公開日 2023年08月14日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
「走るんだよ。もっともっと 愛媛県松山市」
20分後に瀬戸内行脚のスタート地点に向かう。
ヤバい。ヤバすぎる心境だ。
スパルタスロンのスタートの朝と同じぐらい高揚している。心臓が高鳴り、足がもぞもぞする。病気をして2年間一歩も走れず、床に伏せっては「もう二度と戻ることはないんだろな」と思っていたガチの舞台に戻って来れたんだ。こんな幸せはないけど、スパルタの資格タイムである36時間以内が出せなければ、何の意味もないことも自覚している。ほんと意味なしだ。
スパルタスロンを完走した頃のスピードは、まったくない。だから頭から突っ込む。突っ込むだけ突っ込んでタイムを稼ぎ、潰れたあとは、早歩きで歩き、ラスト10㎞だけ60分でぶっ飛ばそう。それが僕の培ってきたスタイルだ。やってみせる。
エイドの皆さんにはお世話になるが、僕はほぼ立ち寄らない。ランナーの皆さん、お会いして弱ってる僕を見かけたら、闘魂ビンタを喰らわせてください! 走力はないけど、燃える闘魂だけはあるので!
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スタート直後に先頭で飛び出すと、100m先で道を間違え、10人ほどの方に「そっちじゃなーい!」と呼び戻された。
20㎞も進むうちに、全ランナーのスピードについていけなくなり、「人命救助中」という一人の選手を除いて最後尾に落ちた。
それでもスパルタ参加資格である36時間を切ることへの意欲は衰えることなく、決して足を止めず、走り続けた。
86㎞地点にあるしまなみ海道大三島のクラフトビールエイドで初めて3分ほど腰をかけた。頭で計算すると、その時点で38時間ペースであることを自認した。
これはマズいなと内心焦っていると、それを見透かしたかのように、今回故障してサポート役に回った三井田さんと、脱水症状に見舞われ最後尾から現れた生きる伝説・ゴジラ小川さんお二人から「キロ6でいけよ!」とムチが入り、ペースをキロ6に上げた。
最初はすごく調子よくて「全員ブチ抜いてやるぞコラー」ってガンガンに夜道を飛ばしていたが、そこで1カ月しか走り込んでない現実にさらされた。キロ6は15㎞ほどで限界を迎え、脚に力が入らなくなり、眠気に襲われ、軽く嘔吐もやってきた。何より先週実施した100㎞+160㎞走の際に傷めた足裏の打撲が、激痛となって襲いかかってきた。ああ、懐かしい、これぞ200㎞オーバーの世界だな。
それでも耐えていたが、当初100㎞を13時間30分でいく予定が16時間半もかかってしまった心理的ショックが、とどめを差した。
ついには走るのをやめてしまい、大島の無人交番のソファに置いてある等身大ぬいぐるみにもたれて、5分ほど休んでしまった。
交番を出ると底冷えする寒さと、足裏の痛みは針山を歩くがごとしで、まったくダメダメになった。5㎞続く来島海峡大橋を居眠りをしながら走ると、橋の欄干や車道との仕切りに何度も激突してはハッと目が覚めるのを繰り返した。海に落ちなくてよかった。
朝が来ると眠気は収まったが、とてもじゃないけど36時間に間に合いっこないというペースに落ち込み、歩き始めてしまった。
メインロードは日曜ともあって車通りが多く、何やかんやで伊予灘沿いのこの道は10回以上は走ってるので、今まで通ったことのない裏道を選んで進んだ。瓦造りの盛んな土地だけあって、門邸や屋根の瓦が家ごとに特色があって、見物するのに飽きない。
掃除や散歩中のたくさんの町人から「何やっとん?」「どこから来たん?」「どこ行くん?」と質問攻撃を浴びた。みな親切だった。
海辺の歩道上から釣竿を5本も使って海魚釣りに勤しむオッチャンたちとも長話をした。
レースを諦め、完全なるジャーニーランモードとなってしまった。
160㎞あたりで超ウルトラマラソン界の神様・ゴジラ小川さんが軽快に追いついて来られたので、楽しいバカ話をしながら170㎞地点の松山城下まで進んだ。初めて長話をさせていただいた神様は、想像を超えた大莫迦者だった。尊敬するしかない。
松山城ロープウェイ乗り場横の加藤嘉明像についたときは午後4時を過ぎていて、大会の打ち上げ宴会開始まで2時間を切っていた。230㎞を完走するには、ここから30㎞先のJR下灘駅まで往復しなければならない。今の激遅ペースだとゴールは朝までかかると判断し、今いる170㎞でリタイアを決めた。この瀬戸内行脚には過去に5回参加させてもらったが、リタイアしたのは初めてだ。
やめるって決めたときは特に悔しさもなかったのに、ホテルまで足を引こずりながら歩いているうちに、「何やってんだ」「何で諦めたんだ」「まだ走ってる人がいるのに、何で宴会優先なんだ」と自分に腹が立ってきた。
真夜中にゴールした方々の写真…特に人命救助に時間を取られ、深夜0時を回っても走り続けた菅さんの写真を目にすると、ますます情けなくなってきた。
スパルタ参加資格36時間なんてどーでもいいじゃねーか。何で走るのをやめたんだよ。今は今しかないんだよ。今がんばれないヤツが、未来にがんばれるはずないわさ。こんな下らない判断(リタイア)するのはバカはバカでも、最悪の方のバカじゃねーか。
練習が足りないんだよ。元々まったく走る才能もないのに、アホほど月間走行距離を稼いで、何年もかけて走れるようになったんじゃねーか。
もっと走らないとダメに決まってる。脚が壊れるギリギリまでトレーニングして、ようやく五流レベルなんだよ。
やり直しだ。悔しさを晴らすには、走る以外に道はない。年齢なんてカンケーねえよ。走るんだよ。もっともっと。
「何も抵抗できない無力さ 沖縄県那覇市」
間抜けである。 2023年1月、沖縄で開催される「ジャパントロフィー200」に向かっている最中だ。
レースの主催者である根本さんが送ってくれる丁寧な大会概要にきちんと目を通したのは、那覇行きの飛行機の待ち時間だ。しかも、他のサポートの方のブログを読んで、「やけに93㎞の関門が厳しい」と書かれていて、初めて真剣に各関門の時間を見た。
■第1CP(チェックポイント)/ 36・5㎞地点
「ニライカナイ展望台」
関門時刻:スタートから4時間30分
■第2CP/93㎞地点
「金武町駐車場」
関門時刻:スタートから11時間30分
■第3CP/122㎞地点
「三原共同売店前」
関門時刻:スタートから16時間
■第4CP/151㎞地点
「金武町駐車場」
関門時刻:スタートから21時間
■ゴール/200㎞地点
「奥武山公園」
関門時刻:スタートから30時間
確かに93㎞が11時間30分と厳しい。100㎞に換算すると12時間15分ほど。これはスパルタスロンの100㎞地点関門の12時間25分より10分早い。100㎞のタイムだけ考えると12時間15分は大したことないように思えるが、そこには頻繁に現れる信号待ちや、大を含むトイレ休憩、サポートをつけない僕には自販機でのドリンク購入と飲用のロス、ガス欠になる手前でのコンビニなどでのカロリー補給が含まれる。更には序盤は登り下りの連続だと聞いている。
つまりやはり、走っているときはキロ6で行くしかなさそうなのだ。
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午前4時、大会発案者であり伝説的ランナーである岩本さんの合図で、50名ほどがスタートを切る。スタート直後から、集団の凄いスピードに圧倒される。キロ6で進んでいるのに最後方だ。なんとか集団に取りついているが、離されないので必死だ。
赤信号になると前には追いつける。先頭グループの凄い方々は、信号待ちのたびに談笑を交わし記念撮影をしている。この人たちは化け物だ。恐ろしい。こっちは既に汗だくなのに。
5㎞ほど走っていると身体が温まってきて、そこそこ脚が動きだしたので、前を追走しはじめる。ガーミンの表示でキロ5:20まで上げると、前方の選手を追い越しだした。93㎞関門を突破するには、できるだけ序盤にタイムの貯金が欲しい。調子は悪くないのかなあ、と思っていた。
15㎞までにスピードランナーかつ実力者のカトルスや三原くんを追い越してしまった。他の方のお顔を見回しても日本代表クラスやフル2:40台の選手たちだ。ちょっとこれはやり過ぎたと思い、キロ6までペースを落とすと、またまた全員に抜かされ始めた。皆さん5:30イーブンで坂や階段を走られている。やはり凄い。自分が場違いな所にいるんだなと再自覚する。
それでもキロ6付近を維持していたが、まずい事が起こりはじめた。集団にいるときはきっと興奮状態で麻痺していた左膝の痛みがぶり返してきた。痛みだけなら我慢すればいいのだが、着地した後に上に引き上げる動作ができない。左脚をずるずる引きずるようなフォームになる。(後の診断で左膝・前十字靭帯損傷。かろうじてミリ単位で繋がっており、スポーツ整形外科医師によると「グジュグジュの状態」らしい)
それだけではない。下り坂で着地した瞬間に、左足の甲にビリリと鋭い電流が走った。一歩地面に接する度に感電したような痛みが頭の先まで流れる。
あまりの痛みに耐えかねて鎮痛剤を飲むが、10分経っても20分過ぎても、痛みは引いていかない。(後の診断で左足裏前足部・種子骨の骨折)
30㎞手前からほぼ歩きになり、リタイアされた方を除けば、全員に追い抜かされ、ダントツのビリに落ちる。このままでは第一関門の36・5㎞、4時間30分ですら越えられない。
わざわざ沖縄までやってきて、朝の8時半にレースを終えるなんてアホにも程がある。痛み止めを更に飲むために、民家の前にある水道の蛇口を借りようとお爺さんに挨拶したら「その水道は使えないよー。うちに上がりなさい。冷たい水を出してあげるから」と親切に言ってくれたが、「マラソン大会中で、自分はビリで、先を急がないと失格になる」との説明をし、裏のお勝手口でお水を頂いた。
36・5㎞のニライカナイ展望台は、とんでもない坂道の上にあった。当たり前だ、「展望台」なんだもんな。登りを全部歩いていると、折り返してきた選手たちが「残り850mですよ」とか「(関門閉鎖まで)あと14分ですよ」など声をかけてくれる。ありがたい。
関門閉鎖の10分前にやっと展望台に到着した。下から駆け上がってこられた岩本さんが「この先は下りが続いて平坦になりますよ!」と励ましてくれる。「はい!必ず第二関門突破しますから」と返したけど、きっともう無理って思われてるんだろうなーと想像する。
下り坂もまったく走れずに歩き続ける。一歩一歩、踏みだすのが怖いくらい痛い。骨にヒビでも入ってしまったのかな。アメリカ横断の最中に足の甲の中足骨を折ったことがあり、その痛み方にすごく似ているのが嫌な感じだ。
当大会では全選手の現在地点がマップ上に掲示される。50㎞あたりでGPSマップを見ると、他の選手は全員10㎞ほど先にいて、僕一人が大きく取り残されていた。走りを再開できたとしてもキロ5分台でいかなければ、93㎞関門が越えられないことも把握した。
無力だった。いろんな方法を試してみた。走り方を変えたり、着地する足裏の位置をずらしたり、4度目の痛み止めを飲んだりした。脂汗を大量にかき、喉がやけに乾く。自販機でドリンクを10本以上飲んでも、喉はカラカラのままだ。
93㎞関門閉鎖の15時30分が過ぎる。この時点で失格が確定する。前ゆくランナーは全員が突破したようだ。さすがである。こっちは200㎞の半分もいかないうちにリタイアなのに。
本来は失格の裁定が下れば、バスを見つけて那覇に帰るべきだが、歩いてでも93㎞には進みたかった。もはやペースは時速4㎞よりも遅い。関門時刻を3時間もオーバーした午後6時半頃に着きそうだ。
だが夕方5時前になって主催者の根本さんからお電話を頂いた。「このまま進むと、今日が休日ということもあり那覇行きの最終バスに間に合わなくなる。スタッフも、坂東さんが夜になって路頭に迷わないか心配している。なんとか自力でバス停を探し、那覇に戻ってもらいたい。お家にちゃんと帰るまでがジャパントロフィーですよ」と説得される。
こんなジジイのわがままな行動に、若いスタッフの方々を心配させたことに痛く反省する。「止められるまでは進む」なんて自己陶酔バカの極み。これは個人ジャーニーランではない。主催者やスタッフの支えあっての催しなのだ。関門時刻が過ぎた時点で、さっさとギプアップ宣言すべきだった。
根本さんからのお電話直後に、眼下に大きな市街地が見えてきた。「石川」という海辺の町だ。Google mapsでバス停を検索したが那覇行きのバス停は見つからず、だいぶ手前のコザや知念行きしかなさそうだ。
道ゆく方3人に那覇行きのバスがないか尋ねたが、よくわからないようだった。那覇から40㎞ほど離れたこの町は那覇経済圏ではなく、お買い物は地元の大きなイオンか、近くの沖縄市で済ませているようだ。
4人目に道を尋ねたお兄さんが「石川インターの高速道路の出口に行けば、那覇行きの高速バスがありますよ」と教えてくれた。最終バスが何時かはわからないけど、とりあえず1㎞離れたインター出口まで走る。
バス停に着いて時刻表を見ると、2分前に那覇行きバスは去ってしまったみたい、ショック! バス停の柱に背中をもたれかけさせたラッパー風のお兄ちゃんがいたので「もう那覇行きって行っちゃたんですかねー」と訊くと、ヘッドフォンを外しながら「ぜんぜん。まだ2本手前のバスも遅れて来てないよー」とのこと、ホッ。
1分もしないうちにバスが来た。席に着いてスマホを見ると、先にリタイアした秋山もへいさんから「早く那覇に帰って来い、反省会やろう!」とメッセージが入っていた。きっと一人ぼっちで寂しさを持て余してるんだろう。では帰るとしますか、もへいさんの待つ那覇へ。
(つづく)