文=坂東良晃(タウトク編集人)
プロレスに感情移入できなくなったのはいつからだろう。
各団体が明るく楽しいプロレスを標榜するようになったからか。グレーゾーンだった様々なアングル(仕掛け)を、WWEに習って「すべてが演出です」と明示するようになったからか。レスラー自らがブログで、「レスラーといっても実は平凡な気のいい男なんです」と語り出したからか。
かつてプロレスは暗い世界だった。
会場自体も薄暗かった。体育館に支払う照明料をケチッていたのかどうかは知らない。非常出口の表示板が煌々と浮き上がる闇の中、マットとレスラーを照らすのは小さなトップライトのみ。頼りなげな白色光の下でレスラーたちは黙々と関節を取り合う。演出といえばリングアナのコールだけ、入場テーマソングのテープすら流さない。
70年代新日本プロレスの前座は、そのゴツゴツした肉のぶつかり合い、骨のきしみ合いがプロレスそのものであった。前田、魁、木戸、小林、浜田、高野、藤原、小鉄、星野、平田、荒川・・・。どのレスラーもいかつい顔とゴツい胸板と腹を持ち、現在のアンシンメトリーな髪型をした、ホストのような顔をしたスター選手とは程遠い。もちろん試合会場に若い女性の観客などいない。
試合は地味だ。組み合い、手四つの力比べからブリッジへ移行、ヘッドロックを外してボディスラムで叩きつけ、ストンピングを入れる。ロープに投げたらショルダースルーかアームホイップ。フィニッシュホールドはボストンクラブかキャメルクラッチ。
スクワットで鍛えられた発達した大腿筋が、美しい陰影を浮きあがらせる。マットから吹き出したホコリ漂う空中に、飛び散った汗がきらきらと光る。規則的なレスラーの息づかいを、観客は息を潜めて聴く。それがプロレスだった。
今のレスラーはみな明るい。そしてよくしゃべる。鶏のササミを食い、ウエイトトレーニング理論に則った負荷を筋肉にかけ、サンタンライトで全身を黒く焼く。腹回りの体脂肪を削り取り、僧帽筋や大胸筋をバンプアップさせる。
ドラゲー、ノア、DDTのトップレスラーたちは、その美しい筋肉美を見せつけながら、体操選手のように派手に舞い、マトリクスの主人公ばりに派手にかわす。マイクパフォーマンスは芸人はだしである。観客に伝わるようにゆっくりしゃべり、間も絶妙だ。シリーズの展開の説明を要領よく説明もする。エンタテイメントをなりわいとするプロとして十分に完成されている。
しかし何も感じられない。ぼくたちは、昔のようにレスラーに人生を投影したり、コンプレックスを共有したり、金言を得ることはない。吹き出さんばかりの情念を背景に、泥臭く戦っていたかつてのレスラーたちとは、何もかもが違う。
何もプロレスに限ったことではないのだ。ボクシングにしろ、総合にしろ、人生を背負って花道をリングに向かうような重苦しい選手がいなくなっただけのことだ。ロックにしろ、演歌にしろ、生命を削りながらステージに上がる歌い手がいなくなっただけのことだ。
3月6日、みちのくプロレス徳島大会は、ふいに目の前にポンっとさし出された。いつものみちのくプロレス、何度も目にしたみちプロの大団円を前提としたプロレス・・・心の準備はそれだけ。
1試合目の相澤孝之と清水義泰戦。3カ月前に阿南大会で見た清水の動きは重く、アンコ型の地味な選手という印象しかない。期待などしていなかったのである。相澤も同期のグリーンボーイである。だが試合は熱かった。練度の低い空中技は使わず、基本的な攻防の繰り返しでありながら、2人の必死さが伝わってくる。歴代の若手に比べれば身体能力は劣るのかもしれない。しかし、みちのくの前座でこんな感情直撃をする若手っていただろうか?
2試合目の景虎と日向寺塁は、さらに骨太な展開を見せた。派手な技の応酬はなく、ボディシザースやネックロックなど互いに絞め技をきめ合う。ふつうの試合なら「退屈」な部類だったはずだ。しかし気持ちの入りようが尋常ではない。痛みが伝わってくるのである。景虎は、試合時間の大半をボクシング出身の日向寺の打撃を吼えながら受けた。・バトラーツのバチバチを彷彿とさせる展開が続く。本当にこれがみちプロか、というドロ臭さなのである。
デルフィンや東郷、テリー、TAKAら、団体創設の頃からのメンバーがごそっと脱けた頃のみちのくは、観客としたどう観ていいのかわからなかった。前座では「MICHNOKUレンジャー」や「110.119隊員」あるいはスーパーカー・キャラなどの設定が不明なマスクマンが登場し、反応する術がない。それ以前とて、原人VSウェリントンの時代から、みちプロは前半おちゃらけで折り返し、後半ハイスパート・ルチャの速度をグイグイ上げ、客を温めていく団体ではなかったか。
そんな時代に比べると、この日のみちプロはまるで別団体のような空気が漂っている。
そして4試合目である。デビュー戦である拳王(中栄大輔) は、握手を求めたアレクサンダー大塚の手を張り、デビュー戦らしい好勝負を拒絶する意思を表明する。「オオツカーッ」と叫びながらこの世界13年のベテランの顔面に張り手を入れる。掌底、ボディ、ローキックのコンビネーションを幾度となく放つ。大塚の右瞼は大きく腫れ上がり血が一筋流れる。拳王の打撃技を大塚はすべて受け止める。そして、最後は市立体育館の二階席の空気まで鈍く揺らすほどの、重い重い頭突きとジャーマンで拳王を沈める。ドクドクと鮮血があふれる拳王の額に、大塚は白いタオルを巻いてやり、そして抱きしめる。拳王の日本拳法時代の恩師の中川雅文さんがリングに上がる。マイクを手に思いの丈を振り絞る中栄大輔の姿を、中川さんは何とも温かな、慈愛に満ちた表情で見つめる。本当に強い男だけが持つ優しさに溢れた表情である。
何だ何だこの漢(オトコ)の世界は!鳥肌立つじゃないか!
プロレスは本来、こうやって感情をぶつけ合う世界だった。どこまでが予定調和でどこからがパプニングなのかはわからない。幾百のストーリーの中に観客は真実を見つけ、心を熱くした。
わずか20年ほどの間に、プロレスは競技として進化をしすぎた。かつてのフィニッシュホールドは単なるつなぎ技に、トップロープからのボティプレスは1回転半以上に、あらゆる技は雪崩式にアレンジされ、エプロンから場外に首から落とす。観客は、見栄えのいい大技が「いつ出るか」と期待している。レスラーは、頭部や頸椎や膝への大きなダメージを覚悟のうえで、危険な角度で跳ぶ。その覚悟の重さをファンが知り尽くしているわけではない。明るく楽しく、しかし生死や身体の不随に至る事故が表裏一体のアクロバティックな競技、行き着く先はどこなのか・・・。
こんな風に、時代遅れの古めかしいプロレスファンが郷愁と夢想にひたっている横で、当社の女性社員たちはいつになく興奮気味なのである。聞き耳を立てていると、コメントがいかしている。「景虎ってオトコマエ」「受けて立った大塚がカッコイイ」「野橋と名勝負をできるGAINAは成長した」「プロレスってホンマなんですね・・・」。
いやいやプロレス初観戦の人間まで解説者気取りでコメントを述べている。そして視点がなかなかシブいではないか。楽しいルチャもいいけど、餓えた男たちの張り裂けそうな思いをガツガツぶつけるような試合を、観客は本能的に待っているのではないか。
今、生き様を競技に叩きつけるようなスポーツって、ほとんどなくなってしまった。プロレスはいつまでもその頂点にいてほしいのだ。薄暗い田舎町の小さな体育館で、武骨な男たちがゼーゼーとあえぎながら身体を密着させて関節のとりっこをしているような、大人の世界を失いたくないのである。もうそんな世界にお目にかかることはないのかと諦めていたら、その対極に存在しているはずのみちのくプロレスの会場に、その懐かしい原プロレスの匂いを嗅ぐことができた。幸福感に包まれた日曜の午後だったのだ。