熱砂に汗がしゅみこむのだ サハラマラソン参戦4カ月前「追い込みの記録2」

公開日 2009年01月29日

文=坂東良晃(タウトク編集人)

【一人箱根駅伝 140キロ走】
 駅伝とは不思議な存在である。まず、世界のどこでも認められていない日本ローカルの競技方法である。いくつか国際大会が存在するといってもあくまで日本の陸連などが主催する、他国の選手を日本に招聘してのイベントに過ぎない。
 ましてや年始の風物詩とも言える箱根駅伝に至っては全国大会ですらない。関東学連が主催する関東地区の大学生による地域ローカル大会である。だがその大会に賭ける選手・関係者の強烈な思いと情熱が、ふだんスポーツ観戦などしない視聴者や沿道の観客を巻き込み、歓喜の渦を作り上げるのだ。箱根駅伝は敗者の物語である。本人もチームも観客も、誰もが納得する結果を出せる選手はほんの一握りだろう。襷をつなげなかった選手は地に崩れ落ち、シード権を失う原因となった自分を激しく責める。優勝を果たせなかった2位校のアンカーは、詫びの標として両手を合わせてゴールに入る。18〜22歳の今どきの若者が、何と純日本人的な行動を見せるのか。純粋さと、鍛錬と、絶望と。そして再起と。そんな物語を日本人はこよなく愛するのだ。
 去年の正月までは温いコタツに足を突っ込んでボーッと箱根駅伝中継を眺めていたメタボかつアラフォーなぼくが、たまたまランナーのはしくれとなった。もしかしたら自分の脚で、あの箱根路を走ることができたりして・・・なんて思いに取り憑かれた。大手町−箱根間の往路108キロというのもサハラ・トレーニングとしては最適な距離である。これはもうやるしかない。
 東京行きの高速バスを利用し、12月29日早朝6時に浜松町に着く。そこからJR東京駅まで山手線で移動し、箱根駅伝のスタート地点である大手町・読売新聞東京本社前まで10分ほど歩く。まだ完全に夜も明け切らぬ午前7時に出発。左手に高層ビルが林立する丸の内再開発エリア、右手に皇居を望みながら日比谷通りを南下する。帰省シーズンに入った早朝の都心部は人影もまばらで、空気がすがすがしい。小ジャレたカラー煉瓦敷きの歩道は車道2車線分ほどもあり、とても走りやすい。視界には次々と東京の観光名所が現れる。東京駅、日比谷公会堂、内幸町のプリンスホテル、東京タワー、芝増上寺。首を右に左に回しているうちに目まいがしてくるほど。しかし都心部という言葉がイメージさせるハイソサエティな風景は1時間も走るうちに徐々になくなり、庶民的な商店がガード下の軒を連ねる下町的ムードにとってかわる。駅伝中継の名場面でもある蒲田踏切を踏みしめ、川崎との境界である六郷橋の上からは、河川敷の野原にいくつものバラックが建ち並ぶ自由区が見渡せる。ホームレスのおじさんたちがアルミ缶の仕分けと自転車の修理に精を出す。東京丸の内から川崎バラックへと続く道には、人間社会の聖と俗、頂点と底辺が博物館の展示のように示されているのだ。
 鶴見中継所の位置がよくわからないまま横浜駅前に達すれば30キロ地点。80年代の名作映画「夜明けのランナー」は、青年・渡辺徹が東京から横浜までを一晩かけて走るってストーリーだったか。ここはすでに各校のエースが激突する「花の二区」の山場。選手たちは終始トップスピードで駆け抜けている印象が強かったが、権太坂や遊行寺の坂は思いのほか傾斜が強く、またこの坂に終わりはあるのかと切なさが増すほどに長い。こんな過酷な道でエースたちは鍔迫り合いをしているのだ。
 強い浜風が強敵だとされる三区は、湘南海岸と平行する国道134号線を行く平坦路。ふと気がつけば国道わきの防砂林の向こうにたくさんのジョガーの姿が見える。何ごとかと思い海辺に足を向ければ、よく整備されたランニングロードが海岸線に沿ってゆるやかに蛇行し、数百人のジョガーが朝練にいそしんでいるのだ。眼前には陽光を受け眩しくきらめく湘南の海。遠ざかる江ノ島はかすみの彼方、水平線の手前にシャチの背のごとく立つえぼし岩、そして行く手には白富士。まさに永谷園のお茶漬けカードよろしくの東海道五十三次絵巻である。
 当然、口をついて出るのは弥次喜多コンビの膝栗毛の名ゼリフ・・・ではなくサザンオールスターズである。ファーストアルバム「熱い胸さわぎ」から「10ナンバーズ・からっと」「タイニイ・バブルス」「ステレオ太陽族」「NUDE MAN」「綺麗」「人気者でいこう」そして2枚組アルバム「KAMAKURA」へと続く初期サザンの名曲メドレーが脳内ノンストップで流れる。思い出すのは小学・中学・高校時代に、なけなしの小遣いをポケットにしのばせ阿南市役所横のミヤコレコードにLPレコードを買いに出かけた興奮の時だ。マスターCDやダウンロードファイルから違法コピーなどできない牧歌的な時代には、音源を入手するために1カ月の小遣いに匹敵するレコード盤を購入するしかすべはない。払った対価以上に聴き尽くさないともったいないから、レコード盤の溝がすり切れ音が飛びまくるまで何百回となくリプレイした。だから十代の頃に聴いた音楽は身体のすべての細胞まで染み渡り、曲と曲の合間の無音地帯をレコード針がこする音まで記憶している。辻堂、江ノ島、茅ヶ崎、袖ヶ浜・・・地名と風景とサザンが完璧にリンクし、その歌が流れていた時代の青春回想シーンが相まって(その大半は失恋の物語である)、鼻の奥を甘酸っぱくツンと刺激される。まことに悠長な駅伝模倣ランナーである。
 小田原市のメガネスーパー本社前を起点に、いよいよ「山の五区」箱根の登りに突入である。箱根駅伝中もっともドラマチックな場面が生み出される運命の山である。「山の神」と呼ばれた順天大・今井正人が3年続けて逆転劇を演じて見せ、2009年は東洋大の怪物・柏原竜二が今井の記録への挑戦に名乗りを上げた場所である。
 大勢の観光客で賑わう箱根湯本の温泉街を抜けると、坂の傾斜は増し、蛇行する道は妥協なく登りつづける。登山鉄道がスイッチバック方式でしか進めないほどの急傾斜。わかりやすく表現するなら眉山の八万口からの登り坂が15キロ連続しているようなもの。こんな化け物坂を、選手たちはフルスロットルで登り詰めていくのである。テレビ中継の画面からは決して伝わらない極端な傾斜角の険しさを実感できただけでもここまで来た甲斐がある。この五区においてぼくは、「絶対に歩かない」ことを自らに課した。たとえ歩きに等しいスピードまで落ちてしまっても、箱根ランナーの2倍の時間がかかったとしても、やはり走り続けなければ選手の労苦の100分の1もわからない気がするのだ。
 国道1号線の最高地点874メートルの峠を越えると、あとは猛烈な下りに転じる。はるか眼下に芦ノ湖の青い湖面が見える。重いバックパックを背負っているので飛ぶようには走れないが、下り坂は心拍数が上がらないので気持ちよく前進できる。2日後に行われる箱根駅伝を前に、テレビ中継のスタッフが慌ただしく準備に奔走している。彼らに正月はないのだろう。路傍には選手を勇気づける応援のノボリが数百とはためいている。選手より一足先に、その言葉の数々に励まされる役得を享受する。やがて往路のゴールゲートが見える。東京・大手町から108キロ離れた終着地点の眼前には、純白の雪のベールをまとった美しい冬富士が屹立している。ここをゴールと決めていたがもっと走りたい、もっと富士山に近づきたいという欲求を抑えられない。休憩もそこそこに「もっと遠くまで走ってみよう」とバックパックを背負い直す。目的地を定めず、富士の威容がより大きくなる方向へとキックを効かす。峠道をゼエゼエ登り、空中に身体を投げ出すようにスピーディに下り、そしてまたヨタヨタと登る。走る意味を考えながら、自分の行きたい場所はどこかと考えながら、ひたすら走る。