バカロードその170 アフリカ幻影編8「メリークリスマス。彼等に平和を。」

公開日 2024年06月04日

文=坂東良晃(タウトク編集人。1987年アフリカ大陸5500km徒歩横断、2011年北米大陸横断レース5139km完走。人類初の自足による地球一周(喜望峰→パタゴニア4万km)をめざし、バカ道をゆく)

(前号まで=アフリカ大陸の徒歩横断を試みる“ぼく”は二十歳。アフリカ東岸の国ケニア共和国の港町モンバサを出発し、タンザニア、ルワンダ、ザイールのサバンナやジャングル地帯を踏破。中央アフリカ共和国を経て「最後の国」カメルーンに入国。赤道直下の約五千五百キロを歩き、ゴールとなる大西洋岸の都市ドアラを目前にしていたが、旅の意味を見失っていた)

 うだるように暑いドアラの下町を、身体中にじっとり汗をかいて、歩いている。すっかり日は落ち、夜のとばりが街を覆っている。混濁した意識をひもとく時もなく、ぼくは最後の町へやってきた。
 深い深い貧民街の、迷路のような小道を、一人の青年の先導で歩いていく。
 ベニヤ板やトタンでできた小さな家々のまわりを、スコップで掘っただけの緑色のドブ川が取り巻いている。熱帯の生ぬるい空気が、地表のあらゆる物質を腐らそうとしている。軒先に吊るされたいくつものボロFMラジオから、ノイズ混じりのロックミュージックが流れている。
 イェーイ、イェーイと子供たちに冷やかされる。イェーイ、イェーイと子供たちの頭をシバいてまわる。
 喪失感。
 満足感。
 孤独感。
 徒労感。
 バロウズが書く狂った小説の、脈絡のない荒唐無稽のように、感覚が入り乱れる。
              □
 青年と出会ったのは、ドアラから二十キロ東。密林を流れる小川で、裸で水浴びをしているぼくの横に、すっぽんぽんで飛び込んできたのだ。
 「こんな場所で、裸の外国人を見るなんてありえないよ。ボク、頭おかしくなったかと思った」とはしゃぐ。
 「そういう君も、かなり不用心で異常だよ」と返すと、彼は「確かに」とニヤつく。
今からドアラの実家まで歩いていくという青年に、「こりゃしめた」と手を叩く。都市圏に入る前は、ホームステイ先を確保する。これ、貧乏旅行の鉄則だ。
 青年は、ぼくより二つ若い十八歳だ。勉強家で、そして自分の境遇をよく理解している。敬虔なクリスチャンであるが、西欧的な経済システムには怒りに近い疑問をもっている。
 「ボクは貧しい。家族、友人、みな貧しい。ボクはわかってるんだ。資本主義が階層を作り、階層が貧しさを生み出すんだ。ボクは経済力が支配する世界に、抵抗したい」 青年は「レジスタンス」という言葉を繰り返して使う。
 「キミの考え方は、二十年前ならスタンダードだった。でも、今はどうしようもないよ」
 そう言いながら、自分が弱々しい人間だと思えてならない。
 彼は、自分を取り巻く貧困や、同じ境遇に生きるカメルーンの人々を救うのは、無階層社会を基本とした社会主義的な性格を持つ信仰だけだと断言する。
 ぼくは食い下がる。
 「しかし、キミの信じているキリストの教えだって、いくつもの侵略や戦争の道具になったはずだ。南米や南太平洋に元々住んでいた人を虐殺したのも、宗教の皮をかぶった西欧の人間じゃないのか。アフリカだってやられた側だろう」
 「それは、特権階級が宗教の名を盾に、私欲を肥やすために行ってきたことだ。もし宗教がこの世から消えれば、世界は大混乱すると思うよ。キミやキミの国の人のように無信仰でいられるのは、豊かさがベースにあるからさ。そんな国は世界では特殊なんだ」
 抽象論を戦わせながら、たまに道路を横切るサソリを足で踏み潰しながら、ぼくたちはドアラへと近づく。
 アフリカ最後の太陽を、地平線に見届ける。夕日は、西へ西へと移動してきたぼくの道しるべだった。道に迷ったときには、太陽の沈む方向へと歩けばよかった、だから「ありがとう」と最後の礼を言う。
 「日本人は毎日太陽に感謝するのかい? キミは十分宗教的だね」と青年は愉快そうに笑う。
              □
 貧民街の片隅にある青年の家は、畳四帖ほどの狭いバラック小屋だ。麻袋を縫い合わせただけの壁で、三つの小部屋に分けられている。青年の父と老婆、それに兄弟三人、あわせて五人が暮らしている。天井は、頭すれすれの高さしかない。
 背中のザックを床に下ろし、靴を脱ぎ捨てる。ポリタンクの底に溜まったドロ混じりの茶色い水を、表のドブ川に捨てる。明日から二度としなくてもいい作業。もう、旅は終わってしまったんだ。
 青年が、近くの市場で焼き魚を買ってきた。尾頭つきで三十センチはあろうかという立派な海魚だ。
 「キミの旅のゴールを祝ってあげるよ。食べてくれ」
 マギーをかけて食う。カメルーンでは食卓に必ず「マギー」という醤油をおいてある。ぼくは、夢中で魚をむさぼる。きっと、こんなにうまいものは、一生食えないだろう。
 心に温かいものが流れ込んでくる。
 暗い海。
 冷たい海。
 昨日までのぼくの心理状態は、そんなものだったはずだ。
 この感じはなんだ?
 アフリカだ。
 出会ったいろんな人たちの優しさだ。
 マラリアに倒れたぼくを背負ってくれた人の体温だ。
 凍えたぼくに施されたヤギスープのぬくもりだ。
 別れを惜しんで泣いてくれた人たちの、涙だ。
 そして、旅の途中で亡くした愛犬おけけの血の温度だ。
 ぼくは助けられてきた。そして、優しい人たちの手のひらに包まれるように、この地へと運ばれてきた。
 ぼくは、誰かの意思で歩かされ、守られてきたのだ。
              □
 十二月一日、日記。
 「ドアラを飛び立とうとしている。小雨が飛行機の窓ガラスを濡らし、Douala International Airportの文字を滲ませる。
 インド洋から始まったこの旅。ゴールであるはずの大西洋はついに目にしなかった。一枚の写真を撮ることもなく、ドアラを去る。これでいいんだ。旅の途中から、いや旅を始めてすぐに、ゴールを目指す旅じゃなくなっていた。
 隣の席に人がいるから、とても泣きだせないけど、窓ガラスに顔をべったりくっつけて、すこし泣く。 
 動きだした機は、余韻を含ませることなく滑走路へと進む。テイクオフのアナウンスが機内に流れる。
 すぐにぼくは鳥の目を手にし、塵芥まみれのドアラ市街と、その境界線の向こうに続く、どこまでもどこまでも拡がる緑のジャングルを見下ろす。
 ぼくはこのすべてを歩いたのだ。そして、またゼロに戻ったんだ。
 今のぼくには明日は見えない。だけど、明日からは何も恐れるものがない。
 機内サービスで久しぶりにビールを飲んでいい気持ち。疲れがどっと噴き出す。あちこちの骨や筋肉がだらんと弛緩する。シートに深く背をあずけ、そして眠る。
 夢見たのは、アフリカの熱い風だ。石つぶてが混じった真っ赤な砂塵が、ぼくの肌とシャツを紅く染める。心に欲望の塊が火を灯り、やがて血潮に乗って全身を駆けめぐる。醜かったあの頃のぼくに戻っていく。これは本能だ。ケダモノの本能だ」
              □
 旅立ちの地であるケニアの首都ナイロビに帰る。
 街はクリスマスの装い。
 歩くのをやめたぼくのなかで、時の流れの感覚が失われているのに気づく。時間の前後がつかめない。今日と明日の境目が理解できない、昔と未来がわからない。
 今日、なにかを求めただろうか。なにをするでもない。なにを考えるでもない。
 さざ波ひとつ立たない、静寂に包まれたコンゴ川に浮かぶ、一艘のカヌーの上で眠るように、ぼくは年老いていく。
 安宿の屋上から、夜のナイロビの下町を見下ろす。
 街がしずかに動いている。いつもの猥雑さや、けたたましさはない。
 一シリングの塩豆をポリバケツに山盛りにして売り歩く少年。
 街灯の下で石畳に腰かけ、時のままに生きている老人。
 道路の安全地帯に一日じゅう寝っ転がっていた物乞いの子供たちは、今夜はいない。今日くらいは、温かな場所で眠りについているのだろうか。
 メリークリスマス。彼等に平和を。
(つづく)