公開日 2008年08月28日
文=坂東良晃(タウトク編集人)
マラソン話のつづきです。
レース会場に行くと、いろんな人がいる。それこそオリンピック代表候補や県の記録を持っているトップアスリート級から、デップリとおなかが突き出たメタボ解消目的おじさん、ダイナマイト級のおしりをゆっさゆっさ揺らすビギナーおねえさん、仲間内で嬌声をあげるパワフルおばさん軍団まで多種多彩である。
マラソン話のつづきです。
レース会場に行くと、いろんな人がいる。それこそオリンピック代表候補や県の記録を持っているトップアスリート級から、デップリとおなかが突き出たメタボ解消目的おじさん、ダイナマイト級のおしりをゆっさゆっさ揺らすビギナーおねえさん、仲間内で嬌声をあげるパワフルおばさん軍団まで多種多彩である。
そして喜寿、米寿をまぢかにした人生の大先輩方も颯爽とジャージを脱ぎ捨てランニングショーツ姿になる。市民マラソン大会のおもしろさは、こういったさまざまなレベルの人たちが、それこそ何の制約もなく、自分自身でスタートの位置取りをし、号砲一発、平等にレースを競うところだ。
レース会場では、1万メートルを30分で走る猛者も、1時間30分かけて走りきるファンランナーも、同じ扱いを受ける。受付で大会記念Tシャツや弁当の引換券や入浴券を受け取る。ぬかるんだグラウンドの土の上で、シャツにゼッケンをピン止めし、少ししかない公民館のトイレや、アンモニア臭で涙が出そうな仮説トイレに長い行列を作って待つ。スタート時間の15分前にはぞろぞろと所定の位置につく。レースが開始されると、実力どおりの順番にきれいに並ぶ。実力以上のタイムは出せないし、痙攣や脱水にならない限り実力どおりのタイムが出る。レース後には主催者が用意してくれたお弁当を地ベタに座って食べ、地元の特産品セットなどをもらって帰る。
何千人も参加するマンモス大会なら、持ちタイムでスタート位置を決められることもあるし、陸連加盟ランナーが最前列へと優遇されることもあるが、そのルールも極めておおらかだ。
こんな風に年齢も性別も実力も関係なく、同じステージで競い合えるスポーツってあるんだろうか? めったにないんじゃないかと思う。喜寿・米寿クラスの先輩方も、競技のOBとして参加しているのではなく、バリバリの現役ランナーとして参戦しているのだから。
スタート位置に着くと、ぼくは必ずやることがある。「脚を見る」のである。そこには数百本、数千本のきれいな脚がある。正確に述べると、スタートラインに近い所に並ぶトップランナーほど、美しい脚をしている。そして徐々に後列に下がるほど、その脚の形は「いまいち」になっていく。ランナーたちは自分の実力にあわせて集団の中で位置取りする謙虚さを持ちあわせているのだ。
たとえばハーフマラソンの大会なら、持ちタイム1時間20分の脚と、1時間50分の脚には、大きな外見的差異が見られる。21.0975キロを1時間20分で走る人の脚は、間違いなく美しく、研ぎ澄まされている。新鮮な鶏のササミのような、健康的なピンク色をした筋繊維がつまっていることを想像させるフトモモ。その下にすらっと伸びる下肢にはムダな肉がいっさいついていない。フクラハギにはキレのある筋肉がこんもりと装備されており、折れそうなくらい細い足首との間を、密度が高そうな堅い腱がつないでいる。草原を腱の力だけで高速で走る草食動物のようなキレイなアキレス腱だ。これらは重量物で負荷をかけて筋繊維を破壊しながら太くする筋トレでは絶対作れないフォルムである。長い長い距離を、来る日も来る日も走り込んだ人だけが持つ、栄光のシルエットである。
これが持ちタイム1時間50分のレベル(つまりぼくの実力)になると、脚の形がバラバラになってくる。ガリガリに痩せた脚もあれば、ボディビルダーのような巨大な筋肉の塊をフルラハギにぶら下げている人もいる。彼らの総合的な運動能力は推して知るべくもないが、やはりマラソンランナーとしてはまだまだ突き詰めてトレーニングできる余地を残しているってことなんだろう。
そんな中で、見惚れてしまうのが60代後半からのベテランランナーたちの脚なのである。上半身だけ見れば、いくぶん肉が落ちすぎていたり、あるいはダブついていたり、また皮のたるみが目立ちはじめていたとしても、鍛え込まれた脚は輝きを失わない。
どれほどの距離をコツコツと走り続ければ、このようなスマートで無駄のない脚をモノにすることができるのか。その物言わぬ努力の様に、無条件に尊敬の念を抱く。黄金の脚をいまだ装着していないぼくには憧れの的なのである。さらには、余分な脂肪やら筋肉やらを削ぎ落としきれていない自分の脚と見比べてみて、「負けた」という劣等感を抱かせる。そして実際レースを走ってみてたら、やっぱし順位でも負かされる。
脚だけではない。鍛えられた熟年ランナーは背中が違う。背中には肉厚の筋肉がこんもりと盛り上がっている。筋肉をつけるのが最も難しいとされる広背筋が、ごく自然と鍛えられている。何万回と繰り返された腕振りの成果なのだろう。身体の背面が強い人は前傾姿勢で走り続けられるから、ランナーとしても強い。そしてふだんの立ち姿や歩く様も前傾を崩さない。その姿勢がまたイカしている。
「お年寄りを大事にしよう」という標語がある。だが実際のところ、人は自分がまだ若いって思っているうちは、お年寄りに憧れたりはしない。できるだけ若さをキープしたいと日々願っているし、女性なら実年齢より上に見られることを極度に恐れる。時には、お年寄りの古くて堅すぎる考え方を軽蔑し、うとましく感じたりもする。ぼくもそうである。モーガン・フリーマンやアート・ブレイキーを見て「あんな風に歳をとりたい」と思う瞬間があっても、それは単なる憧憬であり、自分の姿にオーバーラップさせたものではない。だが70代ランナーたちとマラソンレースという同じ土俵で勝負をし、彼らの強さを直接肌で感じると、「こういう風に歳とらなくちゃな」とシンプルに思う。
レースの前後や、走っている最中に、彼らと話をすることがある。話しかけたり、話しかけられたりする。彼らは例外なく明るく、(苦しさを克服することも含めて)レースを楽しんでおり、そして現状より1歩前に進むことを考えている。それがレースの前半なら、後半に調子を上げていく方法を模索している。それが10月の10kmレースなら、11月の10kmレースでより好タイムを叩き出すことを願っている。それが2008年の大会なら、2009年により満足のいく走りをすることを誓う。
そうやって現時点の自分よりも、あと少し物事をより良くするためにはどうすればいいか、といつも考えるのだ。そのために練習をし、参加申込み用紙にプロフィールを記入し、何千円かのお金を振り込んで、試合会場に出かける。失敗しても成功しても、素直に結果を受け入れ、反省をし、ビールを飲み、風呂につかったら、またトレーニングをはじめる。
この人たちは、言いわけってものをしないんだろうな、と思う。何かうまくいかないことを、世の中のせいにしたり、自分が所属する集団のせいにしない。できないのは自分が悪く、できたなら自分をほめてやる。それだけのことなのだ。
自分もそう遠くないうちに老後を迎える。そのときにどんな人間でありたいか。そんな疑問に、黄金の脚を持つ彼らがはっきりと答えを見せてくれる。
綿々としがみつく何かを持たない。現役時代に気に病んだ組織内の立場であったり、社会のなかで形成された対人的人格であったり。あるいは、いずれその所有権をめぐって家族が争うかもしれない預貯金や不動産であったり。自分というアイデンティティを支えるそれら外部的要因に、人生の晩年で執着するのは、いまひとつカッコ悪い。
熟年ランナーたちの背中と脚が指し示してくれるのは、自分の考え方ひとつ、カラダひとつで何かと渡り合い、あきらめず、突き詰め、楽しくやっていく生き方があるってことだ。
たまたまマラソンの話になっているから、たまたまランナーの話になっている。だけど、どの世界にも人知れずコツコツと努力をし、節制をしながら一歩前にを実践している人たちはいる。誰に頼ることなく、自分の腕一本で何かと向かい合っている人がいる。人生の晩年はそうでいたい、そうでなくちゃいけない。いや、今からでもそうありたい。「カッコいい」に年寄りも中年も若者もないはずだしな。
レース会場では、1万メートルを30分で走る猛者も、1時間30分かけて走りきるファンランナーも、同じ扱いを受ける。受付で大会記念Tシャツや弁当の引換券や入浴券を受け取る。ぬかるんだグラウンドの土の上で、シャツにゼッケンをピン止めし、少ししかない公民館のトイレや、アンモニア臭で涙が出そうな仮説トイレに長い行列を作って待つ。スタート時間の15分前にはぞろぞろと所定の位置につく。レースが開始されると、実力どおりの順番にきれいに並ぶ。実力以上のタイムは出せないし、痙攣や脱水にならない限り実力どおりのタイムが出る。レース後には主催者が用意してくれたお弁当を地ベタに座って食べ、地元の特産品セットなどをもらって帰る。
何千人も参加するマンモス大会なら、持ちタイムでスタート位置を決められることもあるし、陸連加盟ランナーが最前列へと優遇されることもあるが、そのルールも極めておおらかだ。
こんな風に年齢も性別も実力も関係なく、同じステージで競い合えるスポーツってあるんだろうか? めったにないんじゃないかと思う。喜寿・米寿クラスの先輩方も、競技のOBとして参加しているのではなく、バリバリの現役ランナーとして参戦しているのだから。
スタート位置に着くと、ぼくは必ずやることがある。「脚を見る」のである。そこには数百本、数千本のきれいな脚がある。正確に述べると、スタートラインに近い所に並ぶトップランナーほど、美しい脚をしている。そして徐々に後列に下がるほど、その脚の形は「いまいち」になっていく。ランナーたちは自分の実力にあわせて集団の中で位置取りする謙虚さを持ちあわせているのだ。
たとえばハーフマラソンの大会なら、持ちタイム1時間20分の脚と、1時間50分の脚には、大きな外見的差異が見られる。21.0975キロを1時間20分で走る人の脚は、間違いなく美しく、研ぎ澄まされている。新鮮な鶏のササミのような、健康的なピンク色をした筋繊維がつまっていることを想像させるフトモモ。その下にすらっと伸びる下肢にはムダな肉がいっさいついていない。フクラハギにはキレのある筋肉がこんもりと装備されており、折れそうなくらい細い足首との間を、密度が高そうな堅い腱がつないでいる。草原を腱の力だけで高速で走る草食動物のようなキレイなアキレス腱だ。これらは重量物で負荷をかけて筋繊維を破壊しながら太くする筋トレでは絶対作れないフォルムである。長い長い距離を、来る日も来る日も走り込んだ人だけが持つ、栄光のシルエットである。
これが持ちタイム1時間50分のレベル(つまりぼくの実力)になると、脚の形がバラバラになってくる。ガリガリに痩せた脚もあれば、ボディビルダーのような巨大な筋肉の塊をフルラハギにぶら下げている人もいる。彼らの総合的な運動能力は推して知るべくもないが、やはりマラソンランナーとしてはまだまだ突き詰めてトレーニングできる余地を残しているってことなんだろう。
そんな中で、見惚れてしまうのが60代後半からのベテランランナーたちの脚なのである。上半身だけ見れば、いくぶん肉が落ちすぎていたり、あるいはダブついていたり、また皮のたるみが目立ちはじめていたとしても、鍛え込まれた脚は輝きを失わない。
どれほどの距離をコツコツと走り続ければ、このようなスマートで無駄のない脚をモノにすることができるのか。その物言わぬ努力の様に、無条件に尊敬の念を抱く。黄金の脚をいまだ装着していないぼくには憧れの的なのである。さらには、余分な脂肪やら筋肉やらを削ぎ落としきれていない自分の脚と見比べてみて、「負けた」という劣等感を抱かせる。そして実際レースを走ってみてたら、やっぱし順位でも負かされる。
脚だけではない。鍛えられた熟年ランナーは背中が違う。背中には肉厚の筋肉がこんもりと盛り上がっている。筋肉をつけるのが最も難しいとされる広背筋が、ごく自然と鍛えられている。何万回と繰り返された腕振りの成果なのだろう。身体の背面が強い人は前傾姿勢で走り続けられるから、ランナーとしても強い。そしてふだんの立ち姿や歩く様も前傾を崩さない。その姿勢がまたイカしている。
「お年寄りを大事にしよう」という標語がある。だが実際のところ、人は自分がまだ若いって思っているうちは、お年寄りに憧れたりはしない。できるだけ若さをキープしたいと日々願っているし、女性なら実年齢より上に見られることを極度に恐れる。時には、お年寄りの古くて堅すぎる考え方を軽蔑し、うとましく感じたりもする。ぼくもそうである。モーガン・フリーマンやアート・ブレイキーを見て「あんな風に歳をとりたい」と思う瞬間があっても、それは単なる憧憬であり、自分の姿にオーバーラップさせたものではない。だが70代ランナーたちとマラソンレースという同じ土俵で勝負をし、彼らの強さを直接肌で感じると、「こういう風に歳とらなくちゃな」とシンプルに思う。
レースの前後や、走っている最中に、彼らと話をすることがある。話しかけたり、話しかけられたりする。彼らは例外なく明るく、(苦しさを克服することも含めて)レースを楽しんでおり、そして現状より1歩前に進むことを考えている。それがレースの前半なら、後半に調子を上げていく方法を模索している。それが10月の10kmレースなら、11月の10kmレースでより好タイムを叩き出すことを願っている。それが2008年の大会なら、2009年により満足のいく走りをすることを誓う。
そうやって現時点の自分よりも、あと少し物事をより良くするためにはどうすればいいか、といつも考えるのだ。そのために練習をし、参加申込み用紙にプロフィールを記入し、何千円かのお金を振り込んで、試合会場に出かける。失敗しても成功しても、素直に結果を受け入れ、反省をし、ビールを飲み、風呂につかったら、またトレーニングをはじめる。
この人たちは、言いわけってものをしないんだろうな、と思う。何かうまくいかないことを、世の中のせいにしたり、自分が所属する集団のせいにしない。できないのは自分が悪く、できたなら自分をほめてやる。それだけのことなのだ。
自分もそう遠くないうちに老後を迎える。そのときにどんな人間でありたいか。そんな疑問に、黄金の脚を持つ彼らがはっきりと答えを見せてくれる。
綿々としがみつく何かを持たない。現役時代に気に病んだ組織内の立場であったり、社会のなかで形成された対人的人格であったり。あるいは、いずれその所有権をめぐって家族が争うかもしれない預貯金や不動産であったり。自分というアイデンティティを支えるそれら外部的要因に、人生の晩年で執着するのは、いまひとつカッコ悪い。
熟年ランナーたちの背中と脚が指し示してくれるのは、自分の考え方ひとつ、カラダひとつで何かと渡り合い、あきらめず、突き詰め、楽しくやっていく生き方があるってことだ。
たまたまマラソンの話になっているから、たまたまランナーの話になっている。だけど、どの世界にも人知れずコツコツと努力をし、節制をしながら一歩前にを実践している人たちはいる。誰に頼ることなく、自分の腕一本で何かと向かい合っている人がいる。人生の晩年はそうでいたい、そうでなくちゃいけない。いや、今からでもそうありたい。「カッコいい」に年寄りも中年も若者もないはずだしな。