公開日 2025年12月05日
足首の骨折から半年、尖ったナイフの先でつんつん突かれるような痛みが取れず。ロッククライミングは無理だと判断し、歩いて登れる標高6476mのメラピーク(ヒマラヤ)へ。リハビリを兼ねた登山のつもりだった。
11日目
何のために、どこに向かって
歩いているのだろう
どの村でもインターネットがつながらない。ばかりか村全体が停電している。7日前に歩いた道と様相がまるで違う。土砂崩れは10カ所以上。巨岩や土砂、泥水が道を消してしまっている。速い流れの川に浸かりながら、崩れた土砂のマシな部分をよく観察しながら足を置く。選択を間違えると、足元から土砂がダダーッと崩れる。身体ごと持っていかれたら死ぬしかない。こんなロシアンルーレットみたいな旅ってあるのかな。土砂に飲み込まれて谷底に落ちる確率は1%はないと思うけど
0・01%はあると思う。10カ所で繰り返せば0・1%だ。まあまあ死ぬ。
ネパールの村人や、荷運びの仕事の方は、何の躊躇もなく土砂崩れの上をひょいひょい越えていく。
山腹の崩壊や鉄砲水は日常的にある。雪崩で村が埋まることがあるし、今年になっても氷河湖が決壊して村が水に沈んで死者が出た。自然は苛烈だ。激流が刻んだ深い谷は「崩れて造られているもの」だ。ヒマラヤでは過去形ではなく今、地表が削られ、地形が形作られている最中だ。地球の表面そのものが隆起と崩壊で形成され、僕たちは豊かな山岳や清流を「自然は美しい」などとありがたく呑気に愛でている。
いざとなれば自然は牙をむく。
が、それは人間から見た「牙」であり、自然はただ自然のままに、崩れて埋まってを繰り返しているだけだ。
□
宿場街に灯るのはガスバーナーの火だけだ。照明は点かず、ネット回線も死んでいる。真っ暗な部屋で寝袋にくるまり、眠れない真夜中にできるのは、考えることだけだ。
ある特定の場所から特定の場所にいく。
それがマラソン大会なら完走という称号になる。登山なら登頂と呼ばれる。レースと名のつく行為は、A地点からB地点に向かうことを目的とする。
およそ競技スポーツには目指すべき場所、記録、勝利がある。冒険や探検という行為も似たようなところがある。ヨットで太平洋横断、徒歩で北極点到達、などが一例だ。何か目標があって成し遂げると、大きな達成感が得られ、人生の糧となる。それが当たり前だ。
ところが僕は、歳をとるにつれコレへの興味がなくなっている。高校生の頃に立てた目標の「全大陸自足横断、全大陸最高峰登頂」はいまだやり遂げてない(ほど遠い)が、一度決めたことなのでやる気でいる。
今、ヒマラヤくんだりまでやってきたり、ランニングのレースにほとんど出ず、いたずらに長い距離をひとりぼっちで走っているのは、その目標に近づくためだ。いつ何どきでも、鐘が鳴ればその世界の住人に戻るために。
しかし、五十を迎える頃から、なんか違うな~と思いはじめた。目標に向かって走ったり、登ったりすることへの違和感だ。
「走る、歩く、高いところに登る、遠くまで行く」ことは変わらず好きなのだ。その行為をすることで巻き起こる出来事や事件が楽しく、また路傍の人との対話が好きだ。ところが、これら行動の上に「○○まで」をつけると途端にウソっぽくなる。例文としては「ユーラシア大陸最南端まで走る」だ。人生賭けてやりたいのはそんなことなのか?という疑問がよぎる。「○○まで」という発想には義務感や競技性が生じてしまうのだ。不自由で苦しい行為になる。
「○○まで」の代わりに「あてどなく」を入れるとしっくりくる。あてどなく遠くまで行く。これは間違いなくやりたいことだ。
競技スポーツをされている方やランナーの方は、このわけのわからない衝動は理解しがたいかもしれない。ゴールがあるから途中の苦労も楽しいんだろ?と。
十代の頃に影響された尾崎豊は「行く先もわからぬまま」遠くまで行こうとした。老子は「遠くまで行くことは回帰することだ」と述べた。晩年のニーチェは毎日8時間もただ歩いた。海や川、氷河、山岳を登った。彼らは、着地点など決めず、ただ遠くへ行きたかった人たちだ。
十代から二十代にかけて、バックパッカーを4年やっていたときも、あてどなくあちこちの大陸を彷徨っていた。例外的に、アフリカ大陸徒歩横断は明確に目的地を決めていたが、途中からゴール地点なんてどうでも良くなっていた。
スパルタスロンには、最もはっきりくっきりした到達地点がある。実力不足で10年近くゴールまで届かなかったが、沿道のギリシャの人たちとヘンテコなギリシャ語を駆使して笑いながら走ったら、ゴールまでたどりつけた。
正解は月間走行距離にも補給物にもなかった。もはやゴールすら目指す気はあまりなかった。その土地に溶け込むことが目的に変わっていた。旅の途中で出会った人たちが、僕を変えた。
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流浪、漂白、無為。
それが究極の旅だ。
競技ではなく旅をしたい。
あと生きていられるのが20年くらいと仮定したら、長大な旅に出られる回数は限られている。
やりたいことだけをしていよう、と思う。
12日目~15日目
撤退しながら
真面目に問題点をあげる
首都カトマンズへのフライトがある飛行場まで4日歩く。過去のことはぜんぶ忘れてしまうので、記憶にあるうちに、反省文を留めておこう。
□高所に弱過ぎ問題
4300mで呼吸困難に陥った。高山病薬・ダイアモックスが劇的に効いた。そして同じ村に3日間滞在すると、元気ギンギンに戻った。1年前に比べて高度障害が出るタイミングが1700mも下になっている。弱くなった原因は何だろう?
いっそ登山を開始する2カ月ほど前からヒマラヤの4000mくらいの村に入り、寝て暮らすのはどうだろう。高所に身体を順応させるには何もしなくていいのだ。ただそこにいればいいだけ。それは好きなことだ。
□懸垂できなさすぎ問題
懸垂が5回しかできない…。こんな腕よわよわボーイでは、ユマール(登高器)を使ってクライミングロープつたっても、まるで岩壁を登れない。まずは体脂肪率を10~15%に落とそう。そして日々プッシュアップバーで腕立て伏せに励もう。
□運が悪すぎ問題
2年続けて頂上アタック当日・前日に「もし行ってたらヤバかった」という大荒れ天候に見舞われた。ヒマラヤだからよくある事なのだろうか。そうでもないみたいだ。
去年は同じ山域でネパール人ガイドまで含めて18人の大量遭難死に至った。今年は11月後半まで降らないはずの雪が、9月にして2m以上の新雪の積雪となり、行く手を阻んだ(後で知ったがネパール全土が50年に一度の大水害に見舞われていた当日だった)。
運はもともとすごく悪い方だが(歩いていると鳥のフンがよく頭頂部に落ちる)、ヒマラヤでは悪すぎる。信仰心がゼロだからかもしれない。この辺りはシェルパ仏教(チベット仏教)の信徒が多い。道端や寺院に設置された経文の彫られた円筒(名称はマニ車)を手でガラガラ回すとお経を一回唱えたことになるという、すごく効率性のよいありがたい宗教だ。まずはあの筒をお土産物屋さんで探し、日本に持ち帰ろう。そして回そう。
□ラッセル練習やっぱいるじゃないの問題
ヒマラヤに来るにあたって、シェルパの方からは「ユマールを使った懸垂だけ練習しておいてください。フィックスロープあるからね」とアドバイスされていた。 フィックスロープとは、トップクライマーがシーズンの初めに岩壁に張った固定されたロープのことだ。これがあるためにルート工作やロープワーク、回収などの作業をせず、一気に山頂へと進める。
「え?ラッセルやフリークライミングの練習はしなくていいんですか?」と質問すると、
「新雪の中を進むわけじゃないからね。それに固定ロープを使うから自分で岩に支点を取ることもない。だから懸垂の練習だけ頑張っといて」
と言われていた。ところが今回のラッセル地獄よ! やっぱし日本の冬山でがんばろう。幸い四国の山にはドカ雪が降る。車を1時間半も走らせれば、練習場には事欠かない。悪天候の日を選んで出かけよう。
□
ルクラという街へ下ってきた。ルクラにはヒマラヤの空の玄関口となる空港があり、下界へと向かう飛行機や、上の村々へと物と人を運ぶヘリコプターが5分に1回の頻度で離陸する慌ただしい空港だ。インターネットが遮断され回復の見込みが不明なこのエリアに、さすがに長期間いられない。安否の連絡だけでもしておかなければ。
ルクラに最短距離で向かうためいったん4610mのツァトラワ峠へ登り、そこから空港まで1800m下る。
ヒマラヤあるあるだが、高い峠の頂上に汗をダラダラ流してやっとたどり着いたと安堵しても、遥か上空にもっと高い峠が見えており、天国へと続くかのごとく白く削られた崖道が視界の奥へと伸びている。
この光景に耐えられるのは5つめまでだ。さすがに6つめからはハートが折れてくる。たった今までゼェゼェ稼いだ標高を、もいっかい下りまくってまた登る、の繰り返しなのだ。
好きこのんで自分でここに来てるんだから、文句を言う筋合いのものではない。誰も悪くない。鳥や飛行機が遥か下を飛んでるような崖の真ん中を削り取って、道を造ってくれてるネパールの村人たちに感謝しよう。
16日目
汚泥と繁栄の街で
ネパールの首都カトマンズに帰ってきた。先週、50数年ぶりという猛烈な豪雨にネパール全土が襲われ、現在230人以上の死者を出している。いまだ行方不明の方が多く、これからも死者数が増えるだろう。
カトマンズ盆地の低地や、郊外の村々や幹線道路、住宅が濁流に飲み込まれた。国を東西に結ぶメインルートの橋も道もズタズタになった。スポーツのナショナルセンターで練習していたサッカー選手が6人亡くなった。
3週間前、カトマンズからヒマラヤの拠点となるクンブー県までオフロードカーで300㎞移動したが、その道も崩壊した。
首都カトマンズに戻る方法は空路しかない。移動したい商人や観光客らは、みな飛行機に乗ろうとするので予約が殺到した。 ヒマラヤの空の玄関口・ルクラ空港からカトマンズ行きは数日待ちになっているため、いったんインド国境まで10㎞と近いジャナクプルという街へ飛び、カトマンズ行きに乗り換えた。寒帯→熱帯→温帯と半日で移動した。南北わずか230㎞しかないネパールだが、北に標高8000mのヒマラヤ山脈、南に海抜50mのタライ平原と、飛行機なら1時間の南北移動で、地球の主だった気候を体験できる。
カトマンズの観光街は、豪雨被害を感じられない繁栄ぶりだ。草や薬物、性風俗店のポン引きは元気で、観光客の目には、カトマンズの細小路は40年前と何も変わらない。しかし、大水害が起こったのは歩いて30分ほどの低地帯で、今も赤土の泥に覆われている。
豪雨被害の日は、イコール僕がメラピークの最終アタック前日に大雪から脱出した日だった。最終のハイキャンプ(標高5800m)に取り残されたネパール人の登山者は、深い雪に3日間閉じ込められ、足指に凍傷を負ってヘリコプターで救出されたそうだ。
本来、僕が4300m地点の村で、高山病のため1泊追加で待機しなければ、ドカ雪になる前に同じハイキャンプに達していた。つまり、凍傷を負った登山者と同じ境遇にいた。小さな偶然の積み重ねで、指がなくなったり、なくならなかったりする。
さて、電飾ギラギラ輝くカトマンズで、ただの観光客としてキンキンに冷えたネパール製のゴルカビールを呑んだら、来年遠征する山岳地帯の地図でも買いに行きますか。
(「無音の世界」おわり)




