公開日 2011年12月20日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
最近、春からの採用を約束した学生からこんな質問が出るようになった。「貴社は内定式をしないんですか?」。
はぁ?内定式とはいったい何ぞや。
最近、春からの採用を約束した学生からこんな質問が出るようになった。「貴社は内定式をしないんですか?」。
はぁ?内定式とはいったい何ぞや。
大学を出てないぼくは当然就職活動もしたことないので、この辺の常識が著しく欠落している。学生がそんなに心待ちにしている行事とは何だろうかとさっそく調査にあたった。調査は約15分で終わった。それなりに名前の通った会社では、10月に内定を出した学生を集めて「内定式」ってのをやっているらしい。
典型的な1日のスケジュールとしては、まず人事部長や社長さんから訓辞が行われ、お返しに学生代表が宣誓文を読み上げる。1人ずつ名前を呼ばれ、代表者印の押された内定書をうやうやしく授与されたりする。そして、ちょっとフランクな雰囲気を演出しながら諸先輩方より就職の心構えなんかが説明され、いよいよ夕方からはメインイベントである懇親会、つまり若手社員と内定者が居酒屋やパーティルームに移動し、会社の金をふんだんに使って飲みニケーションをとるらしい。
なるほど。しかし、わざわざ遠方から学生さんを呼び寄せて行うイベントとしては双方に大した価値がなさそうなプログラムだ。世の中、工場閉鎖による大量解雇やら派遣切りやら工場海外移転による空洞化やらと雇用情勢はいちだんと厳しさを増すなかで、こんなのん気な催しが行われているわけか、と感心する。
そんな暇があれば、経営者や管理職は通常業務をこなした方がよさそうだし、学生さんもこの程度の主旨で中途半端な時期に呼びつけられ、前後2日間ほどを拘束されるのはたまったもんじゃないかと思える。それなのに「内定式してほしい」なんてリクエストする学生が少なからずいるのが不思議である。内定式を欲する学生に「どうしてそんなんやりたいの?」と聞くと、集まった学生でmixiやらTwitterやらFacebookのアカウントを交換して、コミュをつくって情報交換などしたいんだとか。
なるほど、つまりヒマなのか。
ソーシャルネットワークを使った就職活動「ソー活」花盛りだけど、もー余計に段取りをややこしくしている。採用担当者と学生がネット上でごじゃごじゃ話してる間がありゃ、さっさと採用の結論出してやりゃいいのに、とハタ目には思う。
ぼくの会社では入社式もしないし、新人研修もしない。そんなの1日やってる時間があれば、さっさと街に出て、記事ネタ集めてきてほしいのである。だが新入社員は「どーしてウチは入社式しないんですか」とか「私の友人が入社した会社は新人研修を半年もしてくれるんですよ」なんて不穏な圧力をかけてくる。ふむ、社内でチンタラ研修ごっこやってるより外に飛び出したい、なんてのは20世紀の労働者思想なのか。あるいは、現代の学生も四季折々のセレモニーを愛する民族的嗜好を受け継いでいるのかな。
とかく日本人は面倒な手続きを増やし、拘束されることを好む傾向がありますね。たとえば古くから企業や役所にある「承認印」という認可証明の方法。現場や会議で決まったことを書類にまとめ、上司に決済を求める。上司がハンコを押し、そのまた上司に上申する。そのまた上司もハンコを押したり、たまには否認する。大きい会社だと物事を決定するまでにハンコが6つくらいズラリと並ぶ。今は、イントラネット上で承認を行う企業が増えてるんだろうから、ハンコの需要は減ってる。だけどハンコ画像が朱肉に取って変わっても、上司による承認・否認の仕組みが同じなら、かかる手間としては同じことである。
何かを決める際に、根回しだの、話を通していく順番だの、そういうのに時間と脳みそを使うのはムダだ。物事を速く決定し、実行に移すためには、上席によるOKがないと何かを始められないって決まり事・・・つまり承認印をなくせばいいのである。
たとえば全社メールなり共有ネットワーク上で現場から企画なり改善点が提案される。1〜2日内に誰からも反論・否定がなければゴーとする。反論・否定は上司でも同僚でも部下でもできる。たったこれだけのことでアイデア出しから決定までの時間が超スピーディになる。建設的ではない反論は自動的にアウトとすればいい。
意思決定の段取りがシンプルになれば、だらだら長い会議も不要になる。物事を決定する際に、いちいち上司や利害関係者を上座にお呼び立てし、グラフをふんだんに取り入れたページ数のやたら多いプレゼンテーション資料をパワポで用意し、朗々たるご説明をさしあげ、見当外れのご意見を拝聴する手続きが必要ない。
一般に、会社に就職すると最初に「報告・連絡・相談を徹底しなさい」と教えられるが、ぼくは「大事件以外の報告・連絡・相談はしないでくださいな」とお願いする。部下が無意味な報告にのこのこやってきたら無視をする。恋愛相談ならおもしろいので耳をそばだてる。
「報連相」にかかる時間と手続きが多すぎるのだ。バカな上司に報告し、相談している時間をショートカットして、自分でグイグイ仕事を進めてけばいい。職場を二周して問題点に気づかないマネージャーなんて役立たずだし、そんな人に限って「報連相」を求める。上の人間はゴチャゴチャ言わず結果責任だけ取ればいいのだ。
目的集団には「役職」なんてのも必要ない。対外的な「責任の所在としての役職」は必要なんだろうが、少なくとも社内ヒエラルキーを形成する目的としてはいらない。管理しないと人間は秩序だてて行動できない、という観念を捨てればいい。二十代の若手も四十代のベテランも、誰にもコントロールされることなく、自由自在に動いてる方が機能美に溢れている。対人関係上の葛藤処理に費やす膨大な時間と労力をとっぱらい、ただモノを作ることだけに集中している集団だ。
もっと根本的な疑問だってある。本来、何か社会に必要なプロジェクトを思いつき実行に移したいときに、最も機能的な集団構成は営利法人=企業じゃない気もしている。会社やってる立場で言うのもなんだけどね。経理部門は外注して、あとは仕事やりたい人だけが集まって、てんで勝手にプロジェクトを進めている人的集団にならないかな。昔の任侠のオジサンたちとか共産主義者の地下組織とかアルカイダあたりってそんな感じか。いや、これらは精神的支柱としてカリスマ的人物や強烈な教義が必要ですね。中核いらずの目的集団って何だろ。全員ヘタクソなアマチュア・ロックバンドみたいなもんか。あ、そんでいい気がしてきた。
典型的な1日のスケジュールとしては、まず人事部長や社長さんから訓辞が行われ、お返しに学生代表が宣誓文を読み上げる。1人ずつ名前を呼ばれ、代表者印の押された内定書をうやうやしく授与されたりする。そして、ちょっとフランクな雰囲気を演出しながら諸先輩方より就職の心構えなんかが説明され、いよいよ夕方からはメインイベントである懇親会、つまり若手社員と内定者が居酒屋やパーティルームに移動し、会社の金をふんだんに使って飲みニケーションをとるらしい。
なるほど。しかし、わざわざ遠方から学生さんを呼び寄せて行うイベントとしては双方に大した価値がなさそうなプログラムだ。世の中、工場閉鎖による大量解雇やら派遣切りやら工場海外移転による空洞化やらと雇用情勢はいちだんと厳しさを増すなかで、こんなのん気な催しが行われているわけか、と感心する。
そんな暇があれば、経営者や管理職は通常業務をこなした方がよさそうだし、学生さんもこの程度の主旨で中途半端な時期に呼びつけられ、前後2日間ほどを拘束されるのはたまったもんじゃないかと思える。それなのに「内定式してほしい」なんてリクエストする学生が少なからずいるのが不思議である。内定式を欲する学生に「どうしてそんなんやりたいの?」と聞くと、集まった学生でmixiやらTwitterやらFacebookのアカウントを交換して、コミュをつくって情報交換などしたいんだとか。
なるほど、つまりヒマなのか。
ソーシャルネットワークを使った就職活動「ソー活」花盛りだけど、もー余計に段取りをややこしくしている。採用担当者と学生がネット上でごじゃごじゃ話してる間がありゃ、さっさと採用の結論出してやりゃいいのに、とハタ目には思う。
ぼくの会社では入社式もしないし、新人研修もしない。そんなの1日やってる時間があれば、さっさと街に出て、記事ネタ集めてきてほしいのである。だが新入社員は「どーしてウチは入社式しないんですか」とか「私の友人が入社した会社は新人研修を半年もしてくれるんですよ」なんて不穏な圧力をかけてくる。ふむ、社内でチンタラ研修ごっこやってるより外に飛び出したい、なんてのは20世紀の労働者思想なのか。あるいは、現代の学生も四季折々のセレモニーを愛する民族的嗜好を受け継いでいるのかな。
とかく日本人は面倒な手続きを増やし、拘束されることを好む傾向がありますね。たとえば古くから企業や役所にある「承認印」という認可証明の方法。現場や会議で決まったことを書類にまとめ、上司に決済を求める。上司がハンコを押し、そのまた上司に上申する。そのまた上司もハンコを押したり、たまには否認する。大きい会社だと物事を決定するまでにハンコが6つくらいズラリと並ぶ。今は、イントラネット上で承認を行う企業が増えてるんだろうから、ハンコの需要は減ってる。だけどハンコ画像が朱肉に取って変わっても、上司による承認・否認の仕組みが同じなら、かかる手間としては同じことである。
何かを決める際に、根回しだの、話を通していく順番だの、そういうのに時間と脳みそを使うのはムダだ。物事を速く決定し、実行に移すためには、上席によるOKがないと何かを始められないって決まり事・・・つまり承認印をなくせばいいのである。
たとえば全社メールなり共有ネットワーク上で現場から企画なり改善点が提案される。1〜2日内に誰からも反論・否定がなければゴーとする。反論・否定は上司でも同僚でも部下でもできる。たったこれだけのことでアイデア出しから決定までの時間が超スピーディになる。建設的ではない反論は自動的にアウトとすればいい。
意思決定の段取りがシンプルになれば、だらだら長い会議も不要になる。物事を決定する際に、いちいち上司や利害関係者を上座にお呼び立てし、グラフをふんだんに取り入れたページ数のやたら多いプレゼンテーション資料をパワポで用意し、朗々たるご説明をさしあげ、見当外れのご意見を拝聴する手続きが必要ない。
一般に、会社に就職すると最初に「報告・連絡・相談を徹底しなさい」と教えられるが、ぼくは「大事件以外の報告・連絡・相談はしないでくださいな」とお願いする。部下が無意味な報告にのこのこやってきたら無視をする。恋愛相談ならおもしろいので耳をそばだてる。
「報連相」にかかる時間と手続きが多すぎるのだ。バカな上司に報告し、相談している時間をショートカットして、自分でグイグイ仕事を進めてけばいい。職場を二周して問題点に気づかないマネージャーなんて役立たずだし、そんな人に限って「報連相」を求める。上の人間はゴチャゴチャ言わず結果責任だけ取ればいいのだ。
目的集団には「役職」なんてのも必要ない。対外的な「責任の所在としての役職」は必要なんだろうが、少なくとも社内ヒエラルキーを形成する目的としてはいらない。管理しないと人間は秩序だてて行動できない、という観念を捨てればいい。二十代の若手も四十代のベテランも、誰にもコントロールされることなく、自由自在に動いてる方が機能美に溢れている。対人関係上の葛藤処理に費やす膨大な時間と労力をとっぱらい、ただモノを作ることだけに集中している集団だ。
もっと根本的な疑問だってある。本来、何か社会に必要なプロジェクトを思いつき実行に移したいときに、最も機能的な集団構成は営利法人=企業じゃない気もしている。会社やってる立場で言うのもなんだけどね。経理部門は外注して、あとは仕事やりたい人だけが集まって、てんで勝手にプロジェクトを進めている人的集団にならないかな。昔の任侠のオジサンたちとか共産主義者の地下組織とかアルカイダあたりってそんな感じか。いや、これらは精神的支柱としてカリスマ的人物や強烈な教義が必要ですね。中核いらずの目的集団って何だろ。全員ヘタクソなアマチュア・ロックバンドみたいなもんか。あ、そんでいい気がしてきた。