バカロードその80真夜中のひとりごと

公開日 2015年02月20日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)
初冬。東京で行われた神宮外苑24時間チャレンジ。まもなく解体工事のはじまる国立競技場のたもと、1.3kmの周回路を24時間休みなくぐるぐる走り回る大会だ。24時間走の世界選手権の代表選考会を兼ねた当大会は、超長距離レースではめったに味わえないガチンコ感に溢れている。 
 120人ほど集まった選手の7割ほどはフルでサブスリー、100kmでサブテンの実力を有している。要するに「スピードランナーのくせに200km以上走りたいというド変態」が集まった大会と言える。24時間走の歴代チャンプだけでなく、「さくら道」や「川の道」の王者クラスも参戦。いやーまさにドリームマッチ、年末特番的な華々しい雰囲気だ。
 有名ランナーがどんだけ居ようと、走る時間がまる24時間だろうと、ぼくには関係のないこと。スタートから全力あるのみ!で10km通過45分、42kmが3時間44分。潰れるまでは全力だぁ。果たして50kmあたりで順当に脚動かないモードに突入。ヘバッてからの20時間は長いったらありゃしないね。
 深夜には寝ぼけたまま千鳥足してたら、知らぬまに斜めに走っていたらしく、道路脇の植樹帯に身体ごとつっこんだ。こんもりとした植木に上半身から刺さり、足をバタバタさせてもがくという昭和ギャグ漫画にありそうな図。後ろから来たランナーに「何やってるの?」と不思議そうな顔で質問される。「ちょっと休憩してました」と不自然な嘘をつく。尖った枝が上半身のあちこちに裂傷を負わせたらしく、シャツは血まみれ。いったい何の競技やってんでしょうか、わたしは。
 ひょこひょこ走りで23時間が経過し、ラスト1時間は再び全力疾走に切り替える。思いっきり走るのは楽しい楽しい。狭い走路の脇にたくさんの観客が身を乗りだして応援している。周回ごとに人垣のなかに突っ込んでいくダイブ感。ツール・ド・フランスの山登りステージの光景そのものだ。
 結果、171kmという平凡な記録に終わったが、まあこれでよし。つぎ走るときは、もっとツッこんでやる。負けても負けても挑戦しつづけるのみ。他には選択肢が見あたらない。
     □
 さてさて。
 市民マラソンブームの起爆剤といえる東京マラソンが2007年にはじまり、それまでは走友会に所属する健脚派の晴れ舞台であったフルマラソンが「誰でも参加できる」レベルまでハードルが下がった。練習なんかしなくても、7時間もあれば半分歩いても完走できるわけで、それはそれで休日に42kmも歩くという行為はダイエットにも効果がありそうだし、心の浄化にもつながる。きらびやかなランニングウエアやシューズを大量消費することでスポーツメーカーは潤い、宿泊施設は満室、ピストン輸送するバス会社やTシャツなどグッズを製作会社、パンフレット印刷会社にもお金が回って良いことずくめである。
 昔は水道水しか置いてなかったエイドは、いまや屋台村のごとく充実し、地元の名産に郷土料理にとグルメフェスタ並みのサービスを提供している。フルマラソン大会のサービス過剰は、ウルトラマラソンの大会にも影響を及ぼしている。「よほどの変わり者」の集まりだった世界も、ごく一般的な市民が旅行レジャー感覚で参加するようになった。定員3500人のサロマ湖ウルトラがエントリー開始から1時間で締め切られ、定員2000人の四万十ウルトラに6000人以上の応募がある。手作り感覚の大会は少数となりイベント会社が仕切らないとままならない規模になった。そして、かつては「世捨て人な超人願望者」の集団であったはずの500kmレースなども瞬時にエントリー満杯になる時代とあいなった。
 こんな国民総ウルトラランナー時代にも、あまり人が集まらない超絶厳しーい大会があるのだ(知られてないだけかもしれないけど)。
     □
 沖縄本島一周サバイバルラン。
 那覇市を起点に、沖縄本島の海沿いを時計回りにショートカットなく外辺を一周するコース。400kmという長丁場ながら制限時間はわずか72時間。なおかつ、第1関門である島最北端の辺土岬へは162kmを24時間以内にクリアしなければならない。距離と時間のバランスだけみても、国内屈指の難易度の高さと言えよう。
 そして、途中ランナーをケアするサービスは何もない。
 エイドステーションなし。
 コース途中への荷物輸送なし。
 仮眠所・宿泊施設なし。
 選手は必要な荷物をすべて携帯し400kmを走り通さねばならない。舞台は沖縄とはいえ季節は冬。夜間は防寒服が必要であり、当然ライトや反射板などは必須である。島の北半分は道沿いにコンビニや自販機がほとんどなく、重量のある水分を背負わなくてはならない。
 せめてドロップバッグサービスだけでもあれば空身に近い状態で走れるが、当大会にはない。数kgの荷物を背負うとスピードは落ち、肉体への負担は大きくなる。
 さらに途中リタイアした場合、収容バスに乗るには料金を徴収される。第1関門の162kmからスタート地点帰りは3000円、第2関門の293kmからは2000円。ただでさえリタイアをして心を痛めているところに、更なる現金支払いという仕打ちが下されるのである。なんと厳しい大会か!
 しかしあらためて考えてみたい。本来自己責任において超長距離を走るということは、こういうことなんだろう。
 日本のジャーニーラン文化を1980年代頃よりつくりあげてきたレジェンドたちは、数百?、数千?の道のりを食料自己調達、野宿があたりまえの環境で走ってきたわけである。
 至れり尽くせりの現代のレースは、ランナーに過保護すぎるのだーっ!
 と息巻きながら沖縄入りしたものの、鬼の霍乱とはこのことか。半月前にひいた風邪が治まる兆しなく、熱は38度から下がらず、大量の粘り気のあるドロドロの痰が喉に詰まって気道に空気を通すのに難儀している。鼻のかみすぎで右耳が難聴になり、ほとんど聞こえない。
 鬱屈した気分は前夜になっても晴れない。しかし、超ウルトラなんてどうせ100kmも走れば病人同様。体調が良かろうと悪かろうと10時間もすれば条件は同じ・・・と繰り返し自分に暗示をかける。
 スタート地点の沖縄国際ユースホステルは、那覇市の中心部にある。基本的にランナーは歩道を走るため、集団にならないよう5人ずつ3分おきのウエーブスタートが行われる。お昼の12時に第1陣が出発していった。
 参加者は29人で、多くの人がプレ大会や試走会を経験しており、すでにコースは熟知しているようだ。
 400kmという距離を考えれば、ゆっくりペースで走りはじめたいのが人情ってもんだが、なんせ第1関門の162km・24時間をクリアするにはキロ6分程度で進まないと間に合わないことは感覚上わかっている。案の定、ぼくの属する第6ウェーブの小集団もキロ5分台のハイペースで進んでいく。
 発熱で頭がぼーっとし、体力も落ちているぼくは、集団のペースに合わせるのでギリギリ。10kmもいかないうちに息が激しく荒れはじめ、全身に浮かんだ汗はサラダ油のようにヌルヌルしている。こんな汗、流したことないぞ。これが脂汗ってやつなのか。
 事前に「エイドはないよ」と脅されていたけど、実際は34km地点の「残波岬」の先端に沖縄そばを食べさせてくれる非公式エイドを出してくれていた。しかし4時間02分かけてそこに到達したものの固形物を食べる余力はなく、公園の芝生のうえに倒れ込むことしかできなかった。
 29人の選手のうちぼくの周囲に姿が見えるのは2、3人のみで、残波岬を出てしばらくすると全員に抜かれた。人気のない海辺の道をとぼとぼと走る。体調が良ければきっと感慨もひとしおな沖縄の海に沈む夕陽や、米国文化と琉球色が混沌となったエキゾチックな看板や、そこかしこから漏れ聴こえる沖縄民謡の調べも、何ひとつとして心に届かない。日が暮れて足下が見えにくくなるとペースはキロ8分台に落ち、どう計算しても120km以上先にある第1関門に間に合いそうにない。元よりこの遅れを取り戻そうという気力が湧かない。この時点で完走できる可能性はなくなり、しかし自らリタイアするきっかけもなく、目的を見失ったまま夜道を走りつづける。果たして人は、完走する可能性もないのに何十?も走られるものだろうか。否、である。希望があるから苦しさを乗り越えられるのだ。
     □
 絶望のなかで心はいっそうシニカルかつ虚無的になる。走るという行為はつくづく無益であって、他人を便利にする何物も生産してないなーと自省的な思いにとらわれはじめる。250kmや500kmレースに費やす恐ろしいほどの労力。この分の熱量をそのまま別の労働なりボランティア活動なりに充てれば、おおいに社会の役に立つのにな。生産性の伴う時間を削り取りながら、膨大な時間とエネルギーを自らのエゴイズムに使用している。
 仕事の合間のちょっとした息抜き程度の趣味なら、まだ日常生活にプラス効果はある気がするが、超ウルトラに費やす労力は趣味の域をはなはだしく逸脱していて、脚は壊れてコンドロイチンをガブ飲みしても軟骨の減りに追いつかず、情緒不安定にも陥り不定愁訴な患者となるわと、健康面においては良いことはない。唯一、体重20kg減という大幅ダイエットに成功したが、これも病的と言えなくはない。
 ランナーになる前に比べると、極度の甘党になったな。精魂枯れ果ててたどり着いた自販機やコンビニで飲む高糖度の炭酸飲料の美味しさったらないよな。舌が痺れて脳にぶどう糖混じりの血液の濁流が流れ込むあのドーピング的快楽。日常生活にもその甘味フラッシュバックが残り、仕事中には1時間おきのコーラ摂取が欠かせず、真夜中は頻尿トイレ起床にあわせて2倍に濃くした粉末アミノ酸ドリンクを1リッター飲み干すようになった。完全に糖尿病予備軍である。
 100km、200kmと走り終えた直後、脱水カラカラの身体に流し込む生ビールが、喉から胃に落ちてく悦楽もランナーになって知ったのはプラスポイントと言えるかな。ビールを一段と美味くするため、ゴール手前20kmほどは給水しないくらいである。アルコール分が内臓から周辺細胞へと浸潤していく感覚はステロイド駆けめぐるジャック・ハンマー。この感覚を再現するために、毎日1時間は長風呂して体重を1.5kg落とした直後に、マッサンでおなじみシングルモルトな高度数アルコールを摂取。たちまち脳細胞はパーリーナイト!って絶対身体に悪いよね。
 走っても走っても走るのやっぱ苦手だな。
 ぼくは平静時の心拍数が1分に70回とラット並みに速いのである。高橋尚子さんや前田彩里選手の心拍数が40回以内でマラソンの適性がすごいんですよ、なんて増田明美トークが飛び出すたびにがっかりする。そういうのって後天的な努力じゃどうにもなんないよねぇ。
 血圧は上が170台。降圧剤を飲んで血圧ノートをつけねばならない高血圧症である。他人が「ジョクペースでいきましょう」と楽しくおしゃべりランしてるペースでも、苦しくて苦しくて仕方がない。たまーに併走しながら「笑顔でいきましょう!」なんて爽やかさを強要してくるハイテンションなランナーいるけど、いまいましくて仕方がないな。こっちは吐き気しかしてねーんだから笑顔なんて出せるかよケッ。
 あまりに嫌々走ってる様子を見とがめて、「楽しくないのに何で走るんですか?」って何度か聞かれたことがある。うまく答えられたためしないけど、すごく苦手なことだから走っているんだと思う。
 世は個性尊重の時代だから、「好きなことをやりなさい」「得意なことをやりなさい」と強迫観念のように大人たちは子どもたちに押しつけるけど、そんな特別な才能をもって生まれた人なんて、ほとんどいない。好きなことなんて、実際にやろうとすれば大変すぎてぼくは何にもできやしなかった。
 「自分の足でどこまでも遠くまでいく」。きっと本来ぼくがやりたいことなんだろうけど、走力も根性もないから、苦しさにあえぎながら、毎回断念を繰り返している。好きなことへの適性がない悲運にうなだれるしかない。
 走ることを楽しいと思えないし、いい結果も出せないし、自分に満足できるレースなんて3年に1回くらいしかないけど、ぼくは走ることをやめないし、走り続ける。
 極限環境において人間の本性がむき出しになるのだとしたら、ぼくに元から備わっていて役立ちそうなのは嫌らしいほどの執念深さだけかな。喧嘩の敗北や商売の失敗ってのは、自分でそうジャッジするから負け&失敗なんだと思ってる。だからウルトラマラソンだって100回リタイアしても、敗北は永久には続かない。絶対にいつかうまくやりこなしてみせる。いつかみごとに勝ち切って、負けた分を全部取り返してみせるって思いこんでる。
       □
 80kmで走るのをあきらめ歩く。一歩でも前にと戦っているのではない。動くのをやめると寒くて凍えるので仕方なく歩いているだけだ。冷たい霧雨が舞い、全身を濡らす。ぼくは荷物を極限まで減らしたため、着ているTシャツと短パン以外は服を持ち合わせていない。街灯ひとつない真っ暗な道の奥にコンビニの灯りがみえる。雨をしのぐために店に入り、カップヌードルを買ってお湯を入れて食べる。信じられないほど美味しい。こうやってまた中毒がひとつ増えるのだ。そういえばもう24時間以上、何も食ってないんだもんな。
 有名な観光地の「美ら海水族館」の手前、スタートからちょうど100kmあたりで明け方近くとなり、首尾良く那覇空港行きの路線バスがやってきたので、何の迷いもなく乗った。
 やっぱり超長距離レースは苦しくて、寒くて、痛い。これが生きるということなのだろう。
 レースも人生もうまくいかないことの繰り返し。でもきっといつかはいいことがあると信じている。
※当レースは29人中完走者が4名という、やはり非常に苛烈なものとなりました。来年は過酷を求めるマゾヒスティクなランナーたちが大集合するに違いありません。