バカロードその15 スパルタスロンへの道 1 ツァラトゥストラかく走りき

公開日 2010年09月03日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

 今、ランナーたちの間でベアフット=裸足ってのがキーワードになっていて、ぼくもときどきシューズを脱いで走ってみたりしている。ウルトラマラソン用のブ厚いソールでも100キロ走れば膝バキバキ傷めるのに、裸足なんかで走って大丈夫なのか? そんな疑問をかかえたまま、恐る恐る硬いアスファルトの上に無防備な裸足で踏み出してみた。どれほどの衝撃がカカトや足首、膝を襲うんだ?という危惧は、20メートル先できれいに消えた。衝撃などなかったのだ。
 シューズなら地面から反発力をもらうべくバシバシ叩きつけるところだが、裸足で同じことしても跳ね返るわけもなく、適度にゆるく脚を繰り出してみる。わが足裏は、オッサンの足とは思えぬほどペタペタかわいらしい足音を立て、やわらかく着地する。少しスピードをあげてみる。うほ〜裸足だとカカトってぜんぜん接地しないのね。前足部で着地し、リリースまで一度もカカトをつけない(微妙に触れるけど)。試しにわざとカカトから着地してみるととても走りにくい。全体重を硬いアスファルトに乗せるには、あまりにカカトの骨は小さく、肉は薄い。
 少し頭がこんがらがってくる。3年前にメタボ腹をかかえてランニングをはじめた頃にむさぼり読んだ20冊を上回るランニング教書では、「カカトから着地して、つま先から抜くのが正しいフォームです」との説明がスタンダードであった。有森裕子さんはじめ実績あるランナーたちがそう述べているのはなぜか? 対して「足裏全体で同時に着地すべき」という論調もあるが、カカト着地派が6:4で優勢と思われる。ましてや「つま先から着地しなさい」なんて書いてる本は見たことがない。唯一例外が、最も尊敬すべきマラソンランナー中山竹通さんのインタビュー記事。現役時代には「カカト着地ではテンポが遅れるため、カカト着地の時間を省略し、つま先着地で素早く切り返していた」という主旨のことを述べている。
 ランニングシューズを製造するスポーツメーカーは、新発売シューズではこぞってソール部分のクッションを強化する傾向にある。エアーやゲルや特殊素材をはさみこみ衝撃吸収性をアピールする。オーバープロネーションを補正する角度をつける。そうやってヒザや足首にかかる加重を減らしてケガのリスクを下げ、タイムまでも向上させる、と高らかに謳う。やっぱしカカトから着地するのが正しいのか?
 つま先着地でペタペタと走りながら思索にふける。脚は気持ちよく回転運動をつづけている。ぼくは静かな感動につつまれていた。「人間の脚って、こんなに良くできているのか」と。シューズを履いているときはまるで気にしていなかったが、指先がグイッグイ地表を掴みとる作用を果たす。サバンナの草原を疾走する肉食獣の前脚のように。長らくシューズの中に押し込めてきて(ランニング教書では靴ヒモは強めに締め、指の先っぽから1センチくらいはシューズ内にスペースを空けるように指導されている)、まったく機能を果たしていなかった指先が、シューズから解き放たれたとたん、古代からの記憶を取り戻したがごとく野性の動きを再現する。
 いったい全体、「正しい走り方」って何なんだろう? このようなドシロウト・ランナーの迷いに明快なヒントを与えてくれるのが、アメリカ合衆国においてベアフット・ランニングを爆発的に広めたクリストファー・マクドゥーガル著「BORN TO RUN」だ。チマタで流布されているランニングの常識をゴミ箱にポイする勢いの内容ゆえ、刺激
が強い。ぼくのように活字情報に毒されすぎて、ランニングフォームがぐちゃぐちゃになってるようなタイプの人なら、激しい迷いに突入する可能性もあるが、恐いもん見たさで読んでみて下さい。
 さて裸足ランニングはまだ日本では市民権を得られていないため、すれ違うウォーカーやジョガーたちの困惑した表情にさらされることになる。彼らは、目の前で起きている事態に、どう判断を下してよいかわからないのだ。笑うでもなく、目で追うでもなく。チラッと視線を送っては、見てはいけないものを見てしまったかのようにササッと目をそらす。一般に、ちょっとイカれた人を目撃したときの反応だ。恥ずかしい、だが対処法はない。黙って恥ずかしさに耐えるか、あるいは誰も歩いてない午前6時頃に走るか。そりゃ、しょうがないよね。ぼくだって裸足で道路を走ってる人見たら、浮気がばれて奥さんから逃げだしてきたんか?って疑うくらい想像力の及ぶ範囲は限られている。
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 9月、世界で最も歴史ある超長距離レース「スパルタスロン」が開催される。全世界からつどいし超長距離界のスーパースターたちが、ギリシャの歴史遺産や荒野を舞台に、昼夜にわたる戦いを展開するのだ。
 今年は9月24日から25日にかけて行われる。アテネ市街の著名な遺跡・アクロポリスの丘をスタート地点とし、ゴールは246キロ彼方のスパルタの町。日本では「スパルタ教育」の名で知られる戦士の都市だ。ランナーはフィニッシュの儀式として古代スパルタ王である英雄レオニダスの銅像の脚にタッチ、あるいはキスをする。その後、古代ギリシャの白装束をまとった見目うるわしき女性からエウロタス川のしずくが葉っぱに乗せて、あるいは古代の壺を模した器で与えられる。いずれも、2500年前にこの区間を一昼夜で走りきった戦士が行い、また施された行為の再現なんだろう。
 この大舞台に参戦する。「参戦」といえば勇ましくもカッコいいが、スーパースターたちとマッチアップするほどの走力はない。ドン尻でもいいから完走狙い、制限時間の10秒前でもいいから完走狙い、それに尽きる。自分の体力、知力すべてを動員し、何ごともうまい塩梅で進んだうえに、あと一歩も走れない・・・という所まで追い込みきって、ようやく完走できるか、それでも無理かの当落線上。それがもっかの実力である。
 246キロメートルを36時間以内に走る。この数字だけみれば、走れるような気がしなくもない。単純計算で1キロを8分イーブンで走り切ればいいからだ。楽勝かもしれないな〜、と去年の今頃、つまり何もわかっていない頃には楽観していた。
 出場エントリーにあたって過去のデータを調べた。昨年の2009年大会は、完走者133人に対し、リタイアは187人。完走率41.6%である。大会の出場資格は100キロを10時間30分以内の公式記録か、200キロ以上のレースの完走記録が必要。そんなランナーたちが半数も完走できないのだ。去年はきっと酷暑で落雷も落ちて、暴れ馬が乱入でもしたんだろう。で、昨年参加した方に聞いてみると「去年は涼しかったよ〜」とか。涼しくて4割かよ! 昨年以前も完走率は例年30%〜40%が標準で、酷暑の年は25%を切っている。ややや、完走率25%って何だ〜?
 慣れない英語やギリシャ語と戦いながらエントリーを終えると、レースの詳細が書かれた案内書が郵送されてきた。ずらりと並ぶ細かな数字・・・どうやらエイドステーションのリストである。全行程中、75カ所ものエイドがある。そして各エイドの撤収時間がイコール関門になっているようなのだ。
 このタイムが非常に厳しい。まず入りの19.5キロの関門閉鎖が2時間10分。ここをセイフティーに越えるにはキロ6分を切っていく必要がある。いきなりけっこうなスピードを要求されるのだ。その後、フルマラソンの距離に相当する42.2キロ地点が4時間45分、100キロ関門が12時間45分である。これは後半にスタミナを温存して出せるタイムじゃないぞ! 100キロのレースに出て、12時間で走りきってゴールラインを越えたあとは、ぼくの場合ひん死の重傷レベル、ほとんど動けなくなる。そこから再び立ち上がり、残り146キロを24時間以内で走るエネルギーは残っているのだろうか? 
 この時期、ギリシャのエーゲ海沿いの昼間の気温は40度を超す。コース後半は山岳地帯に突入し、1000メートル級の山越えが2カ所ある。峠では摂氏5度付近まで降下する。うひょひょ、もう無理な気がしてきた。
 この大会に出場するため春から月間500キロを走り込んでいるが、参加選手の多くは800〜1000キロを走っている。1日平均30キロを平然と走れる人たちの完走率が30%〜40%ってわけね。うーん、こりゃ踊るしかないね。
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 スパルタスロン出場が決まってからは、体脂肪率を落とすために、1日の食事回数を1回(元々だけど)にし、主食をモヤシ、キュウリ、もずくにしている。徹底的に体重減少をはかる。レース後半のオールアウト(まったく身体が動かなくなる状態)を防ぐために、体重は10グラムでも軽くしたい。気力も及ばぬ極度の疲労は、25万歩にも達する脚の移動によってもたらされる。1歩にかかる体重負担を減らすことが、レース100キロ以降の成否を左右する。
 また、給水をしない練習をしている。過去の超長距離レースでは、水を摂取しすぎて低ナトリウム血症的な症状に襲われ、空ゲロえずきながらオールアウトが定番。今年のサロマ湖100キロでも水5リッター飲みまくり自滅。そんな失敗を繰り返している。体質を根本から変える必要がある。
 一般論はよく知っている。「科学的な」研究によりランニング中の給水の必要性は、スポーツ医学界からも、飲料メーカーの研究室からも提唱されている。練習中の運動部員やマラソンランナーらの熱中症による死亡事故のニュースは毎年絶えない。
 一方、ケニアのトップランナーが集結するエルドレッド近郊のカプサイト・キャンプでは、30キロ程度の練習中なら、ランナーは給水しないという。走行中はおろか、起床してから午前の練習を終えるまで水やスポーツドリンクは採らない。練習を終えた後に、何時間かかけてミルクティー(成分の大半は生乳)2〜3リットルを少しずつ飲む。ぼくたちが日頃耳にするアミノ酸やら電解質やら浸透圧とは無縁の世界で、21世紀初頭のマラソンの歴史が築かれている。フルマラソンの歴代世界10傑のうち2位から10位までの9人はケニア人なのだ。
 20年くらい前までは、日本中の運動部で練習中に水を飲むのは絶対禁止だった。ぼくたち非科学的・根性論世代は、水を飲まず、ウサギ跳びと手押し車をし、監督や先輩から顔面ビンタを食らいながら、根性ってヤツを鍛えられた。こんな「プレイボール・侍ジャイアンツ・がんばれ元気」世代は、どうも「科学」がビジネスと結びついて見えるときは少し疑ってかかるクセがある。いっぽうで非科学的な根性論を無条件で受けて入れてしまう。大学の実験室のトレッドミルや血液検査装置やモーションキャプチャーで計測された科学的データでは計り知れない、突き抜けた境地ってのが人間にはあるはずなんだ。
 20〜30キロを無給水で走るトレーニングをはじめると、後半バテなくなってきた。科学的根拠はむろんない。気のせいなのかもしれない。でもそこが人間のおもしろいとこ。ここぞってときに発揮できるタフさってのは、数値では管理できない何か、体内から噴きだす負のオーラやら、わけのわからないド根性やら、要するに理屈じゃない所から発生するんだ。
 何十年間も運動をせず、ただデブるにまかせていた凡人たるオッサン、ただのスポーツ観戦愛好家だったぼくが、ドキュメンタリー番組でしか観たことのないテレビの向こうの世界・・・スパルタスロンの舞台で戦うには、正常なことをしていては追いつかない。「馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ」との猪木師匠のポエムと心中覚悟。力石徹が1日トマト1個で生き、谷口タカオが距離3分の1ノックをしたように、シューズを脱ぎ捨て、水涸れした身体でモヤシをむさぼり、バカ世界に入滅する。