公開日 2011年09月02日
■8月27日、ステージ70
距離/56.6キロ
大型ハリケーン「アイリーン」の直撃により、ニューヨークは今日正午から公共機関が全面ストップ。ニューヨーク市長が緊急記者会見。非常事態宣言を発令。市民30万人に対し避難命令を勧告。すでに高潮が沿岸部を襲いつつある。
・・・眠れない夜、テレビでは台風特番の報道番組が続いています。
問題は、歩行者がニューヨークの中心マンハッタン島へと渡れる唯一の橋、ジョージワシントンブリッジが閉鎖される可能性があるということ。
距離/56.6キロ
大型ハリケーン「アイリーン」の直撃により、ニューヨークは今日正午から公共機関が全面ストップ。ニューヨーク市長が緊急記者会見。非常事態宣言を発令。市民30万人に対し避難命令を勧告。すでに高潮が沿岸部を襲いつつある。
・・・眠れない夜、テレビでは台風特番の報道番組が続いています。
問題は、歩行者がニューヨークの中心マンハッタン島へと渡れる唯一の橋、ジョージワシントンブリッジが閉鎖される可能性があるということ。
ランナーは平均走行速度の遅い順に3組に分けられ、1時間おきの時差スタートが組まれました。もちろんぼくは朝一番にスタートする「スローグループ」です。午前5時にスタートし、午前11時30分にはジョージワシントン橋を渡りはじめておきたい。橋のたもとまで距離43キロを6時間30分以内に走る必要があります。
7名のランナーが午前5時にスタートしました。そしてスタート直後、全員が曲がり角を間違えあらぬ方向へと走ってしまいました。いきなり5分以上のロスタイムです。深い深い霧をついて、ランナーたちは先を急ぎます。ぼく自身は、後半脚が動かなくなることを想定し、先頭を突っ走りました。15キロほどムチャ走りし、そしてダメージ色濃くなると、のろのろ走りに逆行。次々とランナーに抜かれ、さらに1時間後の「ミドルグループ」選手たちや2時間後スタートのトップランカーたちにも続々抜かれて、定位置のドンケツに後退しました。そんなことを気にしてはいません。橋が渡れたらいいのです。摩天楼が天を衝く、70日間夢に見たマンハッタンに自分の脚で渡れたら文句ないんです。
午前11時頃には天候が荒れはじめ大粒のシャワー雨に浸かります。景色を白く濁らせる驟雨の中、ゴチャゴチャした街並みの奧に、ジョージワシントン橋の巨大な支柱が見えてきました。
こんな劇的な場面なのに、ぼくの頭の中には吉本新喜劇の今別府がモノマネする「レインボーブリッジ、封鎖できません!」のフレーズがエンドレスでリピートしはじめます。まったく雰囲気もクソもありません。
大雨の中、大会スタッフが傘もカッパもなしのびしょ濡れで橋のたもとで待っていてくれました。「橋は閉鎖されてない。行け、行けBANDO!」。
ハドソン川に架かる長大橋からは、ニューヨークの摩天楼はモヤに霞んで見えません。だからって哀しくはありません。太平洋からここまで自分の脚でやってきた。その事実だけでもうおなかいっぱいです。
マンハッタン島に降り立ちます。高層ビル群が風をさえぎるのか、風雨が少し収まりました。こんな日和でも、上半身裸の男性ジョガーはたくさんいます。たまたまペースが一緒になった日本人ランナー田中義巳さんと「このジョガーのフルのタイムは3時間09分」「いや15分くらいじゃない?」などと無邪気に予想しあいっこしながら川沿いの公園通りを歩きます。田中さんは日本に初めて「ジャーニーラン」という思想をもたらした大人物。今流行のトレイルランが「ランニング登山」と呼ばれていた時代から日本アルプス全山マラソン大縦走を成し遂げ、東海道500キロを7日連続で走る大会の主催者として「ステージラン」という競技を広く流布させた当ジャンルの伝説的カリスマな方ですが、実際の人物像はとても柔和で、趣味が広く楽しい人です。
その田中さんの、マンハッタン満喫歩きにもついて行けなくなるほど脚が前に出なくなりました。ゴールまで10キロ。本来は70日間の全行程を振り返り、感動を胸に、きちんと走るべきフィナーレの10キロだというのに、筋肉のどこにも力が入りません。強度のハンガーノックのような症状です。ヒザ関節はカックンカックン抜け、皮膚の表面が麻痺したような感覚。頭にはまったく何も浮かびません。ただ真っ白です。思い出すこともなく、ゴールへの感慨も湧きません。1キロ進むのに15分以上もかかり、夢遊病者のように左右に蛇行しながら歩いています。
大繁華街ブロードウエイに入ると、摩天楼が左右にそびえ立つ最もニューヨークらしい風景。旅行者らしいカップルがぼくの背中のゼッケンを見て「何かレースをしているの?」と話しかけてきたので、大陸横断レースの事情を話していると「私たちもゴールまで着いていっていい?」とリクエストします。けっこうな雨が降っていて、2人とも傘も持ってなくてびしょ濡れなんだけど大丈夫なのかな。「まだ3キロくらい距離があると思うけど、君たちがそうしたいならぼくは構わないよ」と答える。スペインから旅に来たという2人。女性の友人にサバイバルレースやウルトラマラソンをやってる人がいるらしくて、事情に詳しく質問も的確。アレコレ答えているうちにゴールが近づいてきました。夢遊病的に歩いていたぼくも、彼女にややこしいレースの説明をしてるうちに脳みそも蘇ってきました。
いよいよラスト200メートルかなって所でカップルの男性にデジカメを渡し、ぼくの後方から追っかけてゴールまでの動画を撮ってもらうことにしました。男性、なにやら張り切りはじめ、にわかカメラマン魂がパチパチ燃えている模様です。
突然、クラクションを鳴らす連続音やラッパを吹くような音が摩天楼の谷間に響きわたりはじめました。「BANDO!こっちだ!ここがニューヨークだ!」。70日間、ぼくを鼓舞しつづけてくれた大会スタッフの姿が見えた瞬間、熱い気持ちが吹き出しました。朝まで一緒にいた人たちなのに、なぜか懐かしくて、大切な友人に再会したような気持ちになりました。自分がゴールするという歓びではなく、この長い長い戦いを支えてくれた人たちと抱きしめあえる喜びに、胸から喉へと熱い塊が次々と湧き上がってきます。
ゴールテープがそこに見えます。これで終わりです。
自分が走りきったという達成感はありません。
結局、ぼくには何もできませんでした。
砂漠で倒れたときも、峠道で脚が動かなくなったときも、人に助けられました。
ゲロを吐きつづけ意識がほとんどなくなっていても、鼻血をたれ流し、足の裏の皮がめくれあがっても、周囲の誰一人として「もうこの辺にしておけよ」「きみには無理だろう」とは言いませんでした。「絶対にゴールに行けるから!」「ニューヨークに行かなくちゃ!」と励ましてくれました。だからここまで来れました。言葉が持つエネルギーが、ぼくをここに運んでくれました。
ニューヨークに到着してわかったことがあります。ぼくが目指しつづけていたのは、現実に存在するニューヨークという街ではなく、自分の夢や目標のありかを指していたんです。
ゴールテープを切ると、大会スタッフに腕を取られ、氷と缶ジュースがたっぷり入ったクーラーボックスの上に腰掛けさせられました。「BANDOはスプライトだろ?」と缶のスプライトの栓をシュッと開けて手渡してくれました。砂漠でふらふらになってるとき、彼が何度もやってきては、霧吹きで氷水をかけてくれ、スプライトを飲ませてくれたことを思い出しました。スプライトを一口飲むと、ぐずぐずと泣けてきてクーラーボックスの上で泣き続けました。雨に濡れっ放しで動画撮影してくれてる通りがかりのスペイン人カップルの方を見やると、彼と彼女もなぜか泣いていました。
記録/10時間02分
7名のランナーが午前5時にスタートしました。そしてスタート直後、全員が曲がり角を間違えあらぬ方向へと走ってしまいました。いきなり5分以上のロスタイムです。深い深い霧をついて、ランナーたちは先を急ぎます。ぼく自身は、後半脚が動かなくなることを想定し、先頭を突っ走りました。15キロほどムチャ走りし、そしてダメージ色濃くなると、のろのろ走りに逆行。次々とランナーに抜かれ、さらに1時間後の「ミドルグループ」選手たちや2時間後スタートのトップランカーたちにも続々抜かれて、定位置のドンケツに後退しました。そんなことを気にしてはいません。橋が渡れたらいいのです。摩天楼が天を衝く、70日間夢に見たマンハッタンに自分の脚で渡れたら文句ないんです。
午前11時頃には天候が荒れはじめ大粒のシャワー雨に浸かります。景色を白く濁らせる驟雨の中、ゴチャゴチャした街並みの奧に、ジョージワシントン橋の巨大な支柱が見えてきました。
こんな劇的な場面なのに、ぼくの頭の中には吉本新喜劇の今別府がモノマネする「レインボーブリッジ、封鎖できません!」のフレーズがエンドレスでリピートしはじめます。まったく雰囲気もクソもありません。
大雨の中、大会スタッフが傘もカッパもなしのびしょ濡れで橋のたもとで待っていてくれました。「橋は閉鎖されてない。行け、行けBANDO!」。
ハドソン川に架かる長大橋からは、ニューヨークの摩天楼はモヤに霞んで見えません。だからって哀しくはありません。太平洋からここまで自分の脚でやってきた。その事実だけでもうおなかいっぱいです。
マンハッタン島に降り立ちます。高層ビル群が風をさえぎるのか、風雨が少し収まりました。こんな日和でも、上半身裸の男性ジョガーはたくさんいます。たまたまペースが一緒になった日本人ランナー田中義巳さんと「このジョガーのフルのタイムは3時間09分」「いや15分くらいじゃない?」などと無邪気に予想しあいっこしながら川沿いの公園通りを歩きます。田中さんは日本に初めて「ジャーニーラン」という思想をもたらした大人物。今流行のトレイルランが「ランニング登山」と呼ばれていた時代から日本アルプス全山マラソン大縦走を成し遂げ、東海道500キロを7日連続で走る大会の主催者として「ステージラン」という競技を広く流布させた当ジャンルの伝説的カリスマな方ですが、実際の人物像はとても柔和で、趣味が広く楽しい人です。
その田中さんの、マンハッタン満喫歩きにもついて行けなくなるほど脚が前に出なくなりました。ゴールまで10キロ。本来は70日間の全行程を振り返り、感動を胸に、きちんと走るべきフィナーレの10キロだというのに、筋肉のどこにも力が入りません。強度のハンガーノックのような症状です。ヒザ関節はカックンカックン抜け、皮膚の表面が麻痺したような感覚。頭にはまったく何も浮かびません。ただ真っ白です。思い出すこともなく、ゴールへの感慨も湧きません。1キロ進むのに15分以上もかかり、夢遊病者のように左右に蛇行しながら歩いています。
大繁華街ブロードウエイに入ると、摩天楼が左右にそびえ立つ最もニューヨークらしい風景。旅行者らしいカップルがぼくの背中のゼッケンを見て「何かレースをしているの?」と話しかけてきたので、大陸横断レースの事情を話していると「私たちもゴールまで着いていっていい?」とリクエストします。けっこうな雨が降っていて、2人とも傘も持ってなくてびしょ濡れなんだけど大丈夫なのかな。「まだ3キロくらい距離があると思うけど、君たちがそうしたいならぼくは構わないよ」と答える。スペインから旅に来たという2人。女性の友人にサバイバルレースやウルトラマラソンをやってる人がいるらしくて、事情に詳しく質問も的確。アレコレ答えているうちにゴールが近づいてきました。夢遊病的に歩いていたぼくも、彼女にややこしいレースの説明をしてるうちに脳みそも蘇ってきました。
いよいよラスト200メートルかなって所でカップルの男性にデジカメを渡し、ぼくの後方から追っかけてゴールまでの動画を撮ってもらうことにしました。男性、なにやら張り切りはじめ、にわかカメラマン魂がパチパチ燃えている模様です。
突然、クラクションを鳴らす連続音やラッパを吹くような音が摩天楼の谷間に響きわたりはじめました。「BANDO!こっちだ!ここがニューヨークだ!」。70日間、ぼくを鼓舞しつづけてくれた大会スタッフの姿が見えた瞬間、熱い気持ちが吹き出しました。朝まで一緒にいた人たちなのに、なぜか懐かしくて、大切な友人に再会したような気持ちになりました。自分がゴールするという歓びではなく、この長い長い戦いを支えてくれた人たちと抱きしめあえる喜びに、胸から喉へと熱い塊が次々と湧き上がってきます。
ゴールテープがそこに見えます。これで終わりです。
自分が走りきったという達成感はありません。
結局、ぼくには何もできませんでした。
砂漠で倒れたときも、峠道で脚が動かなくなったときも、人に助けられました。
ゲロを吐きつづけ意識がほとんどなくなっていても、鼻血をたれ流し、足の裏の皮がめくれあがっても、周囲の誰一人として「もうこの辺にしておけよ」「きみには無理だろう」とは言いませんでした。「絶対にゴールに行けるから!」「ニューヨークに行かなくちゃ!」と励ましてくれました。だからここまで来れました。言葉が持つエネルギーが、ぼくをここに運んでくれました。
ニューヨークに到着してわかったことがあります。ぼくが目指しつづけていたのは、現実に存在するニューヨークという街ではなく、自分の夢や目標のありかを指していたんです。
ゴールテープを切ると、大会スタッフに腕を取られ、氷と缶ジュースがたっぷり入ったクーラーボックスの上に腰掛けさせられました。「BANDOはスプライトだろ?」と缶のスプライトの栓をシュッと開けて手渡してくれました。砂漠でふらふらになってるとき、彼が何度もやってきては、霧吹きで氷水をかけてくれ、スプライトを飲ませてくれたことを思い出しました。スプライトを一口飲むと、ぐずぐずと泣けてきてクーラーボックスの上で泣き続けました。雨に濡れっ放しで動画撮影してくれてる通りがかりのスペイン人カップルの方を見やると、彼と彼女もなぜか泣いていました。
記録/10時間02分