雑誌をつくろう その10「こんなヤツがいて、タウトクができて」

公開日 2008年05月29日

派手に立ち回るわけでもなく、真面目で、不器用で。
仕事への情熱に溢れ、自分を守ることにハナから興味がない。
そんな本当に強い人が、きっと君の周囲にもいる。

文=坂東良晃(タウトク編集人)

 その男は、前ぶれもなくフラリとやってきた。アルバイトさせてもらえないか?と言う。今、何をしているのかと問うと、「Tシャツを作っています。明治維新の志士をテーマに」と、サンプルを見せる。「ハァ・・・・・」ぼくには意味がわからない。年齢は25歳だという。25にもなる男がアルバイト希望? しかもいい歳をしてTシャツ作り? それをホームページで販売? ぼくは、その呑気な男をぼうぜんと見つめた。
 どうせ、そこいらへんにいるフリーター崩れなのだろう。責任を嫌い、下積みから逃れ、自分の好きなことを好きなようにやって、それを「自由だ」「権利だ」とはき違えている人。出版をしている会社にはそんな人間ばかり面接にやってくる。気楽な商売だと勘違いしているのだ。この男も、そういう連中の一人なのだろう。
 男は少し変わった経歴を持っていた。国立大学の法学部を出、当時としては大手にあたるゲームメーカーの社員となった。国内勤務もそこそこに中国・上海の支社に配属され、上海の街を歩きながらアーケードゲームの基盤やプリクラマシンを納入するためにゲームセンターへ営業をした。そのため北京語をそこそこ使えるようになった。ところが入社2年目には会社の経営が傾きパチンコメーカーに買収された。彼は混乱する会社に嫌気がさし退職した。
 仕事など簡単に見つかると甘く見ていたのだろう。転職を試みたが、うまくいかなかった。うまくいくはずもない。ゲーム会社に在籍はしたが、食いつぶしの効くゲーム開発者でもプログラマでもない文系の大学出。営業経験があるといっても日本国内でのキャリアはゼロ。つまり日本人相手にモノを売ったことがない。企業に対して中途採用を決断させる材料が何もない25歳である。行くあてを失った彼がやってきたのが、このメディコムという会社だ。
 男はやはり気まぐれであった。いったん入社したものの、数カ月後にはクリエイターを養成するスクールに入学したいと言いだした。ぼくは少々ウンザリした。社会の最前線にいったん立ち、いくらでも自分の能力を使える場はあるというのに、「資格取得」やら「勉強のやり直し」という名目で、あっという間に非労働の環境にピットインしてしまう。「逃げる」という行為から目を逸らし、人生に正当性を与えるために東京や大阪に行きたがるヤツらが多すぎる。
 ゼロから物を生み出すのがクリエイターの本質なら、最ももがき苦しむべき産みの葛藤から逃れ、物を売るために他人に頭を下げることを知らず、金銭を失って震えあがる経験もせず、マッキントッシュの画面をチョコチョコといじるだけのクリエイター気取りが多いこと。こいつもそんなヘタレの一人なんだろう、二度と帰ってくることはないのだろう・・・。

 彼が会社を去ったタイミングで、こっちがズブズブと沈みはじめた。
 原因はぼくだ。高くかけられたハシゴに登り、ずいぶん遠くまで見渡せるものだといい気になっていたら、きれいさっぱりとハシゴを外された。そこは寒風吹きすさぶ厳冬期の岩壁のような場所だった。自分のマヌケさを呪った。呪ったところで何ら状況が好転するわけでもない。やることなすこと失敗した。手をつけたものはことごとくうまくいかなかった。30歳少々のぼくが世の中でできることなどたかが知れている。企業における基礎体力(人、金、技術)も何もないのにあっちこっちに出歩き、大きな風呂敷を広げた。契約書を交わしてもいない約束を履行されるものと信じた。そして人を多く雇い、設備投資をした。約束は果たされず、コケた。会社はひん死の状態になった。
 退却できる場所はどこにもなく、自分にできるたった一つのこと・・・雑誌づくりで状況を脱するしかなかった。生き残り、雇った従業員を解雇しないために、雑誌を作る以外に方法がない。ぼくは3カ月間、自室に引きこもり、ほとんど誰とも会話をせず最初のタウトクのコンセプトを書き続けた。A4用紙に100枚。これでアウトなら逃げ場はない。
 壁ぎわに追い詰められた窮鼠の前に、なぜか彼はふたたび現れた。雑誌を創刊するというのに、誌面をレイアウトできる人材はいなかった。わずかな経験者でも必要だった。エディトリアルデザインの経験ゼロの素人でもである。
 初期コンセプトのタウトクは、雑誌の常識を逸脱した工学デザイン的な考え方で誌面を作ろうとした。デザイナーの感性に依った情緒的な誌面レイアウトは行わず、工場にすえられた旋盤機のコントロールパネルのように、目に迷いがなく理路整然とした配置を雑誌誌面でやりたいと。彼はその考え方に共感してくれた。彼は、誌面デザインを「レイアウト」と呼ばず、「誌面設計」と言い換えた。
 雑誌やデザイン世界には、同じ仕事をしていても、相容れない人がいる。まったくもって共感できないのは、「自己表現」とやらのためにこの世界にいる人だ。彼の思考は正反対であった。読者にどう見てもらうか、どう読んでもらえるか。それに興味が集中していた。
  やがて全ページにわたって誌面レイアウトが同じという、狂気じみた雑誌が組み上がっていった。「オシャレ感」のあるデザインを排除し、全誌面を小さな文字で埋め尽くした。
 「読者が情報誌に求めているのは情報そのものだ、だから誌面は文字情報だけあればいい」とぼくは編集スタッフに向かってカラ元気を発した。実際は経験者不在の寄せ集め集団でもって、商売になる雑誌をつくる唯一の方法がそれだけしかなかった。スタッフは、本来は別のプロジェクトを行うために雇った新卒の20歳や22歳の若者たちだ。本を作ったこともなければ、取材や撮影の経験もない。研修している余裕もないから、1日で教えられるだけ教え現場に放り出した。創刊までの数カ月は、狂ったように取材をし、狂ったように本づくりに取りくんだ。事務所の床に段ボールを敷いて寝た。もうこれ以上仕事できないと、皆が泣きわめいた。誰もが、本ができあがるまでどんな物になるのかわからなかった。真っ暗なコールタールの海をバタフライで泳いでいるような、もがき苦しみ方だった。それでも本は仕上がった。
 創刊号は2万部も印刷した。絶対売れると信じていたが、売れなくても徳島の人たちに読んでもらいたかった。この業界にいる古株には「3000部も売れたらいい方」と指摘された。それが現実の数字となるのなら、売れ残りを配って歩こうと考えていた。しかし、結果はよい方に転んだ。発売当日、書店から売り切れ、追加注文の電話が次々とかかってきた。1週間もたたないうちに100店舗以上で売り切れた。実売部数は1万3171部、驚くほど売れた。いったい何が評価されたのか、実はいまだにわかっていない。ただその日、真っ暗闇の世界を脱したのは確かだった。

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 現場復帰とともに彼からはある告知を受けていた。学生時代に左脚の骨にできた腫瘍を切り取り、骨の代用となるつなぎ棒を埋め込んでいるのだと。そして、その腫瘍が肺に転移してしまったのだと。外見からは、そのような重篤な病に蝕まれていることなど微塵も感じなかったが、やがて病状は一進一退を繰り返すようになった。2度にわたって長い入院をし、きつい投薬治療をはじめると頭髪は抜け落ちた。他人に気を遣われるのが嫌だったのか、頭を剃りつるつる坊主にした。以来、坊主アタマは彼のトレードマークとなった。何度入院しても彼はカムバックをし続けた。
 「発症後、平均の余命は5年」だと医者に言われた。しかし発症から5年を過ぎても、最前線でバリバリ働いた。医者も驚嘆するほどの「奇跡的な生存率」に自分が入っていることを自慢した。

 彼が仕上げた仕事を、ぼくはよく否定した。いいものを作ってきても、アラを探して批判する。「これは世に出せるレベルではない」と嫌味たっぷりにこき下ろす。すると彼は一度持ち帰り、次には200%以上のレベルで返してくる。こちらの想像力を上回る結果を出す。ドMなのかもしれない。ドMなのだろう。拒絶されて燃えるタイプなのだ。苦境に立っても前を向いて歩いていける性格なのだ。
 彼は思索家であり、始終難解なロジックを使う。人に考えを説明をしたり説得にかかる時は、そのクセを色濃く出す。禅の開祖が問いかける禅問答か、あるいはソクラテスと弟子プラトンの真理追究の対話か。だが、その言葉には何とも言えないペーソスが溢れ、お笑い哲学者といった風情なのである。時に職業への思いや仕事への情熱が強すぎて、部下がついて来られなくなる場面も多くあった。「雑誌をデザインしたりイラスト描いたりするのが楽しそう」くらいでこの仕事を選ぶ今どきの若者と、仕事に人生を懸けている彼のスタンスの違いは、何万光年もかけ離れて見えた。

 今年1月、再び胸の痛みを訴え、大学病院に行った。帰ってくると表情がなかった。ほんの数日で、これほどまで頬がこけるものかと思うほどやつれていた。肺のレントゲン写真を見せてくれた。真っ黒いネガフィルムのなかに、薄ぼんやりと、ホタルの光のような、タンポポの種子のような腫瘍がいくつも見える。直径30ミリを超えると切開手術が困難と言われる肺ガンだが、彼の肺には30ミリ級の腫瘍がゴロゴロといくつも、いくつもあるのだ。いちばん大きなもので50ミリを超えている。「担当医には生きているのが不思議なくらいと言われました」とテレ笑いをする。ぼくも大げさに笑う。こういうときには笑うしか方法がない。泣くわけにはいかない。「こんな肺して仕事して不死身やなあ〜、ナハハハハ」である。こんな言葉しか出てこない。それがぼくの人間としての限界だ。
 肺と胸膜の間に1リッターもの水がたまり、それが肺や胸部を圧迫し、苦しそうだった。1週間に1度、病院で水抜きをしながら仕事をした。座って作業するのは本当に辛そうに見えたが、「どうせ寝とっても痛いので」と変な言い訳をして仕事を続けた。
 春先には、まだ誰も試したことのない新薬を投与することを考え、再入院の予定を組んでいた。ところが突然「もう治療を受けずに、最後まで働こうと思います」と言いだした。病気のことばかり考えていると本当に気持ちが病人のようになってくる。気持ちが病人になってしまったらダメだ。やりたい仕事のことを考えて、納得いくまで仕事をしたい・・・。コイツ、どれだけ強いんだ?と思う。自分が彼の立場なら、病気からも仕事からもとうの昔に逃げ出している。誰からも同情されるべき立場なんだから、無理して責任を背負いこむような事をしたくない。それがふつうの人間の考え方だ。彼は人間として十分許されてしかるべき弱い部分をまるで出さない。人というものは、こんなにも強くいられるものなのか。
 その後彼は、もういちど病気と戦う道を選んだ。自分の身体はもちろん自分のものだけではない。自分のことを大切に思ってくれている人のためにも入院し、病気と真っ向から対峙する。正しい判断だと思う。

 創刊から今まで5年間・・・1号も欠かすことなく、彼はタウトクのパッケージデザインを続けている。今月号のタウトクの表紙ももちろん彼の仕事だ。病室にマッキントッシュのノートブックを持ち込んで、時に強い抗ガン剤の副作用である吐き気に耐え、腫瘍マーカーの数値やCT画像と睨めっこしながら、彼はタウトクの表紙を作りつづけている。
 こうやって、ぼくたちは必死になって本をつくってきた。そしてこれからも必死に生きていくしかない。