公開日 2014年12月19日
文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
大陸横断・・・なんと甘美な響きか。そこには冒険と切なさがつまっている。幾多の苦難を乗り越え、何本もの地平線の先へと旅をつづける。
大陸横断・・・なんと甘美な響きか。そこには冒険と切なさがつまっている。幾多の苦難を乗り越え、何本もの地平線の先へと旅をつづける。
それが19世紀の北アメリカ西部開拓時代なら、幌馬車に乗りテンガロンハットをかぶった荒くれ野郎の物語かもしれぬし、それが20世紀フラワー・ムーブメントの時代なら、ハーレーを駆って明日なき疾走をはじめたピーター・フォンダとデニス・ホッパーの救いようのない不条理旅のお話かもしれない。
どんな物語であろうと、砂ぼこり舞う荒野の一本道を、太陽や雲を追いかけながら、ひとりぼっちで移動していく行為は、孤独で寂しい。その先に何があるのかもわからないままに、ただ移動するという非生産的で非効率な時間。
そんなことはわかっているのに夢想が止まらない。大陸という名の巨大な土の塊、自分の足で端から端まで走り切れないものか? 車輪もエンジンもついていない貧相な2本の脚で、どこまでも走ってはいけないものか。
□
ランニングによる北米大陸横断レースついて調べたことがある。
最も古いものとして、1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、超ド派手なイケイケイベントであった。主催者であるチャールズ・C・パイルという人物は、当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者として隆盛を極めていた。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507kmを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかな催しとなった。
ランナーは、毎日決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。現在の貨幣価値に換算するなら3億円にもなる賞金が、優勝者に授与されたのである。
ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊。テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて入場収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
イベントの豪奢さはさておき、肝心のレースには世界中から賞金目当ての強者199人が参戦し、ロサンゼルス・ハンティントンビーチに立った。スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施したものの、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマンがディレクションし、舞台で演じられた。
公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在までの80余年の間に、たったの9回しか行われていない。
右記の「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランスアメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700kmを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走。記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガーであり、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり資金面を支えた。
第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、多くのウルトラレースを運営しランナーを支援している。この大会は、NHKが密着取材を行い「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な素材であり、「トランスアメリカ」の存在が広くランナーの間で認知されるきっかけとなった。
トランス・アメリカ最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8kmを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人では堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランスヨーロッパ」「スパルタスロン」などでは、日本人の参加数が急増するばかりか、優勝者を輩出するなど超長距離レースへの高い適応能力を証明している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。
□
この大会を最後に、北米横断レースを企画する者は現れなかったが、7年の時を経てフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏によってロサンゼルス・ニューヨーク間レースが開催される。セルジュ・ジラール氏は、生きる伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4597kmを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3755km、2001年南米大陸5235km、2003年アフリカ大陸8295km、そして2005年にはユーラシア大陸1万9097kmを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月27日にニューヨークにゴールした「LA-NY footrace」は、北米横断レースの第1回大会「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」をリスペクトするという主旨も有し、同大会のたどったルートをある程度なぞったものとなった。約5135kmを70日かけて横断、1日平均73キロ以上の行程である。
16名がスタートラインに立った大会は8名が完走した。越田信さんは日本人で2人目の「北米大陸を2度完走」の偉業を成し遂げた。そして連日連夜にわたって制限時間ギリギリにビリでゴールに飛び込んでは倒れ込み、ぐずぐず泣いてはスタッフやクルーの背中におぶさり運ばれながら、奇跡的な完走を果たした歴代最弱ランナーがぼく、ということになる。
何度も死ぬかと思った。気温50度の砂漠は焼け死ぬか干涸らび死か。太腿の筋肉がバリッと音を立てて裂けたときは、痛みで気を失いそうになった。毎日毎日が生き地獄だともがき苦しんでいたのに、どうしたものか今では楽しい思い出しか残っていない。人生で使用可能な熱量の総量が決まっているとすれば、その半分くらいをこの70日間で使った。
そんな「LA-NY footrace」から3年の歳月が流れた。2014年には「オーストラリア大陸横断レース」の開催も噂されたが、実施には至っていない。生ける伝説セルジュ・ジラール氏は、2015年にランニングと手こぎボートによる地球一周4万5000km「ワールドツアー」に出るという。
ぼくの胃や腸のなかで「横断の虫」がざわつきはじめている。また旅に出たい、荒くれ者や毒虫や自然の猛威のまっただ中にこの身1つで立ちたい。マメだらけの脚をテープでぐるぐる巻きにして、奥歯で砂をジャリっと噛みしめて、目で見える景色の向こう側まで走っていきたい・・・という強迫神経症的な病気。
地球儀をぐるんぐるん回しながら3コ目の横断すべき大陸を見定め、指でなでなでしている日々。
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【北米大陸横断レースの歴史】
1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
2011年 LA-NY footrace (出走16名/完走8名)
この表は、個人単独での徒歩による横断などは除外し、参加3名以上の公募レースに限っている。
現在までに北米横断レースの完走者数はのべ138名、日本人は17名である。
どんな物語であろうと、砂ぼこり舞う荒野の一本道を、太陽や雲を追いかけながら、ひとりぼっちで移動していく行為は、孤独で寂しい。その先に何があるのかもわからないままに、ただ移動するという非生産的で非効率な時間。
そんなことはわかっているのに夢想が止まらない。大陸という名の巨大な土の塊、自分の足で端から端まで走り切れないものか? 車輪もエンジンもついていない貧相な2本の脚で、どこまでも走ってはいけないものか。
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ランニングによる北米大陸横断レースついて調べたことがある。
最も古いものとして、1928年に行われた「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」が記録に残っている。この史上初の大陸横断レースこそ、参加ランナー数、イベント規模、破格の賞金額などすべての点において有史以来、最大規模のレースであった。
この大会、現在想像しうる地味で質素なウルトラマラソンレースとはかけ離れ、超ド派手なイケイケイベントであった。主催者であるチャールズ・C・パイルという人物は、当時、映画館やスポーツ・エージェントの経営者として隆盛を極めていた。アメリカンフットボールのリーグ化や北米初のプロテニスツアーを企画するなど斬新なマネジメント手法をスポーツ界に持ち込んだ人物だ。
そんなプロフェッショナルな興行師が仕掛けただけあって、ロサンゼルスからニューヨークまで5507kmを人間の脚で走るという壮大なレースは、後にも先にもない華やかな催しとなった。
ランナーは、毎日決められた区間を走りタイムを競う。そのタイムの合算でランキングが決められる。優勝者には2万5000ドル、2位には1万ドル、3位には5000ドルの賞金が与えられる。このタイム積算型レースは、1903年からヨーロッパで始まった大規模な自転車レース「ツール・ド・フランス」のランニング版をイメージしたものだ。当時の2万5000ドルといえば莫大な金額である。1920年代の米国の消費者物価指数は現在の約1%である。現在の貨幣価値に換算するなら3億円にもなる賞金が、優勝者に授与されたのである。
ランナーは毎晩、専用にしつらえられたテント村で宿泊。テント横ではツアーに同行させた芸人や女優によるステージ・ショーが繰り広げられた。行く先々で住民をショーに招いて入場収入を得る。また、イベントの協賛企業を募り広告収入で稼ぐ。今から80年以上前の企画とは思えないほどの斬新さと手配力が見られる。
イベントの豪奢さはさておき、肝心のレースには世界中から賞金目当ての強者199人が参戦し、ロサンゼルス・ハンティントンビーチに立った。スタートから3日目までに3分の1のランナーがリタイアしたものの、ゴールのニューヨークには55人が到達した。優勝者は弱冠20歳の若者、アンドリュー・ペインだった。
イベントの壮大さとは裏腹に、主催者チャールズ・C・パイル氏に旨味のある収益はもたらされなかったようだ。翌年、ニューヨークからロサンゼルスまでの逆コース「リターン」大会を実施したものの、彼は二度と大陸横断レースを行うことはなかった。
パイル氏は、1937年に喜劇女優のエルビア・アルマンと結婚し、1939年にロサンゼルスにて心臓発作で亡くなるまで、ラジオ放送局関連会社の経営をしていた。その波瀾万丈の人生は、演劇「C.C. Pyle and the Bunion Derby」として、トニー賞受賞者のミシェル・クリストファーが脚本を書き、名優ポール・ニューマンがディレクションし、舞台で演じられた。
公に参加者を募集してのレースは、大陸横断レース初開催から現在までの80余年の間に、たったの9回しか行われていない。
右記の「トランス・コンチネンタル」から63年という長い空白期間の後、1992年、ジェシー・デル・ライリーとマイケル・ケニーという2人の若者が主催し、「トランスアメリカ・フットレース」が開催される。ロサンゼルス・ニューヨーク間4700kmを64日間、1日平均73キロを走るレースだった。
第1回大会(92年)には、30名が参加し13人が完走した。
第2回大会(93年)は、13人が参加し6人が完走。日本人ランナー・高石ともやさんが初参戦しみごと完走。記録上残る初めての北米横断日本人ランナーとなる。高石さんは60年全共闘時代を象徴するフォークシンガーであり、日本のフォーク黎明期を創りあげた人物だ。同時に日本国内で初めて行われたトライアスロンの大会、皆生トライアスロン81の初代優勝者でもあり、100キロ以上走りつづける超長距離ランナーの先駆けとなった。同大会は当初から運営予算に苦しんでいたが、京都に本社がある洋傘・洋品メーカーである「ムーンバット」が大会スポンサーとなり資金面を支えた。
第3回大会(94年)では、15人が参加し5人が完走。海宝道義さんと佐藤元彦さん、2人の日本人が完走した。海宝さんは現在も「海宝ロードランニング」を主催し、多くのウルトラレースを運営しランナーを支援している。この大会は、NHKが密着取材を行い「NHKスペシャル 4700km、夢をかけた人たち〜北米大陸横断マラソン」と題する密着ドキュメンタリー番組が制作された。映像として残る貴重な素材であり、「トランスアメリカ」の存在が広くランナーの間で認知されるきっかけとなった。
トランス・アメリカ最後の大会となった第4回大会(95年)には、14人(日本人6人)がエントリーした。完走者は10名、うち4名が日本人と強さを見せた。古家後伸昭さん、遠藤栄子さん、小野木淳さんが完走。海宝道義さんは2年連続完走の偉業を成し遂げた。レース全行程にわたる記録を完走者・小野木淳さんが「鉄人ドクターのウルトラマラソン記」(新生出版刊)にまとめており、日本語で書かれた北米横断の最も詳しい文献となっている。
21世紀に入ると2002年および2004年に、アラン・ファース氏による主催で、ロサンゼルス・ニューヨーク間4966.8kmを71日間で走破する「ラン・アクロス・アメリカ」が2度行われた。2002年大会は、11名の出走者のうち9名が日本人、完走した8名中7名が日本人という活躍をみせる。完走者は、阪本真理子さん、越田信さん、貝畑和子さん、下島伸介さん、武石雄二さん、金井靖男さん、西昇治さん。いずれも名だたるジャーニー・ランナーである。2004年の同大会には10名のランナーが出場し6人が完走。日本人では堀口一彦さん、瀬ノ尾敬済さんが完走している。
90年代から00年代は、世界のウルトラマラソンやアドベンチャー・レースの世界に、日本人ランナーが猛烈に参戦しはじめた時代といえる。「4デザート・レース」「トランスヨーロッパ」「スパルタスロン」などでは、日本人の参加数が急増するばかりか、優勝者を輩出するなど超長距離レースへの高い適応能力を証明している。00年代に行われた2度の北米横断レースは、その日本人パワーを象徴する大会となった。
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この大会を最後に、北米横断レースを企画する者は現れなかったが、7年の時を経てフランス人のウルトラランナー、セルジュ・ジラール氏によってロサンゼルス・ニューヨーク間レースが開催される。セルジュ・ジラール氏は、生きる伝説ともいえる存在である。1997年に北米大陸4597kmを53日で走って横断すると、99年にオーストラリア大陸3755km、2001年南米大陸5235km、2003年アフリカ大陸8295km、そして2005年にはユーラシア大陸1万9097kmを走踏した。世界で初めて全5大陸をランニングで横断するという快挙を成し遂げたスーパースターである。
2011年6月19日にロサンゼルスを出発し、8月27日にニューヨークにゴールした「LA-NY footrace」は、北米横断レースの第1回大会「インターナショナル・トランス・コンチネンタルフットレース」をリスペクトするという主旨も有し、同大会のたどったルートをある程度なぞったものとなった。約5135kmを70日かけて横断、1日平均73キロ以上の行程である。
16名がスタートラインに立った大会は8名が完走した。越田信さんは日本人で2人目の「北米大陸を2度完走」の偉業を成し遂げた。そして連日連夜にわたって制限時間ギリギリにビリでゴールに飛び込んでは倒れ込み、ぐずぐず泣いてはスタッフやクルーの背中におぶさり運ばれながら、奇跡的な完走を果たした歴代最弱ランナーがぼく、ということになる。
何度も死ぬかと思った。気温50度の砂漠は焼け死ぬか干涸らび死か。太腿の筋肉がバリッと音を立てて裂けたときは、痛みで気を失いそうになった。毎日毎日が生き地獄だともがき苦しんでいたのに、どうしたものか今では楽しい思い出しか残っていない。人生で使用可能な熱量の総量が決まっているとすれば、その半分くらいをこの70日間で使った。
そんな「LA-NY footrace」から3年の歳月が流れた。2014年には「オーストラリア大陸横断レース」の開催も噂されたが、実施には至っていない。生ける伝説セルジュ・ジラール氏は、2015年にランニングと手こぎボートによる地球一周4万5000km「ワールドツアー」に出るという。
ぼくの胃や腸のなかで「横断の虫」がざわつきはじめている。また旅に出たい、荒くれ者や毒虫や自然の猛威のまっただ中にこの身1つで立ちたい。マメだらけの脚をテープでぐるぐる巻きにして、奥歯で砂をジャリっと噛みしめて、目で見える景色の向こう側まで走っていきたい・・・という強迫神経症的な病気。
地球儀をぐるんぐるん回しながら3コ目の横断すべき大陸を見定め、指でなでなでしている日々。
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【北米大陸横断レースの歴史】
1928年 International Transcontinental Foot Race I (出走199名/完走55名)
1929年 International Transcontinental Foot Race II (出走不明/完走19名)
1992年 Trans-America Footrace I (出走30名/完走13名)
1993年 Trans-America Footrace II (出走13名/完走6名)
1994年 Trans-America Footrace III (出走15名/完走5名)
1995年 Trans-America Footrace IV (出走14名/完走10名)
2002年 Run Across America I (出走11名/完走8名)
2004年 Run Across America II (出走10名/完走6名)
2011年 LA-NY footrace (出走16名/完走8名)
この表は、個人単独での徒歩による横断などは除外し、参加3名以上の公募レースに限っている。
現在までに北米横断レースの完走者数はのべ138名、日本人は17名である。