公開日 2014年12月19日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
大人になるってのは旅する人になるということだ、と少年の頃は固く信じていた。港、港に女を待たせる星野哲朗演歌ワールドな船乗りさんか、街を終われ世間に隠れ終の棲家を求めてさすらう昭和枯れすすきな訳あり人か、街の外れでキャンプを張り年端もゆかぬ子供たちに怪しい人生観をたれるスナフキン的流浪人か。
大人になるってのは旅する人になるということだ、と少年の頃は固く信じていた。港、港に女を待たせる星野哲朗演歌ワールドな船乗りさんか、街を終われ世間に隠れ終の棲家を求めてさすらう昭和枯れすすきな訳あり人か、街の外れでキャンプを張り年端もゆかぬ子供たちに怪しい人生観をたれるスナフキン的流浪人か。
砂と埃にまみれたマントを羽織り、シケモクの紫煙をくゆらせては、身支度品を詰めこんだ寅さんトランクを片手に、街から街へと見知らぬ土地を渡り歩く。そんな18世紀ランボー詩情な大人のありようは、自分が大人になった21世紀には軽るーく絶滅していた。退廃した夜に出会うはずのロシア文学を読む娼婦なんて、安保闘争の終焉とともに消滅した。
ニッポンという国は、ずいぶん健全で明るい社会になったのである。少年の頃に憧れた日陰者な大人は、本当のアンダーグラウンドへと姿を消してしまいました。
私は何が言いたいんでしょうか。そう、このコラムはジャーニーランについて書いているのです。越境人も密航もなくなった世の中で、日々どこかの街に宿を求め、次の日には別の街へと移動する。そんなジャーニーランの世界は、子供の頃に夢見た流浪人生の疑似体験の機会を与えてくれる。見知らぬ者が各地から集まり、何十人もの大所帯でキャラバンを組む。同じ釜のメシを食い、フリチンで湯に浸かり、枕を並べて眠る。恋人や旧知の友とでもめったにしない濃密な旅が繰り返される。
「トランス・エゾ ジャーニーラン」は、日本最北端の宗谷岬から、太平洋岸のえりも岬へ向かい、取って返して宗谷岬へ。約1100kmを14日間かけて走る。その最大の魅力は、キャラバンを構成するメンバーの多彩さだ。ランナーのみならず、彼らを支えるボランティアクルー、走りを見届けるべく合流する家族、ランニングクラブの少年少女たち、身体のケアをしてくれる大学生たち。下は小学生から上は70代まで、異なる年齢や立場の人たちが集団となって移動していく。
今年の「トランス・エゾ」には、1097kmの宗谷岬→えりも岬往復に8名、541kmの宗谷岬→えりも岬に4名、556kmのえりも岬→宗谷岬に12名、あわせて24名が参加した。各ステージ間の距離は以下。
1日目.宗谷岬〜幌延 75km
2日目.幌延〜羽幌 83km
3日目.羽幌〜北竜 85km
4日目.北竜〜栗山 88km
5日目.栗山〜富川 72km
6日目.富川 〜浦河 84km
7日目.浦河〜えりも岬 54km
8日目.えりも岬〜忠類 82km
9日目.忠類〜新得 88km
10日目.新得〜富良野 80km
11日目.富良野〜旭川 67km
12日目.旭川〜美深 98km
13日目.美深〜浜頓別 81km
14日目.浜頓別〜宗谷岬 61km
カラッカラに晴れているはずの夏の北海道は、ぼくたちの歩調につきまとうように雨雲が天を覆いつくし、この地に降る一年分の雨をまとめて出血大放出しているかのようだった。3日目には豪雨のためコース経路の国道232号線が遮断され、強行突破したランナーの目の前で土石流が道路を横断して海へとなだれ落ちた。
えりも岬からの復路ではヒグマの気配がぷんぷん感じられた。10日目には廃線上のぬかるみ道に足サイズ40cmはあろうかというヒグマの足跡が点在していた。太平洋岸と内陸部の要衝である十勝国道・狩勝峠の三合目と四合目の間で、ぼくの前方50mの所を、体長2mほどのヒグマが道路を猛スピードで横切って森へと消えた。ちょっとタイミングがずれたら、あの地上最大の肉食獣(ドングリ食だっけ?)とサシで戦う所だったのか。
13日目、浜頓別市街へと下る丘陵地では、ヒグマ出没の報を受けて警察車両が登場。最終ランナーに併走してヒグマから守ってくれた。ぼくたちは人工物のアスファルトの上にいることで安心しきっているが、実際は野生の臭いが濃く残る北海道の大自然の中に、丸腰でいるのである。
ステージレースに徹夜走はない。毎日のゴール後には十分な量の食事を採り、大方の宿で良質の温泉に浸かれ、柔らかな布団で身体を休められる。とはいえ、平均79kmを14日間走りつづけることは楽ではない。多くのランナーは足の裏に巨大な血マメをつくり、スネや足首やアキレス腱を空気入れでパンパンに膨らませたように腫らせている。ふだん50km、100kmと走るのがへっちゃらな人たちが、背筋を大きく傾け、テーピングでぐるぐる巻にした脚を引きずりながらゴールを目指すさまは、憂いと切なさに満ちている。
雨に打たれ、日に焼かれて前へ前へと一歩を出し続ける。ゴールの先には輝ける栄光はない。一般社会の評価に値するような実績にもならない。そもそも夏に1100km走るんだと他人に説明しても、奇異な目で見られるのがオチなので、あまりしゃべらないようにしている。
14日目、この旅ではじめて訪れた完ぺきな晴天は、オホーツクの海を碧に染め、水平線の上に南樺太・サハリンの島影まで浮かび上がらせた。視界100km以上、天球の丸さまで感じさせる。去年、熱中症に負けて50kmだけ欠けた全行程を、今年はケガまみれながら走りきることができた。奇跡の光景は祝福なのだと独りよがりに解釈しておこう。
青一色に包まれた宗谷岬の先っぽに設けられた手作りのゴールに、ランナーたちは飛び込んでいく。全ステージを完走した人も、途中でリタイアを余儀なくされた人も、それぞれのゴールを迎える。
「トランス・エゾ」には完走賞も完走メダルも不要だ。勲章は自分の胸の内側にかけられる。自分を称えられるかどうか、その基準は「どれだけのことができたか」だ。自分が置かれた環境のなかで、不器用にもがき切れたか。長い間自分を苦しめた病気は克服できたのだろうか。怪我を負ったなかでやれる対処は全て尽くせただろうか。年齢とともに全盛期の健脚を失っている自分と正面から向かいあえただろうか。他者から見た評価ではない、自分が自分に対して与える評価だ。
2014年の今を生きるぼくは、今持ちうる最大の力を振り絞れたのだろうか。
宗谷丘陵からオホーツクの海へと続く急な下り坂を、青い空と海の境目に向かって駆け下りる。
ニッポンという国は、ずいぶん健全で明るい社会になったのである。少年の頃に憧れた日陰者な大人は、本当のアンダーグラウンドへと姿を消してしまいました。
私は何が言いたいんでしょうか。そう、このコラムはジャーニーランについて書いているのです。越境人も密航もなくなった世の中で、日々どこかの街に宿を求め、次の日には別の街へと移動する。そんなジャーニーランの世界は、子供の頃に夢見た流浪人生の疑似体験の機会を与えてくれる。見知らぬ者が各地から集まり、何十人もの大所帯でキャラバンを組む。同じ釜のメシを食い、フリチンで湯に浸かり、枕を並べて眠る。恋人や旧知の友とでもめったにしない濃密な旅が繰り返される。
「トランス・エゾ ジャーニーラン」は、日本最北端の宗谷岬から、太平洋岸のえりも岬へ向かい、取って返して宗谷岬へ。約1100kmを14日間かけて走る。その最大の魅力は、キャラバンを構成するメンバーの多彩さだ。ランナーのみならず、彼らを支えるボランティアクルー、走りを見届けるべく合流する家族、ランニングクラブの少年少女たち、身体のケアをしてくれる大学生たち。下は小学生から上は70代まで、異なる年齢や立場の人たちが集団となって移動していく。
今年の「トランス・エゾ」には、1097kmの宗谷岬→えりも岬往復に8名、541kmの宗谷岬→えりも岬に4名、556kmのえりも岬→宗谷岬に12名、あわせて24名が参加した。各ステージ間の距離は以下。
1日目.宗谷岬〜幌延 75km
2日目.幌延〜羽幌 83km
3日目.羽幌〜北竜 85km
4日目.北竜〜栗山 88km
5日目.栗山〜富川 72km
6日目.富川 〜浦河 84km
7日目.浦河〜えりも岬 54km
8日目.えりも岬〜忠類 82km
9日目.忠類〜新得 88km
10日目.新得〜富良野 80km
11日目.富良野〜旭川 67km
12日目.旭川〜美深 98km
13日目.美深〜浜頓別 81km
14日目.浜頓別〜宗谷岬 61km
カラッカラに晴れているはずの夏の北海道は、ぼくたちの歩調につきまとうように雨雲が天を覆いつくし、この地に降る一年分の雨をまとめて出血大放出しているかのようだった。3日目には豪雨のためコース経路の国道232号線が遮断され、強行突破したランナーの目の前で土石流が道路を横断して海へとなだれ落ちた。
えりも岬からの復路ではヒグマの気配がぷんぷん感じられた。10日目には廃線上のぬかるみ道に足サイズ40cmはあろうかというヒグマの足跡が点在していた。太平洋岸と内陸部の要衝である十勝国道・狩勝峠の三合目と四合目の間で、ぼくの前方50mの所を、体長2mほどのヒグマが道路を猛スピードで横切って森へと消えた。ちょっとタイミングがずれたら、あの地上最大の肉食獣(ドングリ食だっけ?)とサシで戦う所だったのか。
13日目、浜頓別市街へと下る丘陵地では、ヒグマ出没の報を受けて警察車両が登場。最終ランナーに併走してヒグマから守ってくれた。ぼくたちは人工物のアスファルトの上にいることで安心しきっているが、実際は野生の臭いが濃く残る北海道の大自然の中に、丸腰でいるのである。
ステージレースに徹夜走はない。毎日のゴール後には十分な量の食事を採り、大方の宿で良質の温泉に浸かれ、柔らかな布団で身体を休められる。とはいえ、平均79kmを14日間走りつづけることは楽ではない。多くのランナーは足の裏に巨大な血マメをつくり、スネや足首やアキレス腱を空気入れでパンパンに膨らませたように腫らせている。ふだん50km、100kmと走るのがへっちゃらな人たちが、背筋を大きく傾け、テーピングでぐるぐる巻にした脚を引きずりながらゴールを目指すさまは、憂いと切なさに満ちている。
雨に打たれ、日に焼かれて前へ前へと一歩を出し続ける。ゴールの先には輝ける栄光はない。一般社会の評価に値するような実績にもならない。そもそも夏に1100km走るんだと他人に説明しても、奇異な目で見られるのがオチなので、あまりしゃべらないようにしている。
14日目、この旅ではじめて訪れた完ぺきな晴天は、オホーツクの海を碧に染め、水平線の上に南樺太・サハリンの島影まで浮かび上がらせた。視界100km以上、天球の丸さまで感じさせる。去年、熱中症に負けて50kmだけ欠けた全行程を、今年はケガまみれながら走りきることができた。奇跡の光景は祝福なのだと独りよがりに解釈しておこう。
青一色に包まれた宗谷岬の先っぽに設けられた手作りのゴールに、ランナーたちは飛び込んでいく。全ステージを完走した人も、途中でリタイアを余儀なくされた人も、それぞれのゴールを迎える。
「トランス・エゾ」には完走賞も完走メダルも不要だ。勲章は自分の胸の内側にかけられる。自分を称えられるかどうか、その基準は「どれだけのことができたか」だ。自分が置かれた環境のなかで、不器用にもがき切れたか。長い間自分を苦しめた病気は克服できたのだろうか。怪我を負ったなかでやれる対処は全て尽くせただろうか。年齢とともに全盛期の健脚を失っている自分と正面から向かいあえただろうか。他者から見た評価ではない、自分が自分に対して与える評価だ。
2014年の今を生きるぼくは、今持ちうる最大の力を振り絞れたのだろうか。
宗谷丘陵からオホーツクの海へと続く急な下り坂を、青い空と海の境目に向かって駆け下りる。