公開日 2020年10月03日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
(前号まで=アフリカ大陸徒歩横断をめざし、インド洋岸の港町モンバサを出発した"ぼく"は十九歳。スタート直後から想像を絶する厳しさに苦悶する。アスファルトの照り返しにスネを焼かれ、乾燥した土地に水場は見当たらず、倒れている時間が長いもんだから、一日に四十キロずつしか前進できない)
朝、冷たい土の上で目覚める。調達したメシを歩きながらかじり、獣たちに見つからないよう木の陰に隠れてウンコをする。真夜中、疲れ切って歩けなくなるまで行動し、道ばたに突っ伏して眠っては、次の朝を迎える。つまり二十四時間、路上生活者なんである。
流れ落ちる汗は、大地に染みをつくる間もなく蒸発する。赤土にうっすら残した足跡は、一陣の風にかき消されていく。形あるウンコとて、明日には乾ききり、砂塵に舞うのだろう。
ぼくの行為は、何ひとつとして残すことはできない。脳裏に刻み込まれるこの風景や、鮮烈な記憶ですら、いつか頭の中から失われるに違いない。それなら、ぼくはなぜ歩くのか。
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出発から八日目。
裸足の若者が二人、ゴムサンダルをパタパタ鳴らして追いかけてきた。
「君はもしかしてモンバサから歩いてきた人?」とこっちを凝視する。
「そうだ」
「ラジオでモンバサからナイロビまで歩いている人がいるって放送してたぜ。君のことじゃないか?」
「どうなんだろ。ぼくはナイロビより遠くまで歩くつもりだけど」
そう答えると二人は「ヒュー」っと息を鳴らし、ぼくの頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺める。ひどい火傷を負って皮がズルむけになった腕を見て「ヒャッ」と驚き、「薬もっているのか?」と心配する。
三人で横一列になって歩く。
「スポンサーは誰なんだい?」
「そんなのいないよ」
「じゃあ、君は何のために歩いてるんだい? 何かを主張したいのか、それとも旅行作家なのか」
「特に訴えたいこともないし、仕事でもないよ。何のために歩いているのかは、自分でもよくわからない」
若者たちは不思議そうな顔をしている。
彼らを納得させるために、理由をひねり出す。
「歩いているのは・・・自分のためだ。イッツ・マイ・ライフだ」
キマったかなと思い彼らを見返すと、ますます訝しげな雰囲気だ。目玉をまんまるに膨らませて、
「それはどういう意味だ。君のホビー(趣味)だということかい?」
「そ、そうだ、趣味だ」
同意しておかねば、質問攻勢が終わりそうにない。
「オウ、イッツ・ユア・ホビー!」
二人は手を叩いて笑う。ぼくの行動には小難しい理由も、社会的使命もないことを知り、阿呆な人物だと判断したようだ。
彼らはそれから何キロもの道を喋り歩き、「よい旅を」と言い残して元来た道を引き返していった。
スタートして以来、人と話すたびに歩く理由を尋ねられて、返事に窮していた。人に説明可能な合理的な動機は、自分の中には何ひとつとしてないのだ。
「イッツ・マイ・ホビーだ!」そう宣言すると気持ちが楽になった。若者たちと別れてからも、叫びながら歩いた。
□
「ナイロビまで二百キロ」という道路標識が見える。モンバサからここまで三百二十キロ歩いたことになる。
幹線道路沿いに大きなガソリンスタンドが現れる。敷地には西欧風のきれいなレストランがある。エアコンの室外機が吐き出す人工的な排気臭に吸い寄せられるように店に入る。席について給仕が持ってきたメニュー表を見ると、庶民食堂の何十倍もする値段の料理がずらりと並ぶ。頭が痛くなるくらいクーラーが効いているというのに、冷や汗をタラタラ流しながら、いちばん安い焼きめしを注文する。
先客のケニア人たちが、こっちをジロジロと目で追う。みな襟つきのパリッとしたシャツを着て、糊の効いたスラックスをはいている。こんな高級店で食事できるのは、豊かな階層の人たちに違いない。場にそぐわないアジア人の挙動不審な様子を、ビールの肴にしているのだろうか。一瞬ならまだしも、五分、十分と見られていると、落ち着いてメシが食えない。
いたたまれなくなって席を立ち、トイレに逃げ込む。洗面台の鏡に奇妙な人間が映る。泥とアカにまみれた薄汚れた顔。鼻の先や頬っぺたにはズルむけになった皮膚が垂れ、ピンク色をした内側の生肉がむき出しになっている。乾燥しきった髪の毛は砂が混じって白濁している。Tシャツは汗と赤土が染みてマダラ模様。もとは白シャツなのに黄土色で染色したかのよう。
これは社会の内側にいる人間の身なりではない。完全にヤバいヤツだ。歩きはじめて一週間、ぼくはサバンナにグチャグチャにされてしまった。この風貌でレストランに入れば、奇異な視線に晒されるのは当然だ。
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キボコという宿場街を過ぎる。巨大な夕陽が最後の光を一条放つと、地平線の下へ潜りこむ。遮る物がない平原では、昼と夜がパッキリ別れている。光源ゼロの漆黒の闇が、猛スピードで地上を覆い尽くす。
昨日から集落が点在しはじめ、徐々にナイロビ首都圏に入っていくのかと思いきや、再び人の気配のない大ブッシュ(草むら)地帯に突入している。
サバンナの夜は、昼間とは比べ物にならないほど音に溢れている。
あっちこっちから獣のうなり声や悲鳴が聴こえてくる。得体のしれない「キーキー」という金切り声が空気を切り裂く。草むらがザワザワと揺れると「ブフォブフォ」と雄叫びをあげながら獣が歩きまわる。バサバサと羽音を立て、怪鳥の黒い影が夜の空に飛びたつ。
樹木が激しく揺れる。咆哮をあげなから、二匹の生物が格闘をしている。獣が鳥を襲っている。灌木の折れる音、地面を叩く羽音。すざまじい戦いぶりだ。一方が力尽きると、あたりは一瞬で静寂に包まれる。
ここはサバンナだ。生ある者はすべて弱肉強食の掟に従わねばならない。いつ何者に襲われて食い殺されても、それは自然の摂理内のよくある日常風景の一コマに過ぎない。
遠くからエンジン音が近づいてくる。一台の車が土煙を上げながら通り過ぎたかと思うと、百メートルくらい進んだ所で猛然とタイヤを逆回転させ、バックしてきてぼくの真横で停まる。
半開きにしたドアから、ドライバーが半身をもたげて怒鳴る。「こんな所で何してるんだ! この辺にはシンバ(ライオン)がうようよいるんだぞ。死にたくなければ車に乗れ!」。口調は険しいが、荒くれ者ではない。ポロシャツを着た紳士然とした人だ。
「ノー、ぼくは乗りません」
「おいおい、君はシンバを知っているのかい。ガオーッ(と両手をあげてポーズを取り)、ライオンだぞ。こんな時間に歩いていたら、間違いなく食われちまうんだ。早くこの車に乗れ」
「ごめんなさい。あなたが親切な人で、心配してくれる気持ちはわかるんですけど、やっぱりぼくは歩きたいんです」
彼は、なんてこったいとお手上げポーズを取ると、タイヤを空回させながら車を急発進させた。闇に小さく消えていく赤いテールランプを見つめながら「ぼくは愚かだ」とつくづく思う。
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道はどんどんブッシュの奥深くへと侵入していく。無人地帯が数十キロも続いているようだ。
雲の切れ間から満月が顔を出す。月光が足元を照らす。光の届かない森の奥は陰影を濃くし、闇からぼくを恫喝する。木々を跳び交う猿たちの奇声がこだまする。こっちのスピードに合わせて集団で追いかけてくる。威嚇行動なのだろうか。
突然、森が切り拓かれた場所に出る。人間の手で伐採されたものだ。近くに集落があるのか。うまい具合にてっぺんが平たく削られた巨岩が横たわっている。今夜はここで野宿としよう。リュックを枕にし、岩の上に仰向けに寝る。汗で濡れたTシャツの背が冷たい。
すぐに眠りに落ちるのは毎日のことだ。蚊とアリの容赦ない攻撃にときどき起こされながら、夢の中をさまよっていた。何時間そうしていただろう。頭の上の方から、カツカツと革靴が地面を鳴らすような足音が近づいてくる。伐採の痕跡がある森の中だ。民家が近いのかもしれない。村人がぼくの影を認めて、様子を見にきたのだろうか。
上半身を起こし、振り返って「ハーイ」と挨拶しようとした。
するとそこには、煌々と輝く満月の光を背に、すっと屹立した巨大なシルエットがあった。影はぼくを見下ろし、ぼくは影を見上げる。巨大だ、巨大すぎる。ぼくの思考は停止し、鼓動が爆発せんばかりに打ち鳴らされる。
その影は、どこからどうみてもキリンである。距離は六、七メートルしか離れていない。
キリンはもちろん見たことがある。しかし動物園の檻の向こうにいるキリンである。まつげの長い、優しげな草食動物だ。しかし今、目の前にいる現実離れした巨大な肢体は、モンスターとしか言いようがない。
キリンも戸惑っているようだった。とつぜん足元に現れた小動物が、自分を襲う意思のある敵なのか、あるいは無害な生き物なのか、推し量っているようだった。お互いに戸惑いを隠せないまま数秒が経つ。その刹那は何時間にも感じられた。
キリンはゆっくりとひそやかに森の中へと消えていった。
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ぼくはまた歩きはじめた。いつまで経っても夜は明けそうになかった。風は凍えるほど冷たいというのに、アゴの先から汗がしたたり落ちた。
数キロ先でヘナヘナと路上に崩れる。足腰に力が入らない。
そのうち嘔吐感をもよおして、上に戻してしまう。夕方食った山羊肉とジャガイモが、塊のまま喉を逆流する。胃液が酸っぱい。ポリタンクの水で口をすすいでも、酸っぱさは拭えない。四つん這いになったまま、涙がポロポロこぼれ出て、地面に落ちる。三度くらい吐くと胃に何もなくなく。疲れ切って横になったぼくに夜露がついて、びしょびしょに濡れていく。
翌朝、目が覚めても起き上がれない。太陽が高度を上げていってもそのままでいる。火傷を負った両腕の皮膚はカチカチに乾いて角質化し、汗腺の穴を塞いでいる。発汗できないために、皮膚の表面温度が上昇していく。甲羅のようにヒビが入り、その割れ目から白い膿がにじみ出す。その傷口を狙って、小バエとアブがたかる。口の中まで飛び込んてくる小バエたちは、サバンナでは貴重な水分をぼくの口から奪おうとしているのだ。
このままここで干からびていったとしても、誰にも気づかれないのかな。 (つづく)