公開日 2020年11月12日
(前号まで=アフリカ大陸徒歩横断をめざす"ぼく"は十九歳。ケニア共和国、インド洋岸の港町モンバサをスタートし、大サバンナ地帯を五百二十キロ歩いて首都ナイロビにたどり着いた。全行程のわずか十分の一こなしただけで、ボロキレ同然の衰弱。そして、欲望うずまくナイロビの街に翻弄されるのであった)
高層ビルの麓に広がるナイロビのダウンタウン。路地の隅々に小便や生ゴミの腐臭が染みついている。無秩序なクラクションと排気音、雄叫び、わめき声。路上生活をおくる子供たちの爪先には、貧困が垢となってこびりついている。大人へと向ける醒めた目は、人間の汚れた所業をすべて見透かしているかのようだ。
下町の一角にある安宿の、一泊二百円ほどの大部屋にうごめく金欠旅行者たちは、カフカの描く毒虫のように、不確かな自己存在に苛まれている。粗末なベッドは、だらしなくたるんだ金網の上にウレタンマットを敷いただけ。寝返りを打つとギィギィ異音がする。旅行者の多くは、そこに日がな一日横たわり、ダニと南京虫の巣と化した寝袋から顔だけを出して、栄養失調の黄色く濁った眼球で、薄汚れた天井を見つめている。
彼らはどこか壊れている。
たとえば、奇妙な高揚感だ。
元自衛隊員だという「バクダン」氏は、アフリカに社会主義革命を起こすんだとか何とかの理由で、キリマンジャロの麓に爆弾を仕掛けてやると放言する。集落もない無人の大平原で爆破テロを起こして誰を困らせたいのか意図は不明である。「殺し屋」と呼ばれる英国の若者は、かつて某国軍の外人傭兵部隊に志願入隊し、殺人のノウハウを学んだと吹聴する。細い紐を相手の首に巻きつけて背負い、頸動脈を締める技を披露してくれるが、こんな地味な技が戦場で役立つんだろうか。
インド人の「ペテン師」氏は、パームオイルの輸入でポロ儲けをし、一生遊んでも使い切れない金があると、いつも五百ドルのトラベラーズチェックの束をペラペラと指先で勘定している。億万長者がなぜ一泊二百円の安宿ぐらしなのかはわからないが、メシをおごってくれるので助かる。
彼らは、あり余る時間を有効に使おうという意欲はない。真っ昼間から売春窟にでかけ、一畳ひと間のトタン張りの部屋で、脂ぎった年増の女を抱く。そして百円足らずの料金を口汚く値切る。
彼らこそ「世捨て人」と呼ぶにふさわしい。母国の社会で浮いた存在となり、やむなく旅に出た先でも疎ましがられ、アリ地獄の底のようなこの街に落ちてきた連中だ。
彼らを偏見の目で眺めているぼくもまた、重度の社会不適合者に違いない。社会との接点を一ミリも持たず、人目を気にする健全な世間体を失くしている。目的もなく、どこまでも歩き続けるという行為は逃避行者そのものだ。
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ナイロビに着いてから十日間ほどかけて、これから向かう先にある国々の大使館に通いつめ、入国査証をひととおり揃えた。ケニア国内の行程は残り五百キロほど。しかし、どの方向を目指すのか決めあぐねていた。
北西へと伸びる幹線道路を道なりに進めばウガンダ共和国だ。ところが新聞では、連日ウガンダ内線が佳境を迎えているというニュースが報じられていた。ケニア国軍が大挙してウガンダ国境に向かっているという報道もある。
一方、途中で南寄りに進路を逸れると、アフリカ大陸最大の湖であるビクトリア湖岸に出る。湖の南岸を回り込むと、ルワンダやブルンジといった小国にたどり着く。この南ルートは、赤道直下のジャングル地帯のド真ん中へ突っ込んでいく道だ。時期悪く、来月早々にはアフリカ中央部は雨期に突入し、浸水する集落や道が多発するらしい。そして赤痢やコレラなどの伝染病が蔓延する。つまりどの方角を目指そうと困難が待ち受けているというわけだ。
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ナイロビを再び発つ日が来た。日本を出た頃よりも十キロ近く痩せており、筋力の衰えが著しい。荷物をほとんど捨てた空っぽのリュックをかついだだけで、後ろにひっくり返りそうになる。腕や脚など肌を露出している部分は大量の虫刺されの跡があり、栄養失調からか点々と白い膿が溜まっている。
ふらつく足でアスファルトの道を二十キロほど歩き、都市圏の郊外に出た頃には、徐々に調子が戻ってきた気がした。そうだ、止まっていてはダメなんだ。歩き続けることで見えることがある。歩くスピードと視野で物事を考えるんだ。この数日間の鬱屈した気分が晴れていく。やっぱり歩いていないとぼくはダメなんだ。
夕陽が山の端にかかる頃、とつぜん背筋に悪寒が走る。漫画に描かれるような大げさなガタガタブルブル。体調不良が原因とは思えず、悪魔にでも取り憑かれたのかと不安になり、自分に影があるのを確認する。震えはすぐに収まり、何ごともなくまた歩く。
道端にはバラック造りの集落が並ぶ。ぼくの姿を見かけた子供たちが「ムズング!ムズング!」(外人、外人)とか、「シーノア!」(中国人)と叫ぶ。中国語の口真似をして「ヒーホー!」(ニイハオのつもり)と囃し立て、棒切れを投げるマネをする。どの子供も好戦的な態度で、序盤の五百二十キロの道のりで出会った恥ずかしがり屋の子供たちとは様子が違う。
また少し寒気がしはじめる。復帰初日で無理をしたからだろうか。
そして、二度目の激しい震えが全身に及ぶと、その場から一歩たりとも動けなくなった。道端にうずくまり、朝から食べたものをすべて吐き出す。脂ぎった冷たい汗が皮膚にまとわりつく。
何なんだこれは、と思う。
ほんとに何なんだよ。苦しすぎるよ。
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目が覚めると、ぼくは高い天井の物置小屋のような建物の片隅に寝かされ、ガタガタ震えていた。周りを取り囲んだ若者や老人たちが、覆いかぶさるようにのぞき込んでいる。
「ムズング(外人)、気がついたか?」
「頭が痛い。それにとても寒い」
「あんな道の上で寝ていたら、車にハネられたって文句言えないぞ」
「ここまで運んでくれたんですか」
「ああ。調子が良くなるまでここで寝ていろ」
村人たちは、飲み水を置いて去っていった。すっかり夜になっている。どれくらい道端に倒れていたんだろう。彼らはずっとぼくを見守ってくれていたのだろうか。
ムシロの敷物の上に寝かされている。薄いムシロの下のコンクリート床が体温を奪っていく。ガチガチと小刻みに歯が鳴る。冬のアルプスに裸で放りだされたように寒い。
かと思えば数分後には、身体一面に炎を近づけられたような激しい熱にうなされる。シャツをはぎ取って裸になっても耐えられないほどの熱さ。もらった水を皮膚に塗りつけるが効果はない。
頭骸骨のつなぎ目に、バールをねじ込んでガリガリこじ開けられるような頭痛が絶え間なく襲ってくる。疲れ果てて眠りたいのに、痛みが酷くて眠ることも許されない。
苦しい、時間の感覚がなくなっていく。
激しい雨が地面を叩く音が、ムシロ越しに耳に伝わってくる。それなのにトタン屋根はしんと静まり返っている。赤ん坊の泣き声がやまない。喉が張り裂けんばかりに、精いっぱいの自己主張をしている。それが鶏の鳴き声に変わると、鶏はぼくの耳元まで来て、地面の虫をザクザクとついばみだす。餌食になりたくない虫たちは土の奥深くに隠れようとザワザワ動く。どれが現実の音で、どこからが幻聴なのだろうか。
村の老人が懐中電灯の光を揺らしながらやってくる。「何時ですか」と聞くと腕時計をニュッと差し出す。時計の針は五時を指している。夕方ではないので、夜明け前の五時だろう。本来なら出発すべき時刻だ。立とうとしてみるが腕に力が入らず、体を支えきれない。老人は何か声をかけてくれるが、スワヒリ語なので理解できない。
穴の空いたトタン屋根から朝の光が漏れると、村人たちが入れ代わり立ち代わりやってきては見舞ってくれる。枕元に、コーラやミネラルウォーター、バナナやビスケットを置いてくれる。でも、何ひとつとして喉を通らない。
奥歯をガチガチ鳴らしているぼくを見かねた若者たちが、「寒い場所はダメだ」と日当たりのいい屋外に抱えて運び、寝かせてくれる。しかし直射日光が暑すぎる。汗をドロドロ流して、たかられたハエを振り払う動作もできない。
昼が来て、また夕方になる。時間が無益に過ぎていく。歩くんだ。少々の発熱がどうしたってんだ。歩きださないと何も状況は変わらない。全力を振り絞って立ち上がろうとする。膝がガクガクしてしゃがみこむ。関節がコンニャクになったみたい。
いつしか数十人の村人に囲まれている。みな口々に「マラーリア」と言っては、うなずきあっている。一人の若者が踵を返し、また戻ってくると、握りしめた手を開いて見せる。よれよれの薬紙に包まれた錠剤が2錠、手のひらに乗っている。抗マラリアの薬だという。「これを飲めば良くなるよ」と水と一緒に飲ませてくれる。ところがすぐに吐き気がし、せっかくのマラリア剤を嘔吐して戻してしまう。この村では貴重なものだろうに。
この旅に出る前、ぼくはうっすらと死を覚悟していた。しかし今は、死ぬには少し時期が早い気がするし、死ぬのが怖い。
死ぬということは、この世のすべての人と別れることなんだ。それはすごく怖いことだ。
日本縦断徒歩行をともにした相棒の子犬・おけけの写真を取り出す。おけけ、お前はこうやって死んでいったのか。おけけ、死ぬのは怖かっただろう。おけけ、こんな思いをさせて悪かったな。
昨日から世話をしてくれている一番面倒見のいい若者が真剣な顔で言う。
「オマエ、ナイロビに帰って病院に行かないと死ぬよ」
この村に車は一台もないが、前の道まで出ればナイロビ行きのバスに乗れるという。
若者は、ぼくの背中を抱えて起こそうとする。体が鉛のように重くて、介助されても起きあがれない。たったこれだけの動作で「ハァハァ」と息が絶え絶えになる。
薄ぼんやりとした意識の中で、死への畏れと、ナイロビには帰りたくないという気持ちがせめぎ合う。あのバケモノのような街に戻ったら、世捨て人の集団に取り込まれて、引き返せない場所まで沈没していきそうな気がするのだ。(つづく)