公開日 2016年09月19日
(注1)スパルタスロン=ギリシャの首都アテネから紀元前には軍事国家として栄えたスパルタまで、2500年前の兵士の逸話に基づき、247kmを36時間制限で走る。今年は50カ国から398名が出場。9月30日~10月1日開催。
これらはバラバラに練習しても効果をなさない。涼しい季節に坂道練習してもダメ、徹夜を決行しても平坦な道ならムダ、気温35度でも日暮れまでに終了しては意味なし。地獄の3点セットは、同時にこなさなくてはそれに耐えるタフさが身につかない。
7月、梅雨明けとともにうまい具合に気温が上昇しはじめた。33度前後の気温は、本番で想定される35度から39度には及ばないものの、日本国内で疑似体験するには持ってこいの暑さである。
スパルタスロンには1200mの岩山越えをはじめ、いつ果てるとも知らぬ舗装道の上り下りがある。その実際の標高差に近い場所と言えば、四国なら与作(よさく)しかない。与作=国道439号線のことである。旅マニアからは「最難関の酷道」と呼ばれ、国道にも関わらず対面通行できない道幅の狭さや、厳しい山岳地帯を越えることで知られている。国道439号線は、数年前に改称された438号線とともに、東は徳島市中心部を起点に、四国の中央山岳エリアを東西に貫き、西は高知県四万十市で終点となる。
今回の練習走は、徳島市の吉野川河口を出て、まずは剣山の登山基地である標高1410mの見ノ越を目ざす。見ノ越を過ぎると、いったん祖谷川の中流域まで下り、再び高知県境にある標高1100mの京柱峠へと登る。峠から大歩危あたりの河岸まで出て国道32号線を西へ。高知道の大豊インターあたりから早明浦ダム方面へと進路を変える。吉野川河口から早明浦ダム湖畔までは175km。これを1泊徹夜でこなし、湖畔の宿で停滞。
翌朝再スタートし、高知県中央部を上八川川(かみやかわがわ)、仁淀川に沿って西進。仁淀川上流の大渡ダムからは国道439号を外れ、より標高差を稼げる国道33号線に道を変える。高知・愛媛県境一帯に広がる四国カルストの高原地帯は、標高700mの地芳峠が国道最高地点。「雲のまち」で有名な梼原町へと駆け下り、終着点の四国西岸、宇和海沿いの港湾都市・宇和島市を目指す。早明浦ダムでの再スタートからゴールの宇和島までは155km。徳島市から宇和島市は全行程330kmである。
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朝8時、吉野川河口を出発。経由する道はいつものごとくノープランです。車を避けてしばらく吉野川の堤防下の細道を行きます。四国三郎橋を何となく渡って、鮎喰川との分岐点を過ぎ、鮎喰川南岸の土手道をすすみます。
朝から気温すでに高く、徳島市名東町の商店街に入ったあたりでバテバテです。15kmしか走ってないんだけど、こんな体力で330kmも先まで行けるのでしょうか。考えても仕方ないので、考えないようにします。ロング・ジャーニーランのコツは「先のことは考えない」、これに尽きます。10kmか20km先にある、楽しいことだけを胸に抱き走るのです。楽しみといっても、自販機が並んでる場所がある・・・程度の質素な喜びです。
名東のローソンに寄って、氷カップにコーラを注ぎ、さらにパピコを口の中でシェイクして、ジャリジャリになったものを胃に流し込みます。内臓を氷類で冷やすと、そこそこの熱中症状態・・・うわごとを言ってないレベルなら、瞬時に脱することができます。
一宮、入田と街を越えて徳島市を抜けると、鮎喰川の川面は道路との高度差を増していきます。涼しげな清流を眼下に、生ぬるい汗をだらだら流して坂道を登っていきます。神山の町境からも阿野、広野、鬼籠野とプチな商店街がつづきます。神山なんてあっという間に着くわなとナメていたのに、なかなか神山の中心部に近づきません。神山道の駅にようやく着くとGPSの走行距離は35km。佐那河内村ルートなら神山まで30kmなのに、5kmも余計に遠回りしたとやや後悔。
道の駅でトイレを借り、シャツを脱いで洗面所で丸洗いします。ジェラート目標でここまで来たものの、暑すぎて吐き気強く、食欲わくはずもなく、シャツ洗濯だけで再出発です。
神山町の中心部、寄居商店街へと寄り道する分岐手前で、道沿いに設置された太いパイプから、山水がドウドウと溢れ出しています。頭からかぶると、チョー冷たい! 冷水機から出てくる水みたいです。熱中症症状には、頭、首筋、脇の下など動脈が通っている部分を冷やしまくるのが最善の対処です。吐き気もふらつきも嘘のように収まりました。
元気になると、距離や時間が気にならなくなります。神山町の下分(しもぶん)、上分(かみぶん)と順調に進み、美馬市木屋平との町境にある標高700mの川井峠の登りに差し掛かりました。この道は以前走った際に、ヘアピンカーブの道をショートカットしようとして崖をよじ登り、古木、倒木、イバラに遮られてすり傷だらけ、ヒドい目にあった道です。今日はおとなしく国道をジグザクに登っていきます。
時刻は夕方4時。吉野川河口からわずか55kmに8時間もかかっています。こんなチンタラペースな自分を責めます。スパルタスロンでは、同程度の距離や坂道ならばキロ6分ペースで突き進む必要があるのです。
朝からコーラとアイスしか胃に入れてないので腹ぺこです。川井峠の頂上近くに「あら川」という食堂があって美味しい中華そばが食べられるはずです。でも店が開いているかどうかは不明。とりあえず中華そば目標で峠を登っていきます。町境のトンネルを抜けると剣山を望む展望台があり、その向こうに「あら川」が・・・やっぱし閉まってました。看板によると昼の2時で店じまいのようです。食えないとなると更に腹が減ってきました。この先、食堂があるとするなら、木屋平の街まで下った所にある物産館「たぬき家」しかありません。田舎のお店です、夜まで開いているとは思えません。お店は7km先です、急ぐしかない! 峠の下り坂を利用して、猛烈なスピードで駆け下りはじめました。
「たぬき家」に着くと夕方5時半でした。どうせ閉まっているだろうと半ば諦めていたけど、店内に照明が点いています。おおっ!とドアを開けてみると、無人の客席の奥からお店のおねえさんが「いらっしゃい」と顔を出してくれました。お店は7時までやっているそうです。テーブル席に座るよう勧められたけど、パンツまで汗だくで椅子を汚してしまうのは紳士の振るまいとしてどうかと思い、「暑いので」という言い訳をして、作ってもらったカレーライスを玄関の外に持ち出して、地面に座り込んでむさぼり食いました。空っぽの胃の中に大盛りのカレールウと白米が落ちていき、スパイシーな幸福感に包まれます。
食事を終える頃には山の端に日が落ちて、薄暗くなっていました。お店のおねえさんに「今から剣山に向かって行くんですけど、熊は出ませんかねえ」とおそるおそる尋ねると、「熊は出んと思うけど、鹿はいっぱいおるでよ~」とのこと。「この間も、運転しよう車に横から鹿が体当たりしてきて、車のボディがべっこりへっこんだわよ」と危険なエピソードをいただきました。店を出ようとすると、おねえさんがモナカアイスを持たせてくれました。「これなら、走りながら食べれるだろ」っと。ありがたやです。
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たぬき家から剣山の登山基地である見ノ越へは24km、と店前の道路に看板がありました。標高350mから1400mまで高度差1000mの登りです。そこそこ平坦な木屋平の谷口から川上あたりの小さな集落をテッテケゆくと、行く手に暗くて巨大な山塊が立ちはだかりはじめます。天を仰ぐほど見上げる高い場所に、Z字を更に上下に潰したような、激ジクザク道が右へ左へと蛇行してる様子が見え隠れしています。あんな所まで今から登るのね、夜中にね・・・と思えばため息のひとつも出てしまうのは仕方ありません。
山のふもとのコリトリ(垢離取)にさしかかった所で完全に日没しました。ヘッドランプを装着します。「見ノ越まで11km」との看板が現れると、以降は500mおきに距離表示板が設けられています。たまーに現れるオレンジ色の街灯が心を優しくしてくれます。街灯のない所でヘッドランプのスイッチをオフにすれば、地面と空との境界が消え、自分の手も足も見えません。暗闇の中に自分の意識だけが蠢いています。
標高1000mを超えると、森の奥からキューキュー、ピーピーとの鋭い嘶きが届きはじめました。姿は見えませんがおそらくは鹿です。枝や下草を踏む音がバリバリと移動します。熊でないことを祈りますが、相当な大型獣が存在していることがわかります。
間近に巨大な生物がいるのに、怖いからといって、目をそらすほどの勇気はありません。踏み音のする方向へとヘッドランプの光を向けると、森の中に黄金色に輝く2つの目だけが浮かび上がます。向こうは向こうで突然浴びせられた光に驚いているのでしょう。じっとこっちを見つめています。やはり鹿です。
標高1200m。断崖のへりを高巻きする道の向こうには、広大な谷が広がっています。森はいよいよ深まり、金属のパイプに空気を吹き込んだような鋭い鹿の声が、頭の上からも、足の底からも響いてきます。山の斜面全体が反響板となって、鹿の鳴き声を増幅しています。周囲にいるのは頭数にすれば6、7頭なんだろうけど、四方八方を鹿に包囲されて、罠にかかった獲物になった気分です。
進行方向の路上に何者かがいます。ヘッドランプの光の奥に、また2つの金色の目玉が浮かび上がりました。100mほど離れた場所で、鹿が道路に立ってこっちを見ています。
光の輪に映し出された鹿は、ほんのわずかな時間、停止した後に、猛然と、真っ直ぐに、こっちに向かって正面から突っ込んできました。100mの距離は、数秒の後には50m、こちらの思考が反応できた頃には30mまで距離が詰まっています。
「襲われるん?」「突っ込まれるん?」。立ち尽くしたまま何もできません。何かを判断できるほどの時間が与えられていません。
「やられるんか?」と感じた瞬間、自分の口蓋から、生まれてから一度も出したことのない叫び声が放たれました。
「%$#&%$%ドグァー」
この叫喚が届いたかどうか。槍と化した鹿は90度方向転換をし、ガードレールを飛び越えて、谷側の森へと消えていきました。
野生の鹿の意思なんてわかりっこないけど、明らかに攻撃の意図があった気がします。
鹿のイメージといえば可愛いバンビちゃん程度の漫画的なキャラでした。しかしいま相対した一頭の鹿は、動物園でオリを隔てて安全な場所から見下していた鹿ではありませんでした。鹿とぼく、両者生身の動物として平等な位置に立ったとき、自分は何にもできないひ弱な存在だと思い知らされました。
そして強く思ったのです。「もう二度と夜中に剣山なんて来んぞー」
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見ノ越の駐車場に着いたのは夜10時30分。いちおう観光地だし、どこかに横になって休憩できる場所くらいあるのかなと探してみましたが、どこにもありませんでした。どの施設もきっちりシャッター降りてました。戸締まり用心、当たり前ですね。
身震いするほどの寒さに、半そでシャツと短パンのみ。自販機でホットコーヒー2個買って、両手の指と、顔の鼻と頬を温めながら、東祖谷方面へと下ります。登ってきた道の木屋平側の谷は、一点の曇りもない澄んだ空気だったのに、峠の反対側はすごい霧に包まれています。ヘッドランプの光は空気中に漂う霧粒に反射するばかりで、5mより先はただ白く写るだけです。崖から落ちないようそろそろ下ります。奥祖谷二重かずら橋のあたりでようやく霧が晴れました。道沿いに水道の蛇口と洗面台があり、石鹸がぶら下がっていました。腕と顔を洗うだけでずいぶんすっきりしました。が、深夜1時頃になると、再び猛烈な眠気にやられ、道の真ん中を意思なくふらつきます。
東祖谷の名頃集落にさしかかると「かかしの里」という看板がありました。道ばたには、等身大に近い身の丈1mほどの人間の姿格好そのままの案山子が、続々現れにぎやかになってきました。
公民館のような外観の建物の横を通り過ぎようとすると、窓ガラス越しに何十体という案山子が直立しているのが見えます。引き戸が少し開いていたので、ちょっと失礼して中におじゃましました。入口の土間の向こうは畳敷きの床です。風が当たらず温ったかい・・・横になり、眠ろうと試みますが、脚や身体の内部がジンジンと熱く、それでいて皮膚の表面は氷みたいに冷たくて、全然眠れません。徹夜走のさなかに襲われる睡魔のややこしいのは、走ってるときは寝落ちするほどなのに、いざ眠る体勢をとると、心臓の鼓動早く、全身の興奮おさまらずに目が冴えてしまうとこです。
20体くらいの案山子に囲まれて、しばらく寝ころんでいたけど、一睡もできそうにないのでまた走りだします。
菅生、久保と集落を抜け、落合のあたりで夜が明けました。最近テレビ番組などでよく取り上げられる「天空の里」は道路からは見ません。ちょっと高台に登れば、急斜面にへばりつくような落合集落を遠望できるんだろうけど、今は寄り道する気力ゼローです。
祖谷川と支流が合流する京上という大きめの集落で、祖谷のかずら橋方面への県道と、高知県境にある京柱峠方面へと続く国道439号の分岐が現れます。むろん目指すは京柱峠です。
京柱峠へは、剣山への登り以上のぐねぐねヘアピンカーブの連続です。見上げれば上部の崖に車道が見えています。直線距離にすれば50mくらいしかない場所に行くために、遠回りを1kmほども強いられるのです。うんざりです、ショートカットするしかありません。地域の住民が使っていると覚しき階段や踏み跡を見つけるたびに、薄暗い森へと入り、傾斜45度を超える崖をよじ登ります。首尾よく近道を見つけられる場合もあれば、根腐れして足場も覚束ない原生林の森で行き止まりになったれりします。迷い道から脱出するために、垂直に近い人工を擁壁をクライミングします。トゲのある葉っぱにすり傷つけられ、皮膚は何やら痒くなり、ヤブ蚊に刺されたりもして最悪ですが、ショートカット命です。
ようやく本道である車道に出て、枯れ草まみれの汚れた格好で、傾斜のきつい急坂をのろのろ走っていると、軽トラが横づけしてきました。運転手のオッチャンが窓から顔を出し、「ほんな格好でおったらマムシに咬まれるぞ!」と怒鳴っています。ぼくの短パンのことを指摘しているようです。「このズボンしか持ってないもん」と言うと、オッチャンはあきれた顔をしてエンジンをバフーと吹かして去っていきました。マジで怒られたなー、しかし車道におる限りマムシなんて出てこんだろ・・・と思ったけど、その直後に特徴のある三角形の頭部とマダラ模様のマムシらしき蛇が、路上で車に轢かれて死んでいるのを2匹目撃するにいたり、オッチャンの指摘は正しいようだと肝を冷やしました。
峠道ではロードバイク乗りがたくさん追い抜いていきます。ここはクライマーたちの良い練習場所のようです。朝9時前に、ようやく京柱峠のてっぺんに着きました。高知県側の広大な峰々を見下ろす場所に、一軒の質素な造りの小屋が建っています。噂に聞く峠茶屋です。玄関を覗き込んでみると、年配のご夫婦が下ごしらえをしている様子です。遠慮して店を出ようとすると、「お兄ちゃん、すぐ作ってあげるけん、待っといて」と呼び止められ、畳敷きの部屋に案内されました。客間の壁や天井には、長い旅の途中でこの地を訪れた何百人もの旅人が、画用紙にマジックで描いた言葉やイラストが貼りつけられています。冒険心の果てにこんなマムシだらけの峠を越えた若い旅人や、人生の晩年に漂泊の旅に出た老いた旅人たちの爪痕です。
この店は、行き交う旅人たちの夢や希望を飲み込み、微熱を発しているかのようです。開け放たれた窓から吹き込む下界からの清涼な風が、その熱を冷ましてくれているようにも思えます。
おばちゃんがお盆に載せた料理を運んできてくれました。店のメニューは「しし肉うどん」のみ、800円也。よく取れたダシは薄い黄色をしていて、コシのあるうどんの麺がぷよぷよと気持ちよさそうに浮かんでいます。お盆の上にはなぜかクッキーが10枚も添えられています。「走りながら食べなよ~」とおばちゃんが笑っています。
胃の中は空っぽです。飢えた野豚と化しうどんを2分ほどでかき込みました。「うまかったー!」と礼を述べ、先を急ぐべく店前の広場でリュックを背負っていると、おばちゃんが店を出てきて、よく冷えた缶のリンゴジュースをくれました。なんかよく物をもらえる旅です。 (つづく)