公開日 2013年01月31日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
プロレスにおけるキャラクター設定のことを、コアなファンは「ギミック」と呼ぶ。
ヤスリで歯を研ぐ銀髪鬼フレッド・ブラッシーのようなわかりやすいギミックもあれば、「あの前座レスラーは、怒らせると何をしでかすかわからない。猪木ですら恐れて近づかない」などとギミックの裏側の真相を喧伝する、という多重のギミックもある。
プロレスにおけるキャラクター設定のことを、コアなファンは「ギミック」と呼ぶ。
ヤスリで歯を研ぐ銀髪鬼フレッド・ブラッシーのようなわかりやすいギミックもあれば、「あの前座レスラーは、怒らせると何をしでかすかわからない。猪木ですら恐れて近づかない」などとギミックの裏側の真相を喧伝する、という多重のギミックもある。
タイガー・ジェット・シンが新宿の路上で猪木夫妻を襲撃したのはアングル(シナリオがあった)と言われているが、ブルーザー・ブロディが控え室でレスラーにナイフで刺されて亡くなったのは事実だ。どこまでがフィクションで、どこからがノンフィクションなのか。何十年とプロレスを見続けても、業界関係者から「ここだけの話」を耳打ちされても、ひとつの謎を解けば、また別の疑問が生じ・・・を繰り返すのがプロレス大河物語の姿である。
20年前、メキシコの国技ともいえるキャラクタープロレス、ルチャ・リブレをベースとしたみちのくプロレスが旗揚げされた。それまでの日本型プロレスの「嘘か真かわからないギミック」ではなく、誰の目から見てもギミックとはっきりわかるキャラクター設定を行った、陽気なプロレスを提供する革新的な団体であった。
「お遍路」をモチーフにしたプロレスラー・新崎人生は、最初はあいまいな設定だった。「極悪坊主」の異名でコブラクローや凶器攻撃を繰り出すルード(悪役)を演じていた。
潮目が変わったのは、デビューから1年後の東京・大田区体育館のサスケ戦だ。プロレス巡業を札所巡りになぞらえた新崎の「八十八番札所」目にあたる試合は、東北のローカル団体に過ぎなかったみちのくプロレスが東京の大バコで勝負に出た重要興行のメインイベントとして企画された。
対するサスケは、その前月まで新日本プロレスが主催する「第1回・スーパーJカップ」に出場し、ライガーやサムライといった当時トップ選手を次々と破り、準優勝をもぎ取っていた。インディー団体のレスラーが、メジャー団体の選手に勝つというのは、当時は「事件」レベルの出来事であり、なおさらサスケの存在が際だった。おまけに各試合ともテレ朝で全国放映され、サスケ人気に拍車をかけた。
この大田区の戦いで新崎は、それまでのルード(悪役)という立ち位置をかなぐり捨て、惜しみなく自らの持つレスリングテクニックを披露した。対するサスケも「明るく楽しい」ルチャドールとしてではなく、新日本プロレス練習生から這い上がってきた一レスラーとして戦った。試合では新崎の「拝みケブラーダ」も飛び出し、日本のインディープロレス史に残る好勝負となった。
大田区以降、新崎のレスラー人生は、恐ろしい勢いで動き始める。ふつうのレスラーなら10年、15年かかっても到達しえない階段を、デビューからわずか1、2年のうちに駆け上がってしまうのだ。
新崎を待ち受けていたのは米国の超メジャー団体・WWF(現在はWWE)との長期契約である。
新崎以前、日本人レスラーがWWFマットに上がった例といえば、古くはジャイアント馬場やキラー・カーンがあげられる。また藤波辰巳のスポット参戦もあった。だが全日や新日といった国内メジャー団体のプロモートを通さず、フリーに近い選手がWWFの長期出場を勝ち得たのは新崎が初ではなかったか。例外としてマサ斉藤やキム・ドクがいるが彼らは元々、全米サーキットで食っていた選手である。
この凄さを、実はプロレスファンですら理解していない人が少なくない。当時からWWFはどのプロスポーツにも先んじて、海外マーケットの開拓に熱心で、莫大な売上と利益をたたき出していた。
具体的な数字で比較してみる。ニューヨーク証券取引所に上場している現在のWWEの売上高は約500億円。香川真司のいるマンチェスターユナイテッドは400億円。イチローの所属するNYヤンキースは340億円。日本国内に目を転じれば読売巨人軍は250億円、Jリーグ最大なら浦和レッズで60億円である。
つまりWWEは、世界各局へのコンテンツ配信、PPV(ペイ・パー・ビュー)収入、CM収入などで地球最大の経営規模を誇るメジャースポーツ・ビジネス団体といえる。そのトップコンテンダーであるレスラーは、世界最高峰のスポーツプレイヤーということになる。誤解を恐れず言えば、WWEのトップレスラーであるということは、サッカーや野球のビッグクラブのレギュラークラス以上の成功者なのだ。
残念なのは、日本においてプロレスが優れたスポーツビジネスとして認知されておらず、「筋書きのある八百長」といった低俗な見方しかできない社会環境にあることだ。東アジアと北中米限定の局地的スポーツである野球プレイヤーのイチローよりも、世界110カ国以上で放映されているWWFでトップを張った新崎の方がメジャープレイヤーというべき存在だ。少なくとも世界標準の考え方では。
米国から帰国後、新崎は団体の垣根を越え、日本のトップレスラーとビッグマッチを戦っていく。東京ドームでグレート・ムタ、両国国技館でハヤブサ、再び東京ドームでジャイアント馬場、愛知県体育館で三沢光晴・・・。スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとも戦った。新崎の年齢から逆算すれば、彼が小学生の頃にゴールデンタイムのテレビ番組で活躍していた大スターたちと、リング上で相まみえるわけだから、その心中いかなるものだっただろう。
プロレスラーとして熟練を重ね、「新崎人生」というギミックには着色がなされていく。コミックレスラーとの対戦では「しゃべらないキャラ」をコミカルに利用して笑いをとり、大物レスラーとの大一番ではアスリートライクに戦い興行の大トリを締め、そして全体的には紳士的で物静かな人格者としてリング・ウォッチャーの役割を果たしている。
万華鏡のようなレスラーの姿に触れると、冒頭に名前をあげたフレッド・ブラッシーと、彼の母親との会話が蘇る。はじめて試合会場に足を運んだフレッドの母親は、対戦相手のオデコに容赦なく噛みつき大流血させる息子に衝撃を受け、思わず問いかける。「いつもの母親思いの優しいおまえと、試合中の狂ったおまえ。どっちが本当のおまえなの?」。ブラッシーはこう答える。「どちらも本当の私ではない」。
□
20年の歳月は、プロレスを取り巻く風景を大きく変えた。
メジャーとインディーの壁は取り払われた。現IWGP王者の逸材レスラーは学生プロレス出身で、一番客を呼べる金の雨を降らすレスラーは「闘龍門」でプロレスを学んだ苦学生。ジュニアヘビーで最も身体能力の高いトンパチ・レスラーはインディーの「DDT」所属である。
「週刊ファイト」も「週刊ゴング」も廃刊された。神話やら戯曲やらを強引にリングに引っ張りあげ、観念論の世界で戯れ遊ぶプロレス記者たちはもういない。活字プロレスで育った中高年ファンは身の置き場がなくなった。
だが、格闘技経験ゼロのプロレスオタクの少年が、オリンピックでメダルを獲ったスポーツエリートと戦って勝ってしまう、といった摩訶不思議なプロレス的世界はいまだ健在である。
20年の間には、リング上で亡くなられたプロレス界の象徴たる名選手もいたし、若くして半身不随となる重傷を負った不世出の天才レスラーもいた。みちのくプロレス創業の頃から新崎とともに戦った早熟のいぶし銀レスラーは、30余歳の若さで旅立った。
ごく少ない競技人口に対して、これほどまで重大事故が起こる可能性の高いスポーツはないだろう。
言葉で本気さを訴える際に使う「命がけでやります」ではない。正真正銘の「命がけ」でレスラーたちはトップロープから5メートル下、コンクリートむき出しの場外へと飛ぶ。受け身の取れない状態で後頭部をマットに叩きつけられる。
三沢光晴やハヤブサ、愚乱・浪花と新崎との試合は、今でも動画投稿サイトで見られる。彼らの戦いは、心に沸き立つものを与えてくれる。この感じはいったい何なんだろうか。オリンピックのような純スポーツで得られる無垢な感動でもなく、徹底的に鍛え込まれたミュージカルを観たときの圧倒でもない。
薄暗いプロレスのリングが放つ摩訶不思議で人間臭く、不条理のともなった感銘は、プロレスという空間にしか存在しえない。その世界で新崎は20年、今もまだリングに立っている。
□
春になるとみちのくプロレスがやってくる。そんな気分を味わえるのは、今年が最後なのだろうか。街角に新崎のポスターが揺れ、興行が終わったあとも、取り外し忘れたポスターが風雨と日光に晒され朽ちていく。天気のいい日、交差点で停まった運転席から、半年前に終わったプロレスポスターを条件反射のように眺める。そんな平凡な観客としての日常も、いつか消えていくのだろう。
20周年記念大会のポスターに写った新崎は、少し微笑んでいる。これは菅原文太の付き人として役者を目指した青年か、四国遍路を修行して回る荒法師か、世界最大のスポーツビジネスの最前線に君臨した伝説のレスラーか、あるいはラーメンチェーン店のオーナーか。
「どれも本当の私ではない」と静かに微笑んでいる。
20年前、メキシコの国技ともいえるキャラクタープロレス、ルチャ・リブレをベースとしたみちのくプロレスが旗揚げされた。それまでの日本型プロレスの「嘘か真かわからないギミック」ではなく、誰の目から見てもギミックとはっきりわかるキャラクター設定を行った、陽気なプロレスを提供する革新的な団体であった。
「お遍路」をモチーフにしたプロレスラー・新崎人生は、最初はあいまいな設定だった。「極悪坊主」の異名でコブラクローや凶器攻撃を繰り出すルード(悪役)を演じていた。
潮目が変わったのは、デビューから1年後の東京・大田区体育館のサスケ戦だ。プロレス巡業を札所巡りになぞらえた新崎の「八十八番札所」目にあたる試合は、東北のローカル団体に過ぎなかったみちのくプロレスが東京の大バコで勝負に出た重要興行のメインイベントとして企画された。
対するサスケは、その前月まで新日本プロレスが主催する「第1回・スーパーJカップ」に出場し、ライガーやサムライといった当時トップ選手を次々と破り、準優勝をもぎ取っていた。インディー団体のレスラーが、メジャー団体の選手に勝つというのは、当時は「事件」レベルの出来事であり、なおさらサスケの存在が際だった。おまけに各試合ともテレ朝で全国放映され、サスケ人気に拍車をかけた。
この大田区の戦いで新崎は、それまでのルード(悪役)という立ち位置をかなぐり捨て、惜しみなく自らの持つレスリングテクニックを披露した。対するサスケも「明るく楽しい」ルチャドールとしてではなく、新日本プロレス練習生から這い上がってきた一レスラーとして戦った。試合では新崎の「拝みケブラーダ」も飛び出し、日本のインディープロレス史に残る好勝負となった。
大田区以降、新崎のレスラー人生は、恐ろしい勢いで動き始める。ふつうのレスラーなら10年、15年かかっても到達しえない階段を、デビューからわずか1、2年のうちに駆け上がってしまうのだ。
新崎を待ち受けていたのは米国の超メジャー団体・WWF(現在はWWE)との長期契約である。
新崎以前、日本人レスラーがWWFマットに上がった例といえば、古くはジャイアント馬場やキラー・カーンがあげられる。また藤波辰巳のスポット参戦もあった。だが全日や新日といった国内メジャー団体のプロモートを通さず、フリーに近い選手がWWFの長期出場を勝ち得たのは新崎が初ではなかったか。例外としてマサ斉藤やキム・ドクがいるが彼らは元々、全米サーキットで食っていた選手である。
この凄さを、実はプロレスファンですら理解していない人が少なくない。当時からWWFはどのプロスポーツにも先んじて、海外マーケットの開拓に熱心で、莫大な売上と利益をたたき出していた。
具体的な数字で比較してみる。ニューヨーク証券取引所に上場している現在のWWEの売上高は約500億円。香川真司のいるマンチェスターユナイテッドは400億円。イチローの所属するNYヤンキースは340億円。日本国内に目を転じれば読売巨人軍は250億円、Jリーグ最大なら浦和レッズで60億円である。
つまりWWEは、世界各局へのコンテンツ配信、PPV(ペイ・パー・ビュー)収入、CM収入などで地球最大の経営規模を誇るメジャースポーツ・ビジネス団体といえる。そのトップコンテンダーであるレスラーは、世界最高峰のスポーツプレイヤーということになる。誤解を恐れず言えば、WWEのトップレスラーであるということは、サッカーや野球のビッグクラブのレギュラークラス以上の成功者なのだ。
残念なのは、日本においてプロレスが優れたスポーツビジネスとして認知されておらず、「筋書きのある八百長」といった低俗な見方しかできない社会環境にあることだ。東アジアと北中米限定の局地的スポーツである野球プレイヤーのイチローよりも、世界110カ国以上で放映されているWWFでトップを張った新崎の方がメジャープレイヤーというべき存在だ。少なくとも世界標準の考え方では。
米国から帰国後、新崎は団体の垣根を越え、日本のトップレスラーとビッグマッチを戦っていく。東京ドームでグレート・ムタ、両国国技館でハヤブサ、再び東京ドームでジャイアント馬場、愛知県体育館で三沢光晴・・・。スタン・ハンセンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとも戦った。新崎の年齢から逆算すれば、彼が小学生の頃にゴールデンタイムのテレビ番組で活躍していた大スターたちと、リング上で相まみえるわけだから、その心中いかなるものだっただろう。
プロレスラーとして熟練を重ね、「新崎人生」というギミックには着色がなされていく。コミックレスラーとの対戦では「しゃべらないキャラ」をコミカルに利用して笑いをとり、大物レスラーとの大一番ではアスリートライクに戦い興行の大トリを締め、そして全体的には紳士的で物静かな人格者としてリング・ウォッチャーの役割を果たしている。
万華鏡のようなレスラーの姿に触れると、冒頭に名前をあげたフレッド・ブラッシーと、彼の母親との会話が蘇る。はじめて試合会場に足を運んだフレッドの母親は、対戦相手のオデコに容赦なく噛みつき大流血させる息子に衝撃を受け、思わず問いかける。「いつもの母親思いの優しいおまえと、試合中の狂ったおまえ。どっちが本当のおまえなの?」。ブラッシーはこう答える。「どちらも本当の私ではない」。
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20年の歳月は、プロレスを取り巻く風景を大きく変えた。
メジャーとインディーの壁は取り払われた。現IWGP王者の逸材レスラーは学生プロレス出身で、一番客を呼べる金の雨を降らすレスラーは「闘龍門」でプロレスを学んだ苦学生。ジュニアヘビーで最も身体能力の高いトンパチ・レスラーはインディーの「DDT」所属である。
「週刊ファイト」も「週刊ゴング」も廃刊された。神話やら戯曲やらを強引にリングに引っ張りあげ、観念論の世界で戯れ遊ぶプロレス記者たちはもういない。活字プロレスで育った中高年ファンは身の置き場がなくなった。
だが、格闘技経験ゼロのプロレスオタクの少年が、オリンピックでメダルを獲ったスポーツエリートと戦って勝ってしまう、といった摩訶不思議なプロレス的世界はいまだ健在である。
20年の間には、リング上で亡くなられたプロレス界の象徴たる名選手もいたし、若くして半身不随となる重傷を負った不世出の天才レスラーもいた。みちのくプロレス創業の頃から新崎とともに戦った早熟のいぶし銀レスラーは、30余歳の若さで旅立った。
ごく少ない競技人口に対して、これほどまで重大事故が起こる可能性の高いスポーツはないだろう。
言葉で本気さを訴える際に使う「命がけでやります」ではない。正真正銘の「命がけ」でレスラーたちはトップロープから5メートル下、コンクリートむき出しの場外へと飛ぶ。受け身の取れない状態で後頭部をマットに叩きつけられる。
三沢光晴やハヤブサ、愚乱・浪花と新崎との試合は、今でも動画投稿サイトで見られる。彼らの戦いは、心に沸き立つものを与えてくれる。この感じはいったい何なんだろうか。オリンピックのような純スポーツで得られる無垢な感動でもなく、徹底的に鍛え込まれたミュージカルを観たときの圧倒でもない。
薄暗いプロレスのリングが放つ摩訶不思議で人間臭く、不条理のともなった感銘は、プロレスという空間にしか存在しえない。その世界で新崎は20年、今もまだリングに立っている。
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春になるとみちのくプロレスがやってくる。そんな気分を味わえるのは、今年が最後なのだろうか。街角に新崎のポスターが揺れ、興行が終わったあとも、取り外し忘れたポスターが風雨と日光に晒され朽ちていく。天気のいい日、交差点で停まった運転席から、半年前に終わったプロレスポスターを条件反射のように眺める。そんな平凡な観客としての日常も、いつか消えていくのだろう。
20周年記念大会のポスターに写った新崎は、少し微笑んでいる。これは菅原文太の付き人として役者を目指した青年か、四国遍路を修行して回る荒法師か、世界最大のスポーツビジネスの最前線に君臨した伝説のレスラーか、あるいはラーメンチェーン店のオーナーか。
「どれも本当の私ではない」と静かに微笑んでいる。