに思えるが、外気がマイナス10度くらいでも、内部はマイナス2~5度に保たれ暖かいのである、とナレーターの久米明か誰かが説明していたではないか。
 ちょうど手頃なスコップが落ちていたので、横穴を掘ってみた。ものの10分ほどで体を横倒しにしても収まるほどの穴が完成した。ぼくはお手製の寝室に大満足し、空にしたザックをマットレス代わりに床に敷き、入口にはTシャツで風避けのノレンを垂らし、寝床を整えた。
 雪洞にもぐりこみ、ごろんと横になって目を閉じると、雪深き北米マッキンリー山や南極大陸の極点をめざす冒険家の仲間入りを果たしたような気分になった。そして「友よ、ぼくはあと一日でピークに立つだろう」などとドキュメンタリー番組に出てくる人みたいなセリフをつぶやいたりした。
 胃がキュルキュル鳴っている。そういえば朝から何も食べてない。貞光駅前の商店で買ったサバの缶詰を取り出し、ナイフの先端でフタをこじ開けて食べる。氷のように冷たいサバの塊が胃に落ちると、そのまま体温に代わっていく。
 しかし、そのままの格好でいられたのはほんの数分だった。寒い・・・恐ろしく寒いのである。山登りを終えた直後は汗ばむほど暑く感じていたが、今はすっかり汗が冷え体温は急下降している。
 雪洞の内部が外より暖かいと言っても、しょせんは上も下も周り全部が雪なのである。熱源となるコンロも持ってはいない。ひと冬かけた「ベランダにおけるだんご虫訓練」に自信を深めていたのだが・・・やはり、いきなりの極地体験はレベルアップしすぎなのか。打ちひしがれて雪洞をもぞもぞ這い出し、新たな寝場所を探す。
 2階のベランダ部分は頭上にひさしがあり、三方を壁に囲われていて、次なる寝床に最適だと思えた。建物のわきにある焼却炉に、シーズン中に使っていたとおぼしき宿泊客用の浴衣が何十枚も押し込まれているのを見つけた。それをぜんぶ取り出して、寝袋の中に詰め込んだ。富岡西高登山部の部室よりこっそり失敬してきた寝袋はたいへんな粗悪品で、素材は羽毛ではなく綿を詰め込んだもので、年期が入りすぎてへたっており、布切れ程度の厚みしかない。ボロ浴衣を利用して保温効果を高めるべし。
 さらに持ち合わせたありったけの衣類を身につける。「職人の店」で買った靴下が半ダース残っていたので、両手と両脚に3枚ずつ重ねてはく。そして空のザックに足を突っ込んだ。
 夕陽が閃光を数秒だけ放ち、山の端に消えてゆくと、あたりは徐々に闇に覆われていった。
 気温がさらに下がりはじめる。寝袋から出ている顔の表面が凍りつくように痛い。頭までもぐりこんで、寝袋の口ヒモをきつく閉じた。
 夜はひたすら長く、かすかな光源もない暗闇の中で、強風がワサワサと森を揺らす音に、身を縮こませた。やるべきことは何もない。体温を逃さないよう、身動きせずにじっと朝を待つしかない。
 時間が恐ろしく長く感じられた。
 遠く、遠く、遥か遠くに、犬の遠吠えを聴いた気がした。浴衣を詰め込んだ寝袋越しにかすかに聴こえたもので、気のせいだと思った。こんな標高千五百メートルの、雪に覆われた山中に犬がいるはずがない。
 それよりも、いよいよ自分が追い込まれて幻聴でも聴こえだしたのかと、そっちの方を恐れた。しかし耳をすますと、遠吠えが耳鳴りのように断続的に鳴りつづけている。
 それは幻ではなかった。鳴き声は少しずつ音量を増し、はっきりと聴き取れるようになった。それは一匹ではない。十匹以上の大集団であり、どうやら一直線にこちらに向かっているようだと気づいたときには、逃げ出す余地もないほど咆哮は近づいていた。
 そういえば、サバ缶の残り汁を雪洞の前に捨てたが、その匂いにつられてこっちを目指してるんじゃないだろうな。
 不安は的中した。飢えに耐えかねたうなり声、激しい慟哭はついに階下までやってきた。それは何十分も、何時間も収まることがなかった。いや、その時のぼくには時間を把握する能力など失せていたにちがいない。
 カメラマンの藤原新也がインドで撮った「人肉を食らう犬」の写真が、鮮明に脳裏に浮かぶ。野に伏して犬に自らの死肉を与える屍。そして人肉を食らうことで生の悦びを享受する犬ども。写真は崇高このうえないものであった。そこには万物の無常と、輪廻転生の美しさが表現されていた。
 しかし、それは遠いインド亜大陸のおとぎ話としての美であって、いざ自分がボロ寝袋のなかで、無抵抗なイモムシのように犬に食いちぎられるのなんて最低の結末なんである。
 寝袋から出る。かたわらにあった物干し竿をたぐりよせる。野犬どもが階段をつたい2階までやってきたら、この物干し竿で戦う。たとえ腕を食いちぎられ、目玉をえぐられても、最後まで戦い抜いてやる。
 冷え切った体に、燃えるような体温が戻りはじめる。
         □
 長い長い夜が終わった。
 朝日の放熱を受けた紺色の寝袋は、サウナスーツのように暖かく、まどろみのなか寝返りを何度も打ちながら、ぬくもりの快感をむさぼった。何時間もそうしていたかったが、破裂寸前まで膨らんだ膀胱が許さなかった。昨夜は、寒さと恐怖で小便すらできなかった。
 雪洞を掘った階下の庭一面に、たくさんの犬の足跡があり、雪面には犬の足の裏から流れ出した赤々とした血がこびりついていた。
 ぼくは、太陽に向かってスボンとパンツを下ろし、思いっきり遠くまで勢いよく小便を飛ばした。めくるめく快感が全身をかけめぐる。そして、朝日にキラキラと輝く飛沫は、純白の雪を黄金色に染めていった。
 む、むむむむむむむむ。
 これは昨日見たあの「天上界の落とし物」じゃないか! ショックはひたすら大きいのであった。  (つづく)