バカロードその56 冒険心朽ちた中高年男としてのあてどなき走り旅について

公開日 2013年08月22日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 休みを見つけると、ときどき遠くまで走ってみる。
 いちおうゴール地点は決めておいて、途中の行程はなりゆきまかせ。ルートの下調べはテキトーに、曲がり角にさしかかれば道路標識の矢印を気の向くままに選び、日が落ちて程よい頃に宿に出くわせば飛びこみで泊まり、なければ野宿する。
 ゴールは200キロ先だったり300キロ先だったり。一日に80キロくらい移動するから、休みの日数をかけ算して、自宅から同心円を地図に描けば、ゴール地点の候補が見つかる。小さくてもいいから温泉宿か、もしくはスーパー銭湯のある街を選ぶ。戦い終えたジャニーランナーの異臭は、一般人の鼻孔をツンと刺激するはずだから。
 荷物はなるべく少なめに・・・というかほとんど持たない。わが国では、必要なものは、必要なときに、いずこでも購入できる。よほどの山奥に分け入らないかぎり。
 初日に着るシャツは捨てる前提。二日目以降は、百均ショップで売ってる安シャツに着替えながら進めば洗濯の手間がかからない。ただでさえ狭苦しいわが家の押し入れスペースを圧迫しているのは、マラソン大会の参加賞でいただく新品のTシャツ段ボール箱3個分、軽く100枚以上。これを消費するチャンスである。どう考えてもダサすぎて二回とは着ないと思われるブツを選びに選び抜く。毛書体で「○○マラソン大会」とものすごく大きくプリントされた1枚に目が止まる。これしかない。
 シャツと同様、ベロベロに伸びきりながらも捨てられなかった靴下のつま先をハサミで切り落とし、使い捨てアームカバーとして用いる。こいつも汗が乾いて臭くなったらゴミ箱にポイしてやればいいのだ。
 てな感じの着こなしをしている事実を忘れ、通りがかった商店街のショーウインドーを、ランニングフォームを確認すべくチラ見すれば、超ダサいマラソンシャツにくたびれた靴下を腕に巻き、防寒用のボロタオルを頬っかむりしたコントの泥棒のようなオッサンがガラスに映っている。なんたるファッションセンスか。
 そして結局は、ダサシャツも穴あき靴下もなんとなく捨てるに忍びず、こまめに石けんで手洗いし、最終日まで着続けたあげく、捨てることなく自宅まで着て帰る。「断捨離」が一世風靡する消費社会には、まったく適合できない古い世代である。
 着の身着のままなれど、夜間照明用のヘッドランプとホタル(赤く点滅するやつ)と反射板だけは持っている。これはジャーニーランナーの義務ですね。持ってるのはそれだけかな。あ、あとクレジットカードとゆうちょカードも。ゆうちょカード、ド田舎ではアメックスのブラックカードより威力を発揮します。
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 走って旅に出るのはGWや盆休み、大晦日前や正月明けが定番。4日、5日と走ってすごす時間はひたすら冗長。民家の影もない林道とか、観光地どころかお地蔵さんすら現れない田舎の酷道とか。俗世を離れ、もたらされた思索の時を利用して、人生の価値を問い直したり、素晴らしいビジネスのアイデアを閃かせることはない。(なんかたいくつ〜。何か事件でも起こってよ〜)とオネエ的にくねくねしてる時間帯が長い。1日に12時間も走っていると「飽きた」と考えることにも飽きて、無の状態に近づく。良くいえば禅の境地である無念無想、実際は脳みそ空白パッパラパー。
 ヒマに耐えきれず、文庫本を読みながら走ってみたりもするが、物語に夢中になると崖から足を踏み外しそうになる。危険だからおすすめしない。

 ふだんから、身に降りかかる悪い出来事は他人のせいにし、責任は部下に押しつけ、イライラして物にあたるなど短気なタチなのに、よくもまあ何百キロもとろとろと走るなんて気長なことやってるよな、と感心する。学校の授業中10分と席に着いてられないガラ悪のニイチャンが、パチンコ屋なら1日じゅう狭苦しいビニル張りイスに座ってられるのと同じ肉体感覚かな。
 今からの季節、年末年始ジャーニーランはタフさを要求される。単純に寒いですからね。
 峠道にさしかかると、たいてい吹雪かれる。登山靴ならまだしもメッシュ素材のランニングシューズで雪道を走るのは地獄。しじゅう氷水に足先をひたしてるような責め苦が1日つづく。どんなに寒くても、自販機のひとつでも出くわせばホットコーヒーをカイロ代わりに耐え忍べるが、そこは峠道という場所柄、自販機などあるはずもない。降り止まぬ牡丹雪を見上げながら、お堂の軒先にあぐらをかいて、凍傷寸前の足指をもみもみ血流をうながす。
 夜、気温5度を下回ると、野宿しても眠れっこないから、一晩じゅう走りつづける。
 山村にさしかかると、民家の窓のカーテン越しにオレンジ色の温かな照明具の光が透け、テレビのバラエティ番組の効果音の笑い声が漏れる。ガラス一枚向こうには一家団欒のぬくもりがある。こういうシチュエーションが、真冬の走り旅では最も心をゆさぶられる場面である。旅立ちの頃のハイテンションはすでに過去のもの。一刻も早くこの旅を終え、熱い湯船に身を横たえ鼻先まで浸かりたい。ふかふかの布団にもぐりこんだまま、撮りだめしたサイエンス番組や借りてきたハリウッド映画のDVDを観たい。素粒子物理学者がついに解き明かしたという宇宙誕生の瞬間や、アメリカ合衆国を中心に人類が滅亡していく様子を、ぬくぬくと寝ころんで見物するのだ。そんな夢想とも幻覚ともつかないゆるさへの渇望にとらわれる。
 指の10本の爪、凍えて割れそうだ。浸みだしたシャツの汗がバリバリと背中にへばりつく。白い息を蒸気機関車のようにたなびかせる。自動車一台通らない峠道に赤ホタルを点滅させ、下界の暮らしを恋い焦がれる。
 こんな風に朝まで走りつづけることもあれば、運よく宿に出くわす夜もある。
 闇夜の奥に、ホテルの小さな看板の白い灯火がチラチラ揺れる。これは幻か狐火かと疑いながらも、淡い期待に胸躍らせる。
 それが例え1泊1500円のドミトリー部屋でも、湿ったせんべい布団一枚、ナイロン畳の木賃宿でも、朝までご宿泊2980円の壁の染みが幽霊に似たラブホテルでも、屋根があって熱いシャワーが浴びられる家屋であるなら、しあわせこのうえない。
 なんせ比較対象が野宿とか徹夜ランである。吹きすさぶ寒風にさらされることなく、幅狭のバス停ベンチから寝ぼけて転落する心配もない人家の布団で、両の手足を伸ばして眠れるなんて貴族階級待遇でしょ。
 そういや最近、格安で泊まれる宿を見つけ、玄関で旅装をときながら「こんな所に安宿あったんですね」とか「貧乏宿はありがたいもんですね」なんて持ち上げてると、「うちはゲストハウスですよ」と釘を刺された。かつては北海道や沖縄、さらに東京・大阪のドヤ街にしかなかった1泊1000円台の安宿だが、知らぬ間に「ゲストハウス」と名称を変え、全国いたる所、ロードサイドや路地裏に誕生している。多くは20代や30代の若者が経営者や管理人を務め、インテリアはリサイクル家具や貝殻アートやエスニック柄のファブリックでオシャレっぽくしている。ゴミの分別には超厳しくて、夜ごとプチパーティーや週末バーなどもありーので、流行りのシェアハウス的なノリで盛り上がっている。日本経済を末端で支える中高年男としては、そんな若者たちのノリに適合できるはずもなく、寂しい思いをするばかりだが、孤独に耐えきる覚悟さえあれば快適に過ごせなくはない。
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 さて中高年男よ、せっかくの連休をつぶし、いろんな切なさや孤独を乗り越えてまで何で走ろうとするんだろうかね。
 強迫観念かな。まとまった休みに、アウトレットパークでタイムセール品を買い漁ったり、テーマパークで着ぐるみキャラとダンスしたり、デパ地下でスイーツ食べ歩いたり、心豊かに過ごすことが怖いんだろうね。すり減った感が欲しいんだ。何かをやったんだって証を得るために、自分を削り取っていく自傷行為をしたいんだ。SM女王様に猿ぐつわされないと満たされない男が、女子大生キャバ嬢と低俗なシモネタトークしてもつまらないのと同じ精神感覚かな。だいぶ病んどりますな。仏門に入る日も近し。