バカロードその153 アフリカ灼熱編10「自分不明者、石つぶて、悔恨」

公開日 2021年06月21日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる"ぼく"は十九歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発した。寒村でマラリアに倒れ死線をさまよったが、療養期間を経て再び歩きだす。スタートから千百キロを超え、タンザニア北部の巨大湖ビクトリア湖岸から、山岳国家のルワンダへと足を向ける)

 Tシャツの袖から先の皮膚は、マトモな部分が残ってないほど虫に刺され、咬まれている。栄養失調からか治癒力に乏しく、ジュクジュクに白く化膿している。歩きながら両腕の虫刺されの跡を数える。昨日は二百十六個、今日は二百六十六個。一晩で五十個も増えている。咬み跡で何の虫か想像がつく。二つ牙跡で列を成しているのがダニ。広い範囲でぶわっと数十カ所を発疹させるのが南京虫(シラミ)・・・なんだろう。
 かゆみはあまり感じなくなっている。百個を超したあたりで飽和状態に達してしまっている。もうどこでも吸って、咬んでくれって感じ。
           □
 ムワンザは北部タンザニア随一の都市である。しかし、農村部の穏やかで豊かな人びとの暮らしぶりとは様変わりし、街の隅々まで貧困がこびりついている。郊外からダウンタウンの中心部へと向かう街道には、バラックの建物が連なっている。歩く人びとの目は虚ろで、表情がない。田舎の村人たちとは違って、外国人のぼくを一瞥もしない。
 垂直の位置にある太陽が、あらゆる影を地面に焼きつけんばかりに照りつける。蒸し器に閉じ込められたような嫌な暑さ。顔の周りをハエがまとわりつく。ここいらのハエは、舐めるだけじゃく噛みつくのでひどく痛い。
 食物市場の裏側の、猛烈な腐臭がする汚泥のたまり場に、人がいる。腐った野菜や、発酵しすぎたフルーツや、魚の内臓がヘドロになったゴミ溜めに、ひとりの男が座っている。彼の横で、図体のでかい黒豚が腐敗したゴミをクチャクチャと食っている。
 男がふいにつぶやく。
 「お前は誰だね?」
 はっきりしたスワヒリ語で、明瞭な発音で問うてくる。
 「日本人だ」と答えると、彼は「アパナ(違う)」と首を振る。
 そして繰り返す。
 「お前は誰だね?」
 男の目は青白く光っているように見えた。
 「お前は誰だね? お前は誰だね?」
 ぼくは逃げ出した。赤土の道を、脇目もふらずに歩いた。背中と胸にジュクジュクと脂っこい汗をかいた。
 男は狂っている。道行く人すべてに「お前は誰だね?」と尋ねているのだ。彼の目には何も映ってやしないのだ。
 しかし、男の問いかけが頭にこびりついて離れない。
 ぼくはいったい何者なのだ?
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 七月二十七日、ルワンダ共和国の首都・キガリに到着する。インド洋岸の街、モンバサを出発してから百四十四日目、距離は千七百キロあまり。タンザニアとルワンダの国境から首都キガリまで二百五十五キロを六日で歩く。
 官公庁やホテルがあるキガリ市の中央部に着いても、これが本当に一国の首都なのかと疑うほど閑散としている。なぜこの国が独立国家として機能していけるんだろう?
 小さな、本当に小さな国だ。
 そしてこの国について考えることは、とても苦痛を伴う作業だ。
 キガリ市の中心部にある市場の入口で、警官五人が少年を羽交い締めにしている。盗みでも働いたのだろうか、それとも言いがかりなのだろうか。髪の毛を引っ張られ、顔が歪んでいる。抵抗したためか、シャツが破けて上半身が顕になっている。一片の脂肪もない美しい身体だ。
 少年が隙をつき、パッと側方に飛ぶ。少年の運動能力は、警官のそれを上回っている。少年が走りだす。黒豹のように俊敏で獰猛な動きだ。だが、少年の挑戦はまったく成果を見せないまま、再び警官の制圧下に陥る。野次馬がつくる人垣が、彼の行く手を阻んだのだ。警官らはあっという間に彼に追いつくと、手にした警棒でめった打ちにする。肉と骨が砕ける鈍い音が響く。広場を引きずりまわされながら、少年は抵抗力を失いぐったりする。頭がザックリ裂け、白いシャツが鮮血にまみれる。野次馬らは黙ってその光景を見ている。
 「おい中国人」
 背後から声がする。ぼくのことを呼んでいるのだ。この国ではぼくは「中国人」という風に呼ばれる。自動車とゲームとアニメづくりの得意な東方の島嶼国家など誰も知らない。
 「中国人、聞こえないのか?」
 気づかないふりをする。声の主が正面にまわりこむ。小男だ。右目のまわりの皮膚が溶けて、眼球がむき出しになっている。
 「お前はツーリストか。ツーリストならガンジャをやるだろう。いいガンジャがここにあるんだがね。産地も乾燥具合も申し分ない。あっという間に天国だ。お望みならハシシもエルもある」
 男は上着のポケットから茶色く枯れたガンジャ入りのビニル袋を取り出し、ぼくのズボンのポケットにねじこもうとする。こいつはぼくを陥れようとしている。おおかたグルになっている警官がいるのだ。きっと直後に警官が登場し、身体検査をされ、「豚箱に入りたくなければ百ドル寄越せ」という段取りだろう。
 ぼくは男の襟首をつかみ、力まかせに地面に叩きつける。そして後ろをふりかえらずに全速力で逃げる。路地裏をめちゃくちゃに走り、目立たない小さな食堂に逃げ込む。
 猛烈な空腹感に襲われる。少年の血を見たからだろうか。
 そら豆と豚肉を煮込んだものを注文する。といっても料理はそれだけしかない。山盛りになった煮豆を口に押し込んでいく。一皿では足りない。二皿めはペースを上げてかきこむ。窓という窓に、子供たちの顔がへばりついている。
 「シーノア! シーノア!」(中国人だ、中国人だ)
 嘲笑混じりの大合唱がはじまる。
 だから、ぼくは、何者なんだ?
      □
 ルワンダでは「小石」という小さな暴力と憎悪にさらされた。
 村に入る。子供たちに取り囲まれる。彼らは口々に言う。
 「中国人、一フランくれよ」 
 子供たちの瞳に純朴さはない。強い敵意に満ちている。彼らに一フランコインをさし出すことはできない。欧州の駐在員や一般のツーリストたちは、ズボンのポケットに子供たちにばらまくための小銭を忍ばせている。持てる者は、持たざる者に与える。それがこの国の道徳観だ。
 ぼくの手持ちの全財産は七百ドルだ。七万円、それはこの国の労働者の数年分の収入にあたる。ぼくはこの金で、旅という娯楽を営んでいる。子供たちは、一フランあれば数日の間、食べ物に困ることはない。
 わかっている。わかってはいるのだが、ぼくは子供たちとの間に、与える側と与えられる側の境界線を引きたくない。しかしそんな綺麗事は、この国に住む人たちには関係のないことだ。「金払いの悪い金持ち」の烙印を押される。
 投げつけられた小石が周囲を飛び交う。振り返らない。振り返ると、子供たちをさらに挑発することになる。走って逃げる。派手な歓声と、石つぶてが追いかけてくる。この国に入ってから、こうやってずっと逃げつづけている。逃げるたびに、自分がコメツキバッタのように卑しい存在になっていく気がする。
 ルワンダでは幹線道路を歩かない。山を大きく迂回する車道よりも、山越えの峠道のほうが、目的地まで数キロ近いことがある。それより何より、あまり集落を通過しないですむ。人と出くわさないほうが、嫌な出来事に遭わなくてすむ。
 木の根っこが縦横に張り出した山道は、前夜の雨でつるつる滑り、何度も転倒する。急な峠道を登ったり下ったりしながら、この国からの脱出を願う。はやく次の国、ザイールに逃げ込みたい。あと数日で、国境の町キブエに着く。ザイールがどんな国かは想像もつかないが、この国ルワンダよりはマシだろう。
 見晴らしのいい峠のてっぺんで、子供連れの婦人に出くわす。背中と頭の上にたっぷり荷物を載せている。五歳ほどの幼い少女もたくさんの荷を身体にくくりつけている。婦人はぼくの目的地を尋ねると、どっこいしょと荷物を下ろし、「こっちの方が近いわ」と小枝の先で土の上に丹念に地図を描く。そして、手にした布切れで、ぼくの汚れたシャツやリュックを拭いてくれる。
 「中国人、今夜はどこに泊まるのかい?」
 「ここから二十キロ先の村です」
 「アタシん家で泊まるか? アタシの村は、あっちの山の方さ。その村より近いわ」
 「でも今日はもうちょっと先まで歩くよ、ありがとう」
 好きにすればいいさ、と婦人はサバサバした物腰で笑う。そして、
 「それじゃ、少し先までいっしょに歩くよ」と腰をあげる。
 数キロの山道を彼女の先導で歩く。ぼくの何倍もの荷物を担いでいるのに、気を抜くとどんどん引き離れる。少女の脚もたまげんばかりに強い。二人は息を切らすことなく、大声で歌をうたっている。
 休まずに二時間歩いた所で婦人は立ち止まり、細い崖道を指さして言う。
 「アタシらはあっちの道から帰るよ。気をつけて行きな。道を間違うとザイールにはたどり着けないよ」
 久しぶりに気持ちのいい出会いだ。「さよならマダム!」と声をかけ、彼女たちを見送る。
 ところが、いったん立ち去ろうとした婦人が、すごい形相で走り寄ってきた。
 「ハァハァ、フラン(お金)をちょうだいよ」
 ぼくは愕然とし、悲しくなる。「お金はあげられない」と断る。
 すると彼女の表情は一変し、手にしていた雨傘をこっちめがけて投げつける。傘は足元でバウンドし、壊れて柄の部分が谷へと落ちていく。娘が崖を下って取りにいく。ぼくは残った布の部分を拾いあげ、婦人に返す。婦人の瞳には、あの子供たちと同じ憎悪が宿っている。ぼくは目を逸らす。
 奥深い森と、清涼な渓谷。豊かで美しい自然にあふれるルワンダ。なぜぼくは、この国の人びとと衝突し、傷つけあわなければならないのか。
       □
 夕暮れの空、連山の向こうから闇が迫る。頭上を覆う絶壁から、霧雨がふりそそぐ。
 ドーンドーンドーン。周囲を圧する鳴動が、耳を衝く。巨大な滝の落水が、荒々しく滝壺を叩いている。ますます山は深くなり、冷たい雨粒が身体を芯まで凍えさせる。
 遠くに灯りが見える。五軒ほどの集落に近づいていく。一軒の家の扉を叩く。
 「こんばんわ。ぼくはツーリストです。今夜一晩だけ、軒先を貸してください。お願いします」
 ドアが開かれる。でっぷり太ったおばさんが、うさん臭そうな表情で見つめる。
 「家の外なら寝てもかまわないわよ。どうぞお泊まりなさい。料金は五百フランよ」
 五百フラン!  とてもそんなお金は払えない。
 ぼくは再び歩きだす。雨が激しく地面を打ち、深く暗い森の、何万という広葉樹の葉をピリピリと揺らす。高地に降る雨はひどく冷たく、髪の毛の芯までぐっしょり濡らす。髪を伝うしずくは、首元を滝のように流れ落ちる。赤土の道はぬかるみとなり、靴を脱がそうとする。
 すべて洗い流してほしい、と思う。この国で出会ったすべての悔恨と暴力を。
        □
 [この旅のあと、ルワンダでは部族間の紛争が起こり、多数派フツ族や政府軍等によって、少数派ツチ族住民に対する虐殺が行われた。死者は全人口の十~二十パーセントに達する五十万人~百万人とされ、国内避難民や国境を越えた難民は二百万人にも及んだ。ぼくが歩いた幹線道路や峠道沿いの集落でも何十万という人が死んだ。
 ぼくは、この国で自分に向けられる敵意の意味を計ることができず、ただ苛立っていた。同族外の人間に向けられる憎悪の奥に、どんな人々の感情や歴史が横たわっているのかなんて、学ぼうとも、知ろうともしなかった]
(つづく)