公開日 2013年08月22日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
最近の若いキャツらはマニュアルがないと何ひとつ行動できんねー!と居酒屋でクダまいておしぼりで脇の下を拭いてるオヤジ世代の一味でありながら、わが走りはトンと自己主張に欠けている。
体重1キロ痩せたらフルが3分速くなると聞けば絶食に挑み、かんじんのレースで枯渇。本番3日前から炭水化物を大量に採るべしと過剰にバカ食いして大会当日腹をこわす。
最近の若いキャツらはマニュアルがないと何ひとつ行動できんねー!と居酒屋でクダまいておしぼりで脇の下を拭いてるオヤジ世代の一味でありながら、わが走りはトンと自己主張に欠けている。
体重1キロ痩せたらフルが3分速くなると聞けば絶食に挑み、かんじんのレースで枯渇。本番3日前から炭水化物を大量に採るべしと過剰にバカ食いして大会当日腹をこわす。
「BORN TO RUN」を真に受けてアスファルトの上を裸足ランして足底筋を痛め治療に半年。人間機関車ザトペックが400メートル×100本インターバルやってたと聞きつければサルマネをして無理がたたり会社を休む。エルドレット高原のケニア人たちは子どもの頃からつま先着地だとの科学者の分析を受け入れバレリーナのごとくつま先で駆け、いいやジャーニーランナーたるものズリ足走法が関節を守るすべだとのベテラン氏の矯正によりカカト足着地に再改良。大会前日のQちゃんマラソン講座で「うで振りをしっかりと!」とアドバイスされたら「ハイッ!」と元気に返事して筋肉痛になるくらい腕を振り、そんなに腕を振ってるとエネルギーロスがひどいよと先輩ランナーに諭され二の腕をピタリと静止する。
他人の意見にすべて同調し、結果なーんにも身につかないまま中途半端なフォームでぎこちなく走る。
山と田んぼしかないド田舎で育った四十路男。青春時代の情報源といえば、本屋さんに並ぶ雑誌「ポパイ」に「ホッドトックプレス」に「宝島」。洋モノカルチャー輸入・移植の全盛時代の末期であり、典型的なマニュアル追従の世代なのである。こんなブランド着たらモテモテだよねか、こんなスポーツカー乗ったら女が食いつくゼとか、他人が考えてくれた路線に乗っかって生きていくことを心地よく感じる性分はオッサンになっても治らず、リディアード教本から増田明美の恋愛小説までランニング関連書籍を100冊以上読破するが、モテ男マニュアルが現実社会では役に立たないのと同じく、いっぱい読書したからって脚が速くなるわけもない。
□
100キロレースに過去20回ほど出て、潰れずゴールまで走りきれたのは1回こっきり。潰れ率95%のハイアベレージである。
フルマラソンだと、一流ランナーでも「35キロの壁」が克服すべきポイントとされ、調子よく走ってた選手がボロボロに崩れていく姿が、テレビ中継では視聴者の情緒を刺激する。35キロでダメになったら残り7キロってほんとに長く感じるよね。でも、まあ7キロだから辛くても1時間がまんすりゃいい。
それに比べてウルトラマラソンの「潰れ」はやっかいだ。70キロでアウトになれば残り30キロ、50キロだとあと50キロもヘロヘロしなくちゃいけない。潰れて歩きが入るとキロ10分すら切れなくなり10キロ前進するのに2時間もかかる。散歩中のオバサンが不思議そうな顔でこっちを見ながら追い越していく。もがき苦しんでも1キロごとの距離表示板は見えてこない。暗い気分が増幅し、徐々に気が遠くなってくる。
□
ひとことで「潰れる」と言っても、症状としてはいろいろで原因もまちまちである。
心肺能力の限界を越え、乳酸処理が間に合わなくなった「もうぜんぜん動けません」枯渇か。
バテバテ体質がために体重の10%近い水分が流れ落ちてしまった重度脱水症ゾンビか。
汗かき余波で血糖やら電解質やら失って、脚よ腹よと全身の筋肉が攣りまくって、陸に打ちあがった魚のように道ばたでピクピクしてるヘンなオジサンか。
数万歩の着地で絹ごし豆腐のように力をなくした筋肉がヒザ関節を支えられずに、カックンカックンと歩むあやつり人形マリオネット状態か。
胃酸過多だか胃酸ストップだか知らんが胃が暴れはじめて涙目のゲロゲロ。やがて消化管からなんにも吸収できなくなった完全バーンアウト君か。
いずれにしろ「走りたい」って気力があるにも関わらず、肉体が死びと寸前になった状態を「潰れた」と呼んでいる。
お金を払った見返りに苦しみや痛みを求めるのは、一般的にはマニアな性癖嗜好の持ち主だとされる。まっとうな社会人たるもの、額に汗して稼いだゼニ使うならば、快楽に変換されないと意味がない。
それなのにウルトラランナーってやつは、なけなしの貯金から遠征費を5万円も10万円もはたいて、夜も明けぬ午前3時前には起きだしては、汗まみれ血まみれドロまみれに100キロの道のりをゆく。誉められもせず、苦にもされず。首尾よくゴールまでたどりつけたらマシ。たいていは途中でぶっ潰れて、エイドステーションのパイプ椅子の背にグデッともたれかかるか、あるいはブルーシートに大の字グロッキーになって自己存在への大いなる疑問を涌きたたせている。週明け月曜、会社を無理やり休んで、飛行機乗り継いで遠くまでやってきて、オレはいったい何をやっておるのか。こんな所で動けなくなっているブザマなわが身とは何ぞや。
脳みそは厳しさよりゆるさを求める構造にできていて、一度歩みを止めると元には戻れない。走るのより歩くのが楽、歩くより座るのが楽、座るより寝ころぶのが楽。わざわざ時間と金かけて遠くまで来たんだし、せめて関門に間に合う程度には、と下うつむいて歩く。
毎度毎度、潰れ状態に陥ってしまうのは、練習不足が原因なんだろうか。「走った距離は裏切らない」って金言は、多くの勤勉なランナーの心の拠り所であるし、やっぱ走行距離が足りないんだろうかね。
しかしウルトラマラソンにおける練習不足ってどんなんだ。フルマラソンに向けて40キロ走を何本かこなすのは定番メニューだけど、100キロレースの練習に100キロ走をやってる人なんて知らない。こなせても50キロ走とか60キロ走なんだから本番では一発勝負になってしまう。「本番の半分の距離を練習で走れてたら大丈夫」とのありがたい金言もあるが、ボクの場合、練習で50キロ走を楽々こなし万全だと自信を深めていても、本番では必ず潰れる。やっぱ100キロ走りきるには100キロの練習が必要なんだ、きっと。
このような崇高な結論に至りつつあるボクの横を、レース終盤にも関わらずぺちゃくちゃ余裕でお喋りしながらランナーが追い越していく。こーゆー人に限って「練習なんて特にしてないのよね。レースが練習がわりなのよ」なんてケロッとしている。大会前夜にアルコール・ローディングと称してガバガバ酒を飲んで宴会してる酒豪もおれば、密かにペットボトルにビールやらワインを密造酒よろしく移し替え、レース中に酔っぱらってる人だっている。
こちとら月間500キロも走って、専門書を100冊も漁り読み、スタート前のウンコのタイミングを見計らって15時間前きっかりにメシ食ったりして超本気の臨戦モードだってのに。これほど気マジメに取り組んでるにも関わらず、「練習なんてしないよ」オジサンたちに笑いながら追い抜かされる屈辱よ。努力なんて、努力なんて・・・何にも報われねーじゃねーかぁぁぁぁ。
そんな風に身も心もザクザク傷ついたからといって、ウルトラ世界の人びとに慰めてもらおうなんて魂胆は抱くべきではない。さらにひどい仕打ちを食らう可能性がある。女性ランナーなどもってのほかだ。
「やっぱキツいですよねー。もうボクぜんぜんダメです。つらいですぅ」なんて話しかければ、(ほんとよね。でもここまでよく頑張ったじゃない。もう少しよ。頑張ってるキミ、なかなかステキよ)的な愛あふれる言葉が返ってくるなんて期待してたら大間違い。
「何言ってんの!レースはここからでしょ!グダクダ弱音吐いてんじゃないわよ!」と一喝され、ぼうぜんと置き去りにされる。特にトレイルの100キロとか、ロードの200キロ以上とか、道のりが険しけりゃ険しいほど、女性ランナーは強くたくましく、弱虫坊やのたわごとなど一顧だにしない。
巷でブームの熟女といえば、懐が深く、すべてを受け入れてくれる優しさが年下男を夢中にさせてるわけだが、ウルトラ世界の淑女の方々はそうはいかない。痛くても苦しくても歩みを止めず、大地と空の境界線をキリリと睨んで前進する気丈さに溢れている。泣き言なんて受け入れる余地はない。いったい今まで何度、女性ランナーに叱り飛ばされたことか。最近ではクセになって、わざと怒られるよう甘えん坊を装ったりもしている。自分のなかに新種の変態性が芽生えつつある。
こうやって渋谷系ポップミュージック的甘い甘いカプチーノな雑念にまみれ、自責と悔恨の念に苛まれつつゴールテープを切る。ゴールシーンを撮影してくれるカメラマンが待ち構えてくれているから、少しだけガッツポーズの真似事をする。心がこもってないから拳に力なく、両手をだらしなくあげる。そして今日もまたうまくいかなかったと落ち込みながらソソクサと着替えをし、送迎バスの段差を震えるヒザで登り、職場への言いわけ程度の土産を買ってかの地を後にする。
「走った距離は裏切らない」は、どうやらウルトラマラソンの世界には通用しない。努力の分量と成果には何の一致も見られない。これは社会の構図と同じ。
ボクの人生ほどほどにイマイチ、ランニングもやっぱイマイチ。結局、ランナーだろうとサラリーマンだろうと、それを演じてる人物はボクという人間なんだから、びっくりするような結果が飛び出すはずもない。土曜と日曜と月曜をつぶしては、何百キロも遠方の見知らぬ土地までのこのこ出かけ、日々嫌というほど繰り返している失敗やら幻滅を追体験し、「マラソンは人生の縮図である」を実感する。そして火曜日には職場に戻りウルトラマラソンのような制御不能な人生をまたひた走る。どんな練習をしてもうまく走れない。だけど走る。走ってないとダメになりそうだから走っている。
他人の意見にすべて同調し、結果なーんにも身につかないまま中途半端なフォームでぎこちなく走る。
山と田んぼしかないド田舎で育った四十路男。青春時代の情報源といえば、本屋さんに並ぶ雑誌「ポパイ」に「ホッドトックプレス」に「宝島」。洋モノカルチャー輸入・移植の全盛時代の末期であり、典型的なマニュアル追従の世代なのである。こんなブランド着たらモテモテだよねか、こんなスポーツカー乗ったら女が食いつくゼとか、他人が考えてくれた路線に乗っかって生きていくことを心地よく感じる性分はオッサンになっても治らず、リディアード教本から増田明美の恋愛小説までランニング関連書籍を100冊以上読破するが、モテ男マニュアルが現実社会では役に立たないのと同じく、いっぱい読書したからって脚が速くなるわけもない。
□
100キロレースに過去20回ほど出て、潰れずゴールまで走りきれたのは1回こっきり。潰れ率95%のハイアベレージである。
フルマラソンだと、一流ランナーでも「35キロの壁」が克服すべきポイントとされ、調子よく走ってた選手がボロボロに崩れていく姿が、テレビ中継では視聴者の情緒を刺激する。35キロでダメになったら残り7キロってほんとに長く感じるよね。でも、まあ7キロだから辛くても1時間がまんすりゃいい。
それに比べてウルトラマラソンの「潰れ」はやっかいだ。70キロでアウトになれば残り30キロ、50キロだとあと50キロもヘロヘロしなくちゃいけない。潰れて歩きが入るとキロ10分すら切れなくなり10キロ前進するのに2時間もかかる。散歩中のオバサンが不思議そうな顔でこっちを見ながら追い越していく。もがき苦しんでも1キロごとの距離表示板は見えてこない。暗い気分が増幅し、徐々に気が遠くなってくる。
□
ひとことで「潰れる」と言っても、症状としてはいろいろで原因もまちまちである。
心肺能力の限界を越え、乳酸処理が間に合わなくなった「もうぜんぜん動けません」枯渇か。
バテバテ体質がために体重の10%近い水分が流れ落ちてしまった重度脱水症ゾンビか。
汗かき余波で血糖やら電解質やら失って、脚よ腹よと全身の筋肉が攣りまくって、陸に打ちあがった魚のように道ばたでピクピクしてるヘンなオジサンか。
数万歩の着地で絹ごし豆腐のように力をなくした筋肉がヒザ関節を支えられずに、カックンカックンと歩むあやつり人形マリオネット状態か。
胃酸過多だか胃酸ストップだか知らんが胃が暴れはじめて涙目のゲロゲロ。やがて消化管からなんにも吸収できなくなった完全バーンアウト君か。
いずれにしろ「走りたい」って気力があるにも関わらず、肉体が死びと寸前になった状態を「潰れた」と呼んでいる。
お金を払った見返りに苦しみや痛みを求めるのは、一般的にはマニアな性癖嗜好の持ち主だとされる。まっとうな社会人たるもの、額に汗して稼いだゼニ使うならば、快楽に変換されないと意味がない。
それなのにウルトラランナーってやつは、なけなしの貯金から遠征費を5万円も10万円もはたいて、夜も明けぬ午前3時前には起きだしては、汗まみれ血まみれドロまみれに100キロの道のりをゆく。誉められもせず、苦にもされず。首尾よくゴールまでたどりつけたらマシ。たいていは途中でぶっ潰れて、エイドステーションのパイプ椅子の背にグデッともたれかかるか、あるいはブルーシートに大の字グロッキーになって自己存在への大いなる疑問を涌きたたせている。週明け月曜、会社を無理やり休んで、飛行機乗り継いで遠くまでやってきて、オレはいったい何をやっておるのか。こんな所で動けなくなっているブザマなわが身とは何ぞや。
脳みそは厳しさよりゆるさを求める構造にできていて、一度歩みを止めると元には戻れない。走るのより歩くのが楽、歩くより座るのが楽、座るより寝ころぶのが楽。わざわざ時間と金かけて遠くまで来たんだし、せめて関門に間に合う程度には、と下うつむいて歩く。
毎度毎度、潰れ状態に陥ってしまうのは、練習不足が原因なんだろうか。「走った距離は裏切らない」って金言は、多くの勤勉なランナーの心の拠り所であるし、やっぱ走行距離が足りないんだろうかね。
しかしウルトラマラソンにおける練習不足ってどんなんだ。フルマラソンに向けて40キロ走を何本かこなすのは定番メニューだけど、100キロレースの練習に100キロ走をやってる人なんて知らない。こなせても50キロ走とか60キロ走なんだから本番では一発勝負になってしまう。「本番の半分の距離を練習で走れてたら大丈夫」とのありがたい金言もあるが、ボクの場合、練習で50キロ走を楽々こなし万全だと自信を深めていても、本番では必ず潰れる。やっぱ100キロ走りきるには100キロの練習が必要なんだ、きっと。
このような崇高な結論に至りつつあるボクの横を、レース終盤にも関わらずぺちゃくちゃ余裕でお喋りしながらランナーが追い越していく。こーゆー人に限って「練習なんて特にしてないのよね。レースが練習がわりなのよ」なんてケロッとしている。大会前夜にアルコール・ローディングと称してガバガバ酒を飲んで宴会してる酒豪もおれば、密かにペットボトルにビールやらワインを密造酒よろしく移し替え、レース中に酔っぱらってる人だっている。
こちとら月間500キロも走って、専門書を100冊も漁り読み、スタート前のウンコのタイミングを見計らって15時間前きっかりにメシ食ったりして超本気の臨戦モードだってのに。これほど気マジメに取り組んでるにも関わらず、「練習なんてしないよ」オジサンたちに笑いながら追い抜かされる屈辱よ。努力なんて、努力なんて・・・何にも報われねーじゃねーかぁぁぁぁ。
そんな風に身も心もザクザク傷ついたからといって、ウルトラ世界の人びとに慰めてもらおうなんて魂胆は抱くべきではない。さらにひどい仕打ちを食らう可能性がある。女性ランナーなどもってのほかだ。
「やっぱキツいですよねー。もうボクぜんぜんダメです。つらいですぅ」なんて話しかければ、(ほんとよね。でもここまでよく頑張ったじゃない。もう少しよ。頑張ってるキミ、なかなかステキよ)的な愛あふれる言葉が返ってくるなんて期待してたら大間違い。
「何言ってんの!レースはここからでしょ!グダクダ弱音吐いてんじゃないわよ!」と一喝され、ぼうぜんと置き去りにされる。特にトレイルの100キロとか、ロードの200キロ以上とか、道のりが険しけりゃ険しいほど、女性ランナーは強くたくましく、弱虫坊やのたわごとなど一顧だにしない。
巷でブームの熟女といえば、懐が深く、すべてを受け入れてくれる優しさが年下男を夢中にさせてるわけだが、ウルトラ世界の淑女の方々はそうはいかない。痛くても苦しくても歩みを止めず、大地と空の境界線をキリリと睨んで前進する気丈さに溢れている。泣き言なんて受け入れる余地はない。いったい今まで何度、女性ランナーに叱り飛ばされたことか。最近ではクセになって、わざと怒られるよう甘えん坊を装ったりもしている。自分のなかに新種の変態性が芽生えつつある。
こうやって渋谷系ポップミュージック的甘い甘いカプチーノな雑念にまみれ、自責と悔恨の念に苛まれつつゴールテープを切る。ゴールシーンを撮影してくれるカメラマンが待ち構えてくれているから、少しだけガッツポーズの真似事をする。心がこもってないから拳に力なく、両手をだらしなくあげる。そして今日もまたうまくいかなかったと落ち込みながらソソクサと着替えをし、送迎バスの段差を震えるヒザで登り、職場への言いわけ程度の土産を買ってかの地を後にする。
「走った距離は裏切らない」は、どうやらウルトラマラソンの世界には通用しない。努力の分量と成果には何の一致も見られない。これは社会の構図と同じ。
ボクの人生ほどほどにイマイチ、ランニングもやっぱイマイチ。結局、ランナーだろうとサラリーマンだろうと、それを演じてる人物はボクという人間なんだから、びっくりするような結果が飛び出すはずもない。土曜と日曜と月曜をつぶしては、何百キロも遠方の見知らぬ土地までのこのこ出かけ、日々嫌というほど繰り返している失敗やら幻滅を追体験し、「マラソンは人生の縮図である」を実感する。そして火曜日には職場に戻りウルトラマラソンのような制御不能な人生をまたひた走る。どんな練習をしてもうまく走れない。だけど走る。走ってないとダメになりそうだから走っている。