公開日 2023年10月27日
文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)
(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダ、ザイールのサバンナやジャングル地帯を踏破する。中央アフリカ共和国の首都バンギでは、永遠の宿敵であり登山家の「ヒグマ」と偶然の再会を果たし、自分たちの「旅」について無限のような対話を繰り返す。五千キロ余りを踏破し「最後の国」カメルーンの首都ヤウンデに着く)
カメルーンの首都ヤウンデは、ドロ沼のようなぬかるみ地獄の向こうに、とつぜん現れる。巨大なビルディングの群れ。ラッシュアワーの人、人、車、車。人間がいっぱいいる。こんなにたくさんの人を見たのは、ケニアの首都ナイロビ以来、何カ月ぶりだろう。
都市の住人たちは、みな目的を持って歩いている。どこかの方向へと急いで移動しようとしている。書類を届けるのだろうか。商談に向かうのだろうか。食べることや、眠ること以外にも、都市住民には果たすべき役割があり、要件に準じて動き回っている。統率者はいないが、何者かによって行動を規定されている蟻塚のアリと似ている。そんな都市的な集団行動に、ぼくはうまく順応できない。「神の意図」によって構成された密林世界の自由な行動規範と比べると、人間の意図によって造られた都市は、いたたまれない不条理性と窮屈さを放っている。
ロータリー交差点の真ん中で、白いハチマキを巻いた二十歳くらいの女の子が、必死に車の数をかぞえている。乳房がはだけている。ノートに何かをメモしつづけている。服は汚れ、目は緑色に輝いている。ときどき、たまらなく不安そうな表情でアーという声をあげ、しゃがみこむ。じっと眺めていると、通りかかった人が「あれは、頭がおかしいんだよ。一年中あそこで車をカウントしてるんだ」といまいましそうに吐き捨てる。
カメルーンの滞在許可の延長をするため入国管理局を訪ねる。英語を理解する係官が一人もおらず、さんざたらい回しにされたあげく、髭ヅラの小役人に「お前は今月末までにカメルーンを出国しなければならない」と怒鳴られる。そんでもって「バカは相手にしてらんない」といった侮蔑的なポーズを取られる。よくいる黄色人種サベツ者の典型である。この国の権力側…役人や警察官は、徹底的にサベツ主義者なのである。白人を敬い、アジア人を嫌う。「権力の犬野郎」と英語で罵声を浴びせてやる。誰もわかりゃしない。「イエロー・イズ・ビューティフル」だぞ、このボケども。 徒労感に包まれながら、街をさまよう、ヤウンデの物価は想像以上に高く、とても宿などとれそうにない。
高層ビルの群れを見下ろす高台に、下町が発達している。ドロに覆われた街には、バラック仕立てのバーやパブ、映画館、屋台がひしめきあっている。どの店からも大音量の音楽や派手な嬌声がこぼれ、表通りを音の渦にしている。有名なカメルーン美女の「立ちんぼ」もいるがお高くとまっていて、向こうから声はかけてこない。
ひと呼吸ごとに鼻孔をつく匂いが変わる。石鹸の清浄な香り、ガソリンオイルのつんとする刺激、カカオチョコの甘い誘い、腐った生肉の下卑た主張。
下町はまだ神の意図が届く世界だ。無秩序で、誰にも管理されていない。街の構成に人の意図は介在しない。
道ばたでヤマハバイクにまたがっているヤンキーっぽい若者に「マリワナ売っているところはない?」とたずねると「オーケー教えるよ。後ろに乗れよ」と荷台を指さす。オフロードの極地みたいなドロ地獄を、足首までもぐりながら数分走り、あやしい見世物小屋といった佇まいのダンスホールの前で降ろされる。
壊れたジュークボックスとピンボールマシンが無造作に置かれたフロアで、不良たちは生ぬるいビールとカメルーン・ポップスに身をゆらせ、汗をしたたらせている。ダンスフロアの周りでは、売春婦やオカマの男娼が、今夜の食いぶちを求めて、人やテーブルの間を魚のようにスイスイと泳いでいる。
ジャンキーたちがごっついマリファナの束を巻紙でたばね、産業革命の工場の煙突のように、豪勢な白煙を闇に吐き出している。
「この日本人、マリワナが欲しいんだって」
「やあフレンド、ここに座れよ」 と腰を浮かせ、席をあけてくれる。
「日本人にしちゃあ汚いな」
「今夜泊まる場所がないのか?」
「ここで朝までいればいいさフレンド」
「おれたちもここにいる、ずっとな」
ジャンキーたちはサベツとは最も遠いところにいる。
ズドーンと重い塊が肺に落ちる。
思考が少しずつ加速する。
オピウム、コーク、エル。
瞑想の極みをめざして、旅に出る。足の踏み場もないほどの雑念が見える。ぬぐおうとする心もまた雑念である。と、考えることもまた雑念。雑念の陸地を進みながら、いつしか磨かれた鏡の表面のように、色のない、澄んだ精神状態になる。感じ取る、あらゆるものから感じ取る。すべてのものの心を見る。
なんということだろう。ぼくは確かに世界の変化を実感している。現実の重い幕が、しずかに開け放たれ、ばら色の輝ける精神世界を見る。「かもめのジョナサン」が見た、光速の世界だ。これが「総て」というのか。
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ぼくは、自覚症状のあるうちに、自分を遺したいと考えている。ある瞬間から、ちがう扉の向こうに足を踏み入れる自身を予知しうるほどに、不安定だからだ。書き遺しておこうと思う。整合性よりも、いま考えていることを書き留めておかないと、ぼく自身が迷路に迷い込んだときに、精神の修復ができない。
首都ヤウンデから大西洋岸の都市・ドアラ間は二百二十三キロ。
その間、思考はまとまらず、ぼく自身を取り戻す作業で必死になった。一日中、何かをしゃべりながら歩いた。いったいどうなっちまうんだ。
ぼくは「普通」を失い、自分を客観的に見られず、存在のありかがわからない。一気呵成に跳びすぎて、後方の自分を見失ってしまった。これからは虚像の自分を演じるしかない。
「狂人の真似とて大路を走らば、則ち狂人なり」である。
言葉を選ぶと、句は死ぬ。技巧ではなく、感じることや、感じとることが必要だ。心で感じてただ筆をおろせばいいんだ。絵画だって、文章だって、セックスだって同じだ。
ぼくはアフリカで死ぬつもりだったのかもしれない。でも死ねなかった。だから、旅に終止符を打てずにアセっている。タライに張った水の縁で、足をバタつかせている羽虫のよう。羽は決して開かれず飛べもしないのに永遠に生きる。
自分を知れ。自分は何も知っちゃいない。そのことを知らなければならない。
ヤウンデの夜、ほんとうに「総て」の入口まで行ったのか。ぼくの見た世界はなんだったんだ。最高の到達点なんて、ありえるのか。あれは現実だったのか。ウソだ。あれは偽の世界だ。ドラッグはドラッグだ。ぼくはバカだ。ノンドラッグで、あの世界をもう一回見てみやがれ。いったいなんなんだ。「総て」なんてほんとにあるのか。
旅の終着の地・ドアラに着いた瞬間、ぼくの内側にはなにもなくなるだろう。七年間、思い続けたアフリカが終わり、空っぽの存在になる。
今までの旅の結末は、息苦しく、せつないものだった。氷のように冷たい真っ暗な海を漂流するような気分になった。なにかをやり終えたよろこびなんか、なにもない。
自分には、歩くことしかできないのだから、歩くしかなかった。だから、歩き終えてしまうと、自己証明は崩壊する。
ぼくにはなにも残らない。
目的はなんだったんだ?
アフリカとの融合?
求道的精神?
亡くした子犬への罪ほろぼし?
すべてがそうだとも言えるし、すべてがニセモノのような気がする。
自分の存在を確認したい。
(つづく)