バカロードその102 スパルタスロンその1 ぬか味噌に首まで浸かって

公開日 2017年01月25日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 5月から8月にかけて3100km走った。1カ月平均770km。といっても、夜中にのろのろ歩いて稼いだ距離も入ってるからさ。走った距離は裏切らないってことにはならないよね。

 6月には100kmの自己ベストをサロマで更新。9時間40分52秒。完走するのがやっとの頃に比べたら目頭も熱くなる成長ぶりだね!と誰も称えてはくれないので、自分で自分を誉めてやるとしよう。けどまあ、スパルタスロン(ギリシャで開催。247kmを36時間制限)をやっつけるにしては、いかにも見劣りのする記録である。せめて8時間台を出せる走力がほしい。
 9月下旬。6年つづけてリタイアしているスパルタスロンに性懲りもなく出場すべく、ギリシャの首都アテネに降り立った。5連敗あたりまでは「今年こそ完走できる」とフレッシュな希望に胸ときめかせて飛行機のタラップを降りたものだが(ただの通路だったかな)、近ごろは「リタイアした街でお金がなくていつも困るので、今年こそ20ユーロ札を持って走ろう。そしたらバルでビールとか飲みながら収容バスを待てるぞ」などと余計な名案ばかりが浮かんでくる。
 踏まれても蹴られても、もっと殴ってみろよと笑いながら立ち上がれ・・・というのはアントニオ猪木自伝に書かれた金言で、小学生の頃にはそこに蛍光マーカーを引いて、猪木のように生きるべしと固く誓ったものであったが、大人になった今、踏んづけられたままの格好でペシャンコにのびてしまうほど気弱な生き物に成長した。
 
□スパルタスロン、スタート
 スタート会場であるアクロポリス神殿のふもとで送迎バスを降りると、鳥肌が立つほど寒い。ギリシャ到着以来、連日のように気温は上昇し、昼間には30度を超しはじめていた。レース当日、ひどい猛暑にならなけりゃいいなと願っていたらこの寒さ。神様がめぐんでくれたチャンスかしら。
 そういえば前日にあった説明会では、主催者のおっちゃんが「スタート会場にはバイオトイレがあるので、用はそこで足してくれ」と連呼してたな。去年まではトイレがなかったので、夜陰に乗じて木陰でウンチするってのが定番だった。昼間ともなると何千人という観光客が押し寄せる世界遺産の敷地内で野グソってのはモラル上どうなんかな~、とは思うものの、でもトイレないしな~、みんなやってるしいいか、とブリブリやってた。今朝は便意を催す気配なく、バイオトイレとやらの世話になることはなし。
 スタート時刻の7時となる。だいたいいつ始まるかよくわからない大会なんだけど、ほぼ7時ちょうどにスタートが切られる。どうせなかなか出発しないんでしょとタカを括ってたので、進行が普通すぎて面食らう。
 出走者は400人と、日本国内なら田舎の草レースにも及ばない規模。それなのに一国の首都たるアテネの幹線道路を通行止めにしちゃうんだから、運営スケールとしては東京マラソンと変わらない。走路と交差する左右の道は全部おまわりさんが車を止めている。よりによって金曜日開催なので、アテネ市民の朝の出勤時間とドンピシャ重なっていて、慌てている人も怒っている人もいる。だけどそんなのはお構いなし。
 この国が財政破綻に瀕し、ユーロ追放騒動になったときには「働かないギリシャ人のために、なんで勤勉なドイツ人が払った税金で金融支援しないといかんの」みたいな批判を浴びせられたもんだが、間違いですよ。OECD35カ国の平均労働時間ランキングだと、ギリシャ人は3番目に長時間働く人たちです。自分は働き者だと思いこんでる日本人は15位、ドイツ人は34位です。日本人がモーレツに働いてたのは高度成長時代までね。
 さて、われわれのレースのせいか、あるいは日常的な光景か、一向にやってこない路線バスを待っているバス停の通勤客は、ランナーを応援してくれる人もおれば、苛立ちを隠せない人もいる。じゃましてごめんなさいです。
 
□10kmを通過、55分58秒。
 沿道のアテネ市民の様子を見学しているうちに10km。調子はいいんだか悪いんだか、今ひとつピンとこない。身体もまた重いような軽いような。
 レース序盤に突っ込んでしまう行為は「スパルタスロン禁物あるある」なので、できるだけスローダウンを心がける。意図せずアドレナリンはドバドバ放出されてるはず。理性でコントロールしないと、脚が勝手にくるくる回転して、あらぬスピードを出してしまう。ピッチ数を減らすために、いろんな歌をうたってみる。最適なのは「川の流れのように」だな。テンポが遅くて、強制的にブレーキングが働く。心が洗われていくから、闘争心も削いでくれる。傍らに広がる工業港やプラント群の情景とはまったく無関係に、美空ひばりの熱唱がアテネの空へ届く。
 
□20kmを通過、1時間51分36秒(この10kmを55分38秒)。
 コースは一般道から外れ、公園のなかの遊歩道に入る。ここには毎年、100人くらいの小学生が列を成し、わーわー大盛り上がりながら選手たちにハイタッチを求めてくる場所がある。悪ガキが何人かいて、こっちが差し出した手の平を思いっきり殴ってきやがるので、たいていの年は子供が群れる道の反対側を走るのだが、川の流れのように効果で疲労感もないし、いっちょ相手してやろうか。
 予想にたがわずクソガキ数名がバシバシ叩いてきたが、そんなの想定ずみだってーの。ボクサーが敵のパンチをスウェーバックで後方に逃がすテクニックの要領で、暴力的ハイタッチを柳の木のごとく受け流してやったぜハハハ。しかし楽しそうだな、この子たちは。おおかた授業を中断して、応援タイムに充てているのだろう。勉強サボれるからテンションも高いわな。
 
□30kmを通過、2時間49分35秒(この10kmを57分59秒)。
 小刻みにアップダウンと蛇行を繰り返すエーゲ海沿いの道をゆく。前も後も台湾人ランナーだ。今年はひときわ台湾の選手が多いな。「加油・チャーヨー」(意味はがんばれ)とか声かけてみようかな・・・とか思うけど、何だコイツみたいな反応されたら心にダメージを負うので、結局どの台湾人にも声をかけなかった。近年、台湾では日本以上に超長距離レースが盛んで、500km以上のステージレースや250km級のワンステージレースが頻繁に開催されている。参加料は1万円前後と安いので(日本では5万円前後が当たり前になってきた)、飛行機代や宿代を足しても、日本国内の大会に出るより安あがりだ。主戦場、台湾にしよかしら。
 さて、ここいらの海辺には掘っ立て小屋的な小さなシーフードレストランが点在している。店頭には魚介類が並べられ、300m手前から牡蠣を焼くような匂いが漂ってくる。パブロフの犬的に生ビールをぐびーっといきたい欲求が頭をもたげる。現金持ってくればよかった・・・。ギリシャでは、1ユーロ(110円)コインがあれば缶ビール買ってお釣りが来る。どこの街角にでもあるキオスク(売店)なら、冷蔵庫から自分でパッとビールを取り出して、店員さんに「釣りはいらねぇ」とばかりにコインを差し出せば、時間ロスなく給ビールできる。大会が用意したエイドでボトルに水を入れてもらうよりも時間がかからない。ユーロの小銭をランニングパンツに忍ばせるのは何カ月も前から決めて、準備物リストにメモしてたのに、レース前になってすっかり頭から飛んでいた。あとの祭りである。ビール飲んだらもっと走れるのに。
 
□40kmを通過、3時間48分13秒(この10kmを58分38秒)。
 フルマラソンの距離にあたる42kmエイドを3時間59分で通過する。さてさて勝負はここからなんだよな。この先から始まるダラダラ長い登り坂は日陰もなく、真昼の太陽に射られて、毎回バテバテになって歩いてしまうのだ。
 スタート直後からずっと「あの坂道を元気に走りきれるよう、体力を温存していこう」と自分に言い聞かせてた。「元気に」というのがポイントで、レース序盤の登り坂を無理して走り切ろうとすると、下肢には乳酸が溜まっていく気がするし、そろそろ汗も枯渇する頃に激しい運動をすると熱中症の玄関をノックするようなもんだし。
 とにかく楽しく、笑いながら、ちょこちょこと登ろう。半分くらいの選手が歩いているから、鈍足走りでもそう順位は落とさない。前方に、七面鳥の肉の塊みたいに巨大な太腿をしたランナーがいる。かつてこのスパルタスロンで優勝を遂げた伝説的なランナーであることを、併走した選手が教えてくれる。走っている姿を見たのは初めてだ。もうそれだけで胸いっぱいになる。あぁなんか幸せかも。
 
□50kmを通過、4時間52分00秒(この10kmを1時間03分47秒)。
 気温はだいぶ上昇してきたみたいだけど、風がつよく吹いているので、身体に熱がこもっているようには思えない。シャツは汗で濡れてないけど、塩を噴いた跡が年輪のように何重も白く浮かんでいるので、かいた汗は風ですぐに乾いているのだろう。
 エイドで滞在する時間を除けば、だいたいキロ6分ペースを維持できている。3、4kmおきにあるエイドでキューブ状の氷をもらって、ハンドボトルにつめこむのだが、他の選手と行動がダブッたりすると遠慮して譲ってしまう。親切心からじゃなくて、紳士的な振る舞いをしてエエ格好したいだけである。ヨーロッパの選手を見ていると、他人を押しのけてでも我れ先にと補給食や氷を鷲づかみにしている。ここは生きるか死ぬかの戦場。だけど譲り合うことで自分を守ろうとする日本人の悪いサガが出て、20秒、30秒を無駄にしている。もっと野性の本能むき出しにしないとダメだね。
 
□60kmを通過、5時間55分41秒(この10kmを1時間03分41秒)。
 次のエイドまでの距離が長く感じられだしたってことは、それなりに肉体はダメージを受けているのだろう。ぜんぜん苦しくはないんだけどね。
 ハゲ山だらけのここいらの地域では栄えた部類のアッティキという街の商店街にさしかかる。盛んに自動車が行き来する車道の両側には服屋さんや薬局、何でも屋スーパー、ギリシャ飯屋さんが立ち並んでいる。学校が近くにあるのか下校中にふざけ合ってる子供たちの姿もよく見かける。店の前には石畳や煉瓦畳の歩道が続いているのだが、カフェやレストランでは歩道部分に客席を並べて、暇そうなおじさんたちが昼間からお茶している。歩道を走ろうとするとテーブルとおじさんの間をすり抜けていかないといけない。必然的に車道を進まざるを得ないのだが、路上駐車している車が多くて、その脇を走るときには対向車両と身体との間隔が30cmくらいしかない。けっこうなスピードを出している車のサイドミラーが腕をかすめていきヒヤヒヤものである。平日の真っ昼間から車道をランニングしてる我々のことなんて、ドライバーは歯牙にも掛けてはくれない。スパルタスロンではレース中に起こるアクシデントは選手の自己責任。自動車との接触事故や、野犬に襲われ大流血しリタイアを余儀なくされた選手が毎年何人もいる。といっても死に至るほどの事故は起こっていない。巡回カーが大会指定の病院に連れてってくれて、無料で縫合手術や点滴くらいはしてくれる。
 ギリシャでは全てが大らかに物事が進んでいく。何もかも緻密に計算しないと気が済まない日本人とは正反対で、何となくやってみれば、結果はうまくいくんだというアバウトさが心地いい。ルールが緩いから、細かいことでカリカリしない。昼間から暇そうにうろついてる老人が多いから、無職でも引け目を感じずに済む。やはり老後を過ごすのはこの国か・・・などと無駄なことを考えているうちに第一関門が近づいてきた。
 
□70kmを通過、7時間00分45秒(この10kmを1時間05分04秒)。
 70kmまではサブテンペースを維持してきたけど、急速にバテがやってきた。てか、この20km間のエイドにアイスキューブがなかったのがバテの原因だ。氷袋には氷の残骸すらなく生ぬるい水だけ。昼間の暑さで溶けてしまったらしい。
 逆に考えるならば、ここまで比較的ラクに来られたのは氷のおかげとも言える。もらった氷は、タオルで包んで首筋に巻いて動脈を冷やす。あるいは頭にかぶった手ぬぐいに押し込んで、頭頂部のヒートアップを防ぐ。脳が暑いと感じるのを誤魔かしてきたのだ。両方のポケットにも何個ずつか忍ばせ、シャツの表面、顔から脚まで全身に氷を塗りたくってきた。ここまで楽に来れたのは、自分の走力の賜物ではなく、氷パワーのおかげ・・・。
 75kmから始まる長い登り坂では、ついに歩いてしまう。傾斜が急なので、歩いても走ってもそうタイムは変わらないし、前後に見えるランナーもだいたい歩いている。だけど負けグセがついている僕には、歩いてしまったことで先行きの暗澹が心に刺しこんできては、いや大丈夫だ、あれだけ練習したんだからと打ち消すなどして、脚を動かすより心のせめぎ合いに忙しい。
 100年以上昔に人間が手掘りで築いたというコリントス運河にさしかかる。台地上から50mも下の海面まで、大型船が通れる幅の溝を、南北に6kmも掘り進めて2つの海をつなげたのだ。パワーショベルもダイナマイトもない時代に・・・。あ、ダイナマイトはあったか。運河に架かる橋の上から、そんな先人たちの土木工事の様子を夢想しながら、ゴツゴツ削り取られた岩肌を眺めていると・・・なにやら行く手に人間がわんさか並んでいる。そしてワーワーと歓声をあげている。
 ツアーバスで来たお登り観光客の集団が、運河を見てテンション高くなってしまったのだろうか。あまり近づきたくないが、彼らは橋の上の道幅1メートルほどの歩道を占拠している。
 いよいよ近づくと、70人ほどの観光客らしき人たちが歩道の左右に並び、頭上で手を取り合って「人間のゲート」あるいは「人間トンネル」的なことをしてくれている。
 ややっ、これはランナーの登場を歓迎する盛り上げアクティビティなのか。あの中をくぐれってことか!?
 不幸なことに前後にランナーはおらず、人間トンネルを組む皆さんの視線と声援は、僕に集中砲火されている。これはかなり恥ずかしい。
 「ブラボーブラボー」「グッジョブ、グッジョブ」「アレーアレー」。どこの国から来たかわからない人びとの大声援を受け、今さら回れ右して引き返すわけにもいかず、人間トンネルの中を腰をかがめて進む。タンクトップのおねえさん方に、キャアキャアと肩だの腕だのを触られる。
 四国の片田舎に生まれ育った平凡な人生において、アイドル歌手の出待ちのような扱いを受ける経験なんて生涯初である。ここはアイドルっぽく振る舞う必要があるだろう。僕は好感度を高めるべく満面の笑顔を振りまき、オーバーアクションもまじえてノリのいい東洋人を装いつつ、人間トンネルをくぐり切った。ふー、アイドルって職業も大変なもんです。穴を抜けたらドッと疲れが出たよ。
 
□【第一関門コリントス】80kmに到達。8時間16分55秒(この10kmを1時間16分10秒)。
 いつもなら着いたとたん自転車にはねられたカエルのように地に伏せててしまう第一関門に、9時間30分の制限時間に対して1時間10分もの余裕をもって到着する。せっかく貯め込んだ時間の貯金を減らしたくないので、エイドで水分補給だけして、すぐさま再スタートする。多くのランナーはこの大エイドで5分から10分程度は休憩するだろう。僕はその間にぬけぬけと1km先まで進んでやるんだ。
 勢いよく走りだしたものの、関門を越えて心の在りようが変化したのか、急にあちこちが痛みだした。特に足の甲が痛い。シューズの中で足が鬱血してきたのか、スタート前にゆるゆるに結んだはずのシューズひもがキツい。
 高速道路と交差する高架の下に座り、ひもを結びなおす。よしオーケー、走りを再開だと立ち上がったときに、あらっと目まいがして平衡感覚がおかしくなり、コンクリートの壁に手をついて倒れるのを防いだ。アレ?これってダメージ来てんの?
 時間の余裕はたっぷりある。軌道修正のためにいくらかは時間を使える。頭のふらつきが治まるまでは歩いてみよう。ぶどう畑の中の一本道をてくてくと歩き始めたが、さっきまでキロ6分で楽々走っていた自分とは別人のよう。首までぬかみそに浸かってるみたいに身体がずっしり重い。地球の重力が急に3倍になったみたい。やばいな、やばくなってきたかもしれない。(つづく)