バカロードその59 川の道は迷い道

公開日 2013年10月07日

文=坂東良晃(タウトク編集人、1967年生まれ。1987年アフリカ大陸を徒歩で横断、2011年北米大陸をマラソンで横断。世界6大陸横断をめざしてバカ道をゆく)

 埼玉県寄居町にある東武東上線・玉淀駅は、東京湾岸から100?ちょいの所にある。都市郊外の乾いた空気が、玉淀駅を境に農山村的な濃密な匂いに変わる。
 朝9時に葛西臨海公園をスタートして以来、荒川の広大な河川敷や堤防上をひた走ってきたものの、実際に川面を見る機会といえば4本の橋を渡る場面くらいだったが、玉淀駅以降は深く切りこまれたV字谷の最下部を白波たてて蛇行する荒川を眼下にする。
 多くのランナーは日没後、玉淀駅に着く。遠大な旅路において、玉淀駅ははじめての徹夜走に乗りだす起点ともいえる。
 平野と山地の境界、昼と夜の狭間、100?という数字もキリがいい。第1関門である「こまどり荘」はさらに70?先にあり、なんとはなしに多くのランナーが玉淀駅を1つ目の乗り越えるべき目標として設定している。265?にしろ、520?にしろ、最初の100?をどれくらいの疲労度で走るのかが、そこから続く道程の楽しさ、厳しさを暗示してくれる。

 80?地点の熊谷市街を抜けた頃から体調が悪化し、間断なく吐き気の波が押し寄せてはオェップオェップと空ゲロを口角にもらしながら、走りとも歩きともつかない頼りない前進を続けている。田んぼのあぜ道に寝っ転がったり、トンネルの脇にうずくまったりして奇跡の回復に一縷の望みをたくすのだが、どうやらひとときの体調不良ではなく、リアルに衰弱している。
 この1カ月間に、胃カメラに大腸カメラに内視鏡手術にと都合3度の絶食やら安静を求められ、練習不足から太ももの鶏ササミ筋肉はブヨブヨ脂肪に置き換わり、心臓ポンプは子鼠のように弱々しく拍動する。ベストコンディションでも困難な250?オーバーの道を、こんな病弱ボディでどうやって歩むんだい? と、星ひとつ見えない暗い夜空につぶやく。
 深夜12時過ぎに玉淀駅に着く。100?進むのに15時間もかかっている。ここに立ち寄るランナーへの配慮から、駅舎を開放してくれている。少しでも睡眠を取ろうと待合所のベンチに横たわるが、すぐ脇の自販機の光に誘われてやってきた子虫ども数百匹が、耳の穴、鼻の穴へと飛び込んできては眠りに落ちることを許さない。仮眠を断念し、駅舎をあとにする。打ち寄せる波のごとく睡魔がやってくる。上瞼が地球の重力に引っぱられて落ちる。歩道にある微かな凹凸につま先を引っかけ、受け身を取れないまま虚しくコケる。
 いかに関門時間がゆるい大会だといっても、歩いてばかりでは間に合うはずもない。次第にあきらめの弱虫がぞろ這い出してくる。道路脇を走る線路を見ては“始発電車が動きだす頃にリタイアしようかな”と思い、蛍光灯付きの看板に出くわすと“深夜でも泊めてくれる親切な民宿ではあるまいか”と目を凝らす。
 リタイアする勇気もなく、かといって息を切らせて走る覇気もなく、右に左にと蛇行しながらふらふら歩く。先のことはどうでもよくなり、どこかで眠りたいという欲求だけに心を捕らわれる。いろんな所で仮眠を取ろうとしてみる。公衆トイレの床…タイル地に体温を奪われガタガタ震えだし退散する。お寺のお堂…早起きのお坊さんがいつ現れるかと気になって眠れない。鉄網で囲われたゴミの収集箱…間違えてゴミ収集車に放り込まれたら死ぬ、と考えると怖くなり這い出す。こんな繰り返しでは前進もままならず、1時間に2?しか進んでいない。
 山の端の空が紫色になり夜明けが近いことを知らされる。周囲の景色がうっすら見えだした頃、後方から5人ほどのランナーに次々と抜かされる。みなけっこう速いスピードで走っている。全然ダメージなんてなさそうだ。どこかでたっぷり眠ってきたに違いない。
 テニスコート場があった。フェンス脇にベンチが1脚あり、昇りたての朝日が木々の隙間を縫って座面に一筋射し込んでいる。誘われるように光の下に寝そべる。凍えた夜を直射日光が溶かしていく。温かくなった血液が全身を巡る。2晩目の不眠の夜を越えたら、こんな所に天国があったのだ。安らかな気持ちに包まれる。そして数分で意識がとぎれた。
 目覚めると、ベンチの脇に大きな犬とおじさんが立っていた。「おはようございます」と声をかけられる。ぼくが飛び起きたさまを見て、おじさんと犬は安堵した表情を浮かべ、去っていった。無惨な寝姿を見て、変死体ではないかと心配して覗きこんでいたのか。辺りは早朝の鮮やかな色彩に包まれている。このベンチを発見してから30分が経っている。
 意識はすっきり明瞭だ。不思議なものだ。30分前には廃人だったのに今や走る意欲に満ちている。走ってみよう、走れる、走れる。ウルトラランナーの好きな言葉「つらいのは気のせい」ってのは本当なんだ。どんなにスピードは遅くても、走り続けている限り、関門を超えていける。フットレースとはそういうものだ。あちこちの筋肉を挽肉マシンに通されるくらい痛くても、首が背中のほうにガクンと落ちるほど眠くても、三輪車の女の子に軽々抜かされても、自分でギブアップの声をあげない限りレースを続行する権利はある。
 夜7時、第1関門170?地点の「こまどり荘」に到着。関門閉鎖は夜9時だから2時間の余裕を残している。といっても、ぼくの後ろには1人しかランナーがいないらしい。好んでそうしたいわけでもないが、長距離フットレースでは最後尾あたりを走るのが常だ。
 速攻で風呂に入る。小さな湯舟に首までつかると得も言われぬ快感が全身をかけめぐる。エンドルフィンの無制限バーゲン放出状態である。抑圧に耐えきったあとの解放感は尋常ではない。快感に耐えかねて「うー、うー」とうめき声を上げる。ラスベガスの五つ星ホテルのジャグジーでも、高級風俗店のバスマットの上でも、これほどの快楽を得られることはない。ジャーニーランナーにしかわからない秘密の花園だ。 
 雄叫びをあげながら5分間の湯あみを愉しむ。全身にシャンプーを塗りたくり1分間で体洗いを終了する。刑務所の入浴タイムよりもスピーディである。
 風呂上がりに大会スタッフが用意してくれた食事をいただく。ゆで玉子入りカレーライス、ソーメン、野菜サラダ、フルーツデザート…偏食気味の女性ランナーの分までもらい、お皿とドンブリ7杯をテーブルに積み上げる。飯が終われば睡眠だ。布団に入ると両足裏がジンジンと燃えている。足かけ3日間で30分しか寝ていないため一瞬で意識が遠のく。
 目覚ましをかけて睡眠2時間。95?先のゴール関門まですでに24時間を切っている、急ぐべし。
 深夜11時に再スタート。ヘッドランプとハンドランプを装着し、20?先の三国峠へと続く林道の上りに入る。例年は凍えるほど寒いというが今年は暖かく、用意したダウンジャケットを着用せずにすむ。
 標高743mのこまどり荘から1740mの三国峠まで高度差は約1000m。荒川の支流である中津川に沿って標高を稼いでいく。小石だらけの林道を走るのは無理があり、早足で突き進む。5時間かかって峠のてっぺんに着く頃に、空が白み始める。冠雪を抱く八ヶ岳連峰が、ここが信州という別世界であることを教えてくれる。登ってきた峠の埼玉県側とは、肺の奥まで鋭く刺す空気の匂いや、手ですくってカブ飲みする山水の甘さまで違って感じられる。
 長い峠道を下り終えると千曲川の源流である梓川沿いに出る。街道沿いに川上村の集落が点在し、正面に八ヶ岳の威容がいっそう近づく。高原野菜の一大産地らしく、田畑には用水路が張り巡らされ、透明の水がゴーゴーと滝のような勢いで流れる。手をひたすと冷水器の水ほどに冷たい。シューズを脱いで足をひたす。赤く腫れ上がった足が一瞬にして凍りつく。
 すれ違う登校中の子どもたちが元気よく挨拶してくれる。かと思えば、歩道を連れだって歩く4、5人の外国人のグループと頻繁に遭遇する。どこの国の人だろうか、アジア系の顔立ちをしている。彼らは、ぼくとすれ違う際には立ち止まって気をつけをし、「オハヨウゴザイマス」と深々おじぎをしてくれる。最初は、走りながら返事をしていたが、だんだん自分も同じ態度じゃないと失礼な気がしてきて、都合30人くらいの外国人に直立不動からの斜め30度おじぎ挨拶をする。彼らは、この村のレタス農家が受け入れている外国人研修生らしい。川上村は、総人口に占める外国人の比率が全国一高い自治体なのだという。
 再び眠くなってきたので、梓川沿いの護岸コンクリートの上にゴロリと横になる。もはや誰の目も気にならない。他人にどう思われようと平気である。初日の夜はすごく人目が気になったのに、今なら道ばたで平然と眠れる。人間の羞恥心や道徳心なんて簡単に心から消し去れる。
 雪山から届けられる尖った風がジャージを揺らす。車道をゆくトラクターのエンジンが地響きを立てる。でもぼくは穏やかな眠りに誘われる。なんだかとても幸せだ。
 そうだ、思い出した。ジャーニーランは人生そのものなのだ。タイムを気にし、順位を競って懸命に走るのは序盤だけ。自分の能力やら限界が見えだすと、棒きれのように役立たずになった足を前に前にと何万回も送り出す作業に没頭する。へとへとに疲れては倒れ、路傍の草むらをベッドに熟睡する。道に迷っては途方にくれ、また道を見つけは歓喜する。どこに向かって走っているのかは定かじゃないけど、どこかに向かって走らなくてはならない。そんな人生の縮図の道ばたで、ぼくは眠りに落ちる。