徳島で雑誌をつくろう そのサン「雑誌を創刊しよう!」

公開日 2006年09月03日

文責=坂東良晃(タウトク編集人)

今回は15歳から25歳までの人に向けて書きます。

ぼくは雑誌をつくってメシを食っている。
これ以外に生きていく方法を知らないし、これしかできない。フリーターを何年間かやっていたので、いろいろな職業は経験したが、やっぱし雑誌をつくることしか自分にはできない。そもそも本をつくって食べていくことなど、できるとは思っていなかった。好きなことを好き勝手にやっているうちに職業になってしまった。
小さい頃から本と雑誌とマンガが大好きだった。友だちがプラモデルやテレビゲームに夢中になっているときに、本と雑誌とマンガばかり読んでいた。保育園に通っていたころから本屋の立ち読み常習犯であった。阿南市の富岡商店街にある、中富書店という本屋さんの前に居座り、新刊マンガが出るとすべて読みあさっていた。昔はコミックスにビニル封がされていなかったので、本屋さんは無料で遊べるパラダイスだった。1日に2時間も3時間も立ち読みし、足が疲れると店の前の道路に寝転がって立ち読み(寝読み)をしていた・・・らしい。
日が暮れかけると川向こうの製パン工場に勤める祖母が帰ってくる。祖母はパン工場から出たパンくずをビニル袋いっぱいにつめて、桑野川に架かった橋を渡って帰ってくる。「今日は何のパンが食べれるんかなぁ」と餓えた腹をさすりながら、長い待ち時間を本屋ですごした。本を買った記憶はない。中富書店の方は、よくぞそんなガキを許してくださっていたものである。本当にすみませんでした。今さらながら反省しています。

小学校5年生のとき雑誌のようなものを創刊した。ポルノ小説とポルノ漫画をふんだんに取り入れたポルノ雑誌である。表紙も目次も特集もある、雑誌の基本機能を備えた作品である。タイトルは「週刊エロトピア」だ。それを友だちに回して遊んでいた。貸本料として「当たりバー」という30円のアイスクリームをおごらせていた。次号を読みたいというリクエストにこたえ、何号か発行した。
担任の先生にその一部始終がばれて、「おまえの血には毒液が流れている」と扇情的なお叱りを受けた。独特の言い回しで自分のことを評価されて、ぼくはとても嬉しくなった。デビルマンみたいでカッコイイと有頂天になった。先生はぼくの雑誌をしかめっ面で読んでいたが、後半はニヤニヤしていた。ぼくに観察されていることに気づき、襟を正したが、「ロクでもないが、よくできている」という高い評価をしてくれた。ものわかりのいい先生だったってことだ。
モノを書いて金をもらうという習性は抜けず、中学生になってもポルノ小説を書きつづけた。とくに性的な興味が強かったわけではない。いろんなモノを書いてみたが、同級生が書いた純文学や冒険小説を読みたいという中学生は、どこにも存在しなかった。みんなが喜んで読んでくれるのはポルノ小説。50円ほどの購読料を払ってくれるのもポルノ小説である。読者が求めるものをつくれば読者は喜び、小遣いが増える。その原始体験である。

高校時代は、ラブレターの文面を考える仕事をした。モテない男子に声をかけては、かなわぬ恋に悩む彼の想いを聞き取り調査し、好きな女の子をいかにして彼に振り向かせるかという筋書きを考え、実行した。これは空想上の恋愛小説を書くよりも遥かにスリリングである。ぼくの企画と文章の向こうには生身の人間がいる。そして、恋愛感情という人間にとってもっとも大切な部分を動かせるかどうかという大チャレンジなわけである。自分の企画力と文章力が実戦で試されるのだ。REALな世界だ。ぼくの恋愛企画は勝率3割3分くらいの結果をたたき出したが、それが優秀な数字かイマイチな結果なのかは今でもわからない。

高校を卒業して働き始めた出版社で、ぼくはプロフェッショナル中のプロフェッショナルと言える編集者に出会うことができた。それは本当に幸せなことだっだ。この話は長くなりそうなので、また今度しよう。



ある情報を大量に他の人に伝える媒体(メディア)として、雑誌はとてもおもしろい。
おもしろい理由はいろいろある。ぼくがいちばん気に入っているのは、創業するときに目ン玉飛び出すほどのお金はかからないという点だ。といっても数百万円は必要だけど、20坪くらいの服屋さんや雑貨屋さんやカフェなどのお店を出すことを考えると、同じくらいの金銭的リスクで雑誌は創刊できる。大金がかかるなら、いたずらに他人におすすめしてはいけないと思うが、「なんかおもっしょい店やらん?」くらいのノリでは、おすすめできる。もちろん失敗したら数百万円は失くなるけど。でも、それだってお店やるのと同じ。

いわゆるメディア業と呼ばれる産業のなかで、このような格安の資金でスタートできるのはインターネット以外には雑誌しか見当たらない。たとえば新聞を作ろうとしたら、新聞輪転機という化け物級の印刷機が必要である。自前で購入すれば億の1ケタ単位ではすまない。報道記事を書ける優秀な記者を集めるためには、1年間で人数×1千万円程度の人件費を払えるメドを立てなければならない。大量の用紙の仕入先を確保し、朝3時から配達をしてくれる販売網を築き、収入源である広告代理店網を確立する。壮絶だ。
テレビやラジオの放送局ならさらに巨大な資本が必要である。放送設備をゼロから整えようとするなら、田畑山林をいくら担保に入れても足りない。 それ以前に「放送法」の制限により、新たに地上波放送局を作るなんてことはほぼムリに等しい。

一方で雑誌は、自前で設備をもつ必要がほとんどない。印刷機は外部の印刷所のものを使えばいいし、製本機は製本所に立派なのがある。料金を払って貸してもらえばいい。編集部内にも高額な機械類は必要がない。最低限そろえたいのは、パソコン、カメラ、電話、プリンタ、コピー機であるが、そこそこ動くものであれば問題ない。撮影機材なんか高いんじゃないの?と思われるかも知れないが、大衆雑誌を印刷する場合、3万円クラスのデジカメで撮った写真と、20万円クラスの一眼レフカメラで、印刷面のクオリティに大きな差がでるわけではない。
美術書や企業パンフレットを作るのではなく、一般向けの大衆雑誌なら最低限の撮影機材でよいのである。だからお金はかからない。それでも、創刊から数回分の印刷・製本代金と人件費と設備費あわせて800万円くらい用意しておくに越したことはない。

「コスト安のメディアだから」という理由ならば、そんなに自己資金が必要な雑誌じゃなくて、インターネット上にサイトを開き、そこにコンテンツを展開すればいいんじゃないか?という考え方もある。ぼくもそう思う。より金がかからずに、より表現の制限がない方が、大衆メディアとしては本筋だ。アイデアしだいでインターネットは、強力な大衆メディアに、商業メディアに、民主主義メディアになる。改めて説明の必要もないほどに、すでになっている。
それでもぼくはインターネット上で何かを企てていこうという気にならない。
速報性があり、低コストで運営でき、言論自由なインターネットの世界を選択せず、雑誌をつくって生きている理由は、要するに好きだから、という以外にないことに行き当たってしまう。雑誌というメディアの優位性を論拠だてようとしても、いずれも論が弱い。最終的には儲けようが儲けまいが、誉められようが貶されようが、けっきょく雑誌を作ること以外にやりたいことがないから雑誌をつくっている、としか言えない。

雑誌は意外に簡単に作れる。ぼくはそのことを若いみんなに伝えて、できるだけたくさんの人にこの世界に入ってきてもらえないかと思っている。これから、ぼくなりの雑誌のつくり方についてボチボチ書いていこうと思う。一般教書にあるマニュアルではなくて、アナーキーでよりリアルな方法論だ。
みんなが雑誌をつくりはじめると、商売ガタキをたくさん生んでしまい、ぼくたちのカイシャが潰れてしまったり、自分が職を失くしてしまうかもしれない。それでもぼくはみんなに「雑誌を作ろうぜ!」と言いたい。深い理由はない。「おもしろいのでやろうぜ!」だ。