公開日 2007年02月25日
「若さゆえの無謀」というコトバの陳腐さ。
大人になれば落ち着かなきゃいけないなんて、
みな信じこまされている。そんなのダマシだ。
ハゲチャビンのおっちゃんになっても、
語る夢がある大人はみな無謀なのだ。
文=坂東良晃(タウトク編集人)
その男に出会ったのは1987年、アフリカのナイロビという街だ。
ナイロビのダウンタウンに「リバーハウス」という伝説の宿がある。
3階建ての古いアパートメントの一角が、貧乏旅行者に開放されている。2階には広い中庭があり、さんさんと太陽光がふりそそいでいる。その周囲をとりまくように部屋が並んでいる。
そこでは、ごく普通に地元のケニア人が日常生活を営んでいる。会社に出勤する人もいれば、日雇いの仕事を探している兄ちゃんもいる。とはいえ、真っ昼間からヤーマーという幻覚効果のある葉っぱをくちゃくちゃと噛み、恍惚の表情をたれ流しながら口を真っ赤にしてる住人も多く、平均すれば普通ではないのかもしれない。
大人になれば落ち着かなきゃいけないなんて、
みな信じこまされている。そんなのダマシだ。
ハゲチャビンのおっちゃんになっても、
語る夢がある大人はみな無謀なのだ。
文=坂東良晃(タウトク編集人)
その男に出会ったのは1987年、アフリカのナイロビという街だ。
ナイロビのダウンタウンに「リバーハウス」という伝説の宿がある。
3階建ての古いアパートメントの一角が、貧乏旅行者に開放されている。2階には広い中庭があり、さんさんと太陽光がふりそそいでいる。その周囲をとりまくように部屋が並んでいる。
そこでは、ごく普通に地元のケニア人が日常生活を営んでいる。会社に出勤する人もいれば、日雇いの仕事を探している兄ちゃんもいる。とはいえ、真っ昼間からヤーマーという幻覚効果のある葉っぱをくちゃくちゃと噛み、恍惚の表情をたれ流しながら口を真っ赤にしてる住人も多く、平均すれば普通ではないのかもしれない。
夜な夜な地元のディスコに男を釣りに出かける娼婦たちも、何部屋かを借りている。
彼女たちの多くは、ナイロビ生まれではなく北部の寒村出身である。稼ぎがよいのかどうかは知らないが、美人は1人で部屋を借りているし、娼婦としてはどうなんだろ?というクラスの女性は3人くらいでルームシェアをしている。
旅人と、下町のオッチャン・オバチャンと、出稼ぎ娼婦が共同生活する不思議な空間。天気のいい日には、クリーニング屋を営むオバチャンがシーツの洗濯をはじめる。中庭いっぱいに何重にも干されたカラフルなシーツが風にそよぐ。その傍らで、ぼくは惰眠をむさぼっている。
ぼくにはやることがなくなっていた。
ぼくはそのとき二十歳で、十代の頃からはじめたひとつの大きな旅を終えていた。アフリカ大陸をインド洋岸から大西洋岸まで歩いて旅をした。6千キロを歩くのに1年かかった。
地図のない密林地帯や、涸れはてた砂と岩だけのサバンナ。厳しい旅であったが、身体の順応は早かった。餓えも、マラリアも、ボウウラの浮いた飲み水も、すぐに身体にしみついてしまった。自分の内面への旅のはずが、酔狂なピクニックになってしまった。大きな徒労感と怠惰が全身をおそっていた。
これから先、いったい何をすればいい?
そんなときである。男が宿にあらわれたのは。
一目見たときから、男はタダモノではない気配を全身から発していた。眼光はヘビのように鋭いが、正面から見れば澄み切っている。四肢の筋肉はシャープな彫物をつくり、研ぎ澄まされたアスリートのようである。ヤクザではあるまいが、身体のあちこちに古傷、生傷がある。
彼には貧乏旅行者がまとっている「ダルさ」がない。
旅人たちは、何かを探しにアフリカの辺境にやってきていた。ある者は貧しいスラムの街に、ある者は未踏のジャングルへと、地図のない場所を求め自分さがしをする。壮大なるモラトリアムである。1年、2年とつづく旅。地平線を何本越えようとも、その彼方に求めるものはないことを旅人は知り、都会へと帰る。あるいは、見つからない回答を探しつづけ、漂流人となる。自分と現実の境界線を見失い、狂う。
しかし、この男には「迷い」がまるでないのである。
男は名前を聞かれると、「オレは革命児だ」と名乗る。
他人にアドレス交換を求められると、住所の下に巨大な文字で「革命児」とだけサインをする。それでも郵便物は届くらしい。ヘンである。しかしこの果ての地で、自分を革命児だと名乗るような輩は、珍しいとは言えない。
要するに、少しオカシイのだろうと想像する。そもそも、いつ後ろから刺されるかも知れないナイロビのダウンタウンに、まともな人間がやってくるはずがない。
だが、革命児はきわめてマトモな人物であった。革命児は二十三歳という若さに似つかわしくないほど、人間愛にあふれている。困っている人がいると、相手が誰であろうとトコトン世話を焼く。
ある日、革命児と話をしていると、外から叫び声がする。ケンカか、と思った瞬間、革命児は疾風のごとく外に飛びだしていく。ここは物騒な下町である。ケンカといっても殴り合いじゃすまない。平気でナイフくらいは登場する。集団リンチ、ゴミタメの中で流血、失禁する敗者、そんな風景が日常茶飯だ。ところが、革命児は見ず知らずの地元のあんちゃんのケンカを止めに入る。革命児は、他人の事情を優先する。自分の身を守らない。
革命児が語る物語はファンタジーにあふれていた。彼が身体に負ったいくつもの傷は、ジンバブエの外人傭兵部隊に入隊したときについたものだ。
「軍隊に入ったらさあ、最初の日に人の殺し方を教えられるんだ。細い針金を相手の後ろから首に回し、ぐいっと背中でかつくだけでいいなんてね」
アラーの思想に共感する彼は、どうしてもメッカに巡礼したいと考えていた。彼の父親は日本人としては数人しかいないメッカ巡礼をはたした敬虔なイスラム教徒だという。
メッカに入るためには、サウジアラビアに入国しなければならない。ところが日本人である革命児には、なかなか入国許可がおりない。彼は、ソマリアにあるサウジ大使館の前で数週間の座り込みをし、日照りと風雨のなかで、暗唱したコーランを滔々と吟じた。大使館員はついに折れ、革命児を認めた。アラビア半島を徒歩で横断し、彼は聖地メッカへの旅を実行した。
銃撃を受けたこともある。
社会主義革命を成功させたアフリカ北部の国家・リビア。革命児はカダフィ大佐が作った革命国家を自分の目で見ようとした。当時、旅行者がリビアに入ることは不可能であった。革命児は、砂漠には国境がないと考え、何もないないはずのそこから潜入を試みた。巨大なポリタンクに飲料水を蓄え、ひたすら歩く。しかし、砂漠を行けども行けども鉄条網が張り巡らせれており、国境警備兵がいる。やがて水は涸れ生命のピンチ。強行突破を決意した革命児の足元に、兵士はマシンガンを撃ちこんだ。
子供の頃にワクワクして読んだ冒険小説のような話を、革命児はいきいきと語る。
なぜ彼は、自分を「革命児」と称するのか。
「オレはアフリカに革命を起こすんだ。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)をぶっつぶすんだ。サベツのない世界に変えてみせる。そのためにオレは生まれてきたのだ」
傭兵としてのトレーニングも、イスラムの奉仕の思想も、世界を知る無謀な旅も、すべてはその準備のため。
ぼくは、この言葉を半分信じ、半分疑った。純粋な若者の、理想論だと思った。
彼ほどの行動力があれば、いずれ必ず南アフリカに入るだろう。そこで抵抗運動をする人々と合流して、珍しい黄色人種の人権活動家として注目を浴びるだろう。でもそれは、若さゆえの熱さ、守るもののない若者だからできる無謀なチャレンジだと、ぼくは思った。
そう。革命児だって、ぼくと同じようなものだ・・・。彼なりの自分さがしをしてるのだ。
そんな彼への評価が大間違いであったことがわかった。革命児は本気だったのだ。彼の民衆革命への志は、いまだに途絶えていなかった。
一冊の本が出版された。
「我が志アフリカにあり」朝日新聞社刊。
革命児・島岡強の半生をつづった痛快なノンフィクションである。著者である島岡由美子さんは、ぼくが出合った当時から革命児と旅をともにしていた。顔立ちは、周囲が振り返るほどのものすごい美人。しかも、活発な女性ツーリストとは対極の良家の子女タイプ。上品な物腰も、おっとりとした口調も、日曜に銀座のデパートにお出かけするような感じの洋服も、下町のボロ宿のなかで恐ろしく違和感のある女性であった。
ケンカの仲裁に飛び出していく革命児を呆然と見送りながら、「いつものことだから、あの人はそういう人だから」と不安そうに微笑んでいた。
その島岡由美子さんが書き綴った革命児の人生は、鮮烈このうえない。
タンザニアのザンジバルという島に腰をすえた革命児は、草っぱらに柔道場を開き、たくさんの若者を指導した。そして、世界選手権に出場する選手を育てるまでに至った。一方で漁業や運送業を興し、地元の職のない若者たちの働き口を作り、支援をつづけている。自分以外の誰かのために生きる、その無垢な姿勢は微塵も揺るがない。18年の時が過ぎても、革命児は昔のままの革命児なのだ。
「島岡強」でインターネット検索すれば、現在の彼の姿も見える。かつての研ぎ澄まされた虎のような顔は、柔和な大人の顔になっているが、荒々しいガキ大将ぶりは健在である。いくつになってもどこまでも戦い続けている革命児。負けちゃいられないと思う。
そんな革命児のドキュメンタリーが、「スマステ」でも放映された。突然すぎて見逃した、チクショー。誰か録画してない?
彼女たちの多くは、ナイロビ生まれではなく北部の寒村出身である。稼ぎがよいのかどうかは知らないが、美人は1人で部屋を借りているし、娼婦としてはどうなんだろ?というクラスの女性は3人くらいでルームシェアをしている。
旅人と、下町のオッチャン・オバチャンと、出稼ぎ娼婦が共同生活する不思議な空間。天気のいい日には、クリーニング屋を営むオバチャンがシーツの洗濯をはじめる。中庭いっぱいに何重にも干されたカラフルなシーツが風にそよぐ。その傍らで、ぼくは惰眠をむさぼっている。
ぼくにはやることがなくなっていた。
ぼくはそのとき二十歳で、十代の頃からはじめたひとつの大きな旅を終えていた。アフリカ大陸をインド洋岸から大西洋岸まで歩いて旅をした。6千キロを歩くのに1年かかった。
地図のない密林地帯や、涸れはてた砂と岩だけのサバンナ。厳しい旅であったが、身体の順応は早かった。餓えも、マラリアも、ボウウラの浮いた飲み水も、すぐに身体にしみついてしまった。自分の内面への旅のはずが、酔狂なピクニックになってしまった。大きな徒労感と怠惰が全身をおそっていた。
これから先、いったい何をすればいい?
そんなときである。男が宿にあらわれたのは。
一目見たときから、男はタダモノではない気配を全身から発していた。眼光はヘビのように鋭いが、正面から見れば澄み切っている。四肢の筋肉はシャープな彫物をつくり、研ぎ澄まされたアスリートのようである。ヤクザではあるまいが、身体のあちこちに古傷、生傷がある。
彼には貧乏旅行者がまとっている「ダルさ」がない。
旅人たちは、何かを探しにアフリカの辺境にやってきていた。ある者は貧しいスラムの街に、ある者は未踏のジャングルへと、地図のない場所を求め自分さがしをする。壮大なるモラトリアムである。1年、2年とつづく旅。地平線を何本越えようとも、その彼方に求めるものはないことを旅人は知り、都会へと帰る。あるいは、見つからない回答を探しつづけ、漂流人となる。自分と現実の境界線を見失い、狂う。
しかし、この男には「迷い」がまるでないのである。
男は名前を聞かれると、「オレは革命児だ」と名乗る。
他人にアドレス交換を求められると、住所の下に巨大な文字で「革命児」とだけサインをする。それでも郵便物は届くらしい。ヘンである。しかしこの果ての地で、自分を革命児だと名乗るような輩は、珍しいとは言えない。
要するに、少しオカシイのだろうと想像する。そもそも、いつ後ろから刺されるかも知れないナイロビのダウンタウンに、まともな人間がやってくるはずがない。
だが、革命児はきわめてマトモな人物であった。革命児は二十三歳という若さに似つかわしくないほど、人間愛にあふれている。困っている人がいると、相手が誰であろうとトコトン世話を焼く。
ある日、革命児と話をしていると、外から叫び声がする。ケンカか、と思った瞬間、革命児は疾風のごとく外に飛びだしていく。ここは物騒な下町である。ケンカといっても殴り合いじゃすまない。平気でナイフくらいは登場する。集団リンチ、ゴミタメの中で流血、失禁する敗者、そんな風景が日常茶飯だ。ところが、革命児は見ず知らずの地元のあんちゃんのケンカを止めに入る。革命児は、他人の事情を優先する。自分の身を守らない。
革命児が語る物語はファンタジーにあふれていた。彼が身体に負ったいくつもの傷は、ジンバブエの外人傭兵部隊に入隊したときについたものだ。
「軍隊に入ったらさあ、最初の日に人の殺し方を教えられるんだ。細い針金を相手の後ろから首に回し、ぐいっと背中でかつくだけでいいなんてね」
アラーの思想に共感する彼は、どうしてもメッカに巡礼したいと考えていた。彼の父親は日本人としては数人しかいないメッカ巡礼をはたした敬虔なイスラム教徒だという。
メッカに入るためには、サウジアラビアに入国しなければならない。ところが日本人である革命児には、なかなか入国許可がおりない。彼は、ソマリアにあるサウジ大使館の前で数週間の座り込みをし、日照りと風雨のなかで、暗唱したコーランを滔々と吟じた。大使館員はついに折れ、革命児を認めた。アラビア半島を徒歩で横断し、彼は聖地メッカへの旅を実行した。
銃撃を受けたこともある。
社会主義革命を成功させたアフリカ北部の国家・リビア。革命児はカダフィ大佐が作った革命国家を自分の目で見ようとした。当時、旅行者がリビアに入ることは不可能であった。革命児は、砂漠には国境がないと考え、何もないないはずのそこから潜入を試みた。巨大なポリタンクに飲料水を蓄え、ひたすら歩く。しかし、砂漠を行けども行けども鉄条網が張り巡らせれており、国境警備兵がいる。やがて水は涸れ生命のピンチ。強行突破を決意した革命児の足元に、兵士はマシンガンを撃ちこんだ。
子供の頃にワクワクして読んだ冒険小説のような話を、革命児はいきいきと語る。
なぜ彼は、自分を「革命児」と称するのか。
「オレはアフリカに革命を起こすんだ。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)をぶっつぶすんだ。サベツのない世界に変えてみせる。そのためにオレは生まれてきたのだ」
傭兵としてのトレーニングも、イスラムの奉仕の思想も、世界を知る無謀な旅も、すべてはその準備のため。
ぼくは、この言葉を半分信じ、半分疑った。純粋な若者の、理想論だと思った。
彼ほどの行動力があれば、いずれ必ず南アフリカに入るだろう。そこで抵抗運動をする人々と合流して、珍しい黄色人種の人権活動家として注目を浴びるだろう。でもそれは、若さゆえの熱さ、守るもののない若者だからできる無謀なチャレンジだと、ぼくは思った。
そう。革命児だって、ぼくと同じようなものだ・・・。彼なりの自分さがしをしてるのだ。
そんな彼への評価が大間違いであったことがわかった。革命児は本気だったのだ。彼の民衆革命への志は、いまだに途絶えていなかった。
一冊の本が出版された。
「我が志アフリカにあり」朝日新聞社刊。
革命児・島岡強の半生をつづった痛快なノンフィクションである。著者である島岡由美子さんは、ぼくが出合った当時から革命児と旅をともにしていた。顔立ちは、周囲が振り返るほどのものすごい美人。しかも、活発な女性ツーリストとは対極の良家の子女タイプ。上品な物腰も、おっとりとした口調も、日曜に銀座のデパートにお出かけするような感じの洋服も、下町のボロ宿のなかで恐ろしく違和感のある女性であった。
ケンカの仲裁に飛び出していく革命児を呆然と見送りながら、「いつものことだから、あの人はそういう人だから」と不安そうに微笑んでいた。
その島岡由美子さんが書き綴った革命児の人生は、鮮烈このうえない。
タンザニアのザンジバルという島に腰をすえた革命児は、草っぱらに柔道場を開き、たくさんの若者を指導した。そして、世界選手権に出場する選手を育てるまでに至った。一方で漁業や運送業を興し、地元の職のない若者たちの働き口を作り、支援をつづけている。自分以外の誰かのために生きる、その無垢な姿勢は微塵も揺るがない。18年の時が過ぎても、革命児は昔のままの革命児なのだ。
「島岡強」でインターネット検索すれば、現在の彼の姿も見える。かつての研ぎ澄まされた虎のような顔は、柔和な大人の顔になっているが、荒々しいガキ大将ぶりは健在である。いくつになってもどこまでも戦い続けている革命児。負けちゃいられないと思う。
そんな革命児のドキュメンタリーが、「スマステ」でも放映された。突然すぎて見逃した、チクショー。誰か録画してない?