文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)
(前回の話=沖縄・宮古島で100キロマラソン×2日連続の初日。10キロ過ぎまで先頭集団につくが、あえなく引き離されたあげく、暗闇に道を失い途方にくれる)
正規コースに戻るまであと何キロあるんだろう? 暗闇のなかを夢中で脚を回転させているんだけど、走っても走っても前に進んでいる気がしない。明確な目標地点もなく速いレースペースで走るって行為は、こんなわけわからん状態なんだな。
思考回路が奇妙にねじれている。数分前まで絶好調で走っていたハイな気分の残渣が体内にある。脳内麻薬であるエンドルフィンの分泌がストップしてない。一方で、二度とシリアス・レースには加われないという哀しみがひたひたと満ちてゆく。引き返しながらも、いまだにこの道が本当に間違っているのかどうか疑っている。ひたすら真っ直ぐ走ってきたのに、どこに曲がり角があったってぇの? 記憶不明瞭で思い出せない。パッパッと思考がうまく切り替わらない。
いま、ふつうの人なら何を考えるのか、考えてみることにする。考えるべきは、ゴールまでの80数キロを何を支えに走ろうか、だ。2日連続100キロをこなすためにやってきたんだから、何時間かかっても走るべきだ、と人間として正しく思うことにする。しかし「思うことにする」と「思う」は違う。まったくそうは思えないのである。やっぱダメだ〜。
やがて、前方にランナーの長い列が見えてくる。腕時計を見る。30分以上も迷走していたようだ。道を誤った地点が判明した。ぼくは正規コースの県道を直進せず、三叉路をゆるやかにカーブして「砂山ビーチ」へと向かう道に入ってしまったのだ。砂山ビーチは宮古島随一の観光地であり、大型バスも通れる立派な道が続いている。明るいオレンジの街灯の列は、県道沿いにではなく、砂山ビーチへと連なっている。視力が極端に悪いぼくは、三叉路に設けられた看板に気づかず、街灯の照明にだけ気を取られて前進したのだ。
夜が水平線の底から白く変わっていく。モノクロだった宮古島の輪郭がじわじわと着色される。景色が明瞭になっていくとともに、レースを失敗したという現実感がしのび寄る。両脚に重い濡れ雑巾が巻きついているよう。全身のどの筋肉にも力が入らない。意識しないと正しいフォームを維持できない。気を抜くとゼンマイ仕掛けの人形のようにギクシャクとしか走れない。
今日は負け犬だワンワン、とつぶやいてみる。ワンワンワワン、ニャンニャンニャニャン。理屈では説明できない敗北感と罪悪と幻滅に苛まれ、ワンワンワン、ニャンニャンニャンと声を出して感情を抑える。ぼくは、こんな遠くの島まで来て、いったい何をやってるんだろう?
スタートからわずか20キロも進まない場所で、ぼくは走るのを止めた。
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翌早朝5時。2日連続の2日目。「宮古島100kmワイドーマラソン」のスタート会場は華やかなイルミネーションに彩られている。開会イベントを仕切るDJが弁舌なめらかにランナーを鼓舞する。五輪ランナーの有森裕子氏が芸能人はだしの達者な挨拶をする。昨日の「宮古島ウルトラ遠足」の和気あいあいとした会場風景とは別天地である。
定刻スタート。拡声器を積んだ先導車が先頭ランナーを誘導する。道路の要所には目映い投光機が配置されている。道沿いの体育館やグラウンドなど公共施設の照明が点灯されている。道に迷わないよう、あらゆる交差点にスタッフが配置されている。夜明け前ながらとても走りやすい。
つまり「宮古島ワイドー」は極めて管理レベルの高いマラソン大会であり、ランナーによる自己管理型の「宮古島ウルトラ遠足」と対象を成すのだ。本来あるべきマラソンレースの姿とは、どちらなのだろうか。大会の多くは地方自治体が主催している。そこでは事故は許されないし、一定以上の安全が担保されていなければならない。道路規制を行い、巨大なエイドが設けられ、Tシャツやらパンフやらお弁当やら前夜祭やらと、莫大な物資を消費する。税金を投入しているだけあり、次年度も大会が続くかどうかは経済効果で計られたりする。その状況にランナーたちは慣れ、もっと便利に、もっと豊かにとリクエストをする。本来、シューズとウエアと小銭さえあれば、どんな道でも遠くまで走っていけるのにね。
・・・いつになく真面目なことを考えながら走っていると、前にいるランナーが5人だけになっていた。1人が独走し、4人が横一列で走っている。彼らのナンバーカードは「1」「3」「5」。若い奇数ナンバーは昨年の男子優勝者、準優勝者らに与えられたものである。7時間30分でゴールできるトップレベルのランナーたちだ。そんなのについていってどうするんだ? しかし、またしても有頂天気分が舞い降りる。先頭集団にいることのエクスタシーが理性を狂わせる。ぼくは本当に愚かで、学習力に乏しい人間なのだ。
10キロを46分で通過。対岸にあるはずの来間島は闇の彼方に姿を見せない。来間大橋1690メートルを渡り、島内で折り返す。15キロ地点で6位、20キロは10位。キロ4分台の後半で進むが、順位を徐々に下げていく。むろん自らの実力をわきまえない自爆走だ。フルマラソンの自己ベストのペースより早いんである。
明らかなオーバーペースがたたり30キロでハンガーノックがやってきた。同時に体調が悪化していく。間断なく吐き気に襲われては、空ゲロを何度も吐く。腹がグルグルと鳴りはじめ、漏らしそうになる。漏れる、もう漏れる・・・という大波・小波が大腸に押し寄せては引く。暴発寸前の腹を抱え、尻の括約筋に神経とエネルギーを集中させながら走る。トイレを見つけるたびに飛び込み、便意を解放する。
30キロでこんな苦しくて、あと70キロも走れるだろうか。この苦しさが収まることなどあるのだろうか。後半もっと増していくのではないか。「市民ランナーはマラソンを楽しまなくっちゃ!」というごく一般的な命題が、呪いの言葉のようにコダマする。この苦しみを耐えきって100キロ完走できたら、後に残る大きな経験値になるんだろうか。
リタイアの誘惑に支配される。もし今、収容車がやってきて係員に「ゴールまで乗っていった方がいいですよ」と甘く誘惑されたら、即座ににじり寄りそうだ。
長さ1425メートルの海上橋・池間大橋を渡り、島をぐるっと一周する途中、小高い丘のうえに42.195キロ地点を表示する看板があった。通過タイムは3時間58分45秒、サブフォー達成だ。誰も見ていないことを確認し、ヤッター!と小さくバンザイをしてみる。ゲロ腹&ゲリ腹でも4時間切れるんだという点を高く自己評価し、満足感に包まれる。フルならここでゴールして、大の字になって寝ころんで、豚汁とかコカコーラとか好きなだけ飲んで休憩できるのにな、とさみしく思う。
50キロの通過は4時間49分。サブテン(10時間切り)は相当あやしい状況になってきた。すでにキロ6分ペースが守れていない。計算上はアウトである。
中間点に荷物受け取り大エイドがある。主催者から支給された大きな荷物袋の中には、エクレアを3個入れてある。地べたに腰をおろし、靴を脱ぎ、熱くなった足の裏を地面にべったり着けて冷やす。そのまま後方に寝ころがって、曇天の空と対峙しながら、エクレア3個を口につめこみ喉に流し込む。「足を冷やす」「寝ころぶ」「カロリー補給する」。すべての行動を同時に行い、時間短縮をはかる。この大エイドでの休憩は3分以内。それ以上休むと、二度と立ち上がれない気がするから。喉から胃までの食道が3個のエクレアでつながると、脚を大きく天に振り上げて反動で起き上がる。明るい兆しの見えない後半戦のはじまりだ。
フルマラソンで言う「30キロから押していく」粘りとはほど遠い、「あるがまま」を受け入れざるを得ない状態。今、出力できるエネルギーはこれ以上も以下もなく、走るスピードもただ繰り出す脚の運びにまかせるだけ。
55キロからは1人旅となった。前にも後ろにもランナーは見えない。メリハリのないゆるい登り坂と、だらだらした下り坂がエンドレスで繰り返される。さとうきび畑や牧草地のなかを、ギラギラ南洋の日に焼かれ、強い横風にあおられる。イソップ寓話の旅人のようである。あの話はどんな結末だったっけ。北風と太陽が旅人のコートを脱がせる勝負をして、太陽が勝ったって話だったよな。そこからどんな教訓が得られるんだっけ? 太陽を神と崇め、ありがたがる習性はラテン語文化圏だけじゃなくて世界共通だから、だから、それでどうした、うー。思考力が低下しているので、こんな無意味な自問自答をひたすら唱える。
100キロレースの後半・・・ぼくの場合70キロあたりから、理解可能な苦しさの範囲を通り越してしまい、何が何だかわからなくなる。肉体と外界の境界線があいまいになり、いま走っているという感覚がなくなる。地上から160センチあたりの位置を、ぼくの脳みそというか意識だけがふわふわと空中を浮遊しながら前進する。存在としては、人魂(ひとだま)みたいなもんである。
毎度こんな精神状態に投入すると、ウルトラマラソンは果たしてスポーツと呼ぶべきカテゴリーに属するのかどうか、検討が必要ではないかと思う。息を止めて水深数十メートルから百メートル以上も潜るフリーダイビングや、厳冬期の高山で岩壁登攀を行うアルパインクライミングを、「スポーツ」と称すれば腰の座りが悪いのと同様に、「ウルトラマラソンってスポーツですか?」と問われれば返答に迷う。
そこには極限の競技性がある。最も重要な局面では、生命を賭したり、肉体の大きな損傷も覚悟のうえで挑む。それってスポーツなんだろうか?
一方で、競技性とは正反対の、ただひたすら自分の内面を見つめる行為も伴う。宗教的には内観や瞑想という精神状態に似ている。一流のアスリートがある瞬間入る研ぎ澄まされたコンセントレーションの世界ではなく、脱力し、心拍数を落とした状態での意識の解脱。「今すぐ逃げ出したい」ほどの苦しい状態が6時間も7時間も続くと、意図せず自然入水してしまうスキゾイドの世界。これまたスポーツとは言い難い心象風景。
で、この度は・・・・・・60キロまでは肉体的苦痛に苛まれ、60キロからは人魂たる無心の境地にひたりながらゴールに近づいていった。今日もまた捕らえどころのないウルトラマラソンの世界に没した。前半も中盤も後半も自分をコントロールできず、心の整理のつかないままにゴール会場が迫ってきやがる。
11時間05分17秒。ゴールゲートの下で自分としては最もカッコイイと思われるガッツポーズを撮影用にキメる。やれやれ現世に到着だ。
あと何べん100キロレースをこなせば、あやふやなこの世界の中核にたどりつけるのだろうか。