バカロードその25 北米大陸横断レースへの道 その6 室戸岬130キロ走

公開日 2011年06月01日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967生まれ。18〜21歳の頃、日本列島徒歩縦断、アフリカ大陸徒歩横断など約1万キロを踏破。男四十にして再びバカ道を歩む、か?)

 長距離ランナーは黙して走る。
 作家アラン・シリトーが没して1年。
 孤独、怒り、やるせない気持ち。
 半世紀たっても、人の本質は変わらない。

 深夜12時、徳島県庁前の交差点よりスタート。
 小雨ぱらつく雨空、風速は8メートル。強風注意報が出ている。
 国道55号線を南にくだれば、夜間でも照明の明るい沖浜の市街地圏を2キロ少々で脱ける。園瀬川を渡ると手持ちのライトで足元を照らさなければ走れない暗さ。不思議なものだ。ふだんの印象だと市街地がもっと続いている感があるが、自分の脚で移動すると街はあっけないほど小さい。
 小松島ルピアには40分で達する。深夜は信号で止まる回数も少なく、あっという間である。同じ道をクルマで移動すると渋滞などあってけっこう遠くに感じるものだが、ランニングだとすぐそこレベルの距離感。県庁から7キロ少々だしね。クルマだと実際の距離以上に長く感じるのかも知れん。
 赤石トンネルまでは、田んぼの中の直線一本道。さみしくなってきたのでAMラジオをつけると「AKB48のオールナイトニッポン」が始まった。今宵のDJは大島優子、篠田麻里子、柏木由紀が担当らしい。AKBメンバーの名前なんて小野恵令奈以外ほとんど知らんが、この3人なら名前と顔が一致する。ということは豪華競演日に当たったのか、ラッキーだね。しかし、オールナイトなんて聴くの何十年ぶり? 必死こいて聴いていた中学生の頃は、後にオールナイトの第二次黄金期と称された時代で、当時まだ30代のビートたけし、タモリ、中島みゆき、笑福亭鶴光らが、アナーキーで放送コード無視の異様な世界を形づくっていた。
 崇拝の対象であったビートたけしのオールナイトニッポンを拝聴する際は、ラジオの前に正座してた。たけしの金言は、もらさず生徒手帳に書き込んだ。酔っぱらって心をさらけ出す師に、泣きながらラジオにかじりついた。まったく玉音放送じゃないってーの(たけし風ノリツッコミ)。
 そーいやぁ一度、笑福亭鶴光から自宅に電話がかかってきたことがあったけ。が、その日は寝ていて電話を取れず、月曜日に学校で友達に「鶴光の電話、出えよ!」と教えられた。鶴光師匠からの電話を受けたリスナーは、受話器を取った瞬間、「ええか?ええのんか?最高か?」といやらしい言葉で応じるローカルルールがあった。全力で言いたかった。わが青春譜に書き加えられるであろう輝ける瞬間を逃したこと、今でも後悔している。
 時代をへて平成のラジオはAKB。篠田麻里子が韓国で焼肉食べてきましたぁ的などうしようもないグタグタな話を聴きながら、那賀川橋の鉄板仕立ての歩道をぐわんぐわん鳴らして走り、(これ、雨の日にばーさん、すっ転ばぬか)などと余計な心配しながら、橋のたもとの水飲み場でドリンクボトルに水を充填する。
 那賀川南岸の坂をくだると国道55号から逸れ、桑野・新野経由の県道にはいる。右前方にうっすらと、世界に伸びゆく日亜化学の工場群の威容が浮かぶ。新たな研究棟の建設をしているのかクレーンが何基も見える。従業員は7000人もいると聞くが、ちょっとした地方自治体の人口に匹敵する。その割にこの周辺、おでん屋やらキャバレーやらスナックやら青い灯、赤い灯またたく歓楽街ができそうな気配はなし。車通勤が多いから飲み屋は流行らんのか。なら代行送迎サービスとセットで店出そうか、などと空虚な事業計画を立てる暇つぶし。
 深夜3時にJR桑野駅前。駅舎には煌々と蛍光灯がついている。中でひと休みしようと引き戸に手をかけると、ガラス戸の向こうにベンチに横たわっている老人あり。かたわらにはママチャリの前カゴと荷台に山と積まれた遍路用具。野宿でチャリ遍路中ってわけね。齢70以上とおぼしきその顔は太陽に焼かれ赤黒く変色している。薄い綿の布を一枚かぶっただけで、蛾の舞う蛍光灯の下、一夜の暖をとるストイックさ。彼に物欲はあるのだろうか。身体の芯まであたたまる温泉や、ふかふか太陽の匂いのする羽毛布団にくるまる幸福以上の何かを遍路路に見つけたのだろうか。
 ご老人の熟睡を邪魔せぬよう、駅の玄関の地べたコンクリに腰かけ、コカコーラを荒々しくあおる。
 (結局、目ざすべき場所は、あの老人の位置だろう)と思う。そして(今はまだ無理だけど)とつけ加える。
 桑野と新野の町境にある花坂という美しい名の峠道を越えるのは恐い。
 理由がある。十代の頃のトラウマだ。
 この峠道の県道には、旧道である細い脇道が蛇行しながら並行している。街頭もなく真っ暗、通り過ぎる車もないこの場所は、かつてマイカー車中にて男女がまぐわうにほど良い場所とされていた。当時のぼくは生活圏半径5キロ圏内において、誰かが車でエロ行為をはじめると自動的に情報が入るというネットワークを有していた。インターネットなどない時代なのだがね。われわれ悪者どもは、その真っ最中の車にそろりそろり近づき、さんざん見学を楽しんだあと、車のボディを思いっき左右に揺さぶって、男女をパニックに陥れるという遊びに夢中だった。(きっと犯罪です。よい子のみんなはマネしないでね)。ところがある晩から、リーダー格の超暴力的ヤンキーの兄さんが「もう二度とあそこには行かない」と言いだすのである。
 何があったのかと話を聞けば、深夜蛇行道をクルマで走っていると、絶対に人などいるはずのないこの場所に、白装束で全身ぐっしょり濡れた女が立って、紫色の目玉をぎょろぎょろ動かしながら、クルマのボンネットに乗っかってきたというのだ。ふだん恐いもの知らずの超暴力的ヤンキーの兄さんだが、自宅に戻って50度の風呂に浸かったが、それでも寒くて寒くて震えつづけたという。
 その濡れた白装束の女のイメージが頭を離れない。ぼくは全力失踪で峠道を駆け抜ける。汗がヒジの先からしたたり落ちる蒸し暑い初夏の午前4時。暑く感じるはずなのに、背中には悪寒が走り、両腕には鳥肌が立ちっ放しである。
 35キロ走って、国道55号と再合流。ここからの道はうねうねと左右にカーブし、アップダウンがはげしくなる。ときおり通過する車は時速100キロ近くで飛ばしている。ドライバーもまさか丑三つ時の山中で、人が走っているなんて想定して運転してないだろう。存在証明用のハンドライト、足元を照らすヘッドランプ、後方用の赤点滅灯を再確認する。歩道のない場所は必ず右側通行だ。万一、クルマが突っこんできても前方からならゼロコンマ数秒こちらも反応できる。
 恐い。
 こんなにも車を恐いと感じたことはない。
 わずか一週間前、大切な仲間を失ったのだ。
 500キロの超長距離レースの真っ最中に、飲酒居眠り運転のクルマに後ろからノーブレーキで突っこまれ、亡くなった。深夜2時だった。
 ぼくは事故現場から300メートル後方の鉄道駅舎で仮眠をとっていた。救急車とパトカーのサイレンで目覚めた。駆けつけると最悪の事態が起こっていた。救命士2人に心臓マッサージを受ける彼がいた。
 全身に何カ所も照明具を着け、慎重に慎重を期していた彼なのに、このレースに強い思いをもって参加していた彼なのに、その直前まで力強く走っていた彼なのに、何と無惨なことが起こるのか。
 事故のあと、ぼくは茫然自失となり何もできなかった。そしてこれからも何もできない。
 猛スピードでかたわらを通り過ぎるクルマの風圧を感じながら、彼の名前を頭で反芻する。そんなこと、何かやったうちには、もちろん入るはずもない。

 空が白くなってくると、日和佐道路の青い陸橋が遠くにかすむ。
 午前6時に道の駅ひわさ到着。ほぼ50キロに6時間かかった。県庁を出発する頃は、100キロ通過でそれなりのタイム・・・10時間台で走ろうと決めていたが、真正面から吹き続ける風と、予想以上に暗い道に足元をライトで照らしながらの走行で、スピードがあがらない。さらには、この国道沿いに頻繁に現れるお遍路さん用の休憩小屋の誘惑に耐えかねる。
 横になるのに適当な木製のベンチが視界に入ると、「ちょいと一寸休憩でも」の誘いを断ち切れない。そもそもぼくは快楽に溺れたい精神志向性があり、気持ちいいもの、美味しいもの、悪質なものには身体をすりすり擦り寄せてゆく傾向が強い。コンビニが現れる度にエクレアとガリガリ君を補給し、自販機があれば甘さに舌が痺れるジョージアオリジナルをじゅるじゅる啜る。そして、休憩に打ってつけの遍路小屋の連続。これじゃあ一向にタイムが上がらない。
 スタートから65キロ走ってJR牟岐駅前を通り過ぎ、いくつかのトンネルを抜けると別天地にように碧く輝く内妻海岸の海。30、40人ものサーファーたちが波間に漂っている。ここから始まる海岸線ロードは爽快このうえない。真っ暗なバイパス道、変わり映えのしない人工林の山道を走り続けた自分へのご褒美である。心なしか徳島市あたりより日射しも強い。海はゴーギャンが描くタヒチの絵のような濃紺。台風が化けた低気圧が太平洋上のすぐ近くにいるため、波はきれいなチューブを巻いている。トンネルを抜けるたびに季節が少しずつ先に進み、いつしか初夏のサーフシティに放り出されたような錯覚。
 JR海南駅前に午前10時着、ここで80キロジャストだ。待望のスリーエフを目撃。スリーエフは主に関東圏と高知県に展開しているコンビニだが徳島県内では唯一海南店のみ存在しているのである。店内のカウンター横には、お店の厨房で作られた温かいお弁当が並んでおり、大ぶりなオニギリ2個を確保。レジで会計をすませていると、カウンター上にアイススムージーのマシンを発見。シャリシャリの氷ドリンクが縦回転している。さすが季節を先取りした(あるいは一年中?)スリーエフ。スムージーを追加注文し100円を払うと、カウンターのお姉さんがこちらをじっと見つめている。ぼくもお姉さんを見つめ返す。この空気感はなに? 何かがはじまる予感?と鼓動を速めていたら、お姉さんに「スムージーこちらで入れましょうか?」と尋ねられる。ハッと我に返る。そうか、このスムージーはセルフで入れるものなのかと察知する。お姉さんはすでにカウンターから外に出て、「好きなだけご自分で入れてもらえるんですよ」と説明しながら、シャリシャリとカップに入れてくれた。なるほど、スリーエフ業界ではスムージーは自分のお好みで盛るってのが常識なのだ。今日もひとつ賢くなったぜ! どでかいオニギリ2個とスムージー大盛りをたずさえ、店舗の裏の地べたに座り込み爆食する。
 海部川にかかる橋を渡り終えると海部川風流マラソンの5キロ地点あたり。マラソンコースとなる堤防上の道を遠望しながら、今は静かなこの辺り一帯が大観客で埋め尽くされていたのだなと感慨にふける。
 那佐湾の奇景を過ぎると道はゆるい左カーブを描き、いくぶんドラマチックに宍喰の海岸線が近づいてくる。空と海の境界線が不要な一面のブルーに覆われる。沖から大きなうねりが何層もの弧となり押し寄せては白い波濤をたてて崩れる。道沿いの駐車場に無数のピックアップトラックや箱バンが並び、サーファーたちがポリタンクでつくった簡易シャワーで水浴びをしたり、ディレクターチェアに座って眩しそうに太陽を仰いでいる。こんなに若者がたくさんいる光景、なかなか徳島ではお目にかかれない。
 四国をジャーニーランするといつも実感するが、この島はフトコロが深い。アメリカ西海岸のポップカルチャーの象徴であるサーフィン・ビーチを背景に、空海が山岳修行して以来1000年余も受け継がれてきた四国遍路をゆく旅人が金剛杖をついて歩く絵柄。異質な文化が同居する宍喰が持つ得体の知れぬ圧力。四国ってほんとにおもしろい。
 道の駅・宍喰温泉は県庁から88キロ。ここが第一目標地点である。午前11時40分、昼前に着いて何となく幸せ。防波堤上に座ってアイスシャーベットをかじりながらサーファーのライディングをぼーっと眺める。汗が乾くとチリチリと太陽に焼かれ肌が痛い。よっこらしょと腰をあげて、いよいよ高知県境を越えて土佐路に入る準備をする・・・といっても特に何かをするわけでもない。また走りだすだけだ。
 水床トンネルを抜け出すと県境の表示がある。甲浦の漁港をまたいで白浜ホワイトサンドビーチに降りる。生見海岸を過ぎる頃には、照りつける太陽の影ははっきりと黒く、ザワザワと揺れる木立の存在感もまた真夏の到来を予感させる。
 野根の漁港横を真っ直ぐ伸びる道を走っていると、突然フラッシュバックが起こる。
 この道をずいぶん前に走った。あれは何だっけ。今と同じように必死に走っていた感覚が残っている。
 そうだ、あれは高校2年の真冬、大晦日の夜だ。
 ぼくはバイクに乗って1人で室戸岬に向かった。
 クリスマス・イブに、一コ歳上の女の子にフラれたとこだった。ひたすらその女の子のことを考えてバイクを走らせていた。
 バイクと言ってもかっこいいロードバイクじゃなくて、親父のスクーター、ホンダ・スペイシーである。コテコテの商用バイクでしかもゴールドメタリックというイカれた配色。ダサいのはバイクだけじゃない。オカンに「寒いけん、これ着ていけ」と無理矢理着せられた親父の黒い革ジャン(革ジャンレプリカで実はビニジャン)に、軍手2枚重ね。ボトムはパッチの上からジャージ2枚のトリプル重ね、足元はゴム製のオッサン長靴という最強のファッションだ。
 初代ホンダ・スペイシーが当時売りにしていたデジタル液晶文字で表示されるスピードメーターは画期的であった。ぼくはスロットルを目一杯全開にし、最高速度が何キロ出るかひたすら挑戦した。デジタル数字が示した最高記録は、時速91キロ。それ以上は、どんなに身体をかがめて空気抵抗を減らしても、下り坂をかっ飛ばしても出なかった。「100キロ」に届きたかった。もしかしたら、時速100キロを出せたらそのまま何かに激突して死んでもいいやって思っていたかも知れない。男子高校生が、歳上の女の子にフラれるということは、それほど大きな出来事なのであった。
 2011年のぼくが今テケテケ走っているこの道を、1883年のぼくは薄っすら明るくなる日の出まぢかの太平洋を左手に、室戸岬の先っぽで初日の出の瞬間に間に合うか、間に合わないかのスリリングなゲームに賭け、ガムシャラにバイクを飛ばした。
 室戸岬に着いてから、何をしたかは覚えていない。岬では、きっと何もやることがなかったんだろう。日の出に間に合ったのかどうかすら記憶にない。唯一脳裏にある映像は、公衆トイレでオシッコしようとしたら、青く変色したちんちんが1センチくらいまで縮んでいた場面。真冬にジャージ2枚とパッチの重ね着で、片道100キロをぶっ飛ばす行為は、男子高校生の肉体に深刻なダメージを刻んだのだ。あと、帰り道がうんざりするほど遠かったことも覚えている。

 100キロ地点を13時間26分で通過。サロマ湖100キロウルトラマラソンなら制限時間オーバーだな、と少し悔しむ。

 野根の漁村から鯨観光で有名な佐喜浜の街までおよそ13キロの間は完全な無人地帯となる。自販機もなく、水道もなく、休憩ベンチすらない。ただ打ち寄せる荒波と、屏風のように何層にも重なり続く岬の連続だ。あの岬を回り込んだら街があるかも、という期待は何度も裏切られる。遍路客にとっても第23番札所薬王寺から第24番札所最御崎寺への75キロの道は、難所の一つとして数えられる。特にこの野根からの無人地帯は修行的要素をはらんでいると思う。
 佐喜浜港の手前で、前方をゆく1人の歩き遍路客に追いつく。よく見れば、6時間前に牟岐町の駅前で見かけた人だ。どう考えてもおかしいぞ。50キロも後方で会った遍路客とここで再会するはずがない。なんせこっちは走っとるんだから。
 追い越しざまに挨拶を交わし互いに事情を話す。彼は短い休暇を利用し、昨晩名古屋から夜行バスを使って徳島入りし、始発列車で日和佐あたりまで行って、そこから室戸の最御崎寺を目指している。一般的な遍路人なら3日かかる行程をたった1日で高速移動している理由は、「ちょっと鍛え直そうかなーと思って」。元々ロングディスタンスのトライアスリートであり、ウルトラマラソンの経験もある彼は、再びレースの世界に戻ろうかという思いがあり、遍路とトレーニングを兼ねた旅をしているのだ。走りと歩きをミックスさせて、なおかつ休憩なしで日中に80キロ近くを移動している。すごいペースである。
 10キロほど彼と併走するが、眠気に襲われペースについていけない。そういえば諸事情あって一昨日も寝ておらず、60時間つづけて起きている。いよいよ立ってられないほど眠く、同行の彼にペースを合わせてもらうのが気の毒になり、先に進んでもらう。夢うつつ状態でトロトロ走っては、バス停のベンチで5分くらい居眠りしたり、自販機にもたれて眠りこけ、手に持ったジュースをこぼして股間を濡らしたりする。
 ここいらの海辺の民家は、巨大なコンクリート製の防潮壁を築いている。高い物だと道路面から3メートル以上。厚さ1メートルにも及ぶコンクリート壁をくり貫くように外玄関が設けられているが、なぜかドアの配色はオレンジやら朱色やらの極彩色。薄く開いた外玄関の奧には、ごく普通の家屋と庭が見える。アラビアの要塞都市カスバの城壁と、純和風住宅の組み合わせ。日没まぢかのトワイライトゾーンに不思議な御伽草子の世界に迷い込んだよう。
 ラスト10キロくらいはちゃんと走ろうかな、と思う。「岬まで10キロ」の距離表示が現れるが、足に力が入らない。仕方ない、ラスト5キロで本気を出そう。でもやっぱダメだー、夢遊病状態なのだ。室戸岬を白っぽく包む残照が眠気を誘う。店じまいを終えた土産店はシャッターが降り、取り残された観光客やカップルが所在なくうろついている。
 幾つものレースの終幕に等しく、この130キロ走にもゴールの歓喜はない。
 恋に傷つき暴走したアンニュイ高校生の頃も、人生に迷走するオッサンになった今も、求めているのはゴールではない。無謀で、無意味で、素っ頓狂な、ゆくあてのない移動の連続なのだ。