公開日 2012年08月31日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
変化はぬき足さし足、地味にやってくる。
シャツのボタンをなかなか穴に通せないので、最近はボタンしたままで洗濯機に放り込んでいる。これだと改めてボタンをする手間がかからない。効率的だ。しかし形態安定シャツはすごいね。たいして型くずれしない。
変化はぬき足さし足、地味にやってくる。
シャツのボタンをなかなか穴に通せないので、最近はボタンしたままで洗濯機に放り込んでいる。これだと改めてボタンをする手間がかからない。効率的だ。しかし形態安定シャツはすごいね。たいして型くずれしない。
あるいは、過去数分間の記憶を喪失している。さっき履いたはずのパンツをいつの間にか口に咥えていたりする。いつ脱いで、いつ口に咥えたというのだ。野犬かよオレ。
はたまた、得意満面で誰かにしゃべりかけてると「何をしゃべっているのかわかりません」と眉間に皺を寄せられる。ロレツがまわってないのか。いや、それ以前にぼくは何をしゃべってたっけ?
これはどこかで見た風景。「あしたのジョー」に登場するカーロス・リベラじゃないか。重度のパンチドランカーになりすべてを失った伊達男のあわれな姿。
「潰れ」練習のせいだろうか。きっとやりすぎなのだろう。でもしょうがないね、だって完走したいんだもの。
脳細胞がじわじわと死滅していっているとしても、練習だけはやめられない。
□
スパルタスロンを完走するには主に2つの能力が必要だ。
・潰れないよう、ゆっくり走り続ける。
・潰れたあと、ゆっくり走り続ける。
「潰れないよう、ゆっくり走り続ける」のはキロ6分の巡航スピードをどこまで保てるかの意。こっちは本番を想定した練習がある程度できる。キロ6分で距離を伸ばしていけばいいわけだし、100キロの大会を利用してなるたけ6分をキープして走ればいい。時間はかかるけどね。
問題は「潰れたあと、ゆっくり走り続ける」練習である。過去の経験則からして246キロを健康体のまま走りきる才はない。100キロか、120キロか、150キロか、どこかの時点で潰れる。本当の勝負はそこからだ。高らかなるファンファーレとともにレースの緞帳が上がるのは潰れた瞬間からなのだ。
いっかい完全に潰れた状況に陥りながらも、5分〜30分程度の休憩後に劇的に元の体調レベルに戻ることを、スパルタランナーたちは「復活」と呼んでいる。瞳の焦点合わず口の横から白い泡を吹き、一刻も早く救急車を呼んだ方がいいという状態のランナーが、しばらく寝ころんだ後にむくっと蘇る様子を何度か目の当たりにした。これこそがスパルタ伝統芸「復活」なのである。
スパルタスロンを攻め落とすには、この「復活」を会得しなければならない。
しかし!潰れたあと走りだす練習をするためには、いったん潰れないといけないわけだが、これが難しい。
たとえば150キロ走って生じる実際の身体変化は、150キロ走らないと再現できない。では150キロ走ればいいかというと、事はそう簡単ではない。
超長距離走をやった場合、元どおりに走れるようになるまで相当な時間を要する。ぼくの場合、300キロ走の痛みが取れるまで1ヵ月、500キロ走なら足指のマヒが消えるまで3ヵ月、5000キロ走ってしまえば疲労骨折の修復も含めて1年かかった。
練習できないと身体機能はたちまち衰える。心肺能力は落ち、脚の筋肉、特に速筋が消滅し、体重はメタボ増加する。100キロ以上の超長距離追い込み練習は、諸刃の剣なのだ。やれば経験は積めるが、身体が壊れてしまう。
だけど「潰れ→復活」練習なしでスパルタスロンに出るなんて、鏡の前でシャドーボクシングやっただけでプロボクシングのリングに立つようなもんだ。無防備すぎる。
悩ましい。ジャッキー・チェンの映画ならここいらで赤っ鼻の老師が登場し、人智を超越したトレーニングを課してくれる場面だけど、現実世界に虫のいいストーリー展開はない。自分でやり方を見つけるしかない。実際の「潰れ」は再現できないが、それに似かよった感じまで追い込むことによって「潰れ」に慣れていくのだ。
□
さて、改めて「潰れ」を解析しよう。
過去レースを振り返ると、こんな感じでぼくは潰れてきた。
「枯渇」 脱水およびエネルギー消費過多によるバーンアウト。
↓
「補給」 熱量補充のための水分・食料投入。
↓
「ゲロ」 胃腸衰弱により補給物を吸収できず、ゲロ吐きが止まらない。
↓
「潰れ」 運動量にふさわしいエネルギーを取り込めないため徐々に衰弱する。
目まい、虚脱、そして活動停止。
このような状況に陥らないことはあり得ない。どんなに準備しても、必ずこうなってきた。ならば「潰れ」まで達した後に復活を遂げられることを身体に覚えさせる必要がある。「潰れ→復活」を何度か繰り返し、いろんなシチュエーションの経験を積み上げることで、潰れることはたいした問題ではない、と自分の脳に認知させる。何としても脳みそをだまさなくてはならない。
□
ムオンと熱い空気、気温33度、いい感じだ。追い込むには最適な日和である。暑いと追い込むのに時間がかからないから嬉しい。涼しいといくら走っても潰し切れないのだ。
10キロを5分ペース走。自分としてはけっこう速いペース。キロ6分だと潰れるまで50キロ以上かかる。キロ4分30秒だと心肺だけが早々に限界に達してしまうが、それは今欲している「潰れ」ではない。時間効率と成果を考えればキロ5分が最適だ。
10キロ走るごとに休憩を15分入れながら3本目。給水ゼロで脱水症状に追い込む。残り1.5キロってとこで片耳が聴こえなくなる。景色も薄ぼんやりとしてきた。
「きたきたきた!限界きたー!」
初期の潰れ状態に突入。すかさず堤防のコンクリート上で横になる。腕時計のラップボタンを押し、目を閉じる。そのまま5分間、身体の活動を停止する。この間、できるだけ身体を動かさない。目も閉じたままにする。動かすのは心臓と血液だけ。宇宙船で遠くまで旅するとき、液体窒素に満たされ冷凍睡眠に入るイメージ。生命活動の準停止だ。
5分経過後に立ち上がろうとするが、ふらつきが収まらない。もう一度横になる。活動停止時間を5分上積みしたのちランニングを再開する。足がよたつくけど走れなくはない。キロ7分30秒、潰れ後としては上出来のペース。身体回復まで10分かかった。悪くない、だけど少し時間かかりすぎかもしれない。スパルタスロン本番では少なくとも5回は潰れる。復活に時間がかかりすぎれば関門ギリギリ通過の地獄絵図にはまる。
翌日。
水分補給なしで25キロをキロ5分20秒ペース走。内臓がカラカラに乾いた時点で、自販機で炭酸飲料を買い1000mlを一気に飲む。数分の間もなく、胃壁に嫌な感じの鈍痛が走り、胃腸全体に重い不快感が起こる。両腕に激しい脱力感、脚部から力が失われスローダウン。間断なく吐き気がに襲われる。脱水状態をカバーするために水分を大量摂取すると起こる症状。疑似的だけど胃腸障害の再現だ。道ばたに横たわり、再び5分刻みで回復を図る、5月頃は30分かけても具合が良くならなかったが、今は5〜10分で復活できる。
いろんな実験をし、いろんな「潰し」をやってみる。
水やスポーツドリンクに比べ、生乳・脱脂粉乳が入っていたり果汁100%の飲料はダメージを深める。少量の炭酸は問題ないが大量摂取するとキツい。乳性の炭酸飲料は最強クラスに胃にくる。パスタやパン、ポテチなど、エイドに置いてありそうなものを一気食いして走る実験もした。ぼくは固形物には強く、液体に弱いことが判明している。
いろんな休憩の仕方を試し、「復活」を遂げるまで何分かかるか計測する。歩きながら回復を計るべきか完全停止した方がいいのか。完全停止の場合は、座った姿勢がいいのか、寝転がった方がよいのか。どうすれば復活に要する時間を短縮できるのか。
そんなこんなの試行錯誤と人体実験によって、脳みそがジワジワ壊死し、いまやパンツをはいたまま洋式便座に腰掛けウンコを発射してパニックに陥るという極限に突入。天井の青白いLED照明を見つめながら、トイレで呆然と立ち尽くすもののあはれよ。
はたまた、得意満面で誰かにしゃべりかけてると「何をしゃべっているのかわかりません」と眉間に皺を寄せられる。ロレツがまわってないのか。いや、それ以前にぼくは何をしゃべってたっけ?
これはどこかで見た風景。「あしたのジョー」に登場するカーロス・リベラじゃないか。重度のパンチドランカーになりすべてを失った伊達男のあわれな姿。
「潰れ」練習のせいだろうか。きっとやりすぎなのだろう。でもしょうがないね、だって完走したいんだもの。
脳細胞がじわじわと死滅していっているとしても、練習だけはやめられない。
□
スパルタスロンを完走するには主に2つの能力が必要だ。
・潰れないよう、ゆっくり走り続ける。
・潰れたあと、ゆっくり走り続ける。
「潰れないよう、ゆっくり走り続ける」のはキロ6分の巡航スピードをどこまで保てるかの意。こっちは本番を想定した練習がある程度できる。キロ6分で距離を伸ばしていけばいいわけだし、100キロの大会を利用してなるたけ6分をキープして走ればいい。時間はかかるけどね。
問題は「潰れたあと、ゆっくり走り続ける」練習である。過去の経験則からして246キロを健康体のまま走りきる才はない。100キロか、120キロか、150キロか、どこかの時点で潰れる。本当の勝負はそこからだ。高らかなるファンファーレとともにレースの緞帳が上がるのは潰れた瞬間からなのだ。
いっかい完全に潰れた状況に陥りながらも、5分〜30分程度の休憩後に劇的に元の体調レベルに戻ることを、スパルタランナーたちは「復活」と呼んでいる。瞳の焦点合わず口の横から白い泡を吹き、一刻も早く救急車を呼んだ方がいいという状態のランナーが、しばらく寝ころんだ後にむくっと蘇る様子を何度か目の当たりにした。これこそがスパルタ伝統芸「復活」なのである。
スパルタスロンを攻め落とすには、この「復活」を会得しなければならない。
しかし!潰れたあと走りだす練習をするためには、いったん潰れないといけないわけだが、これが難しい。
たとえば150キロ走って生じる実際の身体変化は、150キロ走らないと再現できない。では150キロ走ればいいかというと、事はそう簡単ではない。
超長距離走をやった場合、元どおりに走れるようになるまで相当な時間を要する。ぼくの場合、300キロ走の痛みが取れるまで1ヵ月、500キロ走なら足指のマヒが消えるまで3ヵ月、5000キロ走ってしまえば疲労骨折の修復も含めて1年かかった。
練習できないと身体機能はたちまち衰える。心肺能力は落ち、脚の筋肉、特に速筋が消滅し、体重はメタボ増加する。100キロ以上の超長距離追い込み練習は、諸刃の剣なのだ。やれば経験は積めるが、身体が壊れてしまう。
だけど「潰れ→復活」練習なしでスパルタスロンに出るなんて、鏡の前でシャドーボクシングやっただけでプロボクシングのリングに立つようなもんだ。無防備すぎる。
悩ましい。ジャッキー・チェンの映画ならここいらで赤っ鼻の老師が登場し、人智を超越したトレーニングを課してくれる場面だけど、現実世界に虫のいいストーリー展開はない。自分でやり方を見つけるしかない。実際の「潰れ」は再現できないが、それに似かよった感じまで追い込むことによって「潰れ」に慣れていくのだ。
□
さて、改めて「潰れ」を解析しよう。
過去レースを振り返ると、こんな感じでぼくは潰れてきた。
「枯渇」 脱水およびエネルギー消費過多によるバーンアウト。
↓
「補給」 熱量補充のための水分・食料投入。
↓
「ゲロ」 胃腸衰弱により補給物を吸収できず、ゲロ吐きが止まらない。
↓
「潰れ」 運動量にふさわしいエネルギーを取り込めないため徐々に衰弱する。
目まい、虚脱、そして活動停止。
このような状況に陥らないことはあり得ない。どんなに準備しても、必ずこうなってきた。ならば「潰れ」まで達した後に復活を遂げられることを身体に覚えさせる必要がある。「潰れ→復活」を何度か繰り返し、いろんなシチュエーションの経験を積み上げることで、潰れることはたいした問題ではない、と自分の脳に認知させる。何としても脳みそをだまさなくてはならない。
□
ムオンと熱い空気、気温33度、いい感じだ。追い込むには最適な日和である。暑いと追い込むのに時間がかからないから嬉しい。涼しいといくら走っても潰し切れないのだ。
10キロを5分ペース走。自分としてはけっこう速いペース。キロ6分だと潰れるまで50キロ以上かかる。キロ4分30秒だと心肺だけが早々に限界に達してしまうが、それは今欲している「潰れ」ではない。時間効率と成果を考えればキロ5分が最適だ。
10キロ走るごとに休憩を15分入れながら3本目。給水ゼロで脱水症状に追い込む。残り1.5キロってとこで片耳が聴こえなくなる。景色も薄ぼんやりとしてきた。
「きたきたきた!限界きたー!」
初期の潰れ状態に突入。すかさず堤防のコンクリート上で横になる。腕時計のラップボタンを押し、目を閉じる。そのまま5分間、身体の活動を停止する。この間、できるだけ身体を動かさない。目も閉じたままにする。動かすのは心臓と血液だけ。宇宙船で遠くまで旅するとき、液体窒素に満たされ冷凍睡眠に入るイメージ。生命活動の準停止だ。
5分経過後に立ち上がろうとするが、ふらつきが収まらない。もう一度横になる。活動停止時間を5分上積みしたのちランニングを再開する。足がよたつくけど走れなくはない。キロ7分30秒、潰れ後としては上出来のペース。身体回復まで10分かかった。悪くない、だけど少し時間かかりすぎかもしれない。スパルタスロン本番では少なくとも5回は潰れる。復活に時間がかかりすぎれば関門ギリギリ通過の地獄絵図にはまる。
翌日。
水分補給なしで25キロをキロ5分20秒ペース走。内臓がカラカラに乾いた時点で、自販機で炭酸飲料を買い1000mlを一気に飲む。数分の間もなく、胃壁に嫌な感じの鈍痛が走り、胃腸全体に重い不快感が起こる。両腕に激しい脱力感、脚部から力が失われスローダウン。間断なく吐き気がに襲われる。脱水状態をカバーするために水分を大量摂取すると起こる症状。疑似的だけど胃腸障害の再現だ。道ばたに横たわり、再び5分刻みで回復を図る、5月頃は30分かけても具合が良くならなかったが、今は5〜10分で復活できる。
いろんな実験をし、いろんな「潰し」をやってみる。
水やスポーツドリンクに比べ、生乳・脱脂粉乳が入っていたり果汁100%の飲料はダメージを深める。少量の炭酸は問題ないが大量摂取するとキツい。乳性の炭酸飲料は最強クラスに胃にくる。パスタやパン、ポテチなど、エイドに置いてありそうなものを一気食いして走る実験もした。ぼくは固形物には強く、液体に弱いことが判明している。
いろんな休憩の仕方を試し、「復活」を遂げるまで何分かかるか計測する。歩きながら回復を計るべきか完全停止した方がいいのか。完全停止の場合は、座った姿勢がいいのか、寝転がった方がよいのか。どうすれば復活に要する時間を短縮できるのか。
そんなこんなの試行錯誤と人体実験によって、脳みそがジワジワ壊死し、いまやパンツをはいたまま洋式便座に腰掛けウンコを発射してパニックに陥るという極限に突入。天井の青白いLED照明を見つめながら、トイレで呆然と立ち尽くすもののあはれよ。