公開日 2019年08月21日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
ささくれだった流木、打ち棄てられたコンドームの包装箱、焦げた安花火はヤンキーたちの夜遊びの残渣だ。何物も動く気配のない海開き前の海水浴場。脇の小道をずうっと北の端まで自転車を漕いでいくと、1メートル大の岩が縦横に積み重なる小さな岬につきあたる。岬の背びれをなすのは高さ5メートルほどの岩壁で、タプタプと静かに波打つ海へと舳先を伸ばしている。
屏風岩のなかで最も垂直に近く、ところどころがオーバーハング状になった一枚の壁に、ぼくはヤモリのようにへばりつき、身動きが取れなくなっていた。
ほぼ万策は尽きていた。あと右腕が5センチ長ければ、愚かなぼくの体重を支えて余りある立派なホールドに指先が触れる。しかし、身体じゅうの骨と関節を軋ませても、その2センチほどの出っ張りは、下界の苦闘をあざ笑うかのように、天空の方・・・そっぽを向いている。
握力は秒単位で失せつつある。足元から地面までは4メートルはある。滑落すれば、ヘタすりゃ足首はポキンだ。しかし、このまま干からびたヤモリのごとくズルズル落ちていくよりは、いさぎよく岩を蹴り、飛び立って、大地に大腿骨の一本も捧げよう。
そう決意した瞬間、60キロの体重を支えていた両の腕は、あっけなく岩から解き放たれた。重力に逆らい拘束されていた身体は、一瞬のうちに自由になった。「ヒョー」という声にもならない息が気管からもれた。宙に浮き、鳥の視界を手にした。そのとき、目に飛び込んできたのは、赤茶けた地上の砂礫ではなく、6月の青い海だった。
着地と同時にキナ臭さが口の奥に充満した。足首に痛みがあるが、骨折したときの鋭痛はない。しかしブザマなものだ。自分の実力をわきまえてないと、いずれヒドい目に遭うかもな、と舌打ちする。
足首の熱を冷まそうと、フナムシやヤツデを追い散らしながら水辺まで歩いていき、岩に腰掛けて足を投げだし海にひたすと、ピリリと冷たい刺激が頭の先まで伝わった。
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高校二年の春。シロウト登山の果てに、雪まだ深い剣山で迷走する事態に至ったぼくはいたく反省し、なけなしの小遣いをはたいて登山用具を買い揃え、ロッククライミングやボッカ練習(20kgほどの荷物を背負い急斜面を登る)、緊急露営のシミュレーションに精を出していた。
某海岸の北側の縁に連なる岩場は、フリークライミングのゲレンデとしては悪くない。クライマーの目に触れてこなかったか、ハーケンやボルトなどの登攀具が打ち込まれた跡がない。過去に誰も登ったことのないルートを初登するのは気持ちの良いものだ。
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海原には幾艘もの小型漁船が浮かび、水平線に薄ぼんやりと伊島の背骨が見える。目前には、海面から20メートルほど迫り出した小島がある。垂直の崖は、船を着岸できる場所を与えず、人間の干渉を拒絶している。むき出しとなった茶褐色の岩場の上部に、こんもりと松の森をたたえている。確か「007ゴールドフィンガー」にもこんなミステリアスな形の島が登場したはずだ。
滑落直後のぼくは、自虐的な気分に傾倒しつつあり、そのアポロチョコ型をした小島の頂上に立ちたいという欲望から逃れられなくなった。島まで目測で三~四百メートル。波は穏やかだが、潮の流れがあるかもしれない。小島の手前には、ゴジラの背に似たギザギサの岩礁が、ぼくを島へ誘うように数個、列をなしている。
人目を気にしながら・・・といっても周囲には人っ子ひとりいないのだが、自殺志願者と勘違いされないように堂々とハーネスのTシャツを脱ぎ捨て(ぼくは18歳になるまでヘインズをハーネスと読み間違えていた)、体育の授業用の青い短パンの腰紐をビッチリ締め直した。
海水は冷たく、老人が行水するみたいにちびりちびりと心臓のあたりにかけ水をしながら沖へと進んだ。波しぶきが顔を濡らすまでは背伸びして歩き、いよいよ足の指先が海底に届かなくなると、クロールで泳ぎだした。
波は立っていないが、うねりは想像以上に大きい。海水を飲み込んでは激しくむせ、鼻の奥がキューンと痛んだ。頭の奥でビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」が静かに流れる。誰にも相手にされない「馬鹿な男」は、毎日丘の上に立って、世界が回転しているようすを見つめているって寓話。
正面に島を補足しながらクロールを繰り返し、うねりの上下動に身をまかせていると、不思議と真夏の海を泳いでいるような温かい感触に全身が包まれていった。息継ぎのたびに、空の青が目に染みた。
島はなかなか近づいてこず、見た目以上に距離があることを知る。ガタガタ震えるほど体温が下がる頃になっても、手前の岩礁にたどりつくのが精一杯であった。
それから夏が来るまでに、ぼくは何度もその小島を目指し、到達できずに力つきては、途中で引き返した。
ぼくは何を目指していたのだろう。
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夏前には同級生たちの進路希望は大筋かたまり、彼らは模試結果の志望校判定に一喜一憂したり、就職先を決めるために進路指導室に入り浸ったりしていた。
ぼくは、自分が何がしたいのかよくわからなかった。何カ月か先に自分は高校生ではなくなり、社会に出るためのいずれかのレールに乗るのだという実感が、いつまで経っても得られなかった。
その夏は特に暑かった。ジリジリと照りつける太陽には、地上のあらゆる物を溶かそうという邪悪な意思があるように思えた。蒸しかえる空気には、自分の進路を決められない17歳を、さらに怠惰な気分にさせる微粒子が含まれているようだった。
徳島大学前の小さな山道具屋「リュックサック」で、イタリア製の登山靴を1万6千円もの大枚をはたいて買った。氷雪登攀用のアイゼンが装着できる本気のヤツだ。毎朝、靴底ブ厚いそいつをボコボコ鳴らしながら、高校までの片道9キロの道を走るのを日課にした。摂氏30度を超える炎天下、木陰のない堤防上の砂利道を、砂塵を上げながら走った。もうもうと舞う砂煙を鼻の奥まで吸いこみ、奥歯でジャリジャリと砂を噛みしめた。
その夏から逃げ出すために、ぼくは走り続けていた。
夏休みに入ってすぐ、鈍行列車を乗り継いで、北アルプスへ出かけた。
阿南駅発の始発に乗りこみ、高松港より宇高連絡船を経由して本州に渡り、宇野駅から何度も列車を乗り換えた。岐阜県の高山駅に着いたのは深夜に近かった。旅程が1日で収まり「青春18きっぷ」の1枚分で済んだので、片道二千円の安旅だ。駅舎のベンチで夜をあかし、朝一番のバスで今回の登山基地となる「新穂高」へと向かった。
7月下旬という夏山の最盛期にも関わらず、新穂高のバス停から槍ヶ岳へと伸びる登山道に人の気配はなかった。初めて登る三千メートル級の岩峰へと続く道を、黙々と、少しの休憩もとらずに、ひたすら歩いた。いくつかの沢を渡り、そのたびに冷たい山水をガブ飲みし、シャツが濡れるのも構わずに大げさに顔を洗った。
標高二千メートルを超えると、確かにそこは不穏な熱気と排気ガスまみれの下界とは別天地であった。天を圧する岩峰の連なりの下で、矮小なぼくの存在など、苔むす花崗岩の下に住むアオガエルにも劣るのであった。
稜線にわずかに現れた白いガスの影は、みるみるうちに巨大なビルディングほどの塊に化けると、下降気流に押されて斜面を駆け下り、数分後にはぼくを覆い尽くし、視界を白く塗り替えた。自分のつま先より先は白一色の世界。これが山岳小説によく出てくるホワイトアウトってやつだな。
ガスに切れ目が生じ、その奥に槍ヶ岳の威容が浮かんだとき、その感動的な光景に見とれるほどの余裕を、ぼくは失くしていた。広大なカールを描く、モレーン状のガレ場に迷い込み、無数の小さな岩のカケラに足下をすくわれて、このまま蟻地獄のように谷底まで滑り落ちていくのではないかとアセっていた。落石雪崩を起こさないよう、自分が滑落しないよう、蟻の歩みで高度を稼いでいった。
頂上に近い「肩の小屋」に着くと、山小屋やテントサイトが密集する狭い空間に、数百人もの登山客がひしめきあっていた。ここまでの道でほとんど登山客の姿を見かけなかったのに、みな反対側のルートから登って来たのか。
親子連れで訪れたのだろうか、子供たちが歓声を上げながらそこらじゅうを走りまわっている。かたや酔っぱらいとおぼしき大学生グループが、猥談に花を咲かせている。ここは下界そのものであった。
山小屋の受付で場所代を払い、テントエリアの隅に一人用のツェルト(簡易テント)を張った。日没近くになってもテントの外は騒がしかった。山小屋で売っていた何百円もする缶ビールを飲み、ポケットに押し込んでいた「キャメル」の煙草を吸った。両方ともあまり美味しくはなかった。
翌日は奥穂高岳まで三千メートルの稜線を縦走し、穂高岳山荘前でテント泊をした。明け方、生まれて初めて見る雲海と、朝日に染まる残雪が美しかった。次の日には前穂高岳を経由して、上高地までの長い下り坂を駆けるように下山した。雄大な北アルプスの景観はただ後ろに過ぎ去るためのものであった。眼下に近づきつつある上高地からは、吹き上がる風に混じって、しきりに人間の匂いが届けられた。
上高地の絵葉書によく登場する河童橋を渡り終えると世界は一変した。四六時中、何十台もの観光バスが発着を繰り返し、女子大生や婦人のグループ・・・なぜか圧倒的に女性客が多いのだが、短い滞在時間を惜しむかのように、せわしなく立ち振る舞っていた。谷川のせせらぎに手を浸したり、山の冷涼な空気を胸いっぱいに吸い込んだり、絵ハガキに向かってひと夏の自己証明をしたためようとしていた。彼女たちとすれ違うたびに、強烈な香水と化粧の匂いがした。
路線バスで高山駅前に戻り、明朝の始発電車の時間まで、駅のベンチで再び野宿をすることにした。ザックを枕代わりにドカッと横になると、単独行の緊張感がゆるみ、ものの数分後には眠りについた。
どれくらい眠っていたのだろう。瞳の奥にかすかな刺激が伝わって、ぼくは目覚めた。眼の前にある物体が、現実の物であるのか、夢の続きを見ているのか、しばらくは判別できなかった。現実であるとするならば、あまりに唐突で理解しがたい光景であるし、夢だとするならばかなりの悪夢である。
ぼくの頭上には、確かにエレクトした性器(ルビ・ペニス)があった。現実と夢との境界から脱けだす時間は、5秒もあれば十分だった。ぼくの顔の上で、自らの性器を愛撫する薄汚れたオッサン・・・ヒゲ面の奥の黄色い口蓋からは、規則的に嗚咽が漏れている。
こうやってぼくの青春は、わけのわからないオッサンの精液(スペルマ)に汚されていくのか。ふりはらいたい物は山ほどあった。受験勉強もせず、北アルプスまでのこのこやってきて、いったいぼくは何から逃げ出そうとしていたのだろうと考えると、生温かい虚脱感が動脈を駆けるのだ。逃げ出せる場所なんてどこにもないのに。50センチの至近距離にあるオッサンの臭気漂うポコチンが、高校生最後の夏のリアルなんだ。 (つづく)