公開日 2018年10月16日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
人類はいま自分たちを地球の盟主と信じこみ、原油を掘り尽くし、魚を底ざらえし、ミサイルぶっ放したりと、やりたい放題やっている。まとこにヤバい種族に神は智慧の実を喰わせてしまったものである。
46億年の歴史がある地球で、たかだか10万年生き長らえただけのホモ・サピエンスが覇王気取りなのはおごり以外の何物でもない。それに10万年どころか、近代文明に属する人間が地球のあらましを目撃しだしのは、たかだか500年前からなんである。
ヨーロッパ人が北米大陸に到達したのは1492年、オーストラリア大陸へは1606年。全大陸の形を大まかにとらえた世界地図が初めて描き上げられたのは1500年代後半から1600年代中盤にかけてのメルカトルやブラウの時代だ。この頃になって人類はようやく、地球全体の土地と海がこんな形になっているという認識を持った。
それから400年後の1969年、地球以外のよその天体である月にアームストロングとオルドリンが降り立つ。地球の重力圏を離れた星に人間が初上陸するのは、次に火星と大接近する2035年だろうか。
人類の悪行はとりあえず置いといて、近代史500年は輝かしき探検と冒険の歴史でもある。新大陸発見をメインイベントとして、大陸の先っぽを廻り込める新航路や、運河を掘れる地峡の発見は、西欧型の文化や思考を地球の隅まで拡げるのに役立った。
経済的利益を求めた探検の時代は、大陸と航路を見つけ終わると徐々に終焉する。すると探検はアドベンチャーと呼ばれだしスポーツ化していく。北極点、南極点、世界最高峰への到達は、名誉と名声を懸けて行われた。これらモンスター級の目標物を攻略すると、人々はバリエーションを競うようになった。無酸素、無補給、無寄港はいいとして、最高齢、最年少、女性初、女性最高齢、少女初・・・と細かくなってくると、値打ちがあるんだかないんだか、よくわからない。
大雑把に言えることは、ヴァスコ・ダ・ガマも三浦雄一郎もイーロン・マスクも、みな他人に誇れる「人類初」のポジションが魅力に映っているってことだ。
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これら偉業をなしとげる人類の皆さんとはまったく縁遠い、四国の田舎の片隅で、高校2年生の僕は壮大な遠征計画を立てていた。
ローラースケートによる四国一周、である。自転車で四国一周した人は数えきれないほどいるだろうし、一周に等しい八十八ケ所巡りのお遍路さんは歩きが基本。でも、ローラースケートなら前人未到に違いない・・・というスキマ狙いの着想である。
草刈りのバイトくらいしかしてない16歳に貯金はあまりないので、一流メーカー物のローラースケートは買えない。そこでチャリ通学途中にある怪しい品揃えのホームセンター・・・戦国武将の鎧甲冑や、中世ヨーロッパの剣、ツキノワグマの剥製に数十万円の値札をつけ堂々と陳列しているような、いわゆるバッタ物屋にて入手した。メイド・インどことも書いていないローラースケートは、2980円とお求めやすい価格であった。
冬休みが明けると、放課後はローラースケートの練習に充てた。今も当時もローラースケートなんてやっているのは小学生までが相場であって、高校生にもなってシャーシャーと道路を走っているのは恥ずべき行為であったが、「人類史上初の冒険」というお題目が羞恥心を消した。
特訓3カ月。3学期の終業式を終えて午前中に帰宅すると、あらかじめ用意してあった荷物をリュックに詰め込み、すぐさま家を出た。リュックの中身はこれらだ。
・寝袋(1980円)は先ほど説明したバッタ物屋で購入。
・ヘッドランプ(3000円くらい)は、徳島大学常三島キャンパス前にあった「リュックサック」という登山用具専門店で購入したちゃんとした登山メーカーのモノ。
・防寒用の毛糸の帽子(マネキで買った安物)。
だけである。こういう長期間の旅に何が必要かは、考えてもよくわからなかったのである。地図すら持ってはいない。
阿南市内にある自宅からは、国道195号線をひたすら西へ西へといけば高知市に着くだろう、という当てずっぽう。とりあえず道路標識に書いてある「鷲敷」を目指すことにした。
「ああ、今から僕はどうなってしまうんだろう」などと人生初の冒険旅行に心打ち震えていたのは最初の10分である。出発して1kmもしないうちに登り坂がはじまり、自分に陶酔する余裕はなくなる。ゼエゼエと息は荒く、汗だくになるのだが、ローラースケートはぜんぜん登り坂を進まないどころか、足を休めると後ろに下がっていってしまう。バッタ物屋で買ったローラースケートは片足1キログラム以上はあって鉄ゲタのように重く、着地のたびにガチャガチャとうるさい。
思えばローラースケートの特訓は、近所の平坦な道をシャカシャカ転がしてただけで、登り坂の練習なんて一度もしていなかった。
それでも地味に30センチずつ前進し、周囲の景色が山だらけになってきた頃、ふいにローラースケートの底がガリッと音を立てて地面につき刺さり、つんのめってコケそうになる。下を見ると、なんと片側の車輪が取れているではないか。
ちょちょちょい! 壊れるん早すぎるって! まだ家から5kmも進んでないって!
外れた車輪を力ずくで車軸にねじ込んでもグラグラしていて、走りだすとすぐに外れてしまう。修理をする工具など用意しておらず、仮に工具があったとしても、車軸からポッキリ割れているので修理しようがない。想定全長1000kmに及ぶ旅は、わずか5kmで頓挫したのである。
壊れたローラースケートを道ばたのバス停に置き去りにし、僕は走りだす。とつぜん「前人未到の偉業」がついえてしまい、どうすればいいかわからなくなり、走るしかなくなったのである。
旅をやめるという選択肢はなかった。春休みはまだ10日以上ある。目標はないけど、どこかに向かって進むしかない。
ローラースケートを捨てると身軽になり、苦悶していたさっきまでと打って変わって、坂道をぐんぐん登れる。阿瀬比トンネルを抜けると道は平坦になり、気持ちも落ち着いてきた。旅ってけっこう楽しいんでない? 僕は変わり身が早いのである。
鷲敷と相生の街を抜けると、すれちがう小学生たちが物珍しそうな顔でこっちを見ては「さようならー」と挨拶してくれる。
道ばたの田んぼのあぜ道で、おばあさんが中腰のままスボンを膝までおろし、股の間から後方にシャーッとオシッコをはじめる。女の人の立ちション姿は生まれて初めて見た。
自宅からたった数時間移動しただけで、別の世界にやってきたかのようだ。
憧れの人たちと自分を重ね合わせる。冒険家・植村直己は犬ぞりで北極点を目指し、22歳の上温湯隆はラクダを引いてサハラ砂漠を横断しようとし、青年藤原新也はカメラ片手にインドを放浪した。そして16歳の僕は今、相生でおばあさんの野ションを見ているのだ。「これが旅というものなんだ」と感動にひたる。
川口ダム湖を過ぎると、夕暮れに空が燃えていた。
後ろから脇を通り過ぎた軽自動車が急ブレーキを踏み、路肩で停まった。左右のドアが開くと、高校の同級生の福良くんが顔をのぞかせた。運転席から下りたのはお母さんのようだ。
わけのわからない旅に出た同級生の心配をして、50kmも車を走らせて探しあててくれたのだ。
「これ持っていき」とお母さんが差しだした袋には、ジュース2本とお菓子とバナナ1房が入っていた。
「ほんまにこんなところまで来たんか。死んだらあかんぞ」と福良くんは言う。
「死なんだろ」と僕は答える。
福良君とお母さんは長居することなく、車をUターンさせて帰っていった。さみしい気持ちになって車が消えるまで見送った。
川口ダムから西は民家が少なくなり、完全に日が暮れるとすれ違う人もいなくなる。街灯のない暗い夜道を走っていると、お母さんが去り際に残した言葉が頭にこびりついて離れない。
「このまま高知に行くんだったら、木頭を越えた所にある四ツ足峠でトンネルに入るんやけど、ほこには虎が出るけん気をつけて」
意表をついた情報に、ぼくは「トラ?」と聞き返したが、親子はうなずくばかりで何も答えてはくれなかった。
(日本に虎やおるわけないでえな)と常識ではわかっているのに、頭の中には黄色と白のシマシマ模様で、牙をむいて迫ってくる虎のイメージが、どんどん輪郭を強めていく。
街灯ひとつない漆黒の国道195号線。
目を開いても閉じても、なんにも見えない深い闇のなか。僕は虎の恐怖におびえて背中に冷たい汗をかきながら、重いバナナを1房抱えて走り続ける。 (つづく)
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(最近のできごと)7月、みちのく津軽ジャーニーラン(青森県)、188kmの部に出場。初開催から3年目だが、263kmの部と合わせると350名が出場するという、200kmクラスの超長距離レースの大会としては国内最大級の規模に成長している。188kmの部は、弘前駅前公園を朝6時に出発。制限時間は38時間で、翌日の夜20時までに弘前市内の大型ショッピングモールの玄関に用意されたゴール(目立つのでまあまあ恥ずかしい)に戻らなくてはならない。
レース当日は、早朝から雲のない日本晴れ。コース上に日陰はなく、直射日光がお肌をチリチリ。左右対称の完璧な三角錐を描く岩木山のフチをぐるりと廻り込み、38kmあたりで白神山地の麓にある観光用の遊歩道へ足を踏み入れる。昼には気温33度まで上昇し、決壊したダムのごとく汗がドバドバ濁流となって落ちる。序盤にして暑さにやられ、早くもグロッキー状態。白神の森を抜け出した所でバッタリと仰向けになって天を仰ぐが、寝ていても何も進展しないのでノロノロ起きてまた走りだす。
55kmでいったん日本海に面した漁港へ出て、すぐに内陸へと再突入する。青い稲穂が揺れるだだっ広い平野を貫く一本道を、太陽に焼かれながら北上する。90km付近から海のように広大な「十三湖」の湖面が右手に。ここはシジミの名産地だけど、シジミ汁を出してくれる有名店は夕方早々に店仕舞いしていて、何にもありつけはしない。
日がとっぷり落ちた夜8時過ぎ、104kmの大エイド「鯖御殿」に着く。ここは食事スポットでカレーライスや筋子丼など、工夫を凝らした地元グルメを用意してくれている。しかし疲労からか、何も喉を通らない。
コースの半分を過ぎ、残り78kmしかないので、ぼちぼちお気楽ムードに浸ってもよさそうなもんだが、そうは問屋が卸さない。大エイドを出てからゲロ吐きがはじまると悪戦苦悶。朝から腹に入ったのはメロン2カケとガリガリ君の梨味2本くらいで、ゲロ吐きによって更にエネルギー供給が止まり、ハンガーノックに陥って脚が動かない。人目のつかない道ばたで、潰れたカエルのようにみじめに地に伏しては「5分だけ、10分だけ」と休憩時間を延長しつつ、夜道をさまよう。
朝日がのぼると灼熱びよりは相変わらずで、木陰のない道にできた黒い自分の影を追いながら、魂の抜けた屍となってふーらふらと進む。
黒石駅前のレトロな街「中町こみせ通り」は、藩政時代に造られた木造のアーケードが印象的。ここで177km。エイドで黒石名物「つゆ焼きそば」を出してくれ、レース始まって以来の固形物をとると、胃の中でエネルギーが炸裂し、急に足が回転しはじめる。って今ごろ絶好調の波が来るなよ。残り10kmしかないんだよ、手遅れでやんす。
けっきょく188kmに31時間27分もかかってしまったが(目標は28時間)、参加150人のうち15位と順位はよろし。みなさん暑さに潰れたのでしょう。
ゴールすると、スタッフの方が「(エイドの食事用に用意していた)筋子が大量に余っていて、白米はないんだけど欲しい?」というので、ショッピングモールのスーパーに駆け込みパック入りの白ごはんとビールを調達。見たこともない巨大な筋子を乗っけて、米に食らいつく。しょっぱい筋子が喉を落ちると、塩分が抜けきった全身の細胞に、血流に乗ってドクドクと運ばれるナトリウム。「塩しびれるー!」と叫ぶ僕を、距離を置いて取り巻いていた子どもたちが、怪訝な目で眺めていた。